「よし! それでは料理を始めようか!」
静が、緑のセーターの前にエプロンを着けながら言いました。自前のマイエプロンです。ヒズエプロンです。
薄い黄色の布地に、いつも笑っているような顔をした可愛い白い犬の絵が描いてあって、その上に『SAMO SAMO』と文字が。
デザインはさておき、日本刀用の穴がちゃんと用意されているエプロンって、どこに行けば売っているんですかね?
「木乃さん、〝キッチンが狭い〟から、まずは私からでいいかな? 今夜は全て任せて欲しい」
「オウ・イエース」
なぜ英語?
腰にぶら下がるエルメスが思いましたが、黙っていました。
木乃は、美味い物が食べられるのなら文句など言わぬ人です。
「日が隠れてだいぶ冷えてきた。木乃さんは、二人と一緒に焚き火を始めてもらえるだろうか?」
「がってんでえ」
なぜ江戸っ子?
エルメスが以下略。
「わあ、焚き火!」
「やります!」
たぶんやったことがない沙羅とエリアスは、純粋に大喜び。
そうですね、二人で火遊びはワクワクしますね。え? そういうことじゃないですかそうですか。
ところで皆さん――、誰か忘れてはいませんかね?
もう、すでに十六時を過ぎていますよ?
「スミマセン遅れましたっ!」
あ、やっと来ました。
広いキャンプ場の端から全速力で、かなり息を切らして走ってきたのは、白髪の美少年。もちろん犬山・ワンワン・陸太郎です。この作品に、白髪の美少年は一人しかいません。一人いれば十分です。
今日の彼はもちろん私服で、バッチリアウトドア準備完了、といった格好。
下半身は歩きやすそうなタイツに薄茶色のショートパンツ。上着はプルオーバーのパーカー。色は青と灰色のツートン。彼の白い髪によく似合っていますね。
荷物は、腰に巻いた小さなウェストバッグ一つです。え? これだけ?
「あら犬山君。――うん、ギリギリセーフってことにしておこうか。でもねー、先生かなり心配してたんだぞっ?」
茶子先生、さっきまで何も言っていませんでしたよね?
「本当にスミマセン……。道中に……、本当にいろいろと……、予期せぬ出来事が、はあっ、ありまして……」
運動能力が高い犬山が、ここまで息を切らせているのはよほどのことでしょう。
先生も部員達も、あえてそれ以上は追求しませんでした。
たぶん、公共交通機関が遅れたとか、バス停から走ってきたのだろう、くらいに思っていました。
もちろん、違います。
誰も知りませんが、犬山の正体は、木乃がかつて寮の脇にある森で見た白い犬です。
だから犬山、ここまで走ってきていました。犬の格好で、服を入れたウェストバッグは首に巻いて。
まるで現代に蘇った〝おかげ犬〟(注・江戸時代に主人の代わりに伊勢神宮代拝の旅をした犬のこと。周囲の人の温かい助けがあって可能だったとか。いい話や)。
出発は今日の夜明け前。
休憩を挟みつつ走って、この地には、昼には余裕で着いているはずだったのですが――、
道中にとんでもないドラマに巻き込まれて、予定よりずっと遅くなったのです。
このドラマについては、番外編の番外編として後日書くかもしれないと思いますので、ここでは流します。
「犬山先輩、お茶をどうぞ」
最高に気が利く沙羅が、新しいマグカップに、温めのお茶を注いで渡しました。
「ああ、ありがとう」
犬山は一気に飲み干すと、沙羅がすぐにおかわりを用意しました。
おっと二杯目は少し温かく、三杯目は熱く。殿、温めておきました。
「うっ」
犬山、残念ながら猫舌だった。
というか、人間以外の動物は基本的に熱い料理など食いませんので、揃って猫舌です。人間が普通じゃないのですよ。
「犬山君、しばらくはノンビリしていていいよ。食事は私が、焚き火は木乃さん達がやるから」
「ぐっ……」
犬山、静に情けをかけられるのが死ぬほど悔しくてたまりませんが、さすがに[疲{ひ}][労{ろう}][困{こん}][憊{ぱい}]なのでここはどうしようもない。
タープの下のイスに深々と腰掛けると、
「むふふ」
後ろから茶子先生が頭に顎を乗せてきました。
「僕……、汗臭いですよ」
「ホントだー。雨の次の日の犬の臭いがするー」
犬山、いろいろな意味でドキッとしましたが、[気取{けど}]られないようにスルーしました。
西の山に、太陽が隠れていきました。
世界はまだ明るいですが、直射日光がなくなると、体感気温はグッと下がります。つまり一気に寒くなるわけで、
「さあて、焚き火するかー」
そんな中での焚き火なんて、そりゃあ楽しいに決まってる。キャンプの楽しさの半分は、焚き火でできています(個人の感想です)。
「時間がないから今回はわたしがちゃっちゃと着火までやっちゃうけど――、やり方だけ見ていてね。明日からは、二人にやってもらおうかな」
木乃は沙羅とエリアスにそう言うと、
「はい」
「お願いします。見ています」
初心者二人は素直に従いました。
「おっとその前に、一つ、火を扱うに当たって、重要な注意事項を忘れていた」
「なんでしょうか、木乃先輩」
エリアスが質問して、木乃は二人が着ているお揃いのフリースジャケットを指さしました。
「そういった[化{か}][学{がく}][繊{せん}][維{い}]のウェアは、[火{ひ}]の[粉{こ}]で穴が空きやすいし、最悪、ぼわっと一気に炎が表面を走るように燃える。焚き火に当たるときは、別の上着に着替えるか、上にもう一枚着て欲しい」
燃えると言われればビビるのがエリアス。
「りょ、了解です」
茶子先生のところにすっ飛んでいくと、
「こんなこともあろうかと!」
荷物の中から、綿だけでできた濃い茶色のパーカーを二着取り出しました。〝グリップスワニー〟社製、〝ファイアーパーカー〟という逸品。
二人が喜んで[羽織{はお}]ると、またもペアルック。今度は色も同じ。いいですね。微笑ましいですね。
「おっけー。それならパー[璧{ぺき}]。これから急に寒くなるから、ずっと羽織っているといいよ」
木乃は満足に頷きつつも、注意事項は忘れません。
「これも念のために言っておく。もし、万が一、着ている服にボワッと火が付いたら――」
付いたら?
ごくり。二人が生唾を飲み込みました。
「対処法は三ステップある。〝ストップ〟、〝ドロップ〟、アンド〝ロール〟」
突然木乃の口から出た横文字に、二人が[怪{け}][訝{げん}]そうな顔をしました。
これは命に関わることなので、木乃は大食いチャレンジの直前のような真剣な顔で続けます。おふざけはナシです。封印です。木乃はかつておばあちゃんに教わったことを、そのまま若い二人に伝えるのです。
「〝ストップ〟は、その場に止まれってこと。〝うぎゃあ火が付いた!〟って慌てて走っちゃ駄目。走ると、さらに酷いことになる。どうなると思う? はい、エリアス君」
「え? えっと……、疲れる?」
「ブブー。沙羅ちゃん?」
「えっと……、転ぶ!」
「ブブー。正解だけど、走ると風によって酸素が供給されて、どんどんと火が成長しちゃう。それに、他人が助けようにも助けにくくなるし、他の物へと火をつけて延焼させる恐れも高くなる。家の中だと特にね」
「なるほど……」
「なるほど……」
ゴクリ。二人が唾を飲み込みました。
「もちろん怖いから走りたくなる気持ちは分かるよ? 分かるけど、自分が燃えている火っていうのは、自分と共にあるんだからね。どんなに走っても逃げ切れない。そして、もっと燃えるだけなのだよ」
「わ、分かりました。絶対に走りません」
沙羅がコクコクと頷いて、エリアスはメモメモ。
「次が〝ドロップ〟。これはその場に〝倒れる〟ってこと。しゃがむんじゃないよ。完全に〝落ちる〟みたいに素早く寝っ転がるんだよ。理由の一つは、頭をできる限り低くして、炎が顔を炙るのを防ぐため。熱い空気を吸い込んだら、気道が火傷して膨らんで、その後に窒息死する可能性すらあるからね」
うげっ。
とても生々しい想像をしてしまい、若い二人の真顔が四十パーセント増しになりました(当社比)。
木乃が続けます。自分の両手を顔に当てて、
「倒れるときは、両手で顔を覆う。理由はさっきと一緒、顔を炙らないようにするため」
思わず両手で顔を覆っちゃうのが、沙羅の可愛いところです。エリアスはメモメモ。ちなみにこのメモは、後で沙羅にも渡ります。
「ストップ、ドロップ、そして最後が、〝ロール〟。寝っ転がった状態でゴロゴロする。ひたすらゴロゴロする」
ああ、普段の木乃のようにですね。
「[茶{ちゃ}][化{か}]すなボケ!」
へぶっ!
「ゴロゴロすることで、酸素の供給が絶たれて火が消える。この際も顔は覆っていてね。ドロップしたもう一つの理由が、このロールをするため。だから、消えるまでゴロゴロする。精一杯ゴロゴロする。とことんゴロゴロする」
木乃が、指を三本立てました。
「とまあ、ストップ、ドロップ、アンド、ロール。この三段階を覚えておくと、生き残る確率がアップする。どれくらいかは言えないけどね。覚えておかないより、覚えておいた方がいい。ストップ、ドロップ、アンド、ロール。はい、リピートアフターミー」
沙羅とエリアスが、
「ストップ、ドロップ、アンド、ロール……」
何度も繰り返しました。
そしてその後ろで、さっきまですっかりリラックス状態だった茶子先生が、
「ストップ、ドロップ、アンド、ロール……。ストップ、ドロップ、アンド、ロール……」
軽く青ざめながらも、やっぱり何度も何度も呟いていました。
犬山の頭に顎を乗せたまま。
ちなみにこのテクニックは、〝自分に火が付いた〟場合、です。
例えばですが、建物の中で火事に巻き込まれた場合は、自分の体に火が付いていても、とにかくその現場からいち早く遠くへ逃げるのが、一番生き残る確率を上げる方法になるかもしれません。
とっさの判断は難しいかもしれませんが――、状況に応じてください。
頭の片隅に置いておくと、いつかあなたの命を救うかもしれません。