特別短編 ひび割れから漏れる 前日譚「ア、風」

 新しい朝が来た。希望の朝だ。
 喜びに胸を開け、大空あおげ。

        ◇

「ぱち」という自分のまぶたの開く音がはっきり聞ける。それほど私は冷静に目覚めている。
 眠れていたのかいなかったのか、よくわからない。でもうまく夜を越えられたことはわかる。連日の夜更かしの影響もなく、頭は冷たい水で洗ったように冴えている。
 布団の中で仰向けになって、しばらく天井を眺める。すると、どこからともなく「♪新しい朝が~」と聞こえてくる。まだ私が[飯能{はんのう}]で暮らしていた頃、夏休みのラジオ体操の記憶が歌になって、脳内にズーンと響いてくる。低い男声が、こちらのことなんておかまいなしに「さあ素敵な一日が始まるぞ、今日も生き生き過ごそうな」と、耳元より近いところで訴えてくる。
 で、それが辛いかというと、別にもうなんともない。
 ただひたすらに「適当なことを言うな」と思う。「どの口が」と。そうして特に精神的な苦痛も疲弊も喰らわないまま幻聴を聞き、曲が終われば目を閉じ、数分だけいかにもまどろみを楽しんでいるふりをしてから、おもむろに起き上がる。
 カーテンと窓を開け放つ。
 偽物の喜びに胸を開いて、春の空気で肺を浸す。
 桟に肘をついて、手のひらに顔を乗せる。
 一年が経ってもまだ見慣れない、永山団地の景色。靄がかった四月の青白い空。二羽のすずめが楽しそうに飛んでいる。向かいの棟から、目をこすりながらスーツ姿の男性が出てきて、ゴミ捨てをしている主婦と挨拶を交わした。ジャージ姿でランニングをしている若い女性。敷地内の道路を黒猫が横切り、掃き掃除をしていたお爺さんが腰を折って猫に何かを語り掛けた。
 いいなあ。
 引っ越しの際、私が母に「最上階に住みたい」と駄々をこねたのは、こうした光景をいつでも見たかったからだ。私は「営み」というものが見るのが好きだった。そこにある風景の中で、誰かが当たり前にそうしていることを見るのが好きだった。当たり前を当たり前にできない、できていたとしてもわざとそうしているだけの自分にとって、何の気負いも気後れもない、全てが「自然」に流れている時間を生きている人というのは、憧れそのものだった。
 そのまま十五分くらい窓の外を見て、ようやく身支度を整えるために動き出す。
 ここまでが一連。
 去年の夏から始めたこのルーティーンをなぞることで、私は今日という日をうまくやり過ごすためのスイッチを無理やり入れることができる。すっからかんの体に、偽物の心を装填することができる。
 窓を閉めたら一日が始まる。
 新しい朝が来ている。
 無責任な希望の朝だ。
 そして、今日は本当に無責任だった。
 自分で決めたルーティーンは外さないからこそ調子が上がるもので、それが予想外のことで崩れたら逆に不利益がある。思うようになるべきことが、思うようにならない。それはパニックの芽になってしまうのだ。特に大きな体のくせにノミの心臓の私なんかは、少しでも習慣と違う光景が差し込まれたら、途端に気骨が折れてしまう。
「さあ頑張って生きましょう」と、気合を入れて窓を閉める、その寸前。
 未練たらしく空に残していた視線が、「いつも」の光景にはない、動くものを捉えた。
 正面。
 吹く風に乗って、桜の花びらが舞い上がっていた。数えきれないほどの花びらが朝日を受けながらひるがえり、きらきらと輝いていた。風に乗った花びらは、まるで桃色の小魚の群れのようになって宙を泳ぎながら、空の彼方へ吸い込まれていった。
 私は窓から身を乗り出して、花びらの魚たちが見えなくなるまで動かずにいた。
 もうダメだった。
 部屋に身を入れ「はあっ」と深く息をついた時には、その日のやる気のすべてがどこを探しても見当たらなくなっていた。今日もなんとか乗り切ろうという決心が、花びらと同じように春風にさらわれてしまっていた。
 なにをどうしても上手な自分でいられる気がしない。今日これからの学校生活のことを考えて、人間関係や授業のことを考えて、きっと何度も浮かべることになるだろう愛想笑いのことを考えて、上っ面だけまともな会話をする自分のことを考えて、そんなまがいものの自分をまたいちいち嫌うんだと考えて、午前六時四十六分の時点でドッと一日分の疲れがきた。「もうダメだね」と口にしてみた。もうダメだった。
 私は再度、窓の外を見た。
 能天気を具現化したような、ぽかぽか陽気の春の空がある。
 光度を増す陽光が「こんなにいい天気なのに、真面目に生きちゃうの?」と言っていた。
 サボろうと決めた。

        ◇

 昔からこれほど扱いづらくめんどくさい性格だったわけじゃない。こうして突発的に気持ちが折れてしまうタイミングが来るようになったのも、去年の夏からだ。
 私はパジャマの上着を脱ぎ、ハイネックの黒いニットを着た。ダイニングで母と朝食を取り、顔を洗って制服に着替えた。そろそろ家を出なければ遅刻というところまでソファでぼんやりしてから、いそいそとトイレに入った。
 そのまま私は三十分ほどトイレにこもった。
 心配した母が「[藍子{あいこ}]?」とノックをして、
「大丈夫?」
「ごめん、ちょっと重くて」
 本当はなんともない。
「でも、そのうち良くなると思う」
「そう。無理しないで。学校には遅刻の電話を入れておくから、よくなったら出なさいね」
「うん」
 サボりを決めたからと言って、ただ登校しなければいいというわけじゃない。無断欠席のままだと学校から母に連絡が来る。朝には確かに家を出たはずの娘が学校に着いていないとなると、道中で何か事件に巻き込まれたのではと思われる。それは大ごとの火種になる。
 だからまずは母に遅刻の一報を入れてもらい、その後に家を出て、適当にその辺をプラプラしてからお昼過ぎあたりに登校する。すると何の不自然もないからお咎めもない。矛盾を生まずに重役出勤をする。これが正しい学校のサボり方だ。
 持ち込んでいたスマホで時刻を確認する。八時五十分。
「藍子、お母さんはそろそろ行くね」
 ドア越しに母は言った。
「今日はちょっと遅くなるかも。ご飯どうする? 西友でお弁当買う?」
「そうする」
「わかった。じゃあ靴棚の上にお金置いてくから。戸締り忘れないでね」
 最後に「無理しないでいいからね」と言って、母は仕事へ向かった。 
 母が家を出る玄関のドアの音を聞いてから五分後、私は静かにトイレを出た。
 しんとするひとりきりのリビングには、広大な時間が広がっていた。私はその時間を嬉しく噛み締めながら、むやみに辺りをうろうろした。気の済むまでうろうろしてから、どこへ行こうかと考えた。
 ふと、今朝に見た桜の小魚が脳裏を過る。「同僚のおばちゃんに聞いたんだけど、[乞田川{こったがわ}]沿いの桜がすごく綺麗なんだって」と母が言っていた気がする。

        ◇

 昔から優しかったが、私とふたりで暮らすようになってから母はますます優しくなった。離婚のことや昨年のことで、私を気遣ってくれているんだと思う。だから今朝もたぶん、私が素直に「学校行きたくない」と言ったら「じゃあお休みにしよう」と言ってくれただろう。
 じゃあなんでそうしなかったのかというと、簡単な話、母に余計な心配をかけたくない。子どもが親に言う「学校行きたくない」という言葉が持つ重量を私は知っている。その重さを母に感じてほしくなかった。不調だけど学校に行く意思はあるよ、だから大丈夫だよ……それが何よりベストだと思った。
 私は母がとても好き。
 そんな母の厚意を利用してサボるのは罪悪感があるけれど、その罪悪感を上回る以上に私はもうダメなのだ。これこそ生理現象だ。何もかもあの春風が悪いんだ。お昼からきちんと学校には行くから許して……。
 私は鞄を持って自宅を出、乞田川を目指して歩き始めた。
 春休みが明けてちょうど一週間。遅咲きの桜も花弁を散らし、道々の至るところに桃色の花びら溜まりを作っていた。私は咲いている桜より、散っている桜に惹かれる。特にそれが風に舞い上がっていたらなおいい。
 [永山{ながやま}]駅を過ぎながら「どうしてそうなのかな」と考えてみると、すぐに中学一年生の春のことが思い返された。
 まだ私の家族が三人だった頃。
 ある週末、母が突然に「[牛島{うしじま}]の藤花園に行きたい」と言い出した。仕事以外には滅多に外出をしない、超がつくほどインドアな母がそう言うので、私も父もかなり驚いた。私の物心がついてから、母が自分の口からどこかへ行きたいと言ったのは、それが初めてだったと思う。
 飯能から車で約一時間、[春日部{かすかべ}]にある牛島の藤花園には、天然記念物に指定されるくらい立派な藤の花がある。母はどうしてもそれが見たいと父に願った。私の意思を確認することもなく、まっすぐ父に願った。父は頷き、そうして私たちは牛島の藤を見に行った。
 その日は驚くほど気持ちのいい日和だった。雲ひとつなく晴れていて、暑くも寒くもなく、異様なほど凪いでいる。景色の輪郭も凛と澄み、清廉な空気がスーッと体に入ってきて、呼吸が楽しいと思えるくらいだった。あんなに快適な日というのは一年の中でもそうはない。もしかすると一年で一度きりの空合いだったのかもしれない。
 三人で園内を少し行くと、お目当ての藤の花棚が見えてきた。高い木組みに紫色の藤の花が咲き乱れて、幾重にも重なるすだれのようになっていた。甘く優しい香りが満ち満ちている。陽に輝く藤の花は、まるでアメシストで出来た天幕みたいだった。
「綺麗」と私は言った。
「綺麗だな」と父は言った。
 母は何も言わなかったと思う。
 私たちは、父を先頭に藤棚の下を歩いた。
 父の背を見ながら、私は隣にいる母に、「ねえ、お母さん」と声をかけた。
「どうして急に藤の花が見たくなったの?」
 その時、父の尻ポケットに入れていた携帯が鳴った。
「すまん、仕事の電話だ」と言って、父は藤棚を出て行った。
 そんな父の様子を、母は何も言わずに見遣っていた。
 その母の横顔は、どんなことをしても、どんなことがあっても、私の記憶から消えることはないだろう。
 その時の母は、なんとも、なんとも言い難い……まるでロウを溶かし切って消えゆくろうそくを眺めているみたいな、微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える表情をしていた。
 そして母は、ぽつりと呟いた。
「あの電話はね。仕事の電話じゃないんだよ」
「え?」
 キョトンとする私に、母ははっきりした声で、
「藍子。藤の花の花言葉、知ってる?」
 どうして今、そんな顔をして、そんな話をするのか。
 何が何だかわからず、私は首を左右に振るしかなかった。
 その時、これまでずっと凪いでいた空気にわずかな振動が起きた。
「ア、風」
 母がそう言った瞬間、遠くの空から突風がやって来て、風の束が藤棚にぶつかった。風擦れの音を立て、藤の花がちぎれんばかりに揺れて、鼻が痛いほどの甘い香りが爆発した。近くにいた老夫婦がわずかに悲鳴を上げる。カップルが楽しげに笑い、彼女が麦わら帽子を押さえた。
 大風はしばらく続いた。
 藤の花びらの吹雪の中で、母はずっと無機質に微笑んでいた。
 私はひたすら硬直していた。
 それは、母の言う藤の花言葉の意味がわからなかったからじゃない。いつもの穏やかな様子とは何かが違う母が恐ろしかったからでもない。
 ア、風。
 母のその一言の「ア」が、どうして「ア」と、そう聞こえたのか。
「あ」ではなく、「ア」と、温度なく聞こえたのか。
 確かに日本語として発声したのに、まるで外国人のもののように聞こえたのか。
 私は母から目が離せなかった。
 舞い上がる紫色の花びらの中で、母は藤棚の外で電話をする父を見つめていた。

        ◇

 全てが終わった今にして思えば、あれは母なりの復讐だったんだろう。
 父は別に、花に造詣が深いわけじゃなかった。藤の花言葉なんて、もちろん知らなかったと思う。だから、母がそれを父に見せた意味にも絶対に気づいていない。自分が復讐されたことを知らないまま、父はどこかへ行ってしまった。そしてその復讐を悟られないこともまた、母の復讐のひとつだったのだと私にはわかる。
『どうして私が[藤花園{とうかえん}]に行きたいと言い出したのか、ずっと疑問に思っていてほしい』
 母が父にそういう呪いをかけたのだということが、母の子である私にはわかる。
 そして母もまた、藤の花言葉がそれを証明しているように、父に呪いをかけられてしまったんだということが、父の子である私にはわかる。
 ふたりの子である私は、ふたりの呪いの狭間にいる。
 ふたりの呪いを半分こずつ、しっかりと受けている。
 だからといって中立に立とうとは思わない。悪いのは全て父なのだから。
 私は何があっても、最後まで母の味方をする。
 私は藤棚に大風が吹いたあの時の母を、とても綺麗だと思った。母の温度のない「ア」を疑問に思う前に、母の横顔をどこまでも美しいと思った。お母さんというよりも、知らない素敵な女性が目の前にいると思った。見惚れていた。だから私は母から目が離せなかった。
 あの場にいた多くのお客さんが、舞い上がる藤の花にカメラを向けていた。
 でも私にとっては、風に舞う藤の花は母の背景でしかなかった。
 考えてみれば答えは単純だった。
 私が咲いている花より散っている花、風に舞い上がっている花に惹かれるのは、それを見ることで、あの瞬間の母に会える気がするからだ。

        ◇

 陽が天頂に向かい、四月中旬にしては温かすぎる陽気になってきた。
 私は乞田川沿いの桜のトンネルをくぐりながら、多摩センター方面へと向かった。
 母が同僚のおばちゃんに聞いた通り、この桜の並木道は素晴らしい景観だった。砂糖菓子をばらまいたような花弁が、雨みたいに散っている。あまりに散る量が多いので、手を伸ばせば難なく掴むことができる。頭に花びらが積もっているのを感じるけれど、なんかいいからそのままにしておく。ちょっと上機嫌になってきた。
 ただ、ハイネックがむわむわしてとても暑い。暑いのが苦手な上に汗っかきなのでもうたまらん。これからどんどん夏へ近づいていくのに、春のうちからこんな調子で大丈夫かと不安になる。というか、その前のジメジメの梅雨を耐え抜けるであろか。いや、耐え抜けない。
 秋冬のことは考えない。
 私は時おり立ち止まってハンカチで額をぺたぺたしたり、すれ違う散歩中の柴犬を撫でたり、乞田川の鴨の親子を眺めたりしながら、体が熱を持ち過ぎないようのんびりと歩いた。
 そうして[上之根{かみのね}]橋に差し掛かった時、ぶわっ! と大きな風が吹いた。
 まだ咲いているものから散っていたものまで、その風はあらゆる桜の花びらを掬い上げた。
 私は暴れる前髪とスカートを押さえた。全身を包み込むような花吹雪で、花弁が目に入りそうになる。私はしきりにまばたきをした。一瞬ごとに切り取られる視野は、桜の花で真っ白だった。
 その夢のような視野に、藤花園の母が浮かんだ。
 どうどうと吹く風と桜の花びらを受けながら、私は「言わなきゃ」と思って言った。
「あ、風!」
 やがて葉擦れの音が小さくなる。花びらを連れたまま、風は遠く遠くへ消えていく。耳を打つ残響が次第に薄れ、再び国道を行き交う車の音が聞こえてくる。
 平穏を取り戻した桜並木は、また大人しく花びらの雨を降らし始めた。
 私はボサボサの髪のまま、腕を組んで「う~ん」と唸った。
 やっぱりどうしても、私の言う「あ」には温度があった。

        ◇

 桜並木を歩き切って多摩センターに着いた私は、ちょっと早い昼食を取ることにした。
 時刻は午前十一時六分。『丘の上パティオ』のローソンで鮭おにぎりとツナマヨおにぎり、それから伊右衛門を買って、多摩中央公園へ行った。
 私は木陰のベンチに座り、池を挟んだ向こうの芝生にいる大学生サークルと思しき一団が吹くへたっぴなトランペットを聞きながら、ぼーっとおにぎりを齧った。人に慣れ倒した鳩たちが寄って来て、「ポッポウ」と鳴く。やはり東京の鳩は埼玉の鳩より横着しているような気がする。「なにもないよ」と言うと、鳩たちは「ケッ」というような顔をして、首を前後しながら去っていった。
 昼食を取り終え、私は無心で池を見つめた。
 鴨の群れがいる。亀が泳いでいる。水中の鯉の背中がちょっとわかる。さんさんと注ぐ陽光が、風に吹かれる水面をきらきらと輝かせていた。
 なんとも気持ちよくて、私は「手のひらを太陽に~」と小さく鼻歌を唄った。透かして見れば、制服の下、手首にまであるハイネックの黒い長袖。気にせずに「おけらだ~って~」と唄った。とんでもなく悲しくなってきた。
「学校行くか……」
 なんとなく観念した。まあどこまで行っても私は結局逃げられないのだ。それはもう十分にわかっていることだ。だからいちいち思い返してへこたれるなって。
 ベンチから立ち上がった。
 中央公園から多摩センター駅へ向かい、永山駅への電車に乗った。

        ◇

 歩いて来た時は三十分くらいかかったのに、電車は三分ですぐに永山駅に着いた。駅前のバス乗り場からバスに乗る。十二分をかけて、高校の最寄りの『多摩大学停留所』へ。
 私は停留所からすぐそこにある聖ヶ丘高校の校門をくぐって校舎へ入った。
 靴箱に貼られたシールの『[千歳{ちとせ}]』というまだ馴染めない姓を指でなぞる。靴を上履きに履き替えながらスマホで確認すると、時刻は午後一時四十五分。もう五時間目が始まっている頃合いだ。昼以降の授業が始まる前には何食わぬ顔で復帰している感じにしたかったけれど、ギリギリどころかちょっと遅れてしまったようだ。
 これじゃ授業中に教室に入って「お、千歳。大丈夫か」「あハイ」「無理せずにな」「あハイ」「じゃあ席について」という逃れられない先生とのやりとりで教室中の注目を浴びてしまう。別に注目を浴びてもいいんだけど、なんかめんどくせ。
「……」
 私は暗い気持ちで校舎に入り、靴箱で上履きに履き替えて、とぼとぼと自分のクラスの『1―A』へ行った。
 ゆっくりした足取りで階段を上ってクラス前の廊下に着く。教室の後ろのドアの前で深呼吸して胎を決める。こんなにドキドキするならそもそもサボらなければいいのにと自分で思う。小心者のくせに大胆なことをするからよくない。そーっと手をかけてドアを開け、いい塩梅の小声で、
「おはようございま~す……」
 教壇に立つ先生も合わせて三十人、その空間にある全六十個の目玉がギョロリと私に向く。
 とはならなかった。
 教室には誰もいなかった。静かな室内に、整然と並んだ机。クラスメイトたちの混ざり合った匂いの余韻。開いた窓から日光が差し、カーテンがわずかに揺れていた。黒板には女子の字で『五時間目は選択科目 科学室オア生物室へGO』と書いてあった。
 私は安堵の息を吐いた。
「なあんだ」
 そう呟くと、緊張が解けて思わず笑みがこぼれた。
 私は教室に入り、中列の一番後ろの自席に鞄を置いた。窓の外のグラウンドから、体育教師の吹くテンポの良いホイッスルが聞こえてきた。どうしようかと考えて、せっかくだから五時間目もサボッちゃおうと決める。五時間目が終わった休み時間に、しれっと教室にいて、六時間目から参加しよう。そうしよう。
 どっかのトイレにこーもろ。
 私はスマホだけ持って、教室を出ようとした。
 その時、強い風が教室に入り込んだ。
 カーテンが激しく波打ち、バタバタと鳴る。どこかでシャーペンが転がって落ちた。教室の後ろの壁新聞が震える。いくつかの机上にある教科書やノートが激しく捲られ、ぱらぱらぱらと音を立てた。
 その風の中で、私はふと、ある席の方を見た。
 窓際の、前から二番目。
 高校生活が始まって一週間。私はまだクラス全員の顔と名前を覚えきれていない。だから、そこが誰の席だったかはわからない。確か男子だったと思う。あんまり目立たない男子。話したことはきっとない。
 でも、顔も名前も思い出せないその男子の席に私の足が向いていたのには、理由がある。
 風が止むまでの数秒間。
 その机上で風に捲られるノートから、藤の花びらが舞い上がっていた。
 その花びらは、風に煽られながらポップコーンみたいにノートから湧いていた。藤花園で見たあの時と同じ、紫色に輝くたくさんの花弁が、ノートの上で入り乱れて舞っていた。アメシストの羽虫が飛んでいたようでもある。不規則に舞い踊って、机上からその席だけを淡く照らし出していた。
 やがて花びらは溶けるように消え、そしてどこにもなくなった。
 私はしばらく立ち尽くした。
 何も変わらない教室。穏やかな陽光。ホイッスルの音。かき混ぜられた他人たちの匂い。
 ノートを手に取って、ゆっくりと捲ってみる。
 何の変哲もない、化学のノート。けれど、用語や化学式の下には、ところどころ絵が描いてあった。魔法使いっぽい男性、ガンダム、王冠、首がみっつある犬の絵、『今年こそ挑戦』という立体的なゴシック体、ルフィ、大きな剣、可愛い女の子の顔、ドラえもん……。
 私は表紙の名前を見た。
 [佐々木{ささき}][修司{しゅうじ}]。
 改めて中を見ようと右手の親指をかけた時、
「だめだよお、勝手に見ちゃあ」
 私は反射的に振り返った。
 誰もいない。
 誰もいないけど、確かに聞こえた。
 間延びした男性の声。
 教室を見回す。
 でも……やっぱり誰もいない。
 気のせいだったのかなと思った時、廊下で足音がした。
 私は猫みたいな反応速度でノートを閉じ、急いで席を離れた。
 足音はこちらへ近づいてくる。
 私は自分の席で鞄を漁っているふりをした。
 そして、ひとりの男子が教室に入って来た。
 その男子は私を見て「!」というような顔をした。でも特に何かを言うでもなく、私に小さく会釈をした。私も返した。
 男子はスッスッと歩いて、ついさっきまで私がいたその席へ向かって、ノートを手に取った。
「ア」
 思わず声が出た。
 その男子……佐々木修司くんは、こちらを振り向いた。のも束の間、すぐにうつむいて私から視線を外し、ノートを持ってそそくさと教室を出て行ってしまった。

        ◇

 またひとりになった教室で、私は窓の桟にもたれかかって空を見ながら考えた。
 五時間目は選択科目。化学の佐々木くんは授業からちょっとだけ抜け出して、忘れ物のノートを取りに来たんだろう。
 それにしても、あのノートから見えた藤の花はなんだったのか。それぞれの席で、多くの教科書やノートが風にめくられていたのに、花を零していたのはあのノートだけだった。
 どうして彼のノートは、私に幻覚を見せたのか。
 もしかすると、佐々木くんにも「それ」があるのかもしれない。確認はできなかったけれど、あのノートには、「それ」が描いてあったのかもしれない。母が父にかけた呪いのように、父が母にかけた呪いのように、父と母が私にかけた呪いのように、胸の深くに染み込んで、永遠に落とすことのできないものが記されていたのかもしれない。「それ」が私の目に、綺麗な藤の花として映ったのかもしれない。 
「ほら、藍子。起きろ~」
 遠い夏の日。まだ目ぼけ眼の私の手を引き、ラジオ体操の行われる近所の広場へ向かう父が思い起こされた。
「♪新しい朝が来た、希望の朝が~」
 多摩の春空に、飯能に置いてきたはずの父の歌声が聞こえる。
 佐々木くんは、藤の花言葉を知っているだろうか。佐々木くんにとっての「それ」って何なのか。今夏の計画を実行するまでに、もし何かきっかけがあって、彼が目を伏せないで私を見て、私と普通に喋ってくれるようになったら、それを聞いてみたい。同じそれを持つ者として、聞いてみたい。もちろん花言葉を知らなかったら教えてあげる。
 決して離れない。

 

『ひび割れから漏れる』

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