プロローグ 〈面白いは『イイ』〉
小学生の頃、僕は女子にモテなかった。
色白で肥満児の僕は、学年でずば抜けて足が遅いからだ。
僕の知る限り、モテるヤツは足が速かったし、足が速いヤツはモテた。
色白なのも太っているのも、足が遅いのも、全てがコンプレックスで、僕は自意識の塊だった。
僕は女子にワーキャー言われたかった。
好きな女の子ができたこともあったが、彼女は休み時間になると、廊下で足の速いヤツらの前で楽しそうに笑っていた。僕はといえば、廊下の遠くの方から笑っている彼女をただただ眺める、それだけ。彼女の笑い声はいつまでたってもこちらまで届いてはこなかった。
Jリーグ発足直前、流行に乗ってサッカー少年団に入った。
もちろん、活躍なんて言葉とは終始無縁だった。
運動もろくにできない。かといって他に秀でた部分があるわけでもなかった僕は、平凡もしくはそれ以下だった。そんな[冴{さ}]えない小学校生活も残りあと一年となった頃、僕はそれまでの人生観を変えるものと出会った。
とんねるずだ。
とんねるずは、第一線で活躍する役者や歌手、アイドルを手玉に取って笑いを生み出した。その姿はたまらなく魅力的に見えた。[錚々{そうそう}]たるゲストたちを前に、あくまで主役はとんねるずなのだ。面白い上にカッコいい二人に憧れた。
「これだ」と思った。お笑いで女の子を[惹{ひ}]きつける、それこそが一番カッコいいものだと思った。
とんねるずのようになれば学校生活も変わるはずだと、面白くてカッコいい二人を目指した僕は、仲のいい友達を笑わせるくらいのお調子者にはなった。ただ、結局卒業する最後の最後まで女子とまともに話すことはできなかった。
僕はとんねるずになれなかった。
* * *
中学に上がった僕は学年きってのお調子者になっていた。
授業中に大きな声を上げて騒ぎ、みんなの注目を集めていた。
教室で騒ぐ僕は、男子女子両方からの視線を浴びていた。
ただ、依然モテなかった。
ある日、転校生が僕らの学校にやってきた。
端正な顔立ちに健康的に焼けた肌、一八〇センチ近い高身長。
おまけに、足が速い。
そして、そいつは程度のいい気さくさを持ち合わせていて、すぐにクラスに馴染んだ。
授業中に騒がなくても、女子の視線を集めていた。
悔しくないわけがなかった。
内心ライバルのように意識していたが、[奇{く}]しくもそいつが僕の人生を大きく動かした。
「むらかっちゃん、『ダウンタウンのごっつええ感じ』って知ってる?」
「何それ? ごっつええ感じ?」
その週の日曜日の夜、テレビ画面の前には開いた口が塞がらなくなった僕がいた。
ダウンタウンのコントはとにかく[喋{しゃべ}]って喋って目立つ面白さとは違った。センスのある一言をボソッと放つ、その斬新さに衝撃を受けた。
中学生だった僕は、ダウンタウンを心底カッコいいと思った。
* * *
高校は、環境を変えたい一心で、地元の[足{あ}][立{だち}]区を離れ[目{め}][黒{ぐろ}]区の学校に進学した。
しかし、入学早々に挫折することになった。
友達をいち早く作らなくてはいけないと思った僕は、ヘタクソでもいいからとサッカー部に入ることを決意したが、周りのレベルについていけず孤立したのだ。
憧れていた学生生活を送るために必要なものを僕は持っていなかった。
孤立してしまった現状をなんとかするため、僕はあのお調子者という武器を持ち出すしかなかった。
面白いヤツと認められれば居場所ができるはずだと信じた。試合に出られないのなら、勝負の場を部室に移せばいい。
僕は、自らひょうきん者を買って出た。
部室を舞台と考え、笑いという手段でサッカーの上手いヤツらに必死に食らいついた。おかげで彼らと打ち解けられるようになった。そうすると次第に居心地もよくなってきて、部活も続けていくことができた。
そして、成長期に背が伸び、肥満児だった僕はいつの間にか細身になっていた。
クラブ活動を続けた結果かもしれない。
そんな頃、耳を疑う[噂{うわさ}]が僕のもとまで届いてきた。
「隣のクラスの女子が[村上{むらかみ}]くんのことが好きなんだって」
青天の[霹靂{へきれき}]だった。
その子とは一度も話したことがなく、サッカー部の部室で暗躍している僕の一面は知らないはずだ。
なんの努力もしていない、ただ成長期によって痩せただけの棚ぼただった。
それからというもの、自分は見た目でモテるシュッとした男なんだと強く意識するようになった。
それ以降、部活での「面白いを意識する自分」と校内での「シュッとした自分」、二つの人格が生まれた。自意識の塊の僕は部室ではふざけ、校舎ではクールな雰囲気を醸しながら廊下を歩くようになった。
初めての学園祭の前夜祭でのことだった。高校生活にも慣れ、学園祭の浮かれた雰囲気を堪能していた僕は、野外に組まれた舞台の上で三年生がコントをしているのを見かけた。
ドキッとした。
面白いヤツであることで居場所を作っている僕にとって、客前のステージでウケている彼らの方が僕よりよっぽど「面白いこと」に向き合っている人のように感じられた。
校内の人間に向けてのものだから、身内と言えるかもしれないが、それでも客前で「お笑い」をしているその光景は光り輝いて見えた。
胸がざわついた。
サッカー部の部室を舞台に見立てて自分が一番面白いヤツというポジションを確立していたつもりだったが、本当の舞台に上がったことはなかった。
舞台でコントをしている三年生の姿を見て、いつの日か舞台に立つ自分の姿を夢想した。
そして、高三になった僕は、学園祭の舞台に立っていた。
顔をこちらに向けた生徒たちが、高揚しているのがわかった。生きてきた中で一度として見たこともない景色だった。
生まれて初めての興奮に体が包まれた。
僕はユニコーンのコピーバンド『ハッタリ』のボーカルとしてそのステージに立っていた。
一年生の時の前夜祭で先輩たちのコントを見て以来、僕なりにお笑いについて真剣に考えていたつもりだったが、結局、女子にワーキャー言われたかったのだ。だから僕は初めてとなるステージで芸人としてではなくボーカルとしてマイクを握った。そのことに一抹の罪悪感があったが、誰に迷惑をかけているわけでもないので、その感情には蓋をした。
そして学園祭も終わり、卒業後の進路を考える季節を迎えた。学園祭ではバンドのボーカルとして立ったものの、やはり、とんねるずやダウンタウンへの憧れは失われず、面白いヤツが一番と信じていた。これまでの三年間、芸人を目指す道も頭の中にずっとチラついていた。
そんなことは露ほども知らない母親が、ある日何気なく言った。
「あんたが好きなようにすればいいけど、お母さんとしては大学に行ってほしいな」
母親自身、学歴にコンプレックスがあったため、そう話してくれたらしかった。
結局、僕は進学を選び無事大学には受かった。
進学を選んだことで、母親の期待に[応{こた}]えることができたという大義名分もあったが、それ以上に、正直芸人の道を選ぶという怖さの方が勝っていた。
* * *
そうやって目的もなく進学した大学では、とにかく自堕落な生活を過ごした。
ある日の深夜、一人暮らしの友人の家で宅[呑{の}]みをしていると、その友人がおもむろにテレビを[点{つ}]け、僕に声をかけてきた。
「[純{じゅん}]、なんか新しい番組始まってるよ」
「お、ほんとじゃん」
「コント番組かな?」
「ぽいね」
なんとなく見ていたその番組の途中で僕は息を呑んだ。
画面には、キングコングという若手お笑いコンビが映っていた。
『はねるのトびら』という番組だった。
キングコングの二人は僕と同い年だった。
信じられなかった。同い年の人間が芸人としてテレビに出て、しかもレギュラー番組のメインMCを務めているのだ。
なんとなくいつかお笑いに進むのかなくらいに思いつつ、毎夜酒ばかり呑んでいるだけの自分と彼ら。
圧倒的なまでの差を見せつけられた。こちらはまだ養成所に通ってすらいない[素人{しろうと}]だ。
そんなことを知る由もない友人は横で、キングコングを見て笑っていた。
キングコングから衝撃を受けた夜を経ても、相変わらず特に何かをするでもなく過ごし、就活シーズンが迫る中、本当にお笑い芸人を目指すのかどうかという現実から僕は目を背け続けていた。覚悟を決められなかった。
そんな煮え切らない思いを抱えながらも、お笑い番組を見ることはやめられなかった。
そして、ある日の深夜番組で僕は[カ{*}]リカに出会った。
見たことも聞いたこともないそのコンビはテレビの中で、見たことも聞いたこともない『お笑い』をやっていた。
それは、いわゆる単にボケてはツッコんでを繰り返すものではなかった。そのネタにはストーリーがあった。話の内容自体が面白く、登場人物も魅力的なキャラクターだった。
彼らは、[吉本{よしもと}][興{こう}][業{ぎょう}]所属の芸人だった。
吉本にはこんな自由な発想を持った芸人もいるのだ。
自分がどういうお笑いを目指すべきなのか、明確な指針となるものなど持っていなかったが、カリカに感銘を受けた僕は、芸人になることを決意し、その舞台に吉本を選んだ。
小学校の頃から夢見ていたお笑いの世界に飛び込む。
根拠のない自信だけはある。
自分はテレビに出られる人間だと強く信じた。
そして、吉本入りを決めた一年半後、僕はNSCの入学式でルミネtheよしもとの座席に座り、舞台を見上げていた。
第一章 〈お笑いの学校〉
1
「人見知りなんてやめてください」
二〇〇三年の春。
ルミネの舞台中央に立つ[木{き}][村{むら}][祐一{ゆういち}]さんが僕を含む五百人ほどの生徒に言葉を投げかけた。周りを見渡すと、みんな、口を真一文字にして舞台上を頼りない目で凝視していた。
講師となる木村さんから放たれる芸人としての存在感、劇場を包む張り詰めた緊張感。それらを全霊に感じながら、自分が本当にお笑いの世界に足を踏み入れたのだと実感する。それにしても、木村さんの言う人見知りをやめろとは一体どういうことなんだろう。あれだけのキャリアがある人の言葉なのだから、いずれその意味もわかるのかもしれない。
挨拶が終わり、木村さんが舞台から去ると改めてルミネの舞台のバカデカさが目に飛び込んできた。
この大きな舞台の上に自分が立つことを想像してみたが、全くイメージが湧かない。途端に、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったのではないかと至極不安になった。今ここにいる五百人全員がライバル。その事実を実感し、真っ暗な闇に包まれた時のような恐怖が襲ってくる。しかし、それと同時に、全員大したことないだろうと人知れず虚勢を張る自分もいた。
その後、滞りなく式が終了し、僕たちは会場からロビーへぞろぞろと退場した。みんな、互いを牽制するように誰とも目を合わさず階段を下りていく。コンビで入ってきたヤツらはそこそこに会話をしていて、それを羨ましい目で見る自分がいた。
僕はコンビ志望だったが、共に入学した相方などおらず、いずれここにいる誰かと組まなくてはいけない。全員が面白そうで、全員が面白くなさそうにも見えた。この中から早いこと相方を、その前にまず話し相手を作らないといけない。そんなことを考えているうちに新宿駅南口に着いていた。
翌週の月曜日、早速初めての授業を受けに、NSC最寄りの[西{にし}][大{おお}][井{い}]の駅を降りた。午前中にその駅で降りる利用者は少ないのか、降車した全員が同じルートを辿り無機質で殺風景な二階建ての施設の入り口に吸い込まれていった。僕も含め[蟻{あり}]みたいだなと思った。その蟻たちが収容された建物こそがNSCの校舎だった。
扉を開け靴を脱ぐだけの場所を過ぎると階段があり、それを上った。
二階のロビーには、コの字型の硬い材質のソファーが灰皿を囲むように設置されている。喫煙者としてはありがたい。ただ、初日からタバコを吸うようなヤツはいなかった。それにしても、全員模範囚みたいにずっと静かだ。雰囲気が暗すぎて、ここにいる誰もが芸人を志している人間とは到底思えなかった。僕も含めて。
授業の時間になり、みんなおもむろに教室の中へと入っていった。僕もそれに続く。入り口には一年先輩らしいスタッフの二人が立っていて、僕たち生徒がジャージと上履きをはいているかをチェックしていく。
「お前、なんでジーパンなの? お前ら、聞いてんだろ。普通の私服みたいなのとかじゃ授業受けれねえから。お前はもう帰っていいよ」
そう言って、何人かが帰らされた。一年先輩というだけでこれだけの威圧感を放ってくるとは驚いた。彼らのその過剰な物言いによって教室全体の空気が一瞬にしてピリつく。これは、実に面倒臭そうだ。
その後、彼らの指示のもと、全員が床に座らせられた。教室には、ざっと百人以上の生徒がいそうだ。
左側からガチャっと音が聞こえた。そちらに目をやると、講師と思われる男が二人入ってきた。
一人は小柄で短髪、鼻がやたら赤い。売れないバイプレイヤーみたいだ。
もう一人は中肉中背、よく焼けた小麦色の肌に茶髪のロン毛、薄く青色が入ったサングラス姿。そして驚くことに右手には[竹刀{しない}]をぶら提げていた。
こんな容姿の大人にはなりたくないと瞬時にして思った。その古臭さこそがコントじゃないかと思ったほどだ。
二人が席につくと赤鼻が口を開いた。
「今日からこのエクスプレッションの授業を担当する[山本{やまもと}]です。今朝の[松{まつ}][井{い}]の試合見たか? ……[嘘{うそ}]だろ? 見ろよー」
何言ってんだこいつ。
「俺は[古{こ}][代{だい}]だ」
やはり、コントだった。まさに、名が体を表しているというやつだ。竹刀を床にコンコンじゃないんだよ。
「今日は一回目の授業なんで、一人ずつ自己紹介してってもらう。その後にランダムな質問をしていくからなんでもいいから答えて」
僕たちは何故ジャージを着させられているのだ。
「じゃあ、えーっと……一番の[赤松{あかまつ}]から」
赤松くんは背が低くて太っていた。そして、その後の発言は見た目のおかしさを超えてはこなかった。
「じゃあ、次は池田かな」
赤鼻がそう言うと、僕の右後ろの方から「はい」という声が聞こえた。
振り返ると、紺の裾絞り七分丈パンツを[穿{は}]いた男が立っていた。
彼は、寝ることを知らなそうな剛毛天パ毛量多すぎという情報過多な髪の毛と、蛇と[見{み}][紛{まが}]うほど黒目しかない目をしていた。
「1—A2番、池田[一{かず}][真{ま}]です。」
「うん。で、質問だけど、池田はダウンタウンのことをどう思う?」
まさかの角度からの問いかけにそこにいる全員が息を呑んだ。
すると、その男は質問に対して異常なまでの速度で言葉を返した。
「えっと、ダウンタウンって誰ですか?」
一瞬、何が起きたかわからなかった。しかし、その一秒後、教室中に笑い声がこだましていた。その後も、ザワザワとした余韻が続いている。そして肝心のその男は「え、なんすか?」みたいなキョトンとした表情を浮かべている。
え? どっち? ボケ??
そこにいた誰もが予想だにしなかった回答だった。
さすがにボケだとは思うが、ボケましたという雰囲気があまりにもなく、1%くらい本当かもしれないという雰囲気があった。男は何事もなかったかのようにまたその場に座り込んだ。
その後、時間いっぱいまで各生徒への質問は続いたが百番以上の僕までは回ってくることはなく授業は終了。そのままNSCを後にし、西大井の駅へと向かった。
その帰り道、あの男が与えた衝撃を思い返していた。
2
次の日、初めてのネタ見せの授業が行われた。教室に入ると、[端{はし}]に寄せられた机に沿って生徒たちが列をなし、次々とそこに置かれた用紙に何やら書いている。その紙を先輩でもあるスタッフの一人が回収し、講師が座るであろう席に丁寧に置いた。昨日同様、クラスの全員が体育座りをして待機する。ドアが開くと、メガネに髭面の恰幅のいい男がゆっくりと自分の席についた。
「めちゃイケなどの放送作家をやっている[高橋{たかはし}]です。今日から一年間よろしくお願いしますー」
放送作家という人間を目にするのはそれが生まれて初めてだった。改めて、自分はお笑いの世界の門を[叩{たた}]いたのだと実感した。
「じゃあ、もうやっていっちゃおうか」
もうやっていっちゃおう?
「じゃあ、えーっと、フラットフットからかな」
「フラットフット、二人『[暗転{あんてん}][板{いた}][付{つ}]き』でお願いします!」
彼らは突然、講師の前でコントを披露し始めた。特に笑い声も起きず、一分ほどでネタが終わった。そのまま、ダメ出しの時間が始まり、「ありがとうございました」と二人は自分たちの場所に戻った。
完全に出遅れた。感度を持ったヤツらは授業に対して僕より前のめりで、初日からネタ見せをしたのだ。コンビを組んでいなかった僕は、悠長な気持ちでいたことに気づかされた。
ただの見学で終わることが確定した僕を尻目に、いろんな生徒が次々とネタを披露した。そこそこウケたり、ずっとスベったりするクラスの者たちのネタを見て、「まあまあこんなもんか」「前にかじってたのかな、かたちはできてるな」などと心でつぶやいていた。ネタ見せができず自分のアピールができない代わりに、他のヤツらのネタを肯定しないことで自分とヤツらの差を作らないようにした。
実際、周りにいる生徒たちも特に声を出して笑うこともないし、僕はどこか安心していた。
そんな気持ちを抱え、授業も中盤に差しかかった頃。
「二人暗転板付きでお願いします」
他のヤツらと同様の挨拶をするコンビに、僕は穿った目を向けていた。
しかし、彼らがコントを始めると、教室内にそれまでとは質の違うまとまった笑い声が響いた。
そのコンビはその後も一つのボケも外さず小気味よくウケていく。それを見ながら、今僕ができる唯一の武装『秘技〈否定〉』を発動する隙がこのコンビにはないことを悟った。そして同時に、自分を守るために否定したかったが、この二人組のことを好きだとも思っていた。
ダメ出しを聞く二人。手足が短く感情が読み取れない仏頂面の男と、年齢不詳で赤い頬をした、顔に似合わず背の高い男。ダメ出しが終わり高橋先生が二人を元いた場所へと促す。
「じゃあ、ライスは以上で」
コンビ名も絶妙だと思った。すぐそこにある身近な言葉でありながら、嫌味のないてらいを感じた。
ライスはそれまでの生徒のレベルと比べると、明らかにずば抜けていた。悔しいが認めざるを得なかった。
そして、次の出番に向かう一人の生徒が視界に入った。
昨日のあいつだ。
ダウンタウンを知らない男。
僕は勝手に緊張した。昨日の衝撃的な発言で笑いを掻っさらったこいつはネタも面白いのか。
「暗転板付きでお願いします!」
この男もまたコントだ。
ネタが始まり男がセリフを喋ると空気がガラッと変わった。
鉄パイプで殴られた男が、笑いながらそれを取り上げ怪力でプードルの形にして返すというコントだった。
妙に演技が板についている。そして、こいつは今日も生徒にウケにウケていた。
その独特な世界観からは、他の生徒と比べ、桁違いのオリジナリティーが感じられた。オリジナリティーに関して言えば、ライスもまた[然{しか}]りだ。怪しい空気感もどこかライスと似ている。
それ以降、面白いと思えるコンビは出てこず授業は終了した。
ネタ見せという本格的な授業があったことでクラス内の空気がどことなく変わった。ネタを見せた生徒だけは、他の生徒から違った目で見られるようになった。でも、僕のそれは入学式から何も変わっていない。ただ、まだ二日目。相方がいるわけでもない。焦るにしてはまだまだ早い。僕には僕のペースがある。
* * *
NSCに入って二ヶ月が経っても、僕は一度もネタ見せをしていなかった。それどころか、相方すら見つからず、クラスでまともに話せる人間も二、三人しかいなかった。
入学してからというもの、他の生徒たちを吟味し続け、上手くクラスに馴染めず、積極的に誰かと話そうともしなかった。高校時代、「面白さ」で自分の居場所を作っていた僕はそこには存在しなかった。ライスや池田らがネタを披露して「面白い」と認められていくのをただただ眺めては、焦りだけを募らせていた。
自分の才能を信じようとも信じられる要素が実績として何もない。ここまで来るとこのままお笑いの世界から消えていく自分を想像するようになり、NSCからの帰り道は、何もできなかった一日を悔やみ後ろ向きな気持ちを抱えて電車に揺られる日々が続いた。
* * *
その日もまた足取り重く西大井駅の階段を下りていると、急に後ろから声をかけられた。
「村上くんだよね? 一緒に行かない?」
「え? ああ、別にいいけど」
そうして、思わぬ相手とNSCまでの道を歩いた。その男は同じ一組で名前を坂田というらしい。
その日、僕と坂田は一緒に帰った。それからというものNSCでの毎日をほぼ坂田と過ごした。坂田はよく笑うヤツで、意気揚々といろんな話をするし、僕の話もいろいろと聞いてくれる一言で言うと、明るい人間だった。
気兼ねなく話せる同期ができ、NSCに通うハリが生まれた。すると、募っていた不安も少しずつ薄まっていった。
そのまま、坂田とコンビを組むことになるのはごくごく自然な流れだった。
初めてのネタ合わせの場所は僕の地元、足立区の[荒川{あらかわ}]の河川敷だった。
「村上、コンビ名考えたんだけどさ」
「あ、そうなの?」
「『ドンパッチ』ていうんだけど、どうかな?」
瞬時に好みじゃないなと思った。そんな僕の気持ちには全く気がつかない様子の坂田は続けた。
「『はい、どうもー』って出てきて、背中を合わせてさ、二人ともこうやって両手合わせてピストルの形作ってさ、客席に向かって銃を打つように『ドンパッチ‼』ってさ」
数秒の静寂の後に、頭上の線路を通る電車の音がやたらうるさく響いた。
「……俺は、『ピスタチオ』ってコンビ名考えてたんだけど」
「あ、それいいじゃん」
坂田がいいヤツでよかったと心から思った。その後、コンビ名を決めた僕がネタを作るということも坂田は進んで受け入れてくれた。
そうして僕らは、NSCで『ピスタチオ』というコンビ名を登録した。生まれて初めてコンビを組んだ。コンビとして何かを成したわけではないが、NSCに入って二ヶ月、遅すぎた一歩目をやっと踏み出せたことが嬉しかった。
* * *
「いい加減にしろ!」
本当にいい加減にしなくてはいけなかった。
ピスタチオにとって初となるネタ見せで僕らは漫才を披露したが、一分間ただただスベり続けた。
意を決して生まれて初めて立った舞台の上で膝がずっと震えている。
立っているのがやっとだ。
とんねるずやダウンタウンに憧れ続け、芸人になれると信じてきたこれまでの二十二年間を全て否定された気分だった。自分が信じ続けてきたセンスを疑いたくない。心の底から疑いたくない。それでも、疑うしかないのだ。目の前のクラスの人間全員が僕を睨みつけているようにしか思えない。頭が文字通り真っ白になっていくのがわかる。血の気もどんどん引いていく。倒れそうになる体をなんとか保ち、頭がボーッとしたまま座り込んだ。
その日は、坂田と帰らず、電車の車窓の外に広がるよく晴れた空をボーッと見つめ、頭の中で繰り返した。
「自分は、とんでもなく間違った道を選んでしまったのかもしれない」
それから、しばらくは授業を休んだ。坂田ともほとんど連絡を取らなかった。午後まで寝ていることもざらだった。漫才でスベり続けたあの光景を思い出す度、気が狂いそうになった。
二度と漫才なんてしたくない。それだけだった。
そんな日々を送っていたら、坂田からメールが届いた。
「いつでもいいから、またネタできたら授業出ようよ」
たった一回のネタ見せで心が折れて塞ぎ込んでいた僕に呆れているだろうなと思っていたが、坂田のメールには、何一つそんな言葉は書かれていなかった。本当にいいヤツだ。坂田のおかげで少し前向きな気持ちを持つことができた。
といっても、ここからまたどうやって漫才を書けばいのか、その糸口が全く見当たらない。
しばらく思案していたところで、NSCに入る際に買ったノートのことをふと思い出した。そこに何かメモしたものがあったはずだ。確か、一番後ろのページにこれからお笑いをする上での心構えを書いた気がする。そのページを開いてみた。
〈正しいことは面白い〉
ハッキリと説明できるわけじゃないが、自分の中で感覚的にそう思って書いたものだ。それ以外のページをもめくってみた。そこにはまた一文が書かれていた。
〈一人でいる時に感じる孤独よりみんなでいる時に感じる孤独の方がツラい〉
僕の中で正しい言葉だ。また、ページをめくってみた。
〈子ども電話相談室〉
これはネタの設定の候補だ。
これらがネタのヒントになるのではないか、そう思った。
また、一分という尺ならコントの方がいいかもしれないとも思った。
よく考えてみれば、とんねるず、ダウンタウン、カリカのコントに憧れてお笑いを目指しNSCに入ったのだ。そして、今はライス、池田のコントに刺激を受けているのだ。コントを書くことに決めた。
久々に再会した坂田は相変わらず明るく笑顔だ。僕は授業に出なかったことには一切触れず、何事もなかったようにネタが書かれたノートを見せた。
「あ、コントだ。いいじゃん」
なんでもポジティブに捉える坂田には頭が下がる。
ネタ見せ授業の当日。何週間か前に僕を睨みつけていた生徒たちが僕らの前に今日も座っている。
後はない。
「二人暗転板付でお願いします」
ネタ見せ前の決まった挨拶の後、僕にとって生まれて初めてのコントが坂田のセリフから始まった。
「はい。こちら、子ども電話相談室です」
「あの、なんで、一人でいる時に感じる孤独より、みんなでいる時に感じる孤独の方が辛いの?」
「ん? えっと……」
笑い声が上がった。
その瞬間、今まで生きてきた中で流れたことのない何かが全身を駆け巡った。まだネタの冒頭なのに、興奮で頭がパンクしそうだった。
二十二年間、自分なりに様々な人を笑わせてきた快感の百倍、いや、それ以上のエクスタシーを感じた。
その後もボケはハマり続け、オチまで失速することなく生徒たちを笑わせることができた。
「ありがとうございました!」
ネタを終え、自分の座る場所へ歩きながら鼻息が荒くなっているのを感じた。指先も震えてきて拳を強く握り込んだ。それでも震える拳をもう一方の手で掴むようにして隠した。
床に座ると、ついさっき起きたことが現実なのかわからないくらい頭の整理がつかなかった。感覚で言うと頭の毛穴という毛穴が全てパカーと開いている感じだ。
「ウケたな」
声が聞こえた方を向くと、坂田が目尻をクシャクシャにしてこちらに[微笑{ほほえ}]みかけていた。そこで、やっと自覚した。
僕らのコントはウケたんだ。
そこからの授業は何も耳に入ってこなかった。一つ明確に覚えているのは、授業が終わるまで僕の体は熱く熱く熱を持っていたことだ。
そのままNSCを後にした僕は西大井の駅まで歩きながら心の中で何度もガッツポーズをした。
初めてのネタ見せで盛大にスベり[瀕{ひん}][死{し}]状態だった僕は、なんとか一命を取り留めた。
車窓から荒川を見下ろし、帰りの電車でこんなにも晴れやかな気持ちでいられることに心底ホッとした。
これでまだ芸人を目指す道の上にいられる。
3
NSC入学から四ヶ月。
コントに切り替えたことで事態は好転していた。その後もコンスタントにネタ見せをして、積極的に授業に参加した。ひと月前の自分からしたら考えられない変化だった。
同時にNSCの中でのピスタチオの立ち位置も変わっていた。
NSCでは、講師から一定の評価をもらうと『選抜クラス』というコマを受講できるシステムがあり、ピスタチオはいくつかのクラスで選抜されるところまで来ていた。
夏には合宿があったが、そこでも九組しかネタができないという条件の中、なんとか出番をもぎ取り、数百人もの生徒の前で舞台に立たせてももらった。
ただ、自分の中で引っかかるものがあった。
ライスの[関町{せきまち}]と[田{た}][所{どころ}]、そして池田の存在だ。
入学早々から僕らのクラスで断トツで存在感を示している三人。ちなみに、彼らが中心となったグループがあり、正直僕はその集団をかなり意識していた。しかも、彼らは合宿に参加しないという尖りも見せていた。意識しないわけがない。
ただ、四ヶ月たっても彼らとは、話したこともなかった。一組の中で、これからピスタチオが更に目立つには、そのグループに入らなければならないと僕は[密{ひそ}]かに考えていた。
あちらがこちらを意識しているかどうかはわからない。
僕としては、意識していてほしかった。
ある日、ネタ見せを終えいつものように西大井駅の改札に入る寸前、右斜め後ろから声が聞こえた。
「村上くん」
一瞬ビクッとしておもむろに振り返ると、その声の主はライスの眼鏡の方、関町だった。
状況を呑み込み言葉を返そうとする前に、瞬間的に嬉しいと思っている自分の気持ちに気づいた。
ずっと意識していたライスの一人に声をかけられたのだ。
「あ、どうも」
僕は、あくまで平常心を装い言葉少なに返事をした。
関町は近くで見ると結構背が高くて驚いた。赤い頬の彼は年齢不詳だ。年下にも見えるし二
十二歳の僕より上にも見える。
隣に目をやると、関町の相方が仏頂面でガードレールに腰かけていた。田所だ。立っていなくても、足が短いのがよくわかった。
そして、ライスというコンビは、ビジュアルのバランスがいいなと今更ながら思った。
「ピスタチオのコント面白いね」
予想だにしていなかった関町からのお褒めの言葉だった。
「あ、ありがとう」
恥ずかしながら、嬉しかった。NSCに通い始めて、初めて人から言葉で面白いと言われた。
しかも、入学直後から一組のエリートに上り詰めていたコンビに認められたのだ。純粋に自信になった。
「よろしくね」
ガードレールに座ってずっと微動だにしなかった田所の口から発せられたものだった。
「あ、よろしく」
「よろしくお願いします」
声のする方に目をやると、天パでつぶらな黒目だけの男が立っていた。
あの、池田だった。
黒のポロシャツに、二サイズは大きいブラックジーンズ、薄汚れた白いスニーカーを履いた池田は編み目の荒いハチの巣みたいな麻の帽子を[被{かぶ}]っていた。一見、存在感が薄い印象を与えるが、実際に間近で見ると異様な空気感を纏っていた。
「うん、よろしくね」
敬語で話す池田から年下だということを知った。池田は十九歳だった。
「関町さん、これ本当にいいんですか?」
「だから、大丈夫だって」
池田が手に持っていたのは『[揖保乃{いぼの}][糸{いと}]』だった。なぜそんな状況なのか経緯も理由もわからなかったが、[素麺{そうめん}]の一束を強く握り締めるその少年の素朴な出で立ちには妙なおかしさがあった。
「マジで助かります。ほんと金ないんで」
「池田くん、なんなのそれ?(笑)」
「僕一人暮らしで家に全然飯ないんですよ」
「そうなんだ。俺実家だからなんかあったら今度あげるよ」
「マジですか⁉ めちゃくちゃ嬉しいです!」
それが池田との初めての会話だった。
* * *
夏も終わりかけた頃、僕はライスと池田と毎日のように過ごすようになっていた。打ち解けてからは、すぐに三人の笑いの感覚と共鳴し、NSC終わりには決まって[品川{しながわ}]駅港南口の広場にたむろした。
それは中高の放課後のような感覚だった。
池田のケツを蹴れば、池田は「スポッ!」と言いながら口を大きく開き、蹴られた力を口から逃がすみたいなことをした。
関町は背後に両手で無限のマークを作り「うーん、背中無限!」とギャグのようなギャグじゃないような変な遊びをした。
田所の誕生日には、生の鶏肉にホイップクリームを塗りつけ、ケーキに見立てそこにロウソクを立てて祝った。
くだらないことだけを探す日々の中、品川の駅前に四人でいることが多くなった。最初の方こそ、相方の坂田もそこにいたが、だんだんといない日の方が多くなっていった。
そんな日々を過ごしていたある日、NSCの選ばれた生徒だけが出られるライブの出演が決まった。
僕たちピスタチオは幸運にも選抜クラスでの評価から、その出演権を獲得していた。
ライブは新宿シアターモリエールという劇場で行われた。
生まれて初めての『楽屋』に心が躍った。テレビで聞いたことのある楽屋というものに自分がいることが不思議な感覚だった。
生まれて初めてのリハーサルをした。
生まれて初めて見る照明に、舞台の縁にあるフットマイクと言われるもの、初めて感じる暗転の真っ暗さ、噂に聞くバミリ。
それら全てが、自分が明らかに芸人の道を進み始めているということを証明してくれているようで胸が踊った。
開演。
最初のコンビのネタが始まった。
僕たちは舞台の幕裏で、最後のネタ合わせをしていた。幕のあちら側から、笑い声が聞こえる。嫌でも、心臓が脈打った。
ピスタチオの出番がやってきた。
真っ暗闇の中、舞台に板付く。
これが、授業で散々叫び続けてきた本物の『暗転板付き』だ。
[出{で}][囃{ばや}][子{し}]がフェイドアウトし、明転。
ネタは僕らが初めてウケたコント『子ども電話相談室』を選んだ。
「なんで一人でいる時に感じる孤独より、みんなでいる時に感じる孤独の方が辛いの?」
その言葉を言い終えると、笑い声がこちらに飛んできた。
その瞬間、これは喩えでもなんでもなく、脳が喜んだ。
アドレナリンが体中に駆け巡るとは、まさにこのことなのか。
完全に、間違いなく、脳が絶頂に達していた。
「ありがとうございましたー!」
二分のコントは、あっという間に終わっていた。
手の震えが止まらず、頭がプシュプシュと熱くなっていた。楽屋に戻ってからも周りの人間に隠すようにニヤニヤしていた。
NSCに入ってよかった。初のネタ見せで失敗し、一度は逃げかけたが、ネタ見せをしてよかった。
五年前、学園祭でお笑いの舞台ではなくコピーバンドのボーカルを選んだという、蓋をし続けてきた後悔。その供養ができた気がした。僕にとって生まれて初めての舞台は紛れもなく忘れられないものになった。
しかし、同時に僕の心の中に引っかかるものがあった。
自分はこのままピスタチオでやっていくのか?
坂田は最善の相方なのかという疑念が湧き始めていた。
ネタ見せを続けていく中で、正直坂田のツッコミに満足できなくなっていた。ようやく歩き始められたかもしれないこの芸人の道をピスタチオで歩んでいくという想像ができなくなっていた。NSCで過ごす時間は、あと半年しか残っていない。少なからず、僕の胸にはモヤモヤとしたものがはびこっていた。
ライブが終わった明くる日、池田がライブ会場のすぐ外のガードレールに腰かけ、俯き泣いていたとライスから聞いた。実は池田が組んでいたコンビはライブの出演権を獲得し損ねていて、みんながライブに出る中、自分が出演できなかったことが悔しくて仕方なかったらしい。
普段[飄{ひょう}][々{ひょう}]とした態度で本音の見えない池田が、舞台に立てなかったことで涙まで流した。それを聞いた時、果たして自分の本気は池田に[敵{かな}]っているだろうかと思った。悔し涙を流した池田は、それだけ本気だったのだ。お笑いというのは、本当にそれだけ厳しい世界なんだと年下の男から教わった気分だった。
池田が涙を流したという事実は僕の中に強く、強く残った。
それからも、ピスタチオとしてネタ合わせやネタ見せを続けていったが、いつもどこか心がふわついていた。それは、ピスタチオというコンビに対して僕の気持ちが薄れていっている表れだった。そして、恐らくそれはこれからも決して払拭できるものではないんだろうと僕は悟っていた。
そんなタイミングで思いもよらない話が僕の耳に飛び込んできた。
池田がコンビを解散するという。
胸がざわついた。
隠していたが、正直そうなったらいいなと思っていた自分がいた。
池田のコンビ解散の[報{しら}]せを聞き、それにハッキリと気づいた。
ピスタチオに疑問を感じていた僕は、池田が独り身になることを望んでいたのだ。
池田とコンビを組みたいと思っていたのだ。
僕は決心した。
坂田にピスタチオ解散を告げよう。
気持ちが固まるや否や、その日やるはずだったネタ合わせの予定を変更し、たまには呑みに行かないかと品川の安い居酒屋に坂田を誘った。酒の力を借りなければ、とても解散など告げられないと思ったからだ。
目の前でビールジョッキを傾ける坂田はいつもと同じ屈託のない笑顔をこちらに向けた。どう切り出していいかわからない。言いあぐねる時間だけ酒を呑み続け、いい加減酔いが回った。
つまみがあらかたなくなったタイミングで僕はリュックから手紙を取り出した。酔ったとて面と向かって目を合わせてしまったら、まともに解散を打ち明けられないと僕はわかっていた。だから、坂田に伝えなければならないことを紙に書いた。
「ごめん、聞いてほしいんだけど」
「ん? 何、どうした?」
「ちょっと、手紙を読むから聞いてて」
「え? ああ、いいよ」
表情を一つも変えずそう答える坂田に、僕は彼への感謝と解散の旨を伝えた。
「そっか、わかった。じゃあ、解散しようか」
「え、あぁ」
「村上の書くネタ面白いから頑張って。次組むコンビのネタ楽しみにしてるよ」
坂田はあっさりと了解してくれた。僕の言葉や気持ちを[汲{く}]んでくれての短い言葉だったのだと思う。こうやっていつも気を使ってくれていたのだろう。
ただ、坂田の本当の気持ちはわからない。もしかしたら、このタイミングでふざけるなと思っていたかもしれない。
僕も何か物申されることをそれなりに覚悟していた。けれど、坂田は反対意見どころか文句の一つも言わなかった。
正直ホッとした。
坂田は年上だが、実際の年齢差以上に僕より大人だった。
僕が生まれて初めて真正面から人前で、舞台でネタができたのは紛れもなく坂田のおかげだ。
酒に酔っていた僕は坂田の優しさを前に、この後組むコンビで少なくともピスタチオ以上に面白いネタを作っていかなければいけないなどと都合のいいことを強く思っていた。
そうして、ピスタチオは解散した。
これで、僕にもう相方はいない。ただの独り身。NSCで過ごすのも残り半年というところにきてゼロからのリスタート。一日でも早く、池田にコンビを組もうと告げなければいけない。
* * *
ピスタチオ解散から約二週間後のある日、僕は例のごとく、ライス、池田と品川駅の港南口にいた。
僕は[未{いま}]だに池田にコンビ結成を持ちかけられていなかった。
当たり前の話だが、僕が一方的に池田と組みたいと思っているだけで、向こうがどう思っているかなんてわからない。もし、池田にそんな気がさらさらなかったら? そう思うとすぐに[躊{ちゅう}][躇{ちょ}]してしまう。
僕らはこの頃、同期の仲間として毎日を過ごすグループになっている。それが、池田に誘いを断られたなんてことになってみれば、港南口はおろかNSCに姿を表すことさえ僕はできなくなるだろう。この二週間はずっとそんな思いでいた。
一方、池田は今どんな気持ちでいるのだろうか。池田も同じくらいの時期にコンビを解散していた。それでも、一人でのネタ見せをするわけでも、他の人間とコンビを組むような動きを見せるわけでもなく、今まで通り僕たちとNSCに通い続けている。
これといった行動をずっと取らない池田に、僕は違和感を抱いていた。入学早々、ロケットスタートを切り、授業で常にインパクトを与え続けてきた男。ライブに出られなかったことで悔し泣きをするほど笑いにかけている男。僕がコンビを組みたいと思っている男がこの数週間何もしないことが不可解でならなかった。
そんな思いを抱いていたら、駅前の広場でライスの田所が口を開いた。
「ねぇ、村ちゃんと池田、コンビ組まないの?」
まさかの角度からその話題は持ち上がった。
「え? いや……」
田所の突然の発言に対してすぐに言葉が出てこなかった。池田も同じようだった。
「いや、組むんだろうなって思ってたんだけど。なんか、全然だから」
田所は解散後、それなりに時間が経っているのにもかかわらず何も動かない独り身同士の二人を横で見ていて、[痺{しび}]れを切らしたのだろう。
「え? どうなの?」
「いや、組みたい……ね」
「俺も、はい。組みたいすね」
「え、そうなんでしょ? じゃあ、組めばいいじゃん」
この二週間はなんだったのかというほどに、呆気なく決まった。
おせっかい女子のような田所の言動により、僕と池田はコンビになった。
4
ついに、池田とコンビを組んだ。
僕らが一番初めにしなければならないこと、それはコンビ名を決めることだった。品川駅の港南口の広場で、僕と池田はNSCに提出するコンビ登録のための白い紙と睨めっこをしていた。その横には一体どんな名前にするのかとニヤニヤするライスもいた。
コンビ名に正解などない。変な話、なんでもいい。ただ正解がない分、どうしたらいいか決め手に欠けるところがある。あーでもないこーでもないと決めあぐねている中、僕らを見守るライスを見て、二ヶ月ほど前にこのグループで参加した合コンを思い出した。
「みなさんは何されてる方々なんですかー?」
「えっと、僕ら劇団やってて」
「えー、すごいー」
僕は、気づくとそう答えていた。ただ、田所、関町、池田は何も言わずに続けた。
「そうなんだよね」
「まだ小さな劇団なんだけどね」
「そうそう」
なぜだか四人の息は合っていた。芸人ということで珍しがられて余計なことを聞かれたくない、この後の会話においてハードルを上げられたくない、などそれぞれの思惑があったのだと思う。いずれにせよ四人の足並みは[揃{そろ}]っていた。
「なんて劇団なんですか?」
「……うん、『[時雨{しぐれ}]』っていうんだけど」
僕は咄嗟に架空の劇団名を答えた。そこからの記憶は特にない。苦し紛れの演劇集団宣言以外に、女子たちにこれといったパフォーマンスも見せられないまま会はお開きになったからだ。
ライスの顔を見て、その時のことを思い出した。決めきれないでいるなら『時雨』でもいいかもしれないと思い紙に書き出してみたが、若手にしてはさすがに渋すぎる気がした。でも、和風な名前はいいなと思った。すると、池田が口を開いた。
「『ソニック』とかは、どうすかね?」
僕は、聞こえていないふりをした。池田もそれ以上は特に口を出す雰囲気は見せなかった。このまま、自分の案で押し通せると思った時に、時雨に似た『しずる』という言葉が思い浮かんだ。[原{はら}][宿{じゅく}]にある定食屋の名前だ。行ったことこそなかったが、自分の中でその名前の響きがずっと残っていた。コンビ名としてちょうどいい違和感がある気がした。
僕はコンビ名の欄に『しずる』と書いた。特に池田は反論しなかったが、決して満足そうな顔はしていなかった。ただ、僕は敬語を使う三個下の池田にほぼ有無を言わせず、これにしようと言った。そして、そのままその白い紙をNSCに提出した。
僕と池田は『しずる』というコンビになった。
コンビを組んだ僕たちは、次の日もいつものように品川に集まった。ライスを含めいつものメンバーでいるのにもかかわらず、どこかくすぐったい。気の合う同期の仲間から、ある日を境に池田が相方になった。これが友達同士からコンビになるという感覚なのか。同期の友達としての池田はもういないのだ。
しずるになった僕たちがまず突破しなければいけない関門はネタ見せだった。池田の前のコンビも、ピスタチオもネタ見せではそれ相応の評価を得ていた。だからこそ、しずるとして初となるネタ見せはとても大事なものだ。ここに来て、しずるが面白いと認識されなかったら、コンビを組んだことが無意味、いやそれ以下になってしまう。結果が出なかった時のことを想像したら、ゾッとした。失敗は許されない。
そのネタ見せの舞台となるのは[渡辺{わたなべ}][鐘{あつむ}]さんの授業だった。
[ジ{*}]ャリズムのボケ、ネタ作り担当であり、『めちゃイケ』の作家も務める、後の『世界のナベアツ』さんだ。
僕はジャリズムのコントが大好きだった。
その鐘さんにしずるの初めてのコントを見てもらえる。これほど光栄なことはない。ただ、それと同じだけ不安もあった。この人に面白いと思ってもらえなかったら、コントをやる人間として死に値する。僕にとって、鐘さんはそれだけの存在だった。
その大事な授業のための池田と初めてのネタ合わせ。
ネタ作りを始めて四時間後、ノートは真っ白のままだった。僕も池田も以前のコンビでネタを書いていたため、なんとなく二人で作る流れになり、今に到っている。結局、そのノートには一文字もセリフが書かれることはなく、その日は別れた。
次の日も同じだった。次の日も、その次の日も。
その結果、何もできぬままネタ見せの前日を迎え、僕は[保土ヶ谷{ほどがや}]で一人暮らしをする池田のアパートにいた。しかし、それまでと同じ調子でなんのネタもできず、気づけば時計の針は深夜0時を回っていた。
授業まであと数時間。しずるはコンビ結成早々に大ピンチを迎えていた。
ネタ作りが煮詰まりに煮詰まる中、僕は一つの設定案を出した。池田は、じゃあ合わせながらやってみようと言った。それが、僕らがようやくこぎつけたネタ合わせのとっかかりだった。
池田と組んでみて初めてわかったが、お互い、とにかくプライドが高い。相手の意見に簡単には首を縦に振らない。その結果、ネタが全くできず何日もの時間が無駄に流れた。
しかし、さすがに明けて今日にはネタ見せの授業があるという状況では、池田も首を縦に振らざるをえなかったのだろう。しずるの初めてのネタは立って合わせながら作っていった。
僕の意見は簡単には通らなかったし、池田の提案に僕は基本的には難色を示した。相手に100%は委ねない、そんな空気が二人の間にはずっとあった。
それでも、ネタは明け方になんとか完成した。正直諦めかけもしたが、ネタが間に合ったことに心底ホッとした。そして、木造アパートの窓から差し込む朝の光に体を照らされ、「ここは今トキワ荘だ」と酔いしれている自分がいた。
できたてほやほやのネタを抱え、池田の住む保土ヶ谷から初めて[横{よこ}][須{す}][賀{か}][線{せん}]の上り電車に乗り、眠い目を擦りながら西大井へと向かった。
しずるにとって大事な初陣となる授業が行われる教室で床に座り待っていると、鐘さんが恐縮するように入ってきて席についた。一気に緊張感が増した。授業が始まり、生徒たちが続々とネタを見せていった。そこに、ライスの姿はない。ライスは選抜クラスに入っていたからだ。改めて、僕らは新米コンビとして生き急がなくてはいけなかった。そして、僕らの出番がやってきた。
しずる初のネタ見せ。
いざ、鐘さんの前に立つと、他の講師にはない柔和な表情が見えてホッとした。と、同時にこの人に面白くないと思われたらしずるは終わるぞと膝が震えた。
それは、とんでもなく怖いことだ。
僕と池田が組んだことが正しかったかどうかが試される。
結果によっては、最悪な未来を迎える。
二人して、絶望的に間違った選択をしているかもしれない。
僕らは、ついさっきできたしずるのコントを披露した。
「うーん、おもろいなぁ」
それが、しずるのネタを見た後の鐘さんの第一声だった。
悪い想像はいくらでもしたが、池田と組んだことは間違っていなかった。そう思えた。
その日の授業終わり、西大井の駅へと向かう足はそれはそれは軽やかなものだった。
その翌週。
NSCの掲示板に貼り出された「渡辺鐘授業選抜クラス」という紙には『しずる(追加)』と書かれていた。
5
NSCに入学して半年以上が経ち、謎が多いこのお笑い芸人養成所学校がどういうところなのかだんだんわかってきた。
入学してすぐに池田を知るきっかけになった『エクスプレッション』は、いわゆる感情表現を養うための授業で、経歴の全くわからない赤い鼻のおっさんと竹刀を手にぶら提げた茶髪ロン毛のおっさんによって行われていた。
半年以上経っても、この授業の必要性は[見{み}][出{いだ}]せないでいた。ただ、卒業するためには、必要授業日数というものがあり、やむなく受けるしかなかった。ここは、お笑いの『学校』なのだという。
「はい、[中{ちゅう}][笑{わら}]い!」
竹刀を床に叩きつけながら茶髪がそう言うと、生徒はそれに従い自分なりのイメージで中くらいの大きさで笑う演技をしなければならなかった。大中小の笑い方を身につけるためにこの学校に入ったわけではない。しかし、僕らは茶髪の仰せのままに大きく笑ったり小さく笑ったりを繰り返した。
「よーし! [大{おお}][笑{わら}]い終わりー! おぉー、[森{もり}][田{た}]ー! お前、よくやったなー! 最後、いっちゃったなー」
耳を疑った。大笑いと言われ、同じクラスの森田が自分の中でマックスの大笑いをやり切ったのだろう。その様子を見て茶髪は森田に「いっちゃったな」と言ったのだ。
大の大人が成人男性に謎に声を荒らげさせ、訳もわからぬ価値基準で評価をする。その、あたかも演技のなんたるかを教えてやっているみたいな傲慢さとその賞賛の言葉選びに嫌気がさした。
それは、気持ち悪い授業の最も気持ち悪い瞬間だった。そんな言葉、絶対に言われたくない。授業が終わり、改めてあと何回この苦行を終えたら卒業必要日数を満たせるのか、その後に残りどれだけサボれるのかを計算した。
ちなみに、エクスプレッションが行われる火曜日は最悪の日で、『エクスプレッション』の他に『ボイス』という授業もあった。これは読んで字の[如{ごと}]く、発声や滑舌を覚える授業だ。芸人にとって発声や滑舌は重要だ。[勿論{もちろん}]、やろうとしていることは理に[適{かな}]っている。
しかし、その授業内容は、やはり特殊なものだった。
「おい、口開けろ。おう、息吐け。クッセェな、お前。帰れ!」
高圧的な授業のスタッフ(元NSC生)は目の前の生徒にそう[凄{すご}]むと、授業開始と同時に全員の口臭をチェックしていた。しかも、生徒が開いた口の前まで本人が鼻を持っていき、直接嗅いでいる。地獄絵図だった。
バチン!
「おう、そんなエチケットのなってねえヤツは帰らせろ!」
その声の主は、手から竹刀を垂らした青グラサンの茶髪だ。待て、ここもこいつか。
嘘みたいな話だが、ボイスの授業は口臭の有無によって参加の許可が出された。
「じゃあ、二十三区!」
これは、東京二十三区を生徒全員で一斉にあいうえお順に言っていくというもの。
「足立、荒川、[板橋{いたばし}]、[江戸{えど}][川{がわ}]、[太{おお}][田{た}]、[葛飾{かつしか}]、[北{きた}]、[江東{こうとう}]、品川、[渋{しぶ}][谷{や}]、新宿、[杉並{すぎなみ}]、[墨{すみ}][田{だ}]、[世田{せた}][谷{がや}]、[台東{たいとう}]、[中{ちゅう}][央{おう}]、[千代田{ちよだ}]、[豊{と}][島{しま}]、[中{なか}][野{の}]、[練{ねり}][馬{ま}]、[文{ぶん}][京{きょう}]、[港{みなと}]、目黒!」
「はい、オッケー」
一つもOKなことはない。ボイスの授業なのになぜかこれを全て覚えなくてはいけないのだが、なんのために覚えるのかが全くわからない。
ただ、東京生まれの僕も二十三区をあいうえお順に並べたことなんてなかったから、これをきっかけに「二十三区って五十音順の前半に割と詰まってるんだな」と初めて知った。でも、その気づきが茶髪に与えられたものだと思うと、なんだか腹が立った。
その他にも、変な授業はいろいろとあったが、ラッキィ[池{いけ}][田{だ}]さんのダンスの授業もとても変わっていた。
「チ◯コ! チ◯コ! チ◯コ! チ◯コ!」
と、大声で叫びながら百人もの男子が横に広い鏡張りの教室にすし詰めになって、ムチャクチャなダンスを踊った。そんな授業を毎週月曜の午前中に受けた。
様々な講師がいる中、僕が必ず出席しようと思わせてくれた講師が二人いた。それは、まず渡辺鐘さん。
そして、もう一人は木村祐一さんだ。
木村さんの授業はネタ見せとはいっても、いわゆる漫才やコントなどのネタを披露する場ではなく、トークや大喜利などネタとは別の実戦的なものが試される授業だった。そんな木村さんの授業は月に一度やってきた。
この授業に関しては、まったくの個人戦だったので、入学当初相方のいなかった僕も最初から参加できていた。コンビも組んでいなければ、ネタ見せもできなかった頃の僕は焦りを募りに募らせていたから、この授業がなければ心を保てていなかったかもしれない。
僕には、木村祐一という現役芸人に対して圧倒的信頼があった。
正直な話、有名な芸人さんだからというミーハー心もあったし、怖い人というパブリックイメージに対して本当はどんな人なのか、という興味もあって参加していた部分もある。
実際、木村さんの授業を受けてみると叱咤するその奥に隠れる優しさが感じられた。
そして、授業に出続ける最大の理由はそれまでの授業で木村さんから三回ほどMVPという称号をもらっていたからだ。木村さんの授業は、僕にとって月に一度の[生{い}]き[甲斐{がい}]になっていた。
そんな木村さんの授業がしずるを結成した直後にまたやってきた。
「お、村上と池田組んだんや。だから、池田がおるんか」
授業の頭でそう言われた僕は鼻が高くなっていた。なぜなら、木村さんの授業は先の通り個人で評価がされるもので、選抜クラスに選ばれるためには木村さんからもらえるポイントをある規定まで獲得できているか否かが条件になっている。
そして、選抜クラスに選ばれた人間がコンビだった場合、その相方も自動的に選抜クラスに上がれるというシステムだ。すなわち、池田は僕と組んだことによって、初めてこの選抜入りを果たしていた。
池田と組んだことでコンビとして対等な関係になったが、元々ライスや池田の早くからの活躍を羨ましく見ていた僕は当時から何クソと思っていた。その後に仲のいいグループになったわけだが、池田に相方として「ここの授業の丸印を一つ俺は持っているんだぞ」という意地みたいなものがあり、「この授業においては俺のが優秀なんだぞ」ということを誇示したかった。
にもかかわらず、池田を引き連れたその日、僕も池田も木村さんからポイントを一つももらえなかった。
* * *
冬に入る頃、しずるはライスと同じネタ見せの授業を受けるようになっていた。大体の選抜クラスにライスが入っている一方で、結成したばかりのしずるは、全て下のクラスからのスタートだったので、当初ライスとは授業で全く一緒にならなかった。それが、なんとかライスと共にネタを見せられるところまでには辿り着けた。
NSCでの生活もあとわずかになってくると、生徒たちの交流も盛んになり、クラス間の垣根もなくなってきた。入学早々の喫煙所にはびこっていた生徒同士の虚勢を張り合う空気もどこかへ消え去っていた。
選抜に入って他のクラスを気にするようになり、いろいろな芸人がいることを知った。
ハイアンドローの華には驚かされた。
木村選抜でちょくちょく話してはいた二人ともやたらデカい[囲碁{いご}][将{しょう}][棋{ぎ}]も、ちょっと突っ込んで喋ってみればバカでいいヤツらだった。
同じタイミングで鐘さんの選抜に入ったガッチャもアホ三人で愉快なヤツだった。
ネタを見て気になっていたスピンシティも楽しいヤツらだった。
入学してからすぐすごいと噂になり掲示板に書かれたコンビ名しか知らなかったオオカミ[少{しょう}][年{ねん}]や[天{てん}][狗{ぐ}]も話してみればみんないい兄ちゃんだった。
会うまでに一番謎が多く、情報が限りなく少なかった[昼{ひる}]メシくんともようやく話すことができた。昼メシくんはタートル[比嘉{ひが}]さんと同じくらいのインパクトがあった。
ミュートスもアレルギーズも[瓶{びん}][詰{づ}]めの[詩{うた}]も[伝説{でんせつ}]の[指{ゆび}]もみんな、個性的だった。
それと、これは自分でも驚いたが、入学早々の四月に喫煙所のソファーの背もたれに両手をドーンと広げ大股を開きくわえタバコで「俺が素人の時にさ~」と大口を叩き、周りに嫌悪感しか与えなかった、あの[北{きた}]まくらの[山{やま}][田{だ}]とも普通に話すようになった。
そして、同じクラスのピン芸人の[竹内{たけうち}][大{だい}][納{な}][言{ごん}]ターボαや[緊{きん}][張{ちょう}]してます[君{くん}]も頑張っている。
最初は得体のしれないヤツらと敵視していたが、同じ時間を過ごすうちに「お笑い芸人になる」という同じ目標を持った同年代の仲間だと思えるようになっていた。
そんないろんなヤツらがいる選抜クラスの中でも段違いに存在感を放っていたコンビがいた。
「漫才、明転飛び出しでお願いします!」
向かって右の方から女子の声が聞こえ、そちらに目をやった僕は、ビックリして目を見開いた。
灰色の歯を一本だけ突き出したガリガリのショートヘアの女子。
ふくよかな体型に、デザインというデザインが一つも施されていないメガネをかけたおばちゃん。
彼女らはハリセンボンと名乗った。
彼女たち(?)が教室の中央に駆け出してきて、漫才を始めた。
そのビジュアルから受けた衝撃はもちろん、二人がやる漫才にとにかく驚かされた。
ネタが始まると、高く小さな声で飄々とボケていく[箕{みの}][輪{わ}]。それに対し、[近藤{こんどう}]がその何倍もの声量と男性口調で次々にツッコんでいく。
観終わった後の感想がここまで多いネタには、それまで巡り合ったことがなかった。
まず、大前提として面白い。自分も含め、周りの人間も声を出して笑っていた。
そして未だかつて見たことのない漫才だった。地味な文化系女子の雰囲気を纏っている二人が醸し出す頼りないはずのオーラとネタの分厚さのギャップ。
箕輪が囁く全てのボケの面白さ、近藤のパワフルで、ワード自体も強いツッコミ。
全ての武器がまとまってこっちに襲いかかってくる感覚があった。
ハリセンボンのネタを初めて見終わった後、僕は興奮していた。他の同期に対してだったら嫉妬に燃えていたと思うが、ハリセンボンに対して抱いた感情は違った。学生時代に深夜のテレビで面白い若手芸人を見つけた時のようなあれだ。面白すぎて爽快な気持ちになった。
しかし、衝撃はその後にも待っていた。
「近藤の『~じゃねーか!』ってツッコミの口調が男っぽすぎるかな」
ネタ終わりのダメ出しで講師に言われた近藤は「わかりました」と小さく呟きながら自分の場所に戻っていった。
次の週の土曜日。
「この町、おひたしばっかじゃねーか!」
驚いた。近藤は変えなかった。いや、箕輪だってあのダメ出しを隣で聞いていたはずだ。結果、ハリセンボン二人が変えなかったのだ。
講師のアドバイスを無視した近藤のツッコミは改めて面白かったし、箕輪のボケはそれと相乗効果でより面白く聞こえた。
お笑いという正解がないものを教えるNSCという学校では、講師の話を聞くも聞かないも自由だ。ただ、講師も生徒もみんなそれぞれのかたちで本気だった。
6
年を越し、気づくとNSCももうすぐ卒業の時期を迎えていた。卒業するための出席日数は無事確保できていたのでネタ見せ以外の授業は、もう受けていなかった。
いつもの喫煙所では、卒業に向けて同期のみんながどこかしら色めき立っている気もした。掲示板に張り出される告知も増えてきた。卒業するための出席日数の確認事項や、各授業の最終日など、二階のロビーは年度末感に満たされていた。
そしてついに、掲示板に卒業オーディションライブの開催を告知する紙が貼り出された。
確認すると、僕たちが四月から芸人としてデビューする前に、まずそのライブによってふるいにかけられるようだ。一日三部制で予選となるライブが行われ、それを通過できた三十組ほどの者たちが後日行われる本戦のライブに進むことができるのだという。
そして、その本戦の上位数組だけが、あの『ルミネtheよしもと』の舞台に立ちデビューができる。
約一年前、入学式で客席から見上げていたあのステージだ。それを考えると身震いがした。
ちなみに、その時点で在学するNSC生は入学当初から数えて半分以下になっているらしかった。それでもまだ二百人以上の生徒たちが残っている。そこから、実際にルミネの舞台に立てる人間はどれだけいるのだろうか。
その次の日、スタッフから卒業オーディション予選ライブのチケットが配られた。一枚千八百円、コンビで計六枚。殺生なことに買い取り制ということだ。僕ら生徒たちにはもちろん、ファンなど一人もいない。僕たちは全員が素人なのだから。家族や友達に買い取ってもらう他はない。苦労することになるだろうが、僕は東京出身で今もなお東京在住なので、周りの人間に声をかけたらなんとかなるだろう。池田も埼玉出身なのでチケットを[捌{さば}]く条件としては悪くないはずだ。
大変なのは上京組だ。東京近郊に知り合いがいる人間がどれだけいるものか。関東の人間より不利なのは明らかだ。ライバルといえど、さすがに同情はする。そんな中、二人共に東京出身のライスが容赦のない行為に手を染めた。
その予選ライブは客票が反映されるものだった。すなわち、知り合いを呼べば呼ぶほどその数だけの票が確約され有利になる。
ライブの制度をそう理解したライスが動くのは早かった。チケット売りに苦難しそうな人間に片っ端から声をかけチケットを買い取っていった。僕は田所と関町のその姿にダフ屋を重ねた。ここまでくると芸術的なまでの正面突破だ。しかし、その行為はルール的にはなんの問題もない。ただ、明らかにマナー違反だと思った。かの[甲本{こうもと}]ヒロトは言った。
「ルール破ってもマナーは守れよ」
ライスは一生、ブルーハーツにはなれない。
マナー違反をした結果、ライスは四十枚以上のチケットを売り捌いた。会場のキャパが百
八十席なのでどう考えても、上位十組には入る計算だ。しかも、他にそれだけのチケットを捌いた人間はいなかった。そう、ライブ当日を迎える前にライスの予選通過は確約されたのだ。
そして、とうとう勝負の日を迎えた。会場は新宿モリエール。池田が半年前にそのビルの前のガードレールに腰掛け、涙を流したあの場所だ。池田にとってのリベンジをしずるで果たすしかない。
楽屋に入ると、みんなNSCにいる時と顔つきが違う。それを見ていると、嫌でも緊張感が増した。
少し落ち着こうと喫煙所に向かうと、見たこともないほどの煙が灰皿から天井までを占領していた。楽屋に戻ると、開演どころか開場すらしていないのに僕はコント衣装に着替え始めた。横を見ると、池田もまた同じだった。
ほどなくして、ライブは開演した。運命は神のみぞ知る。池田とこれまでしたことがないくらいネタを合わせた。授業でもウケたネタだ。大丈夫。何度も自分に言い聞かせた。
すると、客席から舞台を隔てて笑い声が聞こえてきた。少しホッとした。お客さんは面白ければ、笑ってくれる。
次のコンビの出番になった。芸人がネタをする声だけがこだまして、それ以外の声は聞こえてこない。恐ろしい気持ちになった。初めて人前で披露したネタ見せのトラウマが[蘇{よみがえ}]った。今この瞬間、舞台上に自分がいることを想像したら、心臓が締めつけられるように胸がギューっとした。下腹部もこれ以上ないくらいに縮み上がった。そんな様々な感情に振り回される僕を尻目に、どんどん、どんどんと僕らの出番が近づいてきた。
舞台脇から舞台袖までの細い動線を幕に体が触れぬようつま先立ちでそろりそろりと歩いていく。袖に着くと僕らの前のコンビがネタをやっていた。
僕らの出番まで、あと一分ほどだ。今回披露するのは『組体操』というネタで、授業でもウケていたから大丈夫だ。そう思っても心臓が高鳴る。
舞台の方から「ありがとうございました!」という声が聞こえてきた。音楽が鳴り、舞台がいろんな色の照明で煽られている。僕らの出番の合図だ。音楽のボリュームがゆっくりと小さくなっていき、鳴り止んだ。その瞬間、照明も変わり舞台が完全に明るくなった。僕と池田は舞台中央へと駆け出し、コントの体勢に入る。僕の第一声でコントは始まった——。
「ありがとうございました!」
ネタを終え、舞台に出る時とは逆側の袖へと僕らはハケた。指を震わせ興奮したまま楽屋に戻るとその解放感からぐったりとした態勢でそこらへんの椅子に座り込んだ。
ウケた。
間違いなく、ウケた。息を整えながら、心の中で何度も呟いた。ツカミから順調にネタを運び、どのボケも外してなかったと思う。ぎゅーと目を[瞑{つむ}]り、喜びを[噛{か}]み[締{し}]めた。自分の憧れたお笑いの世界で勝負の舞台に立ち、確かな手応えを感じるなんて夢みたいだ。NSCに入ってよかった。心からそう思った。
* * *
ライブから三日後。NSCのロビーは同期たちでごった返していた。全員が全員、掲示板に群がっている。そこには、先日の予選ライブの結果が張り出されていた。高校の合格発表の時のドキドキ感を思い出す。ホッとする者、浮かない表情の者を後ろに見送り、とうとう順位が書かれた紙の前まで辿り着いた。意を決して、自分たちの出た二部の順位を上から確認する。
四位 しずる。
「よしっ」今一度、順位を確認する。そこには確かにしずるの三文字があった。生き延びた。後ろの人間が待っているので、その群がりから外に出た。例によって、指が震えている。改めて、僕は喜びを噛み締めた。まず、第一関門突破だ。
そんなホクホクとした気持ちでふと横に目をやると、田所の横顔を見つけた。絵に描いたようにピタッと静止した綺麗な真顔だった。表情が全く読み取れない。魂が抜けているようにも見える。しばらくすると、田所が僕に気づきこちらに一直線にやってきた。
「落ちたんだけど」
「え?」
僕は耳を疑った。あの四十票以上が確約されていたライスが落ちた?
慌ててライスの順位を確認しに行くと、『十四位 ライス』と書かれているのを見つけた。目を疑った。しかし、ライスは完全に落ちていた。気まずい気持ちで田所のもとへと戻ると、田所が口を開いた。
「俺らの知り合い、すげー公平なヤツらだったわ」
「あぁ……」
「いい友達に恵まれたわ」
それはそのままの意味にも聞こえたし、皮肉にも聞こえた。
確かに自分がライスの知り合いの立場だったら、数十組のネタを見た後にライスを[贔{ひい}][屓{き}]するのは[邪{よこしま}]に感じるかもしれない。投票する際に[葛藤{かっとう}]するかもしれない。むしろ、甘やかしてはいけないと厳しくなるかもしれない。本当に面白いと思った人に票を入れたくなるかもしれない。
[下手{へた}]をすれば、システムの悪用と捉えたかもしれない。
実際、どういう作用が働いたかは知らないが、ライスの知人たちのうち、結構な人数がライスに票を投じなかったということだ。
そこに、自分たちの結果を見た関町の姿も目に飛び込んできた。もはや、一周回ってちょっと笑っていた。あまりの事態に、自分のことを客観的に見てしまったのだろう。わかる。申し訳ないが、正直僕も笑うのを堪えていた。
池田が田所に駆け寄り、優しく声をかけた。田所は終始、首を横に振っている。
ライス、お疲れ様。
そんなこんなで、しずるはライスの敗戦を受け卒業オーディションの当日を迎えた。泣いても笑っても、これがNSC最後の一日。その日はやたら寝覚めがよく気持ちのいい朝を迎えていた。脳もこの日にしっかりと反応していたのかもしれない。完全にやる気が[漲{みなぎ}]っていた。
僕は「二人して気合を入れていくぞ」という気持ちを共有しようと朝イチで池田に電話をかけた。それと同時に池田から借りているエレファントカシマシのアルバムを引っ張り出し、CDをコンポにセットした。
「あ、もしもし。どうした?」
「今日、頑張ろう」
「あ、うん」
僕はコンポの再生ボタンを押しそのスピーカーに携帯電話の通話口を当てた。そこに吸い込まれるように『はじまりは今』が流れる。
「はじまりは今 僕らの目の前にある
迎えに行こう 明日ある限り
いつもの町が 鮮やかに見えたのさ
迎えに行こう 僕らの夢を」
僕は携帯を再び、耳に当てた。
池田の反応を待つ。
「え? どういうこと?」
顔から火が出た。それはそうだ。池田からしたら、早朝に突然電話が鳴りそれを受けると、なんの前触れもなく相方にいきなり自分が貸したCDの中から一曲聴かされているわけだ。
言い訳ではないが、僕としては池田の好きなアーティストのはじまりにかけた曲を聴いてもらい互いを鼓舞しようと思ったわけだが、冷静に考えたら、それはただの独りよがりでしかない。
池田の反応が正解で、僕がしたことはただただ恥ずかしい行為だった。僕はバツが悪くなり誤魔化すように言った。
「あ、えっと、忘れて。じゃ、今日はよろしく」
「え……? あ、うん」
電話を切り、僕は動揺した。大事な日の大事な朝に、相方とボタンを掛け違えてしまった。自分で[蒔{ま}]いた種だが、コンビとして足並みが揃っていない。けれど、すぐこの後、会場に向かわなければならない。自らピンチを作ってしまった。
卒業オーディションライブが行われる『スペース107』に到着。池田と合流するも今朝のことがあったため、こちらから勝手にギクシャクした。ネタ合わせをするも気もそぞろ。不穏な空気が自分の体に纏わりついているのを感じた。
気持ちも整わない中、ライブは開演。正直、メンタル的な準備はできていない。しかし、僕らの出番はやってきた。
懸念を[跳{は}]ね[除{の}]けようと第一声から必要以上に声を張り上げた。不自然だったのだろう。そもそものネタの選択が悪かったのかもしれないが、客席からの返りが悪い。焦った僕は明らかに速いペースでネタを進めることになった。本来のテンポを失ったネタは客を置いてけぼりにしていった。そして、ネタは終了。手応えは全くなかった。僕たちはやってしまったのだ。
全組のネタが終わり、僕はずっと楽屋で[項{うな}][垂{だ}]れていた。こんなはずじゃなかった。やりきれない思いでいっぱいだった。
すると、舞台上を映すテレビモニターからとんでもない笑い声が聞こえてきた。自然とそちらに目をやると、コンビニ店員姿の二人がコントをしていた。気持ちいいくらいに、ボカンボカンとウケていく。僕らNSC生とウケ方の次元が違った。ついさっきまで目の前にしていた同じお客さんの反応とは到底思えなかった。
そのコンビのネタが終わると、また次のコンビがコントを披露した。こちらもあり得ないほどのウケだった。目まぐるしい展開に目まぐるしいほどのウケ方。二組のネタが終わる最後の最後まで、[呆然{ぼうぜん}]とモニター画面を見つめていた。
僕は楽屋に貼られたライブの進行表に自然と吸い寄せられ、誰が舞台に上がっている時間だったのかを確認した。
そこには『卒業生ネタ』と二組のコンビ名が書き記されていた。
・[ア{*}]ームストロング
・[コ{*}]ンマニセンチ
誰と誰だ。そんなコンビ名は見たことも聞いたこともなかった。ただ、見たことも聞いたこともない二組があれだけウケていたことが恐ろしかった。ライブであれだけウケる人たちがなぜテレビに出ていないのか。
同期に差をつけられたその矢先、圧倒的なまでの爆笑を掻っさらった世間から名も知られていない先輩の存在を知った。
僕らはこれからこの人たちを蹴落として初めて世間に知られるステージに上がれるのか。吉本興業の芸人の層の厚さとはここまでのものなのか。
NSCの卒業オーディションライブなんて、吉本にとっては下も下だ。それを思うと、絶望的な気持ちになった。
四月からのルミネ出演への切符を手にするコンビが発表されるエンディングの中、僕は舞台上にただ抜け殻として立っていた。両手を重ね、合格を願うポーズなどする資格もないし、できるわけもさらさらなかった。
緊張を煽るドラムロールも、グルグル回るカラフルな照明も、僕には関係のないものだった。何かの発表でこんなに緊張しなかったのは生まれて初めてだった。
卒業オーディションライブが終わり、それと同時に僕のNSC生活も終わった。今朝『はじまりは今』をかけた時は、これほどまでの喪失感を抱えて家路に着くなんて夢にも思わなかった。抱えたくもなかった現実を抱え、会場を後にして駅に向かっていると、突如後ろから、誰かの声が聞こえた。
「すみません!」
振り返ると、一人の若い女の子が立っていた。
「あの……しずるさん、すごく面白かったです」
「あ……え、ありがとうございます……」
「四月からもまた頑張ってください!」
そう言うと、その子は僕に手紙をくれ、小走りでそそくさと駅の方へと向かっていった。
その背中を見送り、思った。
どうしていいかはわからないが、四月から僕は芸人になるんだ。
*カリカ(2011年解散)
*ジャリズム(2011年解散)
*アームストロング(2014年解散)
*コンマニセンチ(2017年解散)
試し読みはここまでです。
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