トイレという散歩から戻ってくると、犬山が復活していました。
焚き火の見張りをして、薪を足しておいてくれました。
茶子先生は?
リクライニングできるタイプのイスを使って、思いっきりぐでんと寝ていました。アウトドア用毛布が掛けられているのは、犬山の優しさでしょうか。
世界はもう真っ暗。
広い広い空には雲一つなく、月もなく、星がたくさん見え始めてきました。
しかし、今この瞬間、木乃にとってもっとも重要なのは、地元北海道で腐るほど見た星空ではありません。
半径三十メートル、いえ四十メートルでも気付いた素晴らしい匂いを撒き散らしている、静の料理なのです。
「静先輩、できましたか?」
できてないなどと言ったら、もう許さぬ。
木乃の心が、顔に出ていました。鬼ですか[般若{はんにゃ}]ですか?
「ああ、ちょうどできあがったところだよ。みんな、おまちどおさま。お皿やカップを出してくれるかな? 大きめの深皿と中くらいの薄皿を人数分」
「ハイ喜んでーっ!」
どこぞの居酒屋でしょうか?
それはさておき、木乃も沙羅もエリアスも、テキテキパキパキと準備。
あっという間に終わりました。ランタンのホワッとした光に照らされて、テーブルの上にお皿とカップの花が咲きました。スプーンやフォーク、箸などのカトラリーが揃いました。
カップに注がれていくのは、さっきの紅茶ではなく、これからのガッツリした食事にあいそうなホットのほうじ茶。
焚き火の前から犬山を呼び寄せて、
「ぬがっ!」
茶子先生を、ガシガシ揺らして起こすのも忘れません。
「さあ、カモン!」
木乃が吠えて、豪華な夕食タイムのスタートです。
「じゃあ、まずはこちらを。皆さん、私のことはいいからお先にどうぞ」
静がトン、とテーブルの中央に置いたのは、大きめのお皿。
中身は、おっとサラダですね。
レタス、ミニトマト、アボカド、ゆで卵、鳥肉を茹でたもの、チーズなどを盛った、そうです、分かる人には分かりますね。そう、これはコブサラダです(問い一・英語に直しなさい)。
このコブサラダ。盛り上がった大量の具材が〝[瘤{こぶ}]〟のように見えるからと、[文{ぶん}][久{きゅう}]四年(一八六四年)に神戸の町で生まれたレシピが、その二年後の神戸港開港で、船乗りの手によって世界中に爆発的に広まったというのはもちろん嘘です。
一九三七年にとあるレストランのオーナーが、冷蔵庫の残り物をぶち込んで作ったのが始まりとされています。その人の苗字がコブ。こっちはネットに書いてあった。
まあ、そんな[蘊蓄{うんちく}]はさておき、コブサラダはボリューミーで、食感豊かで、つまり美味いのです。
目の前にある、絵画みたいな色とりどりの円を見ながら、
「静先輩! ありがとうございます!」
木乃はそう叫びました。叫ばずにはいられなかったからです。
「わたし、先輩の[遺{い}][業{ぎょう}]を忘れません!」
死なすな。
苦笑しながらまだキッチンに立ち続ける静の代わりに、木乃は音速の八倍の速さで、座っている全員に取り分けました。その衝撃波が、チーズを少し揺らしました。
「じゃ、食べようかー! はい、手と手を合わせて、いただきます」
こんなときだけ先生をする茶子先生の合図に、
いただきまーす!
静以外の全員が手を合わせて、キャンプ初日の夕食を始めました。
木乃は食べ始めました。食べ終わりました。その次がエリアス。この二人は早い早い。皿の上の物体が異世界に飛ばされたかのような食べっぷり。
他の人達がノンビリと食べている間に、
「まだかまだかつぎはまだか……」
グルグルと飢えた犬のように唸っている女子高生が、この作品の主人公です。
「外で食べるのって、本当に美味しいですねえ。うふふっ。そして、みんなで一緒に食べるのも!」
と、フォークの先にミニトマトを刺しながら沙羅。これですよ。これが正しいヒロイン的アクションとセリフですよ。
「静君、料理じょーずー」
茶子先生がお褒めの言葉を飛ばして、
「いやあ、これは切って並べただけですよ」
静、キッチンからそんな[謙遜{けんそん}]。確かに食材を切って並べただけでも、これだけできれば素晴らしいですよ。
「ふん」
面白くなさそうに鼻を鳴らしつつも、モグモグと食べ続けているのは犬山。そりゃそうですよね、あれだけ走れば腹は減りますよ。
「では、こちらをどうぞ」
静がテーブルの中央に、金属製の耐熱皿に置いたのは、大きな黒いダッチオーブン。
ちょっと説明すると、ダッチオーブンとは鍋の一種。
深さがある蓋の上に炭などを置いて、全体で中身を加熱するオーブンとしても使えるような仕組みのモノです。
鍋その物が分厚く温度変化が少ないとか、蓋が重いので鍋内に圧力を閉じ込められる(簡単な圧力鍋の原理)なんて特徴も。
有名なのは黒い[鋳{ちゅう}][鉄{てつ}]製ですが、シーズニングという腐食防止の作業が必要で、キャンプ用に扱いが簡単なステンレス製もありますよ。
静が大きく重い蓋を、〝リッドリフター〟というバールのようなもので持ち上げると、かなり冷えてきた世界に、猛烈な勢いで湯気が舞い立って、
「ほわあああああああ!」
幸せそうな木乃の顔を包みました。匂いで分かります。これは――、
「ビーフシチュー!」
「その通り。さて、よそうよ。お皿をもらおうか」
静が、大きなダッチオーブンにたっぷりと入ったビーフシチューに、お玉を入れながら言いました。
軽くかき混ぜると、牛肉の塊が、にんじんがジャガイモが、シチューの中でゴロゴロと唸りました。
木乃はテーブルの上にあった深皿を差し出して、
「はい! このお皿に、ウルトラ超メガマックス激エクストラ爆裂ハイパー大盛りで! そして、残った鍋の方は、わたしがいただきます!」
待てや主人公。
「それでも大丈夫。あと、同じ鍋で五個分くらいは作ってある」
さすがだな静。いつの間に。
木乃の目が猛烈に輝いて、沙羅がサングラスをかけました。
「食った……。満腹じゃ……」
焚き火の前で、木乃をはじめとして、すぐやる部の面々(除・静)がイスにふんぞり返っていました。
実際には座っていますが、キャンプ用のロータイプの折りたたみイスは、まるでお尻が埋まるようになって、自然とリラックスポジションになるのです。
パチパチと静かに音を立てる焚き火を[扇{おうぎ}]状に囲みながら(全周を囲まないのは、そこが微風の風下だからです)、全員でノンビリ食後の満腹で動けないタイム。
ちなみに静はというと、使った食器を全て折りたたみバケツに入れて運んで、少し離れた場所にある水道で洗っているところです。
皆が手伝うと言ったのですが、自分の責任で全部やると[頑{かたく}]なに[固辞{こじ}]したのでお任せモード。
外は寒く、身を切るような冷たい水が出る水道ですが、内側が起毛された作業用防寒グローブを使えばまったく問題なし。
これは〝ショーワグローブ〟社製の〝防寒テムレス〟という商品で、わずか千五百円くらいで買えます。コスパ最強品として、冬のアウトドア好きには知られた逸品。
皆様の冬のキャンプが、グッと快適になることをお約束しますぜダンナ。
「くった……」
さて、ひっくり返っている木乃。そりゃあ一人で鍋二つ分のビーフシチューを、サラダたっぷりと、静が追加したロールパン(香ばしく炙ってあった)を二ダース近く食べればそうなります。ちなみにエリアスも同じくらい食べました。二人はツートップ。
他の部員達も、美味しい料理に大満足の大満腹。しばらく動けません。デザートの材料はあるのですが、今は無理。
「みんなで外で食べるご飯って、本当に美味しいですね……」
小さなお腹をポンポコリンにして、沙羅が再び言いました。
実感がこもっていました。
彼女の場合、〝みんなで〟というのがとても重要でしょう。
天涯孤独だった女の子は、ゆっくりとですが、普通を味わっています。近くにいる人達が、鍋でシチューを食べる連中だとしても。授業をサボって部活動をする先生でも。
日の入りが早かったので、実はこの時点でもまだ十九時、つまり夜の七時です。
気温はさらにさらにグッと下がって、一桁の下の方。明け方には間違いなく零下数度ですねこれ。
もっとも今は、皆さん焚き火からの熱を存分に身に受けているので、凍えてはいません。お腹の中もぽかぽかで、エネルギー充填満タンパワー爆発状態ですし。
静が、お皿を洗い終えて戻ってきました。エプロンを取ってセーター姿へ。ウール百%ですので、焚き火にも強そうですね。
大量の調理道具などは全て、キャンプ場に鎮座しているコンテナの中へしまってあります。ところでこれ、最後の日の回収はどうするんですかね? 畳んであるパラシュート含めて。
静がイスに座ると、回りのみんながお疲れ様と優しい言葉を送ってきました。
沙羅は、静の分のお茶(今度は紅茶です)をそっと注ぎました。
「みんな、初日でやることてんこ盛りで疲れたでしょう。今日はもう、二十時には寝ましょうね。夜更かしはダメダメ! そのかわり、明日の朝は日の出前に起こしちゃうぞ! みんなで、富士山からの日の出を拝みましょう!」
おっと、茶子先生がまともなことを言いました。
この時期のこの場所――、ただし緯度経度で計算しただけの日の出時刻は、六時半から七時の間くらいだったはず。
実際には、東側に位置する日本一高い山のおかげで、平面で計算した時間よりずっと遅れます。
「えー、寝てたい……」
木乃が正直すぎる感想を呟きました。
「美味しい朝ご飯を、たらふく食べながらね!」
「起きるか……」
木乃が正直すぎる感想を呟きました。
「犬山君、朝食をお願いできる?」
「喜んで。日の出の時間にはお届けします。今以上に、皆を満腹にしてさし上げましょう」
静への対抗意識バリバリですね。見ていて清々しいほどに。
犬山はまったくもっていけ好かぬヤツだが、彼の作った食べ物には何も罪はない。それを平らげることが、わたしの使命である。
木乃は思っていました。言わないくらいの理性はありました。
焚き火はすっかりと落ち着いて、さっきまでのような元気な炎は、もう揺らめいていません。太い薪は、真っ黒に炭化した状態でところどころが赤く輝き、ジワジワと熱を放っていました。
そこで、今までのように、エリアスが太い薪を追加しようとしました。
木乃が声をかけます。
「エリアス君、追加はもういいよ。寝る時間までに、燃えつきるようにしたいから」
「なるほど」
エリアスが手を止めました。
「ちなみに、小さい火の場合、背中で当たるんだよ」
木乃が言って、沙羅とエリアスが首を傾げます。沙羅が、
「背中、ですか?」
「そう。背中の[肩甲骨{けんこうこつ}]の間、ここを温めると本当にいい。体中の血が温かくなる感じがする。わたしがおばあちゃんと、北海道で寒中サバイバル訓練中は――」
自然な会話の流れでそんなことを口にしましたが、普通の女子高生が、まず絶対にやらないアレですね。
「木を倒して、その枝の下の空間で小さな火を[熾{おこ}]す。上着を脱いでできるだけ薄着になって、背中を向けて寝る。火が弱くなったら、イコール寒いってコトだからすぐに目が覚める。小さめの薪を追加して、また寝る」
「それで……、寝られるんですか?」
「何度かやったけど、正直あんまり。熟睡にはほど遠いね。でもね、かなり寒くても〝死なない程度〟には過ごせるんだ。日が出れば温かくなるしね。教えてくれたおばあちゃんが言ってたんだけど、それって、アイヌが狩り小屋で夜を過ごすための知恵なんだって」
「はあ……」
沙羅が驚き、やや呆れていました。
普通に生きていてこの知恵が役に立つことは、まずないでしょう。でも、もしかしたら、ひょっとしたら……。
かりかり。
だからエリアスはメモを取るのです。
「ちょっと話が変わりますけど――、火の後片付けって、どうするんですか?」
エリアスがメモ片手に聞きました。ちょうど木乃がお茶を飲んでいる最中だったので、静が答えます。
「そうだね。もし完全に燃えつきて灰になっていれば、冷えたあとで、ゴミ袋で回収できるね。ここもそうだけど、炭や灰の捨て場を用意してくれているキャンプ場も多い」
沙羅が頷いて、エリアスはペンを走らせます。
「もしまだ燃えていたら、〝火消し壺〟っていう密閉消火できる金属容器へ入れて、しばらく待つ。もしなければ、ダッチオーブンでもいいし、蓋のある鍋でもいい。容器が熱くなるから気をつけてね。まだ[煌々{こうこう}]と燃えていたら、火バサミで掴んで、バケツに一つずつ入れて消火してしまうのが楽かな」
つけた火は、ちゃんと消すまで、ホトトギス。
寝る前に焚き火(炭を使っている場合は炭火)を完全消火するのは鉄則ですが、ガバッと水をぶっかけると金属製の焚き火台が傷みますし、猛烈な湯気が立ちますし、何より灰と水でドロドロの何かが下に溢れることに。やらない方がいいですよ。いやホントに。しみじみ。
火の後始末は、ノンビリとやりましょう。時間的余裕を持ちましょう。特に焚き火台を使ったら、冷えるまでは持ち帰ることができませんし。出発日の朝の焚き火は、特に要注意ですよ。
そんなことを静から追加されて、
「ふむふむ」
エリアス納得中。そして木乃が、
「野宿で火の始末が甘いと、おばあちゃんにドヤされるんだ。〝これでは敵に足跡を残すようなものですよ〟、って」
遠くを見ながら言いました。
だから敵とは以下略。