どうやらやっと解ったのですが、僕は、人の形をしていません。いや、しているのですが、していないのです。大きな大きなねじくれきった木の幹をのぼって、その天辺にある原っぱの、キラキラ宝石みたいな湖で、僕の親友が教えてくれました。「君はきっと、雨なんだよ」と。
*
きゃあ、という声にたまげてしまって、手に持った鋏を落とした。足にぶつけるところだ。
「いかがされましたか」
すぐさまお客様の側へ駆けつけたのだけれど、本人はというと、ひいと小さな息を吸い、何も言わずに走り去ってしまった。その場には僕の仕立てた服が、ハンガーごと床に投げ置かれている。うんざりとした気分だ。初来店の客だった。
僕は服が好きだ。皆、体の形が違うものだから、それぞれに合う服がいる。服は、体以外で体の形を表すものだと思う。僕はそれを殊の外好ましく思って、服を作っている。好きなものなので、乱暴に扱わないでほしい。
服を拾い上げて、同じようなノースリーブのものが幾つかあったろうと思い出しながら、工房に戻る。そうすると、木の床を踏む音が、僕の他にもう一つ有るのに気が付いた。
「店長さん、またうっかり開けてたね」
「クロトさん! いつおいでになられたんですか」
常連客の意地悪な笑みを見て、ささくれた心がふいと消える。クロトさんはゴシック趣味のスラッとした紳士だ。僕の腕を気に入って何度も注文してくれる。今日も、上品な白髪とヒゲが格好ついていた。店舗側から手招きされ、慌てて「いらっしゃいませ」と付け加えカウンターへ向かう。
「この前に届けてくれたベストがあったね。あれの色違いで、深緑色の地に金の糸を使ったのが欲しくなったんだ。あとスラックスの方もたのむよ。少し痩せたんでね」
承知しました、採寸いたしますと前置いた僕は、カウンターに寄りかかるクロトさんの手首に触れて店内の鏡を見た。そうすると、鏡の中の僕の姿が俄かに変質し、僕の作業服を身につけたクロトさんが現出する。
「はは、いつ見てもそっくりそのまま私だ。店長さんのところは採寸が楽でいい」
ステッキを額に当てて笑うクロトさんはやはり上品だ。同じ姿に変身したって、僕はこうはいかない。それから一通り確認事項に触れて、紳士は颯爽とドアベルを鳴らし退店していった。放たれた青い扉が日光を受けて、ゆっくりと閉まっていく。ハハハハハ、という笑い声が、姿が見えなくなっても響いている気がする。いつも上機嫌で笑っているところは、僕も見習いたい。
さて、日がまだ高い。まだまだ仕事があるぞ。意気込んで振り返り、工房の扉が全開になっているのをみて、ははあ、と納得する。またうっかり、開けていた。
僕は、体に決まった形がない。女物を仕立てる時は女になるし、子供服なら子供になってみる。あの逃げていったお客は、僕が何気なく形を変えるところを見てしまったのだと思う。店舗と工房を繋げる扉を、開けていたので。
気分を害しただろうか。可哀想に。ああ、いや、気持ち悪がられた僕もそれなりに可哀想なのだった。近頃みんな、僕の変身に慣れきっていたので、忘れていた。
すう、と吸い込むと、甘やかな春の香りがする。蒸気機関車と、隣の宿屋の煮炊き。馬車の蹄。平和な音だ。肩を鳴らして伸びをした。
「マネすんじゃねーよ!」
「してねー、そっちがパクったんだろ」
「なんだと!」
このとき僕は油断していて、店先を過ぎていった少年たちの会話にギクリと反応してしまった。未だに苦手な言葉は、これだけだ。『真似』。すっかり払拭したつもりで、やはり嫌な記憶はぶり返す。
――シスター! お願いします。今日も……。
――ええ、構いませんとも。オード、貸しておやりなさい。
最後に住んでいた教会で、いつも僕は同じ歳の頃の少年に顔と姿を〝貸して〟もらっていた。少年オードは無口で何を考えているかわからなかったが、シスターに従順で指示されれば素直にこちらに手首を差し出す。それに触れて、やっと僕は深々と被ったフードをとることができた。鈍い金髪と面長の顔。骨ばった手。井戸で汲んだ水の面にオードの顔が映る。僕もオードも同じ教会の白い質素な服をきて、いかにも双子ですという見た目だった。
朝の支度を済ませ、芝の上を歩きながらホッとしたものだ。別に手首を掴まなくたって、僕はオードの顔になることができた。一度触れて変身した姿は、引き出しから取り出すように、いつでも再現可能だ。だが、それは絶対にいけない。決まった場所に触れる事、これは相手を怖がらせない為の合図。礼儀。テクニック。10以上の教会にたらい回しにされた僕が、やっと見つけた解決策だった。
こうすると、おぞましいドッペルゲンガーから、ただの双子扱いになることができる。
恐ろしいのはわかる。自分が過ごしていたはずの場所と、全く別の所で自分に会ったと聞かされた時の恐怖とか。目の前に同じ顔の人間が現れて、友達や家族に見分けてもらえなかった時の背筋凍る思いとか。もし、この自分じゃないものが自分の居場所を奪ったら?
恐ろしいと人というのは攻撃的になる。温厚そうな詩人の姿になった時だって、横から飛びかかられて髪の毛を掴まれ、『この悪魔が!』と罵られた。普段彼が詠う繊細な詩からは想像もつかないくらいに、口汚く。彼の馴染みの派手な女性に絡まれていたのを、本人に見られたことも運が悪かったと思う。
じゃあ他人の姿なんかにならずに、自分のままでいればいいと思うかもしれないが、そう上手くはいかない。昔から僕はどんな人にも化けられるが、唯一、自分の姿というものになれなかったのだ。というより、分からなかった。自分の顔や姿なんてものが本当にあるのか、疑わしかった。僕は他人の姿を写すしかできなくて、組み合わせて違う顔を作ったりなんてできない。だから、どうしても、『真似』になる。
無理なのだ。『真似するな』と怒鳴られても、『私の姿になって何をするんだ』と責められても、理由なんかなかった。ボロボロに泣いて、「できないんです」「わからないんです」と言うしかなかった。怒った人々は僕が弱いことを知ると、余計に蹴りつけて執拗に追い立てた。フライパンや、皿、石も投げられたと思う。必死で逃げたので、何か硬いものが当たったとしかわからなかったけれど。
過去会って、今は遠くにいる誰かの姿を借りて過ごしていたこともあったが、これもまた、難しい問題があった。「ああ、貴方、生きていたのね!」だなんて。馬車から飛び降りた妙齢の婦人に涙ながらに抱きつかれたとき、咄嗟に「似た髪色の別人」に姿を変え、謝罪を叫びながら逃げたのはハラハラする経験だった。
そうやって色々トラブルが生まれるので、僕は自然に街よりも、森へいって一人になるのが好きになった。誰かの顔をしていたところで、森の木々たちは責め立ててこないし、餌をやった小鳥は僕のことを毎度見分けた。本当にすごいことだ。歩き方でわかるのだろうか?
「ごめんください」
心が思い出の森へと飛びかけた時、ドアベルが鳴って、小さな女の子がおずおずと店内を覗き込んでいることに気づいた。
「あの。此処が、妖精さんの洋服やさんて、本当ですか」
可愛らしい表現に笑みがこぼれる。ええ、そうですよと、膝を折って目線を合わせると、女の子は嬉しそうに店内に入って一生懸命に話し始めた。
友達にこの店の話を聞いたこと。もうすぐママのお誕生日が来ること。ママは、お祖母様から頂いた人形をとても大切にして、毎日お手入れしていること。
「それが、この子なの」
赤い布張りの箱の中から出てきたのは、栗色のロングヘアをくるくるとお姫様のようにして、頬の赤く、関節のついた人形だ。全長は赤ん坊くらいだが、頭身は7歳くらいの少女に見える。
「もしかして、お母さんはこの子と同じ髪色なんでしょうか」
「そ! そうなの!」
やはりそうか。これは、購入する時パーツを組み合わせて思い通りの見た目にできるタイプだ。ひと昔前まで特に流行っていた。店先に並んでいるのをよくよく目にしたものだ。懐かしい想いで品をあらためていると、緑色のドレスの裾、レースの白い部分に豪快なシミを見つけた。あ、と僕がい言うと、女の子は心配そうに見上げてくる。けどここで、先んじて安心させる言葉はかけられない。ここは服屋で、女の子はお客様だ。再び膝を折って目線を合わせる。
「いかがいたしますか。修繕……服を直すか、新しくつくるか。ふた通りございますが」
女の子はキュ、と口を結んでから、あたらしいお洋服をください、としかりと発する。立派なご依頼だ。焦った様子で小さなカバンから、それまた小さい巾着袋を出して、これで足りますか、と聞いてくれる。お父さんから借りた分と、自分のお小遣い全部だと言う。新調するには少しだけ足りなかったが、この覚悟に水を差すほど僕はお金に困っていない。
「承りました。採寸いたしますので、少々お待ちください」
幼い女の子に僕の採寸シーンは刺激が強すぎる。少しの間工房に籠ろうと箱に人形を入れたとき、ちょんちょん、と作業服の裾を引っ張られる。
「ここでやらないの?」
「えっ」
僕に、人形の採寸をここでやれと仰いますか。確かにできないこともないけど、大の大人が悲鳴を上げて逃げだすような〝気持ち悪い〟現象を見せることになる。さっきまで穏やかに話せていた子から恐怖の視線を浴びせられるのは、いくらなんでも居た堪れない。
「ベニカちゃんに聞いたの。妖精さん、〝へんしん〟できるんでしょ。見せて」
妖精さんとは僕のことでありましたか。てっきり「妖精の服」の店と言われたのかと思っていた。いくらか女の子の目を見て、こわがらないでね、と念を押すと、とっても元気になんども頷いてくれた。
おかしいな、お母さんの為に来たのかと思ったけど、もしやこっちが本命か。ため息。まあ事情を知っていて、本人が見たいというのだから仕方がない。人形に触れて、きゅるると姿を変える。いつもの体の膝くらいの身長になってしまった。カウンター上面がすっかり見えない。
ここで僕は失敗に気が付いた。サイズの記録用紙がカウンターの上にあるじゃないか。しかし、こういう時の為に踏み台というものが存在するのだ。僕は人形の姿のままトコトコと店の端まで行き、必要な色々を引きずって運んでカウンターによじ登り、作業服のサイズの変化を記録した。その間、女の子はというと、それはもうキラキラとした瞳で、頬に両手を当てて此方をじいっと見つめ続けていた。いくらお客様と言えど、少しは手伝ってくれても良かったんじゃないだろうか。なんせ、体が人形サイズだったのだし。無駄にくたびれてしまった。
人間以外にもなれると気が付いたのは、いつ頃だったろうか。そうだアレは、オードに姿を借りるのを始める、少し前のことだ。なけなしのお金でパンを買って、いつもの小鳥に分けてあげたとき、ふと思ったのだ。鳥にでもなって、空を飛んで木にとまって、こうやって誰かにパンくずをもらいながら生きていこうか、と。
そうして人差し指で小鳥の額をひと撫ぜしたとき、僕はいつものようにぎゅるんと変質して、たぶん、鳥になった。たぶんというのは、其処が森だったので、鏡が見られなかったからだ。まさかそんなと僕はパニックに陥って、大層暴れた。パンくずをつついていた僕の友達も仰天してヂヂッと飛び立っていってしまったし、木の幹はガサついた巨人に見えるし、虫が落ち枝の下を這う様子はおぞましかった。自身が得体のしれないバケモノの癖して、体の何倍もある虫を目の前にしたら、簡単に僕の心は折れたのだ。腕を振り回しているつもりで、翼をバタバタさせ、転げて、悲痛な鳴き声を上げた。人に戻ろうと強くイメージしてもできなくて、中途半端に飛び上がっては落ちて、枝のような足で必死に街を目指した。誰かになって咎められる街が嫌いだったのに、人の形を取り戻したくて仕方がなかった。はやく、人が見たい。ちゃんと見ることができれば、触ることができれば、戻れるはずだと。
何が「戻れる」だろう。元の姿なんて、わかったものじゃないのに。それでもやっぱり、僕の心は人だったのだ。そういうこともあって、あれ以来よほど必要でないかぎり、人間以外にはならない。採寸は仕事なのでしょうがない。