ナ:こんにちは。
「えっ。あ。こ、こんにちは……っていうか、うわあ! ここ、どこですか⁉」
ナ:ああ、アクションは控えめにした方がいいです。手すりがあっても船から落ちないとは限りませんから。
「船⁉ 何で⁉ っていうか、あなたは誰ですか⁉ それに、その『ナ』っていうのは何なんですか? あ、もしかして、ナレーターさん、っていうことですか?」
ナ:私のことより、あなたはどうですか? 自分のこと、分かりますか?
「え、ボクですか⁉ ボクはアメノセイで…………あれ? 名前以外のことは何も思い出せないです! 何で?」
ナ:仕方ないです。だって。
ナ:ここは、『レーテーの川』なんですから。
気がついた時、アメノセイは、船の舳先に立っていた。
大型客船の船首。細く大きく張り出した船の先端部に、鉄製の手すりで設えられた、高く狭い展望台だ。
見渡せば、前も、右も、左も、船の周囲はただひたすら水面しかない。海かと思ったが違った。うねる白波ではなく、静かなさざ波を立てている大量の透明な水は、黒々と底が見えない深さでありながら滔々と一方向に流れていて、この広大な水が河であることを自ら明らかにしていた。
巨大な河。どれだけ見回しても水ばかりで岸が見えない、信じられない大河だ。
彼方に見えるのは大河の水平線。水平線によって上下に切り分けられた、水と空。
そうして見える空は、灰色の雲によって一色に塗りつぶされているかのように薄暗く、その彼方の空から水面を吹き抜けてくる風は冷たい河の水によって冷え切っていた。ダウンの上着から露出している顔と脚を吹きさらして、緩やかに体温を奪う。思わず髪の毛を押さえた。前髪がやや長い、ユニセックスで大人しめの印象をした、一ヶ所だけツノのように跳ねているのが特徴的な艶のある黒髪が、風に嬲られて千々に乱れていた。
どうして自分がここにいるのか、分からなかった。
それどころかアメノセイという名前以外、自分が何者なのかも分からなかった。
記憶がないまま、船の上にいる。気がついたらいた。そして、そんな自分に気がついたと同時にセイの目に入ったのは、目の前の空中に開いたパソコンのチャット画面を思わせる光の平面で――――驚くセイの前で、その画面に自分へと語りかける文字列が表示されると、流暢ながらもどこか合成音声じみた声が、一体どこから聞こえているのか、文字列を読み上げるのが聞こえてきた。
その声が、告げる。
ここは、『レーテーの川』だと。
ナ:だから、仕方がないのです。
「えっ……と……あの、ナレーター……? さん? ちょっといいですか。その『レーテーの川』って、いったい何ですか?」
ナ:『レーテー川』というのは、ギリシャ神話の、冥府を流れる川です。
「えっ、それって、どういう……」
ナ:つまり日本でいう、『三途の川』ですね
「え、ええ⁉ それじゃあボク、死んじゃったんですか⁉」
ナ:レーテーは別名を『忘却の川』といって、死者の魂はレーテーのほとりに辿り着くと、その水を飲んで、生きていた時の記憶を失うとされています。そして転生する時に、またレーテーの水を飲んで、冥府の記憶を失くして、現世に転生するのだそうです。
「つまりボクは死んじゃってて、その川の水を飲んだから、自分が誰なのか思い出せない、っていうことですか⁉」
ナ:そんなこと、あなたが今ここにいてレーテーを渡っているという事実は変わらないんですから、どうだっていいじゃないですか。
「いや、よくないですよ? ボクは死にたくなんか…………あ、でも周りには水しかないし、飛び込んで逃げても泳いで渡り切れるとも思えないし、よく見たらこれ、どうにもならないですね……」
ナ:そうでしょう。
「ボク運動はちょっと苦手で……あの、もしボクが船から落ちてこの川で溺れたら、どうなるんですか?」
ナ:さあ? レーテーの水をガブガブと飲み続けるわけですから、いま辛うじて覚えている名前も、こうしている最低限のことも、言葉も、体の動かし方も、見たり聞いたり感じたり考えたりするやり方も忘れて、自分が生きているか死んでいるかも、最後には自分が存在していることさえも忘れてしまって、自分と水の区別もつかないような空っぽの状態になって、そのまま海まで流されて、海の底深くに永遠に沈み続けるとかじゃないですか?
「怖い! 怖すぎますよ、それ!」
ナ:大丈夫ですよ。人間というものが生まれて以来、もう数え切れない人が死んでるんですから、きっとレーテーにうっかり落ちた人もたくさんいて、きっと海の底にはそんな人たちが数えきれないくらいみっしり堆積してますよ。寂しくないですよ。
「もっと怖いですよ! そんな風に友達ができても、ぜんぜん嬉しくないです!」
ナ:それにそもそも、その時には何もかも忘れて何も分からなくなってるんですから、何も感じないですよ。で……どうしますか、飛び込みますか?
「嫌ですよ! それに考えてみると記憶がないので、生き返ったからといってどうすればいいのかも分からないんですよね……生き返っても記憶が戻らなかったら大変だし、生前のボクが生き返りたいと思っていたかも分からないし……だんだんこの、アメノセイ、って名前も、本当にボクが生きていた時の名前だったのかどうかも、自信がなくなってきました……」
ナ:そういうことですね。あきらめて船が到着するのを待っていて下さい。
「うう……分かりました。ところで、この船は死後の世界に向かってるんですよね? 到着したら、どうなるんですか?」
ナ:あなたはこの後、また名前以外の全ての記憶を失くして、誰もいない何もない空間にたった一人で閉じ込められて、姿の見えない誰かから何千本もの矢文を撃ち込まれながら、本当にいるのかも分からない観客を相手に延々と孤独な一人芝居を続けることになっています。
「何の罪を犯したらそんな地獄に送られるんですか⁉」
ナ:どうせ聞いてもまた忘れてしまうんですから、どうでもいいじゃないですか。
「いやいやいや! 忘れるかもしれませんけど、今まさにそんな運命が目の前に待ってるボクの納得とか――――覚悟とか――――ほら、あるじゃないですか」
ナ:そうですか。まだレーテーを渡りきっていない、忘却の川の途中ですから、もしかしたら思い出せるかもしれませんよ?
「ほんとですか?」
ナ:言ってみれば、生前があるから、死後があるんです。あなたのこれからは、あなたの過去と深く関係しているということです。それを手掛かりにすれば、思い出せるかもしれませんよ。さっき、あなたがこれから送られる場所について聞いた時、どう思いましたか?
「ええっと……ひとりぼっちなのは、寂しいなあ……嫌だなあ……って」
ナ:それはきっとあなたの失われた記憶が、無意識から語っている言葉です。あなたの過去のヒントになるはずです。それから、このレーテーの川も、境界にあるとはいえ、すでに冥府の一部です。あなたが乗っているこの船も、あなたの魂の一部。つまりあなたの過去の一部ということです。レーテーを渡りきれば消えてしまう、あなたの過去を乗せた船、いえ、あなたの過去そのものなのです。完全に消えてしまう前に見てみるのも良いのでは? それでどうなるかは、保証しませんけど。
「この船が……?」
セイは、背後を振り返って、自らが乗る船を見上げた。
舳先から間近に見上げる大型客船は、白く塗装された、見渡しきれないほどの巨大な威容をしているように見えた。だが全体的にくすんでいて、あちらこちらにサビが浮き、まるで廃船のように、あるいは文字通りの幽霊船のようでさえあった。
見上げた先にはいくつもの窓が見えるが、中に明かりはなく、中の様子は見通せない。人の気配も、感じられない。ただ灰色の空の下で、黒々と、中の暗闇ばかりを透かしている。どこか不気味に、沈黙している。
視線を下げ、周りにある手すりをよく見ると、塗られた白いペンキが内側からのサビで、ボコボコに浮き上がっていた。舳先の展望台を降りた所にある船首の展望スペースも、並べられた椅子やテーブル、床に張られたウッドデッキ、そのどれもが、何日も放置されていたかのように薄汚れている。
そして、その奥にある、船内に入るための、大きな扉。
ここから見る限りでは唯一の入り口である、船体に埋め込まれるようにして取り付けられた大きな金属製の密閉扉は、こうして見る限り、最も強くサビに侵されていた。
赤と白。扉に塗られた、船体と同じ白い塗装はあちこちで剥がれていて、そこに赤黒いサビが瘡蓋のようにこびりついていた。中央にあるハンドルもだ。中でも特に、扉の縁に沿った合わせ目からのサビが酷く、扉の輪郭を赤く浮き上がらせ、そこからまるで船内のサビが扉の隙間から外へと滲み出しているかのように、周囲へと赤を広げていた。
それは、血塗れの傷口を、ガーゼで雑に塞いだかのようにも見えて。
この客船がまともなものではないことを、否が応でも理解させられた。
「あれに……入るんですか?」
ナ:
答えはなかった。
セイは仕方なく、心細さと共に展望台の窮屈な金属製の階段を、カンカンと足音を立てながら、同時に手にざらつく手すりの感触を感じながら、ウッドデッキに降りた。
足音が木の音に変わり、無人の椅子やテーブルが並ぶ中を、真っ直ぐに歩く。
時々周りを見回すが、誰もいない空間が、心細さばかりを強くする。
そして――――
ごぉん、
と扉の前に立った瞬間、大きな鉄の扉が『鳴った』。
途端、デッキ一面に、金属的で耳障りな音が一杯に満ちた。ガリガリとひどい音を立ててハンドルがひとりでに回り、本当に開くのかさえ怪しく思えた密閉扉が、合わせ目を厚く埋めたサビをバリバリと剥離させて撒き散らしながら、ゆっくり外側へ向けて重々しく開き始めた。明らかに無理な力がかかっていて、扉が、船体が、みしみしと軋む。しかし分厚い鉄扉はそのまま耳障りな軋みを上げながら動き続け、やがて真っ赤な船内を露出させると、ごぉん、と最後にもう一度音を立て、完全開放された状態で静止して、そこでようやく動きを止めた。
「………………」
デッキに、静寂が戻った。
息を呑んで、セイは立ちすくんでいた。
目の前に、赤い船内が口を開けていた。
外から見た時に思った印象とは違い、扉の中は錆びてはいない。しかし赤い。扉の向こうはただ、真っ赤な絨毯が敷かれた通路が奥へと伸びていて、また妙に赤っぽい色をした照明の光に照らされていて、その光がぼんやりとデッキの床へ漏れていた。
中からは、暖かい、生き物の呼吸のように湿度の高い空気が、流れ出してくる。
「ええっと……」
セイは、少し引き攣った表情で、展望台を振り返った。
だが展望台の方からは風の音が聞こえるばかりで、唯一の話し相手だった例のチャット画面からは、何の反応もなかった。あの場所から動けないのかもしれない。それとも突き放されてしまったか。セイは仕方なく覚悟を決める。そしてごくりと唾を呑み込んで、赤い船内へと一人、おそるおそる、足を踏み入れた。