「二日目の彼等」
翌朝、木乃は夜明けと共に起きました。
「この匂いは、ノザキのコンビーフ……」
匂いで起きました。
寝ていても否応なしに刺激される嗅覚は、人を起こす力を持つのです。そして木乃は特に、食べ物の匂いに敏感です。
時間は、朝の六時少し前。
空は、そしてその下にある世界は、もうすでにそこそこ明るいです。普通に活動できるレベル。ただし、太陽はまだ昇っていません。
タープの下で、米軍使用の、あるいは米軍仕様の分厚い寝袋の中にいた木乃の格好は、ただのパジャマ姿でした。
それはスウェーデン軍の迷彩の、この前茶子先生に[闖{ちん}][入{にゅう}]されていたときに着ていたアレ。今朝、部屋からポイと袋に入れて持ってきたアレ。
木乃はタープの下で寝たままで器用に着替えて、昨日と同じ、ジーンズにM65ジャケット姿になりました。さすがにちょいと寒いので、中に薄手のセーターを一枚入れています。もちろん腰には、モデルガンとポーチとエルメスをぶら下げたガンベルト。頭には帽子。
ちょうど[摂{せっ}][氏{し}][零{れい}][度{ど}]くらいの空気の中、木乃は白い息を長く長く吐きながら、周囲を見渡しました。
朝の草原は、霧もなく、抜けるような空気に満ち満ちていました。風も強くありません。
ハッキリと見える富士山は、昨夜とまったく同じ場所にありました。
「なるほど……、二日間の観測の結果、明確な答えが出た。あの山は……、移動はしない」
一つ賢くなりました。
キャンパーの朝は早く、遠くのテントでは、焚き火の煙がうっすらと立ち昇っています。
太陽の光をもれなく有効に使うために、夜明けと共に起きて日の出と共に動き出す、それが旅人、じゃなかったキャンパーという生物です。
自分達の陣地でも、既に動き――、いえ働き出している人がいました。
犬山です。
キッチンに立ち、バーナーの上でフライパンを振っていました。中身はもちろん、さっき木乃を起こしたコンビーフ。
[夜{よ}][露{つゆ}]で濡れるのを防ぐために車とコンテナにしまっておいた用具も、全て出してくれていました。よく働く男じゃ。
犬山が木乃に気付いて、爽やかな笑顔で[会{え}][釈{しゃく}]を送ってきました。
いけ好かない相手でも、挨拶は礼儀です。
木乃は会釈を返して、まだ他の部員達は寝ているので静かに移動します。
トイレへと、あるいは歯磨きへと、洗顔へと――、必要な道具を小さなポーチに入れて、木乃は出かけました。ポーチの色は、米軍のマルチカム迷彩柄でした。落としたら見つけるのがとても大変そうな。
じんわりと湿った朝の土の上を、木乃はテクテクと歩きます。
「おはよう、木乃」
腰から、エルメスが話しかけてきました。
会話は久しぶりです。[昨夕{さくゆう}]からずっと部員達と一緒だったのと、昨夜はすぐに寝入ったので。
「おや、まだいたの? とっくにストラップの国に帰ったのかとばかり」
[酷{ひど}]い主人公です。しかしエルメスは動じず、
「そんな国はない。木乃もキャンプだと、こんなに早く起きられるんだねえ」
「まあね。秘めた実力ってやつ?」
「違うだろうねえ。ところで、ちゃんと眠れた? 明け方は相当に冷えたけど」
「ぐっすり。なんも問題なし。こんなの、北海道の冬に比べれば、天国みたいなもんだ」
「タフだねえ」
「あと、[丑{うし}][三{み}]つ[時{どき}]に結構派手に[蹄{ひづめ}]の音が聞こえたのは、幻聴? それとも、馬刺しを食べたいと思っていたわたしが見た夢?」
だいたい午前二時から二時半頃のことです。
「ああ、それは鹿。数頭の群がキャンプ場のあちこちを走ってたよ。そのへんに、コロコロの糞がたくさん落ちていたでしょ?」
「なあんだ鹿か。撃って食べれば良かった」
「〝鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律〟違反だよ」
いわゆる、〝鳥獣保護法〟、あるいは〝狩猟法〟と呼ばれるアレです。
「細かいこと言うとハゲるよ?」
「ハゲないよ。あと、法律を細かいこととかゆーな」
「分かった。今度近くに出たら起こして」
「撃つからダメ」
「ちぇ」
時間は少々戻って、昨日の夜のことですが――、
ホクホクの焼き芋をたっぷり食べた木乃達は、さすがに寝ようということになりまして、焚き火の見張りの静以外で、トイレ&洗面所へと向かいました。
それぞれが用を済ませたり、歯を磨いたり、顔を洗ったり(特に焚き火で乾くので)、茶子先生は、化粧水や乳液でササッとお肌の手入れをしたり。
それらを終えて戻ってくる途中、草原のど真ん中で全員でヘッドランプを消してみると、頭上には満天の星空が広がっていました。
それはまるで夢の景色のように、ただひたすらに、美しい眺めでした。
でしたが、
「寒いですね」
「寒いね」
「うん、寒い」
やっぱり焚き火から離れると冷えるので、さっさと戻って、なる早でテントに入り込むことにしました。なあに、星空は明日も見られるさ。
みんなのトイレの間に、静はたっぷりのお湯を沸かして、湯たんぽを人数分準備してくれていました。
熱いお湯を入れた金属製の[扁平{へんぺい}]容器に厚手の布のカバーという、もっとも原始的な暖房器具の一つですが、その効果は絶大です。寝る前に寝袋にポイと入れておくだけで、その中の空気が暖まります。
そして寝ている間は、一番冷えを感じやすい足元に入れておくと、長い時間ぽかぽかです。オススメです。
ただし、その場合は低温やけどの危険性があるので、バスタオルに包んで縛っておくなどしましょう。
静は、喉が渇いたときに飲むために、ぬるま湯を入れた魔法瓶も用意してくれました。さらにはチョコレートの小袋も。もし夜中に体が冷えたら、チョコを食べてお湯を飲んで、中から温めるのです。
そして全員、二十一時には就寝しました。
木乃は、若い二人と、若くないけど心配な一人のために、何かあったらすぐに起きるつもりで寝ましたが――、
どうやら三人とも静のレクチャーのおかげが、それとも寝袋のおかげか、あるいは湯たんぽの威力か、朝までちゃんと眠れたようです。今も寝ています。
[逞{たくま}]しい静の心配はしなくてもいいですし、犬山はまあ、たぶん車の中で寝たのでしょう。ドアを開け閉めする音は、聞こえませんでしたけど。
そのかわり、犬が丸まって寝る気配がしましたけど気のせいに違いない。
朝の富士山を撮影している人を横目に見ながら、木乃が自分達の陣地に戻ってくると、
「おはよう、木乃さん」
テントから少し離れた場所で、静が白いTシャツ一枚になって、体の汗を拭いていました。あ、上がTシャツだけ、と言う意味です。下は昨日と同じジーンズを履いていますよ。表現って難しい。
なにせ寒い世界ですから、静の体中から湯気が、もわもわと立っています。
どうやらこの男、森の中の人目の付かないところで朝からバリバリ[鍛錬{たんれん}]をしてきたようです。日本刀をフリフリしてきたようです。腕や肩の筋肉がモリモリしています。
「おはようございます。先輩は朝の修行ですか?」
「ああ。毎日やらねば、どうしても気が済まなくてね」
「凄いですね。わたしもおばあちゃんから、銃は毎日握れと言われてはいますが……」
いつも寝てばっかり何もしてないよねえ。まったく。
腰のエルメスが思いましたが、黙っていられるくらい空気が読めるストラップでしたこいつは。
「そういえば、森の中に鹿がいたよ」
静が言って、
「わたしも昨夜、走っている音を聞きました。群がいるみたいですね」
そして撃って食べてやりたかった、とは続けませんでした。それくらいの空気はリードできるのです。
しかし静は、まだ湯気を立たせながら少し顔を曇らせて(比喩表現です)、言います。
「私が目にしたのは、まだ小さな子鹿だった。一頭で、森の中でぽつんと[佇{たたず}]んでいた。近づいても逃げずに」
「あらら」
木乃にも分かります。
それはよくないです。鹿は群で生きるもの。しかも子鹿が一頭でいるなど、はぐれたに違いありません。
そして人間が近づいても逃げないのは、走って逃げられないほど判断力が、あるいは体力が、もしくは両方が弱っているからです。
その子鹿は、例の群に戻りたがっているでしょう。さぞかし心細いでしょう。今も。キャンプ場のすぐ隣の森のどこかで。
可哀想ですが、大自然の厳しさと言ってしまえばそれまでのことです。
むしろ木乃など、どこぞで[野垂{のた}]れ死ぬ前に、撃ってご飯にしてしまいたい、とすら心の奥では思っていますが、それも黙っていました。それくらいの空気も読める。
静との会話を終えてリビングまで戻ってきて、木乃には分かりました。並んでいる二つのテントの中で人の動く気配がしています。
沙羅もエリアスも起きていて、ごそごそと着替えているのでしょう。茶子先生は――、知らん。
そして、ファスナーが内部からじーっと開かれて、
「皆さん、おはようございます! とっても寒いですね! でも、すっごくよく眠れました!」
可愛い女の子と、
「おはようございます! 僕もぐっすりでした!」
可愛い男の子が出てきました。二人とも昨夜と同じ、温かそうなスタイル。
あれ? 茶子先生は?
「とてもよく寝ているので、起こすのが申し訳ないかと思いまして」
中一女子に気を使われる大人。
沙羅とエリアスが、仲良くトイレから戻ってきました。
もう明るいので、仲のいい二人だけで行かせることにした木乃は空気が読める――、
「また往復めんどくさ」
木乃はズボラな先輩でした。
「みなさんどうぞ」
犬山が、マグカップに入れた紅茶を差し出してきました。
木乃はお礼もそこそこに飲んでみます。蜂蜜がたっぷり入っていて甘いです。鋭い冷気の中では最高ですね。
「うむ、悪くない」
木乃、超偉そう。
「美味しいです。ありがとうございます」
「犬山先輩、ありがとうございます」
エリアスと沙羅は、いつもよい子。
そこにいる全員で、湯気で顔を包みました。
時間は、六時半を過ぎています。もう空はガチガチに明るいですが、まだ太陽は昇っていません。富士山の右側(南側)の[裾{すそ}]が、空と大地が作る[稜{りょう}][線{せん}]が、かなり明るく見えてきます。昇るのはそのあたりからに違いない。
ご存じの通り、太陽が顔を出す場所は、季節と共に移動します。
これからしばらくは右側へ。そして来月の[冬{とう}][至{じ}]を過ぎると、どんどん左側(北側)へとずれていきます(一番南側から出る冬至の日の出時刻が、一番遅いワケではない、というのは面白いところです)。
すると、やがては富士山の頂上ピッタリから昇るタイミングが年に二回来るわけで、その光景は“ダイヤモンド富士”と呼ばれています。東側からなら、夕日で同じような光景を見ることもできます。
そしてこのダイヤモンド富士、晴れていれば〝毎日〟見られます。そう、自分が移動すればいいだけだからです。
それらはさておき、
「間もなく日の出だ。新しい一日の始まりを、みんなで拝もうか」
静が言いました。ちなみにTシャツを交換し、セーター姿に戻っています。
「日の出の前でも、こんなに明るいんですね。僕は、太陽が出た瞬間に、世界が急に明るくなるのだと思っていました」
エリアスが言いました。
これは良くある勘違い。
実際には、『もう十分に明るいが、太陽が出ると東の空が猛烈に[眩{まぶ}]しくなる』といったところでしょうか。
「みんな、ちょっと後ろを、西側の山を見てごらん」
静が言って、皆が振り向くと、背後に[聳{そび}]えていた山の頂上が、猛烈に明るく見えました。
つまりあの場所にはもう光が届いているわけで、もし山頂にいれば、ご来光のタイミングでした。やがて、明るい場所が、ジワリジワリと下へと広がっていきます。
葉の落ちた山肌が、とても明るく茶色に見えています。北に見えている山の高いところで輝いている平らな人工物は、パラグライダーの離陸場ですね。
「あの光がどんどんと下がってきて、やがてここを、私達を照らす」
静の言葉に、
「ロマンチックですねー」
沙羅はときめいていました。木乃の目が輝いたとき用のサングラスを用意して、日の出に備えます。
富士の稜線はますます輝いていき、その分、山の表面が暗く見えました。
その頂上の右端から、左上へ、空へと向けて線が走っています。ちょうど富士山の角度と同じように、まるで定規を当てて延長したかのように、大空に延びる線です。その左下の空は薄暗く、上が明るいことでクッキリとした境界を空に描きました。
これは影です。富士山の作る影が、空の色まで分けてしまっているのです。
荘厳な景色に、部員達が声もなく見入る前で――、
その瞬間は、音もなくやって来ました。
富士の裾野が、猛烈に輝きました。ちょっとでも日が出た瞬間が、日の出の時間です。今です。
「うわあ」
沙羅が、感動の声を上げました。
「綺麗だねえ」
エリアスが、沙羅と太陽を交互に見ながら、素直に言いました。
「…………」
静は、黙って合掌して祈っていました。
「…………」
木乃は、黙って思っていました。あの太陽のような卵が食べたいと。
皆に太陽は見えましたが、実はあの場所にはありません。
地球大気の屈折によって、一つ分以上は上に見えるのが日の出(と日没)の太陽。これを〝[大{たい}][気差{きさ}]〟と呼びます。
だから、太陽まで届く長い棒があっても、直接狙っては太陽は突けませんからご注意あれ。見えるものが、そこにあるとは限らないのですよ。まるで人生ですね――、と書くとなんか急に深くていい話にできるのでオススメです。
それはさておき、静かに見続けたり、手を合わせたり、朝ご飯はまだかと思う部員達を、地球の裏を回ってきた太陽は優しく照らして、長い長い、とてもとても長い影を後ろへと伸ばしました。
実際には太陽は動いていなくて、ぐるっと回ったのは地球と自分達なのですが、そんなのは地球の上にいる人には実感できないのです。
だったら、太陽が回っているに違いない。それでも。
「素晴らしい日の出だ。今日も一日、いい天気になるね」
静が拝んでいた手を解きながら言ったとき、
「素晴らしい材料だ。今日の朝食、いいメシになるね」
木乃は犬山が準備しているコンビーフの炒め物などを遠目で見ながら言いました。