試し読み 妖しきご縁がありますように

 

序章 天狐の約束

 

「引っ越しなんて、嫌だよ……」
 神社に続く石段に座って、私はぐずぐずと泣き続けていた。もう陽は沈みかけていたけど、明日の引っ越しを思うと立ち上がる気にはどうしてもなれない。
 ごしごしと目をこすると、伸びてきた手が私の腕を掴んだ。
「痛めるぞ。……その眼は特別だ、大事にしろ」
 鳥居を背に佇む人影が私を覗き込んでいた。
 柔らかな髪からはぴんと尖った耳が覗き、足の間に狐の尻尾が揺れている。
 明らかに人ではないけれど、彼は私のたったひとりの大事な友達だった。
「せっかく仲良くなれたのに……お別れしたくない」
「お前はまだ幼い。この先、友達なんていくらでもできる」
 そんなはずがないことは自分がよく分かっていた。どんなに頑張っても周りに馴染めなくて、学校では息をひそめて過ごすことが癖になって――この場所で彼に出会うまで、ひとりぼっちでいることを寂しいと感じることすら忘れていた。
「そんなに辛いなら、僕との記憶を消してやる。そうしたら――」
「やめて!」
 勢いよく首を振ると、涙の雫が石段に飛び散った。また新たな涙が溢れてきて、俯く。
「忘れたくない。忘れたら、本当にひとりぼっちになっちゃう。もうひとりぼっちはいや……」
「――それならいっそ僕に添うか、人の子」
 ふと、声音が変わって私は顔を上げた。薄闇に浮かぶ異形のシルエットが私を見つめる。
「この天狐と二世を契ると約束するならば――いずれお前を迎えに行ってやる」
「にせ……? う、うん」
 よく分からないまま頷くと、小指が差し出された。しっかりと自分の小指を絡めると、少しだけ胸の痛みが和らいだ気がした。
「私のこと忘れないで。絶対、絶対、忘れないでね」
「どちらかというとお前の方が忘れそうだがな。言っておくが、忘れても約束は有効だぞ」
 薄い笑みが返ってきて、ふかふかの尻尾が私の足をくすぐった。
「約束の証に、お前の願いをなんでもひとつ叶えてやる。言ってみろ」
「願いを、なんでも……?」
 金色の瞳が私を映している。瞳の中の私は、怯えた寂しい顔をしていた。
「私は――……」

 

 

 一章 見鬼眼の役立たず

 

 街で有名人とすれ違った時、気づく人間はいったいどのくらい居るだろうか。
 帽子をかぶっている程度なら、気がつく人はいるだろう。けれど、念入りに変装していたらすれ違う程度で気づくのは難しい。
 すぐ傍に異質で稀有な存在がいたとしても、見破れなければいないのと同じだ。
 そんな風に、なんでもなく流れていく日常の風景の中には、時々とんでもない正体を隠しているものが素知らぬ顔で紛れ込んでいるのかもしれない。

 たとえば今、カフェの片隅で本を読んでいる女性は人ならざるもの――あやかしだ。

「福田さん。おーい、福田さん?」
「……あ、私ですか?」
 私はハッとしてグラスを拭く手を止めた。カウンタ―の向こうにいた店長が眉をしかめる。
「店員は君しかいないだろ。アルバイトだからってボーっとしないでほしいな」
「す、すみません」
 頭を下げ、少し迷ってから一応付け加える。
「あの……私の名前、福田じゃなくて[福{ふく}][来{ら}]です。福来てまり、です」
「あーごめんごめん、福田じゃなくて福来さんね」
 店長は面倒くさそうに手を振った。
「そんなことよりさあ、エアコンの設定いじった? 店内がやけに寒いんだけど」
 二月に入って寒さは多少和らいできたけれど、風にはまだまだ冬の気配が色濃く残っている。しっかり暖房をきかせてあるはずのカフェの店内はかなりひんやりしていた。お客様のほとんどが席に置いてあるひざ掛けを広げ、追加で欲しいという人もいる始末だ。
「いえ、私は何も……」
「本当? 参ったな、温風は出てるはずなんだけど」
 修理屋に連絡しないと、とブツブツ呟きながら店長はキッチンへ引っ込んでいった。その背中を見送り、私はちらりと店内を振り返った。
 柔らかな陽が差し込む窓際の席に視線が吸い寄せられる。座っているのはごく普通の若い女性で、おかしなところは何ひとつない。周りの客も彼女を気にする様子はなかった。
 けれど、私の眼には彼女の本当の姿が見えていた。
 全身に淡い輝きを纏ったその姿は、氷の像がそのまま動いているかのように半ば透き通っている。呼吸するたびに小さな氷の欠片がキラキラと舞って、ダイヤモンドダストのようだ。
 彼女の正体は雪女だ。間違いない。
 店内の寒さも、彼女が纏う冷気が原因だった。かなり抑えてはいるだろうけれど、どうしてもある程度は仕方ない。
 それにしても、日差しを浴びる雪女ってなんて綺麗なんだろう。あの白い肌はやっぱり触れると冷たいんだろうか? 
 なんだか暑そうに見えるけど、やっぱり日差しが辛いのだろうか。
「ブラインド下ろしたほうが……あ、それとも奥の席に変更してもらうとか……?」
「福来さん、独り言やめてね~」
「は、はい!」
 店長の声に我に返り、私は雪女から視線を引きはがした。
 あやかしを見かけると、つい夢中になって周りが見えなくなってしまう。ついでに独り言も多くなってしまう。どちらも私の悪い癖だった。

       ◆

 人に化け、何食わぬ顔で人間の社会に紛れているあやかしは実のところ意外と多い。しかも、その大半はちゃんとした立場や仕事も持っていて、人間としてごく普通の生活を送っている。
 私は子どもの頃から、そんな風に人に化けているあやかしを見破ることができた。
 人ならざる者たちは私の眼には淡く輝いて見えるので、どんなに人混みに紛れていても簡単に見分けることができる。近づいて眼を凝らせば、人の姿に重なるようにそのあやかしの本当の姿まで透けて見通すことができる。
 ただし、見破ったうえで何ができるかというと――特にない。あやかしの本当の姿が見える、ただそれだけだ。平穏な日常生活を送る上では無駄を通り越して邪魔とすら言える力である。
 子どもの頃の私にとって、「大勢の人の中にはたまにぼんやり光る人がいて、よく見ると角や尻尾がついている」という光景はごくごく普通のものだった。生まれてすぐに両親が交通事故で亡くなって、育ててくれたおばあちゃんは朝も夜も働きづめでほとんど家にいなかったから「それは変だ」と教えてくれる人もいなかった。
 だから何も考えず「あの人すごく大きな角がある」「あの人、なんで目がひとつしかないの?」と見たままを誰彼構わず話していたら、小学校に上がる頃にはすっかり「妄想と現実の区別がつかないアレな子」として遠巻きにされるようになっていた。
 そこに至って私はようやく、どうやら自分が見えているものは他の人には見えないようだ、ということに気づいた。なんとかクラスメートの輪に入ろうとしてみたけれど、何を話したらいいのか分からず更に墓穴を掘るだけだった。
 ひとりぼっちなのは寂しかったけれど、それよりも自分が見ているものを誰とも分かち合えないのだ、ということがたまらなく寂しかった。
 そんな風に過ごしていたある日、教育実習の先生がやってきた。優しくて綺麗ですぐに人気者になった先生は、ぽつんとしている私にもたくさん話しかけてくれた。私は優しい先生が大好きになったから、ある日もっと仲良くなりたくて言ったのだ。
「ねえ、先生の尻尾はふさふさして綺麗だね! 私には見えてるよ」
 先生はさっと青ざめるとその場から逃げるように走り去った。そしてそのまま、二度と学校に来ることなく教育実習を辞めてしまった。
 あやかしは自分の正体が見破られることを何よりも恐れている。
 そのことを遅ればせながら学んだ時には、私はまたひとりぼっちになっていた。
 それでも、この眼を嫌だと思ったことは一度もなかった。私の眼に映るあやかしは不思議で、とても綺麗だったからだ。
 淡い輝きを見つけるとどうしようもなく惹きつけられ、胸が躍る。どんな種類のあやかしなのか、何か困っていることはないか、近寄って確認せずにはいられない。
 つまるところ、私は――あやかしが好きで好きで仕方ないのだ。

       ◆

「とはいえ、あやかしのことよりまず自分の生活をなんとかしないと……」
 グラスを拭きながら、私はため息をついた。子供の頃から浮きまくったせいで、私のコミュニケーション能力は全く成長していない。友達はできないし、就活は悲惨だったし、バイトも色々とあって長続きしない。
 やっと雇ってもらったこのカフェで、今のところ平穏無事にやれているのは奇跡だった。正直、ここをクビになったら後がない。
 ここでもまた、前の時のような失敗を繰り返すわけにはいかない。今度こそ余計なことを考えずに仕事に集中すべきだ。。
「福来さーん、オーダー上がったよ。五番テーブルにアイスティー持っていって」
「はーい……あっ」
 オーダーを確認し、思わず声が出てしまった。五番テーブルはまさに雪女の席だ。
 なるべく見ないようにしよう、と思いつつもやはりそわそわしてしまう。
「アイスティーお待たせしました」
「……あ、はい」
 返事はどこかぼんやりとしていた。グラスを置きながらちらりと窺うと、雪女は頬杖をついて額に手を当てていた。苦しそうに眉間にしわを寄せ、赤くなった顔にはびっしょりと汗をかいている。こちらをちらりとむいた目は潤んでいた。
 なんだか、様子が変だ。暑くてたまらないといった雰囲気に見える。
 けれど、席の周りは恐ろしく寒かった。テーブルの下にはうっすらと霜がかかっている。
 雪女は周囲に冷気を発するらしいけれど、これは明らかに強すぎる。具合が悪くて力が暴走しているのかもしれない。
「やっぱり暑すぎ……? どうしよう、今からでもブラインド下ろした方がいいのかな」
 悩みながらカウンターへ引き返した時、ふいに後ろで何かが倒れるような重い音とざわめきが起こった。
「誰か倒れたぞ!」
「ちょっと、店員さん来てください!」
「えっ、倒れた⁉」
 店長が慌ててフロアへ飛び出していく。嫌な予感がして、私も慌てて後を追った。
 予想通り、騒ぎの中心にいたのは雪女だった。どうやら椅子から転げ落ちたらしく、床にへたり込んでなんとか上半身を起こしている。かろうじて意識はあるようで、心配そうに覗き込む他の客に弱々しく首を振っていた。
「うわっ、なんでこんなに寒くなってるんだ? やっぱりエアコンが壊れちまってるのか」
 店長がぎょっとしたように辺りを見回し、椅子の背にかけてあったブランケットを雪女の肩にかけた。
「寒くて体調を崩されたんだな。大丈夫ですか、お客様」
「い、いえ……」
「すぐに温かいお飲み物をお持ちしますから。もっとしっかり温まって」
 横から覗き込んで、息を呑む。
 ブランケットでしっかりと包まれた雪女は溶け始めていた。真っ赤になった氷の顔はあちこちにひびが走り、雫が滴っている。
 間違いない、これは――熱中症だ。
 私は急いでカウンターへと駆け戻った。氷水がなみなみと入ったピッチャーをふたつ、両手に掴んで引き返す。
「福来さん、ちょっと救急車……」
「今助けます!」
 私は店長を押しのけると、ぐったりと目を閉じる雪女へとピッチャーの中身をぶちまけた。周囲からどよめきが上がったが、構わずにもうひとつのピッチャーも逆さにしてたっぷりと氷水を浴びせる。
 氷水を頭からかぶった雪女の身体から、熱したフライパンを冷水に突っ込んだ時のような音がした。溶けかけていた氷の身体が急速に透明感を取り戻し、ひびが消えていく。
「大丈夫? しっかりして!」
 空になったピッチャーを放り出して肩を揺さぶると、雪女はハッと目を開けた。頬の赤みが引き、熱っぽく潤んでいたまなざしが力を取り戻すと同時に、当たり構わずまき散らされていた冷気が収まっていくのが分かった。
「すみません……!」
 小さく呟くと、雪女はさっと立ち上がった。ややふらつきながらもしっかりとした足取りで踵を返し、逃げるように店を飛び出していく。
「あれだけ走れるなら大丈夫そう。よかったあ……」
「――何が『よかった』だ?」
 雪女の背中を見送ってほっと胸をなでおろしたところに、こわばった声が飛んできた。
 振り返った私は、目の前に広がっている惨状にそのまま動きを止めた。
 派手に氷水がぶちまけられた床。ひそひそしながらこちらを遠巻きに見ている客。転がる空のピッチャー。
 そして、こめかみをピクピクとひきつらせながら私を睨みつける店長。
「あ、その、ええとですね……」
 このあとの展開が手に取るように分かって、今度は私が倒れたくなった。

       ◆

「また無職になっちゃった……」
 駅前広場のベンチで、私はがっくりとうなだれた。陽は既にとっぷりと暮れ、ベンチの前を帰路に就く人々が急ぎ足で通り過ぎていく。
 あの状況、はたから見たら私は「寒さで具合が悪くなったお客様に氷水をぶちまけて追い払った極悪非道な店員」以外の何者でもない。怒りに燃える店長からは危うく同じように氷水を頭からぶちまけられるところだった。
 とはいえ、事情を説明するわけにもいかない。クビを宣告されて店を出て以降、ずっとここに座りっぱなしで立ち上がれずにいる。ため息をつくと、白い息がふわりと夜に溶けた。
「あのあと、雪女さんは無事に帰れたかなあ……」
 店を飛び出す間際の雪女は不安そうな、泣きそうな顔をしていた。――雪女だけではない。人に紛れているあやかしは、大抵いつも不安そうな顔をしている。
 そんな顔を見てしまうと、あの時の先生と重なってどうしても助けずにはいられない。
 最初に勤めていたデパートでは、十字架のモチーフのせいで気分が悪くなってしまった吸血鬼のために飾られていた高価なオブジェを壊してしまってクビ。
 その次のスーパーでは、玉ねぎ入りの試食を食べようとした化け猫の子どもを止めようと商品をひっくり返してクビ。
 そのあとの花屋でも、コンビニでも似たようなことが起こり、今や履歴書の職務経歴欄は悲惨な有様だ。そして明日からはまたひとつ、負の経歴が追加されることになる。
「後悔はしてない! してない……んだけど」
 アパートは半年前から家賃を滞納している。今月末までにどうにかしないと、職なしの上に家なしになる気配が濃厚だった。
 どう考えても詰んでいる状況に、思わず深いため息が出る。
「私、なんでこんなに駄目なんだろう……」

 ――自分を卑下するな、駄犬。お前はいつも能天気に笑っていろ。

 ふと、はるか昔に言われた言葉が脳裏に浮かんだ。
 言ったのは子どもの頃の友達だ。気まぐれで強引で、私のことをペットだと言ってはばからなかった。『遊んでくれた』というより『遊ばれていた』という方が正しいのかもしれないが、それでも遊びに行けば必ず顔を出してくれたし、『くーちゃん』と呼びかけたら『そんなあだ名で呼ぶな』と嫌がりつつも返事をしてくれた。
 『くーちゃん』は、私にとってたったひとりの大事な友達だった。彼が今の私を見たら、いったいどんな顔をするんだろうか。
「さすがに今の状況は笑えないよ、くーちゃん……」
「どーしたの、おねーさん」
 ぽつりと呟いた時、ふいに声がかけられた。茶髪の男が私を覗き込んでいる。
「えっ……誰ですか」
「さっきからずっとここに座ってるけどさ、何か悩み? 良かったら話してみてよ」
 手慣れた感じの軽い話し方にファッション誌から抜け出してきたような今時の格好。
 どう見てもナンパだ。私は力なく首を振った。
「すみません、間に合ってますから」
「えっ、何も間に合ってなさそうなんですけど。おねーさん悩み話す相手とかいなさそう。独り言多いのって話し相手がいない人にありがちなんだよねー」
「うっ」
 まさしく、私の独り言は誰も話し相手がいなかったがゆえについてしまった悲しい癖だ。考えていることがつい口から洩れてしまう。
「空気に向かって話すよりは人に向かって話した方が良いって、ね」
 クリティカルに弱点を突いてきたナンパ男は、ひょいと私の隣に腰を下ろした。
「え、あの、ちょっと」
「オレ、今時間あるからさ。おねーさんの悩み聞いてあげるよ」
「そんな、知らない人に話すほどのことも」
「よく知らない相手だからこそ気楽に話せるってものでしょ。ほら、遠慮なく」
 ナンパ男は言葉こそ人懐っこいが、ぐいぐいと押してくる。助けを求めて視線をさまよわせたけれど、忙しくすれ違う人は誰もこちらを見ようとはしなかった。
「話すだけでもすっきりすると思うよ。おねーさんの力になりたいんだって、それだけ」
 どうやら私の話を聞くまで、動くつもりはないらしい。
「別に楽しい話でもないですけど……」
「オッケー了解! 聞いたらどっかに行くからさ、ほらどうぞ」
 手短に話してどこかに行ってもらおう。私はため息をついて、口を開いた。
「実は……」

 ――それから数分後。
「え~、それでクビ? 酷いな」
「そうなんです……本当に私、お店で酷いことしたなって」
「違う違う、酷いのは店長のほうだって。だってさ、おねーさんはそのお客さんを助けるためにやったんでしょ?」
「まあ……そのつもりでやりましたけど」
「それでお客さんが助かったんなら結果オーライじゃん。なのにクビになっちゃうってさあ、ほんとに大変だったね」
「……ありがとうございます」
 優しい言葉にじんと胸があったかくなる。
 手短に話すつもりが、気がつくと今日のことをすっかり聞き出されていた。てっきり引かれるだろうと思っていたら、ナンパ男は思いがけず真摯に聞き、温かな言葉をかけてくれた。
 どうやら、思ったよりもずっと良い人だったようだ。外見や喋り方で勝手に誤解して、失礼なことをしてしまった。
 心の中で反省していると、ナンパ男が不意に手を打った。
「じゃあさ、仕事紹介してあげるよ!」
「へっ?」
「今、知り合いの飲食店が人手足りなくて困ってるんだ。おねーさんにぴったりだと思う」
 ナンパ男はニコニコと私を覗き込んだ。
「明るくていい店だよ。お願いしたら日割りで給料もくれるし」
「えっ、日割りの給料……」
「俺の紹介なら即日で働けると思うよ。おねーさんなら、俺も安心して紹介できるし」
 私は唖然としてナンパ男を見た。まさか、こんな幸運が転がり込んでくるなんて信じられない。この人は天使か何かだろうか。
「あーでも、人気のお店だから急がないともう募集枠埋まっちゃうかもだけど……」
「や、やります! お願いします!」
 私は慌てて身を乗り出した。このチャンスを逃したら、今度こそもう後がない。
「オッケー、じゃあ紹介するよ! いやー、これでノルマ達成と」
「えっ、ノルマ?」
 首を傾げていると、ナンパ男がずいと距離を詰めてきた。
「なんでもないよ、こっちの話。じゃあさっそく詳しい話を――アイタタタタッ⁉」
 朗らかな言葉が急に悲鳴へと変わった。見ると、さりげなく肩に回されかけた腕がベンチの後ろから伸びた手にねじりあげられている。
「え、え、何……⁉」
 顔を上げると、紅い目をした狐の顔が視界に飛び込んできた。
「……狐?」
 思わず瞬いてから、狐の面をかぶったひとであることに気づく。
 立っていたのはすらりとした長身の男性だった。桜の花弁が散る紺の着物に白の羽織を纏い、銀色の長い黒髪を後ろでまとめている。神社で見かけるような木彫りの狐面をつけているせいで顔のほとんどが覆われており、素顔は口元のみがわずかに覗いているだけだった。
 かなり目をひく格好のはずなのに、いつ現れたのか全く気がつかなかった。通り過ぎていく人々もちらちらとこちらに興味深そうな視線を向けてくるが、関わり合いになりたくないのか足早に立ち去っていく。
「あの、あなた何……」
 言葉の途中で、私はやっと気が付いた。
 よくよく見ると、男性の全身がうっすらと淡く輝いている。あやかしが発する輝きのようだが、今までに見たことがないくらいほのかな輝きだった。
 普通の人間ではないようだが、普通のあやかしのようにも見えない。こんな人を見るのは生まれて初めてだ。
 もっとよく見ようと目を凝らした時、ふと狐面の奥の瞳と目が合った。
 こちらを見つめる瞳が金色だと気づいた瞬間――唐突に、頭の中がぐらりと揺れた。
 同じ色の瞳を、確かに見たことがある。
 あれはいつだっただろうか。子どもの頃、どこかで――。
「――いってぇな、なんなんだてめぇ!」
 怒鳴り声に、私はハッと我に返った。腕を振りほどいたナンパ男が狐面を睨み上げている。
「なんのつもりだ、ふざけた格好しやがって。ケンカ売ってんのか、ああ?」
 先ほどとは別人のような荒々しい口調に、思わず身をすくめてしまう。狐面の方は平然とした雰囲気で胸に手を当てた。
「これはこれは、失礼しました。止めようと思いまして、つい力が入ってしまい」
「ああ?」
「そちらの方をスカウトされるところだったのでは?」
 狐面がこちらを見る。聞きなれない言葉に、私はきょとんとした。
「え……スカウトって?」
「だからなんだよ! あんたにゃ関係ないだろ」
「まあ、関係ないと言えばないのですがね。一応ご忠告申し上げたくて」
「忠告?」
「ええ、何しろあなたのお手並みがあまり見事なもので!」
 熱の入った言葉に、ナンパ男が面食らったように瞬く。
「……あ?」
「格好や仕草から相手の状況や内心を読む鋭い観察眼に、いともたやすく女性の警戒心を解き仕事の斡旋へ繋げる卓越した話術。明らかに警戒していた彼女が心を開くまでに数分もかからぬ手際、実に感服いたしました」
 淀みなく紡がれる熱のこもった賛美の言葉を聞いていると、何故かふわふわといい気分になってくる。脇で聞いているだけでもそんな気分になるのだから、真正面からそれを浴びているナンパ男はひとたまりもないだろう。険悪だった表情が照れくさそうなものへと変わっている。
「まあ、このくらい大したことないけどさ」
「またまたご謙遜を。かなりの凄腕とお見受けしましたよ。それだけに、こんな手合いに引っかかるのはいかにも惜しいと思いましてね」
「こんな手合い……?」
 狐面は両手の人差し指をくるくると回すしぐさをして見せた。
「彼女、実はヒモ付きなんですよ」
「へっ?」
 またしても知らない単語が出てきた。思わずぽかんとしてしまったが、ナンパ男には十分意味が通じたらしい。顔をしかめて私を振り返った。
「マジかよ、そんな風に見えねーけど」
「本人は見た通りですが、ヒモの先については聞かぬが花です」
「……もしかしてアンタ、監視役か?」
 狐面から覗く口元がにこりと微笑んだ。
「そちらも聞かぬが花かと。行きはよいよい帰りは怖い、と言いますし」
「……この女横取りしようとして、適当なこと言ってんじゃねえだろうな」
「僕の言葉をどうご判断されるかはご自由に。忠告は致しましたので、あしからず」
 狐面は肩をすくめた。ナンパ男は私と狐面を見比べると、舌打ちをして立ち上がった。
「分かったよ。なんかヤバそうだし、あんたの忠告に従っとく。じゃあな」
 言い捨てると、さっさと去っていってしまう。私はぽかんとしてその背を見送った。
 仕事を紹介するって話はどうなったんだろうか。追いかけて聞いたほうがいいかもしれない。
「何してる」
 悩んでいると、ふいに腕を掴まれた。狐面がこちらを見下ろしている。
「えっ……」
「グズグズするな、行くぞ」
「はい? 行くって、どこへ……あ、わわわっ」
 狐面は私の腕を掴んだまま、さっさと歩き出した。引きずられかけながら慌ててついていく。
「あ、あの! 私、あの人を追いかけて仕事を紹介してもらわないと……」
「どう見てもあからさまにそっち系の店のスカウトだろうが、今のは」
「えっ、そ、そっち系ってどっちですか?」
「分からないならそれでいい。つくづく脳内花畑な奴だな」
「それ褒めてないですよね? ていうか、さっき言ってたヒモ付きってなんですか」
「借金持ちという意味だ。それもバックがついてる系の」
「ええ⁉ 私、そんなダークな感じの借金はギリギリないですけど……ふぎゃっ」
 狐面がぴたりと足を止めたので、勢い余って背中にぶつかる。鼻を押さえて顔を上げると、狐面の前には黒塗りの車が停まっていた。
 見るからに高そうな雰囲気を醸し出している車のドアが音もなく開く。
「乗れ」
「えっ、ちょっと待って本当に状況が」
 舌打ちした狐面はいったん手を離すと、私の襟首を掴んでぽいっと車に放り込んだ。
「きゃあっ⁉」
 顔面から突っ込んで、またしても鼻をぶつけた。涙目で身を起こすと、ちょうど狐面が乗り込んでドアを閉めたところだった。
「出してくれ」
「はあ~い」
 声に応じて車が滑らかに走り出す。流れる窓の外を呆然と見つめていると、ぶっきらぼうな声がかかった。
「せめてソファに座ったらどうだ? 這いつくばるのがお好みなら構わないが」
「は、這いつくばるって……」
 改めて見回すと、車の中はちょっとした部屋のようになっていた。私がへたり込んでいるのは厚いカーペットが敷かれた床で、狐面は窓際に置かれた長いソファに悠々と腰かけている。
 状況が少しずつ飲み込めてきて、ぞくりと背筋に寒気が走った。
 こういうシーン、映画でよく見たことがある。
「こ、これってまさか……誘拐⁉」
「お前を誘拐しても益など皆無だろう」
 狐面はひじ掛けに頬杖をついて肩をすくめた。表情は見えないが、全身から呆れたような空気が出ている。
「身寄りもない、友人もいない、貯金もない」
「うぐっ、な、何で知って」
「おまけにアルバイトも軒並みクビで、住むところもない」
「す、住むところは一応まだ、今月末までは……」
「ない。さっき僕が引き払っておいた。滞納していた家賃は清算済みだ」
「清算って、だってお金……あっ⁉」
 先ほどの会話が頭をよぎる。狐面の口元がニヤリと笑った。
「お前には借金がある。ヒモの先は僕だ」
「や、やっぱり誘拐じゃないですか! このまま海外に売られちゃうんですか、私!」
「お前みたいなボンクラが売れるか。滞納家賃分は給与の前借りとしてカウントしてある」
「……給与?」
「お前には僕のところで働いてもらう」
 狐面は私にさらりと告げた。
「福利厚生は充実しているぞ。賄いつきの社員寮完備、制服支給。給料については――」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってください!」
 面食らって叫ぶと、狐面から覗く口が不機嫌そうに曲がった。
「何だ。雇用主様の話を遮るな」
「雇用主って……つまり、あの、私を雇ってくれるってことですか?」
「そう言っているだろう」
 私は改めて目の前の人物を上から下まで眺めた。
 よくよく見ると、やっぱりうっすらと淡く輝いている。ということは、この狐面は人間じゃない――あやかしだ。
 だけど私が見てきたあやかしはみんな、人の注目を集めないようできる限り目立たずひっそりと振る舞っていた。間違ってもビジネス街を怪しいお面をつけて闊歩したりなんかしない。
 怪しい、怪しすぎる。はっきり言って胡散くさい。
「仕事ってまさか……あなたの生贄になれ、とかじゃないですよね?」
 恐る恐る尋ねると、狐面の下から覗く口元が吊り上がった。
「生贄とは面白いことを言うな。何故そう思う?」
「何故って……だってあなた、あの」
 あやかしじゃないですか、という言葉を飲み込むと、狐面の笑みはますます深くなった。
「――その眼は健在のようだな」
「へっ?」
 小さくひとりごちた言葉が聞き取れずに首を傾げると、ぽんと何かが放られた。
「あらぬ妄想はほどほどにしておけ。お前にやってもらう仕事はこれだ」
 膝の上に落ちたのはリーフレットだった。手触りからして上質な紙で作られているリーフレットの表紙には、『[月{げっ}][下{か}][楼{ろう}]』と箔押しされている。
「ええと、『特別な出逢いをあなたに 縁結び承ります』……えっ、縁結び⁉」 
 中身に目を走らせた私は、思わず瞬いた。意外すぎる業種だ。
「縁結びって、つまり婚活相談業……ってことですか?」
「もちろん婚活相談や相手の紹介も行うが、それだけじゃない」
 私の質問に、狐面は笑みを浮かべて答えた。
「お客様のご要望に応じて見合いのセッティングから結納、結婚式の手配まで引き受けている。今向かっている建物は、普段は事務所兼従業員寮として使っているが結婚式を挙げる設備も整っているからな」
「どんなすごい事務所なんですかそれ……」
「事情を考慮して臨機応変に対応できる式場は必要だろう」
 白い指が狐面をコツコツと叩いた。
「出会いからご成婚まで総合的にサポートして、お客様に幸せなご縁を結んでいただくよう尽力するのが『月下楼』の役割になる」
 流れるような弁舌を聞いているうちに、胡散くささに取って代わってふわふわと甘い気持ちが胸に広がった。
「幸せなご縁を結ぶお手伝いなんて素敵ですね! そんな仕事ができたらすごく楽しそう……」
 結婚といえばロマンチックで愛情と祝福に満ちた一大イベントだ。今まで全く縁がなかった世界にうっとりしていた私の耳に、狐面が続けて口にした言葉が飛び込んできた。
「――ただし、『月下楼』のお客様は少々特別な方々となる」
「特別?」
 瞬いて狐面を見やると、仮面の奥で黄金の瞳が細められた。
「うちのお客様は人間じゃない、あやかしだ」
「……へっ?」
「『月下楼』が取り扱うのは、あやかし専門の縁結びということだ」
 私はぽかんとして狐面を見つめた。少し遅れて、言葉の意味が衝撃を伴ってじわりと頭に染み込んでくる。
「あ、あやかし専門……って言いました、今⁉」
「ああ、言った」
 駄目押しのように頷かれ、半ば唖然としたまま手元のリーフレットに視線を落とす。
「あ、あの、でもこのリーフレットに電話番号とか住所とか書いてありますよ? そういうところって、あやかしにしか行けないような不思議空間にあったりするんじゃないんですか」
「そんな場所では『月下楼』の意味がない」
 狐面は不機嫌そうに手を振った。
「『月下楼』の建物はきちんと人間社会に存在している。何しろあやかしのなかでも『正体を隠して人間として生活しているあやかし』向けだからな」
「え、ええっ……⁉」
「結婚式場も兼ねていると言っただろう。お客様が結婚式を挙げる際は、当然人間の参列客もいらっしゃる。お前の言う不思議空間にご案内するわけにもいくまい?」
 あやかし専門の縁結び。しかも、人間として生活しているあやかし向け。
 ふわふわした甘い気分は消し飛んで、再び胡散くささが漂ってきた。
「何だかすごくニッチな気がするんですが……本当にそんな仕事してるんですか?」
「大っぴらに看板を出せるものでもないからな。――だが、必要だろう」
 静かな言葉にどきりと心臓が跳ねた。
「正体を隠し人に紛れて生きるあやかしでも、心を許せる誰かと幸せになりたいと願うことが悪いはずはない」
 カフェから逃げるように飛び出していく雪女の背中が脳裏をよぎり、私は小さく頷いた。
「それは……確かに」
「結構。では存分にうちでお前の力を役立ててくれ。期待している」
 すかさず狐面が迫る。忘れていた胡散くささを思い出してしまって、私は口ごもった。
「ええと……でも私、ブライダル業界は未経験なのでどこまでお役に立てるか……」
「そんな経験など最初から期待していない」
 狐面の奥の金色の瞳が、まっすぐに私の目を見据えた。
「お前が必要なんだ。――あやかしの正体を見破る、その『見鬼眼』がな」
「なっ……!」
 今度こそ本当に心臓が止まった気がした。口を開け閉めしたけど言葉が出てこない。
「ど……どうして私の眼のこと、知ってるの?」
 なんとか絞り出すと、狐面は肩をすくめた。
「忘れるわけがない。お前のとりえと言ったらそれくらいだからな」
「ええ……⁉」
「それにしても、こうやって顔を合わせるのは久しぶりだ」
 ふと、狐面の口調が柔らかくなった。金色の瞳が優しく細められる。
「恐ろしいほど変わらないな、お前は」
「えっ」
「昔のままだ。――少し、安心した」
「そ、それは……よかった」
 ぎくしゃくと頷くと、狐面が軽く首を傾げた。
「お前はどうだ? 僕を見て変わったと思うか」
「え⁉ え、えーとですね」
 どうしよう。やけに親しげな雰囲気につい合わせてしまったけど、狐面の下の人物に心当たりが全くない。
 いっそ誰ですかと聞いてみたいけれど、怒られるんじゃないだろうか。
 悩んでいると、狐面が微笑みながら言った。
「怒らないから言ってみろ」
「それじゃ、あの……どちらさまでしたっけ」
 お言葉に甘えて口にしたとたん、ぴしり、と空気が凍りついた。
 柔らかな雰囲気が消し飛び、一瞬にしてまなざしが刃のような鋭さを帯びる。
「――おい。正気か貴様」
「ひえっ……お、怒らないって言ったのに!」
「お前には怒ってない。お前を過信していた自分にはらわたが煮えくり返っているだけだ」
「やっぱり怒ってるじゃないですか! だいたい顔も分からないのに誰かなんて……ふぎゃっ」
 伸びてきた手が私の両頬をわし掴みにした。潰された口がすぼめられ、ひょっとこのような顔にさせられる。
「なにひゅるんれすかっ」
「よく見て思い出せ、ポンコツ」
 わし掴みにされた顔に、ぐいと白塗りの狐面が近づいた。
「――お前のご主人様を忘れるな、駄犬」
 囁かれた言葉に、脳がぶん殴られたような衝撃が走った。

 蘇る記憶は、夕暮れに赤く染まる神社。
 赤い鳥居に腰掛けた淡く輝く少年には、黒い耳と尻尾が生えている。
「僕は九曜。今日からお前のご主人様だ、よく覚えておけ」

「……まさか、くーちゃん?」
「気づくのが遅い、馬鹿め」
『くーちゃん』こと九曜――私のたったひとりの「友達」は不機嫌に言い放った。
 
       ◆

 初めて出会ったのは近所の神社だった。
 願い事がよく叶うと耳にして、放課後に毎日通っていたのだ。その日も一生懸命手を合わせて、顔を上げた時に声が降ってきた。
「お前の声は大きいな。うるさくて耳がもげそうだ」
「えっ?」
 驚いて見上げると、鳥居に腰掛けた男の子がこちらを見下ろしていた。神主さんが着るような黒い和服に袴姿の男の子は淡く輝いていて、人ではないことがすぐに分かった。
 私はぽかんとして少年を見つめた。自分から声をかけてくるあやかしなんて初めてだ。
「お前だろ、[見鬼眼{けんきがん}]の娘って」
 男の子は鳥居を蹴って、私の前に音もなく着地した。びっくりするほど綺麗な顔をした男の子にはふさふさの耳と尻尾が生えていた。
「あやかしの正体が見破れるんだろう? 僕の本当の姿も見えてるのか、なあ」
「……」
 黄金に輝く瞳に見つめられて、私はとっさに俯いた。
 あやかしは自分の正体を見破られることを何よりも恐れている。
 これ以上、先生のような眼で見られるのは嫌だ。
「おい、聞こえてるか?」
 不意にごく近くで声がした。顔を上げると、いつの間にか距離を詰めていた男の子が私を覗き込んでいる。心臓がどきりと跳ねた。
「わ、私のこと……怖くないの?」
「はあ?」
 やっとの思いで絞り出した言葉に、男の子はにやりと笑った。
「怖いわけあるか。いいから、お前の眼に僕がどう見えているか言ってみろ」
 促されて、ごくんと喉を鳴らす。
「……きれいな尻尾と耳だね。ふかふかしてる…‥あなた、狐?」
 思い切って言うと、男の子は少し驚いた顔になった。
「ふうん、ホントに見えてるんだな。お前、名前は?」
「てまり……福来てまり」
「てまり、か。ふうん」
 おばあちゃん以外に名前を呼ばれたのは久しぶりだ。何だか照れくさくて、くすぐったい。
「あの……あなたは?」
「僕はこの神社の主だ」
 名前を聞いたつもりが予想外の答えが返ってきて、私は目を瞠った。
「主……もしかして、神様ってこと?」
「ああ。お前が毎日毎日、やたら気合を入れて祈ってるのも聞こえてる」
 声を出して祈ったつもりはないのだけど、気づかないうちに出ていたのかもしれない。
 そう思ってから、パッと胸が温かくなった。
「じゃあ、神様は私のお友達になってくれるために来てくれたんだね!」
 わくわくして前のめりになった私に、狐の神様は眉をひそめた。
「なんで僕がお前の友達にならなきゃいけないんだ」
「だって私、お友達が欲しいってお願いしたもん! 神様はお願いを叶えてくれるんでしょ?」
「そんなわけあるか」
 神様はあっさり首を振った。
「僕はただ、あやかしが見えるヘンな奴を見に来ただけだ。お前も人間なんだから、その辺にいる人間の子どもと友達になればいいだろ」
 投げられた言葉がぐさりと胸に突き刺さる。
「だいたいうちは縁結びの神社で、お前の願いはまるで見当違い……」
 呆れたように言っていた神様は私を見ると、ぎょっとしたように言葉を切った。
「おい、いきなり泣くな」
「えっ」
 言われて初めて、涙がこぼれていることに気づいた。気づいたらもう止まらなくなった。
「だ、だって……誰も仲良くしてくれないんだもん。みんな私のこと気味悪い、ヘンな奴だって……先生も私のせいでいなくなっちゃった」
 先生のことを思い出すと、もう悲しくて悲しくてたまらない。
「お友達、欲しい。誰か、一緒にいてよ……」
 しゃがみ込んで泣いていると、頭に手が置かれた。ふわりとどこか甘い香りがする。
「ああもう、分かった。……僕が一緒にいてやる」
「えっ?」
 神様はごしごしと私の頭を撫でた。
「お前があんまり哀れだから、僕のペットにしてやる。だから泣くな」
「それ、私と遊んでくれるってこと?」
「気が向けばな」
 顔を上げると、神様はにやりと笑った。
「僕は[九{く}][曜{よう}]。今日からお前のご主人様だ――よく覚えておけよ」
「やったあ!」
 とたんに涙が引っ込んだ。嬉しくなって神様に飛びつく。
「うわっ……犬かお前は。おい、どさくさに紛れて耳を触るな」
「九曜! いい名前だね! ねえ、くーちゃんって呼んでいい?」
「ダメだ」
「うわあ、くーちゃんの尻尾ふかふかだあ! 気持ちいい~!」
「おい、尻尾にじゃれるな! この駄犬が……徹底的にしつけないとな」
 それ以来、私は毎日のように神社に通った。くーちゃんは気紛れで、呼んでもなかなか現れなかったり、すぐにいなくなってしまったりする。かといって、少し行けない日が続いたら「なんでちゃんと来ないんだ、駄犬」と叱られる。
「お前の主人は僕だ。命令には絶対服従、いいな」
「うん分かった! それで今日は何して遊ぶ?」
「今日は『待て』の訓練だ。何をしていても僕が『待て』と言ったら止まれ」
「はーい!」
 奇妙な友達との関係は、おばあちゃんが身体を壊して遠くへ引っ越すことになるまで続いた。
 くーちゃんと過ごした時間はそんなに長いものではなかったけれど、私にとってはきらきら輝く宝石みたいに大切な宝物で、何か辛いことがあるたびに元気をもらえる思い出だった。

 ――そんな、私にとって人間とあやかしを通して唯一の『友達』だったくーちゃんが、目の前にいる。
「ほ、本物?」
「偽物に見えるか? お前のポンコツも極まれりだな」
 話し方、態度、どこをとっても間違いない。一気に懐かしさが胸いっぱいに広がった。
「くーちゃん……ほんとにくーちゃんだ……!」
「その阿呆みたいな呼び方はやめろと何度も言ってるだろ。まったく……うわっ⁉」
 私は思わず目の前の相手に飛びついた。勢い余ってそのままソファに押し倒してしまう。
「こら、じゃれつくんじゃない駄犬!」
「くーちゃん久しぶり! ずっと会いたかった!」
 ぎゅっと抱きついた身体は昔よりずっと大きかったけど、どこか甘い香りは昔のままだ。
「どうして気づかなかったんだろ……確かにこれ、くーちゃんの匂いだ。懐かしいなあ」
「匂いで見分けるとはさすが犬だな……おい、あちこち触るな」
「あれっ、耳は? 尻尾はどうしたの、くーちゃん? あんなにふかふかだったのに」
「落ち着け、この……てまり、『待て』!」
 昔、さんざん教え込まれた命令通り、反射的に身体が固まった。私の下敷きになった姿勢のまま、くーちゃんは大きなため息をついた。
「お前……まさか誰でもこんな風に押し倒してるんじゃないだろうな」
「そんなことないよ。でも、どうしてくーちゃんがここにいるの? 神社は……まさか、潰れちゃった?」
「勝手に潰すな、ちゃんとある。『月下楼』はサイドビジネスのようなものだ」
「さ、サイドビジネス? 神様って副業オッケーなの?」
「くだらない質問が多すぎだ。他に言うことはないのか」
「他に?」
 きょとんとした瞬間、伸びてきた手がぐいと私を引き寄せた。あっという間にくーちゃんの胸に顔をうずめるような体勢になる。さっきより強く甘い香りが私を包んだ。
「くーちゃん?」
「お前と同じように旧交を温めているだけだ。何か問題があるか?」
「ないけど……重くない?」
「今更」
 すっぽり腕の中におさまっていると、なんだか妙にむずむずする。落ち着かない気分でいる私の耳元で、低い声が囁いた。
「覚えているか、てまり」
「え?」
「ずっと考えていた。お前との約束をどうやって――」
 その時、車が停まった。間髪いれずに勢いよくドアが開けられる。
「到着しましたよお、九曜様!」
 車内を覗き込んできたのは華やかな美女だった。目尻が上がった琥珀色の瞳が印象的な顔はきっちりメイクされていて、ピンクの髪から尖った耳が見えている。
「ささ、お手をどう……ぞ」
 私とくーちゃんの状態を見た美女がピシリと固まった。満面の笑みを浮かべた綺麗な顔が、みるみるうちに険しくなる。
「あ、どうも……初めまし」
「――あんた九曜様に何してんのよーっ!」
 金切り声が車内にビリビリと響き渡った。
 
       ◆

「あたしは[牡{ぼ}][丹{たん}]」
 ピンヒールを勢いよく鳴らして廊下を歩きながら、美女――牡丹さんは振り向きもせずに名乗った。背と袖に月下桜の紋が入った着物は裾にフリルがあしらわれ、しなやかな動きに合わせてひらひらと揺れる。帯代わりに巻かれたコルセットの下からは二股に分かれた尻尾が伸びていた。どうやら、牡丹さんの正体は猫又らしい。
「牡丹さんですね。私は福来てまりと……」
「あんたの名前なんてどうでもいいから黙ってついてきて」
「は、はいっ」
 外見も振る舞いもモデル並みに綺麗だけど、正直ちょっと怖い。いや、だいぶ怖い。
 こんな華やかな美女に車内でいきなり掴みかかられた時は死ぬかと思った。くーちゃんの「騒ぐな、駄犬がじゃれついてきただけだ」の一言でなんとか収まったけど、空気は最悪だ。頼みの綱のくーちゃんは「あとは頼む」と牡丹さんに言い残してさっさといなくなってしまった。
「あ、あの……」
 どこへ向かっているのか聞こうとした時、牡丹さんがぴたりと足を止めた。廊下の一番端にあるドアを開けてさっと入っていく。
「何してんの、早く入って」
 ためらっていると尖った声が飛んできた。慌てて部屋に入る。
「ここがあんたの部屋。物置代わりに使ってた一番狭い部屋だけど、文句ないわよね?」
「私の部屋……!」
 中にはベッドと机があり、窓からは中庭が見えた。こぢんまりとして居心地が良さそうだ。
「文句なんてとんでもない! すごく素敵ですね」 
「今まで犬小屋にでも住んでたの? ……まあいいわ。どうせそう長くはいないだろうし」
 独り言のように小さく呟かれた言葉が聞き取れなくて、私は振り向いた。
「えっ? すみません、今なんて……」
 私の言葉を叩き切るように勢いよくドアを閉めた牡丹さんが振り返った。ぎらりと飛んでくる視線はどう見ても非友好的な雰囲気に満ちている。
 私は思わずごくりと喉を鳴らした。なんだか、猫に追い詰められた鼠になった気分だ。
「あ、あの……くーちゃんはどこに」
「九曜様はもう神社に戻られたわ」
 牡丹さんはドスの利いた声で言った。
「祭神である九曜様にとって、ご自身のお社から離れるのはひどく霊力を消耗されるの。ご神木で造られた面で常に霊力を補給なさっているけれどかなりお苦しいはずよ」
「えっ、そうなんですか」
 確かに、昔遊んでいた時にもくーちゃんが鳥居の外に出ることはなかった。
「ということは、あのお面は酸素ボンベみたいなものってこと……? お面をつけてたら海にも潜れたりするのかな」
「はあ?」
 つい思いついたことを呟いてしまって、牡丹さんが眉を吊り上げた。
「す、すみません。なんでもないです」
 またやってしまった。今までこの独り言の癖で何度も失敗してきたのだから、今度こそしっかり気をつけないと……特に牡丹さんの前では危なそうだ。
 そう肝に銘じながら首を振ると、牡丹さんは舌打ちして腕を組んだ。
「だから月下楼のことは基本的にあたしに任されてる。当然、あんたの世話もね」
「そうなんですね。じゃあ、牡丹さんが私の上司ってことですか。よろしくお願いします!」
「よろしくお願いされたくなんかないわよ、あんたなんかに」
 思いっきり非友好的な空気を発しながら、牡丹さんが私をねめつけた。
「ベタベタ九曜様に抱き着くなんて正気? 九曜様は神様なのよ。あんたみたいな間抜け面のモブ女、本来なら近くに寄ることすらおこがましいんだからね」
「す、すみません。久しぶりにくーちゃんに会ったのでつい……」
 牡丹さんの拳がドアを思いきり殴りつけた。派手な音が鳴り響く。
「ひええっ!」
「ここでやっていくなら、絶対に守らなきゃいけない条件が三つある。しっかりそのポンコツ頭に叩き込みなさい」
 目の前に赤く長い爪の指が三つ立てられた。
「まずひとつ。金輪際、九曜様をふざけたあだ名で呼ばないこと」
「ふざけたあだ名って、くーちゃん――」
 再びドアがぶん殴られ、私の言葉を叩き切った。
「九曜様は神様だって言ってるでしょ、頭にスポンジでも詰まってんの⁉ 九曜様、く・よ・う・さ・ま!」
「は、はい! 九曜様です!」
 高速で頷くと、指の数が二本に減った。
「ふたつ。これが一番重要――あんたが人間だってことは、ここでは黙っていること」
「……えっ?」
「当たり前でしょ? 月下楼のお客様はみんな人に化けたあやかしなの。人間が混じってるなんて知られたら、誰も寄りつかなくなる。従業員だって同僚に人間がいるなんて分かったら怯えて仕事どころじゃない」
 あやかしは自分の正体を見破られることを何よりも恐れている。
 それはつまり――人間が得体のしれないものとしてあやかしを忌避するよりずっと強く、あやかしこそが人間を恐れているということだ。
「私は……人間だけど、あやかしと仲良くしたいんだけどな」
「馬鹿じゃないの。月下楼を無茶苦茶にする気?」
 ばっさりと切り捨てられて、心がずんと重くなる。
「あんたが人間だって知ってるのはあたしと九曜様だけ。他の従業員に正体を聞かれた時は適当にごまかして」
「て、適当にって」
「なんとでも言えばいいのよ、相手が人間かあやかしか、なんて普通は分からないんだから」
 牡丹さんの話が少し意外で、私は目をぱちくりさせた。
「そうなんですか? あやかし同士はてっきりお互いが分かるのかと……」
「目の前の相手が人間かあやかしか分かるなら月下楼は必要ないでしょ。とにかく、これは九曜様から特にきつく言われていることなの!」
 牡丹さんは念を押すように区切りながら、はっきりと言った。
「月下楼で働くなら、あんたが人間だってことは誰にも知られちゃいけない。もし正体がバレたら即刻クビ」
「くっ、クビ⁉」
 忌まわしい単語に心臓が縮み上がった。もう二度と聞きたくない言葉ナンバーワンだ。
「は、はい、分かりました! 絶対守ります……!」
 私が必死に頷いた時、控えめにドアがノックされた。
「牡丹さん、新人さんの荷物持ってきました!」
「ちょうど良かった。あとは松葉から聞いて。じゃ」
 ドアに手をかけた牡丹さんに、私は慌てて声をかけた。
「あ、ちょっと……牡丹さん、最後のひとつがまだですけど」
 牡丹さんは私を振り返ると、音もなく一気に距離を詰めた。
「三つ。あたしに声をかけるのは必要最低限にして、近づかないで」
 息がかかるほど近くで囁かれ、思わず息を呑む。琥珀色の瞳ははっきりと私を拒絶していた。
「あたしはね、人間が嫌いなの。あんたみたいなどんくさそうで甘ったれでヘラヘラしてるタチの悪い人間は特に嫌い。九曜様の紹介じゃなければ一歩だって入れたくない」
「た、タチが悪いって……」
「人間のくせにあやかしの正体が見破れるなんて、タチが悪い以外の何? あんたみたいな人間の女――あたしが一番嫌いなタイプなの」
『一番』の部分に力を込めて言うと、牡丹さんはサッと身体を離した。
「今の三つをよく覚えておいて。分かったら、キリキリ働きなさい」
 そう言い放つと尻尾を揺らしてさっさと出ていく。
「一番嫌い……」
 私は呆然とその後ろ姿を見送り、ベッドに腰を落とした。
 遠巻きにされるのは慣れているが、あれだけの敵意を向けられるのは初めてだ。
「人間嫌いにしても嫌いすぎでは……私、知らないうちに何かしちゃったのかな……」
「――あの、大丈夫ですか?」
 頭を抱えていると、ドアからひょこっと顔が覗いた。
「荷物持ってきました。あと、牡丹さんから業務説明もしておけって言われて」
「わわっ、すみません!」
 段ボールを持って立っていたのは、くるくるとした垂れ目の若いと男のひとだった。たすき掛けをした茶色の袴姿で、市松模様の着物の袖と背中には牡丹さんと同じく月に桜の紋がある。ぴょんと除く丸い耳とふさふさした縞の尻尾から察するに、どう考えても正体は狸だ。
「私は福来てまりです。あの……これからよろしくお願いします」
「てまりさん、いい名前ですね! 俺は[松{まつ}][葉{ば}]と言います、こちらこそよろしく!」
 びくびくしていたけれど、返ってきたのは牡丹さんと正反対の親しみのこもった挨拶だった。
「荷物はここに置きますね。足りないものがあったら言ってください」
 松葉さんはどうやら見たまま良いひとのようだ。優しい話し方と人懐っこい笑みに、気持ちがほっとほぐれるのを感じる。
「ありがとうございます、お手間をかけちゃって」
「いえ、全然! 俺、月下楼の雑用係なんで」
 にっこり笑った松葉さんは、少し首を傾げて私を見つめた。
「それより、大丈夫でしたか? 牡丹さんに何か言われたんじゃないですか」
「えっ」
 ぎくりとすると、松葉さんは困ったように眉を下げた。
「九曜様がわざわざご自身で迎えに出向くなんてって、朝からずっとピリピリしてたんですよ。牡丹さん、九曜様のことがちょっと尋常じゃないくらい好きだから」
「それは……すごく伝わってきました」
「牡丹さんは仕事もできるし面倒見もいいし、すごく頼りになるんですよ! ただちょっと九曜様関連になるとリミッターがぶっ飛ぶ感じで」
 つまり、人間嫌い&くーちゃんラブの相乗効果で牡丹さんの私への印象が最悪なものになっていたらしい。理由は分かったけれど、頭が痛いことに変わりはなかった。
「うう、これからの仕事が不安になってきた……」
「あ、仕事についてですけど、てまりさんはしばらく俺とペアを組んでもらうことになります」
「ペア……ですか?」
 私が瞬くと、松葉さんは頷いてまたにっこり笑った。
「最初は雑用しながら、色々覚えていってください。人手が足りなくてすごく忙しいんですけど……一緒に頑張りましょう! 分からないことはなんでも聞いてくださいね!」
「は、はい! これからよろしくお願いします!」
 私は救われた気分になりながら頭を下げた。
 元気で人懐っこい笑顔、ついでにふわふわ揺れる尻尾の全てに癒やされる。
 良かった、松葉さんとなら何とかうまくやっていけそうだ。
「ところで俺は狸なんですけど、てまりさんはなんのあやかしなんですか?」
「うえっ⁉」
 安心したところに軽いノリで質問がきて、思わず変な声が出た。
 正体を聞かれたら適当にごまかせと言われたけど、こんなにすぐ聞かれるとは思わなかった。
「わ、私はその……ええと……」
 まずい、なんて言えばいいんだろう。適当なあやかしになりすませばいいんだろうか?
 しどろもどろな私を見つめていた松葉さんが、ふいにパッと顔を輝かせた。
「あ! 俺、てまりさんの正体分かりましたよ!」
「ええっ⁉」
 私の脳裏を牡丹さんの険しいまなざしがよぎった。
 どうしよう、他のスタッフに人間だとバレたら即クビって――。
「てまりさんは『犬』ですよね!」
「い、犬?」
 思わずぽかんとすると、松葉さんは得意そうに笑った。
「九曜様がてまりさんのこと『昔飼っていたペットだ』って言ってたんです。それで、てまりさんを見てピンときました!」
「……そ、そうです! 犬です! 間違いありません!」
 ここは乗っておくのが無難だろう。私は覚悟を決めて大きく頷いた。
「やっぱり! 犬に間違いないって思ってましたよ。一目で分かりました」
「ですよねー……」
 私はそんなに犬っぽいのだろうか。複雑な気分だ。
「でもそれなら、てまりさんは俺のこと苦手かな。ほら、犬と狸って仲悪いから」
「いえ全くそんなことないです、ふさふさ尻尾大好きです」
 松葉さんは慌てたように自分の背後をまさぐった。
「やべ、見えてますか? 俺、人に化けるの苦手なんです。どうしても人間の姿が怖くって」
「えっ……」
「俺の住んでた山が道路になっちゃった時、人間に見つかったんです。奇妙な化け物がいるって散々追い掛け回されて……家族ともそれっきりバラバラになっちゃって」
 さらりと語られた松葉さんの過去に、私は言葉を失った。
「危うく殺されかけたところを九曜様に助けてもらったんです。で、人間に正体がバレることを気にしなくてもいいところに連れていってやるって言われて、ここに来ました」
 松葉さんはにっこり私に笑いかけた。
「だからてまりさんも、もうビクビクしなくてもいいんです。ここに人間はいませんから」
 どうやら、私がおどおどしていることを松葉さんは『人間に怯える癖が残っている』と勘違いしたらしい。心から私を励まそうとしてくれていることが伝わってきて、後ろめたさに胸の奥が重く沈んだ。
「あ……ありがとうございます、松葉さん」
 なんとか微笑むと、松葉さんはまっすぐに私を見つめた。
「月下楼に来て、俺はひとりぼっちじゃなくなったんです。それだけじゃなくて、俺みたいにひとりぼっちで生きてるあやかしの縁を繋いで、幸せになる手伝いができる。俺、そのことがすごく嬉しいんですよ」
 ――目の前がパッと開けた気がした。
 思えばいつも、もどかしく感じていた。私の眼に映るあやかしたちはみんな不安で怯えているのに、私ができることはたかがしれている。無理に何かしてあげようとしたら返って傷つけることになってしまっていた。
 だけど、月下楼でなら彼らにしてあげられることがある。
「あやかしが幸せになるお手伝い……それ、ずっと私がやりたかったことです」
 口に出して気が付いた。
 私はずっと、あやかしを幸せにしてあげたかったんだ。
 
 ――ああもう、分かった。……僕が一緒にいてやる。

 昔、くーちゃんが頭を撫でてくれた時の気持ちが蘇る。優しい感触と甘い匂いにほっとして、嬉しくて、胸が温かいものでいっぱいになった。
 あの温かな気持ちを、不安を抱えるたくさんのあやかしにも味わってもらいたい。
「松葉さん…‥! 私、頑張ります! お客さんたちをみんな、私たちが幸せにしましょう!」
「てまりさん……もちろんです!」
 松葉さんは顔を輝かせて、力強く手を差し出してきた。
「人間だらけの世の中でだって、俺たちも幸せになっていいんです。一緒に頑張りましょうね!」
 今までのアルバイトみたいに生活のために働くのではなくて、月下楼では本当に私がやりたかったことができるのかもしれない。
 だけど、そのためには絶対に人間だとバレるわけにはいかない。
 そう改めて心に刻みながら、私は松葉さんの手をしっかりと握り返した。 

 

※試し読みはここまでです。

『妖しきご縁がありますように』

 

全国書店他で2月25日より発売。
電子版も各電子書籍ストアで同日配信開始。
定価:2090円(10%税込)

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