試し読み 英雄のヴァルハラがひどすぎる件

 プロローグ

 天界と冥界に挟まれ大樹の地ミッドガルズ――
 神族と巨人族の住むこの世界で、人間は最弱の種族だった。
 弱き人間は祈り神族に救いを求めた。神族は願いを聞き入れ信仰を代償に、人間は神族が持つ魔術の叡智を得たのである。
 神族の庇護の下、文明を築き上げた人間はミッドガルズに満ちていく。
 が、神族と敵対する巨人族は人間の繁栄を許さず、獣に巨人の血と肉と呪いを分け与え魔物へと変貌させた。
 魔物は波のように押し寄せ、数多の村や町を蹂躙していく。
 増えすぎた人間を神族だけでは守りきれなくなったその時――
 ミッドガルズ各地で旗が揚がった。その旗の下に集う人間の中から英雄が生まれ始めたのだ。
 若く熱い血潮を流し、どれだけの犠牲を払おうとも人間の勢いは止まらない。
 幾千幾万の魔物が打ち倒された。戦い死した英雄たちはその功績を認められ天界の扉をくぐる。
 英霊――エインヘリアルとなって主神に仕える栄誉を得たのである。
 生き残った英雄たちも国を興し王となり、人々を治める。
 こうしてミッドガルズにかつての平和が戻る……はずだった。
 神族すら予期せぬ英雄を生み出した人間は、その弱さ故に絶えず変化を繰り返す。
 剣を向ける相手がいなくなった時、戦いは人間と人間、争いは国と国のものへと変容していった。
 もはや神族といえども流れを止める手立てはない。
 その奔流は神族の敵対者たる巨人族によってかさを増した。
 エインヘリアルの影から生まれし存在――英雄の資質を持ちながら、その力を己の欲望を満たすために使う者たちが暗躍跋扈しつつあった。
 闘争こそ人間が望んだ結果なのだ。

 人間が神族の手を離れつつある今、永く続いた神話の時代は終焉へと向かおうとしている。
 神族と巨人族の最終戦争によって。

 

 1.治癒術士は[限界突破{キャパオーバー}]

「国が違っても人間同士だろうに。いつになったらこんなくだらない戦争は終わるんだ」
 薄暗いテントで目を覚ますと、つい言葉が漏れた。
 とある国に戦争ばっかりしてるクソみたいな王がいる。名はハデルという。
 自国の兵だけでは飽き足らず各地から傭兵を募るほどの戦争狂だ。このハデル王が元凶となって、今や世界――ミッドガルズは戦争が常態化しつつあった。
 冒険者になって二十年。たまに野盗の相手もするが普段はもっぱら魔物狩りが専門のオレである。
 そんな冒険者らしい暮らしから、この一年ほど遠ざかっていた。所属する冒険者ギルドから派遣されて、今は前線にもほど近い野営地勤務だ。
「ネクロさん! 全員整列完了しました!」
 日が昇ったばかりの早朝。オレが仮眠をとるテントに青年の声が響いた。
 連日魔力切れで回復しきらない身体を必死に起こす。若い頃はなんてこともなかったが、四十を目前にして身体の無理が利かなくなった。
 テント内には片手に収まるくらいの空瓶がダース単位で四散している。
 眠い目をこすりあくびをしながら道具袋を探った。無作為に一本、魔法薬を取り出す。これは飲むまいと心に決めていた黒い小瓶だった。これも運命か。黒い瓶の封を切って喉に流し込む。
 苦い。まずい。この世の草という草の苦渋をコトコト煮詰めて、一滴一滴丁寧に抽出したような純粋な苦みがした。自分で調合しておいて言うのもなんだが、人間が口に入れて良いもんじゃない。
 その上、良薬とも言いがたかった。むしろ毒物だ。一般的な魔力回復系の魔法薬と比較して、この黒ポーションは十倍の効果を持つ。代わりに二十倍の身体的負荷がかかった。幸せと不幸は等価ではない。
 飲み干すと心臓が早鐘を打った。頭の中がクリアになる。底を突いたままの魔力が全身に満たされていった。休息や普通の魔法薬ではここまで回復できない。特別な一本として調合した甲斐はあったな。
 荒くなる息を沈めるようにゆっくり深呼吸を繰り返していると――
「ネクロさん入りますね……って! その黒い瓶は……いつもの魔法薬じゃありませんよね?」
「いつもよりちょっと強めだな」
 魔法薬に耐性の無い人間が飲めば十中八九、中毒死する程度の代物だ。
「本当にちょっとなんですか?」
 心配そうに青年が俺の顔をのぞき込む。
「専門家のオレが言うんだからちょっとはちょっとだ。相変わらず朝っぱらから騒がしいな?」
「すみません……ええと、不死隊のみんなが待ってます!」
「ったく、なにが不死隊だ。人間は刺されても斬られても死ぬんだよ!」
「本当なら死んでたはずのところを、ネクロさんに救われてみんな生き生き死地に赴いて大暴れしてますよ! オタヴァ連邦にはソル王国の傭兵が、巨人族の血を飲んだんじゃないかなんて噂も広まってるみたいですし。まさにネクロさんはこの野営地の巨人族ですね!」
「巨人族ってのは化け物の親玉だろ。一緒にするな。こちとら人間だ」
 青年の声はトーンダウンするどころか、ますます勢いを増した。
「化け物みたいに規格外でネクロさんはすごいってことです!」
「褒めてないだろそれ」
「活躍は軍令部を通してハデル陛下の耳にもきっと届いていますよ! 勲章とかもらえるかもしれませんね? ああ、でもこの戦線を押し返すまで叙勲式にも出られないか……」
 オレの代わりしょぼくれるヤツがあるか。
 通常の魔法薬を満載した道具袋を肩に掛け、青年と共に仮設診療所の看板が建てられたテントを出る。
「今日もがんばりましょう! というか、頑張ってるのはネクロさんで、自分はほとんどなにもできてませんけど」
「助かってるよ。オマエはよくやってる。だから、あんまり自分の価値を自分で下げるようなこと言うなって」
「は、はい!」
 青年はオレに向けて敬礼した。昔の自分を見ているような真っ直ぐさだ。
 オタヴァ連邦との第二次合戦で死にかけたのを治療して以来、頼んでもいないのに勝手に助手みたいなことをするようになって久しい。
「今朝は何人だ?」
「重軽傷者合わせて223名。戦死者2名。行方不明者5名です」
 負傷者二百人越えか。黒ポーションを使ったのは正解だったようだ。
「毎度のこと治せない死者と行方不明者を報告されても困るんだが」
「これを報告しない日が来ると信じてます! 目指せ死者行方不明者ゼロですよ!」
「はぁ? 何言ってんだオマエ。戦争だぞ? 殺し合いしてんのにその目標は無理があるんじゃないか?」
 若い兵士は仔犬のような人なつこい顔で瞳をキラキラさせた。
「ネクロさんが加入してから、みんな『死ななきゃなんとかなる』っていうのが心の支えになって、帰還率はうなぎ登り! 死者数もどんどん減ってますから!」
 戦争で死人を出さない唯一の方法は、戦争をしないことだ。一方で、人間が国を興して以降、国同士の争いが無かった試しがない。
「ネクロさんが加入してから、みんな『死ななきゃなんとかなる』っていうのが心の支えになって、帰還率はうなぎ登り! 死者数もどんどん減ってますから! 次は本気で戦死者無しを目指しましょうよ!」
「そもそも戦争が無ければ戦死者は出ないんだ。戦争なんて止めちまえばいいんだよ」
「それだと誰も戦功をあげられませんよ?」
「功を焦って死んじまったら元も子もないからな」
「なんとか両立できないですかね?」
「とにかく……まずは欠員出さずに全員雁首揃えて戻ってこい。死にかけの仲間がいたら冥府から引っ張って連れてきやがれ。全員まとめて治してやるから」
 言いながら少しふらついた。時折フッと力が抜けて倒れそうになる。
「だ、大丈夫ですか?」
「少し立ちくらみがしただけだ。オマエは心配しすぎなんだよ」
「不死隊のみんなよりネクロさんが先に過労死しそうですよね。いつかぶっ倒れるんじゃないかって心配で心配で」
 幸い、まだこいつの前では倒れていなかった。無茶は承知だ。他に治療ができるやつもいないのだから、気遣いだけ受け取っておこう。
「余計なお世話だ。バカどもには自分の心配だけしてろと言っておけ。治療前に死なれたら寝覚めが悪い」
「承知しました。けどバカどもはさすがにひどくないですか?」
 兵士の青年は苦笑い混じりで敬礼した。
「口が悪いのは生まれつきだ。ハァ……オマエが初級レベルでいいから治癒術を使えれば……」
 一度教えて駄目だったことを思い出す。いかんな。上から下の人間に言うことじゃない。と、思った時には手遅れだ。
「僕には魔術の才能がありませんし、初級レベルじゃ焼け石に水ですよね。やっぱりネクロさんじゃないと。だから僕はサポートを全力で頑張ります」
 オマエは出来た人間だよまったく。と、青年は思い出したように続けた。 
「忘れるところでした! これいつもの問診票です。リストの順番に並んでもらってますんで」
「偉いぞ。助手としては100点だ」
「いやぁ自分なんて本当にまだまだですよ」
 青年兵はオレにリストを渡すと嬉しそうに鼻の穴を膨らませた。謙遜してても表情に本心がダダ漏れだぞ。
 問診票にざっと目を通す。負傷の位置が記載され重傷順になっているのはありがたい。
 今や前線はどこも治癒術士不足だ。
 このネルトリンゲン戦線も例に漏れない。毎日どころか、ひどい時には朝夕晩と診療所に行列ができる。
 すべてはソル王国が全方位にケンカを売るという狂犬ぶりを発揮しているためである。
 勝てば勝つほど戦火を広げ、魔物も敵国もねじ伏せてミッドガルズを統一する勢いだ。
 オレが派遣されたのは冒険者上がりの傭兵とソル王国軍の混成部隊である。
 オタヴァ連邦の逆侵攻に遭い、それでも戦線を維持できたのは……傭兵連中が両軍の想定を超える活躍をしたためだ。当初は捨て石として補充された傭兵たちが、今や金剛石の輝きで戦線を押し返しつつあった。
 ここのバカどもときたら急所を外すのだけは上手くなりやがる。
 ため息交じりにリストから視線を外した。前を向く。
 得物も防具もてんでバラバラな二百人そこらの傭兵軍団が、仮設診療所テントの前で長蛇の列を成していた。
 挨拶代わりに軽く手を振ると、負傷兵どもは「うおおおおおお! 待ってたぜネクロおおおおお!」と、野太い喝采を浴びせてくる。

「「「「「ネ ク ロ! ネ ク ロ! ネ ク ロ! ネ ク ロ ッ!!」」」」」

 黄色い声援ならぬ茶色い絶叫だ。いつの間にか名前を斉唱されるのが恒例行事になっていた。恥ずかしいので正直、止めてくれと思う。まあ、言って止めるような連中でもないのだが。
 オレが前線に出ない理由。それはオレが治癒術士だから。
 野営地の仮設診療所で来る日も来る日も、負傷兵を治癒魔術で癒やす日々。
 ギルドで受けた百日間の契約が、超過日数は両手両足の指では足らず、もう数えるのを止めて久しかった。
 今でこそこうして出待ちされているが、着任した当時はひどいものだった。脳筋どもときたら治療してやっても文句ばかり。

「なぜ治した⁉ 戦士の誉れは戦場で勇敢に戦い死ぬことだ!」
「死して英霊となりヴァルハラに迎え入れられるのだ!」
「常に安全な場所にいる治癒術士の貴様には理解できんだろうがな!」

 英霊――エインヘリアル信仰は戦士の誉れだそうな。
 アホくさいことをのたまう連中の多いこと多いこと。勇敢に戦って死んだ人間は主神の元に召されてヴァルハラに住み、神族と巨人族の最終戦争が起こるまで武人としての技を磨き続けるのだそうな。
 ここで治療していると、嫌でもそういったおとぎ話を患者たちから聞かされて、耳のタコが今では立派なクラーケンにまで成長した。
 戦いで死んだ人間を悼み弔う気持ちはわかる。だが、勇敢に戦って死ぬこと自体を目的としている連中は正直、腹立たしい。だからそういった輩に向けたオレの治療は、とても荒っぽい。

「今日も頼むぜ!! 戦士の誉れは友を守り自分も守ることだからな!」
「英霊になるにはまだまだ俺は戦い足りぬ! ヴァルハラに迎え入れられるにふさわしい強さを極めるためにも、この傷を癒やし再び戦場に赴かねばならん!」
「この野営地だけは絶対に死守してやるぞネクロ! だから貴様は安心して仕事に励んでくれ! 貴様こそがこの野営地の真の英雄だ!」

 なにが英雄の霊だよ。人間なんて生きてなんぼだろうに。
 オレのいる野営地にさえたどりつけば、死なない限り傷が癒えいくらでも戦線に復帰できる。手足くらいなら生えてくるなんて噂が広まって、他の野営地からも戦士だの傭兵だのが集まるようになっていた。
 そいつらが戦闘で経験を積みに積み、気づけば東方オタヴァ連邦との最前線はソル王国最強の精鋭部隊とまで言われている。
 助手の青年兵がオレに熱視線を送ってきた。
「お願いしますネクロさん!」
「わかった。全員歯ぁ食いしばれよ」
 右手を握って拳を作り魔力をため込む。オレの治療法は他の治癒術士と比べると一風変わっていた。
 本日最初の患者が鼻息荒く頬を赤らめる。胸に大きな裂傷。応急処置で止血済みだが、すぐに戦線に戻れる傷ではない。
「い、痛くしないでくれ」
「男が半泣き懇願しても手加減なんてされると思うなよ」
 牛でも真っ二つにできそうな大斧を背にかついだ筋骨隆々の大男は、涙目になり恥じらうようにオレに懇願した。内股になってもじもじする仕草は少女のものだ。ギャップがありすぎてむしろ怖いぞう。
 さてと……今日も仕事を始めるとしよう。オレは握った拳をゆっくり開いて振りかぶった。
「痛いの痛いの飛んでいけやコラァ!」
 斧オッサンの頬を平手で殴り抜ける。いわゆるビンタというものだ。首がもげるほどの勢いでオッサンの巨体が吹き飛んだ。
「――ッ⁉」
 声にならない悲鳴を上げて地面に崩れおちる。
 赤く腫れ上がった頬を両手でかばうようにして、オッサンは呼吸を荒げた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
 同時に治癒魔術が発動しオッサンの胸の傷か綺麗に閉じて痕すら残らない。
 助手兵士が鼻の穴を膨らませた。
「出たっ! ネクロさんのツンデレビンタ治癒魔術! 前々から思ってたんですけど、なんで普通に治癒してあげないんですか? 僕の時はまだ普通でしたよね? 呪文とか唱えてましたし」
「あれはオマエに助かりたいとか死にたくないっていう、治癒される意思があったからな。治癒を拒絶するような連中には、こうして力尽くで直接ぶち込まなきゃならんのだ」
 主神信者向け強制執行だ。言葉で説き伏せるよりよっぽど早かった。
「ドSですねネクロさん?」
「死なない程度に殴るぞ若者」
「もうみんなネクロさんの治癒なら喜んで受けるのに、やめてもいいんじゃないですか?」
 オレのビンタで吹き飛んだ斧オッサンが立ち上がると、助手兵士に告げる。
「おい若造! 俺らはもうこのビンタなしじゃ回復された気がしないんだ。ネクロのビンタには母ちゃんに怒られた時みたいなあったかさがあるんだよ」
「気持ち悪いこと言うんじゃねぇ! とっとと持ち場に戻れッ!!」
 大男をシッシと手で払う。そんな俺に助手兵士は「やっぱ優しいんですねネクロさんって」と生暖かい眼差しだ。
 恥ずかしいからやめろ。本当にしばくぞ。
「次ッ!」
「押忍! お願いしやす!」
 気合いたっぷりのスキンヘッド格闘家だが、右腕が骨折し応急的に添え木が当てられていた。
 ビンタ一発で完治させつつ毛根を活性化させた。
「そいつはおまけだ」
「うおおおおッ! 一度は死んだはずの自分の毛根がが! こんどこそ守ってみせるっす!」
「毛根の前に命を先に守る意識をしろ。いいから次も死なずに戻ってこいよ」
「押忍! あざっす!」
 スキンヘッドグラップラーを角刈り格闘家にクラスチェンジさせて次の負傷者へ。
 流れるように二十人を平手打ち……もとい治癒したところで小瓶の魔法薬を飲む。黒ポーションの効能とは比べるべくもないが、無いよりはマシだ。次の二十人を治癒する。飲む。治癒する。飲むを繰り返す。
 中にはビンタより拳が良いとか、蹴りが良いとか靴底で踏んで欲しいとかお尻を叩いて欲しいとか、もっと言葉責めしてくれなどと、ふざけたリクエストがあるのだが面倒なので個別対応はしない。
 事情を知らない人間にはただの気合い入れにしか見えないだろう。我ながらシュールな光景だと思う。
 百人ほど治療したところで、別の戦線に出ていた斥候の小隊が野営地に戻ってきた。
 列を無視して担架が仮設診療所テント前に運び込まれる。
 急患もしばしばだ。並んだ負傷者たちから文句は一切出ない。前線に出る人間にとって明日は我が身だからな。
 濃い顔つきをした太眉男だ。ここらでは見ない顔だった。最近配属されたのだろう。男は担架に寝かせられたまま、オレを恨めしそうに睨みつけた。 
 応急処置のために巻かれた胸の包帯から出血が止まらない。長くはないな。いや、よくここまで耐えたもんだ。
「死なせろ……おれは勇敢に戦った……なあ……俺はエインヘリアルに……なれるよな? なれなきゃなんのために……戦ったのか……わから……ねぇ……」
 死にかけのくせにイラつかせてくれるなよエインヘリアル信奉者め。オレは太眉男の傍らにしゃがみこんで訊く。
「オマエを待ってるやつはいるのか?」
「なぜ……そんなことを?」
「いるのかいないのかどっちだッ! とっとと答えろ!」
「いる……去年息子が生まれた……だがもう治癒魔術でどうこうできるものでは……グフッ」
 吐血しながら涙をつーっと流す。泣くってことはこの世に未練たらたらじゃねぇか。
「息子がいるのか。そのガキはオマエの顔も知らずに生きるんだな」
「ううっ……」
「まだ赤ん坊で物心もついてないだろ。オマエに名前を呼ばれた記憶も残ってない。オマエに抱き上げられた感触も、頭を撫でられたことも愛されたということも……オマエが死んだらガキには何も残らないじゃねぇかよ。それでいいのか?」
「英雄になるには……仕方ない……だろう……」
「歯ぁ食いしばれ。これ以上喋ると本当に死ぬから黙っとけ」
 オレは魔法薬の小瓶を三本取り出しまとめて中身を飲み干した。ドクンッ! と心臓が大きく波打つように鼓動する。冷や汗で背中がびっしょり濡れた。息が切れる。だが、こんなバカを治すにはこれでも足りないくらいだ。
 バカは死ななきゃ治らないなんて、アレは?だ。生きているからこそ人間は変わることができる。
 強力な治癒魔術を心の中で詠唱し、握った右の拳に込める。
 頭の中に電流が流れたような衝撃が走った。プスプスと脳が焼き切れるような感触だ。ヤバイな……何か切れちゃならん回路が切れかけているようだ。
 だからといって止めるわけにはいかなかった。
 魔力を限界まで高め集束すると、ゆっくり拳を開いた。
 ズンと重たい。今日一番の……いや、これまでの人生の中でも五指に入る魔力の練り上がりだ。四十歳を前にして何らかの境地にたどり着けた気がした。
「くらい……やがれッ!」
 平手で太眉男の頬を全力で叩く。首がゴキッと九十度横に傾いた。
 激しい魔力の光がほとばしり、男の身体に吸い込まれた。見る間に出血は止まり顔色も優れてきたな。
 目をぱちくりさせながら男が立ち上がる。その場で軽く屈伸したり跳ねたり手足の感覚を確かめるように回してみせる。
 すべて良好のようだな。きょとんとした顔で太眉男は俺を見つめた。
「子供に必要なのは英雄じゃ無く父親だ」
 太眉男は深々と頭を下げる。それ以上、言葉は無かった。

 傭兵たちの治療が一段落つくと、助手兵士がどこからかコーヒーを調達してきた。
 マグカップを差し出される。
 受け取ろうと手を伸ばすが、焦点が合わずにオレの手は虚空を撫でた。一瞬、足下がぐらついてつんのめりかける。
「大丈夫ですか? ちょっとおかしいですよ? いつもより飛ばしすぎっていうか……気合いが入りすぎみたいな感じですし」
「気合いを入れて治療してるんだから当然だろ」
 助手兵士は困ったように眉尻を下げる。
「本当にお疲れ様でしたネクロさん。でもあまり無茶しないでくださいね」
 改めてマグカップを受け取り口をつける。疲れているせいか味も香りもしなかった。それでも熱い液体が身体に染みこむようで心地よい。
「仕事だからな。ギルドから出る給料分を働いただけだ」
「まったまたぁ。スキンヘッドの人をふさふさにするなんて、逆給料泥棒もいいところじゃないですか」
「あれはまあサービスしすぎたかもしれん」
「息子さんがいる太眉の人、無事に故郷に戻れるといいですね」
 カップを包むように持つ。じんわりと温かい。まるで命を手に抱いているようだった。ゆっくりと長く息を吐く。明けない夜は無いが、この戦争が終わる気配はまだ無かった。
「いつまでこんなことが続くんだろうな」
 オレの問いかけに「それは偉い人たちが決めることですから」と、諦めたような顔で助手兵士は返す。
「偉いヤツ……か」
 ハデル王が侵攻を止めれば本当に終わるのだろうか。誰ならこの国の出血を止められる? オレにできることといえば前線で負傷兵を治すことだけだ。
 ぼんやり考えている間に、助手兵士がコーヒーを飲み干していた。
「オルロー平原の野戦から部隊が戻ったら、また忙しくなりそうですね」
「ああ……そうだな。猫の手も借りたいくらいだ」
 負担は日を追うごとに増す。真綿で首を締め付けられるように。
「上官の人たちが治癒術士の増員を申請してるそうですけど、現状で対応できてるからという理由で承認が下りないみたいで……これじゃあネクロさんの負担ばっかり大きくなるじゃありませんか」
 どこもキツいなら戦線を拡大するんじゃねぇよ。国王をぶん殴りたい気分だ。が……それももう叶わぬ願いかもしれない。
「オマエには世話になった。感謝してるよ」
「なんのなんのです。他にできそうなことがあったら言って下さい」
 言いながら助手兵士は改まった顔つきになった。
「あの、前から疑問だったんですけど、どうしてネクロさんはそこまでできるんですか?」
 やり過ぎだっていうのは頭では理解している。普通なら黒ポーションなんて劇薬には頼らない。それでも――
「自分が選んだ仕事だからな」
 俺は首から紐を通して提げている陶片を見せる。ルーンの刻まれたギルドタグは冒険者の身分証明書みたいなものだ。冒険者の誇りなんてものは持ち合わせていないが、だからといって投げ出して良い仕事ではない。
 オレがいなければ誰があのバカどもを治療するんだよ。死んじまったらおしまいだ。
 助手兵士は首を傾げた。
「身の危険を切り売りする冒険者よりも、どこかの町で治療院を開いたり、お金持ちの商人や貴族のお抱え治癒術士になれば楽に稼げると思うんですけど」
「助けたかった人がいたんだ……」
 自然と口を突いて言葉が出る。察してか青年は気まずそうだ。
「もしかして誰か大切な人を……亡くされたんですか?」
 いつも上から目線で両親の代わりに面倒をみてくれた。普段は笑わないが、たまに見せる優しい笑顔が太陽みたいな……どこにでもいる普通の姉貴だった。
「たった独りの家族が……姉貴がいたんだ」
「お姉さんですか」
 オレは小さく頷いた。三十年が経ってもまぶたを閉じれば姉貴の顔が思い浮かぶ。事切れた後の恐怖に引きつった表情だ。
「オレが十にも満たないガキの頃、住んでいた村が魔物の群れに襲われてな」
「す、すみません。そんなこととは知らずに」
「気にするなって。とっくの昔に思い出になっちまったさ」
 少し黙り込んでから青年は俺に訊く。
「どうしてネクロさんは無事だったんですか?」
「薪拾いに森へ入って迷子になったんだよ。戻るのが遅かったオレだけが助かった。神も英雄も冒険者も村を助けちゃくれなかったんだ」
 あの日、美しい白鳥を追いかけて森の奥の泉まで行かなければ、今頃オレはここにいなかっただろう。
 助手兵士はうつむいてしまった。
「よくある話だ」
 気落ちしたかと思いきや、青年は決心でもしたように頷くとガバッと顔を上げた。
「ならなおのことネクロさんは立派だと思います! 助けられる誰かがいないなら、自分がそうなろうとするなんて!」
 自分の腕の長さがせいぜいという現実を知れば、救いたいという想いも願いも儚い抵抗だと、身をもって解らせられる。それでも――
「そんな風に思ってた頃もあったな……」
「というか今まさに救っているじゃありませんか⁉ ネクロさんがなんと言おうと僕は感動したんです。命の恩人でもありますし」
 瞳を丸くするとますますコイツは童顔になる。若い頃の自分よりもよっぽど素直だな。
「大げさなヤツめ」
 青年は自身の胸に手を当てた。
「今は兵卒ですけど、この戦線を無事に生き残ることができたら兵站科に転属願いを出して、後方支援に就こうと思うんです。ネクロさんみたいにはなれませんが、せめて補給を滞らせずしっかり務めます!」
 兵士なんて華々しい勲功に目がくらみがちな連中ばかりだ。なのに補給の仕事をやりたがるとは奇特なヤツめ。
「そういえばオマエさ。名前なんだっけ?」
「あれ⁉ 覚えてくれてなかったんですか? ジョシュアですよ」
 俺は「そうか」と頷くとコーヒーを一気に飲み干した。先ほど感じた熱さがない。ぬるくなるにしたって早すぎだ。頬を撫でる風を感じられない。今までこんなことはなかった。
 かすかに……嫌な予感がした。
「聞け……ジョルジュ」
「ジョシュアですってば! どうしちゃったんです? 急に神妙な顔つきになっちゃって」
 言ってくれるな。どうせオレってヤツは普段は絵に描いたような不良中年だよ。だが、今だけはコイツにきちんと耳を傾けて欲しい。これが最後になるかもしれないのだ。
「補給部隊は地味で不人気だ。だが無くてはならない重要な仕事だ。治癒術士を癒やすのはこの一杯のコーヒーだからな。しっかり励めよジョージア」
「は、はいッ! って、だからジョシュアですってば!」
「オマエには人の懐に飛び込む才能がある。そういうヤツは得てして出世するんだ。オマエなら偉くなってこの戦争を終わらせられるさ」
「えっ! 本当ですか⁉ がんばります! やってやりますとも!」
 人を信じすぎるお人好しなところは玉に瑕だけどな。
 空になったカップをジョシュアに突っ返す。
「おかわりいりますか? ひとっ走りもらってきますね! 戻ったらもっとお話を聞かせてください。部隊撤収の日まで、ネクロさんから学べることは全部学ばせてほしいんです!」
 仔犬のようにジョシュアは部隊長のキャンプへと駆けていった。なるほどコーヒーはそこで手に入れてきたんだな。補給部隊らしいじゃないか。まな遠のく青年の背にそっと告げる。
「全部……か。それは約束はしかねるな。できることならオレも教えてやりたかったよ……ジョシュア」
 息が詰まる。呼吸が乱れる。鼓動はますます早鐘を打った。
「ハァ……ハァ……グッ……ふぅ……」
 出るのは息ばかりだ。言葉を声に乗せるのも苦しい。
 天を仰ぐと青空に白い筋が無数に流れていくのが見えた。背に翼を持つ主神の眷属――[戦乙女{ヴァルキリー}]たちだ。隊列を組んで南へと飛び去っていく。
 ちょうどオルロー平原の方角だった。戦いが終わったのだろう。何人生き残れたんだろうな。
 翼を背にした聖女たちは英雄の魂を導く主神の使いだ。争いに巻き込まれ非業の死を遂げた少女が転生した姿とも言われているが、確かめようもないただの噂話だった。
 姉貴も転生して[戦乙女{ヴァルキリー}]になってたりは……さすがにないか。しっかりしているようで不器用だったから、上手く飛べずに墜落するかもしれない。
 先行する[戦乙女{ヴァルキリー}]の隊列から遅れること十数秒――
 [戦乙女{ヴァルキリー}]が一人。ひときわ大きな白い翼をバタバタさせて空で溺れていた。
 なにやってるんだアレは。曲芸飛行の練習にしたって空中を右往左往しすぎじゃないか?
 あんな不格好な飛び方をする[戦乙女{ヴァルキリー}]は初めてだ。飛んでいるより墜ちているという方が正しいくらいだ。
 つい注視して、苦しさを忘れてしまった。
 青い髪は背を覆うほど長い。頻繁に上昇と下降を繰り返し、先行する[戦乙女{ヴァルキリー}]たちとの距離がますます開く。
 少女は前にその場で白い翼を大きく開いて、深呼吸でもするようにホバリングする。が、だんだんと高度が落ちていく。
 そんな[戦乙女{ヴァルキリー}]と一瞬――目が合った気がした。
「あああああッ! 見ないでください! 恥ずかしいです! やれば出来る子なんです私って! ああ、人間にこんな姿を見られるなんて[戦乙女{ヴァルキリー}]の威厳がああああああ!」
 天高くから少女の凛と通った声がオレの頭上に降り注いだ。
 威厳を気にするにはいささか手遅れじゃなかろうか。
 目を細めて手を振ると、[戦乙女{ヴァルキリー}]は「違うんです誤解です本当はすごいんです!」と、激しく翼を羽ばたかせた。なんとか高度を上げようと必死である。
 野営地の兵士たちも次々に、彼女を指さしたり首を傾げたり。中にはドッと笑う連中もいる。
「み、見世物じゃないですからあああああああ!」
 墓穴を掘ってる場合じゃないだろう。ほら、がんばれがんばれ。
「ふおあああああ! がんばれ私! 負けるな私いいいいッ!」
 [戦乙女{ヴァルキリー}]の乱高下がようやく収まった。
 へろへろになりながら再び宙を舞い、落ちこぼれの[戦乙女{ヴァルキリー}]が遠くの空へと飛んでいく。
 それにしても驚いたな。神の眷属にも落ちこぼれがいるなんて。
 あの[戦乙女{ヴァルキリー}]には悪いと思うが、そっと声を出す。
「なにやってんだありゃ? ……でもまぁ最後に少しだけ愉快なものを見られたな」
 絞り出すような声は小さく荒野を吹く風に消えた。
「……そうか……もうダメか。とっくに……限界だったんだな……オレ……」
 いつもなら、そろそろ魔法薬の在庫が心配になる頃だ。調合の手順を決めておかなければならない。当然の如く睡眠時間が削れそうだ。ジョシュアに必要な物資の発注リスト作りを手伝ってもらうのも欠かせなかった。
 きっともう、どれもできないのだろう。せめて無様に亡骸を晒さぬように自分のテントに戻りたい。
 中は小瓶が散乱したままだ。片付けておけば良かったと後悔した。
 一歩踏み出そうとする……が、足が動かない。力が入らない。
 空が……灰色だ。
 瞬きする間に世界が全部モノトーンに染まった。
 下半身の感覚が消失する。身体が傾く。地面に引かれるままにあらがえない。
 水の中にいるみたいに、なにもかもがゆっくりしていた。
 転倒する。顔面で大地を受け止める。その痛みすら感じることができぬままに。
 口から何かが溢れていくのがおぼろげにわかる。色も温度も感触も失った世界では、自分が血を吐いたことすら実感が湧かない。
 遠くでマグカップを放り投げジョシュアがオレの名前を叫んでいた。
「ネクロさん冗談ですよね! ちょっ! なにやってるんですかこんなところでいきなり寝ないでくださ……ネクロさん? ネクロさん⁉ ネクロさんってばッ!! なんで血なんて吐いてるんですか⁉ 早く治癒魔術を自分に施してくださいってば!」
 それはもうこの一ヶ月、自分の身体を持たせるためにやり続けてきたことなんだ。
 駆け寄ったジョシュアが涙をためてオレの身体を揺さぶった。
「いやですよこんなの! もっとたくさん教えてもらって、少しでもネクロさんの役に立ちたいって思ったのに……どうして……どうしてッ⁉」
 風の音も青年の声も途中で途切れて消える。
 泣くなと言ってやりたいのに声が出ない。頭を撫でてやろうかと思ったが、自分の力で身じろぎすらできない。
 苦しい。止めどなく血が溢れ出る。呼吸が止まり意識が薄らいでいく。
 なあジョシュア。オレを仰向けにしてくれ。
 灰色に染まっていても、空が見たいんだ。
 目の前が暗くなる。もう空も地面も区別がつかない。
 ……姉貴。オレ……救えたかな?

「救えたとも。そして……これからも救ってもらうぞ」

 少し舌っ足らずな少女の声が応えた気がした。
 死ぬ間際に人間は過去の走馬灯を見るというのだが、オレに見えたのは光輝く小さな人の影だ。
 神を信じないオレの前にも神は現れるとでもいうんだろうか?

 

 2.[鶴の一声{トップダウン}]の採用枠

 頬にひんやり冷たい感触が広がった。重いまぶたを開く。
 ゆっくりと身体を起こした。すぐには立ち上がらず座り込んだまま周囲を見渡す。
「どこだよ……ここは」
 野営地でも仮設診療所のテント前でもない。
 光射す真っ直ぐな回廊だ。
 磨き上げられた純白の大理石が敷き詰められ、白亜の柱と柱の隙間から光が差し込み、外には雲海が広がっていた。
 床は鏡のようにツルツルだ。そこに映った自分の顔に違和感を覚えた。手入れする暇もなく生えっぱなしだった無精髭が消えて、つるりとした剥き卵のような顎をしている。
 目には生気が宿り目尻のしわもさっぱり消えていた。
「なんか……若返ってないか……オレ?」
 顔の作りはそのままに、くたびれた感じが排されて生まれ変わったかのような顔つきだ。
 訳がわからない。が、このまま自分の顔をまじまじ見ていてもらちがあかないな。
 視線をあげる。回廊の先に観音開きの扉が見える。
 オレはどうしてこんな場所にいるんだ?
 耳を澄ませば水の流れる音や小鳥の歌う声が、かすかに聞こえた。
 深呼吸する。空気は清浄で息苦しさとは無縁だった。
 立ち上がる。
 振り返れば白い壁がそびえ立つ行き止まりが、前方三十メートルのところに立っていた。
 どこともつながってない回廊なんて意味ないだろ。建築設計者出てこい案件である。
 などと思ったところで……白壁がガラガラと崩れ落ちた。大理石の床も柱も剥離するようにバラバラになり、雲海に落ちて消える。
 何の前触れも無く始まった崩壊が狙い澄ましたようにオレの足下に迫った。
「うおわああああああああああ! 動けよオレの足いいいいいい!」
 床を蹴って走る。すぐ後ろにまで崩れ落ちる音が近づいてきていた。出口とおぼしき正面の扉まであと二十メートル。踏み出した先の床が落ちないことを祈って駆け抜け、近づき、扉に手をかけ開く。身体を投げ出すように中へと飛び込んだ。
「ハァ……ハァ……死ぬかと思った」
 振り返ると扉は一人でに消える。まるで夢の中だ。
 飛び込んだ室内も相変わらず白亜の宮殿然としていた。
「死ぬかと思ったとは皮肉だのうネクロよ」
 凛と響く声に気づいて前を向く。
 目の前に玉座があった。金髪ロリ美幼女が座っている。
 声の主はコイツのようだ。
「誰だよオマエ?」
「なにッ⁉ 見て解らぬというのかッ⁉」
 驚かれたことに驚きだよ。
 幼女は濃紺の身体にぴたりと吸い付くような服に身を包み、マントをしている姿は控えめに言って露出狂である。だが、そのシルエットには見覚えがあった。事切れる寸前に見た幻影の人影だ。
 彼女が座る玉座の背もたれの両端に、カラスが二羽とまっていた。片方は黒。もう片方は純白だった。白いカラスなんて珍しい。初めて見たな。
 訳もわからぬままオレが白いカラスに見とれていると、幼女がムッと口をとがらせた。
 すらっとした足を組み、肘掛けに腕を乗せ頬杖をつきながらため息を一つ。
 なんだか不機嫌そうだ。
 彼女は左目に眼帯をしていた。右の碧眼がこちらを値踏みするように見つめる。
 薄桜色をした唇がゆっくり開いた。
「我はオーディン。主神である」
「はぁ? 噓つくの下手くそか?」
 不死隊の連中から聞かされたオーディン象とは似ても似つかぬ幼女ぶりである。共通しているのは眼帯にマントくらいなものだ。
「噓ではないぞ? どこからどうみても主神そのものではないか?」
「ガキんちょが偉そうになに言ってんだ?」
 自然と声が出た。死ぬ間際の息苦しさがまるで?のようだ。幼女はフンッと鼻を鳴らす。
「そういう貴様も未成年ではないか?」
 自分の顔にぺたぺたと触れてみる。かさついた肌がみずみずしさを取り戻していた。先ほど磨かれた床に映った姿と相まって、幼女の言葉につい頷いてしまう。
「確かに……って、どうしてこうなった⁉」
 幼女がにんまりと口元を緩ませた。
「我に導かれし者は最高の状態となるのだ。貴様は才能と魔力と肉体が充実していた十八歳に若返ったというわけだ」
 自称主神オーディンはやれやれと肩を軽く上下にさせた。
 まさかと思ったが、死ぬ寸前の苦しさが消えて、こうして普通に話もできていることを考えるとそうなったのだと考えざるを得ない。
 念のため自分の頬をつねってみる。なんてことはなく普通に痛かった。
「ずいぶん古典的な手法だのう」
「うるせぇよ! つーか……さっきの床が落ちる回廊もオマエの仕業か? だったらしばくぞ! つーかなんで若返ってんだよ⁉」
「むしろ感謝するがいい。なかなか来ぬから背中を押してやっただけではないか? しばこうなどとはもってのほかだ」
 自称主神はにんまりと口元を緩ませた。悪い夢でも見ているんだろうか。
「おいガキんちょ。ここはどこだ?」
 改めてぐるりと周囲を見渡す。玉座の広間は金銀財宝をちりばめたような装飾で、絢爛豪華なること地上のものとは思えない。
 吹き抜けになった軒先の庭園には泉が湧き出し、滝が落ちて虹をきらめかせていた。
 小鳥が歌い花々は咲き乱れる。
「ここは天界アスガルド。貴様は死んだ。だが悲しむことはない。生にはいつか必ず終わりが来る」
「死んだってオマエ……ああ……やっぱり死んだのか」
 そっと視線を自分の右手に視線を落とす。握って開いてを数回繰り返した。生きていた時と変わらない。
 肉体があることが意外だった。世間一般で言われている死後の世界――魂が大樹に還るというのとは違っているようだ。
「ずいぶんと落ち着いているではないか?」
 幼女は口角を上げて不敵な笑みを浮かべた。そのまま続ける。
「貴様が生前に積んだ善行は英霊資格を得て余りある。我が直々に召喚するなど実に千年ぶりの快挙だぞ。光栄に思うが良い」
 幼女は自信満々に板状の胸を張る。見た目に反した神様らしい上から目線の物言いだ。正直、イラッとする。頼んでもいないのに快挙じゃねぇよ。なにより英霊って言葉がオレは大嫌いだ。
「何が英霊だよ。その言葉に騙されて何人死んだかわかってんのか?」
「騙してはおらぬ。現に貴様のように英雄たる資格を持つ者を迎え入れておるではないか」
「なりたいのになれなかった連中は資格が無かったから諦めろっていうのか?」
 敵意と抗議を込めて睨みつける。が、主神と名乗るだけあってか動じない。意にも介さず幼女はゆっくり頷いた。
「当然だ。しかしながら戦場で命を失った者たちの慰めにはなっているだろう。天界に迎え入れられるかもしれないと、希望を持って死を受け入れられるのだからな」
 神が詭弁を弄するのかよ。だが……認めたくないという一方で幼女の言葉には一理ある。自分は精一杯やったのだと思って死ねた人間も多かったのかもしれない。
 それでもオレは主神だの英霊だのは大嫌いだ。生き残ろうという意思さえ摘んでしまいかねない考え方を治癒術士のオレが認めるわけにはいかなかった。
 じゃあ、なぜオレはこの場所に呼ばれたんだ?
「仮にオマエがオーディンだとして、主神様がいったい何の用だ?」
「貴様には英霊……エインヘリアルになってもらおうと思うのだ」
 何を言い出すのかと思えば、よりにもよってエインヘリアルだと⁉ ふざけるのも大概にしろ。
「はあ? エインヘリアルってのは前線で戦って死んだ戦士がなるもんだろ。オレは治癒術士だ!」
 幼女は人差し指をピンと伸ばして「チッチッチ」と左右に振った。
「戦って敵を倒すばかりが英雄ではない。救った人数で言えば貴様は大英雄と言って差し支えなかろう。命すらなげうち救い続けた貴様を大英雄と言わずしてなんとする?」
 玉座を宿り木にしていた白黒カラスが交互に「カー」と鳴いた。
 いきなり大英雄ときたか。死んだだけでずいぶん持ち上げられたものだ。幼女は目を細める。
「どうだ? 主神たる我に大英雄と称えられて嬉しくはないか?」
「別に喜んでないぞ」
 と返してはみたものの、実は褒められるのに割と弱い。おだてられて気をよくした結果、利用されるのもしばしばだった。いや、それでも大英雄なんて響きは性に合わないが。
 主神はゆっくり腰を上げた。玉座から立ってもさほど全高が変わらない。
 幼女が上目遣いでオレをじっと見つめる。
「その割に顔が赤いぞ。死んでもツンデレは治らぬようだ」
「うるせーよ。言っとくがオレは神が嫌いだ。特に魔術と予言と戦争を司る主神様とやらがな。オマエが煽ったおかげで戦士兵士が『死ぬのは誉れ』とか勘違いしてんだぞ」
 プロパガンダで煽りまくったオマエこそ人間の敵じゃなかろうか。
 こんなヤツにたぶらかされたおかげで、前線の連中をぶん殴ってでも治療しなきゃならなくなったんだ。面倒を増やしやがって。何が主神だふざけるな。
 眼帯幼女は腕組みをすると「ふむ」と小さく頷いた。
「戦いがなければ貴様は類い希なる治癒術士の才能を発揮できぬではないか? 人を救うことで人に頼られ求めらるのは至上の幸福だったであろう。治癒術は尊敬という甘美な美酒を味わい、人の命を己の天秤にかけて神のごとく振る舞えるのだからな」
 治癒術士にそういった一面があることは自分でもわかってる。
「否定はせんがオレがやりたいことをやったまでだ!」
 返答に幼女は腕組みすると満足げに頷いた。
「正直でよろしい。貴様の今後の働きには期待しておるぞ」
「働きってオマエ……勝手に決めるんじゃねぇよ! 死んでまで働けっていうのかッ⁉」
 幼女がスッとオレの顔を指さした。
「貴様は激レアな回復担当のエインヘリアルだからな。連日の訓練で傷つき疲弊している他の戦士系エインヘリアルたちの治癒を頼む。生前の行列の十倍はこなしてもらう予定だ。たっぷりと経験を積んでもらうぞ」
「バカじゃねぇの! ここまでの会話の流れを理解できてんのか? オレはオマエが大嫌いなんだよ! そんなヤツの言うことなんぞ聞いてられるかッ!!」
「死にたてほやほやの小童が好き勝手に抜かしおってからに」
 幼女が小さな肩をプルプルと震えさせた。
 死んだと思ったら生前の十倍の仕事をさせられるなんて、こっちこそキレそうだ。
 オレの肩が怒りに震える。幼女がこちらの顔を指さした。にらみ合い視線で火花を散らしながら、奇しくも同時に口が開く。

「「さっきから下手に出てりゃケンカ売ってんのかこらあああああ!!」」

 戦いは同レベルの者で以下略。
 幼女と猫のケンカよろしく「ふしゃー!」っと吠え合うとは、人生死んでからもなにがあるかわからない。
 オレと主神のヒートアップにあてられたのか、玉座の背もたれを止まり木にしている二羽のカラスが「カーカー!」と騒ぎだした。
 いや、白いカラスがバッ! と翼を広げ、黒いカラスが「カー!」と鳴く。
 バッ! カー! バッ! カー! バッ! カー! バッ! カー!
 二羽がじっとオレを見据えた。
 カラスなのにドヤ顔なのが手に取るようにわかる。二羽まとめて焼き鳥にしてやろうか。
「テメェらも売ってんな? 死者にむち打つ神の国め! とっとと滅びろ」
 オレが中指を突き立てるとオーディンが子犬のように吠え返した。
「貴様が我を滅するなどとは笑止千万!」
「やってやろうじゃねぇかこっちはもう死んでるんだ! 怖いもんなんかねぇからな!」
「主神たる我に従えええええ! 大人だろおおおお!」
「オッサンから十代後半に若返らせたヤツが都合の良いこと言ってんじゃねぇよ!」
 だいたい、そういうオマエは創世の頃から存在し続けている神だろうに。人間の大人よりずっと大人であるべきだ。
 オーディンの右の瞳にぶわっと涙が浮かんだ。
「神で眼帯幼女で見た目だけはいいからって、泣いて頼めばなんでも許されるとか思ってんじゃねぇぞ」
「ううぅ! 生前貴様がモテなかったのもそういうところだからな! 性格だからな! 彼女いない歴=年齢の小童のくせにぃ!」
「あああああああああ! 神様なのにすっごいひどいこと言った! こちとら修行に忙しくて恋なんてしてる時間なんて無かったんだよ! 気づいたら四十手前だったんだふざけんな! テメェ尊敬されない神ランキング第一位おめでとうございますだぞ!」
 年齢の話もオッサンの事もいい。許そう。だが童貞だけは例え神だろうと、触れてはならぬ禁忌だろうが。
「き、貴様がもっと我を尊敬せぬのが悪いのではないかああああ! 尊神精神の欠片もないやつめ! そんな人間は不死者になってしまうぞおおおお! うううおおおおああああああああん!!」
 フシ……なにになるって?
 ともあれ幼女主神はギャン泣きだ。コイツに威厳があるのか無いのかわからなくなってきた。
 ともあれ子供を泣かすのはよくないが相手は神である。泣いた方が悪い。
「はい泣いたオレの勝ち。オマエ弱いねぇざーこざーこ雑魚主神」
「ふひいいいいいいい! ころす! もうころすううう!」
「死んでる人間をどうやって殺すって?」
「二人だけの最終戦争だ! グングニルをもてぇい!」
 グングニルとはたしか主神が操る伝説の槍の名だ。聞いた話じゃ威力は絶大にして必中。もし呼び出せたのなら本物のオーディンと認めてやらなくもない。
「もてぇいじゃねぇだろ。グングニルってのは投げれば必中呼べばその手に戻ってくる名槍だよな?」
「はっ……そうだった。貴様よく主神のことを勉強しておるではないか。ま、まさか我の隠れファンなのか? このツンデレさんめ! 意外と可愛いところがあるのう」
 なぜ先ほどからオレはツンデレ扱いされるのか、これがわからない。
「勘違いすんなよ。治療してる時に死にかけ傭兵どもが念仏みたいに唱えてるんで、うっかり覚えちまっただけだ。ほら呼んでみろよ? ガキ主神のグングニルがどんだけしょぼいか楽しみだ」
「ぐぬぬ! ぬかせ小童! カモン! グングニル!」
 少女が白くか細い腕を天に掲げると――
 ズガンッ!
 と、宮殿の天井に大穴を空けて槍が彼女とオレとの間に降ってきた。
 ああ、お空綺麗。
 視線を空から戻す。槍の着弾地点がクレーター化していた。磨き上げられた鏡のように、スカートの中身まで映してしまいそうな大理石の床を一撃粉砕かよ。
 呼び出しただけでこの威力とは……本物か?
 少女は「ちょっとズレた。こっちこっち」と手招きする。美しい魔槍は一人でに抜けると少女の手にスッと収まった。
 槍の全長が幼女よりもはるかに長いので、ずいぶんとアンバランスで取り回しにくそうである。
「じゃあ刺すぞ? 良いな小童」
「じゃあじゃねぇよ。なんのついでだよ」
「我をオーディンと信じなかった罪とロリコン罪で処す」
「後者の罪の自覚はないんだが⁉ というかもうすでに死んでるんだがッ⁉」
「罪状は前者だけでも充分だろうに! 殺れ……」
 オーディンが槍の柄からそっと手を離すと、グングニルはギュンと空気を裂いてオレの眼前に迫った。
 槍というよりリードを手放された猛犬だ。
 切っ先とにらみ合い棒立ちのオレに幼女は腕組みをして頷く。
「ふむ。臆することなしか」
 単に速すぎて反応できんかっただけなんだが。
「まあな。死んでるし」
 グングニルの切っ先がオレの鼻先からゆっくり引いていく。槍は一人でに玉座の脇に立てかけられた。
「なあ主神様……どうしてオレなんだ? オレよりもたくさんの人間を癒やし、立派に務めを果たして死んだ治癒術士は他にもいるだろ?」
 幼女の表情が引き締まった。
「彼らは戦場から遠すぎた。我が理想を叶えられるのは貴様だけなのだ」
 つい今し方までのキャンついた空気が凛として引き締まる。不思議とこちらの背筋まで伸びた。一拍おいて呼吸を整えてから訊く。
「神様にも叶えたい夢みたいなものがあるのか?」
 コクリと幼女は頷いた。真剣な眼差しがじっとオレの顔を見据える。
「貴様の理解を得るためには、本来の我を知ってもらう必要がある。他のエインヘリアルには見せてはいない真の姿を見せる時が来たようだ」
 少女は虚空をぎゅっと握る。まるで周囲の風景が映ったカーテンでも掴んだかのように空間が歪んだ。
「そぉい! っと」
 掛けられた布を外すように主神が空間を歪めると――
 荘厳な神殿の風景が一転、小部屋に変わった。
 ベッドと机と、なにやら面妖な箱のようなものが机の脇に置かれている。
 窓の外には雲海が広がり、出入り口は一つだけ。
 ベッドはピンクのふりふりで動物を模したモフモフっとしたぬいぐるみが、クッションよろしく山盛りである。
 机にはルーン文字が並んだ板が置かれ、天板の上にはなにやら長方形の四角い石版が立っていた。
 ルーン文字の板が色とりどりに発光して物々しい。
 オーディンの座っていた玉座も荘厳なものから、黒い籐(?)を編んで作ったような背もたれのカスカスっとしたものへと変わっていた。
 材質が木も金属でも石でもない、なんとも不思議な椅子である。
 そのままなのはオーディン本人とカラス二匹とグングニルだけ。
 グングニルの空けた天井の穴も床のクレーターも幻のごとく消えていた。
「なんの冗談だこれは。宮殿はどこいった?」
「さっきまでのが幻で、こっちが本来の我が愛しき引きこもり部屋だ。宮殿スキンの幻術はエインヘリアルとの謁見にしか使わぬからな」
 オレは目が覚めてからずっとオーディンの幻術に囚われていたらしい。
 椅子に座って少女はくるくると回る。なんとこの椅子、座面が水平方向に回るだけでなく、背もたれが後ろに適度に倒れたり足に小さな車輪がついていて自在に動くのだ。
 光るルーン文字の板といい、神の力によるものだろうか。
「ふっふーん♪ これらの魔導器は最新のものでな。ラタトクスネットワークも光の速さなのだ。低遅延で対戦遊戯ができるのだぞ。うらやましかろう?」
「光ってて派手だなぁくらいで、何がどうすごいのかわからんのだが。これを自慢したかったのか?」
「それもある」
 幼女はエヘンと胸を張った。
「それもあるって言うやつの十割が『も』の方がメインな件について」
「う、う、うるさい! 神の心を見透かすゆな不届き者め! 困ったやつ……だが選ばれし者ネクロよ。貴様には今後、天界において大事な役割を担ってもらおうと思うのだ」
 大事な役割だと? そんなものを押しつけるんじゃねぇよ。ふつふつと怒りが再沸騰した。
「だからやらねぇって言ってるだろ。うさんくさい主神なんかと一緒にいられるか! オレは土にでも大樹にでも還えらせてもらう」
 出入り口の扉のドアノブに手を掛ける。これ以上付き合ってられるか。
「待て待て待て待て待て待て待て! そう急くな。我の許しなく自らの意思でその扉から出てはならぬ。不死者になりたいのか貴様は?」
 ずいぶんと焦ってるな。そんなに外に出られるのが困るのだろうか。不死者ってのが何かは解らないにせよ、コイツにとって都合が悪いことには違いない。
「うるせぇオレに指図すんじゃねぇよ神様ごときが」
「聞けネクロよ。一度しか言わぬぞ! 我は貴様が欲しい。他の者には渡したくないのだ!」
「欲しいってオマエ……」
 人間は現金なもので、好きだの欲しいだのと言われるとコロッと転んでしまいそうになる。
 落ち着け冷静になれ。生きていた頃も、同じような口説き文句で前線近くに送り込まれたんだ。
「万民を救えるのは貴様のような男なのだ。我が夢の……共犯者と書いて友となれ」
 まるで悪いことのように言うオーディンだが、ふざけた素振りは欠片もない。
 このちびっ子主神がそこまで叶えたい夢とはいったいなんなのだろうか。
「オマエの……主神様の夢ってなんだよ?」
「世界の平和的な存続だ。そのために貴様の力が必要なのだ」
「戦争を司る神とは思えないんだが?」
 幼女の瞳の奥が悲しげに揺らぐ。
「この先、神と巨人族との間でミッドガルズどころか九界を巻き込んだ最終戦争が起こる……かもしれれぬのだ。我にちょっかいを出してくる粘着陰湿巨人族がおってな」
 幼女らしからぬ愁いを帯びた表情だ。
「そいつと戦争になるっていうのか?」
「うむ。我は遊戯の戦争は良いがガチ戦争は好まぬ。とはいえ世界に混沌を広めようとする粘着巨人族に手をこまねいてはおれぬ。エインヘリアルを集め競わせ切磋琢磨させておるのも、不測の事態への備えなのだ。神であれエインヘリアルであれ最終戦争ともなれば死ぬこともあるからな」
 戦の神が戦争を望まないというのはにわかに信じがたかった。ともかくわからないことだらけだ。
「神が死ぬってのも眉唾だが、一度死んだエインヘリアルが死ぬってどういうことだよ?」
「大樹の循環より外れるのだ。待つのは魂すら残らぬ消滅……完全なる無でしかない」
 多少舌っ足らずな幼女の言葉が重く感じられた。
「神様にも悩みがあるんだな」
 眉尻を下げていたオーディンの表情が晴れの日のように明るくなった。
「おお、解ってくれるかネクロよ。やはり貴様は我が見込んだ男だ」
「持ち上げるなよ。残念だがオマエの夢の手伝いなんてできないぞ。オレは自分の限界もわからずに死んじまった、ただの治癒術士だ」
「非力な人間の身では足りなかった……つまり、世界を守れるだけの力があれば手伝ってくれるのだな?」
「何言ってんだガキんちょ?」
 ゆっくり三回呼吸を整えて、どことなく緊張した面持ちでオーディンはオレに告げた。
「決めたぞネクロよ! 貴様を神にしてやる」
「してやるってオマエ……正気か⁉」
 そもそも人間を神にすることが可能なのか? 困惑するオレを置いてけぼりにするように主神は語った。
「人間を神にするのもまた一興。そうだな……貴様のような男が現れるのをずっと待っていたのかもしれぬ。いずれは我に代わって主神となれネクロよ」
「はぁ? だからなに言ってやがるんだ?」
「我もやっと肩の荷が下ろせそうだ」
 幼女は椅子からぴょんっと降りると胸を張りオレを見上げた。どう返答していいのか迷っていると、彼女はたたみかけるように言葉を続けた。
「素質も才能も折り紙付きだ。我も貴様が立派な主神になるまでは手を貸してやるから! どのような神となり世界を導くかは貴様の自由だぞ」
 オーディンは瞳を夢を語る者特有のキラキラとした輝きに溢れていた。
 コイツはオレを本気で神様にしようっていうのか? 世界を導く自由っていうのはつまり、オレの望む通りになんでも願いが叶うってことだろうか。
 そんな危なっかしい権限を人間に譲渡するんじゃねぇよ迷惑だ。
「オレが私利私欲に走って世界を無茶苦茶にしたらどうすんだよ?」
「貴様がそれを出来ぬ事はこの面会を通じてよくわかったぞ。主神たる我に臆することなく対等に言葉を交わしたことも評価しておる」
「今は良くても権力を握ったら変わっちまうかもしれんぞ?」
 そういった人間をこれまで何人も見てきた。勝手に信用しやがって。オレだって例外じゃないんだ。
「もし貴様が神ではなく巨人族のようになったなら、我に見る目が無かったまでのことだ」
 どうしてオレにそこまで期待するのだこの幼女主神は。
「オマエの目は完全に節穴だな」
「謙遜か? 不安か? 神などいらぬという人間が、いざ神になるのがそんなに怖いのか?」
「自信の有無の問題じゃねぇよ! さてはオレに主神の責務を全部おっかぶせて隠居しようって魂胆なんだろ?」
 幼女の右眉がピクンと動いた。
「よく理解できているではないか。代わりに貴様の妻になってやろう。神であれば対等な相手が必要だ。となると我をおいて他に伴侶となるものはおらぬ」
 なんなんだコイツは。人間のオレを神にするなんてそれだけでも無茶苦茶なのに、妻ってオマエ……度しがたいほどの強引さだ。引いたら一方的に婚姻を結ばれかねない。
「だ、誰がオマエのような幼女なんぞ好きになるか! 冗談じゃねぇッ!」
「我は本気で愛する準備ができておるぞ。万民を救いたかった男など、そうそうおらぬからな」
 目を細め幼女は両腕を広げた。小さな身体で目一杯オレを受け入れようというのだ。
 だいたいだな……こいつが言うほど立派なもんじゃない。
 オレは結果的に人助けをしてきたが、結局のところ治癒術士の才能があったからだ。
 料理の才能があれば料理人になっていただろう。
 持てる力の最適解。有効利用。最善策。万民救済なんて無理な話だ。
 自分にできることを自分のできる範囲内でやってきた。
 訂正、範囲内ってのは違うな。許容量を超えて死んだんだし。
 けど、そうするしかなかった。世間の荒波に流れ流れされ漂着し、世話になったイェータの町の冒険者ギルド。そこのギルド長に泣きながら頭を下げられて、あの時はオレもどうかしていたと思うけど、前線支援の依頼を契約しちまったんだ。
 動かないオレに主神は広げた腕を降ろすと悲しげにうつむいた。
「しょうがない。そこまで言うなら貴様の本当の望みを叶えてやる」
 やっと諦めてオレを眠らせてくれるのか。神にしてやるなんて無茶ぶりもいいところだ。
「ふぅ……ようやく理解したか」
「しゃがんで身をかがめてはくれぬか? ギンちゃんムニちゃんには聞かせられぬ内密の話があるのだ」
 ぐるりと見回しても小部屋にいるのはオレとオーディンだけだ。
「ギンちゃんムニちゃん? 誰だそりゃ?」
 幼女が椅子の背もたれを止まり木にしている二羽の白黒カラスを指さした。
「優秀だが融通の利かぬ部下達でな」
 会話の流れに合わせてオレをバカにしてきたコイツらは、ただのカラスではなかったようだ。そんな連中に聞かれて困る話とはなんだ?
 視線をカラスたちに向ける。二羽とも不思議そうに首を傾げてオレをにらみ返してきた。メンチ切ってんじゃねぇよやんのかコラ?
 にらみ合いを止めるように間に入り、オーディンの隻眼がオレに懇願した。
「これが我の最後の願いだ。どうか聞き届けてくれネクロよ」
「本っっっっっっっっ当に最後だろうな?」
 幼女はコクコクと二度、頷いた。
 しぶしぶ跪く。視線が同じ高さになると、オーディンはオレの顔に抱きついてきた。耳元で囁く。
「どうじゃ主神の抱擁は?」
「見た目に違わぬ不毛の大平原だな」
「このフラットなボディの良さが解らぬとは無粋なやつめ」
「うっせーよ。言いたいことがあるなら早く言え」
「実はな……」
 チュッ……と、音を立ててオレの頬にぷにっとした柔らかい粘膜が触れた。
 不意打ちが過ぎる。
「なにしやがる⁉」
「喜べ。神の力を授けてやったぞ。生きようとする意思こそ魔力の源泉だ。これで貴様もエインヘリアルの中でも特別な存在となった。万民を救う神に近しき力を持ったことを誇るが良い」
 うおおおお力が漲るううう……わけでもなく、何が変わったのかよくわからない。なにが生きようとする意思だ。
 オレはそっと幼女の脇の下に両手をすべりこませ、よいせっと持ち上げると彼女を玉座に着席させた。
「じゃ、オレはそろそろおいとまするんで」
 と、言ったところでどこに行くのか見当もつかない。扉を抜ければ魂が大樹に導かれるのだろうか。
「ま、待て待て! ああええっと……そうだ! 神の力の使い方に興味はないか? 例えば貴様の姉にも会えるやもしれぬぞ? 生前に幾度となく姉の事を気に掛けておっただろう? ギンちゃんとムニちゃんから報告が上がっておったぞ」
 白黒カラスが声を揃えてカーと鳴く。
「姉貴を知ってるのかッ⁉ 姉貴がここに来たのかッ⁉ 姉貴はどこだッ⁉」
 オーディンの肩を掴む。幼女の顔に「しまった」と書いてある。
「焦るでない。落ち着けネクロよ。少なくともここにはおらぬ」
「ならなんで姉貴の話なんてしたんだ?」
 オレを引き留めるためだったなら、残念ながら……効果てきめんだ。
「貴様の姉が非業の死を遂げたのは、もうかれこれ三十年も前のことだ。魂は大樹を通じて別の命として蘇っておるだろう」
「今、どこで何をしてるのか調べられないのか?」
「会ってどうする? 貴様の姉はもはや別の人生を歩んでおるのやもしれぬのだぞ?」
 右の拳をぎゅっと握り込む。
「一目でいいんだ」
 もし願いが叶うなら、姉貴に会って謝りたかった。あの日、一緒にいられなくてごめん……と。守れる力なんてなかったけど、守ってやれなくてごめん……と。
 だが、死んだらまた会えるなんて都合の良い話はここには無かったようだ。
 目の前に一枚の扉があった。ここから出てどこにいく? 道が続いているかすらわからない。それでもとどまるよりはいくらかマシだ。
「死んでまで働かされて、そのうち自分が嫌っているもんに無理矢理させられるなんてやってられるかやって」
 背後から声が呼び止める。
「ネクロよ! 我の誘いを受けよ! 神となれ! そして我とともに歩むのだ! でなければ貴様は……貴様ほどの強い魂はッ!」
「悪いがオレは……やっぱり神になんてなれねぇよ」
 ドアノブに手を掛け扉を開け放った瞬間――
 目の前が真っ暗に閉ざされた。完全なる闇だ。振り返るとそこには何も無い。
 五秒前まで騒がしかった世界が沈黙した。
 今度こそ本当に死ぬんだな。肩の荷が下りた気分だった。

 

 3.死んで屍コンプライアンス無し

 瞬きと同時に視界に風景が飛び込んだ。
 闇の中に放り出された浮遊感は消えて、しっかりと地に足をついていることに気づく。
 辺りに広がる紫色の霧。澱んだ空気は腐敗臭にまみれ、そこかしこでゴポゴポと毒の沼が湧きあがる。
 一目見てわかる地獄感。
 神の手を叩き払ったオレは、地獄だか奈落だか黄泉へと落とされたのかもしれない。
 呆けたように立ち尽くしていると、どこからか黒い霧が集まってきてオレの目の前で人の姿を形取った。
「今度はなんだ? もう何が出てこようが驚かんぞ」
 脱皮でもするように人型の黒い皮膜がずるりと抜け落ちる。黒髪ロング巨乳のタイトドレス美女が中から姿を現した。
 つばの大きな帽子に肘まで包む黒いシルクの手袋をしており、漆黒のドレスは身体のラインに吸い付くような薄布で素肌よりもなまめかしい。
 妖艶という言葉を擬人化したような貴婦人が、地獄の底でなにをしているのだろう。
「ウェルカムトゥ死者の国~! 来た来た来ましたわぁ♪ ネクロさまぁ?」
 こちらに両手を投げ出すようにして、ヒップラインのくっきりとした尻と腰を左右に振りながら女はにっこり微笑んだ。
 それにしても、また変なのが出てきやがったものだに。
 突き出した手をそっと両の頬に添えると、身をくねらせて美女はうっとり顔をする。
「そっちはオレを知ってるみたいだな」
「ええ存じ上げておりましてよ。ついつい興奮のあまり自己紹介が遅れましたわね。わたくしのうっかりさん」
 自分で自分の頭を軽く小突くと女は恭しく一礼した。前屈みになった途端、彼女の胸元がたっぷんと揺れる。
「わたくしはヘル。この死者の国ヘルヘイムで女王をしていますの。人間の基準で言えばそう……神族と敵対する巨人族ですわ。巨人族と対面するのは初めてかしら?」
 オレは小さく頷いて返す。巨人というからには見上げるくらいデカいのかと思っていたが、大きいのは胸と尻だけだ。とはいえ美女に見えても魔物の元締めである。
「人間は巨人族と遭遇することはあっても、再会することはない……って言われてるんだがな」
 出会った人間はもれなく殺されるらしい。
「あらぁん♪ 気に入った人間は、たっぷりかわいがったあとに逃がして恐怖の語り部にしてさしあげましてよ。それ以外はお察しくださいませ」
「悪趣味だな。で、その恐ろしい巨人族様がなんのご用件で?」
 美女の赤い唇がにいっと緩んだ。
「生前は治癒術士だというのに、わたくしたちの眷属をずいぶんと殺してくれたみたいですわね? 治癒術士という肩書きですけれど、ネクロさまってとってもお強いんですもの。うふふ♪」
 治癒魔術で自分を回復できるのをいいことに、結構無茶な修行をしてきたからな。今思えば身の丈に合わない荒行も寿命を縮めていたんだろう。
 すべては魔法薬精製のためだ。山や森で原料となる薬草を採取するにも弱いんじゃ話にならない。
 先んじて魔物の巣を潰して回ったのも今では良い思い出だった。こちらがせっせと作業しているところに奇襲を仕掛けてくる連中が悪いのである。
「倒された魔物の分の意趣返しか?」
 んふっと艶っぽい吐息で間をつなぎ、美女はゆっくり歩み寄る。豊満な身体をオレの身体に密着させて蛇のように腕を首に巻き付けた。胸のたゆんとした弾力が背中に押し当てられると、死んだ身であろうと男としては身動きがとれない。
 蛇に絡まれた……もとい睨まれたカエルである。
「仕返しなんていたしませんわ」
 絹の手袋が優しく頬を撫でる。ぞわぞわとした感触に肉体がビクンと反応してしまった。
「じゃあ絡んでくんなよ」
 物理的にも絡まってくるんじゃねぇよ。さっきから柔らかいものを押し当てやがって。
「そうはまいりませんの。わたくしの復讐に是非、ネクロさまには協力していただきたくて」
 女の手がオレの胸板をゆっくりと滑るように撫でてから、そっと離れる。妖しい百合の花のような残り香が鼻孔をかすめた。
「オマエもオレを働かせたいのか」
 美女は口元を手で隠すように「うふふ」と笑う。エロいのに品の良さがあるのが始末に負えない。
「ネクロさま……気づいていらっしゃらないようですけれど、とっても素敵な銀髪に赤い瞳でしてよ」
「は?」
 先ほど若返らされたと思ったら今度は銀髪? 赤い瞳? 何を言ってるんだこの美痴女は。
「鏡をご用意いたしますわね」
 虚空から手鏡を取り出すとヘルはオレの顔を映した。
 顔かたちは変わっていないが、髪は白髪というには光沢のある白銀色で、瞳の色が燃えるような赤だった。元の黒髪黒目はどこに行ったんだ?
「死ぬと色が抜けてこうなるのか?」
 ヘルはそっと首を左右に振る。
「じゃあ地獄に堕ちたから?」
「ここが死者の国というのは正解ですけれど、誰もが変わるのではありません。ほんの一握りの選ばれし者のみの特権ですの」
 死んでからのオレの評価はうなぎ登りだ。どうしてこうなる?
 困惑するオレのお気持ちなど意に介さず美女は嬉しそうに目を細めた。
「ぱんぱかぱ~ん♪ おめでとうございます。あなたは栄えある不死者となられたのです」
 丁寧な口ぶりで美女は笑顔を弾けさせた。ええと、ふし……不死者か。
 そういえばオーディンも、エインヘリアルにならなかったら不死者がどうとか言ってやがったな。
 俺の手を両手で包むように握ってヘルは続けた。
「わたくし、チビで生意気でぺったんこの眼帯小娘が本当にむかついてしかたありませんの! ネクロさまも上から目線にうんざりでしたでしょう?」 
「小娘……って、ああ、オーディンか」
 神族と対立する巨人族が恨む小娘といえば主神様だろう。というか他に知らん。
「名前を口にするのもおぞましいですわ。けど、もう安心。よく来てくださいましたわね。わたくしは不死者ネクロさまを歓迎いたしましてよ」
 なんだろうか。またしてもすごく嫌な予感しかしない。
「テメェはオレに何をさせようっていうんだ?」
 女が半歩近づき握ったオレの手を豊満な彼女の胸元にぴたりとあてる。手の甲ごしにツルツルとしたドレスの布地の感触と、はち切れんばかりのみずみずしい弾力が伝わってきた。
「ネクロさまには不死者として自由に、己の欲望のまま振る舞ってだきたいのです。破壊も殺戮も支配も蹂躙も思うままに。もし望むのであれば、わたくしがお相手してさしあげましてよ? あなたとの間に生まれた子が、たくさんの人間を殺すのも楽しみですし」
 美女はぬめった舌で唇を潤すように舐める。眼光は獲物を狙う肉食獣のそれだ。
 オーディンがマシに思えるヤバさじゃねぇか。
「もうオレのことは放っておいてくれ」
 ヘルはゆっくり首を左右に振る。
「そうは参りませんの。あの女から寝取ったエインヘリアルが不死者堕ちして地上を混乱にもたらすなんて、考えただけで……んふぅ……軽くイッてしまいそうですわね」
 むっちりとした大きな尻を振り腰をくねらせる。
 変態じゃねぇか。美人で巨乳なら大抵許されるけど変態が隠しきれてねぇよ。はみ出しすぎだよ。
「だいたいさっきから聞いてりゃ説明不足も甚だしいぞ。不死者ってなんだよ?」
「神を拒んだ英霊のリサイクル? 神の敵対者にして自由を謳歌する存在ですわ!」
「はぁ? 人の魂をなんだと思ってんだ」
「神への叛逆を選んだのはネクロさまでしてよ? まずは階位を贈りますわね」
 断りも無くヘルが胸に埋めるようにオレの手の甲をむぎゅっと押しつけ、離す。
「はい出来上がり♪」
 美痴女に解放された手の甲を確認すると数字が三つ浮かび上がった。
「なんだこの数字は?」
「証ですわ。これから不死者として地上に舞い戻り、その魂の力を神のためでもなく他者のためでもなく己のために使い、欲望の限りを尽くしてくださいませ」
「舞い戻りって……生き返れるのか?」
 一瞬ブルリと心が震えた。いやいやいや今更現世に未練なんてないだろ。けど……。
「ええ。それも嫌というのなら、死者の国の亡者となって自分自身がなにものだったかも忘れ、無意味な労働を続ける道もありますけれど。あまりオススメはできませんわね」
 ヘルの瞳が金色に光ると、周囲に漂う紫色の霧がゆっくりと引いていった。
 見渡すと亡者とおぼしき者たちが、穴を掘っては埋め直したり、巨大な石臼のような石柱についたハンドルをぐるぐる回したり、石を積んでは崩したりを繰り返す光景が広がった。
 あ~だのう~だのうめき声がかすかに聞こえる。とてもじゃないが、やりがいのある仕事には見えない。
「あのデカい石柱みたいな石臼は粉を挽いてるんだよな?」
「うふふ♪ ただ回るだけのおもちゃですわ。何も生み出さない無意味な行動を繰り返す。彼らの魂は地の底に囚われ大樹に還ることもなく永遠に救われませんわ」
 拒否すればオレも仲間入りか。
 天を仰いだ。紫色の霧がかかって蓋をしているようだ。ここに青い空は存在しない。
 今更オーディンの誘いを受けておけば……なんて思うか馬鹿野郎。やりがい搾取を押しつけられるのも、なにも生み出さない世界も両極端が過ぎるだろうに。
 死んでみてわかったことが一つ。人間の世界の人生って意外と悪くなかったんだな。空を飛べるような自由はなくとも、選択することはできたのだから。誰かの手のひらの上だったとしても……最後にオレが選んだという心は他の誰にも変えられない。
 生き返って地上に戻れる……か。
 ヘルは満足気に口元を緩ませた。
「最初は最底辺の666位ですけれど、あなたが地上でカルマを得るほど階位が上昇し、これが1位となった暁には、わたくしがなんでも願いを叶えてさしあげますわ」
「なんだよそのカルマって?」
「平たく言えば悪いことですわね。人間を殺したり財貨を奪ったり……それだけで世界には混沌が増していきますの? 不死者はカルマを積み上げ世界を混沌に導く存在でしてよ」
 コイツの目的は不死者を増やしてミッドガルズを無茶苦茶にすることのようだ。オーディンが望む世界の存続とは相容れない。すでに戦争で世界は疲弊しているのに、それで飽き足らないのかよ。
 だいたい――
「なんでも願いを叶えられる存在なら、オレになにかさせずに自分の願いを果たせばいいだろ。こっちを利用して騙す気満々じゃねぇか」
 女の姿が黒い霧に包まれ消えたかと思うと、背後に気配がぬうっと浮かび上がる。後ろからオレを抱きしめて耳元でヘルは囁いた。
「伝え方がよくありませんでしたわね。わたくしのできることならなんなりと……これでよろしいかしら?」
 これみよがしにぐいぐいぷにぷにと乳を当てるんじゃねぇよ!
「じゃあ死ねって言ったら死ぬんだな?」
「ええ、もちろんですわ。ネクロさまが1位になられるほどのカルマ……それがミッドガルズに満ちあふれる喜びに、わたくしは打ち震えながら絶頂死してしまうでしょう」
 頬と頬を密着させてスリスリするな変質者。
 さっきもこの距離感で不意打ちを食らったんだ。
 と、思った瞬間――ヘルの唇がオレの頬に吸い付くように密着した。
 天国も地獄も痴女しか勝たん
 ねっとりとしたナメクジの這うような感覚に背筋がぶるっとなる。
「おいこら舌で頬をつつくな! エロ女」
「あぁん? わたくしのはしたない舌使いを実況した上にエロ女と言葉で羞恥心を煽るなんて、ネクロさまのい じ わ る?」
 生暖かい吐息を交えつつ美女は耳打ちする。
「オレが悪いみたいに言うんじゃねぇよ! あと耳元に息を吹きかけるなゾクゾクしちゃうだろうがッ!」
 ヘルはそっと離れていった。オレは振り返り身構える。が、無駄な抵抗な気がしてならない。
 警戒しているつもりでも、いつの間にか接近を許してしまうオレのバカバカバカ。
 葛藤するオレにヘルは言う。
「儀式は済みましたわ。あとはミッドガルズに戻るだけ。不死者には敵も多いですし、くれぐれも戦乙女にお気をつけあそばせ」
「なんで急に戦乙女が出てくるんだよ?」
「あの小娘の下僕どもの仕事はエインヘリアル探しだけではありませんの。不死者討伐も任務に含まれていますわ。槍で心臓を貫かれれば死すら生ぬるい魂の消滅が待っていましてよ」
 そんなおっかない連中だったのか戦乙女って。人間の味方は巨人族や魔物の天敵ということだ。
 進むも留まるも地獄かもしれんな。
「つまりヘルよ。確認するが、オマエはオレを生き返らせて悪いことさせたいんだよな?」
 痴女はその場で軽く跳ねながら頷く。大ぶりな水蜜桃というか小玉スイカほどの肉球が薄布越しにぶるんぶるんと大暴れだ。
「えぇえぇそうですわ! 悪いことなどと肩肘張って難しく考えず、ネクロさまが好きなことをなさればよろしくてよ? 英雄だった人間ほど素晴らしい力を持った不死者になりますの。ほら自由~♪ はい自由~♪ わたくしは、あの女みたいに命令なんていたしませんわ。次の人生こそ、ネクロさまはその有り余る溢れんばかりの才能を、自分自身のためだけに使うべきでしてよ?」
 淀みなく噛まずにスラスラと言葉がなめらかに出るものだ。が、感心してばかりもいられない。
「こちとら生前はバリバリの治癒術士だぞ? 命を救っちまったおかげでエインヘリアルにさせられたんだ。他人を支配だの蹂躙だのとはならんだろうに」
 ヘルは指を一本立てるとオレの口元にそっと近づけた。
「本当に嫌でしたら早々に戦乙女に倒されてしまうのも自由でしてよ。そうなれば、ここにも戻ってはこられませんけれど。戦乙女の槍に貫かれた魂は消滅し、ネクロさまの願う真の安息と平穏が訪れるでしょう」
 ヘルはオレの口を閉じさせた指をそっと引き戻すと、ぺろぺろ舐め始めた。
「んふ? 間接的な接触でも興奮してしまいますわね。高潔なる魂の味がしますわ。しかもとんでもない魔力量ですこと。まるで誰かから分け与えられたような……これが汚れに汚れて戻ってくるのがとっても楽しみ♪ 熟成された悪意の塊が濃厚に匂い立つ立派な不死者になってくださいませ」
「やめろやド変態! 自由ってのは他人から与えられるものでも、ましてや押しつけられるものでもないんだ」
「やる気を出していただけませんのね」
「今更生き返ってどうするってんだよアアァン?」
 オラついてすごんで威嚇したところで相手は腐っても巨人族。
 ヘルは「きゃっ! 怖いですわ恐ろしいですわ! さすが新進気鋭の不死者の覇気ですわね」とおどけてみせた。
 こいつオーディンとは別の意味でイラッとするな。
 美痴女は眉尻を下げてオレに言う。
「ではやる気を出してもらうため、特別に一つネタバレをしてさしあげましょう」
「ネタバレだと?」
「かの国の戦争狂と呼ばれる人間の王は不死者ですの」
 ソル王国の狂王ハデルのことか? 王が不死者ってどういうことだ?
「はあっ⁉ 一国の王が……まさか……」
「ハデルがかつては優しい王だったというのはご存じかしら? 多大な犠牲を払って、現在の王は不死者になったのです」
 オレはヘルの肩に?みかかった。
「おいコラまてぇい! そんなわけないだろ⁉ 髪の色や目の色……それに若返るでもしたら、周囲の人間にすぐにバレるだろうが⁉」
「不死者は他の人間はもちろんのこと、戦乙女や他の不死者さえも欺くために、人間に化けるのが得意ですのよ」
「つまり……どういうことだ?」
「髪の色と目の色を偽装する魔術を使えばバレることはありませんし、応用して顔を変え他者になりすまし入れ替わることさえできますの」
 一度ハデルは死んで復活し、不死者の力を得て狂王になったとでもいうのだろうか。いや、ヘルの言い方だと他の不死者が入れ替わった可能性もある。
 しかし王を殺して成り代わることなどできるのだろうか?
 ここでいくら考えても確かめようがない。
「じゃあ、今のハデル王は不死者としてカルマを稼ぐため、世界を相手に戦争してるっていうのか?」
「きっと世界を壊してでも叶えたい夢があるのでしょうね」
「そんなことのために……たくさんの人間が傷つき死んでいったのかよッ⁉」
 つい、ヘルの両肩を握る手に力が入る。
「あぁんそんなに積極的になられると、わたくしキュンとしてしまいますからぁ。もっと強く握りしめてくださいませ?」
 とっさに女の細い肩から手を離して距離をとる。突き放した反動で胸がぶるんぶるんと凶悪に揺れた。くそッ! 身体だけはいい女め。
 こいつの言葉を鵜呑みにはできないが、狂王ハデルもかつては名君だったという話は有名だ。まっとうだったが故に、現状が狂った王なのである。
 君子豹変。裏で別人とすり替わったのでは? という噂もまことしやかに囁かれていた。
「では、濃密ボディータッチで計量した肉体の再構築の準備も整いましたし……そろそろお時間ですわね。どうか地上をカルマで満たすことをご検討くださいませ」
 再び紫色の霧が濃くなり視界を埋め尽くす。昏睡魔術を受けた時のように、意識が一瞬で闇に呑ま王れて途切れた。

 

 4.不死者の貴方に[全面協力{フルコミット}]します

 目を開く前に血の臭いが鼻についた。
 恐る恐るまぶたをあげる。
 先ほどまでがあの世の地獄なら、今、オレが立っているのはこの世の地獄……戦場だった。
 が、すでに戦いは終わった後のようだ。
 軍同士が平野でぶつかりあったらしく、そこかしこに死体が転がっている。
 まだ日は高い。戦利品を剥ぐ連中の姿は見受けられなかった。
 夜になれば魔物たちの晩餐会が始まるだろう。
 さて、本当に生き返ったようだがこれからどうしたものか。
 ふと視線を落とせば、右手の甲に666の数字がアザのように浮かんでいる。
「夢じゃなかったんだなぁ」
 そっと顎を撫でる。つるっとした剥き卵のような感触だ。肉体が若返ったまま復活したらしい。
 日差しのまぶしさも血の混ざった風の臭いも、感じ方は生前と同じだった。
 視線をあげる。
 見上げた空は透き通った青さで太陽が南の空高く……って、おいおいおいおい!
 空から少女が落ちてきた。
「どいてどいてどいてくださああああい!」
 空と同じ髪色の[戦乙女{ヴァルキリー}]が叫ぶ。オレはとっさに両腕を天に掲げた。
 考えるより先に身体が反射的に動いたのだ。
「ぶつかったら潰れちゃいますうううう!」
 少女の身体を受け止める。正面から抱き合う格好だ。
 そのまま吹っ飛ばされるように後ろに倒れ込む。顎を引いて後頭部を強打せずには済んだが、背中から地面に打ち付けられて肺の裏から衝撃が走った。
 背骨かあばら骨が逝ったかもしれない。普通に致命傷だ。
 痛覚もあるのだが、最初の衝撃からすぐに痛みが引いていった。まだ治癒魔術を使っていないのに……不死者ってのは人間よりも肉体が頑強なのだろうか。
「あっ……えっと……あっ……」
 オレの腰の上に馬乗りになった青い髪の少女は、きょとんとした顔で固まっていた。
 大きな白い翼を背中でばっさばっさとさせている。どうやら怪我らしい怪我はしていなさそうだ。
 彼女は身体にぴたりと張り付くような白地の薄布に身を包み、手足にだけ甲冑のようなものを装着していた。
 背中には翼がふわりと広がり、着地の衝撃で綿毛のように白い羽毛がひらひらと雪のごとく舞った。
 もしかしてコイツあの時の……。いつも見上げていた戦乙女に触れられる距離にまで近づいたのは初めてだ。
 透き通るような白い肌とアイスブルーの瞳。胸はやや慎ましやかながらも女性らしいくびれのある体つきをしている。
 美しい。この世の造形物とは思えぬほどに。
 視線を落とすと、鼠径部がくっきりと浮き出た股間は白い薄布一枚だけである。
 それがオレの下半身にぴたりと沿うようにくっついていた。
 有り体に言えばこの体勢は騎乗位に該当するのである。少女は端麗な容姿よりも予想外に下半身の肉付きがよく、太ももはムチムチで臀部がどっしりとしていた。
 美しい顔を崩し呆けたままの少女に訊く。
「おい大丈夫か? 怪我してないか?」
「へぁ?」
 少女は翼をパタパタと開閉しつつ周囲をキョロキョロ確認し、地面に仰向けで寝転ぶオレに視線を落とす。
「きゃああああああ!」
 ここでまた声を上げるとは判断が遅い。
 腰を浮かせたり落としたり尻を振りつつジタバタしながら悲鳴をあげ続けた。やめろ腰を動かすな。
 主神の使いも露出好きの変態なのか?
「下手に動くな!」
「上手に動けばいいんですか⁉ ま、まだ恋もキスも交換日記もしたことないのに、事故とはいえ男の人の上に馬乗りになってまたがるなんて……ううっ! あんまりです!」
 少女は耳の先まで赤くなると涙目だ。
 どうやら天界に住まう主神幼女や死者の国の変態痴女王とは違い、恥じらいの感情はあるらしい。
 ならば文句を言うより先にやることがあるだろうに。
「ともかく退けよ。重たいんだが……」
 下半身が物理的に重たい女のようである。
「ふ、太ってないです! 全然太ってないですからちょっと筋肉質なだけで[戦乙女{ヴァルキリー}]としては標準的な体型ですし、お尻が少し大きいくらいで……って、何言わせるんですかまったく!」
 空から落ちてきた戦乙女はずいぶんと口が達者だった。
「落ち着け落ち着け。オマエは重たくないから。むしろ頭の方が軽そうだな」
「えっ本当ですか? 見た目ほど重い女の子じゃないんですよ私って」
 いや褒めてねぇよ。あと重い女の使い方間違ってるからな。
 戦乙女に高潔さを感じていたのは、一方的なオレの思い込みだ。
 少女は頬を膨らませながら「こっちも下敷きにしたのは悪かったですけど。というかなんで待避しないで受け止めようとしたんですか? 無謀すぎます!」と、やっと立ち上がった。
 すらりとしたシルエットと背中のボリューミーな白い翼。後光を背負えば神々しい。
 少女は眉尻を下げて困り顔になりながらも、オレにそっと手を差し伸べた。
「そちらこそ怪我してませんか? うっかり死んでたりしたら大変です」
 彼女の手をとって立ち上がる。
「心配すんな。これくらいじゃ死ななゴフッ!」
 咳と一緒に吐血する。
「いきなり血を吐いてるんですけど⁉」
「安心しろ赤ゲロだ」
「いやいや血ですってそれ! 死んじゃいますってば!」
「オレはこの程度で死ぬほどヤワじゃないらしいんでな」
 背中の痛みは時間とともに完全に消えていた。改めて治癒魔術を自身に施す必要はなさそうだ。
 不死者の身体は存外頑丈だ。勝手に治るのかもしれない。[戦乙女{ヴァルキリー}]は不思議そうに首を傾げる。
「らしい? だなんて自分の身体なのに他人事みたいですよ?」
 自分がどう変わったのかなんて、さっぱりわからんのだから仕方なかろう。
「まあいろいろとあるんだよ」
 言葉を濁す。少女は安堵の息混じりで返した。
「こんなところにいたら危険ですよ? ええと……」
「自己紹介がまだだったな。オレはネクロだ」
「は、初めまして! 私はリトラと申します」
 [戦乙女{ヴァルキリー}]――リトラは背筋をピンとただしてから一礼した。身のこなしはキリッとしているが、最初の挨拶が騎乗位だったのが運の尽き。
 今更立派に取り繕っても手遅れ感が否めない。
「もしかしたら初めましてじゃないかもな」
 オレが死んでから生き返るまでの体感時間は大体一時間程度だ。今朝、野営地の上空でジタバタやっていた「飛ぶのが不器用な青い髪の[戦乙女{ヴァルキリー}]」はこいつだ。
 リトラは「ぷっ」と吹き出して横を向いた。
「前にあったことがある……ってナンパの常套句ですよね? [戦乙女{ヴァルキリー}]を引っかけようとするなんてびっくりです」
「オマエにとっては初めてでも、オレには二度目なんだよ」
 とはいえ彼女を見かけた時のオレは黒髪黒目の四十手前のオッサンだったし、向こうからすれば野営地にいたたくさんの人間のうちの一人でしかない。わからなくて当たり前か。
「任務以外でこうやって人間と普通にお話するのも初めてですし、ありえませんよ?」
「わかった。会ったというのは撤回しよう。見てたんだ。今朝方、オマエは編隊から遅れて墜落しそうになってただろ? オレがいた野営地の上空で一人で騒いでたよな?」
「そ、そそそそそんなことないですよー。他の[戦乙女{ヴァルキリー}]との見間違いじゃないですかねー」
 棒読みな弁明のあとに口笛を吹いて目をそらす[戦乙女{ヴァルキリー}]のクズぅ。他に青い髪の[戦乙女{ヴァルキリー}]がいるかもしれないが、身振り手振り口ぶりでコイツだと確信した。
 あのあとちゃんとこうして現場には到着できたんだな。最後の最後でオレめがけて墜落したけど。
 ということは、現在地はオルロー平原か。野営地からかなり南になる。結構遠くに復活させられたものだ。
「隠そうとするなんて、やっぱ落ちこぼれって恥ずかしいんだな」
「だ、だから落ちてないですって!」
「たった今、空から墜落してきたじゃねぇか?」
「ううぅ……飛ぶのが苦手な[戦乙女{ヴァルキリー}]だっているんですぅ……他のことは一通りできますから! こう見えてもキャリアバリバリのスーパーエリート[戦乙女{ヴァルキリー}]ですしぃ」

 

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