「ほほう、なかなかに広いではないか」
目的地の、三日間の滞在をする国――、じゃなくて『ぱらぱらキャンプ場』の敷地内に入って、木乃の素直な感想が[炸裂{さくれつ}]しました。謎の上から目線でした。
「広いねえ」
エルメスも、似たような第一印象。
そこは、とにかくワイドで広大なキャンプ場でした。
木がほとんどない草原が、五百メートルほどの奥行きで続いています。幅も、四百メートルはあるでしょうか。都会で生活していると、これだけ広い空間を目にすることは少ないでしょう。
「こんなに広いってのは、いいことだ」
「テントをどこにでも張れるね、木乃」
見たところ、他のお客さんは数組といったところ。豆粒に見えるほど遠くに、テントの花が咲いています。
超有名キャンプ場なので、大型連休中やお盆休みは激混みと聞いていますが、冬の平日、[万々歳{ばんばんざい}]です。
「それもあるけど、この距離があれば、遠慮なく狙撃の練習ができるかなあって。ほら、遠くの木にフライパンを吊ってさ。エルメス、[着{ちゃく}][弾{だん}][監{かん}][視{し}]してくれる?」
「うん、遠慮しろ」
エルメス、もっと言ってやって。
このキャンプ場、一番西側に入口と受付があって、場内を少し進むと、巨大な丸太が大量に置いてあります。林業を営んでいる会社が、キャンプ場も経営しているからです。
なかなか近くで見る機会がない木材置き場を横目に進むと、そこから東側に向けて敷地が広がっています。
だから、ほぼどこにいようとも、富士山が目の前にドーン。開放感がすごいです。開放感しかありません。
テントサイトは、基本的に草地です。
とはいえ十一月も下旬なので、ほとんど枯れていて土が見えていますね。昨日の雨で若干湿っていますが、こちらは横浜市ほど激しく降らなかったようです。これなら、普通の靴でも平気でしょう。
場内は車両の乗り入れが可能になっています。
つまりクルマやバイクの脇にテントを張れるということで、これは大変に便利です。
大抵のキャンプは、荷物が多くなります。
車で泊まることを前提に造られた(その分料金も高くなる)オートキャンプ場はさておき、駐車場とテントサイトが離れている施設では、カートがないと何往復もする重労働を強いられることも。
場内には砂利を敷き詰めた車道があって、さらに枝道が[幾{いく}]つか走っています。道に沿って、トイレや水場が、あちこちに点在しています。
広い草原の中央付近には、木造の大きな建物が見えます。
かなり大きいです。学校の体育館ほどはあるでしょうか。中央部がスコンと抜けているのが特徴。これは新築されたトイレと[炊{すい}][事{じ}][場{ば}]だとか。実に立派です。
オデッセイとクロスカブのホンダコンビ、合計六輪が、灰色の道を、場内最徐行のルールに則って、ゆったりガタゴトと進みます。
さっき、茶子先生達はチェックインも済ませて、テントなどは置いてきていると言っていました。
すると、どこかにテントは張ってあって、そこに行くのかと思いきや――、
「あれ?」
オデッセイが止まったのは、場内の道を少し入った場所。広々としたキャンプ場の、回りに他のお客がいない、とある地点。
そこに、テントは張ってありません。
そこに、テントは置いてありました。
ブルーシートが敷かれて、その上にナイロン袋に入ったまま、まるで燃えないゴミを[投{とう}][棄{き}]したかのように。
テントの他にも、テーブルやイスをはじめとする、数々のキャンプ道具が、手つかずで置いてあります。[無{む}][造{ぞう}][作{さ}]に。
オデッセイの脇にクロスカブを止めた木乃が、ヘルメットを取りながら茶子先生に答えます。
「あれれ? まだ、張ってなかったんですね?」
キャンプ地に着いたらまずテントを張るのだとばかり思っていた木乃が、訊ねました。
茶子先生が、
「まあねー! でも、それにはちゃんとした理由があるのよ!」
「おや、どんな?」
木乃がその理由をなんとなく知りたくて訊ねると、
「張り方がまーったく分からなくて! 説明書はまとめておいたけど、全部玄関に置いてきたー! ググればいいんだけど、テントがどんな名前か分っからない!」
茶子先生は、[爽{さわ}]やかな笑顔で答えました。
この先生、本当に、喋らなければ素敵な美人なんですけどね。
「なるほど、これはわたしの出番というワケか……」
木乃はいろいろ諦めました。
エアバッグジャケットを脱ぐと、黄色い防水バッグの口を開けて、中から上着を取り出しました。
〝M65フィールドジャケット〟という、米軍が一昔前に使っていた[綿製{めんせい}]ジャケットです。ファッション業界でもすっかり定番になって、しょっちゅうモチーフに使われていますね。グリーンが有名ですが、木乃のM65の色は黒。
ヘルメットの代わりに、帽子をかぶります。取り出したのは、唾と耳を[覆{おお}]う[垂{た}]れがついた帽子です。
〝フェールラーベン社〟製、〝ウッズマンキャップ〟という商品。前面についた、会社のマスコットマークの、くるっと丸まったキツネが可愛いです。
木乃は黒いジャケットと、黒くて耳に垂れの付いている帽子が[妙{みょう}]に似合いますね。なんででしょう? 謎ですね。
「さーて、ちゃっちゃとやっちゃうか」
木乃が茶子先生のテントの袋の口を開けようとしたとき、
「あの……、なんか凄い車がこっちに来ますよ。――あっ、あれは静先輩です!」
エリアスの言葉に、全員が砂利の道を見ました。
車が来る? まだ良く分かりませんね。だいぶ遠いようですね。
そしてしばらく待ってから、草原に出てきて視界に飛び込んできたのは、一台のバギー。
緑色の金属パイプでボディを造って、その横に飛び出すように、[四{よ}][隅{すみ}]に大きなタイヤを付けた、砂漠とか荒れ地とかをカッ飛ばせそうな車です。
全長が四メートルに満たない、とてもコンパクトな車体です。幅だけは大きめ。
丸目二灯のヘッドライトが可愛いです。暗闇を走るためか、ルーフの位置に大きな追加ライトも四つ並んでいました。
右ハンドルで、運転席と助手席の二人乗りです。フロントガラスはありますが、ドアも屋根もありません。雨が降ったら、乗っている人はずぶ濡れです。
前後に湘南ナンバーを付けた、つまり公道走行可能なこのバギー、イギリスは〝アリエル社〟の〝ノマド〟という名前の車です。大変にレアな車両です。
その運転席に収まっているのは、確かに静でした。
よっぽど近づいて、ようやく分かりました。とんでもなく遠くから一瞬で判別したエリアス、どんだけ視力がいいんでしょうかね。おっとそういえば彼は――、『学園キノ④巻』を読んで。
静は、もちろん白い学ラン姿ではなく、肩と肘に当て布がついた緑色のセーターを着ていて、足元はジーンズという私服でした。ハンサム顔の目の位置には、少し色の付いたゴーグル。そして今、白いハトが横切る。
乗っているのは静だけです。ノマドの助手席では、大きな緑色の軍用ダッフルバッグが一つ、シートベルトで固定されていました。
オデッセイの隣にノマドを[綺{き}][麗{れい}]に並べて降りた静は、ダッフルバッグの脇に置いてあった日本刀を手に取ると、腰に差しました。
ジーンズのベルトに、刀を[挿{さ}]せる革製のパーツがあるようです。それから、[下{さげ}][緒{お}]と呼ばれる[鞘{さや}]に付いた紐を鞘と左腰の間に回して、下から前へと持ってきて、ベルトでスッと留めました。
それは、刀を愛する男が今まで何度となく繰り返してきた、とても自然でよどみのない、そして銃刀法違反かもしれない所作でした。
「こんにちは皆さん。遅れてすみません」
待ち合わせ時間内ではありますが、静は人当たりのいいヤツなのでそんな事をナチュラルに言いました。
「はい無事到着お疲れさん。何コレ凄い車ねえ。免許取ったんだ」
ブルーシートの上に腰を下ろしている茶子先生が言って、
「ええ。つい先月のことです」
静が[頷{うなず}]きました。
確かに、こいつは高校三年生ですから、取ろうと思えば取れますね。よく見ると、ノマドの車体には初心者マーク、正式には〝[初心運転者{しょしんうんてんしゃ}][標{ひょう}][識{しき}]〟が前後に付いていますね。
熱烈な車マニア向けの車であるノマドに若葉マークは違和感がありますが、免許取得一年以内は付けないと反則金です。ちなみにこの標識を付けた車に対して乱暴な運転をした場合、〝初心運転者等保護義務違反〟になります。
「静君のクルマ?」
「いいえ。自分ではまだ四輪を所有していないので、家にあったのを借りてくることにしたのですが、どれも大きくて困りました。結局、一番小さなこれを使うことに」
「へー! さっすがお金持ち!」
茶子先生が言って、静がほんの少しだけ、ばつが悪そうな顔をしました。
茶子先生はできる大人の女なので、生徒のかすかな変化に瞬時に気付きます。
「おおっといけない! 静君のご実家が〝超〟が四つ付くほどの大金持ちで、父親がその筋では有名なワンマン経営者だから〝ザ・キング〟の愛称で知られていることとか、ご実家のやたら広いガレージにはフェラーリやブガッティやマクラーレンやロールスロイスといった高級外車がわんさか置いてあるなんてことはとってもプライベートなことだったわね! 大丈夫! 絶対に誰にも――、そう、例え部員のみんなにも言わないからっ!」
全部言ってますがな。
木乃をはじめとした部員達、何も聞かなかった聞こえなかった。
「…………」
ビミョーな表情で黙り込んだ静です。強く生きろ。
あと、そのうち父親を殺そうとしちゃいかんよ?
「すると、残りは犬山先輩だけですね」
沙羅がさらりと話題を逸らすことに成功しました。ナイスです。気配りのできる女。成長しても茶子先生のようにはならないに違いない。
その茶子先生ですが、
「ま、そのうち来るでしょ? それより静君、木乃さんを手伝ってくれるかしら? テントを張るのを」
部活の顧問である事を放棄していました。
「はい。木乃さんのテントですか?」
いいえ、先生達のとエリアスのです。
あまりに堂々と先生が言うので、静すら間違えました。
「おっと! ――失敬。了解です」
こうして木乃と静は、今夜と明日の[住処{すみか}]を作り始めます。
テントの設営と撤収――、つまり張る(あるいは建てる)、そして畳む、袋にしまう、という行為は、キャンプの中でも一番重要でしょう。
これができないと、そもそもキャンプが成立しなくなります(バンガローやロッジ、既に張ってあるテントなどを借りることもできますがそれは例外)。
とはいえ、このテント設営と撤収、慣れていない人には、それなりに大変でもあります。
最初のうちは勝手が分からずに難しいので、ガチ初心者の茶子先生と沙羅にはキツいかもしれません。
もし、これから一人でキャンプをしようという人は――、
家の庭や近所の公園などで、晴れていて風が弱い、つまり条件が一番いい日に、テント張りの練習を最低でも一度はしておきましょう。
練習なしで出かけて現地で焦ると、本当に大変ですよ。得てしてそういうときって、天候が悪かったり、日暮れで暗かったりしますから。
似たような〝一度は練習をやっておくと、条件が悪い必要な時に、慌てなくて済む〟行動としては、自動車のスノーチェーン張りがあります。
それはさておき、
「よっし、始めますか」
「了解だ」
木乃と静が、袋を開いて中身を取り出しました。
大きな袋の中から、茶子先生と沙羅用に買ったテントがうにゅうにゅと出てきました。
それを一目見た木乃が、ぽつりと言うのです。
「先生、このテント――、超簡単ですよ」