試し読み 春くれなゐに~思ひ出和菓子店を訪ねて~

序章 たった一つの色

 この街はなんて色濃いのだろう。
 初めて東京から出た十歳の[紅{べに}]は、ため息とともにそう思っていた。
 整然とひしめく町家の、墨を[刷{は}]いたようなしっとりとした瓦。街角でふと出会う[丹{に}][塗{ぬ}]りの鳥居。光に彩られた新緑と、幾百年を耐えてきた[苔{こけ}]の群れ。
 大正六年、その古い都――京都で行われた[祝{しゅう}][言{げん}]は、ささやかだが美しいものだった。[白{しろ}][無垢{むく}]と角隠しに包まれた新婦と、長めの前髪の向こうから[面映{おもはや}]ゆさが覗く新郎。
 自分と十も離れていないこの二人がなんだかとても眩しくて、[仲人{なこうど}]の父にくっついてきただけの紅だったが、まるで本当に近い親戚が式を挙げたかのような晴れがましさをおぼえた。
 小さな宴席でふるまわれた料理もまた、洗練されていてきれいだった。赤[漆{うるし}]の[汁椀{しるわん}]に、障子からやわらかに入る光が映り込んでいる。[蛤{はまぐり}]の汁をそっと口に含んだとき、紅の[瞼{まぶた}]にあるはずのない幻影がちらついた。
 そこは晴れわたった海辺。
 鮮やかな空と海はどこまでも[凪{な}]いでいる。だけど、視線の主は紅ではない。屈み込んで覗いた[水面{みなも}]に映ったのは、紅と同じくらいとおぼしき年ごろの少女だった。涼しげな麦わら帽子に、洋装の白いズボンを穿いている。ふいにその澄んだ瞳が、隣に立つ少年になにか話しかけるように向けられた。

 ――この人たちは……。
 紅はハッとして主役の二人に目を移した。同時に、自分が彼と彼女の「思い出」を[垣{かい}][間見{まみ}]たことを知った。そしてその行く末は、幸福に溢れたものになるだろうと確信できた。
「…… [視{み}]えるのが、こんなものばかりならいいのに……」
 ぽつりと、無意識のうちに呟いていた。

『先生! 紅ちゃんがまた変なものが見えるって言ってます』
『優しくしておあげなさい。紅ちゃんのおうちはね、お母さんが――』
 遠い東京に置き去ってきたはずの、苦い思いが去来する。紅が唇を固く結んだそのとき、[宴{うたげ}]の最後となる膳が運ばれてきた。
 そこに載っていたのは、ずいぶんと意外なものだった。
「わぁ……」
 真っ白な敷紙の上に、青い[飴{あめ}]のようお菓子がいくつか盛られている。
 その色の鮮やかさは、紅の瞳を一瞬で奪ってしまうには十分だった。
 やわらかな光を反射する、深い青。いや、「青」と一括りにするにはもったいない。空とも、[渚{なぎさ}]の色とも違う。本当はなんという色なのだろう。[群{ぐん}][青{じょう}]色――違う、[瑠璃{るり}]色だろうか?
 透明に光るその青い菓子は、流れる水の形だった。細い飴を加工して、楕円の渦巻き型を作り出している。紅は、[一昨年{おととし}]亡くなった母と近所の神社で覗いた井戸を思い出した。うっそうとした木々に囲まれたその井戸は、引き込まれそうなほどに神秘的な青をたたえていた。
 あのとき、母は言った。
『ここにはねぇ、神様がいるのよ』と。
『きれいな色の中には神様がいるの。それはとても素晴らしいこと』
 その詳しい意味をこのとき[訊{き}]いておけばよかったけれど、紅は地面の奥底でふしぎなほどに光る青に目を奪われてしまっていたし、なにより母がもうすぐいなくなるだなんて思いたくもなかった。
 しばらく、手もつけられずその菓子に見入っていた。美しいだけではなくて、言葉にはできない[凄絶{せいぜつ}]さすら感じて。それはあの深い井戸を覗き込む[心地{ここち}]にも似ていた。奇しくも、その「[有平糖{あるへいとう}]」というお茶菓子には、「渦」の意味を持つ「[観{かん}][世{ぜ}][水紋{すいもん}]」という名前――菓銘がつけられていることを、周囲の会話から知った。
「あら、まぁ。婚礼菓子にしては――」という呟きも同時に耳に入ったが、紅にはこれこそがこの席にふさわしい菓子だと自然に信じられた。
「そうだ、これは――」
 あの幻影の海と空を、[掬{すく}]い取って[雫{しずく}]にしたような色ではないか。
 紅の父は画家だ。その絵を見るたび、紅は色とりどりの世界に焦がれ、いつか自分もこんな色を創れたなら――と思い描いていた。
 空の色は、そして海の色は手に入らない。何度、この色を自分のものにしたいと思っただろう。
 それを、芸術は容易に表現することができる。それでも、その中まで手は届かない。
 だけど、どうだろう。お菓子だったなら。
「やっぱりこれ、[樒{しきみ}]くんが作ったのね」
 隣の、新郎の遠縁という女性が呟いた言葉が耳に入る。紅はそこで初めて、この和菓子を生み出したのが、大人しそうな新郎だということを知った。
「あの……これ、本当にあそこのお兄さんが?」
「そうよ。樒くんはね、小さいときから手先が器用で。……ま、ちょっと変わっているけどね」
 彼女は苦笑したが、「[綾{あや}][子{こ}]さんも画家として出発したばかりだし、若いけど楽しみな二人なのよ」と教えてくれた。続いて、「あなたも有名な画家先生のお嬢さんだし、お絵描きが好きなんでしょう?」という当たり障りのない話に移っていったけれど、紅は苦笑して濁すだけだった。
 本当にお父さんのようになれたら、どんなに心が自由になるだろう。
 紅の中には、絶えずたくさんの色が流れ込んでくる。それは美しいばかりではない。悲しかったり、汚れていたり、憎しみにまみれていたりもする。
 人が抱えている物語は、絵画のようにはいかない。
 だけど、清らかな心で作られたお菓子だったなら……?
 婚礼菓子といえば縁起を担いで赤や白を用いるということくらい、紅だって知っている。それなのになぜ、彼はたった一つの青を、そして流れる水の意匠を選んだのか。思い出の景色だから――それだけなのだろうか。
 一言訊いてみたいと思いつつも、紅は花嫁とそっと笑みを交わす花婿へ、ついに話しかけることができなかった。もしかして、このときその小さな勇気を持つことができていたなら、紅
の未来は変わっていたかもしれない。
 [溌溂{はつらつ}]とした妻と、穏やかそうな夫。理想的な二人の姿、そしてしっとりと甘い飴の色を胸に、紅はまた日常に戻っていく。いつか自分も、誰かの心を動かす人になりたいと願いながら。
 あの深い青は、紅にとって畏怖と憧れとが入り混じった夜の夢であり、翼でもあった。

 

第一章 青はつかめない

「わぁ……京都の色は、相変わらず濃いのねぇ」
 八年ぶりに訪れた古都の時間は、あのころから動いていないような気がした。
 それは汽車の窓から見えた[甍{いらか}]の[鈍{にび}]色の照り返しや、鮮やかな空の青を貫く五重塔の影にそう思っただけにすぎない。もう東京では見られないかもしれない風景に、ふと懐かしさのようなものがよぎっただけだが、それだけでも紅にとってみれば小さな喜びだった。
「京都のご飯はおいしいのよね。それに……お菓子だって」
 よく晴れた七月の午後。ルネサンス風のハイカラな京都駅に降り立つと、東京と変わらない、いや、それ以上の人波に少し舌を巻いた。関東一円を壊した大震災から二年弱――帝都の復興は目覚ましいと大人たちは口を揃えるけれど、やはりこちらのほうが活気を感じる。紅の実家は山の手の赤坂さ区青山南町なので直接の被災は免れたものの、生活を立て直すのは並大抵のことではなかった。
「お父さん、一人暮らしでこれから大丈夫かしら……」
 [籐{とう}]のトランクを抱えた紅は、新しい土地への期待と、少しの感傷にひたりながら駅を出たけれど、まっすぐ歩いていたはずだったのに、どういうわけか道に迷ってしまった。
 広い街路の両側には、古い町家と西洋造りのコンクリート建造物が同居し、ところどころの庭先から、生命を燃やす[蝉{せみ}]の声が盛んに響いている。この街は碁盤目状だから赤ん坊でも歩けると父に力強く言われて送り出されたのに、人混みのせいで、絵図と照らしてもどっちが北か南か、わけがわからない。
 そもそも紅は、ほんの幼いころ母に叩き込まれた武芸に多少覚えがある程度で、それ以外のことは壊滅的に苦手なのだ。
 女学校では勉学も実技もからきし駄目で、挨拶くらいはしっかりやろうと声を張り上げれば、「品性がない」と怒られた。春に無事卒業できたのは奇跡だったとしか言いようがない。
 父のように画家を目指し、手習いしていた時期もあったけれど、人物を描けば花瓶ですかと言われ、空の絵すら野原と間違えられ、そんなことばかりで嫌気が差して断念してしまった。
「あぁもう! 過去は振り返らない! せっかく京都まで来たっていうのに!」
 紅には会いたい――会わなければならない人たちがいるのだ。大きく首を振り、とりあえず大きな通りを進めばなにかわかるだろうと、ひたすら人の隙間を縫った。
 そこに――。
「危ない!」
 突然、後ろから誰かに腕を引っぱられた。
「きゃあっ⁉」
 反動で尻餅をついた紅の眼前を、けたたましいベルを鳴らしながら赤い花電車が走り去っていく。
「大丈夫ですか⁉」
 驚愕でなにも言えない紅に、細身の白シャツをまとった手が差しのべられる。その主は十八の紅と同世代に見える青年だった。奥二重の澄んだ目に小さな銀縁の丸眼鏡をかけて、いかにも人の[好{よ}]さそうな丸顔で紅を見下ろしている。
「あ……は、はい……」
 青ざめた顔で小刻みに頷きながら、その手を取ろうとした紅は、脇に落ちている黄色い[鳥打帽{ハンチング}]に気づいた。
「これは……?」
「あ、僕の……すみません」

 青年に帽子を渡そうと、紅がそれを拾い上げた瞬間――。[金色{こんじき}]の午後の光の中でそよぐ、一面の[薄{すすき}]が広がった。

 薄と思ったものは稲穂にも似ていて、向こうからやってくる風に頭を揃えて気持ちよさそうに揺れている。その鮮やかな黄とも金ともつかぬ波が、紅の瞼に刻まれた。
「あの……どうかしましたか?」
「あ! いえ……」

 それはほんの一瞬の幻だった。
 意識は薄野原から、京都の雑踏へと戻ってきている。紅は自分で立ち上がり、[呆然{ぼうぜん}]と周囲を見渡す。目の前に、[陽炎{かげろう}]に[歪{ゆが}]む路面電車の軌道が延びていた。
「今日は[祇園{ぎおん}][祭{まつり}]の[宵山{よいやま}]でしょう? 人出が多いから前がよく見えませんよねぇ。まぁご無事でなにより」
「あ、お祭りなんですね。ありがとうございます。私ったら、いつもドジばっかりで」
 苦笑する紅の言葉が東のものと気づいたらしい青年は、「京都は初めてなんですか?」と親しげに問うてきた。東京だったらこんな様子のモダン・ボーイには要注意なのだが、なぜだか彼からは[狡猾{こうかつ}]さというか、邪気のようなものが感じられない。むしろ、ボーッとしていれば強盗にでも身ぐるみはがされそうな、無防備そのものの笑顔だ。
「ええ……まぁそんなものです。あ、ちょっとお尋ねしますが、[壬生{みぶ}][川{がわ}]の『[静閑堂{せいかんどう}]』というお菓子屋さんをご存じないですか? そこに行きたいんです」
「壬生川……んー、ちょっと待ってくれますか」
 言葉の調子から、彼も関西出身ではなさそうだということに、もっと早く気がつけばよかった。あまり土地勘がないようで、道行く人を捕まえ、わざわざ訊いてくれている。
「壬生川、わかりましたよ! ええとね、いま僕らがいるのは[四{し}][条{じょう}][烏{からす}][丸{ま}][通{どおり}]なんですよ。ここを一度引き返してですね、[五{ご}][条{じょう}][通{どおり}]まで歩いて――まぁいいや。ご案内しましょう」
 親切な青年は笑顔でそう言う。紅が心配になるほどのお人好しだ。

「いやぁ、京都には町が多くてややこしくて。みんな通りの名前を使うんですよ」
 のんびりした調子で青年が教えてくれた。彼もまだこの街に来て一年と少しらしい。
「ところで、お嬢さんは観光でいらしたんですか? 祇園祭は見ていかれないんで?」
 そう問われた紅は、「んー、まぁ機会があれば」と[微笑{ほほえ}]む。
「[山鉾{やまほこ}]って、知ってますか? きれいな赤い[山車{だし}]みたいなものがですね、お[囃{はや}][子{し}]に合わせて街中を練り歩くんですよ。圧巻ですからぜひ見ておいたほうがいいです」
「……ええ」
 世間話をしながら、五条通という広い道を渡る。しばらく進むと、料理屋や花屋、小間物屋などが並ぶ[小{こう}][路{じ}]に入った。なんでも、近くの[島原{しまばら}]という花街との関わりらしい。かつての全盛期には及ばないらしいが、東京の[吉原{よしわら}]とは違って堀もなく、劇場や歌壇があったりして市民にもずいぶん開けた街なのだと、青年は教えてくれた。
「ま、僕には縁がないですがねぇ」
 お菓子屋があるならばこのあたりかと思ったが、どうやら違うらしい。
 通行人にいろいろと尋ねながら、青年は細くなる道を進んでいく。ついに人っ子一人いなくなってしまい、あたりには整然と古い町家が並ぶ。人混みからは逃れられたが、蒸し器の中のような暑さは変わらない。紫の [袴{はかま}]を穿いてきた紅は、お気に入りの白いワンピースでも着てくればよかったと悔やんだが、それは先日質に流してしまったのだった。
 青年も肩かけ[鞄{かばん}]からハンカチーフを出して汗を拭きつつ、心配そうな色を浮かべ呟く。
「壬生川のお菓子屋ならこっちじゃないかと言われたけど……本当にこんなところにあるのかなぁ……」
 家々の間に、肩をすぼめるようにして小さな石の鳥居と[社{やしろ}]が[嵌{は}]まっている。石造りの瘦せた狐の前に白い[饅頭{まんじゅう}]が供えてあった。確かに、あまり繁盛店がありそうな立地には見えない。
 紅は不安を振り払うかのように、「まだお若い夫婦ですけど、やっているはずです。日本一のお菓子なんです!」と声を張った。
 [真面目{まじめ}]な紅の言葉を、青年は笑ったりはしなかった。ただ、「へぇ」と目を丸くする。
「日本一とは、大きく出ましたねぇ。そういうの、僕好きですよ。じゃあご店主に会えばすぐにわかりますね?」
「それが――」
 紅は俯いてしまった。
「お顔を思い出せないんです。子供のころにお会いしたからか、忘れてしまって……」
「あぁ、そうですか……」
 どういうわけか、紅は東京に帰ってからあの新郎の顔が思い出せなくなっていた。あれほど心に焼きつけようと思ったのに。そう思えば思うほど、彼の顔は[靄{もや}]がかかったかのようにぼやけていく。
「でも、奥様ならきっとわかると思います。花嫁衣装がとってもよくお似合いでした」
「もう花嫁姿じゃないでしょうけどねぇ」
 笑われてしまい[頬{ほお}]を赤らめた紅だったが、青年の「あ」という声につられ、その視線の先を追った。
 それは町家に溶け込む小さな店舗のようだった。一見してそうわからないのは、[濡{ぬ}]れ[羽{ば}]色の格子戸に[暖{の}][簾{れん}]もなにもかかっていないからだ。その上部にはかつて看板でもあったのか、錆びた金具だけが打ってある。
 ただ、わずかに開いた戸の隙間から、中の様子がうかがえた。がらんと暗い室内に木箱が無造作に積んであり、そこには確かに「静閑堂」の筆文字がしたためられていた。
「あった……けど……」
 やっているのかな? という言葉を青年が飲み込んだのは紅にもわかった。まったく同じ思いを紅も抱いたからだ。けれど、はるばるここまで来たからには帰るわけにはいかない。
 案内のお礼を言うと、青年はわずかに困ったような顔をした。ここで紅を放っていくのは後生が悪いような気がしたのだろう。けれど、通りすがりでそこまで気にかける義理はない。苦笑いして、「日本一なら、今度食べなくっちゃ。教えてくれてありがとう」と微笑んで去っていった。
 さきほどの幻影がまだ忘れられず、紅はしばらく彼が消えた小路の角を見つめていた。
 一つ、深呼吸して気持ちを切り替える。新しい土地に来たからか、久しぶりに「あれ」を視てしまった。そうならないよう、できるだけ人と関わらないようにしていたのに。
「でも、きれいな景色だったな」
 [黄{こ}][金{がね}]色の薄。あれはどこの野原なのだろう。できるなら、本当にそこへ行ってみたいような。だけど、あの人に会うことはきっともうないだろう。
 複雑なため息をついたあと、紅は格子戸へ振り返った。
「さて……」
 戸の隙間に手をかけて深呼吸する。きっとなにか用事があって臨時休業しているに違いないが、あの夫婦は中にいるだろうか?
「ごめんくださぁい」
 できるだけ上品に、紅は挨拶した。いきなりうっとうしがられるわけにはいかないのだ。だがいくら待っても反応がない。戸は開いているのだから、誰か必ずいるはずなのに。
「ごめんくださーい‼」
 半身を入れて何度か呼んだが、無駄なようだった。
 奥行きのある室内はやはり店のようで、左半分の土間にはからっぽの棚や木箱が並んでいる。右半分は一段高い畳敷きになっていて、本来は客にお茶を出したり会計を済ませる帳場だったらしい。いくつかの小さい机には[埃{ほこり}]っぽい白布が掛けられている。確かに昔なにかが営まれていた痕跡に、紅は胸の痛みとともに焦りをおぼえていた。
「すみませーん! どなたかいませんか?」
 背後を通った猫が驚いてニャー! と逃げていったが、それどころではない。
「たのもー! たのもーっ‼ 誰かぁーっ‼」
「誰もいないよ」
「わっ⁉」
 意外なほど近くでボソッと呟く声がしたので、紅は飛び上がってしまった。
「さっきからいったいなにごと? たのもうって……道場破り?」
「え? どこ……?」
 誰もいないのに声だけが聞こえる。きょろきょろしている紅の前で、突然一枚の白布が[蠢{うごめ}]いた。そうかと思えば、中から出てきたのは長身の男性だ。年のころは二十五、六。昼寝でもしていたらしく、しょぼくれた目とボサボサ髪、そしてゆるんだ[藍{あい}]の[作務衣{さむえ}]の衿元を隠そうともしない。けれど、眠たげな表情を差し引いても、穏やかそうな人だと思った。
「あぁ、すみません、お客さんでしたか? てっきり近所の子の悪戯かと……。でも、この店はやっていないんですよ。ご用事がおありでしたら別のところに――」
「……先生……」
「……は?」
「お、お久しぶりです…… [大{おお}][江{え}]先生!」
「せ、先生? 誰のこと?」
 つかみかからんばかりの紅の勢いに、大江先生と呼ばれた男は完全に[気{け}][圧{さ}]されている。
 この人こそが、[昔日{せきじつ}]に会った新郎だとすぐにわかった。優しそうな下がり眉と、やや垂れた切れ長の目。白い細面と指。長く思い出せなかった人が、ようやく紅の中で像を結んだ。
「長い間お会いしとうございました。大江樒先生でいらっしゃいますよね⁉」
「た、確かに俺の名前はそうだけど……? いや、でも先生って……?」
「申し遅れました。これまで何度か手紙を出させていただいた、[藤宮{ふじみや} ]紅です」
「……手紙……?」
 ようやく目的の人物と会えた嬉しさに、つい浮足立ってしまった紅だったが、しだいに相手の反応が芳しくないと気づいた。
 大江は、ゆっくりと考え込むように顎に手を当てている。
「あー……もしかして」
 そう呟くとおもむろに立ち上がり、戸口のすぐ内側の木箱を開け、中から封書の束を抱えてきた。
「あの、もしかして、それは……」
「配達人さんに言ってあるんです。手紙はここに入れといてくださいって」
 [啞然{あぜん}]とする紅の前で、大江は手紙を[選{よ}]り[分{わ}]けていく。その中から取り出されたのは、紅が半年も前から切々と[綴{つづ}]って送り続けていたはずの、[未開封{、、、}]の書簡たちだった。
「ええと……『初めてお手紙失礼いたします。東京美術専門学校長藤宮[恭{きょう}][太{た}][郎{ろう}]の娘、紅と申します。この度は大江先生の素晴らしい和菓子が忘れられず、弟子入りをお願いしたく筆を執った次第で――』」

『思い起こせば八年前、幸せなご夫婦の祝言で[頂戴{ちょうだい}]した祝い菓子がすべての始まりでございました。お二人の思い出をかたどった美しき青き有平糖は私の頭のてっぺんから爪先までを貫き、一瞬で[虜{とりこ}]にしたのでごさいます。当時私は父の後を追って拙いながらも画業を志し、色の勉強をしておりました。そんな中で出会いました一片の観世水紋の雫に――』

 途中まで目を通したところで、大江は困惑を苦笑に変えて貼りつけたような顔を上げた。まだ手紙は三十四枚と七通あるのだが。
「ええと、目の前にいるから本人に訊けばよかったね。つまり、ご用件は――」
「今日から奉公させてください‼」
 紅は平身低頭叫んだ。
「改めまして、藤宮紅と申します! 断りのお返事がなかったことを、勝手に了承いただいたものと勘違いし、押しかけてしまいました! 申し訳ありません! 私は女学校卒業後、先年の地震で半壊して借金まみれになった父の学校再建を手伝っていたのですが、ようやく[目処{めど}]がついて奉公先を探せるようになりましたので、大江先生と奥様のもとで働けたらと思いまして! お店の休業が明けましたらぜひ私を使っていただ――」
「ま、待って」
 紅が言い終わるのも待たず、大江は遮った。
 その顔に、どこか[倦{う}]んだような影が差しているような気がして、紅は戸惑う。
「あのね、悪いけれど、もう店をやるつもりはないんだ。じつは……一年前に妻が病気で亡くなってね。藤宮先生は復興で大変かと思って[報{しら}]せていなかったんだよ」
「……え……」
 突然明かされた事実に、紅は言葉を失うしかない。
 あの……美しくて溌溂とした花嫁が……もうこの世にいない?
「なんだか俺も気力を失って、店を閉めてしまって……画家だった妻が[遺{のこ}]した絵を売って息をするだけの日々だよ。彼女の恩師でもあった藤宮先生はきっと軽蔑するだろうね。どうしようもないやつだよ、俺は……」
「そんな、ことは」
 そう言いながらも、哀しげに微笑む大江を前にして、紅は酸欠の金魚さながら、呆然と口を開け閉めするばかりだった。
「……すみません……私……」
 紅は再び頭を下げた。さきほどまでみなぎっていた力は、もうどこかへ消えてしまった。
「帰ります、東京に……。奥様を亡くされていたなんて……おつらかったですよね」
「……わざわざ来てもらったのに悪かったね」
「いえ……あの、それで、帰るんですが、その……」
「なんです?」
「帰りの汽車賃を持っていないので、そのぶんだけでもなにか働かせてもらえませんか……」
 半泣きで顔を上げた紅に、大江は複雑な愛想笑いを浮かべたまま絶句していた。
 夏の長い日が暮れかけたころ、大江はありあわせのもので夕飯をご[馳{ち}][走{そう}]してくれた。
 店舗奥の小さな居間の小さな[卓袱台{ちゃぶだい}]。そこに、紅には馴染みのない京風の料理が次々に並んでいく。
「いただきものの『[身欠{みが}]き[鰊{にしん}]と[賀茂茄子{かもなす}]の[煮{た}]いたん』と、[桂{かつら}][川{がわ}]の[鮎{あゆ}]、それとおつゆね」
 この[恬淡{てんたん}]とした様子の元店主に、帰りの汽車賃は貸す、ただ夜行列車は心配だから明日の朝一で帰るように――と言われた紅だった。恐縮しながら焼きたての鮎を[齧{かじ}]ると、ハッとするほど爽やかな香りがした。
「おいしい!」
 実家でも女学校でも食いしん坊の称号をほしいままにしてきた紅だったが、さすがにこんな状況で満腹まで食べるわけにはいかない。おかわりは我慢と決めたが、思い出代わりに京都の料理にありつけて、幸せいっぱいの顔になる。
 湯葉と青菜のすまし汁の椀を取ると、台所でていねいに出汁を取る大江の姿がありありと想像できた。なにごとに対してもしっかり向き合う真面目さと、どこか軽やかな自在さのようなものが料理にも表れている気がする。
「それにしても、有り金を全部汽車賃に突っ込んで来るなんて、すごい度胸だね」
 大江に言われ、紅はむせかけた。彼は呆れているというよりは、どこか面白がっているような表情だ。
「いくら東京は不況とはいえ、菓子屋で働きたいならあっちのほうが多いだろう? [洒{しゃ}][落{れ}]た洋菓子屋だってたくさんあるし。どうして、わざわざなけなしの汽車賃を払ってまで慣れない京都に?」
「やっぱり大江先生のお菓子作りを、一度じかに見せていただきたくて」
 紅は微笑んでそう答えたが、大江は納得していないらしい。穏やかに下がった目のまま、しばらく紅の顔をじっと眺めていた。
「本当にそれだけのことで? 自分の生活も家族も全部置いてくるなんて、ただごとじゃない気もするけど……」
「それは……」
 思わず言い[淀{よど}]んでしまった紅に対して、「いや……いいんだよ」と大江はほろ苦い笑顔を浮かべた。もう明日で会わなくなる人間を詮索してもしかたがないと思ったのかもしれない。
「それにしてもきみ、いい食べっぷりだねぇ。どれも、夏になると妻がよく作っていたんだよな」
 久しぶりにこの話ができることを、どことなくはにかんでいるようにも見えた。酒は[嗜{たしな}]まないらしく、背筋を伸ばしてていねいに箸を運んでいる。
 紅もつられたように微笑した。
「奥様は京都のご出身なんですよね? 先生は――」
「あぁ、俺は八歳までは東京にいたんだ。その後、家の事情でいろんな場所に移り住んだけどね。きみは聞いているかな。十歳のときに出会った藤宮先生に紹介してもらって、日本橋の和菓子屋、『[升{ます}][屋{や}]』へ奉公に入って、ようやく落ち着いたのさ」
 それは、祝言のときに誰かが噂していたような気がする。升屋といえば東京で知らぬ者はないほどの名店だが、十歳ならば本来は尋常小学校の学齢だ。大江はおそらく経済的な事情から、小学校にも通うことを許されなかったのだろう。紅の学年にも、そうして無言でいなくなっていった子供たちが何人もいた。
 紅があいまいに頷くと、大江はその胸中を察したのか、「だから、お金がないやるせなさはよくわかるつもりだよ」と呟いた。
「そうだ、ちょうど祇園祭をやっているから今夜見にいくかい? 赤い山鉾がきれいだよ」
 一日で京都を去る紅に、気を利かせてくれたらしい。せっかくの誘いだったが、紅はちょっとシュンとしたような微笑みで遠慮した。
「あ、お気になさらないでください。ちょっと、人混みは苦手ですし……」
「そう? 祇園囃子も聞けるよ」
 その魅力に心は揺れ動いたけれど、しばらく考えた末、やはり今夜は静かにしていることにした。
「本当にすみません……ありがとうございます」
「そっか。それならいいけど」
 相変わらず大江は淡々としているが、その瞳には常に紅を気遣うような色が浮かんでいる。
 いつのまにか、目の前の椀には湯気を立てる白米が大盛りでおかわりされていて、紅は照れながらも歓喜を隠せず、それを頬張った。

 その夜は、二階の空き部屋を貸してもらえることになった。行ってみれば、こぢんまりした四畳半に白木の文机がある。
 大江がどこからか布団を抱えてくる間に、紅は籐のトランクを整理した。文机の上に小物を置かせてもらうと、そこには珍しい[瑠{る}][璃{り}]色の[洋灯{ランプ}]があることに気づく。火を灯すと、どんな感じになるのだろう? 森の奥の湖底のように光るだろうか。それとも意外と狐火のようになるかもしれない。どちらにせよきっと幻想的だろう。
「あぁ、それいいだろう?」
 客用とおぼしき布団とともに現れた大江が、少し誇らしげに言った。
「妻のものだったんだ。点けてみるかい」
「え、いいんですか?」
 待ってて、と言いながら大江は三つある[抽斗{ひきだし}]を上から順に開けはじめた。どうやら[燐寸{マッチ}]を探しているらしい。が、中は清々しいまでに空っぽで、残念ながらそれはどこにも見当たらない。
「あれ」
 最下段の、一番大きい抽斗が引っかかってしまい、きちんと閉まらなくなった。大江は[焦{じ}]れたようにゴトゴトやっていたが、最後には抽斗ごと取り外して暗がりを眺めた。
「ちょっと窮屈だな。きみなら手が届くかも。やってみてくれるかい?」
 奥になにか挟まっているようだ。お安い御用と紅が屈んで手を伸ばすと、西洋厚紙のようなさらりとした質感のものに触れた。
「これは……」
 思ったとおり、出てきたのは一枚の白い洋封筒だった。宛名もなにも書いておらず、未使用のものとわかる。手渡された大江もおぼえがないらしく、[矯{た}]めつ[眇{すが}]めつしていたが、おもむろに中を[検{あらた}]めた。
「青……」
 ほぅと息を吐くように、大江が呟いた。
 文机の上に置かれたものは、紅の[掌{てのひら}]に収まるほどの、厚手の青い和紙だった。それは[濃紺{のうこん}]といってよいほど暗く染められていて、手紙を書くのには不向きに思える。
 これはなんだろうと、なにげなくそれに触れた紅だったが、その瞬間「あっ」と声を上げてしまった。

 年季の入った畳と天井が、[紺碧{こんぺき}]の空と海、そして巨大な入道雲に変わる。
 白い砂浜の向こうには、紅がこれまで見たこともない青い花が、一面に咲き誇っていた。
 大江先生の――あの青いお菓子の色だと、紅は思った。

「――さん。紅さん!」
 ふと気づくと、脱力して両手を畳についた紅の背中を、大江が後ろからさすっていた。一瞬、意識を手放しかけてしまったようだ。
「急にどうした? 具合が悪かったのかい? 水でも持ってこようか」
「あ、違うんです。ちょっと、青い花が――」
 なにも考えずに言いかけて、紅はハッと口をつぐんだ。
「青い花……?」
「あっ、いえ……なんでもありません」
「もしかしてきみ、この紙のことをなにか知っているのか?」
「いえ、そういうわけでは――」
 とっさに目を泳がせた紅に、大江は疑念を抱いたらしかった。
「本当に? でも、急におろおろするなんて変じゃないか。どんなことでもいいから教えてくれないか」
「でも――」
「紅さん」
 正面に回った大江に思わぬ力で両肩をつかまれ、紅は[狼狽{ろうばい}]する。
 そのまなざしは、まるですがるように切実なものだった。
「お願いだ、なんでも教えてほしい。妻に……綾子にとって、青は特別な色だったんだ……。だから……」
「先生……?」
 大江はなにかに気づいたようにパッと両手を離し、「すまない」と俯いた。
「……この机は、妻がずっと使っていたものなんだ。わけあって中の遺品は処分してしまったけれど、俺はいまそれを死ぬほど悔やんでいる……」
 そんな中で、ふいにその一部が見つかったのなら、誰でも希望を持ってしまうだろう。
 それは、愛する人からの手紙のようなものだと。
 紅だって、それがどこからか届けばいいなと、どれほど[希{こいねが}]ってきたことか。
「どんなことでもいい。妻のことを知りたいんだ。知らなければならない。俺は……」
 伏せた大江の[睫{まつ}][毛{げ}]が意外なほど長く、紅はどきりとする。それが微風を受ける木の葉のように頼りなげに震えていて、その祈りがどこかへ届けばいいと、思わずにはいられなかった。

「……本当に、なにを話しても、信じてくれますか……?」

 かすれ声でそう問うた。ふいに上げた迷子のような大江の瞳が、紅を映している。
「私が話すこと、理解できないと思います……。誰も……父と母以外は信じてくれなかったから……」
「どういうこと……?」
 紅の告白に、今度は大江が戸惑う番だった。だが、彼はしばらくの間を置いて、「わかった」と頷いた。
「もちろん、信じよう。きみは噓で人を惑わすようには見えない」
 紅はそれを受けて、ためらいながら頷いた。明日には離れるとはいえ、長年尊敬の念を募らせてきた人だった。そんな人に、奇異な目を向けられるのは恐ろしかった。
 だけど、紅もまた大切な人を[喪{うしな}]っている。こぼれ落ちてしまったなにかの断片を求める大江のひたむきさが、痛いほど良心に突き刺さってくる。
 紅は、ほんの少しだけ話そうと決めた。それは、ほとんど誰もが一笑に付す――もしくは気味悪がって遠ざかる――奇妙な「体質」のことだった。
「私には、『思い出の色』が視えるんです」

「それ」が最初に視えたのはいつのころか、紅には記憶がない。
 ただ、常にそれは突然で、紅どころか一緒にいた両親をも驚かせるには十分な事象だった。
 紅が、人やものに触れたとき。ときおり、そこに宿っていたとしか思われない「景色」が眼前に立ち現れる。
 父が公園で見つけてきた[団栗{どんぐり}]をくれたとき、それを拾い上げる父の周囲一面の、[榛{はしばみ}]色の落葉樹林が視えた。父の友人という高名な画家の美人画に触れると、深夜のアトリエに広がる、[無{む}][間{けん}]の[漆黒{しっこく}]に視界が塗りつぶされた。
 紅にとって、その景色はいつも「色」にまつわっていた。人やものやその背景だってしっかりとらえているのに、紅の印象に一番強く残るのは「色」だ。もしかして、画家であり美術教育者の父の影響もあるのかもしれない。紅の周りにはいつだってとりどりの色が配されていたから、どこかにあるその残像を感じ取ってしまうのだろう。
 けれど、紅にとってこの体質は、決して喜ばしいものではなかった。
 望んでもいないのに、視たくもないのに、ふいに他人の「色」が視えてしまう。
 友人の母親がつけていた、夫ではない人に贈られた髪飾りの[若草{わかくさ}]色。賞の栄誉に浴した絵画が、無名の絵から模倣した少女の微笑――その口紅の[珊{さん}][瑚{ご}]色。
 なにもわからなかった紅は、しばしばそれを口にして[禍{わざわい}]を招いてしまった。
 穏やかに微笑む友人の母に、誰もいない石段で背中を押されたこと。
 喜びの絶頂にあったはずの若い絵描きが、亡霊のような顔で紅の部屋の外に立ったこと。
 紅は成長とともにその意味を理解し、罪深さに震えた夜がいくつもあった。
 恐ろしいものは、自分が視てしまった景色なのか。それとも、それを暴いた無邪気さか。
 とにかく、人を容易に鬼に変えてしまうなにかを、自分は持ってしまっていると気づきはじめた。
 そこに確かな「基準」はなかった。大事なものほど視えないことだってある。ささいな「思い出」が車窓からの眺めのように延々と押し寄せてくることも。
 紅自身も、それは窓の外のこととして平気で受け流せるときがあった。逆に、たった一枚のフィルムに立ち直れないほどの衝撃を受けてしまう日さえ。抑制の効かないこの唐突な上映劇は、年齢を重ねて行動範囲が広がるにつれ、回数も増えていくようだった。
「他人の思い出なんて視たくないのに……。知らないほうがいいことって、いっぱいありますよね? だから、私はもうつらくなって……」
 やがて紅は瞼を閉ざした。街に出られなくなってしまった。
「そんなことが――」
 大江は紅の眼前で、言葉を失っている。とうてい信じることなどできないのだろう。当然の反応だった。
 母の死後、父だけは心配させまいとどうにか女学校には通ったが、見知らぬ他人と[否{いや}]が[応{おう}]でも触れてしまう雑踏だけは我慢ならなかった。
 父の背中に追いつきたくて、必死に打ち込んでいたはずの西洋絵画も、才能のなさを自覚していつしか尻切れとんぼになっていた。自分がどこにいるのか、わからなくなった。
「だけどあるとき、月が見えたんです……」
 人を避け、俯いて歩いた夜。ふと顔を上げると薄雲の向こうに月があった。それはまるで淡く光を透かす障子紙だった。そこで、紅はふいに思い出したのだ。
 降り積もった記憶の底で、眠っていた宝物のことを。
 あの、神様の井戸の青を持つお菓子を。
 だから紅は京都に来た。

 話が終わってから、大江は難しそうに目を閉じて腕組みし、なにかをずっと考えているようだった。不安になった紅がじっと脂汗を流して見入る中、ようやく口を開いた。
「確かに、誰も信じないような話だね。そこに宿った景色が視えるだなんて――」
「はい、そうですよね……」
「だからこそ、俺を信じて話してくれてありがとう」
「……先生……」
 とうてい受け入れられない話だと思うが、大江は根っから否定するようなことは言わなかった。むしろ、紅の孤独を[慈{いつく}]しむような笑みを浮かべて話す。
「きみの事情はわかったよ。……いや、わかりきれてはいないけれど、ふしぎなことは世の中にたくさんあると思うよ。人と人との縁みたいにさ」
「……はい……」
 この優しい人に話してよかった。紅は心からそう思い、[安{あん}][堵{ど}]で脱力してしまった。
 いっぽう大江は、身長に比して[華奢{きゃしゃ}]な白い指で顎を[搔{か}]いている。
「じゃあ、そこでだ。きみがこの紙に視たものは――」
「あ……夏の空と海。それと青い花畑です」
 紅は再度紙に触れながらそう伝えたが、もうあの景色は立ち現れなかった。
 一度視えたものが、次に視えた経験はいままでにもない。
「だけど、そこは奥様が行った場所とは限らないんです。この紙をくれた人、もしくは作った人が見たものかもしれません」
「そんな場合もあるのかい? この紙が作られたときの光景が視えるなんてことも?」
「ええ、とにかく『誰か』が視たものとしか……。印象的な場面ばかりでなくて、なにげない断片みたいな景色だったりもして。その中に人が視えていれば、少しは絞られるかもしれませんが――あ、そうだ」
 記憶のフィルムを覗き込んでいると、新しいことに気がついた。
「遠くで、屈んで花を摘んでいる人の背中が視えました。性別も年齢もよくわからないけど、黄色っぽい着物を着ていました」
「黄色い着物かぁ。まぁ、よくいるっちゃあいるよね……」
「もしかして――」と紅はつけたした。
「祝言で視たきれいな景色と、これは同じ場所のような気がするんです。うまく言えないんですけど……雲の感じと、風景の色味が一致するような……。少なくとも、どちらも真夏の海辺です」
「海だって?」
 大江が、意外なほど頓狂な声を発した。
「待ってくれ。祝言で視た景色っていうのは、なんのことだい?」
 そうだった。このことを、まだ大江には言っていなかったのだ。
「海辺の景色です。青い有平糖に触れたら視えたんです。小学生くらいの男の子と女の子が、晴れた海辺にいて。洋装の奥様と、その隣にいたのはもちろん――」
 言葉の途中で、いやな予感がして紅は言うのをやめた。大江が「え?」という戸惑いを露骨に表したからだ。こういうとき、大変にまずい結末が待っていることを、紅はいやというほど経験していた。
「あ、いえ、その……」
 落ち着いてよく考えれば、あのとき紅が視たのは水面に映った少女の顔だけだ。少年のほうは――当然花婿の大江だと思っていただけで、その顔をはっきりとらえたわけではない。
 気まずい沈黙が流れる。それを破ったのは、「俺たちが出会ったのはどちらも十五のときなんだ……」という大江の沈んだ声だった。
「それに二人で行った水辺なんて、東京の神田川か京都の鴨川ぐらいなものさ。俺は海自体行ったことがないし、早くに独立したから、いつも忙しくしていてゆっくり出かけることもなかった……」
「も、申し訳ありません‼」
 紅は土下座する勢いで叫んだ。
「きききっと、私の勘違いです! 変なことを言ってしまって本当にすみません! さっきのことは忘れてください」
 そう言われて、本当に忘れてしまえる人間がどれだけいるだろうか? 紅は後悔に[苛{さいな}]まれながら謝罪し続けた。
 またやってしまった! これまで、この体質と不注意のせいでどれだけの人間関係と和やかな空気を破壊し尽くし[灰燼{かいじん} ]に[帰{き}]してきたことか。このことについては細心の注意を払おうと誓っていたのに、大江が優しく話を聞いてくれるものだから、ついつい口が滑ってしまった。
 それに……今回の失言は最大級に取り返しがつかないものではないか。
 大江の妻は二度とこの世に戻らないのに。大江は、これから一生この重荷を背負って生きていくことになる。人を傷つけるばかりではない。美しい思い出にまで泥を塗るしかない自分が、心底いやになってしまう。
「いいんだ。きみが謝ることじゃない」
 大江は、見るからに無理をしているような笑顔を向けてきた。
「俺は海を知らないものだから……ちょっと驚いただけだよ」
「いえ、あの――!」
 なおも謝罪しようとする紅を大江は手で制し、「ちょっと、来てくれるかな」とゆっくり立ち上がった。
 階段を下り、台所の勝手口から出た先にあったものは、古い蔵だった。星空のもと、白い[漆喰{しっくい}]の壁がぼんやりと浮き上がって見える。大江はいかめしい錠前を開けて紅を中に手招くと、すぐ内側の飾り棚に置いてある洋灯を点けた。今回は、燐寸箱はすぐその横にあった。
「わぁ……」
 照らし出された光景に、紅は落ち込んでいた心が少しだけ華やぐのを感じた。
 まるで博覧会場のように、壁面には数々の絵画が展示されている。[一瞥{いちべつ}]したかぎり、風景を描いた明るい油彩画が多いようだった。森でさえずる小鳥、雪解けの街並み、そしてさまざまな雲の絵。
 頼りない灯りに揺れながら、どれもふしぎなほどの透明感を放っている。絵を収蔵しているのだろう、着物用の[桐{きり}][箪{だん}][笥{す}]も置いてあった。
「妻の絵だよ。どれもきれいだろう? 俺が言うのもなんだけど、風景画家として年々評価が上がってきているんだ」
 誇らしげにそう伝えた大江だが、徐々に声の調子が落ちていってしまう。
「俺は全部の絵が好きで……妻の一部のように思っていたのにな。生活のために何枚か売ってしまったんだ。情けないよねぇ、この体を無駄に生き永らえさせるためだけに、命より大事なものを手放し続けるだなんて」
 大江は自虐の笑みを浮かべる。紅がなにも言えないでいると、慣れた手つきで箪笥の最下段を開ける。やがて中から取り出されたのは、壁のどの絵とも違った趣の青い絵だった。
 例の海辺の景色だ。紅はそう直感したけれど、それより先に漏れたのは、「きれい……」というため息だった。
「なのに、未完成なんですか……?」
「きみもやっぱりそう思う?」
 それは抜けるような青空と海辺の水彩画だった。大江の胸に収まるほどの大きさで、雲と砂浜はなにも塗らずに白を表現している。そこに、藍染の着物と黄色い風呂敷包みを持った少年が一人立って、紅の目をしっかり見ている。その笑顔は、どこか[歳{とし}]に似合わない。白抜きの顔に[薄紅{うすべに}]の唇、そして薄い青色の瞳が秘密めいているような気もした。
 絵自体にはなにも問題がなく、描き足すところもなさそうにも思える。それなのになぜ未完成と思ったのかというと、板に水張りされた状態のままだったからだ。
「私もあまり詳しくないですけど、父にひととおり教わったことはあります。水彩画は描くときの水分で絵がたわんでしまわないように、あらかじめ画紙を水で湿らせて板に張りつけ、乾かしておくんです。そして、描き終わったあとにまた乾かして板から外すんですが――」
「この絵は外されていない。そういうことだよね?」
「ええ……」
 だが、その理由までは紅にもわからない。単純に、たまたま水彩に挑戦したものの、気に入らなくてそのまま放っておかれたものかもしれない。それとも、白抜きの部分になにか描こうと思って忘れられたのだろうか?
「妻は、死の間際にも絵を完成させていた。一度やりはじめたら、途中で投げ出すことはしない性分だったんだ。未完成に見えるものは、これだけなんだよな……」
 大江が苦笑しながら、絵の一隅を指さす。だいぶ薄くなってはいるが、鉛筆書きで、「八月十日 あの人と」という字が読めた。
「…………⁉」
 紅は、穴が開くほど少年を凝視した。
 こんな絵に残すということは、よほど大事な人ということになるではないか。だけど、その顔は大江に似ても似つかない。垂れ目気味でいかにも柔和に見える大江とは違い、彼はぱっち
りとした大きな目を持っている。なにより、瞳の色が違う。
 血の気を失う紅を尻目に、大江が独白のように言う。
「彼女が本当はこの人を思っていたかもなんてことは、いまさら詮索しないし、どうだっていいことだ。なにがあっても、俺の気持ちは変わることはないだろう。だけど」
 洋灯の光が絵から離れ、青は黒い影に覆われる。大江が一度洋灯を床に置き、絵をしまうために屈み込んだからだ。桐の抽斗を音もなく閉めながら、大江は力なくこう話した。
「彼女は本当に……青が好きだった。その中の一つの風景には、こんな美しい思い出も挟まっていたのかななんて、ふっと思うことがあるんだよ。俺には、どうしようもないことなんだけどね」

「待って……!」
 紅はとっさに大江の手をつかみ、抽斗が完全に閉ざされる前に止めた。
「もう一度、絵をよく見せてください」
「え?」
 再び取り出された水彩画を、紅は見つめる。どこかで、同じ色を見たような気がする。紙いっぱいに溢れる青だけではない――。
「黄色だ……」
 そっと呟いた。大江が「黄色?」と訊き返す。
「ええ。男の子が持っている風呂敷です。この少し緑がかった黄色……そうだ」
 今日道案内してくれた青年の、帽子。あれと同じ色合いだと思う。あの帽子に触れた瞬間、紅は山あいにそよぐ眩しい[薄{すすき}]野原を幻視した。そして、青い花を摘んでいた誰かの着物も同じような黄色だ。もしかして、それらはあの植物で染められた――同じ産地のものでは?
 それを伝えると、大江は今度こそ絵をしまいながら苦笑した。
「俺は絵画のことはわからないけど、色味なんて現実とかけ離れることはあるだろう? その人の帽子とこの風呂敷と、さらに青い花畑にいた人の着物の染料まで同じだなんて、ちょっとありえない気がするけどなぁ」
「けど、もし手がかりにでもなれば、男の子のこともなにかわかるかも――」
 大江は母屋へ戻りながら、ゆっくりと首を振った。
「いいんだよ、本当に。いまさら相手のことを知ってなんになる? どんな結果になってもむなしいだけだろう?」
「でも、奥様のことを――絵に込められた思いを、知りたくはありませんか?」
 わずかな願いにすがるように紅は絞り出したが、大江は悲しげな微笑を浮かべたままだ。
「人の心には、知らなくていいことがある。きみも言っていたよね。そのとおりのことじゃないか」
「それは――」
 なにも言えなくなった紅をいざなうように、大江は蔵から出た。
 そのまま無言で歩いた先は、台所に隣接する菓子工房だ。作業台といくつかの[什{じゅう}][器{き}]だけの、店同様にがらんとしたそこの電気を点けると、大江は大きな冷蔵庫を開けた。
 木製のその上段には氷が入っていて、下の食品を冷やす仕組みだ。もちろん氷は毎日買って補充しなければならない。紅は、閉めているはずのこの店の冷蔵庫が生きていることを、少し意外に思った。
「近所に頑固な常連さんがいてねぇ。うちの和菓子でないと仏壇に供えたくないなんて言うんだ。だから正確には、うちは閉店じゃなくて受注生産制ってやつだ。売上一日十銭だけのね」
 大江がまた苦笑いしたが、それはさきほどまでとは違い、少し体温を感じるものだった。
「それも、『夏やからって寒々しいお菓子は絶対にいやや』、なんて言うんだ。カンカンに暑かろうがあたたかそうな和菓子を作ってくれなんて言ってね。和菓子屋は季節感をとても大事にするってのに、参ったよ」
「そうなんですか?」
「あぁ、だからいまの京都で毎日そんなことしているのは俺くらいだよ」
 菓子作りへの信念もなくてさ――そう言って大江が取り出したのは、[向日葵{ひまわり}]をかたどった上生菓子だった。[練切{ねりきり} ]あんの鮮やかな黄色い花弁が、一つ一つ立体的にていねいに作られ、中央に丸く配されたこしあんの上には[芥子{けし}]の実が散らされている。真夏の眩しい日差しが、本当にここへ降り注いでいるような気がした。
「すごい……」
「菓銘は『日輪草{にちりんそう}]』、ってところかな。向日葵の別名さ。まぁ、あの人そんな細かいことまでは気にしないんだけどね。いつも一つだけだとかえって手間だからいくつか作るんだ。せっかく来てくれたんだから、最後に食べてくれないかな。これしかなくて悪いけどね」
「あ、ありがとうございます……」
 紅は大江の意図がわからず、もごもごとお礼を言ったまま立ち尽くしてしまった。大江はさっさと台所に向かい、紅のため茶碗に水を汲んで戻ってきた。
 作り手に見られながらなので少し緊張するが、紅はしっかりいただきますと言って向日葵の花弁を口にした。
 練切あんはたしか、白あんと砂糖、[求{ぎゅう}][肥{ひ}]などのつなぎを混ぜたものに色をつけたものだったと思う。優しい甘さとなめらかな舌触りに、紅の口元はすぐほころんだ。
「やっぱり、おいしい!」
「ありがと」
 紅の食べっぷりに感心したものか、大江はふふっと笑っている。
「ずいぶんいい反応をして食べてくれるんだねぇ」
「あっ、すみません、つい……」
「いいんだよ。妻にもそんなところがあったから、懐かしくなってね」
 一瞬、風が通り抜けるような間が空いた。
「ところでそれ、花の色。[梔子{くちなし}]の黄色だよ。お菓子だけでなく染色でも使うだろう?」
「あぁ……」
 それを言いたかったのか。確かに、布を黄色く染めようと思えば、ほかにいくらでも手段はあるのだ。
「だから[刈安{かりやす}]とは限らないと思うんだけどな」
「……え? いま、なんて?」
 大口を開けて残りを頬張ろうとしていた紅は、ふいに出てきた聞き慣れない単語に静止してしまった。
 大江はふしぎそうな顔で紅を眺めている。
「だから、刈安って植物。きみが視た[薄{すすき}]ってのはそれだろ? よく似ているんだよ。ほかの地方は知らないけど、畿内で黄色く染める材料といえば、[伊{い}][吹{ぶき}][山{やま}]の刈安が有名だよ」
 当然のことのように話す大江に、紅は目を白黒させた。
「すみません……あの、伊吹山っていうのは……?」
「あぁ、[近江{おうみ}]だよ。正確には、滋賀県と岐阜県にまたがる山。そこがよく日が当たるとかでいい黄色が出るらしく、刈安の産地なんだ。少なくとも、今日会った人の帽子はそこのもので染められたんじゃないかな」
「近江の、刈安……」
「だけど、黄色なんて世の中に溢れているだろう。最近は輸入の化学染料も増えているし、関西人だからってなんでも伊吹山の刈安を使うわけじゃない」
 実家の近くに染色工房があるので、紅も少しは知っている。染料なんてそれこそ草木の数ほどあると思う。団栗のかさが[黄褐色{おうかっしょく}]の[橡{つるばみ}]色になるということで、紅は秋になると、それをせっせと集めておやつと交換してもらったものだ。
 紅がまだ考え込んでいると、大江はもうその話は終わりだというふうに、茶碗などを片づけはじめた。
「俺は、伊吹山の刈安の刈り取りをさせられていたことがあってね。もう十何年も前のことさ。あまりいい思い出はないんだよ」
 紅は続きが気になって立ち上がりかねていた。そのまま、天井へ手を伸ばして電灯を消そうとしていた大江だが、紅と目が合ってしまうと軽くため息をついて腰かけた。
「面白くもなんともないことだよ。むしろ、忘れてしまいたいくらいだ」

          二

 小学二年のときに工場の事故で両親を亡くした大江は、一時期親戚の家をたらい回しにされていた。体が弱く、力仕事はさせられないと、どこの預け先でも露骨に厄介そうな顔をされたのを覚えているという。
 唯一得意だったのは工作で、籠作りの竹ひごがあれば、籠のついでに飛行船や虫の模型など簡単に作ってしまえたので、子供たちからは[羨望{せんぼう}]の的だった。
 [信州{しんしゅう}]に預けられていたときは、自作の虫籠を持って野山に行くことができた。大江が独りで探していたのは[蝶{ちょう}]だ。沢辺でふいに見かけた[烏{からす}][揚{あげ}][羽{は}]の青い紋様を、自分のものにしてみたかったのだ。色[褪{あ}]せた毎日のなかで、それだけがふしぎに浮き上がって見え、夢中になった。
 けれど、どこか違う世へと誘うようなあの[燐光{りんこう}]に再び出会う前に、季節は移り、大江は別の家へ引っ越すことになった。
 その家こそが、近江の農家だった。秋になると稲刈りのほかに、伊吹山の刈安を収穫して染色家に引き渡さなければならない。猫の手も借りたいほど忙しいので、ひ弱な大江でもいないよりはましと思われたらしい。
「そこの家では本当にひどい目にあったよ。力仕事を散々させられて、寝るのも食事も納屋だった。みんなが食べていた魚も鴨も、もらえたことなんて一度もなかったな」
 大江はふっと吐息を漏らし、微笑した。
「学校も通えなかったけれど、そこの家の子たちはみんな行っていた。夏休みも本当に楽しそうにしていてね、二泊三日の水練授業なんてのがあるっていうんだ」
「そんな、ひどい……」
「まぁねぇ。羨ましかったし、悲しかったなぁ。だから、その子たちが出発した日――」
 大江は体調が悪いと言って、畑に出ず家で仕事をしていた。そして、誰もいなくなったころあいを見計らって、最小限の荷物だけを持ってそこから逃げ出したのだった。
「それで、そのあとは――」
 紅が息を吞むと、大江はちょっと顔をしかめて首を振った。
「当然、行く場所なんてないよ。一日さまよって、誰か親切な人に助けられて車で帰してもらったんだったかな。当然怒られるかと思ったけど、それはなかった。……それどころじゃなかったんだ」
 大江が留守にしたあいだ、古い農家は火事になっていた。
 幸い、近所の人たちが駆けつけて[小火{ぼや}]で済んだらしいが、台所まわりはひどいありさまだった。朝食に魚を焼いた七輪の残り火を、猫が倒したのだろうということだ。たった半日で変貌してしまった家と、泣きわめく家人を目の当たりにして、大江の膝は震えた。
「俺が出ていくとき、きちんと火の始末をしておけばよかった……けれど、俺はみんなが魚を食べたかどうかなんて、知らなかったんだ」
「先生はなにも悪くないですよ。悪いのは――」
 いきり立つ紅を、大江はそっと制するように言った。
「いいんだよ。確かに単純な不注意だったんだろう。だけど、俺は……」
 悲しみに歪む紅の顔を、大江は見ていない。紅を飛び越えて、はるか昔の遠い場所を眺めているようですらあった。
 もう消えたはずの火は、大江の小さな心を[苛{さいな}]んだ。夜中に何度も、火事を起こす夢を見て汗だくで目覚める日が続いた。飛び去る青い蝶とは反対に、赤い火は大江を内側から確かに[灼{や}]いていった。
「私も――」
 紅はなにごとか言いかけて、やはりやめた。紅の中にも暗く赤が燃えている。だけど、それは大江の赤とはきっとまったく別のものなのだ。
「そんなときだったよ」
 大江は紅の呟きが耳に入らなかったようで、思い出話を続ける。
 秋を迎え、東京から珍しい客人が現れたのだった。
「刈安の染料を絵画に応用できないかと、調査のためにきみのお父さん、藤宮恭太郎先生がやってきてね――」
 大江の第二の人生は、確かにここから始まった。
 たまたま、藤宮は大江が作った竹ひご細工に目を留めた。烏揚羽が[大{おお}][蟷螂{かまきり}]の斧に絡めとられ、いままさに食べられる寸前の模型だった。
 将来私の学校に来ないかと、穏やかな目をした学者は言った。だが大江は即座に断った。
 自立したい、いますぐに。そのためには金が必要だから、どこででも働きたいと。
 工芸が好きなのかいと、藤宮は問うた。
 大江は今度は少しだけ考えて、『いいえ』と言った。
『ものを作るのはいやじゃないけれど、本当は蝶が好きなんです。蝶のふしぎな青色が……』
 藤宮は頷き、どういう手はずを整えたものか、調査が終わると大江を東京に連れていってくれた。そこで近江との縁は完全に切れ、次に連れられたのは日本橋の和菓子屋、「升屋」だった。
 その店で大江は、最新式の[硝子{ガラス}]のショーケースに並ぶ、色とりどりの和菓子を見た。繊細に作り込まれた、季節の風景の数々。黄金の稲穂に止まる[赤{あか}][蜻蛉{とんぼ}]。秋空の下でたわわに実った山[葡萄{ぶどう}]。[羊羹{ようかん}]の空に浮かぶ、欠けることのない栗の月。
「それらは、俺の中に眠る『色』への欲求を搔き立てるには十分だったよ」
 大江は、藤宮に促されるより前に、仏頂面の店主に深々と頭を下げた。

 ――ここで奉公させてください。

 明治の世が終わろうとするころだった。

          三

 星空へ向けて開け放した窓からは、ようやく涼しくなった風と、どこかで[弾{ひ}]かれる三味線の音が入ってくる。
 寝つけない紅は、二階の窓から異郷の街を眺めていた。すぐ真上に吊り下げられた風鈴が、ときおり澄んだ[音{ね}]で夜を区切る。
「青い花……かぁ」
 紅はずっと、幻影の青について考えている。
 明日にはもとの家に戻って奉公先を探さなければならないのに、自分はなにをやっているのだろうとは思うけれど。
 東京に戻れば、もう大江と会うこともない。きっと日常のあわいに、あの穏やかな面影は再び沈んでいくのだろう。
 自分は美しいお菓子とは縁がなかった。それだけのことだ。だったらそれなりの生き方をまた探せばいい。たいしたことではない。
 大江の言うとおり、東京にはどんなお菓子屋だってあるのだ。それどころか、ありとあらゆる店と仕事が集まっているではないか。
「だけど……」
 紅は[急{せ}]いている。焦っているといってもいい。
 八年前のお菓子に、紅の心は奪われた。そしてさきほど食べた向日葵の練切も同じく――むしろそれ以上に輝いて見えた。
 ゆえに、紅は告げたのだ。片づけのため去っていく大江の背中に。
「先生、また作りませんか? 先生はこんなにきれいでおいしいお菓子を作れるんですから。だから――」
 だが、本心からのその言葉は、台所に入ってしまった彼には届かなかった。歪んだすり硝子の向こうから、淡々とした声が響いた。
「いくら小手先でごまかせても、もう俺の心は枯れてしまったんだよ。なにを作っても、どんな色を咲かせても、なんだか偽りのような気がする」
 ――偽り。
 祭りで浮き立っていた夜景は、まどろむように鎮まっていく。それでも、紅の瞳には赤い提灯の光だけが焼きついてしまう。
 その色が、ふいにじんわりと滲んだ。
「私も偽ってばかりだ……」
 紅が、京都に来たもう一つの理由。東京を捨てようとしたこと。それを思うと、大江に対しても小さな罪悪感が芽生える。

 紅は、自分の名前の色が好きではなかった。
 べつに忌避しているほどではない。そうするには、世の中に赤は多すぎる。単純にちょっと苦手という程度だ。だけどその反動か、紅は青いものに[惹{ひ}]かれ続けてきた。あの青い観世水紋の有平糖は、そんな紅の前に現れた宝石に等しかった。
 すべての色を愛せない自分が、四季折々の和菓子など本当に作れるはずがないと、どこかでわかっていた。それでもあの美しい色が忘れられなくて、踏み出しさえすればなにかが変わるかもしれないと思いたくて、紅はここまでやってきた。だけど。
「海辺の思い出を持っていないのなら、どうして先生はあのお菓子を作ったんだろう……」
 本来、祝いごとにはあまり向いていないとされる、水が「流れる」意匠。親戚から苦言も出ただろうに、なぜあえてそれを選んだのか。
 青い蝶に魅せられた少年。炎の夢に怯えた日々。
 そして青い水彩画と、青い無言の手紙を遺して逝った妻。
 生と死とに分かたれた、二人を結ぶ渦の紋様。
 まどろみに吸い込まれそうになり、紅はハッと顔を上げた。
「だけど、私は――」
 ここに来た。それだけは偽りにしたくない。
 せめて、夏をいっぱいに包んだあの向日葵のお返しだけでも――なにかしなくては。
 そして紅は夢を見た。森の中の深い流れに泳ぐ、一尾の鮎の姿を。
 鮎は、濃い青の折り紙でできている。この紙についてのこと、どこかで聞かなかっただろうかと、紅は意識の深みを探るが、やわらかな泥を舞い上げるだけだ。それはやがて紅を覆い尽くし、夜の闇と混じり合っていった。

          四

 次の朝早く、紅が足音を忍ばせて一階に下りると、大江の姿はなかった。すでに起き出している気配はあったから、ちょっと外に用事でもあるのかもしれない。いまのうちにと、紅はそっと家を抜け出した。文机には、「もう一日だけここに泊めてください。少し出かけてきます」と書いた[文{ふみ}]を置いてきていた。
「日が――」
 外に出た紅の目を射たものは、空を割る日の出だった。一日のはじまりの色さえ、京都は濃いのだと思う。
 濃紺から[東雲{しののめ}]色に移り変わる山際を目指し、紅はしんと涼しくなった古い街を歩いた。それでも朝日が照らす頬は、確実に温度を感じはじめている。今日も暑くなりそうだ。
「ねぇ、ちょっと……!」
 突然、背後から声がした。ぼんやりしていたので気づくのが遅れた。と同時に、背後から強く腕をつかまれる。
 そのとき、まばゆい昼間の光が紅の視界を覆った。

 紅は、どこかのささやかな庭先に立っている。
 ――違う。これはまたいつもの――。
 青葉の下、たくさんの洗濯物を、白い[割烹着{かっぽうぎ}]姿の若い女性が洗い張りしている。狭い庭木の間に何枚もの板を置き、一心に反物の[皺{しわ}]を伸ばすその表情を、紅は確かに視た。

「紅さん!」
 ふっと視界がもとに戻った。振り向いた格好の紅を正面から見据えていたのは、息を切らした大江だ。
「先生、どうして……」
「そこのお社にお参りしていたらきみを見かけたんだよ。きみこそどうしたんだ、こんな朝早くに」
「すみません、もう一日だけいていいですか? 出かけたいところがありまして」
「出かけるって、いったいどこにだい?」
「ちょっと……」
 もごもごと言い淀む紅に、大江は深いため息をつく。
「もしかして、昨日の絵に関することじゃないだろうね? あの話は終わっているんだ。きみにはなんの関係もないだろう?」
「……でも」
 紅は決意して顔を上げた。
「やっぱりあの黄色が気になるんです。なにかわかるかもしれないと思って……伊吹山に行ってみます」
「そんなところに行ったって、なにもわかるわけがないだろう」
 大江は呆れたように言い、紅の腕を離した。
「しかも、徒歩で行く気かい? 青山から横浜に行くのとはわけが違うんだよ?」
「大丈夫です。歩くのは慣れていますから」
「そういう問題じゃないよ。きみには関係がないことなんだから、なにもしなくていいんだ」
 紅の胸に、「関係がない」という言葉が突き刺さる。
「そりゃ、私は部外者ですけど、なにかできることがあればと思って――」
「本当にいいんだ。ほっといてくれよ」
 まるで捨て鉢のような、苛立ちまぎれの声に、紅は立ち止まった。
「大江先生のお菓子が、私に違う世界を見せてくれた……そう思っていたんです」
「買いかぶりだよ」
 大江の声は冷えたままだった。
「俺にそんな力なんてない。いや――誰にだってないよ。他人が自分を変えてくれるだなんて、思わないほうがいい。それはただの幻想なんだから」
 とっさに反論しようと口を開きかけた紅だが、ふと黙ってしまった。
 この人は、ここにいるようで、いないのだ。
 その心はどこか遠くへ行ってしまっている。それは誰にも動かせないし、動きようがない。
 そして、ここまでこの人を変えてしまったものは――。
 紅の沈黙をどうとらえたものか、大江はさっさと歩いていく。だが、それは店の方向とは真反対だ。気まずくてなにも切り出せない紅を尻目に彼が先導したのは、昨日着いたばかりの京都駅だった。
 このままだと東京に帰される!
 そう思った紅は、とっさに[踵{きびす}]を返して逃亡しようとした。
 だが、その動きはとうに予見されていたらしく、後ろから襟首をガッチリとつかまれる。
「きゃあっ!」
「まったく、きみは本当におてんばだなぁ。うちにも一人おてんばがいたから、なんとなくわかるよ」
「え、それは――」
 亡くなった妻のことだろうか。訊く隙も与えず、まだ人影の少ない駅構内を指さしながら大江は話した。
「伊吹山のほうへは、北陸本線で長浜に行くのが手っ取り早いよ。路銀のことは気にしなくていいから。けれど、伊吹山に登頂しようだなんて思わないでくれよ。近江で一番高い山なんだから」
「先生……?」
 淡々とした様子で切符を買ってきた大江の手には、長浜行きの切符が二枚握られていた。
「きみの気が済むなら、行けばいい。でも、なにかあったら藤宮先生に顔向けできないだろう? 俺も一緒に行くよ」
「ほ、本当ですか?」
 思わず声を上ずらせる紅に向かい、釘を刺すように大江は言った。
「べつに、なにかの感傷に動かされているわけじゃないよ。こんなことできみの気が晴れて、快く東京に戻れるならね」
 [乗降場{ホーム}]に向かう階段を上りながら、大江が諦め半分の口調で話す。
「あとね、昨日から思っていたけど、『先生』っていうのはやめてくれないかな。俺はきみの師匠でもなんでもないんだから」
 そう言われたものの、なんと返事をしたものか紅が考えていると、乗降場に入線してきた始発の蒸気機関車が汽笛を鳴らした。

 伊吹山に近い長浜駅に至るまでは、琵琶湖の東岸に沿って二十五里――百キロほどの道のりらしい。鉄道なら三時間かからないが、徒歩で行けば大江の言うとおりに無謀だっただろう。
「昔の俺だって、さすがに県境を越えようとまでは思わなかったよ」
 四人がけの席に斜め向かいで座り、弁当売りから窓越しに買った笹の葉の包みを手渡しながら、大江がふっと苦笑した。中には、[紫蘇{しそ}]の葉でくるんだ俵型のおにぎりが二つと、鮮やかなしば漬けが入っている。
 さっそくおにぎりを頬張ろうとしていた紅は、思い直して問う。
「『昔』って、預かり先の家を出たときですよね。歩いてどこまで行けたんですか?」
「どこだったかなぁ。とりあえず[中山道{なかせんどう}]に出て、田んぼ道を進んで――いくつか街を通ったはずなんだけど、なにも覚えていないな。今日みたいによく晴れた夏の朝だったってことくらいかな」
 紅は中山道を直接通ったことはないが、授業では習った。東京から長野や滋賀を経由して京都まで向かう街道だった――と思う。滋賀県内では琵琶湖東岸を通る道筋なので、いま二人が乗っている路線とほぼ同じだ。
「……本当は、二度とこっちに来るつもりはなかった」
 しばらく、汽車が線路を行く単調な音ばかりが響いていた。ほかに客のいない三等車の窓硝子は、いつしか古都の街並みではなく青々とした田畑と山を見せている。[逢坂{おうさか}]の関とはこのあたりなのだろうか。大津で再び賑わいが戻ったが、それもすぐに真夏の緑に塗りつぶされていく。長い間車窓をぼんやり眺めていた大江が、ぽつりと口を開いた。
「俺は近江につらい思い出があったから、あれから一度も滋賀県境を[跨{また}]いでいない。妻もだよ。俺の経歴を知っていたからね。まぁそんなことがなくても、小旅行に行けるほど余裕もなかったわけだけど」
 言いながら、紅をふいに見て苦笑する。大江はよくそうやって笑うが、八の字に下がった眉と目尻に妙な[愛{あい}][嬌{きょう}]がある。きっとこれまでも、彼はこのやわらかな[表情{かお}]でいろいろなことを受け流してきたのだろうと思わせた。
「昨日までは、誰かと汽車に乗っている想像すらできなかったのに。人生ってのはなにがあるかわからないな」
「私も――いえ、私は意外じゃないかもしれません。もちろん具体的な予想なんてできませんでしたけど」
「どういうこと?」
 ふしぎそうな大江に、紅は照れるように微笑んだ。
「東京を発つとき、私は『色を探す旅』に出るような気がしていたんです。京都の色と、あの祝い菓子の青。そこに私は向かっていくんだと思っていたから」
 だからこれはさながら、青を探す旅ということになる。不本意なのに巻き込むかたちになった大江には悪かったが。
 紅は、キャンバスに色を創ることを諦めた。自分は父のようには――誰かのようにはなれないと知っていた。それでも、まだ「なにか」への憧れの[灯{ひ}]は消えておらず、昔見た美しい色への思いが募っていった。きっとこの衝動は、自分の奇妙な体質とは無関係ではないと勘づいていたけれど。
「きみは面白い人だなぁ」
 窓辺に肘をついた大江が感慨深そうに言った。
「そういえば、昔妻が言っていたよ。『青はつかめない』ってね」
「青は……つかめない?」
「そう。海も空もすぐ目の前にあるのに、手を伸ばしてもその色そのものは取り出せない。青は誰のものにもならない。妻が愛したのは、そんな自由さだったような気もするよ」
「自由……いいですね……」
 それは、紅が世界と絵画に対して抱いたもどかしさとよく似ていた。けれど、彼女は[それゆえに{、、、、、}]青を受け入れていたという。紅は人生でただ一度すれ違っただけのあの明朗そうな女性に、もう一度会いたかったと思ってしまった。
 いいや、紅は会ったのだ、彼女に。
「綾子は――妻は、幸せにならないといけなかったのに――」
 抑制の効いた声が、紅の意識を客車へと引き戻した。
「彼女はね、なんでも[後{ご}][白河法皇{しらかわほうおう}]に[検非違使{けびいし}]に[抜擢{ばってき}]されたという、士族の名家の娘なんだ。『ちゃんとした人と結婚して家を継ぐ』という約束で絵画をやらせてもらっていたのに、連れてきた相手がこんなやつだから、ご両親は怒って……勘当みたいなものかな。藤宮先生の説得でしぶしぶ婚姻は認めてくれたけれど、祝言には来なかった。そのうえ、本当はもっと絵を描きたかっただろうに……俺の夢も大事だなんて言って、店の経営でも苦労をかけっぱなしで……」
 大江が珍しく語尾を濁した。あの清らかな結婚式にそんな事情があったとは、幼い紅はまったく気がつかなかった。花婿は、どういう気持ちで水の和菓子を作っていたのだろうか。
「……その藍染めの作務衣、奥様が洗ってくれていたんですね」
 伏し目がちになっていた大江に、紅はそっと話しかけた。かつては[濃紺{のうこん}]に染められていたであろうその色は、[露草{つゆくさ}]色と呼べるほどに褪せてしまっている。
 藍染めの着物は、日本でもっともありふれていると言ってもいい。藍という植物は身近だし、染めやすい。最近は化学染料も増えてきたけれど、紅にとっても草花由来の色のほうが落ち着く。
「この作務衣に触れたとき、静閑堂の庭先で、洗濯物を干している奥様の姿を視ました」
 紅がそう告げると、大江の瞳に小さな彩りが生まれた。
「……確かに、そうだ。洗濯物はいつもあそこに――」
 突然射し込んだ細い光にすがるかのように、大江は紅の隣に座った。[急{せ} ]くように両肩へ手を置く。
「綾子は、どんな様子だった? どんな [表情{かお}]をしていた? それはいつごろのことだったんだろう……」
 残念ながら、紅はすべての問いに答えることはできない。紅に視えるのは過去のいつかを一方向から写したフィルムだけなのだから。
 だけどただ一つだけ、言えることがあるとすれば――。

「……え――」

 口を開きかけた紅だったが、用意した言葉すら告げることはできなかった。
 呆然と前を見つめる。視界の真ん中には大江がいるが、焦点はそこにない。
 紅の様子に気づいた大江も、手を離して緩慢に振り返る。そこには窓があった。
「これは――」
 二人は息を吞み、その光景を眺める。

 青。

 一面の青が咲いていた。
 どこまでも広がる花畑。背の高い緑の茎と葉の中に隙間なく、小ぶりな青い花弁がいっぱいに開いている。
 それは幻想に垣間見た色とも少し違う気がした。正確には、同じだけど同じではない。
 どんな青とも違っていて、はっきりと濃いのにどこか澄んでいる。こちらに迫ってきそうなほどに立体的で、みずみずしい生命を感じさせた。
 紅が言葉を紡ぐのを待たず、大江も瞬時にこれがなんなのか理解したようだった。
「きみが視た花は、これだったんじゃ……?」という確認のような問いに、紅は外へ視線を奪われたまま頷く。
「先生、ここは――」
 列車は減速を始めている。永遠に続くような気がした花畑は家々に搔き消され、あっけなく幻灯が途切れたような余韻ばかりが残った。
 もう呼ぶなと言ったはずの「先生」を使われたことにも気づかず、大江は周囲に[忙{せわ}]しなく目を向け、やがて焦れたように古い懐中時計を取り出した。
「たぶん、滋賀県の…… 草津のあたりだ。もちろん、きみ――」
 降りるだろう? と問われなくとも、紅の返事はすでに決まっていた。
 伊吹山にはまだ遠かった。けれど、探していた色の断片はきっとここにある。喪ってしまった人からの、青い手紙に書かれたなにかが。

 こぢんまりとした木造駅舎に、行き交う人はまばらだった。通学時間帯のはずだが、学生はもう夏休みに入ったのだろうか。東京でよく見るタクシーやバスの姿もない。京都市内よりもいくぶん涼やかな空気の中、蝉の声だけが満ちている。
「こっちだ」
 背後で動き出した汽車とは反対の方向に、大江が歩を進める。土地勘などないはずだが、その足取りはどこか確信的だった。しばらく無言で歩いたのち、大江の背中が呟いた。
「俺は、知っていたような気がするんだ」
「え?」
「あの青い花だよ。もしかして、昔見たことがあるのかも……」
 そのもの言いには、どこか熱に浮かされたような響きがあった。
 大江の意識は、過去と夢幻の世界に入りかけているのかもしれない。一年間、あのがらんどうの店に独り籠もり続けてきた日々を思うと、紅はなにも言えなくなった。本当は誰よりも、たった一つの青を希求していたのは大江自身のはずだった。
 流れる汗をぬぐおうともせず、大江は歩き続けた。まるで砂漠を進む伝道者のように。ときおり、久しぶりに酷使したであろう足元がふらつく。紅は心配しながらも、それを支えることはしなかった。大江が必要としているのは、誰かの憐れみでも助けでもない。
 やがて、軒先に区切られていた空がひらけた。ハッとする間もなく紅の目に飛び込んできたのは、さきほど見たよりもずっと間近にある青い花々だった。
「これだ……」
 立ち止まり、大江が放心したように呟く。
 視界の果てまで広がる青い花畑。その高さは紅の胸くらいまであった。すべての茎に、濃い緑の細い葉と青い花がびっしりとついている。親指ほどの花弁はまるで天女の羽衣のようにふんわりと広がり、その裾には鮮やかな黄色い[蕊{しべ}]の飾り。大きさこそまったく違うが、これはまるで――。
「露草……?」
 無意識に呟いた紅に、大江も同調した。
「そうだね……よく似ている……」
 紅は視線を忙しく動かし、遠くのほうで花を摘んでいる人を見つけた。麦わら帽子をかぶった年配の女性だ。紅は袴を手でたぐり、花畑の中を果敢に進んでいった。
「すみませーん‼」
 何度か大声で呼ぶと、熱心に花を摘んでは腰の竹籠に入れていた彼女は、ようやく気づいてくれた。
「どうしたん、お嬢ちゃん」
「あの、この花ってなんていうんですか?」
 突然現れて妙な質問をする紅に、おばさんは戸惑った顔で答えた。
「はぁ、これは[青花{あおばな}]っていうてな。本当は[大{おお}][帽{ぼう}][子{し}][花{ばな}]って名前なんやけど、露草の大きい仲間や。このへんの特産で、絵の具になるんよ」
「絵の具……?」
「そう。最近は鉄道のおかげで京や名古屋によう売れてきてなぁ、青花農家は五百軒くらいあるんちゃうかな。真夏の朝しか咲かへんもんやから、摘み取りが忙しゅうてかなんわ。みんな『[地{じ}][獄{ごく}][花{ばな}]』なんて呼んどるくらい」
 おばさんは青く染まった掌と着物の襟元を見せて、おどけたように笑った。
「……そうか。そうよ……!」
 紅は、その言葉であることを思い出した。
 そこに、ようやく大江が追いつく。
「お忙しいところすみませんでした」と、すっかりよそ行きの柔和な笑顔を作っている。
「じつは俺たち、京都から『うみ』を見にきまして。どちらにありますかね?」
「海? そんなもの、あるわけないじゃ――」
 [怪{け}][訝{げん}]に言いかける紅をよそに、おばさんは「あぁ」と快活に応じた。
「『うみ』やったらあっちよ」
「え?」
「この畑を抜ければ見えるから、通ってええよ」
 大江は[慇懃{いんぎん}]に礼をし、紅の手を引いてそちらに歩き出した。
「あ、あの! 先生、滋賀県に海なんてありませんよ? いったい、どういう――」
 紅はちんぷんかんぷんなままでついていく。青花の[畝{うね}]のあいだをどんどん進んでいく大江は、なにか考えごとをしているのか答えない。
「先生、すみませんでした。私……思い出しました。奥様の遺品はきっと『[青花紙{あおばながみ}]』です。青花をよく揉んで出した汁を、何度も何度も和紙に染み込ませて作った紙だと思います」
 聞いていないかと思ったが、大江は歩きながら、「それはいったいなんのために?」と問うてきた。
「ようは絵の具なんです。小さくちぎった青花紙を濡らすと、青い液が出てきます。これは水に落ちやすいので、焼きものや[友禅{ゆうぜん}][染{ぞ}]めの下書きに重宝されてきたみたいです。再び濡れないかぎりは落ちにくいので、浮世絵の青に使われたりも」
 遠く万葉の時代から、露草は「移ろう心」の代名詞としてよく用いられてきた。それほど流れやすい色なのだ――という一連のうんちくを、確かに紅は父から教授されたはずだったのに、目指していた西洋絵画とは関係ないと思い、頭の隅で埃をかぶせたまますっかり忘れていた。今日ほど、自分の適当な性格とものごとが定着しない脳を恨めしく思ったことはない。
 昨夜の段階ですぐに気づいていれば、わざわざここまで来ることもなかっただろう。大江に呆れられるかと覚悟したが、当の本人は、「そうか」と妙に冷静だった。
「紅さん、俺こそ悪かった。俺も思い出したことがあるんだ。『地獄花』っていう、あのきれいさとは真反対の強烈な呼び名。あれを聞いて――」
「どういうことですか?」
「あの日のことさ。ずっと、俺は記憶に蓋をしてきたんだ」
「え――」
 大江の足が速まった。転ばないよう、紅は必死でついていく。青花の、空から落ちた[甘{かん}][露{ろ}]を思わせる匂いが、ふっと通り過ぎた。
「俺は避けてきたんだ。この先の景色を確かに見たこと……。考えれば罪悪感を抱いてしまうから――」
 ふいに、花畑が途切れた。
 その先には、これまで見たどんな青よりも深い青があった。

「……海……?」

 それは途方もなく広がる海だった。雲のない大空を、巨大な鏡のように凪いだ[水面{みなも}]が映している。それらは陽炎の[彼方{かなた}]の水平線で、一つの青に溶け合っているようにさえ思えた。
 紅は、大江の傍らで立ち尽くした。息を切らした大江は、どこか救いを求めるように目の前に広がる水面を見つめている。
「近江では琵琶湖を『うみ』と呼ぶんだ。……俺はずっとここを避けていた。親戚の子が水練に出かけたのはこの『うみ』だ……。家出した日、俺はこの琵琶湖を見たい一心で湖岸に来たんだ。これが見られれば連れ戻されても構わないと思っていた。俺が見たかったのは、信州でついにつかめなかった青だった」
「……そう……だったんですね」
 思えば、大江の語る思い出からは「琵琶湖」が欠落していた。近江といえば必ずそれというわけでもないだろうが、[頑{かたく}]ななまでに「海に行ったことがない」と主張する姿はどこかいびつだった気がする。確かにそれは偽りではなかっただろう。だが、「水辺」には来ていたのだ。
 白く清浄に広がる砂浜に、大江は座り込んだ。砂がつくことなど構いはしない。紅も少し離れてその横に座った。

「あの日」も、大江は同じように砂浜で呆然と琵琶湖を見つめていた。こんなにも見たかった青なのに、心はどうしてか空虚に支配されていた。
 そこに、その人は通りかかった。
「同年代の男の子だった……。親戚のお姉さんと湖岸をドライブしていたところでね。最新式だというフォードに乗っていたんだ。二人は俺を純粋な迷子だと思ったらしく、家まで乗せていってくれたよ」
 初めて乗る自動車には屋根も窓もなく、吹き抜ける夏風をそのまま感じることができた。
 道すがら、大江はさまざまな景色を見た。青花が乱れ咲く広大な花畑を。中山道の宿場町が残す古い景観を。そして、水面に光る魚の銀の[背{せ}][鰭{びれ}]と、それらが造る小さな渦を。
「世界はなんて美しいんだと思えた。こんな人生だけど、まだまだ捨てたもんじゃないのかもなんて、ね」
 大江は心からその短い旅路を楽しんだ。だけど、その時間が幸福であればあるほど、その後に待ち受けていた悲劇に耐えられなかった。
「あの火事は、きっと俺の心までも燃やしてしまったんだな。けれど、そうでなければならないような気がしたんだ。無責任に家を放り出して遊んでいた自分は、なにか罰を受けなければ釣り合いが取れないような――」
 そうして少年は、水辺にまつわる彩り豊かな記憶を封じた。
「名前も知らないけれど、いま、彼はどうしているかな。顔なんてもう思い出せない」
 ずっと忘れていたことだ。交わした会話もほとんどが水のように流れ去っている。唯一共有した経験は、休憩のためにお姉さんが商店に車を停め、冷やし飴とあんこ餅を買ってくれたことだけだ。水飴を溶かした[生{しょう}][姜{が}]風味の冷たい水が、たまらなくおいしい。大江にとってそれはまさしく天が降らせた蜜そのものだった。
 喜ぶ大江を見て、少年は微笑んだ。そして、澄みきった鈴のような声で言った。
「また[会{お}]うたら遊ぼうねぇ」

 長い間、紅も大江も無言のまま湖面を見つめていた。
 そのあいだ、紅の中にはある考えが泡のように浮上していた。それは肥大してやがて渦となり、そうとしか思えないほどに心を占めているのだった。紅は意を決して、「あの、先生」と大江のほうを見た。
「すみません。その子はもしかして、ショート・ヘアーで、幅広の麦わら帽をかぶってはいなかったですか?」
 紅が静かに尋ねた言葉の意味を、大江はつかみきれなかったらしい。「あぁ、そうだったかもね」と、曖昧に頷いた。
「そして、服装は洋装の――白いシャツと揃いの吊りズボンじゃなかったですか……?」
「確かに白っぽい服だったかもしれないけれど、そこまで覚えていないよ。それがどうしたっていうんだい?」
「それは……男の子じゃなくて、男の子のような格好をした奥様――綾子さんだったんじゃ、ありませんか……?」
 祝言で視た『思い出の色』の少女――。モダン・ガールが流行していた東京で、そんな服装の少女を紅はいくらでも見た。だけど、おそらくはその流行最初期、長いあいだ街を知らずにいた大江にはそう思えなかったのではないか?
「まさか、そんなわけは……」
 露骨に戸惑ってしまった大江に、紅は熱っぽく語った。
「私が視た景色だけじゃありません。奥様は、このきれいな水辺を絵に残しているじゃありませんか。そして、あの青花紙。それが思い出を共有した証拠にはなりませんか?」
「……ありがとう」
 大江はそんな紅を[憐{あわ}]れむように、[儚{はかな}]い笑みを向けた。
「でも、もういいんだよ。だってあの絵の青い瞳の少年は俺じゃないだろう? それだけは厳然とした事実さ」
「それは――」
「妻は異国の少年と、もしかしたら琵琶湖で遊んだかもしれない。そしてその思い出として、青花紙を手に入れて大切にしていたのかもしれないね。それでいいじゃないか。妻が見た景色を一つ知ることができた。もう、俺には十分すぎるほどさ」

 それから二人は再び汽車に乗り、京都駅まで戻った。もう伊吹山へは行かない。大江のどこか吹っきれたような笑顔がそれを表していて、紅にも[抗{あらが}]う気力はなかった。
 朝一の汽車を逃せば、東京への帰りは夜行になってしまう。大江はそれを教え、紅にもう一泊していくようにすすめた。
「そもそも、帰ることをまだ実家に伝えていないだろう? 驚かせるから、きみは京都に戻ったら電報を打つんだよ。俺はちょっと出かけてくるから」
「どこへ行かれるんですか?」
 大江は少し気まずいような笑みを浮かべた。
「妻の絵をね、まとめて売ろうと思っている。欲しがっている画廊に話をつけにいくよ」
 紅は目を丸くして大江を凝視する。穏やかな表情に忍ばされた決意は、薄っぺらい説得ごときでは揺らがないように思えた。
「……本当にいいんですか。でも――」
「あんなところに置いておいても、[黴{かび}]が生えるだけさ。だったらきちんと手入れして[愛{め}]でてくれる人のところにあったほうがいい」
「それは、そうかもしれませんが」
 紅は、反対意見を述べることをためらった。大江の生活はいまや、絵の売却に頼っているという。紅がいまそれを思いとどまらせたとしても、結局は早いか遅いかの違いでしかない。
 だったら、大江自身が納得できたときに手放すのが一番なのだろう。
 なにも言うことができず、紅は俯く。汽車は京都駅に着こうとしていた。
「あの青花紙も、画廊で引き取ってくれるかなぁ」
 車窓から鴨川で遊ぶ子供たちを眺め、大江がどこかしんみりとした口調で言う。
 本当は、なにかを諦めきれない心がその声に滲んでいた。
「綾子は、あの青い絵の具でどんな絵を描きたかったんだろう……」

「どんな絵を――」
 紅は口中でその言葉を反芻する。
「描きたかった……」
 その瞬間、頭にパッと火花が散った。
「……先生……!」
 紅は立ち上がり、大江の手を取った。
「え? なに?」
「急いで降りましょう。お店に帰るんです!」
 突然の紅の剣幕に、大江は完全に度肝を抜かれている。反射的に逃れようとしたその肘を、紅はつい固めてしまった。
「いや、ちょっと、まだ鉄橋の上――!」
「窓から降りるなんて言ってないですってば!」
 大江を引きずって店まで戻った紅だが、母屋には入らずに蔵の鍵を開けてもらった。
 駅から小走りで来たので、二人とも汗みずくだ。紅は顎に垂れてくる汗を拭き取るのももどかしく、解錠とともにひんやりとした蔵へ飛び込んだ。
「ねぇ、急にどうしたんだい?」
 大江が当惑顔でついてくる。桐箪笥を開けながら、紅は急いたような声で言った。
「あの青花紙は、本当はもっと大きかったんじゃないですか?」
「え?」
「未使用で保管していたわけじゃなくて、もうすでに切って[使ったあと{、、、、、}]だったかもしれないってことです。それは、もしかすると――」
 紅の言葉を遮るように、背後から追いついた大江が絵を取り出す。
 水張りされたままの、未完の水彩画を。
「この空の色……そして水の色。同じ絵の具だと思います。それに、これも――」
 紅はふわりと人差し指を向けた。こちらを見つめる少年の瞳。その澄んだ青へと。
「きっと、奥様も相手の子の顔を忘れてしまったんでしょう。……だけど、それは決してどうでもいいからではなくて……強く印象に残ったからこそ……だったと思います」
 紅だって、大江の顔を長いあいだ忘れていた。だけどそれは、[些{さ}][末{まつ}]なことだったからとはとうてい思えない。むしろその反対だ。焼きつけようとすればするほど、記憶は儚くすべり落ちていく。それは青だ。決してつかめない、美しい青そのもののことなのだ。
「だから昔の奥様は、思い出の青花で絵を描いて、男の子の瞳だけは空白にしておいたんじゃ……? いつか思い出したときに描き込めるように」
 そこにどんな心があったのか、語る人はもういない。だけどおそらく、紅でも同じ状況ならそうしただろう。
「当時、先生は相手の子に、青い蝶や湖に焦がれた話をしなかったですか? それらを決してつかめない――つまり、自由になれない自分自身のことを」
「……自由……」
 大江は深い思いに沈み込んでいる。けれど、その先の言葉をどこかで待っているようにも見受けられた。
「相手の子がもし奥様だったとしたら、後年再会したときに先生の経歴を聞いて、きっと気づいたはずです。たとえ、先生が記憶に蓋をしていても――いえ、だからこそ、それを無理にこじ開けることは望まなかった。だから、奥様は未完成だった絵を終わらせることにしたんじゃないでしょうか? 全然別の人の瞳をここに打ち込むことで……」
 つまり、少年の瞳だけが後年別途描かれていたことになる。経年による色味の違いは、水分量でうまく調整したのだろう。そこに青を選んだ意味も、もうほかに知る人はいない。
 けれど、妻は埋めてしまった思い出の痕跡をどこかに遺しておきたかったのかもしれない。それが、しまい込まれた青花紙。そして、未完性を意味する水張りだったのでは……。
 大江はなにも言わず、水彩画を眺めている。やがてふいに屈み込むと、桐箪笥の別の段からなにかを取り出した。
「わかったよ。この少年の目、ずっと知っていたような気がしてね。名も知らぬ家出少年の瞳に映っていた――唯一確かだったもの。せめてそれを投影したのかもしれないな」
 それは小さな写真だった。祝言のときに撮られたらしい、美しく着飾った花嫁が写っている。大江の言うとおり、育ちがいいのだろう。彼女はキャメラに臆することなく笑む。
 その写真を、大江はそっと水彩画に近寄せた。なにかを信じているかのようなしぐさ。その手元を見て、紅は思わず息を吞む。
 絵の中の少年と、花嫁のつぶらな瞳は瓜二つだった。

 ふしぎなことに、青い瞳が抱えていた秘密めいた光は、それを見つめる大江のまなざしと溶け合って消えていったように思えた。
 未来の夫婦が混じり合った人物は、かつて確かにあったはずの未来を見据えていた。
 紅はついにこらえきれなくなり、白昼の空の下へ出る。
 膝をつき、絵を抱いて祈るように震える大江を残して。
 京都の空は、滲んだ視界の向こうでも濃い。

          五

 翌朝、まだ暗いうちに紅が急ぎ足で一階まで下りると、すでに大江は台所に立っていた。
「おはよう。早いね」
「汽車に遅れたらいけませんから。先生こそ、お早いですね」
「あぁ、ちょっと作りたいものがあったんだ」
 そう微笑んで紅に差し出したのは、白い小箱だった。[金{きん}][雲{うん}][母{も}]がちりばめられた和紙が貼られ、窓から入る[曙{あけぼの}]の薄明かりを映している。手渡されるとき、いくつかの硬いもの同士がそっと擦れるような音が響いた。
 壊さないよう静かに開けてみて、紅は感嘆の声を上げた。
 それはずっと焦がれていた、あの婚礼菓子の有平糖だった。どこまでも深く澄んだ青い観世水紋のほかに、同じ色の蝶が混じっている。
「なんて……きれい……」
 それ以外の感想など思いつかなかった。目を輝かせる紅を見て、「妻に――綾子に言われたことがあってね」と大江が照れるように言う。
「『青はつかめないけれど、お菓子はつかめる。それを作ったあなたの手も』って。それは絵画と和菓子との違いでしかないだろうと思ったけれど、もっと別な意味があるような気がしてきたんだ」
 紅は無言で青い和菓子を見つめ、その一つの渦を口へ含む。それは思い出の中よりもずっと甘く、さらりと体に溶け込んでいった。大江が台所のほうへ去りながら言う。
「渦は[廻{まわ}]り、めぐる。いつまでも心が離れないようにと願って、俺はこの意匠を選んだ。蝶は今朝のきまぐれさ。常連さんには『あたたかみがない』って怒られそうだけどね」
「青い、蝶……」
 水から蝶が生まれたのか。それとも、蝶が水に還ったのか。もしかしてその両方かもしれない。そして、その[輪{りん}][廻{ね}]は永遠に続いていく――そんな気がした。
 紅はそっと目を潤ませた。ここに確かにある夫婦の絆を思って。
 わずか数年で天と地とに分かたれようとも、そんな相手に出会えた人生とは、なんと輝いて見えるのだろう。紅はそれを羨ましく、少し寂しく思うとともに、二人がなんの歩みもなく手に手を取ったわけではないことも理解していた。

 幻影の中で洗濯物を干す彼女の瞳には、つかめなかったはずの青が映っていたから。

「私も……見つけられるでしょうか」
 自分自身の色を。
 呟いた声は大江に届くはずがないと思っていたのに、意に反して台所からは、「あぁ」という返事が聞こえた。
「きみは素敵な目を持っているじゃないか。時間も距離も飛び超えて、どこにだって行けるんだ。だから……きっと見つけられるよ」
 そんなことを言われたのは初めてだったので、紅はなにも言えなくなってしまう。せめて、このお菓子を絶対に忘れないようにしようと誓った。そして荷造りしたものを取りに行こうと廊下へ足を踏み出したとき、「あのさ、ちょっといいかな」と大江に控えめな声をかけられた。
「紅さんに頼みたいことがあるんだけど」
「なんでしょう? お豆腐でも切らしましたか?」
「え? あぁ、お豆腐はどうだったかな……」
「もうお店やっていると思いますよ。買ってきましょうか」
「いや、そうじゃなくてさ……」
「はぁ」
 口ごもってしまった大江の前で、紅は棒立ちするしかない。少しの間を置いて、紅に向き直った大江が俯き加減でこう言った。
「じつは、店を再開させることにした。人が足りないからしばらく手伝ってもらえないかな」
「いいですよ! 店ですね」
 おつかいに行くくらいの軽い気持ちで頷いた紅だったが、しばらくあとにその内容を理解して、「……えええ⁉」と素っ頓狂に叫んでいた。
「と、突然どうしたんですか? 店って……もしかしてまた、お菓子を……?」
 混乱する紅に、大江はいつもの苦笑いを見せる。
「あぁ、昨日画廊でね、絵の売却を断ってきた。本当は、もう一枚も手放したくない。そのために俺になにができるかといえば、どうにか働いて自分の生活を維持することだけなんだ」
「じゃあ……」
「せっかく電報を打ってもらったけど、まだきみにいてほしい。でも先生って呼ぶのは――」
「よ、よろしくお願いいたします! 先生!」
 興奮のあまり、大江の言葉の半分しか聞いていなかった紅は、用意していたエプロンをさっそく取りに行かねばと、階段を駆け上っていった。
「おーい、だから先生っていうのはさ……それに開店はまだまだ先だよー」
 そんな大江の声が聞こえた気がしたが、逸る心はそれを待ってくれない。
 二階の窓からは、[清冽{せいれつ}]な夏の夜明けが見えていた。

※試し読みはここまでです。続きは製品版をご購入ください。

 

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全国書店他で8月25日より発売。電子版も各電子書籍ストアで同日配信開始。
定価:1760円(10%税込)

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『春くれなゐに~思ひ出和菓子店を訪ねて~』作品ページへ戻る