試し読み 第0話(試し読み)

 

――きみは、きのうぼくに「捨てられてた」と笑いながら泣いていた。

 

――ぼくは、きのうきみを「拾った」と泣きながら笑った。

 

      

 

 シンジュク駅の[新{しん}][南{みなみ}][口{ぐち}]はシブヤ区にある。

 意外と知られていないことだ。

〝彼ら〟の姿も、シンジュクだかシブヤだかそんなあいまいな雑居ビル群の一角にあった。

 大きな通りから一本脇に入る。目印は和風イタリアンのチェーン店の看板。

 奥へと進む。

 と、よく目を[凝{こ}]らせば、雑多なビル群のなかですこし雰囲気の異なる建物が見つかる。

 気にしなければただの古いビルだが、内装も外観もリノベーションされているのが判る。

 外観はそこそこだけれど、ビルのなかに一歩入れば、年号が三つ[跨{また}]いだ古い建物のなかはブルックリン風の[小洒落{こじゃれ}]た雰囲気が感じられる。

 ただ、雑居ビル群のなかからそこを見つけて、さらに一歩踏みこむ勇気があればの話。

 一階は、契約した会社の倉庫として使われていて[人{ひと}][気{け}]がない。

 二階は、大家の事務所兼趣味の[偏{かたよ}]った物置。二階にもひとが居ない。

 ひとつ飛ばして四階は、大家が趣味でやってるカフェ。またもブルックリン風。

 オシャレ[夥多{かた}]にあらず気取りすぎてもない。押しつけがましくないジャズが流れてる、たいへん居心地がいい。

 はずなんだけれども。雑多なビル群のなかにあって、さらに、古い建物特有の急な階段を四階まで上がらなくてはならない。そんな立地ではなかなか新規客の開拓は進まず、いつもの顔なじみがいつもの時間にくるだけ。

 顔なじみにとっては居心地はサイコーだろうけど、一方で、[閑{かん}][古{こ}][鳥{どり}]が鳴くような状態では経営状態が心配にもなるけど。

 まあそこらへんは心配無用。

 だから大家も、無口な雇われ店長ものんびりカフェ経営をしている。

 カフェののんびりした雰囲気とコーヒーの香りは、真下の、三階まで届いている。

 そんな三階へ向かう人影があった。

 人影は、一階の正面エントランスじゃなくて、わざわざぐるりとビルの裏側に[廻{まわ}]る。

 その〝人物〟は知っていた。

 ビルの裏には、猫の[額{ひたい}]ほどの、陽の当たらない庭がある。

 裏庭を通り抜けていく。ビルの裏口には『関係者以外立ち入り禁止』の文字が書かれてあるけれど、無視する。

 関係者だから。

 重い裏口の扉を開け、なかに足を踏み入れると、視界にとある設備が目に入るだろう。

 それは、古臭いを通りこしてアンティークな『[昇{しょう}][降{こう}][機{き}]』だ。

 昇降機つまりエレベーターが、実はこのビルには備わっている。

 ただし、正面からビルに入るとそれに気づくことはなかなか難しい。

 そもそもこの昇降機は『荷物[搬{はん}][入{にゅう}]用』としてここに設置されたが、現在は、関係者用のエレベーターとして機能している。

 ところがだ。

 昇降機マニアなら、[涎{よだれ}]を[垂{た}]らして歓喜しそうな年代物。

 年代物がゆえに、現代のモノと比べると雰囲気のよさ以外に[勝{まさ}]ってるところは、ない。

「……古すぎるんだよっ!」

 その人物は、少女にしてはやや低く、少年にしてはやや高い声で、ぶつくさ文句を言いながら、昇降機のドアに手をかけた。

 ひとつめの[格{こう}][子{し}]状のドアは、アホほど重い。

『簡単に動いちゃうようじゃ扉として不安じゃろう。重くしといたぞい』

 なんて製作者が言ったかどうかはさだかじゃない。その重さに意味はあるんだろうけど、まったくありがたくなく……。

「うぅぅーっ」

 その人物は、花車な手足で踏ん張って、重い扉をなんとかかんとか横にスライドさせた。

 が。しかし。〝ひとつめ〟の扉を開くと、すぐにもうひとつ格子状の扉が現れた。

 ひとつめと同じく、ふたつめも重い。

『扉がひとつだけじゃと不安じゃろうて。もひとつおまけに付け加えておいたぞい』

 また昇降機製作者の真心の声が耳鳴りで聞こえてきそうな気がする。

「ったく、もう……っ」

 ふたつめも踏ん張って開いたら、つぎは、開けたので閉めなくてはならない。

「ぬーんっ」

 鼻息も粗く、重い扉を開け閉めして、ようやく、昇降機は動き出す。

 乗るまでの苦労もなんのその。あっという間に昇降機は『三階』にたどり着いた。

 もちろん、降りるためには扉を開け閉めしなくてはならないんだけれども……。

 その人物は、花車な腕にぶら下げたコンビニ袋をブン投げたくなってしまった。

 大量のお菓子が入ったそれは、いまさっき買ってきたばかりだ。

 それを買うために、わざわざ昇降機で上り下りしたのに、ブン投げたら本末転倒。

 正直、階段を上り下りしたほうが速い気がする。

 でも、アンティークな昇降機を使うのは、

「もうなんか、意地で」

 その人物は、思う。

 エレベーターがあるんだから、使う。

 本来便利なモノのはずだし、最新のエレベーターの『便利だけどなんでどうやって動いてるのかまったく判らない』感じよりもずっと信頼できる。

 [其処{そこ}]に在る。だから使う。ただそれだけ。

 なので、今日も今日とて、重いドアの開閉をくり返し、〝三階〟へと戻ってきた。

 よっこらしょと昇降機から出る。そこには、うっすらとコーヒーのいい香りが漂ってる。

 香りは四階のカフェからと、三階に入っているテナントからも。

 エレベーターホールを抜けてちょっと歩けば、コーヒーの香りのもとに到着する。

 小洒落たビルの内装やアンティークな昇降機の雰囲気によく似合っているドアの前に立つ。

 室内からうっすら上の階のカフェで流れてるのに似た軽快なジャズが[漏{も}]れ聴こえてくる。

 ただし、三階のここはカフェでも喫茶でもない。

 扉のすりガラスに『ニコニコ安全警備保障』のゆるんだロゴがある。

 目的地にようやっと到達したその人物は、花車な腕を押しつけ肩でドアを開いた。

 からんころん、と扉の上部に付けられた呼鈴が鳴る。

 ベルに気づいて、奥にあるキッチンから出てきたのは、青年だ。

 白のビッグTにゆったりとしたシルエットの紺のパンツ。足もとはエイトホールの赤茶のブーツ。清潔感のある黒髪に[黒{くろ}][縁{ぶち}][眼鏡{めがね}]の、その青年――[織原{おりはら}]ツクモが、

「おかえり」

 と、よく響く低い声で、ベルを鳴らして入ってきたその人物に声をかけた。

「低音が[空{す}]きっ[腹{ぱら}]に響く」

 ただいまの代わりに、[花{きゃ}][車{しゃ}]な[体{たい}][躯{く}]に相応の細い声で、その人物――[甘樂木{かぬらぎ}]ノアは返した。

 白いより[蒼白{あおじろ}]い肌。ひどく花車な体躯。狭い肩幅。細くて長いスラリとした手足。

 整いすぎて[綺{き}][麗{れい}]すぎる顔とおかっぱボブのせいで、性別不詳。

 服装は、短パンにオーバーサイズのビッグTで年齢不詳。

 年齢不詳性別不詳のノアはコンビニ袋を、がさごそあさってジャンボシュークリームを取り出した。さっそく袋をあける。

 口にシュークリームを運びながら、部屋の一角に置かれたくたびれたソファに、ドカッ、と倒れこむように腰を下ろした。

「ノア、コーヒーいるか?」

 ツクモが[訊{たず}]ねる。

「いる」

 ノアは短く言って、こくんとうなずいた。

「かしこまりました、姫さま」

 [仰{ぎょう}][々{ぎょう}]しく深々と頭を下げてツクモはキッチンのほうへ姿を消した。

「よろしくー」

『姫さま』のところは否定も肯定もせず、ノアはソファの前のテレビの電源を入れた。

「ぅんまー」

 シュークリームに感嘆する姿は、やはり女子か男子か判別がつかない。

「お待たせいたしました」

 執事のようにうやうやしく、ツクモがソファ前のローテーブルにコースターを敷き、その上にマグを置く。

「さんくそ」

 ノアは身体を起こして、マグカップを手に取る。シュークリームはすでに完食。

「くそはやめろ」

 綺麗な顔に似合わない。とツクモが目を細める。

「あちぃ」

 としかしノアはスルーして、カップを口に運び[火傷{やけど}]しそうになっていた。

 何も言わずツクモがテーブルにミルクポットを置く。

 黙ってノアがコーヒーにミルクを投入する。

 口数の少ないツクモと、常時ローテンションでアンニュイな雰囲気を[醸{かも}]し出すノア。

 そんなふたりが居る――[此処{ここ}]は、

『ニコニコ安全警備保障』

 またはニコニコセキュリティー。

 たった〝ふたりきり〟の警備会社だ。

 

      

 

 依頼に向かう車中だった。

「今回は〝社長案件〟のクラスSの仕事だ」

 とツクモには伝えられた。

「ほんとそうかなー」

 ふとノアは疑問をていした。

「社長案件ってアレじゃん。ワケアリか、わがままVIPでしょ?」

 ノアは助手席のシートに背中を押しつけ、アンニュイにため息みたく言う。

 運転席でハンドルを握るツクモは、黙ってノアの[独{ひと}]り[言{ごと}]みたいな文句を聞いている。

「こないだなんか、要人警護が、ただの――オモテサンドーのセレブ犬の散歩だったじゃん」

「犬だって依頼者にとってはたいせつな家族だろう」

 それだけ家族を心配するほど不安な世の中なんだよ。とツクモは付け加えた。

「依頼料いくら?」

 ノアが訊ねる。

「そんな[可愛{かわい}]らしい顔しておまえは[銭{ぜに}]ゲバか」

 がっかりしたふうにツクモが肩をすくめる。

「顔は関係ないでしょ、ボクだって好きでこの顔面なワケじゃないし」

「俺は好きだけどな、その顔」

「は? なんの話?」

「おまえの顔の話」

「いや違うでしょ。ボクの顔じゃなくて、お金の話だったよ」

「ああ、好きだな。お金とおまえの顔」

 真面目で冗談を言わないくせにふざけたことを言うツクモに、[呆{あき}]れてノアはただジトッとした目で黒縁眼鏡の横顔を[凝{ぎょう}][視{し}]する。

「その瞳、ゾクッとする」

 ひどく真面目な顔でツクモが言う。

「バッカじゃないの」

 必要以上に真面目で冗談に聞こえないのが逆に、ノアはからかわれてる気がした。

 自分の顔がどれだけよく仕上がってるのかノアは自分でよく判ってないし、興味もない。

 ただ、この件でこれ以上ツッコんでも、ツクモにあしらわれるだけなのは判る。

 今回の仕事も、ノアは大体いつもと同じだろうと思っていた。

 ほとんどの依頼は、ニコニコ安全警備保障が[提携{ていけい}]している大手法律事務所や有名警備会社では[扱{あつか}]うほどじゃなかったり[箸{はし}]にも棒にもかからなかった案件が『紹介』という[体{てい}]で押しつけられてきたりする。

 いわゆる『ワケあり』だ。

 だから、急だったり[滅茶苦茶{めちゃくちゃ}]な要求だったりするが、引き受ける。

 依頼者がどうだろうと困ってるひとを放って置けないのが、ツクモいいところでもあるし、悪いところ。

 ノアも「お金って大事だもんね」と、通常業務では得られない報酬額に目が[眩{くら}]むこともある。

 でも、「金払いがよかろうが悪かろうが」多少、メンドーな依頼もなんのその、なんだかんだで、ふたりはこれまでやりとげてきた。

 大手はもちろんそこらの法律事務所や警備会社などで相手にもされなかったひとたちが、「最後の望み」を持って頼ってくる。

 だから、だからこそ、ニコニコ安全警備保障は存在している。

 そして、引き受ける以上は、最後まで決して投げ出さない。

「――動物、人間から物体まで、護れるモノならなんでも!」

「――速い!安い!安心安全!」

 がニコニコ安全警備保障のモットー。

 もちろん、払えるひとにはたんまり払ってもらうが。

 ツクモとノアたったふたりのちいさなちいさな、でも、必要なひとにはとってもたいせつな〝場所〟だ。

 今回――いま、ふたりを乗せた車が向かっているその〝案件〟もまた急な依頼だった。

 しかも通常行程とは違い、人や組織や会社を経由しないで[直{じか}]で〝社長〟宛てに依頼がきた。

 その分、[報{ほう}][酬{しゅう}]は破格で、前払いで――約一千万円。

〝約〟としたのは、いくつかの海外の銀行やネットバンクを経由して、ややこしい方法で入金すると、その日の[為替{かわせ}]レートで変動に左右されるため。

 報酬額や支払い方法からして、もう[胡{う}][散{さん}][臭{くさ}]い気がする。けど、

「ウチが適任だろうな」

 とツクモは引き受けた。

『運んでほしいものがある』『詳しくはまだ言えない』

 依頼内容の〝あらまし〟とも呼べない内容のないメール。

 しかし最後の最後に、短い一文があった。

『もはや[貴方{あなた}]たちを頼る以外にありません。』

 たったそれだけ。それだけがやけに切実でひどくリアルだった。

 そうして依頼を引き受けたのが三日前。

 今日になってようやく、

 ――A地点に行き、そこで『あるモノ』を受け取れ。

 こんな感じの内容が知らされた。

 その『あるモノ』が今回の『要警護対象』なのかまだ判らない。

「あらためて、きなこ臭いことこの上ないね」

 依頼内容を[反芻{はんすう}]したノアは、吐息のように言った。

「きなこじゃなく、きな臭い。だ」

 やんわり運転席のツクモが訂正する。

「あー、どうりできなこ臭いってべつにいい匂いじゃんって思った」

 きな臭いとかいうワリには、[何処{どこ}]かのんびり構えてるふたりだった。

「だいたいうちはそうやってやってきたんだし。いいじゃん」

 という気持ちがノアにもある。

 ツクモも常時平熱感なだけで、気を抜いてはいない。

 この依頼、報酬の金額面ではテキメンの納得具合だったが、それ以外にも、ツクモには、ピンとくるものがあった。

「あんな気持ちはもうたくさんだろ?」

 ちらり、ツクモがちいさく言って横目でノアのほうに目をやる。

 ノアはあいかわらず整いすぎの[嫋{たお}]やかな横顔で、窓の外を眺めていた。

「判ってるよ、そんなの」

 と誰にも聴こえない声を口のなかで響かせた。

 車が赤信号で停車する。

 いつか、――ノアがまだノアになる前。

 出逢う前のこと。

 自分が自分で失くなる――いつかの〝あの日〟の感覚。

〝裏返〟ってたまるか。とノアは頭を振った。

 

 でも、また――

 出逢ってしまうんだ。

 また――

 あんな気持ちに。

 

 ボクらは出逢ってしまうんだ。

 

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