「はい、先生! 質問です!」
沙羅が可愛い声と小さい手を挙げました。
「なーにー?」
ノンビリとしていた茶子先生が答えて、
「あ、すみません、〝先生〟とは、静先輩たちのことで……」
沙羅が正直に言うと、茶子先生ショボン。でもしょうがない。これはしょうがない。
なんだい? と静が優しく言って、木乃も沙羅を見ました。
「今夜、これからさらに冷えて、かなり寒いと思います。寝るときに、気をつけることってありますか?」
「とってもいい質問だね。寝るときのことは、まさにちゃんと説明しようと思っていたところだよ」
静が答え始めたので、先生は二人も要らぬとばかり、木乃は黙っていました。そして、そろそろお腹の空きスペースが増えてきたなと、感じていました。
キャンプ初心者の沙羅とエリアスが、静の言葉に真剣に耳を傾けます。ついでに茶子先生も。
「まず、今回はテントに暖房がない。実は、キャンプでも暖房を使えることはある。有名なところだと、ストーブだね。薪を燃やすタイプだったり、家庭にあるような石油ストーブだったり」
「テントの中で火を燃やすんですか? 危なくないんですか?」
沙羅が訊ねて、静は答えます。
「その通り。危ないよ。火傷や火事はもちろん、一酸化炭素中毒死の可能性が常にある。だからしっかりと換気が必要だし、〝CO検知機〟も絶対に持っておくべきだと思う。就寝前には、絶対に火を消すべきだ。まあ、今回はそれほど寒くならないので――」
それでも、標高が高いので、十一月でマイナス気温にはなるのですが、それはさておきます。
「テントの中で火を使う暖房器具はなしにしてほしいと、茶子先生には事前に伝えておいた。そのかわり、優れた寝袋を用意してほしいと。それでもどうしても眠れない場合だけは、私がオデッセイを運転するから、暖房が効いた車内で寝て欲しい」
「分かりました」
いわゆる車中泊ですね。
夜は本当に静かになるキャンプ場でアイドリングをするのは大迷惑なので、その場合は移動しましょう。近くの道路脇の駐車場とか道の駅とかへ。
もちろんそこでも、アイドリング駐車は良くないことですが――、緊急処置としては許せ。
「火を使わない暖房器具なら、問題はないんだけどね」
静が言って、沙羅が質問。
「というと、どんなのがあるんですか?」
「電気式だね。ホットカーペットとか、コタツとか、電気式ヒーターとか。普通に家庭で使っているものでいい」
「でも、静先輩……。キャンプ場には、電気はないですよね?」
エリアスがメモを取りながら聞いて、静は優しげに首を横に振りました。
「ここにはない。でも、あるところはある――、〝電源付きサイト〟ってキャンプ場もあるんだ。区画の中に野外用電気コンセントがあって、千から千五百ワットくらいまでの電気が使える。その分の追加料金が発生する場合が多い」
「へえ……」
「ビックリです」
なんだそりゃ楽だな。家か!
サバイバリストの木乃が思っていましたが、空気が少しは読めるので言いません。
それより、そろそろおやつが食えるかな? 今かな? と腹の様子と戦っていました。
「冬に快適なキャンプするのなら、電源付きサイトはオススメだね。ホットカーペット、あるいは電気毛布があれば、相当に快適なはずだ。でもまあ、今回はちょっと話が違うから、割愛するね」
静はそう言った後、茶子先生に許可を取って、ドームテントの中に行きました。デイパック程の大きさの[円筒形{えんとうけい}]のバッグを、二つ持って戻ってきました。
焚き火から少し離れた場所で、静は一つのバッグの中身を引っ張り出しました。モコモコした寝袋、あるいはシュラフが現れました。
「これが、今夜使ってもらう寝袋だ。〝マミー型〟って呼ばれるタイプだ」
「マミー……。お母さんですか?」
エリアスが聞いて、
「そう、〝母のように温かく包み込む〟というところからその名が付けられたのよ」
茶子先生がドヤ顔で言いましたが、もちろんデタラメです。
「実はこっちのマミーは、〝ミイラ〟のことなんだ」
「うひっ」
沙羅が驚くのもしょうがない。ミイラになって寝るのですか? そうです。
「収まったときの外見がミイラに似ているからね。そしてもう一つのタイプは、封筒みたいな形をしているので――」
「〝エンベロープ型〟、ですか?」
「いや、〝封筒型〟と呼ばれている。英語ならRectangular、長方形のタイプだね」
エリアスがっくし。ちょっと英語が得意なところを見せたかったのに。
「封筒型は、普通の布団に似てゆったりしている。マミー型は見ての通り包み込まれるので、慣れるまでは寝苦しいかもしれない。でも、体全体、つまりは頭も覆うので、保温性能はマミー型の方がずっと上だ。封筒型は夏向きだね。ファスナーを全部開いて掛け布団みたいにも使えるし。ただ、収納するときはマミー型の方がコンパクトになる」
「一長一短なんですね」
沙羅が言って、
胃腸はいったん元気ですね。
木乃は思いました。間もなく何かを食う気だな。
ぽんぽん、と静が寝袋を軽く叩いて、
「布団と一緒で、中には保温のための〝中綿〟が入っている。これは、ダウンだ。いわゆる〝羽毛布団〟だね。軽くて温かい」
「すると、ダウンじゃないのもあるんですか?」
エリアスは優秀な生徒なので、質問をビシバシします。
「ある。化学繊維――、略して〝化繊〟だ。ダウンよりぐっと安く、ずっと乾きやすい。しかし、ダウンよりかさばってしまう。圧縮袋を使っても、収納したときにどうしても大きくなるんだ。車ならそれほど問題にならないだろうけど、オートバイや自転車、徒歩でキャンプ場へ向かう人には、小さくなってくれた方がいいだろうね」
「なるほど」
「そして寝袋には、性能表記として、最低温度の設定がある。〝この寝袋は、最低何度までは快適に寝られます〟とか、〝何度が限界の温度です〟とかね。ペラペラだと夏用。これみたいにしっかりモコモコしていると冬用。中間だと、春夏秋のスリーシーズン用。人によって寒さの耐性が違うから、あくまで寝てみなければ分からないのだけど――、その温度設定を購入の目安にするといい」
静はそう言ってから、手の中の寝袋をモフモフと触って、
「これは見たところ、今夜より寒くなっても耐えられる、かなり高性能の寝袋だよ。結構高いだろうね。五万円以上はすると思う」
「ふっ! まあねー」
茶子先生、自慢げ。
静に提案されるまでもなく、自分が寒いのが苦手で、〝四の五の言わず最良を用意しろ!〟と命令しておいたことはナイショです。
その予算? 部費だ。部費は幾らか? 秘密だ。
「じゃあ、それにスッポリ頭まで包まれて寝ればいいんですね!」
沙羅が言って、
「その通り。口と鼻だけを出して寝ることができる」
「ミイラみたいですね!」
「ミイラみたいだね。ひとまず、寝袋はこれでいいとして」
静は寝袋を一度、自分のイスの上に丁寧に置きました。
二つ持ってきたバッグのもう一つを開けて、中身を取り出します。それは、綺麗に丸まっていた何かで、でも寝袋ではなくて、
「バームクーヘンが食べたい」
木乃が言いましたが、しばらく黙っていてください。
「こっちがマットだ。中にスポンジが入っていて、広げて空気を入れるとさらに膨らむ“インフレータブルタイプ”だね。これも、結構いいやつだ」
「ふっ」
またも茶子先生ドヤ顔。いいやつなのです。高いやつなのです。
「マットには他にも、単なる風船のような〝エアーマット〟とか、ウレタンだけでできている折りたたみ式やロール式などもある。〝ウレタンマット〟はコンテナの中にいくつも入っていたね。それをまずテントに敷いて、その上からこのマットを敷こう。二重にすれば、さらに柔らかく、温かくなる」
「そっちが敷き布団で、寝袋が掛け布団みたいな感じですか?」
エリアスが言いました。
「その通り。そして〝敷き布団〟はとても重要だ。通常キャンプでは、地面からの底冷えが避けられない。背中の血管が直に冷えると、大変な寒さを感じるからね。仰向けよりは横に向いて寝ると少しは良くなるが、根本的には、マットの厚みを増すしかない」
「なるほど。さっき木乃先輩が言っていた、〝背中を火に当たると温かい〟の逆ですね。ベッドのマットレスって、厚みがありますもんね」
「そうだね。そして、冬に寝袋を使う場合、意外とも思える注意点が一つ。それは――」
静が勿体振ったとき、燃えていた薪が一つ折れて、コテンと音を立てました。
「薄着で寝ることだ」
「はい? 寒いときは、厚着の方が、良くないですか?」
エリアスが聞いて、沙羅も同じ考えなのか、ウンウンと頷いています。
「それは着ているとき、だね」
静は、マットをイスの上に置いて、自分のセーターを、胸の位置で手で触りました。
「そもそも、〝寒さ〟とはなんだろう?」
静が問いかけて、二人の生徒が首を傾げました。
「それは、〝体から熱が逃げる〟ことだ。私達の体は、摂氏三十七度近い温度を持っている発熱体で、そこから熱が奪われることを〝寒い〟と思う。勢いよく奪われるほど、より寒さを感じる。熱の移動は、常に高い方から低い方だ。ここまではいいかな?」
二人が頷いているのを見て、静先生の授業は続きます。
「私達の皮膚は、体内の温度を持ってして、周囲の空気をじんわりと暖め続けている。だから、風が吹くとその空気が飛ばされてしまい、さらに体温が奪われて寒いと感じる。服を着ていると周囲に空気の層ができて、体温で温められたものをキープできるから温かい。なので、〝自分の温度を奪わせない〟ことが、防寒の基礎となるんだ」
静は、再びダウンシュラフを持ち上げました。
「モコモコした寝袋のダウンは、たくさんの空気の層を作ってくれる。保温性と湿度のコントロール性が優れた空気層だ。体温でこれを温め続けることで、寒い中でも快適さが保たれている。――では、もし寝袋の中に入った私達が、外からの寒さをしのげるほどの厚着をしていたらどうなるだろう?」
先生の質問に、沙羅が勢いよく手を挙げました。
「はい! 体温が寝袋をうまく温めてくれません!」
「正解だ。外からの寒さに耐えられる服は、それゆえに外に体温を逃がしてくれない。つまり、いつまでも寝袋の空気を温めてくれない。その服の中だけが温かくても、寝袋の持つ空気の量には敵わないから、冷えやすくなってしまうし、ときに蒸れやすくもある」
静は、イスにおいた寝袋を指さしました。
「もちろん〝ある程度の性能の寝袋を持っている〟ということが前提なのだけど――、寒いときは通気性のある薄着で寝るのがいいんだ。体温を外に出して、その熱で、ボリュームのある寝袋やマットの空気を暖め続ける。それに薄着の方が、寝ている間の体の締め付け感が少なくて快適という効果もある。実はこれは、寝袋だけに限った話ではなくて、普通の羽毛布団でも一緒なんだ」
「なるほど……。セクシーこそ正義か……」
真剣な顔で頷いたのは、茶子先生です。
普段どんな格好で寝ているかは知りませんが、これからどんな格好をするのかも分かりませんが。
「じゃあ、今回は普通のパジャマでいいんでしょうか? 持ってきています」
エリアスが訊ねて、
「いいと思うよ。寝袋に入る直前に、素早く着替えるといい」
静は頷きました。
そして、別の注意事項を付け足します。
「夜中や明け方に、どうしてもトイレに行きたいこともあるだろう。その場合は、面倒でもしっかり着込んでからテントを出ることだ。薄着で上着を羽織っただけの格好では、帰ってくる頃にはすっかり冷え切ってしまって、その先が辛くなる。寝袋を出たらすぐに今みたいな格好になって、帽子もかぶって、とにかく体温を冷やさないようにね。あとで、それぞれのテントに魔法瓶を置いておく。お湯を入れておくから、体が冷えたと思ったら少しずつ飲むといいよ」
納得している二人――、じゃなかった茶子先生を含めて三人を横目に、そのへんの話は全ておばあちゃんに教わって、あるいは北の大地の厳しさ故に経験で知っている木乃が、ぼうっと空を見上げていました。
北の空の高いところに、カシオペア座が、Wを逆さにして浮かんでいますね。
つまりMに見えるわけで、ハンバーガーが食べたいなあと、木乃は思っていました。肉増量で。マシマシで。
静はそれから、別の注意事項として――、
もし夜中にトイレに行くときは、絶対に上級生の誰かと行くように、沙羅とエリアスと、茶子先生に言い聞かせました。絶対に一人で行動するなと。
トイレに立つときは、足元を照らすヘッドランプを持っていくのはもちろん、タープのポールにぶら下がっているランタンを点灯させてから行くことも忘れないように。
帰りの目印が分からなくなってしまいますからね。特にこのキャンプ場は猛烈に広いので。
また、ちょっとでも体調不良などの異変があれば、やはり遠慮なく起こして報告して欲しいと。
「注意ごとが多くてすまないね。でも、安全にキャンプを終えてもらいたい」
二人はまだ若いですから、必要な処置でしょう。
茶子先生は一番年上ですが、必要な処置でしょう。
「分かりました」
沙羅とエリアスが、声を揃えました。
「いつでも遠慮なく起こしてね。起きなかったら、蹴っ飛ばしてくれていいよ」
木乃は沙羅に言って、
「僕もです。容赦なく」
犬山もそう言って――、
そこで全員、ハタと何かに気付きました。
エリアスが、
「あのう、犬山先輩……、テントは?」
そうです、彼はテントをまだ張っていません。どこで寝るのでしょうか?
「ああ、僕はなくても大丈夫だから、持ってきていない。そのへんで、丸まって寝るつもりだ」
さすが犬。略してさす犬。
正体は毛がふさふさの犬ですので、これくらいの寒さなど余裕です。というかもっと寒くなっても外で寝るのに問題なし。
このワイルドさは、例え鍛えた木乃でも真似はできない。さす犬。
しかしそれでみんなが納得するはずもなく、ひどく[吃驚{びっくり}]している中で、
「じゃあ、私のテントにいらっしゃーい!」
茶子先生が言いましたが、
「沙羅ちゃんがいますからダメですよ」
犬山はとても冷静。
「じゃあ私も犬山君と外で寝るーっ!」
「先生、野営の経験ないですよね? 下手したら凍死しますよ?」
「仕方がない、少々狭いが、ビバークだと思えば問題ない。私のテ――」
静の提案など、
「ノウ!」
全部言わせる前に英語で却下です。静と[同衾{どうきん}]? そんな事するくらいなら、腹をかっさばいて死んでやる的な勢いでした。
しかしそれではと心配する心優しいすぐやる部の面々ですが、一人の部員だけが、恐ろしいほど冷静でした。
つまりは木乃ですが、
「テントがないのなら、先生の車の中で寝ればいいんじゃないですか? 鍵を渡しておけば?」
そ! れ! だーっ!
問題があっという間に解決したところで、木乃は言うのです。
「だから、そろそろオヤツの時間じゃないですかね? もういいでしょう」
接続詞の使い方が思いっきり変ですが、木乃は気にしません。
すると、静が静かに動きました。
おもむろに火バサミを掴むと、焚き火の奥底から、アルミホイルの包みを取り出しました。
幾重にも包まれていたアルミホイルを開くと、濡らしたクッキングペーパーに包まれて、完璧ホクホクに焼き上がったサツマイモが! 石焼き芋です。石焼き芋の登場です!
「驚かそうと思って隠しておいたんだけど、よく分かったね、木乃さん」
静が微笑みながら言うと、木乃は答えます。
「心で」