試し読み ひび割れから漏れる

「私さあ。雷に打たれたいんだよね」
 東屋の中。
 雷鳴の響く七月中旬の空を見上げて、[千歳{ちとせ}]さんはポツリと言った。
 地面を打つ雨音にかき消されそうな声だったけれど、隣にいる僕には、それがはっきりと聞こえた。
「……なんかの比喩?」
 僕も、雨空を見上げて言った。
「いや、言葉通り」
 千歳さんがこちらを向く気配がした。
「ドカーンって。全身に落雷喰らいたいの」
 僕はどう返そうかとあれこれ考え、ようやく「変な冗談言うんだね」と言った。
 千歳さんは少しだけ黙ってから「冗談じゃないんだけどね」と言った。
 僕たちは五時間目の生物の校外学習で、高校から歩いて十分のところにある桜ヶ丘公園に来ていた。そこで班ごとに分かれ、昆虫を捕まえるべく網を持ってうろうろしていると、黒雲が落っこちてきたように辺りが暗くなり、一気に土砂降りになった。
 トイレから班に戻ろうとしていた僕は、慌てて近くにある東屋に避難した。そこで雨に煙る景色をぼんやり見つめていると、僕と同じように、クラスメイトの千歳さんが逃げ込んできたのだった。
「すんごいゲリラ豪雨」
 千歳さんはそう言って、ショートカットの黒髪をハンカチでぺたぺたした。
「おかしいよね。さっきまで雲ひとつなかったのに」
「うん」
「今年は近年稀に見るくらいの異常気象なんだってさ」
 千歳さんの長いまつげに乗った雨粒が、まばたきの度にパッと散る。すらりと伸びた足を踏むと、中まで濡れた靴がぐじゅぐじゅ鳴った。ひとしきり体を拭き終え、彼女は濡れたままでいる僕に「はい、[佐々木{ささき}]くんも」とハンカチを差し出した。僕は首を左右に振った。
 千歳さんは「ふうん?」と言って、
「いやあ、でっかいカナブン見つけてさ。追っかけてたら班のみんなとはぐれちゃって」
 この公園は、公園というより森に近い。高校の敷地の十倍はあって、気を抜くと余裕で迷えてしまう。
「佐々木くんもはぐれたの?」
「うん」
「そっか。でも、この感じだとすぐ止むよね」
「うん」
「それにしても蒸し暑いったら」
 千歳さんは右手を団扇にして、制服の中に着ている黒いハイネックの長袖シャツの首元に風を送り込んだ。
「もう真夏みたい」
「うん」
「佐々木くんは暑いの平気?」
「うん」
「へえ。私はダメだなあ」
 女子とふたりきりのこの状況に、僕は戸惑った。
 僕は十六歳になる今の今まで、女子とほぼ接さずに、むしろ避けるように生きてきた。本当は雨が止むまで気の利いた会話でもできればいいんだけれど、照れ臭くって敵いっこない。というか、そもそも何を言えばいいのかわからない。だから相槌を打つしか術がない。しかも、並んで立つと僕より千歳さんの方が頭ひとつ背が高いとよくわかってしまって、男として辛いやら情けないやらで一層言葉が出てこない。
 僕が暗いのでつまらなくなったんだろう、千歳さんはそれきり黙ってしまった。
 そうしてふたりで空を見上げ、雨が止むのを無言で待っている時に、遠くの方でゴロゴロと低い音がした。そして彼女は「雷に打たれたい」と呟いた。
「……冗談じゃないの?」
 そう僕が尋ねたのと、空がピカッと光ったのは同じタイミングだった。
 千歳さんはゆっくりと東屋を出て、大雨の中へ歩んでいった。
 一瞬で濡れ鼠になった彼女は、両手を広げて、顔を空へ向けた。
 フラッシュの焚かれる空の下、彼女はそのままひたすらじっとしていた。
 一瞬の電光に映される彼女の背中は、まるで十字架のように見えた。
「何してんの」と僕は言ったが、千歳さんにはまったく届かない。
 どれくらい経ったろう。結局、彼女は雨が上がるまでそうしていた。
 見るも無残なずぶ濡れになった彼女は、身を抱くようにして東屋に戻って来た。
 洗われた青空の雲間から覗く虹を恨めしそうに睨み、彼女は舌打ちをした。

        ◆

 同じクラスになってから三ヶ月が経つけれど、千歳さんとまともに喋ったのはその時が初めてだった。いや、まともにどころか、話をしたのもこれが初めてかもしれない。これまでに三回の席替えはあったがお互いにずっと遠いままだったし、教室内でもオタク寄りで、いつも日陰にいてなんとなく頭からきのこが生えてそうな連中のコミュニティに属している僕にとっては、日向で明るく元気に過ごしている彼女との接点がまるでなかった。
 翌日の昼休み、僕はいつも通り弁当を持って、B棟二階の漫研の部室へ赴いた。
 晴れているのにブラインドを閉めたままの部室には、湿った空気が流れていた。隙間からわずかに差し込む光が、漂うほこりをきらきらさせている。長机の上座についた武田部長が、にやにやと『アキミ』の最新号を読んでいる。同じく席に着いていた斎藤が「よ」とガリガリ君を持つ手を上げた。
「あれ、佐々木だけ? 池田は?」
「日誌取りに行ってる。今日、日直」
 現在、漫研には八人の部員が所属している。三年生が三人、二年生が一人、僕を含めて一年生が四人。でも武田部長以外の三年生二人は幽霊部員だし、二年生の一人も放課後カラオケに病みつきだし、一年生の一人は塾に熱中。だから部を回しているのは、実質四人だけと言っていい。
「部長、『アキミ』読み終わったら僕にも」
 僕が席に着きながら言うと、武田部長は「ちょっと黙って今いいとこ」と誌面を見つめたまま言って、眼鏡のブリッジを上げた。
「今号、すごく良かったぜ」と斎藤。
「斎藤はもう読んだの?」
「朝一で。やっぱいいよ、[南瓜{かぼちゃ}][下駄三郎{げたさぶろう}]」
 南瓜下駄三郎とは、『アキミ』で『迷宮風呂』という作品を連載する売れっ子の作家先生だ。斎藤はうっとりと頬杖をついて、「ああ、好き……」と呟いた。
 この斎藤とは中学から、彼が気にした池田とは小一の頃からの仲良しだ。残念なことに斎藤とは高二になってクラスが離れてしまったけれど、僕たち三人はいつもこの部室に集まって、漫画談義に花を咲かせていた。
「どうしたら南瓜先生みたいな才能が手に入るんだ」
「きっと血の[滲{にじ}]む想いで修行したんだよ」
「だよなあ。一流になるには、描いて描いて描きまくらなきゃいけねえんだろうなあ」
 僕たちは、いつか漫画誌の看板をはれるような漫画家になりたいという夢を持っている。でも、どこかへ投稿したことは一度もない。なんとか高校生のうちに一本でも作品を上げたいけれど、僕たちのような素人にとっては、まず「描き切る」ということ自体がとてつもなく高いハードルだった。
「俺は今年の夏休みを使って、絶対にひとつ仕上げるぞ。それを投稿して賞をとって、『アキミ』の連載陣に仲間入りして、出版社の謝恩会で南瓜先生にサインを貰うんだ」
「僕だって負けない。僕も描く」弁当箱を開けながら僕は言った。
「どうだか。また途中で投げ出すんだろ」
 そう言ったのは斎藤ではなく、部室の端で眠たそうに丸まっていたケルベロスだ。
 僕はジトリとケルベロスを見た。
 おい、今のはどの頭が言った?
 大型犬より一回り大きい、みっつの頭を持つケルベロスは、知らんぷりをして狸寝入りを決め込んだ。
 その時、がら、と部室の扉が開いた。
「よう池田」と斎藤が手を上げ、ただちに目を点にした。
 なんだろうと思って斎藤の視線を辿ると、[畏{かしこ}]まって立つ池田の後ろに、背の高い、黒いハイネックのシャツを着た女子がいる。
「いきなりごめん」と、その女子……千歳さんは言った。
 その女声に、さすがの武田部長も誌面から顔を上げる。女子に免疫のない漫研一同の間に、一瞬にしてとてつもない緊張感が走った。
「日直で、一緒で」と、上ずった声で池田が言った。
「佐々木。お前に用だってさ」
 当然ながら、女子に用を求められたのは初体験だ。
 武田部長と斎藤が、無言で僕に「まさかお前」という視線を向ける。僕も無言で「違う違う」と首を振る。
「ちょっといい?」
 千歳さんはそう言ってから、僕の弁当に目を留めて、
「あ、ご飯中?」
「あ、うん。今、食べ始めたとこだけど」
「ちょうどいいや。じゃあ、この上の科学部の部室で一緒に食べよ」
 武田部長と斎藤が、無言で僕に「てめえお前」という視線を向ける。しどろもどろになった僕は舌が回らない。
「パン持ってくるから、先に行って待ってて」
 そうして千歳さんは、さっさと行ってしまった。
 彼女の足音が遠くなり、漫研にこの世の果てのような静寂が漂った。ボト、と、斎藤の持っていたガリガリ君が溶けて床に落ちた。

        ◇

 不気味に無言を貫いてこちらを見つめてくる部員一同を無視し、僕はいそいそと弁当箱を包み直して、千歳さんに言われた通り漫研のすぐ上にある第二科学室へ行った。
 待つこと六分、千歳さんが人差し指で鍵紐を回しながらやって来た。もう片方の手にビニール袋を提げている。
「おまたせ」
 千歳さんは科学室の錠を開け、「どうぞ」と僕を促した。
 教室のものよりずいぶん大きい黒板に、消し忘れたチョークで『温度差発電のふしぎ』とある。年季の入った棚に、科学室然とした本が並んでいる。六人がつける長方形の机が整然と並んでいて、くすんだエタノールの匂いがする。
 千歳さんが窓を開けると、[粘{ねば}]ついた風が吹き込んでカーテンを揺らした。
 まだ生徒数の多かった頃は現役だったらしいが、この教室はもう通常授業では使用しておらず、今では科学部の活動場所になっている。
「こっち」
 千歳さんは、窓際の一席に腰を下ろした。
 僕は恐る恐る、彼女の隣に座った。
「お腹すいたー」
 千歳さんはビニール袋から大きなメロンパンを出して、むしゃむしゃやり始めた。
 僕も食べようと思ったが、またも女子とふたりきりというこの状況によって一気に食欲が失せてしまった。いや、食欲が失せてしまったというより、自分がものを食べている姿を女子に見られるのが恥ずかしかった。
「食べないの?」
 千歳さんは不思議そうに僕を見て、パックのコーヒー牛乳にストローを突き立ててチューと飲んだ。
「ねえ、なんで漫研ってブラインド開けないの?」
「暗い中で議論してた方が[高尚{こうしょう}]そうに見えるからって、部長が」
「へえ、部長さんってアホなんだね」
「……あの。それで、僕に用って?」
「ああ」
 千歳さんは窓に向かって足を組み、
「池田くんから聞いたんだけど、佐々木くんの実家って電器屋さんなの?」
 僕は少しだけためらって、
「うん」
「本当なんだ!」
 千歳さんは嬉しそうな顔をして、
「どこ? どこの電器屋?」
「[馬引沢{まひきざわ}]の」
「あ、あのセブンの隣か! そう言えば『佐々木電器』って看板出てた」
 千歳さんは鼻息を吹いた。
「ああ、気づかなかった。まさかクラスメイトに……」
 千歳さんは「こりゃもう[天啓{てんけい}]だね」と呟き、僕にずいと顔を寄せて、
「てことは、電気のこと詳しいよね?」
 千歳さんから身を引きつつ、僕は察した。
 彼女はおそらく、これから科学部の活動で、電気に関する実験か何かを試みようとしている。そこで、電器屋の僕に何かしらの教授を請おうと思っているんだろう。だから僕に話があると。
 でも残念なことに、
「家が電器屋だからって、電気に詳しいわけじゃないよ」
 けれど千歳さんはウキウキした様子のまま、
「佐々木くん、兄弟いる?」
「ひとりっ子」
「じゃ、いずれ継ぐんでしょ?」
「……わからない」
 千歳さんは「ふうん」と首を捻り、
「ま、継ぐにせよ継がないにせよ、電器屋さんのひとり息子が電気のことに詳しくて損はないよね」
「そうかな」
「そうだよ。だから科学部入りなよ」
 突然の勧誘に、僕はびっくりしてしまった。
「明後日から夏休みでしょ? この夏休みは科学部で一緒に電気に触れよ」
 彼女のその笑顔と言葉に、僕はかなり動揺した。なぜ動揺したのかはわからない。わかるのは、自分の意識とは関係なく鼓動がぐんぐん早まっていく感覚だけだ。
 漫画であれば、さぞ汗のマークが飛びまくっているだろう。僕はぶんぶんと拒否の手振りをして、
「いやいや、入らないよ。漫研あるし」
「入ってよ」
「無理だよ」
「いけるって。漫研ってマンガ読むだけでしょ?」
 現状はそうだけど、
「無理、無理。夏休みはやりたいことあるし」
「なに?」
 漫画を描いて投稿したいと胸を張って言えない。恥ずかしい。
 そんな僕を見て、教卓の上に座っているケルベロスのみっつの頭が呆れたように鼻を鳴らした。
「ほんとはなんもないんでしょ~」
「そうだとしても、無理。だって、そもそも僕、科学に興味ないし……」
 すると千歳さんは頷いて、
「私も別に好きじゃないよ、科学」
「え?」
「だって意味不明じゃん。だから成績もめちゃ悪いもん。いつも赤点ぎりぎり低空飛行」
「じゃ、なんで科学部に」
「本格的な機材を使って電気の研究できるのは科学部だけでしょ。電気のことを深く知るためには、この部が最適だったの」
 ふと、昨日の東屋でのことが思い起こされた。
 雨降りの空を閃光が塗り潰した時、どうして千歳さんが静かに東屋を出たのか。東屋に駆け込んで来て、すぐに濡れた体を拭いていたのに、わざわざ自分からまた外へ出たのか。その理由が、ようやくわかった。
「……千歳さん、本当に雷に打たれたいの?」
 僕は尋ねた。
 すると千歳さんは眉根を寄せ、
「言ってんじゃん」

        ◇

 その日の放課後、漫研での活動(『アキミ』新号についての意見交換)を終えた僕は、池田と共に学校を出た。
 肌に張り付く湿った風。朝からの晴天はこの時間になって[曇天{どんてん}]となり、今にも崩壊して雨を降らせそうだった。
 僕と池田は、畳んだ傘を片手に早足で歩いた。
 [聖ヶ丘{ひじりがおか}]学園通りを行く道中、僕はなるべく何気なく池田に尋ねた。
「池田さあ、なんで千歳さんに僕のこと喋ったの?」
 池田はふいとこちらを向いて、
「だって、訊かれたから」
「向こうから?」
「そう。佐々木くんのこと教えてって」
 池田は昼休みを思い出すように顔を上げ、
「いや、驚いたよ。なんで佐々木みたいなポンコツに興味があんのかって」
「お前は無礼だ」
「だから色々教えてあげたんだ。なんなの? 昼休みも一緒にランチしちゃって、お前らできてんの?」
「まさか」
「だよな。お前みたいな色白の雪国もやしが女子と付き合うだなんて夢物語にも程がある」
「お前は無礼だ」
 歩行者用信号が赤に変わり、僕たちは立ち止まった。頭のてっぺんに雨の最初の一粒が落ちてきた感触があった。「急いだ方がよさそうだ」と池田が言った。
「千歳さんって、どういう人なんだろ」
 僕はそれとなく言った。
「変わり者だって聞くけどね」
「そうなの?」
「友達もあんまいないっぽいし。つーかそれ以前に千歳さんって、一年中長袖のとっくりシャツやらセーターやら着てるじゃん。冬ならまだしも、真夏にも着てるんだよ、制服の中に。ヘンだろ」
「ものすごい寒がりなんじゃないの」
 と言って、そうではないことに僕は自分で気がついた。あの東屋で、千歳さんは「暑いのはダメ」と言っていた。
「体育の時だって、体操着の中に着てる」
「言われてみりゃそうだね」
「ヘンなのはとっくりシャツだけじゃない。これは妹に聞いたんだけど、千歳さんって中三の時に謹慎食らったことがあるんだって」
 池田の双子の妹は、中学の時に千歳さんと同じクラスだった。そう言えば当時、どこかのクラスの誰かがそんなことになったというような噂が巡った気がする。
「なんでも教師に暴力を奮ったとか」
「え? それはすごいな……」
「俺も詳しくは知らないけど」
 池田は小さく笑った。「千歳さんってひょろ長いから、リーチ活かしたいいパンチ持ってそう」
 信号が青に変わり、僕たちは歩き出した。
 アスファルトに点々と黒い水玉模様が浮かんできて、甘くてべとつく雨の匂いが漂い始めた。
「じゃ、また明日」
「うん」
 横断歩道を渡り切り、僕たちは各々の家路についた。

        ◇

 自宅に帰り着いた僕は、店番をしている父に悟られないように裏手へ回った。
 本降りになった雨が重々しい音を立てている。
「おや、[伊地知{いじち}]さんちのとこの。いつもお世話になってます。今夜はどんな御用で?」
「それがよ、うちのエアコンがヘンな音出し始めてよ、クーラーが効かなくなったのよ」
「それは大変だ。明日お家に伺います」
「頼むよ。んであと、ウィ~フィ、つーの? ネットの[某{なにがし}]も見てくんねえか? 孫とテレビ電話するのに必要だっつうんでよ。オレだけじゃどうやって扱えばいいのかわかんねえ」
「わかりました。そちらも合わせて見させて頂きます。料金はこれくらいで如何でしょう?」
 店先から、父と、客と思しき老爺の声が聞こえてくる。
 僕は勝手口の前で傘を降って雨粒を[剥{は}]がした。
 静かに台所へ入ったつもりだったが、接客を終えたのだろう、間の悪いことに父と鉢合わせてしまった。
「帰ったなら言え」
 接客中とは打って変わり、父は落ち着いた声で言った。
「ごめんなさい」
「メシは」
「宿題するから、後でいい」
「じゃあ、そこに置いておく。腹が減ったら勝手に食えよ」
 父は冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出して、店の方へと戻って行った。
 僕は二階の自室へ行った。スクールバッグの金具につけた『交通安全』の赤いお守りが緩んでいたので、強く結び直してから脇机のフックにかける。電気を点けて、窓の外に引かれた幾重もの雨の直線をカーテンで消す。制服を着替える前に机に着いて、ズボンのポケットからスマホを出し、部長に撮らせてもらった『アキミ』の投稿募集要項の写真を開いた。
 漫画誌『アキミ』は、一年を通して原稿を募集している。〆切は毎月末日。可能性を感じた新人には編集さんがつき、いけると判断されればいきなり連載権を貰えるらしい。
 斎藤と同じように、僕は今年の夏休み、この投稿に挑戦しようと決心していた。
 宿題に熱を上げるわけでも、受験勉強に打ち込むわけでもない。一年生というのは、高校生活において一番に自由で一番に空白な期間だと僕は思っている。クラスメイトたちは塾に部活に忙しそうだが、僕は別に進学を希望してはいないし、漫研なんてどうせ集まってもだらだらするだけだ。なら家に引きこもってずっと漫画を描いてやろうと思うのは当然だった。
 僕は本立てから宇宙の図鑑を抜いて、中に隠してあるノートを机の上に広げた。隅にある付箋だらけの『幻想動物辞典』を手に取って、読むでもなくぱらぱらとページをめくった。漫画の骨組みになる「ネーム」のアイデアを探して、でも一向に身が入らない。ペンを持っても、持っただけだ。
 そのまま三十分が経った。
「お前さ。あの千歳って女子のことが気になってんだろ?」
 いつの間にかベッドに寝転がっていたケルベロスの左の頭――『キバ』が、意地悪な声で言った。
「なってないよ」
 僕は辞典に視線を落としたまま答えた。
「嘘こけ。あの子はどんな夏休みを過ごすんだろうって思ってるくせに」
「思ってない」
「顔に書いてあんだよ。あ~あ、ただ昼メシ一緒に食っただけで恋しちゃったのかよ。感心するほどチョロいんだから」
 キバは僕を馬鹿にするように笑った。「お前、ハニートラップに気をつけた方がいいよ」
「あんまりからかってはいけません、キバ」
 ケルベロスの真ん中の頭、『ガオ』が、冷静な声で言った。
「[修司{しゅうじ}]があの子のことを気にするのは当たり前です。生まれて初めて食事を共にした母親以外の女性なのですから」
「だとしてもだよ」
 キバはつまらなさそうにガオを見た。
「人生百年時代、たったそんだけのことでいちいち恋に落ちてたら、この先身が持たねえぞ」
「ボクはいいと思うけどなあ」
 今度は右の頭の『モグ』が、のんびりした声で言った。
「人を好きになるのは、とっても素敵なことじゃない。恋ってのは、日々に虹を架けてくれるものなんだよお。だから修司だって、恋はたくさんした方がいいよお」
「よせって、モグ」
 キバはモグを睨んだ。
「何が虹だよ、気持ちわりい。鳥肌立ちすぎてそのまま鳥になってどっかに羽ばたいて行っちまいそうになっちゃったよ、この[自惚{うぬぼ}]れワン公め」
 キバは「ああやだやだ」と首を振る。モグは、「そんなに言わなくても」と、しょげた。
「言い過ぎですよ。モグに謝りなさい」
「やだね。本心を隠さないのが俺のモットー」
「ちょっと、喧嘩するなら出てってくんない?」と僕。
「キバ。私たちはそれぞれ別の自我を持っていますが、体と命はひとつの運命共同体ではありませんか。モグの感じるストレスは私たちにも返ってくるのですよ。いたずらに喧々すべきではありません」
 ガオはたしなめるように言った。「それに、私もモグと同感です。恋とは実に素晴らしいものなのです」
「俺は恋を否定してるんじゃなくて、簡単に落ちるべきじゃないって言ってんだ」
「落ちてしまったものは仕方がありません」
「じゃあなにか、目の前ででけえメロンパン齧られただけで恋しちゃう気持ちがお前にはわかるって?」
「わかりますね。キバ、あなたには繊細さというものが足りません」「なんだこの尻軽め」「尻軽という言葉は男性に向けては使いません」「女性蔑視はよくないよお」「どうして俺の周りにゃ軟弱な奴しかいねえんだ」「ケンカはよしてえ」「モグ、きみその出てるのは鼻毛ですか?」
「あのさあ」
 僕はとうとう我慢できなくなって、やんやと言い合うケルベロスの方を向いた。
「やかましいんだけど。静かにしてくんない?」
「お前の恋について真剣に考えてやってんだろ」
「そもそも恋なんてしてないっての。勘違いで的外れな議論を始めるのはやめてくれ」
 僕はため息をついて、再び机に向かった。
「漫画の構想を練ってるんだから、黙っといて」
「一向に筆が進んでないように見えるが」
 キバがにやりとして言った。
「描いてないだけで、頭の中では出来てきてる」
「そうかい」
 キバは「ふあーあ」と欠伸をした。それに釣られて、ガオとモグも大口を開けた。
「いい加減、さっさと俺たちを主人公にした物語を始めてくれよ。俺たちは勇者と一緒に悪の皇帝を倒すんだろ?」
「わかってるよ。待っとけって」
「そのセリフも耳タコだ」
「この夏休みに必ず仕上げる」
「口ではいくらでも言えるもんさ」
 僕はムッとして席を立った。
「どこ行くのお?」と、モグの声。
 僕は答えずに部屋を出た。

        ◇

 僕は一階で父が用意してくれていた食事をとり、風呂へ入った。
 風呂から上がると、具合のいいことに少し雨が収まっていた。僕は閉店作業をしている父に「コンビニ行ってくる」と声をかけ、傘を持って勝手口から外へ出た。
 すぐそこの道路を走る車が雨を轢く音を立てる中、僕はコンビニへは行かず、家の裏手にある空き地へ向かった。
 幼稚園の庭ほどの暗い空き地には誰もいない。奥に建つ一本の古い街灯が、申し訳程度に闇を拭っている。その橙色の灯りに、誰が捨て置いたのかわからない廃車の屍たちが寂しく照らされていた。
 僕は空き地の隅にある、頭から茶色い絵の具をかぶったようにサビたビートルの裏へと歩みを進めた。
 ここは土むき出しの味気ない空き地だけれど、多くの廃車によって道から死角になっているこのビートルの周囲にだけ、なぜかコンクリートが敷いてある。ひび割れだらけのボロボロのコンクリートで、蜘蛛の巣のように走る亀裂に、所々雑草が根差している。街灯の明かりがぎりぎり届く範囲にあって、雨露に濡れた地面がとろけるように光っていた。
 僕は、このコンクリートの亀裂を穿ることが無性に好きだった。
 中一の時にここを発見してから今日に至るまで、僕はふとした時にここへ出向いて亀裂を穿った。こだわりとして、道具は使わない。己の指だけで亀裂をいじくって、割れたコンクリートの破片がパズルのピースみたいに「ぼそっ」と取れる瞬間が何より快感だった。
 そして取れた破片は、ドアの取れたビートルの車内、破れてカビた運転席のシートの下に収集する。時間をかけて貯まっていくその欠片を、僕は宝物のように思った。
 どうしてこれが好きなのかというと、その理由は僕にもよくわからない。ただ、かさぶたを剥がしている感覚に近いと思う。しちゃいけないけど、してしまうこと。よくないけれど夢中になってしまうこと。これは漫画以外で熱中することのできる僕の大切な時間であり、僕の秘密の趣味だった。
 僕はしゃがみ込んで、ここまで進めていた亀裂の拡大を始めた。
 カリカリ、カリカリと人差し指と中指の爪で亀裂をえぐる。すると、その亀裂にはまっている割れた破片がぐらぐらする。これをしている時が、僕は一番安らいでいる。
「悪かったよ」
 作業を始めてしばらく、背後からキバの声がした。
「さっきは、ちょっと言い過ぎた」
「気にしてないよ」
 僕は振り向かず、亀裂を穿りながら答えた。
 遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
「修司。何でも言えよ」
 キバは言った。
 僕は振り向いた。
 雨に濡れたケルベロスのみっつの頭は、それぞれの耳を後ろに倒して、しゅんと項垂れていた。
 その様子がおかしくて、僕は思わず笑った。
「気にしてないって」
 僕が言うと、みっつの頭はパッと顔を上げ、ひたひたと僕の隣に来て座った。そうしてみっつの頭は、僕の手元をじっと覗き込んだ。
 ケルベロスに見守られながら、僕は亀裂から大物の破片を穿り出した。

        ◇

 千歳さんに科学部へ勧誘されてから二日、あれから彼女は僕に声をかけてこなかった。嫌がる僕の態度を見て諦めたんだろうか。いや、別に期待していたわけじゃないけれど。
 でも、まあ、なんとなく気になるので、僕は千歳さんをそこはかとなく観察することにした。
 千歳さんは僕より前方の席、それも角度的に見えやすいところにいるので、授業中は簡単に様子を窺える。彼女は、ボーッと窓の外の雨空を眺めていることが多かった。背が高いのでボーッとしているのが目立つんだろう、よく先生に注意をされた。また、暑いのか、よくハンカチでぺたぺたと顔や首を拭いていた。
 休み時間になれば、普通に友達とおしゃべりをしている。池田は「千歳さんには友達がいない」と言っていたが、そんなことはない。みんな彼女を嫌うこともなく、気さくに話しかけている。彼女もまた笑顔で、違和感なくみんなと付き合っていた。
 けれど、ふとした時、彼女はよくひとりぼっちになっていた。
 仲間外れにされたひとりぼっちじゃない。彼女は自分から望んで、友達の輪を出ていた。
 昼食に誘われれば嬉しそうに加わるし、イケメンの話題でわーわー騒ぐし、自撮りのカメラを向けられればすかさずダブルピースを決める。でも、誰もが気づかないタイミングに、彼女はひとりでいる。そして、なんにも寂しそうじゃない。そうして彼女は渡り鳥のように、教室内にできているグループからグループへ、自由気ままな旅をしていた。
 どこにも属さず、どこにも留まらない。それでいて邪険にされたり嫌われたりしないのは、彼女が絶妙な距離感でみんなと付き合っているからだろう。
 彼女は多弁だし、よく笑うけれど、心から何かを言っているわけじゃないし、心から笑っているわけでもない。と、思う。見ていて、そんなふうに感じる。誰とでも打ち解けているようで、誰も信頼していないような、ちょっと不気味な雰囲気があった。
 同じクラスながらこれまで気にも留めていなかった彼女に意識を向けてみると、だんだん色々なことがわかってくる。
「変わり者」という池田の言葉が思い起こされた。
 まさしくそうだと僕は思った。

        ◇

 七月も十八日を過ぎ、明日から夏休みが始まる。
 午前中のうちに終業式とホームルームが終わり、僕たちは晴れて自由の身になった。歓喜の声が弾ける先生のいない教室で、僕は静かに通知表を閉じた。池田が「どうだったの」と通知表を奪おうとしてくる。僕は池田をいなして席を立った。
「帰んの?」
「漫研寄ってく。漫画借りたい」
 僕はバッグを背負った。「池田は?」
「めんどくさいことに、これから法事」
「じゃ、今日はこれでだな」
「ああ。またLINEするよ」
 僕はひとり教室を出て、隣のB棟にある漫研へ向かった。
 階段を降り、一階の渡り廊下を行く。青空は眩しく、雲の流れが早い。ついさっき上がった雨が、そこら中に水たまりを作っている。向こうに見えるグラウンドでは、気の早い運動部が走り込みを始めていた。
 地上に出たばかりで遠慮がちなセミの鳴き声が聞こえた。
 吹く風に雨の輪郭が乗っていた。
 夏の匂いがして、僕は少しわくわくした。
 夏休みだ。
 漫画を描き切るという目標はあるけれど、例年と特に変わり映えのない夏休みになるだろう。それでも夏休みというものには、問答無用で人の心を躍らせる魔力がある。僕はなんとなくいい気持ちで渡り廊下を歩き切って、二階にある漫研を目指した。
 階段を登った先の踊り場で、「佐々木くん!」と下から呼ばれた。
 千歳さんの声だ。
 振り向くと、千歳さんが階段を登ってくるところだった。彼女は「すぐにいなくなるんだから」と言い、僕の前で少しだけ息を整えて、
「あの話、考えてくれた?」
「あの話?」
「科学部に入ってって話」
 僕は驚いた。その話はまだ生きていたのか。てっきり千歳さんはもう僕に興味がなくなったものだと思っていた。
「それで、入ってくれる?」
 千歳さんはにこりと微笑んだ。「考える時間いっぱいあったよね」
 そう言われても、僕はきちんと断ったはずだし、だいたい「考えといて」とも言われていないような気がする。
「いや、あの。誘ってくれたのは嬉しいよ」
「うんうん!」
「でもさ、僕、今年の夏は……」
「うんうん」
「前も言ったけど、ちょっと、なんていうか……」
「うん」
「やっぱり、その、やりたいことを優先したくて……」
「……」
 千歳さんの微笑みにだんだんと雲がかかってきた。
「だから、申し訳ないんだけど、あのさ……」
「……」
「……やっぱり、む」
「ノー!!」
 千歳さんは手のひらで僕を制すようにして、
「その先はノー」
「はあ」
「あのさ、佐々木くん。ほんと、ほんと一生のお願いだから」
「お願いされても……」
「考えてみて。一生のなんだよ? 一生のって、命を懸けてのお願いなんだよ?」
「わかるけど……」
 千歳さんはスッと真顔になって、
「……決心は固いのね」
 僕はためらいがちに頷いた。
 千歳さんは「は~あ」とこれ見よがしにため息をついて、
「ちょっと来て」
 突然、僕の持っていたバッグをむんずと奪い取った。
「あ!」
 千歳さんは僕を置いて、ずんずん階段を登っていく。僕はサッと血の気が引くのを感じた。他の何をダシにされてもいい。ただ、そのバッグだけは駄目だ。そのバッグには、母の形見のお守りがついている。
 僕は彼女を追いながら「返して!」と言った。彼女はまるで聞く耳を持たない。

        ◇

 千歳さんはそのまま一度も振り返ることなく、僕のバッグを持って三階の科学部室へ入っていった。
 僕は科学室の前で、ばんばんカーテンを開いて窓を開け放っていく千歳さんを見ていた。部員がいても良さそうだけれど、科学室には誰もいなかった。
「入って」
 全ての窓を開け終えて、千歳さんは言った。
 じめっとした風が吹き込んで、温い部室内の空気をかき混ぜる。窓の向こうに夏休みの青空が広がっている。僕は彼女に言われるまま、すごすごと近くの席に座った。
 千歳さんは僕のバッグを持ったまま、窓の外のプールを見た。「いない」と呟いて、僕に向き直り、
「気持ち変わった?」
「変わらないから、バッグ返してよ」
「科学部入ってくれるなら返すよ」
「だから、僕なんかが入っても千歳さんの力にはなれないって」
「いや、佐々木くんには力はある。電器屋の佐々木くんが入ってくれたら百人力」
 千歳さんは、僕をまっすぐ見つめた。
 その瞳に気圧されて、僕はうつむいた。
 彼女がどうして僕にこだわるのか、よくわからなかった。
 無言の時が流れて、カーテンがそよそよと揺れた。
「……どうしても嫌?」
 千歳さんはつかつかと僕の元に来た。
 そして、
「じゃあ、科学部に入ってくれなくてもいい」
 僕にバッグを差し出して言った。
「私の自由研究を手伝ってください」
 僕は顔を上げた。
 教室で友達と喋っている時と違って、千歳さんは真剣な表情をしていた。
「……自由研究って、えーと、科学部の?」
「うん」
 千歳さんは真面目な声音で答えた。
「私、この夏休みのうちに避雷針を作りたいの」
 ハハハッ! と、僕の隣に座っていたケルベロスのキバが笑った。
「……避雷針?」
 そんなもの作ってどうするの、とは思わなかった。
 だって、どうするのかわかっているからだ。
「そこに雷を落とすの?」
「そう」
 千歳さんは、顔の前でぱんと両手のひらを合わせた。
「お願い。佐々木くんが手伝ってくれたら、きっと立派な避雷針ができるから」

        ◇

 家に帰った僕は、早々にベッドに寝っ転がった。
 がんがんにクーラーを効かせて、うつ伏せでスマホとにらめっこする。YouTubeを開いて、『雷』と検索する。
 画面にずらずらと雷のサムネが並ぶ。『雷、一億ボルトの巨大エネルギー』、『雷の音でリラックスする動画』、『美しい稲光の数々』……。
 とりあえず僕は、一番上に出てきた『衝撃! 目の前に落ちる驚愕落雷集』の動画を見てみた。
 画面左に、緑の屋根の大きな家が映っている。五秒ほどその画が続いたところで、突然、赤い光と爆音が画面中央で炸裂した。すると家の前に立っていた木が竹のように縦一直線に割られ、ドサドサと枝葉を降らせた。文字通り木っ端微塵になった木の破片が辺りに注ぎ、「Oh my God!!」という叫び声が聞こえた。一撃を喰らい崩壊した木は、天を衝く巨大な針のようになってしまった。
 次もまたすごい。ベランダから曇り空を撮っている映像が、一秒だけ真っ白に塗られて何も見えなくなった。と思ったら、まばたき半個分の早さで目前に電気の塊が落ちてきた。ドンという音と共に火花が上がり、やがてそれは炎になった。
 僕は動画を閉じて仰向けになった。
 当たり前だけど、こんなの喰らったら死ぬと思う。
 なのに千歳さんは「雷に打たれたい」と言う。
 もしかして、彼女の言っている「打たれたい」というのは「間近に観測したい」ということなんだろうか。
 そう思ってみると、そうとしか思えなくなってきた。だって、本当に打たれたら死んでしまうのだから。仮に、万が一、千歳さんが「死にたい」と思っているのなら、いちいち雷に打たれるなんて面倒なことをしなくても、高いところから飛び降りればいい。ロープで作った輪っかに首根っこからぶら下がればいい。閉め切った部屋で七輪で焼き肉をすればいい。
 落雷を近くで見たいというのなら、僕も興味がある。
 動画で見た稲妻は、毛羽立った光るヘビのように見えた。そのヘビをこの目で見るということは、僕が描こうとしている漫画にとって役に立つんじゃないだろうか。『幻想動物辞典』にも載っている、落雷と共に落ちてくるという怪獣「雷獣」の参考になるんじゃないだろうか。「百聞は一見に如かず」というように、動画で見るのと実際に見るのでは、大きく印象が違うはずだ。
 かの手塚治虫先生も言っていたらしい。「インプットがないのに、アウトプットはできません」
 漫画家は、想像力を使う仕事。
 その想像力を育てるものは、何より自分の体験だ。
「そういうことなら、あの子に力を貸してあげてもいいと思うよお」
 伏せていたケルベロスのモグが、顔を上げて言った。「雷属性の技を描写する役に立ちそうだねえ」
「漫画の取材という名目でなら、漫研の人たちにも言いやすいでしょう」
 今度はガオ。
「つーかよ、避雷針作りだなんてめちゃくちゃ面白そうじゃねえか。そんなもん自由研究で作る高校生なんていねえぞ」
 キバは愉快そうに言った。
「修司が手伝うって決めたなら、あの子、きっと喜ぶぜ」
 僕は意を決してスマホを手に取った。
 今日、LINEに追加された友達リスト唯一の女子の名前を一分見つめて、また一分見つめて、一分見つめて、二分見つめて、深呼吸して、タップした。

        ◇

 夏休み初日は、気持ちのいい晴れだった。
 明け方までは大雨が降っていたようだけど、朝八時に窓を開け放つと、澄んだ青空と膨れ上がった入道雲が見えた。心なしか、昨日よりセミの声も増えた気がする。どこか水っぽい空気に、梅雨明けの気配が満ちていた。
 僕は父と朝食を済ませ、身支度を整えた。父にばれないよう、薄暗い店内を抜き足差し足、商品棚にある白熱電球を一個拝借した。そのまま静かに家を出ようとして、台所で父に呼び止められた。
「おい」
 ドキリとしつつ、電球を後ろ手に持って振り向き、
「なに?」
「部活か」
「うん」
「何時に帰る」
「たぶん、十五時までには」
 父はぼりぼりと頭を掻いた。
「じゃ、昼メシはいらんな。今日の夕食当番お前だぞ」
「わかってる。帰りに西友寄って何か買うから」
 僕は電球を素早くバッグに入れて、昨日から置きっぱなしだった靴を履いた。
「玄関から入れっていつも言ってるだろ」
「ごめん」
 僕は勝手口の扉を開いた。
「待て」
 振り返る僕に、父は封を切っていない飴の詰め合わせを投げて寄越し、
「頭を使うと糖分が欲しくなるだろう。パソコン部のみんなで食べなさい」
 僕は父と目を合わせられないまま頷き、家を出た。

        ◇

 九時半頃に学校に着き、僕はB棟へ向かった。
 早めに来たつもりだったけど、校舎には多くの生徒がいた。せっかくの休みなのにみんな部活に熱心だなと思って、そうだ、夏休み前半は補修生もいるんだったと気がついた。
 上履きに履き替えて、科学室を目指す。
 廊下の窓から夏の影が差している。遠くから調子を外した管楽器の音が響いてくる。グラウンドからは野球部のシャーシャーという大声。いつもの放課後と同じなのに、夏休みというだけで、なにかが違うように感じる。
 科学室は三階だけれど、僕は二階の漫研の前を通りがかってみた。
 扉の向こうはシンとしていて、誰もいないようだった。
 斎藤でもいれば調子が出るのにと思ったけれど、残念。
 僕は観念して、科学部へ行った。
 鍵のかかっていない扉を開けると、もう千歳さんがいた。彼女は窓の桟に寄りかかってカーテンの隙間から外を見ていた。晴れた日の午前中なのに電気が点いているのは、全ての窓にカーテンが引かれたままだからだ。
 千歳さんは僕に気づいて、「おはよう」と微笑んだ。
「来てくれてありがとう」
 僕と千歳さんは、手近な机の対面の席に着いた。
「昨日、佐々木くんからLINEが来た時は嬉しかったな~。なんで急に協力しようと思ってくれたの?」
「僕も雷が落ちるところを見てみたいから」
「あ、わかる。映像と本物はまるで違うってやつね」
 千歳さんはうんうんと頷いた。
「ところで、他の部員は?」
「今日はみんな、多摩川に魚捕まえに行ってるよ。私は残った。今のうちに計画を立てようと思ってね」
「部員には言ってないの? 避雷針を作ること」
「言ってないよ」
 千歳さんは当たり前のように言った。「怒られるもん、絶対」
「……あのさ。気になってたんだけど、避雷針ってどうやって作んの?」
「それはね」
 千歳さんは、机に置いていた自分のバッグからリングノートを取り出して広げた。ノートには避雷針と思しきものの設計図が描かれていて、その下に細かな字でメモがあった。
「千歳さんが書いたの?」
「もちろん」
「すごい緻密」
「ふふん。見せかけじゃないよ」
 千歳さんはニッと笑って、
「ほら、設計図のここ見て」
 逆さにしたマイナスドライバーのような避雷針のてっぺん、尖っている部分を指差した。
「これは先端の鋭い導電体。で、この針の下の部分は、抵抗値の少ない素材。まず先端に雷を落として、そこから下へ伝うように電気を流して、最後に地中に逃がす。それが避雷針」
 千歳さんは顔を上げた。「仕組みは簡単でしょ」
「なんとなくわかる」
「雷を避ける針って言うけど、ほんとはあえて雷を落とす『誘雷針』なんだよね。雲の中で溜まった電気をこの針で逃してあげて、他のところに落雷しないようにする。避雷針っていうのは人目線での名前なわけ」
 たくさん調べたのだろう、千歳さんの口調はすらすらしていた。
「で、どうやって作るのかっていうと、まず長~い棒がいるわけね。雨とか風にも耐えられるステンレス製とかチタン製とかので、全形に導線を通すの」
「うん」
「そんでね。棒は私がなんとかするから、佐々木くんには導線をめちゃくちゃ用意してもらいたいんだ。お家にない?」
「お家?」
「電器屋さん」
「ああ」
 導線なんかあったかな、と思う。
「ネットで注文する手もあるけどさ、もしお母さんに見つかったら説明がめんどいじゃん? だから佐々木君に頼みたくて。もちろん、責任持ってお金は払うから。ただ、今は手持ちがなくて、前借りさせてほしいの」
「一応父さんに聞いてみるけど、期待しないでほしい」
「ありがとう!」
 千歳さんはパンと手を合わせた。
 そこで僕はふと気になって、バッグから白熱電球を取り出した。
「LINEで言われた通り持ってきたよ」
「あ、ないす!」
「なんで電球なんか欲しかったの?」
 千歳さんは僕から電球を受け取ると、「ふっふっふ」とわざとらしく笑った。
「今日はね、これを使ってもっと佐々木くんに電気を好きになってもらおうと思って」
 千歳さんは席を立ち、何やら棚をごそごそと探って、セロテープと百円ライターを持ってきた。バッグからニッパーを出して、それをカチカチさせながら、
「今からここに、雷を起こします」
「え?」
 僕はびっくりした。「そんなことできるの?」
「できるんだな、それが」
 千歳さんはライターを振ってオイルが入っていないのを確認し、ニッパーでパキと割って中から筒状の部品を抜き出した。「これは圧電素子って言って、エネルギーを電圧に変換する装置だよ。つまりライターのスイッチ」。その圧電素子とやらの導線の先端の皮膜もニッパーで剥がして、電球のおしりに繋ぎ、テープで固定した。
「はいできた」
 それから千歳さんは、室内の電気を切った。午前中とは思えないほど薄暗くなった中、彼女はこちらへ来て、僕の座っていた席をどかした。
「しゃがんで、この机の下に入って」
「なんで」
「いいから」
 仕方なく、僕は机の下の暗がりに体を入れた。すると、千歳さんもしゃがんだ。
 暗い机の下、すぐ隣に千歳さんの顔がある。正体不明のいい香りがして、たちまち左胸が跳ね上がった。「ほら」と千歳さんがささやく。「見てて」
 千歳さんは、カチ、と、圧電素子を押した。
 すると、彼女の手のひらの上にある電球の中に、紫色の電流が走った。
「わ」と、僕は思わず声を上げた。
「今のが雷だよ。雷の赤ちゃん」
 千歳さんがカチカチと圧電素子を押す度に、美しい紫色の電流が生まれる。僕はその電流に見惚れた。まるで新種の生き物のようだった。
「佐々木くんもやってみる?」
 千歳さんは、僕に電球を手渡した。
 僕は彼女がしていた通り、電球を手のひらに乗せ、圧電素子を押した。
 瞬間、ビリッとした痛みが電球を?んでいる指に走った。「ダッツ!」と僕は叫び、飛び上がるように身を起こして机の底に頭を強打した。
 僕はほうほうのていで机の下から這い出た。千歳さんはゲラゲラ笑いながら出てきた。
「電球の金属のとこ触っちゃったんだよ」
 千歳さんは涙を拭いながら言った。「ねえ、ダッツって何? ハーゲン? ハーゲンなの?」
 痛みではなく恥ずかしさで頭がポッポして、僕は顔を上げられなかった。
「頭ガーンなったけど、大丈夫?」
「平気」
「ごめんごめん、言わなかった私が悪い」
 千歳さんはひとしきり笑って、
「でも、凄く綺麗だったでしょ? 雷」
 僕は小さく頷いた。
「ほら。電気、好きになった?」
「……別に?」
「ふうん?」
 千歳さんはにやけて「じゃあ、この夏休みできっと好きになってもらおう」と言った。

        ◇

 実験を終え、千歳さんは改めて僕に避雷針制作のスケジュールを説明した。
 彼女の計画によると、まず八月十五日までに避雷針を完成させる。その後はほとんど運に頼る。スマホで逐一情報を仕入れて、ちょうどよくこの多摩近辺に雷雲が来そうなら避雷針を持って出かける。
「多摩近辺じゃないといけないの? 雷雲が来そうな場所がわかったら、先回りして、あらかじめそこに立てておけば?」
「避雷針持って電車になんか乗れないよ。それに遠征しても土地勘ないし、どこに立てればいいのかわかんない」
「雨の通り道に立てるんじゃ駄目なの?」
「避雷針っていうのは、二十メートル以上の建物に設置しないと意味ないの。むやみに立てたって、結局、高い建物に落ちちゃうんだよ。だから、この多摩の高地に雷雲がかかった時の出動が望ましいわけ」
「高地って?」
「この辺りだったら、すぐそこの桜ヶ丘公園かな。あそこ元々山だったし」
 僕は不安になった。
「そんなにうまくいくもんかな」
「大丈夫。温暖化のせいで最近の雷雲は発達までが一瞬だからしょっちゅう生まれてるし、特に今年の夏は例年にないくらい暑いって言うし。ほら、生物の校外学習の時もそうだったじゃん。まったく予兆ないのにゲリラ豪雨あったでしょ?」
 千歳さんは自信ありげだった。「早いうちに避雷針を仕上げておけば、きっと多摩にもチャンスが巡ってくる」
「それでも、もし雷雲が来なかったら?」
「いや、来る。来るよ」
 千歳さんは妙に真面目な顔をして言った。でもすぐにパッと表情を明るくして、

「あ、ほんとは避雷針を勝手に立てるのってダメだから、みんなには内緒ね」
「え」
「生涯に〜、一つの秘密、レモンの木〜」
 千歳さんは誰かの俳句を詠むようにそう言って、胸の前で両こぶしを握り「ドキドキする〜」と鼻息を噴いた。僕はドキドキというか、簡単に見つかって大目玉を喰らうんじゃないかとハラハラした。
 そうして僕たちは、明日から本格的に避雷針の製作に取りかかるための算段を立てた。今後は科学部が科学室を使うので、僕たちは裏庭の大きな楠の木陰で製作をすることにした。裏庭には体育倉庫があるので避雷針を隠しておくのにうってつけだし(ブルーシートをかぶせておけばそうそう怪しまれない)、その脇には園芸部のリヤカーも停まっているので、ちょっと借りれば運搬も楽ちんだ。
「予定の確認もできたし、今日はひとまずこれで解散にしよっか。明日からよろしくね」
 まだ十二時だったけれど、僕たちは帰ることにした。
 途中に漫研を覗いてみるも、やっぱり誰もいない。みんな夏休み初日はたっぷり朝寝を決め込もうという腹なんだろう。
 校舎を出ると、朝から降っていた雨が上がり、瑞々しい青空が広がっていた。水色の風は速く、上空に盛り上がる綿の塊のような雲を押している。カーンと注ぐ日光が、雨に濡れた風景を鮮やかな夏の形に現像していた。
 校門を出ようとしたところで、「お腹すいたな」と千歳さんは言った。「もうお昼かあ」
 ふと思い出して、僕は父に貰った飴を千歳さんにあげた。
「ありがとう」
 千歳さんはむぐむぐと飴を食べて、
「うま。これ何味? 梅?」
「えーと……梅レモン? 途中で味が変わる」
「へえ、初めて食べた」
 でも飴ごときでは千歳さんの腹の虫は治まらなかったようで、彼女は学校の敷地内にあるコンビニへ寄りたいと言った。「せっかくだからイートインでお昼にしない?」と言う。僕と彼女は弁当を買ってコンビニで食べた。
 昼食を終え、コンビニの前で店内のお手洗いに行った千歳さんを待っていると、同じ高校の生徒たちがやってきた。みんな大人びていて、とてもガタイがいい。運動部の先輩かな、と僕は思った。
 その時、ガリガリ君を持った千歳さんがコンビニから出てきた。
 千歳さんは僕に「ほい、今日のお礼」とガリガリ君を差し出した。そしてすぐ、近くにいる生徒たちに気づいたところで、

「あれ、千歳?」
 生徒たちのひとり、がっしりした短髪の男子生徒が手を上げた。
「き」
 千歳さんは、たちまちどぎまぎした。
「岸先輩」
 岸先輩と呼ばれた男は、にこやかに千歳さんの許にやってきて、
「なにしてんの?」
 と、すぐに隣の僕に目を留めて、
「え、デート?」
「違います!」
 千歳さんは大声を出した。
「ただのクラスメイトです!」
「ふうーん?」
 千歳さんよりも背の高い岸先輩は、僕の顔をしげしげと見た。
「クラスメイトねえ」
「いやほんとだから!」
 千歳さんが顔を真っ赤にして言うと、岸先輩はハハハと笑った。

「先輩こそ、もう部活終わったの?」
「今日はミーティングだけ。まだプールに水入ってないからな」
 他の生徒たちが「おうい」と岸先輩を呼んだ。「おう」と岸先輩は応じて、
「じゃあな、千歳」
 コンビニの中に入っていく岸先輩を、千歳さんは小さく手を振って見送った。
 そして千歳さんは、早足で歩き出した。僕は慌ててその背を追う。
 千歳さんは僕へのお礼だと言っていたガリガリ君の封を開け、がしゅがしゅと自分で食べ出した。「あー暑い」と呟き、彼女はしゃんと伸ばした背中から「何も聞くなよ」という刺々しいオーラを噴出しながら歩いた。だから僕は黙って彼女についていった。
 会話のないまま聖ヶ丘学園の交差点に来て、彼女は立ち止まり、いきなりオーラを引っ込めてうつむいた。そのままだんまりしているので、何か声をかけなきゃと思った時、
「……私さあ、」
 彼女が口を開いた瞬間、通りかかったトラックが車道の水たまりを踏んだ。
 勢いよく跳ね上がった水しぶきを、千歳さんはドバアと派手に浴びた。「あ」と声を出す暇もなかった。トラックは水たまりを踏んだことに気づいていないようで、何事もなかったようにそのまま左折していった。
 全身びしょ濡れになった千歳さんは、前髪からぽたぽたとしずくを垂らして立ち尽くした。

「あの……。大丈夫?」
 僕は恐る恐る声をかけた。
 千歳さんはしばらく立ち尽くしていたけれど、ふと、とても小さな声で、
「……取れ……」
「え?」
「いや」
 千歳さんはため息をつき、がっくりと肩を落とした。
「私さあ、ついてないんだよね」
「僕、タオル持ってるよ」
「いい」
 千歳さんは両手のひらで顔を拭い、「また明日」と言って、てくてくと歩いて行ってしまった。彼女の濡れた足跡が歩道に続いていく。

        ◇

 夕食を終え、自室で『幻想動物事典』を呼んでいると、千歳さんからLINEが入った。
『今日はありがとう。ヘンな感じで帰ってごめんね』

 僕は三十分ほど考えて、ようやくいい塩梅の言葉を返した。
 それから僕は、冷えたポカリのペットボトルを持って、空き地へ行った。
 夏の虫が鳴いている。風はやっぱり温い。明るい街のせいで星は見えない。
 僕は無心で、コンクリートのひび割れを剝がしていった。
 時間が経つにつれ、ひとつ、ふたつと欠片が僕の傍に重なっていく。
 中でも大きな欠片を取り出そうとして、僕は亀裂に右人差し指を突っ込んだ。
 徐々に力を込めている最中、針で刺されたような小さな痛みを感じた。
 亀裂から指を出してみると、爪の白いところが縦に欠けていた。
 僕は、欠けた爪を街灯にかざして見つめた。
 琥珀に包まれたように照る爪から目が離せず、しばらくそうしていた。
 何も言わず、ケルベロスが僕を静かに見守っていた。

 

※試し読みはここまでです。

 

『ひび割れから漏れる』

全国書店他で12月24日より発売。電子版も各電子書籍ストアで同日配信開始。
定価:1980円(10%税込)

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