第二章
「木乃の旅」
月曜日。
時間は朝の十時半ころ。
綺麗に晴れた十一月の蒼い空の下で、鎌倉の海沿いの道を、
「ひゃほー! 気持ちいいー!」
一台のバイク(注・二輪車のこと。空は飛ばない。二〇一九年現在)が走っていました。
運転手は若い人間でした。十代中頃。分かると思うけど木乃です。
木乃は、上から下まで、新品ピカピカのバイク装備で身を固めています。
上から――、
買ったばかりの黒いヘルメットにゴーグル。
買ったばかりの、黒いエアバッグ付きジャケット。作動用ワイヤーが右胸から出ていますが、これはバイクのフレームにがっしりとくくりつけられています。
買ったばかりのバイク用ジーンズと、買ったばかりのバイク用ブーツ。買ったばかりのバイク用グローブ。
おばあちゃんに持たされた、いつ買ったか、思い出せないガンベルト。
そしてそこに引っかかっている、どこで売っているのか誰も知らないストラップのエルメス。
「天気がいいねえ。風も弱くて視程もいい。絶好のツーリング日和だねえ」
エルメスも上機嫌です。
木乃達が走っているのは、国道134号線です。
この道は、[横{よこ}][須賀{すか}]市をスタートして、[三{み}][浦{うら}][半島{はんとう}]を時計回りにぐるり。
そして[相模{さがみ}][湾{わん}]に面した[古都{こと}][鎌倉{かまくら}]から(今ここ)、[湘{しょう}][南{なん}]の名所[江{え}]ノ[島{しま}]経由で、神奈川県西部の[大磯{おおいそ}]町へと向かう、人気のシーサイドロードです。いわゆる〝湘南の海沿いの道〟といえばこれのこと。
地元の人は周知の事実でしょうが、しょっちゅう混む道です。今もそれなりに車は多いですが、時間がいいのか、詰まって車が動かないほどではありません。
木乃が運転しているのは、排気量百十ccの小型バイクでした。その名も『クロスカブ』。
メーカーは[本{ほん}][田{だ}][技{ぎ}][研{けん}][工{こう}][業{ぎょう}]株式会社。要するにホンダです。
新聞配達から出前から営業外回りから、大活躍している超有名な『スーパーカブ』という実用車がありますが、クロスカブはその姉妹車です。
車体やエンジンなどの基本構造は共通でも、よりスポーティーに、そして[悪{あく}][路{ろ}]でも走れるようにアレンジされた車種です。言わば、スーパーカブのSUV版といったところ。
かなりの人気車種で、あちこちで走っているのをよく見ます。色は黄色や緑もあるのですが、木乃が選んだのは、ホンダらしい明るい赤でした。
もちろんこれは、レンタルバイクです。今朝の八時、お店のオープンと同時に木乃が借り受けたもの。
前日に予約する際には、どのバイクを借りて行くか、木乃はちょこっとだけ悩みました。
普通自動二輪免許があるので、四百ccまでは運転ができます。
ちなみに日本の二輪の区分は、大まかに言うと――、
●原付(原動機付き自転車)=排気量五十ccまで。最高時速はどんな道でも三十キロまで。これだけは、〝普通自動車免許〟などがあれば公道での運転が可能。
●小型自動二輪(原付二種)=五十cc超~百二十五ccまで。運転には最低でも〝小型限定自動二輪免許〟が必要。車の免許ではダメです。
●普通自動二輪=百二十五cc越~四百ccまで。最低でも〝普通自動二輪免許〟が必要。木乃が取得したのはこちら。
●大型自動二輪=四百ccを超える排気量のバイク。〝大型自動二輪免許〟が必要。
――となります。
二輪免許にはそれぞれ、AT限定(オートマチックミッション限定)という[括{くく}]りもありまして、その免許の保持者の場合は、AT車両しか運転はできません。
また、AT限定大型自動二輪免許の排気量上限は、六百五十ccまでになっています(二〇一九年十一月現在です。制限撤廃の動きがあります)。
もちろん上のレベルの免許を持っていれば、下のランクの車両の運転は可能です。
例えば大型自動二輪免許があれば、どんなバイクもOK。
とまあ簡単に紹介しましたが――、
このあたりのことは、実際に免許を取りたいという人は、ちゃんと調べてくださいね。
さてさて、木乃のレンタルバイク選びですが――、
バイクも百二十五ccより上になると高速道路に乗ることができますし、四百ccとなればかなりの速度が出せます(もちろん、制限速度がありますけどね)。百数十キロメートル離れた場所への移動は、きっと楽ちんでしょう。
でも、木乃は最終的に、高速道路を使えない排気量のクロスカブを選びました。
エルメスがなぜと[訊{たず}]ねましたが、理由はシンプル&簡単でした。車両本体の価格が低いので、レンタル代が安いからです。
「なあんだ、そんな理由かあ。てっきり、〝あえて小さいバイクで、遠くまでノンビリと下道を行くのが、旅っぽくって面白いから〟だとばかり」
「採用! それ!」
そうです。
木乃は、下道で遠くへノンビリ行く面白さを追求するために、ノンビリツーリングを楽しむために、あえてクロスカブを選んだのです! それが木乃の旅です。ザ・ビューティフル・ロードなのです!
クロスカブですが、後輪の上がタンデムシートではなく、広い鉄パイプ製のキャリアになっています。
おかげで、荷物が大変に積みやすい車種です。そういう意味でも、旅バイクのチョイスとしてはナイスかと思われます。
木乃の腰の後ろには、かなり大きな、黄色の防水バッグが横向きに[鎮{ちん}][座{ざ}]しています。そして万が一にも道路の上に落とさないように、ゴムバンドでしっかりと固定されていました。
防水バッグの中身は、おばあちゃんから送ってもらった、寝袋などのキャンプ道具一式と、寝間着と着替えとその他です。
「このタイプは始めて乗ったけど、全然よく走るじゃん」
海沿いの道を走らせながら、木乃がそんな感想を[漏{も}]らしました。
原付と違って、時速六十キロまでは法的に出せる乗り物ですし、エンジンパワー的にもその速度で[巡{じゅん}][航{こう}]ができます。下道で流れに乗るには、必要十分です。ちょっとブレーキ性能が弱いので、そこだけは気をつける必要がありますが(個人の感想です)。
排気量が百十ccというのもいいですね。
もしこれが五十cc、つまり原付だと(スーパーカブやクロスカブには五十ccバージョンもあります)、時速三十キロメートルを超えて走ると、速度違反切符を切られてしまいます。
なので、原付のライダーは、
『時速六十キロメートルくらいで他の車と同じように走ると、流れに乗れて抜かされる心配は減るが、スピード違反になる』
もしくは、
『法を守ってキッチリ三十キロメートル以下で走ると、右脇をビュンビュン他の車両に抜かされていく危険と恐怖を味わうことになる』
の[二{に}][者{しゃ}][択{たく}][一{いつ}]を迫られる可能性があります。
バイク乗りがよく、
『五十cc(原付)は簡単に免許が取れるし、車の免許でも乗れるけど、幹線道路をはしるのなら結構危険だよ。できれば自動二輪免許を取って、小型自動二輪以上に乗って、道路の真ん中を走った方がいいよ』
などと言うのは、それが理由の一つです。
この辺りも、これから免許を取って二輪を乗ってみたい人は、よく考えてみてください。
さて木乃の旅に戻りますと――、
クロスカブを選んだ以上、今回のルートに高速道路は使えません。
下道だけで横浜市から、富士山の反対側まで行くには、どうすればいいでしょう?
「ううむ。さてどうやって行くかのう」
昨日、日曜日のこと。
木乃は寮の部屋で、バイク用品店で買った、ツーリング用地図を広げてみました。
[昭{しょう}][文{ぶん}][社{しゃ}]の『ツーリングマップル』という、あちこちにライダー目線の[脚註{きゃくちゅう}]や観光ガイドが書いてある、バイク乗りならほとんどが使っているという地図本です。
A5版の『ツーリングマップル』と、より大きなB5変版の『ツーリングマップルR』があるのですが、今回木乃が買ったのは大きくて見やすいRの方。日本全国を区分けしているなかでの『[関東甲信越{かんとうこうしんえつ}]』版。
木乃だって、富士山がどこにあるかくらいはだいたい知っていますが、具体的にどのルートで行けるかなど知りません。
すると、ナビゲーションシステム、略称ナビがあった方がいいに決まっています。
ナビは、頼るあまりに地図を覚えなくなると言う人がいますが、そりゃそうかもしれませんが、安全に走れるのならそっちの方がいいです。初心者ほど、無理せずに便利な機械に頼りましょう。
ナビを使いながら、道を覚えることだってできるはずです。
「ねえエルメス。バイク用のナビってあるの?」
「あるよー」
「よろしい。わたしに説明しなさい」
「なぜそんなに偉そうなのか?」
「わたしが、わたしだからだ」
「分かるような分からないような。まあいいや。えっとね、今のバイク用のナビゲーションは、ざっと言えば三つのチョイスがある」
「知ってる! 説明しながら四つめの選択肢を出して、〝チョイスは四つ!〟って付け足すギャグ!」
「話を進めていい? チョイスは三つ!」
①バイク専用ナビ。
文字通り、バイク専用に作られたナビです。
専用なので、取り付けは車種別のステーなどでがっちり決まります。取り付け位置はハンドル中央だったり、スピードメーターの上だったりといろいろです。
本体の防水・[耐{たい}][衝{しょう}][撃性能{げきせいのう}]が大変に優れています。
ただ、お値段はかなり高め(ざっと五万以上~)なうえに、種類はとても少ないです。
②車用ナビの流用。
車用に売られているポータブルナビを、そのまま使うという手段です。
GPS信号さえ受信できれば使えますので、一万円以下から存在する、車用格安ナビが選べます。
ただし、基本的に防水性能がありません。そのまま雨に降られたらぶっ壊れますので、カバーやケース、ステーなどの工夫が必要になります。
③スマートフォンをナビとして使う。
今はこれが一番流行っているのではないでしょうか?
スマートフォンのナビアプリは便利です。手軽です。ただしこちらも、固定と防水には気をつける必要があります。
そしてこれらのどれを選んでも、ルート案内などをさせて長時間使うためには、バイクから電源を引っ張ってくる必要があります。
昔のバイクなら、後付の電源ソケットを装着しましょう。最近のバイクなら、最初から12V電源ソケットが付いているのが便利ですね。
また、画面をずっと見ているのは危ないので、バイク用のブルートゥースインカムを使ってヘルメットの中のスピーカーに音声を飛ばすことができます。
ちなみにインカムは、ライダー仲間と通話したり、携帯電話を経由して電話したり、音楽を聴けたりします。
さらにお金が必要ですが、便利ですよ。
とまあそんな感じの説明をエルメスから聞いた木乃が、今回の旅のために選んだのは、
「うむ、よく分かった。わたしには、ナビやインカムを買うお金はないってことが! エルメス、道案内よろしく!」
エルメスに全てぶん投げるという、他の人には真似できそうもない、とても清々しい方法でした。
「いきなり他人任せ! しょうがないなあ……」
道に迷われても困るので、エルメスは引き受けました。
そして考えました。
地図を[睨{にら}]んで、木乃にページをめくってもらって、
「ふむふむ。ここから富士山の向こうまで、いくつかのルートが提案できるけど、どんなのが希望?」
「そうだなあ……、なんとなく、だけれどね……」
「なんとなく、だけれど?」
「あまり他の車と一緒に走りたくないから、ちょっと遠回りでも、ノンビリマイペースで行ける道がいいな。大型トラックがバンバン走る国道とか、できる限りナシで」
「了解。それがいいね。安全性も増すし、[田舎{いなか}][道{みち}]は景色もいい」
「あと、これはもう言わなくても、エルメスくらいわたしを知っていれば、デフォルトで[考{こう}][慮{りょ}]してくれていると思うけど」
「なに?」
「道中、美味しい飯が食えるところ」