【期間限定 無料 公開中】 パーフェクト太郎

※制作途中の試読用原稿になります。実際の商品とは異なる可能性がございます。

 

 第一章

 

 川の水に浸した右腕は、まるで枯れ枝のようだった。

 老婆は傷んだ着物の袖をまくり直し、洗濯をつづける。

 無意識に空想してしまうのは、いつものことだった。川を泳いでいる魚や、傍らに咲いている花や、飛び跳ねている虫の名を、小さな子供に教えている自分の姿を。

 抱えた哀しみが溜め息となって吐き出され、水面に落ちた。

 もしもあの子が生きていてくれたなら――。

 老婆は、川を逆流させるように視線を送り、上流にそびえる山を眺めた。

 いま、あの山で柴刈りをしているはずの夫もまた、同じ想いを抱えているに違いなかった。

 また今日も、無意味なことを考えてしまった。自然と苦笑が洩れた。自分には愛する夫がいる。それだけで充分に幸せなのだ。

 老婆は洗濯板に目を戻す。しかしすぐにまた上流を見た。

 謎の物体が、目に留まったからだった。川の水面に浮かんだそれは、緩い流れに従ってこちらに近づいてくる。桃によく似ているが、それにしては大きいようだ。かぼちゃやスイカ、いや、それ以上の大きさだ。

「大きな桃」。そんな漠然とした言葉でしか呼称することができない奇妙な物体は、川の湾曲した箇所から投げ出されるようにして、玉砂利の川辺に乗り上がり、老婆の目の前で停止した。

 まるで意思を持ち、老婆の元にやって来たかのようだった。

 

   *

 

 あれを持ち帰るのは楽ではなかった。

 背中に背負える籠などは持ち合わせていなかったため、洗濯板や濡れた衣服といっしょに、桶に載せて運ぶしかなかった。途中で何度も休憩を取って、腰を休めなければならなかったが、なぜだか、置いて帰ってしまおうとは一度も思わなかった。

 

 老婆は、弱くなってしまった陽射しの中に洗濯物を干し終えると、夫の帰りを待った。

 あの「桃」はいま、ちゃぶ台の上に載っている。ときおり顔を近づけてみたり、軽くつついてみたりはするものの、それ以上のことはできずにいた。

 やがてがらがらと引き戸が鳴り、夫が帰宅した。

「ただいま」

 老婆は振り返って笑顔を向ける。

「おかえりなさい、おじいさん」

 夫は籠を背負っており、その中には木の枝や枯草が入っている。若い頃は籠いっぱいに詰めて帰って来たものだが、老人となったいまではそうもいかないみたいだ。

 いや、そんなことより――。

「どうしたんですか? その手ぬぐい」

 夫の肩にかかっている手ぬぐいの一部分が、赤く染まっているのだ。

「ああ、鎌でちょっと手を切ってしもうてな。歳には敵わんわい」

 夫は快活に笑った。

「手当てしましょう」

「いや、大丈夫じゃ。もうとっくに血は止まっておる」

 言いながら、夫は籠と鎌を[三和土{たたき}]に下ろした。

「そうですか……」

「おや? 何だい、それは」

 夫はちゃぶ台の桃を指さす。

「川で洗濯をしていたら流れてきたんです。こんなに大きな桃は初めて見たものですから、つい持って帰ってきてしまいました」

「桃、か。たしかにそう見えなくもないなあ」

 夫は草履を脱いで、畳に上がってきた。

「切ってみましょうか」

 老婆は包丁を手に取る。

「そうじゃな。うむ、わしがやろう」

 夫は包丁を受け取ると、その刃を桃の割れ目にあてがい、慎重に引いていく。いちど桃から刃を離した。そしてまたあてがい、包丁を引く。

 何もそこまで用心しなくても、と感じたが、老婆は何も言わなかった。

 夫は幾度もその動作を繰り返す。やがて上面の割れ目は、裂け目に変わっていた。

「ん? 中が空洞になっておるようじゃ」

 夫は裂け目に両手の指を引っかけ、左右にひらく。桃はあっけなく、真二つに割れた。

 その瞬間、老婆は目を瞠った。

 なんとそこには、赤ん坊が入っていたのだ。

 まるで本当にいま生まれたかのように、赤ん坊は元気な産声を上げる。

「これは、どうしたものか……」

 夫も戸惑っているようだった。

「育てましょう」

 無意識に、老婆は赤ん坊を抱き上げていた。

「きっと子供のいないわたしたちに、神様が授けてくれたんですよ」

 子育てに耐えうる体力なら、きっとまだ残っている。住まいは傷んだ平屋だが、老婆も夫も使っていない、掃除をするためだけに存在しているような部屋もある。

 いや、そんな条件が整ってなどいなくとも、自分はこの子を育てたい。

「――ですから、この子をわたしたちで育てましょう!」

 夫に対し、ここまで強く意見したことがあっただろうか。ひょっとしたら怒らせてしまうかもしれないと、老婆はふと我に返る。

 桃太郎、と夫は言った。

「え?」

「この子の名前じゃよ」

 夫は微笑んで、赤ん坊の手をちょんとつつく。

 桃太郎は小さな手で、夫の指をぎゅっと握った。

 

   * 

 

 老婆はありったけの愛情を注ぎ、桃太郎を育てた。

 川に洗濯に行くときも、料理をするときも、おんぶをしたりだっこをしたり、片時も目を離さなかった。

 毎晩桃太郎が寝るときには子守唄を歌い、夜泣きをすればで[何時{なんどき}]であろうと飛び起きて世話をした。

 慢性的な睡眠不足に加え、無理をきかせつづけたことにより、身体は着実に弱っていった。それでも心が元気だったのは、桃太郎の笑い声が、ほかに代えがたい幸福感を与えてくれていたからに違いなかった。

 まるで老婆の負担を軽減するためであるかのように、桃太郎は尋常ではない速さで成長していった。何においても同年代の子供たちより明らかに優れており、わずか三歳にして斧を振れるようになっていた。

 夫も子育てには協力的だった。赤ん坊のときは、どう扱っていいものかわからず戸惑ってばかりだったが、桃太郎が自分で歩けるようになってからは、虫取りや魚釣りに連れて行ってあげていた。

 もしもあの子が生きていたなら、こんなことをしてやりたかった――そんな、老婆や夫がずっと持っていた願望を、桃太郎はつぎつぎと叶えてくれたのだった。

 桃太郎は優しい子に育ち、毎日家の手伝いをしてくれた。その運動能力は驚くほど高く、薪割りは大人がやるよりも速かった。常人にはない不思議な力も持っているらしく、鳥や家畜と楽しげに話しているのを、幾度も目にした。

 幸せそのものだった。

 ただしそれは、家庭だけに限った話だ。

 老婆たちが暮らすこの村は、重大な問題を抱えていた。

 鬼の襲撃である。

 赤、青、緑――それぞれ違う色をした鬼たちは、数か月に一度といった頻度で村に現れ、七尺を優に超える巨体を使い、暴虐の限りを尽くした。財宝が目的であるのは明白だったが、無条件でそれを差し出そうとする者はいなかった。

 鬼の襲撃を受けるたび、女子供は家に隠れ、男たちは一丸となって戦った。普段はいがみ合っている村人同士でさえ協力し合い、鍬や竹槍を手に取り、これに抗った。

 しかし力の差は歴然としていて、金棒を軽々と振り回す鬼たちにはまるで歯が立たず、毎回撃退は失敗し、多くの負傷者が出た。ときには死者も。

 鬼さえいなければ――きっと村人全員がそう思っていることだろう。しかし皮肉なことに、鬼への怒りが募るほどに、村人たちの結束力は増していった。

 あれは、桃太郎が老婆の元へ来て四年が経ったときだった。

 襲撃の喧騒が収まり、家の外に出てみると、財宝を抱えた鬼たちが村を去ろうとしているところだった。老婆についてきていた桃太郎は、その背中を憎しみに満ちた目で睨んでいた。瞬きもせず、まるでそこにある光景を、己の目に刻みつけようとしているかのようだった。地面には大勢の怪我人が横たわり、焼かれた家からは炎が上がっていた。うめき声とともに空中に舞う火の粉が、桃太郎の瞳に映っていた。

「剣術を学びたい」

 桃太郎がそう言ったのは、その翌日のことだった。

 桃太郎は家の手伝いをしながら、村はずれに住む剣士の教えを乞うようになった。手ほどきは村外の自然の中で行われ、たびたび怪我をして帰ってきた。

 一年も経たないうちに剣の稽古に行かなくなったので、てっきり音を上げたのだろうと考え、老婆はほっとした。だが、事実は違った。その理由について桃太郎に訊ねると、恩師の実力を凌駕してしまったのだと答えた。

 このとき桃太郎は五歳だったが、十五歳の男子と同等の体格をしていた。どうやら桃太郎は、普通の子供の、およそ三倍の速さで成長しているらしかった。

 桃太郎が剣術を習い始めてからこれまで、鬼の襲撃は二度あったが、幸か不幸か、桃太郎が剣の稽古に出ているときだった。

 

   *

 

「おじいさん、おばあさん、僕、鬼退治に行ってきます」

 畳の上で正座をして、桃太郎は強い決意を窺わせる口調で言った。

 心に直接冷水を流し込まれたように、老婆は息ができなくなった。しかし心のどこかに、いつかこんな日が来るのだろうという想いもあった。強い正義感と、人並み外れた運動能力を持つこの子なら、鬼の問題を、自分の手で解決したいと考えて当然だ。だからといって――。

「許しません。そんな危険なこと」

 鬼によって、村にどんな被害が生じようと、桃太郎の命のほうが大切なのだ。身勝手な考えと言われようが、それが老婆の本心だった。

「どうしても戦うと言うのなら、せめて鬼たちが襲ってきたときに、村人たちと協力して――」

「それではまた、村人から犠牲者が出てしまいます」

 老婆は反論しようとするが、その材料が見つからない。

「だから僕は一人で、鬼退治に行くのです」

「ならん」

 夫は老婆の隣で腕を組んだまま、桃太郎を見据える。もはや老婆には、夫が桃太郎を説得してくれることを祈るしかなかった。

「お前はいま、暴力で起こっている問題を、暴力で解決しようとしておるんじゃぞ」

 夫はいつになく厳しい態度で、桃太郎を叱責する。しかし桃太郎は動じない。

「奴らに話し合いが通じるのであれば、とうに問題は解決しているはずです。現に何度も頼んだというではありませんか。もうこれを最後にしてくれと。奴らに約束を守る気などないことは明白です。言葉が通じているかどうかも疑わしい。ならば、実力行使しかありません」

「その実力において、奴らに勝っていると思っておるのか?」

「いまの僕なら、あるいは」

 その言葉が強がりなどではないことは、老婆には重々わかっていた。村にはもう、桃太郎に敵う者は一人もいなかった。いやおそらく、世界のどこにもいないだろう。

「……奴らの恐るべき点は、力だけではない。その再生能力じゃ。お前も知っておるじゃろう。いかに深手を負わせても、つぎに襲ってきたときには傷が完治しとることを」

「だからこそ、こちらから叩くのです。奴らに回復の時間を与えないためには、逃げ場のない、奴らの本拠地で殲滅するしかありません」

 とうとう夫は言葉を詰まらせた。

「僕は鬼ヶ島に行きます。これは、お願いではなくご報告なのです」

 もう、この子を止めることはできない――悲しい確信が、老婆の胸を満たした。

「村が鬼に奪われたのは、財宝や命だけではありません。僕たちは、心の自由を奪われているのです。それは人間が、命よりも大切にしなければならないものです」

 心の自由――たしかに、桃太郎の言うとおり、鬼の脅威を排除しない限り、この村に真のやすらぎは訪れないのかもしれない。これまで散っていった人々も、それがわかっていたからこそ、命がけで戦ったのだろう。

 夫は大きく息をつくと、表情を崩した。

「鬼ヶ島の場所は、知っておるのか?」

「だいたいは……」

「そうか。ならば教えてやろう」

 夫はボロボロになった古地図をちゃぶ台に広げ、鬼ヶ島の位置に印をつける。

「ここは、かつて村で大罪を犯した罪人が、島流しにされていた場所じゃ。敵は鬼だけではないやもしれん」

「はい、心してかかります」

 桃太郎は地図を丁寧に折り畳み、懐にしまう。そのあいだに夫は席を立ち、鞘に収まった刀を持ってきた。

「これも持って行きなさい」

 夫はそれを両手で差し出す。[漆{うるし}]が塗ってあるらしく、鞘は美しい艶を帯びている。

「ありがとうございます」

 桃太郎もまた、それを両手で受け取った。

 老婆にできることはもう、それほど多くはなかった。

 桃太郎が空腹に苦しまないよう、キビ団子を作った。そして桃太郎に加勢する者が現れてくれるよう、「日本一」と記した旗を仕立てた。作業をしているあいだ、老婆は桃太郎と過ごした五年と三か月の日々を思い返していた。

 

「では、行ってまいります」

 家を出たところで、桃太郎は穏やかに言った。

 きちんと長い髪を結わき、腰に刀を差した姿は、立派な侍だった。まだ幼さは残っているものの、顔立ちも凛々しい。あの日、桃から生まれた赤ん坊をここまで育てた自分を、老婆は誇らしく思った。

 ここまできたらもう、信じるしかなかった。桃太郎の決断も、それを許容した自分も、すべては、正しいのだと。

「必ず、戻ってくるんだよ……」

 たとえ血がつながっていなくても、祖母と孫といえるほど歳が離れていようとも、お前はわたしの、大切な息子……。

「はい、必ずや鬼を打ち倒し、取り返してきます。奪われた財宝と――自由を」

 桃太郎はふっと微笑むと、こちらに背を向け、歩き出した。午後の陽射しが甲冑を輝かせ、山から吹き下ろす風が、旗をたなびかせていた。

 桃太郎の後ろ姿が[畦{あぜ}]道の彼方に消えるまで、老婆は手を振っていた。

 さて、と隣で夫が言った。

「わしは神社に行って、山の神に桃太郎の無事を祈願してくるよ」

「わたしも行きます」

「お前は家で休んでおきなさい。身体に障るといかん」

 たしかに老婆は、健康とはいえない状態だった。常に身体のあちこちが痛むし、よく咳も出る。

「でも、お参りくらい」

「わしは桃太郎が帰るまで、祈りつづけるつもりじゃ。何日かかるかわからん」

 そう言われてしまうと、老婆には諦めるしかなかった。

「わかりました……」

 老婆はいま一度、桃太郎が歩き去った畦道を見た。そこにはトンボを追いかけている、幼い桃太郎の姿があった。

 勝たなくてもいい。逃げてもいい。とにかく無事に、帰ってきますように……。

 

 第二章

 

 背の低い草むらが風に揺らされ、囁き声を上げていた。

 これから鬼ヶ島に乗り込もうとしている自分を、勇敢だと誉めてくれているようにも、愚か者だと嘲笑っているようにも聞こえる。

 決戦の地を目指し、桃太郎は乾いた土の地面を歩いていく。

 この「桃太郎」という奇妙な名が与えられたのは、自分が桃から生まれたかららしい。いまだに信じられない話だが、おじいさんとおばあさんが嘘を言っているようにも思えない。

 しかし事実がどうであれ、自分にとっての両親は、おじいさんとおばあさんにほかならない。

 ざ、と[草鞋{わらじ}]を鳴らし、桃太郎は立ち止まった。

 前方の草むらから、一匹の犬が現れたからだ。

 「そんなに立派なのぼりを掲げて、いったいどちらへ行かれるのです?」

 ああ、と言って、桃太郎は背の旗を振り仰ぐと、ふたたび犬に目を戻す。

「鬼を退治しに行くんだ。人間は奴らに、ひどい目に遭わされてきたから」

「そうですか……」

 幼少期から、桃太郎は動物と会話することができた。その能力を気味悪く思う村人もいたものだが。

「その腰の巾着の中に入っているのはキビ団子ですね」

 犬は見えるはずのない中身を、平然と当ててみせた。

「なぜわかった?」

「匂いです」

「ははは。これは間抜けたことを訊いてしまった」

 人間に比べて動物は、特に犬は鼻がよく利く。中身などわかって当然だったのだ。

「それを一ついただけませんか? もしいただけるなら、私は旅に御供します」

「ああ、構わない。だがついてくる必要はない。キビ団子一つで命を危険に晒すなんて、割に合わないだろう」

「では、もしも命に関わるような危険を感じたら、私は逃げることにします」

「それならいいか」

 桃太郎は巾着袋からキビ団子を一つ取り出し、その場にしゃがみ込むと、犬の口に運んでやった。

 犬は顔を傾けて、鋭い牙の奥にキビ団子を運ぶと、忙しくそれを噛む。

「美味しいです。とっても」

「僕を育ててくれたおばあさんがこしらえてくれたんだ」

「そうなのですね。とても優しい味がします。きっとその方の人柄が、味に出ているのでしょうね」

「そうかもしれないな」

 キビ団子を食べ終えると、犬はこう言った。

「じゃあこれで、私はあなたの家来ですね」

「いや」

「え?」

 犬は意外そうに目を見ひらく。

「お前は家来なんかじゃない。――仲間だ」

 一瞬表情を硬直させると、犬は桃太郎の言葉を噛み締めるように押し黙り、やがて微笑んだ。

「光栄です」

 

 草原を抜け、森に入った。

 生い茂る木々の葉をすり抜けた日光が、湿った土の地面に斑点模様をつくっていた。

 突然目の前に、一匹の猿が現れた。桃太郎の足下で、犬が短く驚きの声を上げる。猿の天地が逆さまなのは、尻尾で枝にぶら下がっているかららしい。

「なあ、そこの若い侍」

 と猿は言った。

「食べ物を分けてくれないか? 腹が減って死にそうなんだ」

 ずるりと尻尾が枝を放し、猿は落下する。しかし地面に激突する前に身を翻し、無事に着地した。

「じゃあ、これをやろう」

 桃太郎はキビ団子を一つ取り出し、猿に差し出す。猿は飛びつくようにそれを受け取り、無心で食べはじめた。

「ああ、美味い」

「悪いけど、一つしかあげられないんだ。長旅になるかもしれないのに、食料はこれだけだから」

「ああ、生き返った」

 一瞬で食べ終えた猿は幸せそうに言うと、桃太郎を見上げる。

「長旅になるかもって、いったいどこに行くんだ?」

 鬼ヶ島だと桃太郎は説明した。

「だったら俺も付き合うぜ。恩は返さないとな」

「やめたほうがいい。必ず危険な目に遭うだろうから」

「そんときは逃げるから安心しろよ」

「……好きにしろ」

「じゃあ、恩を返すまでは家来ってことだな」

「いや、仲間だ」

 猿は不可解そうに桃太郎の顔を見た。やがてはっとしたようにその視線をそらすと、地面を見つめながら苦笑した。

「まあ、何だっていいさ」

 

 森を抜けると、崖に行きあたった。正面には吊り橋がかかっていて、下から川の流れる音が聞こえる。

 猿は板の上をぴょんぴょんと飛び跳ね、桃太郎の前を身軽に進んでいく。犬は下を見ながら慎重に、桃太郎の後ろをついてくる。

 吊り橋の真ん中あたりで、桃太郎は空を見上げた。鳥の羽ばたく音が聞こえたからだ。鳥は忙しく動かしていた翼を畳み、縄でつくられた手すりにとまった。見たところ雉のようだ。

「こんにちは、お侍さん。どちらに行かれるのです?」

 鬼ヶ島だと桃太郎は答えた。

「お、鬼ヶ島……」

 雉は目を丸くして、猿と犬を順に見た。

「それで、家来を連れているんですね」

「おい、こいつらは家来じゃない。仲間だ」

「それは失礼しました。よろしかったら、僕も仲間に入れてください。きっと役に立ちます」

「危険を感じたらすぐに逃げると、約束できるか?」

「え? 何だか不思議な条件ですね。そんなことでしたらもちろん」

「じゃあ、これをやろう」

 桃太郎はキビ団子を一つ取り出し、雉に差し出した。

「二人にもあげたからさ」

「じゃあ遠慮なく」

 雉は嬉しそうに言って、キビ団子を[嘴{くちばし}]に咥えた。

 三人の仲間とともに、桃太郎は先を急ぐ。猿が前を、犬が後ろを歩き、雉が頭上を飛んだ。その陣形は、まるで桃太郎を護衛しているかのようだった。

 

 海岸に出たのは陽が落ちる前だった。

 雉が空を飛んで偵察し、砂浜にボロ舟を発見した。それを全員で修繕し、なんとか使えるようにした。

 舟を漕ぐ[櫂{かい}]がなかったので、桃太郎はその場を離れ、代わりになりそうな木材を探した。しばらく浜辺を歩いたところに、しゃもじのような形をした木を見つけた。握りやすいように、刀で形を整えた。

 舟のところまで戻ると、仲間たちは身を寄せ合い、真剣な顔で何かについて話し合っていた。ひょっとしたら、怖気づいてしまったのかもしれない。

「ここまででいい」

 仲間たちはびくりと身を[竦{すく}]め、一斉に桃太郎を見た。その反応からして、やはり逃げ出したいと考えているようだ。

「みんな退き返すんだ。そもそもこれは、人間と鬼の戦いだ。無関係の動物が、危険を冒す必要はない。いっしょに舟を直してくれただけで充分助かった」

 猿が声を上げて笑った。

「勘違いしないでくれよ。俺たちはキビ団子の味について、正直な感想を言い合っていただけだ。犬は、ちょっと薄味だったってよ」

「おい、猿!」

 犬は猿を[咎{とが}]めると、桃太郎の顔を見る。

「……すいません。でも雉も、ちょっと食べづらかったと言っていました」

「おい、犬!」

 こんどは雉が犬を咎め、桃太郎に向かって取り繕うように言う。

「僕は、食道が細いもので、もうちょっと小さいほうが、食べやすかったかなって……。でも味はとても美味しかったです」

 そうか、と桃太郎は笑った。仲間たちが怖気づいたなど、自分の勘違いだったのかもしれない。

「まあ、とにかく、俺たちは最後まで付き合うぜ」

 猿は舟に飛び乗り、雉は帆にとまった。犬は船尾に首をあて、舟を海へと押し出そうとしている。

「知らないからな」

 桃太郎は苦笑混じりの息をつくと、犬とともに舟を押す。草鞋が砂の地面を抉り、深い足跡を刻んでいく。やがて、ふと抵抗がなくなり、それと同時に、舟はすっと海面を滑りはじめた。

 犬とともに舟に乗り込むと、桃太郎は両手で櫂を摑んだ。力いっぱいそれを胸に引き寄せ、そして突き放す。櫂を漕ぐ動作に合わせて、ぎ、と舟が軋む。

 それぞれの故郷を有する陸が、ゆっくりと遠ざかっていった。

 

 第三章 

 

 転覆しないのが不思議に思えるほど、舟は激しく揺れていた。

 波は高く、大粒の[水{みず}][飛沫{しぶき}]が顔を打つ。空は黒雲に覆われていて、海面を照らす光は、たまに轟音とともに落ちる、雷のそれだけだった。

「これじゃあ海に投げ出されちまう!」

 帆にしがみつき、猿が叫んだ。

 犬は大きく傾いた舟床に四肢を踏ん張りながら、ゲホゲホと咳き込んでいる。海水を飲み込んでしまったらしい。

「どうしよう。みんなが落っこちちゃう」

 雉は低空を飛びながら、心配そうに舟を見下ろす。

「耐えるんだ! 鬼ヶ島はもう見えている!」

 左舷に腕を絡ませ、船尾に片足を突っ張りながら、桃太郎は仲間たちを鼓舞する。

 壮絶な航海だった。ただ一つ幸いだったのは、櫂を漕がなくても、舟が鬼ヶ島に向かって流されていることだ。それはまるで、鬼ヶ島が桃太郎たちを吸い寄せているかのようだった。

 

 ほとんど座礁ともいえる勢いで、舟は岩場に乗り上がった。

 桃太郎は仲間たちの無事を確認し、息をついた。

「ひとまず命拾いしたな」

「でもつぎは、ここを登らなくちゃならないみたいですね……」

 切り立った崖を見上げ、犬が不安げに言う。

「まあ、水責めよりはマシだ」

 猿は岩を蹴り、崖に両手で摑まると、そのまま軽快に登りはじめた。

「僕は先に行って、様子を見てきます」

 言いながら、雉は高度を上げていく。

 桃太郎は下から犬を補助しながら、慎重に崖を上った。吹き上げてくる強烈な風に、背中の旗がばたばたとたなびいた。

 

「ここは、地獄か?」

 円形をした広場を見つめ、猿が顔を強張らせながら言った。

 視界に映るのは岩や石ばかりで、動物はおろか、植物さえ見られない。

「とにかく、先へ進もう」

 桃太郎は猿と犬を従えて、円形の広場を歩いていく。

 犬が遅いので振り返ると、崖の縁から下を覗き込んでいた。

「これは落ちたら串刺しになってしまいますね」

 いっしょになって見てみると、広場と海のあいだには、牙のように尖った無数の岩がひしめいていた。

「まるで剣山だな」

 猿は笑いながら言ったが、恐怖を感じていることが窺えた。

「行こう」

 崖の縁を離れ、ふたたび広場を歩いていく。

 正面には巨大な階段があり、上の様子はわからない。

 一段目に足をかけたとき、偵察に出ていた雉が正面から飛んできた。

「もうすぐ鬼たちがこっちにやってきます!」

 桃太郎を見下ろし、雉は緊迫した声で言う。

「数は?」

「三体です!」

 ズシン、と地響きのような音が聞こえ、桃太郎は最上段を見上げた。

 金棒を担いだ青い鬼と緑色の鬼が、ゆっくりと下りてくる。その少し後ろには赤い鬼が立っている。鬼たちが歩を進めるたび、地面が振動した。

 先行する二体が立ち止まると同時に、鬼たちの後ろに雷が落ち、一瞬、三体を黒い影にした。その間、目だけは影の中に、不気味に浮かび上がっていた。

「ここに何しに来た?」

 低く、くぐもった声で赤鬼は訊く。

「こんな場所に遊びにくる奴はいない」

 桃太郎は刀の[柄{つか}]を右手で握る。

「ほう、やる気のようだな。――お前ら、相手をしてやれ。俺は念のため、奪った財宝を移しておく」

 赤鬼は青と緑の鬼に告げると、こちらに背を向けて歩き出した。

「待て! どこに行く!」

 階段の上に消えていった相手に向かって、桃太郎は叫んだ。しかし赤鬼がふたたび現れることはなかった。

「この階段を上って真っ直ぐ進むと洞窟があります。おそらく財宝はその中だと思います」

 頭上で羽ばたきながら雉が言った。

 青と緑の二体が、階段を下りてくる。桃太郎は歯噛みする。財宝を取り返せる可能性は下がるが、こいつらを先に倒すしかないようだ……。

「赤いのを追ってください。こいつらは、私たちがどうにかします」

 桃太郎の横に並び、犬は二体の鬼を見据えて言った。

「しかし……」

 桃太郎がうろたえていると、こんどは猿が反対側に並んだ。

「早く行け。財宝を取り戻せなくなるぜ」

 みな純粋な決意が窺える顔をしていた。

「死ぬなよ。危なくなったら船で逃げるんだ」

 桃太郎は階段を駆け上がる。

 左右から振り抜かれる金棒をかいくぐり、桃太郎は二体のあいだをすり抜けた。

 

   ***

 

「青いのは僕が何とかする!」

 雉は高度を上げ、青い鬼の頭上をとった。緑色の鬼は階段を下りきり、広場へ入っていく。あっちは犬か猿に任せるしかない。

 青鬼は足を止め、雉を見上げている。邪悪な生物にふさわしい白一色の目と、湾曲した二本の[角{つの}]が、雉の心に恐怖を与えた。

 とにかく、体勢を崩させるんだ。階段を踏み外させることができれば、転げ落ちてくれるかもしれない。

 雉は高度を下げ、青鬼の顔に高さを合わせる。そして金棒の間合いぎりぎりを飛び、大振りを誘う。

 狙いどおり、金棒が横一文字に振られた。先端が嘴すれすれのところを通過する。強烈な風圧により、雉は後ろに吹き飛ばされた。

 こんなの、まともに喰らったら間違いなく即死だ! でも、やるしかない。

 ふたたび正面から間合いに入った。青鬼が金棒を振る。その寸前、雉は思い切り羽ばたき、後方に身を退げる。

 このままでは届かないと判断したらしく、青鬼は上体を前に傾けながら片脚を前に出す。

 雉はさらに広場側に後退し、金棒の間合いから離脱する。

 金棒が空を切り裂く。そして――。

 青鬼は足を踏み外した。体勢を崩し、階段を転げ落ちていく。

「やった!」

 雉はその場で飛行しながら、青鬼を目で追う。

 最下段まで前転を繰り返した青鬼は、地面に激突する直前、身体をひねり、うまく衝撃を分散させるように受け身をとった。

 無傷であることは間違いなかった。相手は金棒を放してさえいない。

 しかし、雉はすでに動いていた。

 立ち上がり、こちらを振り仰ぎつつある青鬼に向かって、雉は全速力で突っ込んでいく。

 視界の周囲が霞み、中心にいる青鬼がみるみる巨大化していく。

 青鬼は金棒を振ろうとするが、もう雉は至近距離に到達していた。いける!

 雉の嘴が、青鬼の右目に突き刺さった。

「ぐおおおおおおおおお!」

 青鬼は黒雲に覆われた空に向かって咆哮する。全身がびりびりと振動するほどの轟音だった。

 斜め後ろから、青鬼の手が迫ってきていた。

 摑まれたらひとたまりもない――雉はすぐに嘴を抜き、高度を上げる。すんでのところで青鬼の左手はかわすことができた。

 上から青鬼を観察する。相手は右手で握った金棒を地面につき、潰れた右目を左手で押さえている。苦しげな声を上げていることから、痛覚の存在が認められた。

 もう片方の目を潰せれば、相手の視界を完全に奪うことができる。

 雉は即座に急降下をはじめた。目標である左目が迫ってくる。いける、と成功を確信したその瞬間、湾曲した角の先端がこちらに向けられた。雉の魂胆を読んでいたのだろう、青鬼が顎を引いたのだ。

 このまま突っ込めば串刺しになってしまう!

 雉は翼を傾け、強引に軌道を変える。腹が青鬼の頭部をかすり、まもなく地面に激突した。

 串刺しは免れたが、打撲により、全身が激しい痛みを訴えている。

 青鬼は左手で右目を押さえながら、もう片方の手で金棒を振り上げる。

 翼は……動く。まだ、飛べる……!

 金棒が振り下ろされた。それに潰される寸前、雉は敵の左目に向かって飛んだ。地面が爆発したような音を立てた。

 降下とは違い、上昇ではスピードは乗らない。おそらくこの速度では、嘴は刺さらないだろう。だが――。

 やはり青鬼は、雉の軌道を読んで角を向けてきた。

 しかし雉はさらにそれを読んでいた。急減速しながら両足を前に出し、青鬼の顔の下に滑り込む。そのまま後方に宙返りするようにして両足を天に向けると、しっかりと爪を立てたその両足で、青鬼の眼球を鷲摑みにした。

「潰れろ!」

 残されている力のすべてを指に籠める。

 やがて指先から、厚い膜を突き破る感触がした。

 青鬼はふたたび咆哮し、右目を押さえていた左目で、力任せに雉を振り払う。それをまともに喰らった雉は猛烈な勢いで吹き飛ばされ、階段の中腹あたりに激突し、そして地面に墜落した。

「駄目だ! 勝てるわけねえ! みんな殺されちまうんだ!」

 広場のほうから、猿の叫び声が聞こえた。

 青鬼は両目から血を流しながら、猿のほうへと近づいていく。視力を失ったため、声を頼りに動いているのだろう。

 ごめんよ、猿、犬。

 薄れゆく意識の中で、雉は仲間たちに謝った。

 助けに行きたいけど、もう僕の身体は限界を超えちゃったみたいだ。

 

   ***

 

 犬は広場の真ん中に四肢を据え、緑色をした鬼を睨みつけていた。

 その奥――階段のすぐ近くでは、青い鬼と雉が戦っている。

 どうすれば勝てるだろうか。敵は巨体であるばかりか、金棒、爪、そして鋭い先端を天に向けた二本の角と、武器となるものも豊富に持っている。

 突然、緑の鬼は犬に向かって走り出した。走りながら金棒を振り上げ、そのまま力任せに振り下ろす。

 犬はなかば直感的に真横に跳躍して、それをかわした。

 金棒の着弾した箇所には、一瞬土の柱が形成されていた。

 あんなものを喰らえば、間違いなく粉砕されてしまうだろう。犬は敵の圧倒的な力に恐怖した。

 緑の鬼は休む間もなく、犬目がけて金棒を振り下ろす。犬はその軌道を見極め、横へ後ろへ、必死に跳躍してよける。地面にはつぎつぎと、すり鉢状の窪みが生まれていく。

 気づけば息切れしていた。敵に疲れは見られない。

 このまま持久戦となれば間違いなく敗北する。体力が残っているうちに、何とか一撃を加えなくては……。

 犬は攻撃を回避しながら、緑の鬼を観察する。筋肉のついている箇所は硬そうに見える。たとえ噛みついても傷を負わせられるとは思えない。となれば[咽喉{のど}]か。いや、思い切り跳躍しても、あの高さまでは届かないだろう。だとしたら――。

 鬼は大きく両脚をひらき、高々と両手で掲げた金棒を振り下ろす。確実によけるなら横か後ろだが、犬は前に跳躍した。金棒がすぐ背後で地面を抉る。犬は全速力で敵の股をくぐり抜け、右足首に喰らいついた。

 鋭い四本の牙が、緑色の皮膚を突き破る。犬は全力を顎に籠めながら、思い切り顔を横に振った。

 ぶち、と腱が切れる音が聞こえると同時に、敵の足首から血が噴き出した。

「ぐおおおおおおおおお!」

 緑色の鬼は絶叫し、ズシン、と右膝をついた。

 犬はその隙を見逃さず、血まみれの身体で地面を駆け、こんどは左足首に喰らいつく。

 鬼は横ざまに身体を倒し、左脚を激しく振る。左脚までやられるわけにはいかないと考えているのだろう。

 骨が軋み、脳が揺れる。全身が痛み、視界は無意味な模様を映すばかりだ。しかし犬は、腱に喰らいついた牙を放さない。

 やがて緑の鬼はけたたましい叫び声を上げ、それと同時に左脚を思い切り振った。

 犬は大きく飛ばされ、地面に叩きつけられた。身体は土埃を立てながら滑り、やがて止まったのは、崖の際ぎりぎりのところだった。

 崖下から、波が岩を打つ音がする。

 犬は倒れたまま、口から赤い血と緑色の肉を吐き出した。血には自分のものも含まれているようだった。とにかく、牙を放さなくてよかった。敵は己の腱もろとも、犬を吹っ飛ばしたのだ。

 しかし、立ち上がることさえままならないほど、肉体の損傷は激しかった。

 霞む視界の中で、敵を見る。ずいぶん遠くに飛ばされたらしく、緑色の巨体は小さく見えた。緑の鬼は、金棒を杖にして立ち上がろうとしている。しかしそれは叶わず、その場で転倒した。

 どうやら相手の機動力は奪えたらしい。

 本当なら、ここからさらに敵の戦闘力を削りたいところだが、自分はもう、戦うことはできそうにない。

「私は、ここまでだ……」

 横顔が地面についた。

「駄目だ! 勝てるわけねえ! みんな殺されちまうんだ!」

 意識が遠のく間際に聞こえたのは、猿の情けない叫び声だった。

 

   ***

 

 猿は円形広場の端で立ち尽くしていた。

 左手に見える巨大な階段の中腹には雉が、右手の崖際には犬が倒れている。どちらも戦闘不能となったことは間違いなかった。

 雉は階段付近に立っている青鬼の視力を、犬は広場の中央付近に這っている緑色の鬼の歩行能力を奪ってくれた。

 しかし、とても無力化できたとは言いがたい。二体の攻撃手段は健在であり、依然として脅威であることに変わりはなかった。

 自分には、空を飛ぶ翼も、鬼の腱を喰いちぎれるほどの牙もない。

「駄目だ! 勝てるわけねえ! みんな殺されちまうんだ!」

 猿の叫び声に、青鬼が反応を示した。相手はこちらに身体を正対させ、走り出す。地面を震わせながらあっという間に迫ってくると、金棒を振り上げた。

「うわあ!」

 猿は青鬼を見上げて叫ぶ。

 金棒が振り下ろされた。

 猿は横に跳んで、それを回避する。

 声を発した場所に、金棒は正確に着弾した。そこには円形の窪みができ、その周りには放射状に罅が入っていた。

 両目から血を流す青鬼が、ふたたび金棒を持ち上げる。その先端から、土や小石がぱらぱらと落ちた。

 その間に猿は、青鬼の横に回り込んだ。地面を蹴る音が途切れたことでこちらの位置を把握したのか、青鬼は猿に身体を向ける。

 背後を振り返った。離れたところに、緑色の鬼が金棒を杖代わりにして立ち上がろうとしている姿が見えた。

 すぐに崖を背に立つ青鬼に目を戻す。

「は、挟まれる!」

 声を上げると同時に、青鬼の金棒が襲いかかる。猿は後方に跳躍して、何とかそれをかわす。目の前で、土柱が上がった。

 自分には、空を飛ぶ翼も、鬼の腱を喰いちぎれるほどの牙もない。

「待ってくれ! 降参だ!」

 着地するや、猿は両手を上げ、青鬼の顔を見上げて叫んだ。

 しかしその申し出は聞き入れてもらえず、無情にも金棒は振り下ろされた。猿は四肢で地面を突き放し、後方へ跳ぶ。またもや声を上げた地点が、大きく陥没した。

 退がれば退がるほど、緑の鬼に近づく恰好となっていた。

「許してくれ! 俺たちが悪かった!」

 情けない声で命乞いをするが、青鬼が攻撃をやめる気配はない。

 声を出した箇所に、やはり金棒は振り下ろされた。猿は後方に跳躍しつつ青鬼に背を向け、緑色の鬼に向かって走り出した。こちらに横顔を見せている緑の鬼は、片膝をつき、両手で握った金棒を杖にして立ち上がろうとしている。

 猿は思い切り跳躍し、その前腕に飛び乗った。すかさずそれを蹴り、肩へと移る。金棒から放した片手が、猿を摑もうとした。間一髪のところで跳び、すり抜けたが、鬼の爪が肩をかすり、そこから血が流れ出した。

 緑色の鬼の頭部――二本の角のあいだで、猿はすぐ近くまで迫っている青鬼に向かって叫んだ。

「頼む! 俺だけでも見逃してくれ!」

 青鬼が猿目がけて、金棒を横一文字に振り抜く。

 自分には、空を飛ぶ翼も、鬼の腱を喰いちぎれるほどの牙もない。だが――。

 猿は全力で跳躍した。下を見る。青鬼の振る金棒が緑の鬼の側頭部に接触し、つぎの瞬間、頭部が爆裂した。

 ――人間につぐ知能がある。

 声を出した場所に、金棒は必ず振られる。ならば破壊したいもののそばで声を出し、よければいい。

 頭部の消し飛んだ緑色の鬼は、ゆっくりと仰向けに倒れていく。

 その腹の上に、猿は着地した。

 これで、あと一体。

 片手で傷口を押さえ、猿は青鬼を挑発する。

「ここだ! 化け物!」

 青鬼は金棒を振り回し、地面を破壊しながら追ってくる。

 それを回避しながら、猿は苦笑した。

 まさか鬼たちと戦うことになるとは思わなかったな。俺たちの任務は、桃太郎の暗殺だったというのに。

 

 動物たちの会合がひらかれたのは、ひと月ほど前だった。全種族の代表者たちが集結し、動物界の今後について話し合った。

 主な議題は、人と鬼、どちらに世界の覇権を握らせるかだった。残念ながら、動物界には食物連鎖の頂点に立てる種族はおらず、どうすれば世界がいまよりましになるかを話し合うしかなかった。長い討論の末、鬼に握らせるべきだ、という結論に至った。

 鬼は人間とは違い、自分たちの快適性を上げるために自然を破壊することはない。つまり、植物や昆虫も含めた生態系を大きく変えてしまう心配がない。暴力によっての殺戮は行われるだろうが、いまのところ鬼族の個体数は少ないため、それは自然の摂理の範囲内にとどまるだろう。これらが、鬼に覇権を委ねるべきだという結論が導き出された根拠だった。

 ではそうするために、動物たちのすべきことは何か。論点はそこに移り、議会の出した答えはこうだった。

 人類最強である個体の抹殺。

 鬼に勝たせるためには、それが必須だと考えられた。桃太郎という少年の運動能力が人並み外れているという情報は、鳥類による偵察や、村の家畜からの聞き込みにより得られていた。

 暗殺班が組織されることとなった。

 まず[栗鼠{りす}]や兎といった弱い動物が候補から除外され、また標的に警戒されないよう、熊や狼や鷹といった、戦いに長けた動物も除外された。

 志願や推薦によって、最終的に、犬、猿、雉が選ばれた。猿は志願していたので、喜んで引き受けた。

 訓練期間を終え、とうとう作戦が決行された。

 桃太郎に怪しまれないよう、一匹ずつ接触を図った。キビ団子など、桃太郎に近づくための口実に過ぎなかったのだ。

 犬も雉もうまくやっていた。桃太郎は疑う素振りさえ見せなかった。

 だが桃太郎と行動を共にしているうちに、己の任務への意志が揺らいでいくのがわかった。桃太郎の言動が、そうさせたのだ。

 空腹に困っていると[嘯{うそぶ}]いた俺に、奴は迷うことなく貴重な食料を分け与えた。

 俺たちのことを家来ではなく、「仲間」だと言った。

 危険に直面したら逃げることを条件に、俺たちの同行を許した。

 この優しさを持つ人間なら、動物側の想いを理解してくれるのではないか。動物界の事情を汲み、それを言葉にして、人間たちに伝えてくれるのではないか。人間と動物との、中立の立場を取り、人間の暴走を止めてくれるのではないか。もしもそうなるのであれば、鬼に覇権を握らせるよりも、良い世界が待っているように思える。

 浜辺でボロ舟を修繕している途中、桃太郎が櫂を探しにその場を離れた。

 その隙に、猿は思い切って、犬と雉に自らの考えを打ち明けてみた。裏切り者と非難される覚悟だったが、その必要はなかった。

 犬も雉も、同じ気持ちだったのだ。

 逃げ場のない海の上で任務を遂行する予定だったが、やめにした。

 出航前、桃太郎は猿たちを故郷へ帰そうとした。

 その優しさに触れたことにより、猿は確信した。この男ならきっと、自然界や動物界に敬意を払い、傲慢さを持たない人間界をつくってくれると。

 そして猿たちは、桃太郎と本当の仲間になった。

 陸から遠ざかる舟の上で、猿は前方を見据えた。断りもなく任務を放棄した俺たちを、議会はどうするだろう。反逆罪として処刑するか、動物界から追放するか。いや、いま考えるのはやめだ。そこまでこの命があるかもわからないのだから。

 とにかく、もう俺たちの敵は――鬼どもだ。

 荒れ狂う海の先に、鬼ヶ島らしき影が見えた。

 

 青鬼の金棒が頭上から振り下ろされ、猿は後方へ跳んで回避する。

 金棒に撃たれた地面が、円形に陥没した。

「どうした、下手くそ……」

 猿は息切れしながら挑発する。そこにまた金棒が振り下ろされる。猿は後ろによける。

 とうとう崖のへりまで追い詰められた。

 肩越しに振り返る。崖下には尖った岩が無数に突き立っていて、運よくそこに落下しなくとも助からない高さだ。

 [眩暈{めまい}]がした。どうやら肩に負った傷から血を流し過ぎたらしい。時間がない。確実に仕留めるには、これをやるしかない。

 猿は後方へ跳び、空中で叫んだ。

「当ててみやがれ! 化け物!」

 声を出した場所目がけて、青鬼は金棒を振ろうとする。前に踏み込んだ足が崖のへりから飛び出し、空中に置かれる。そのままバランスを崩し、青い巨体は宙へ投げ出された。

 猿は自らも落下しながら、その様を見上げていた。

 これでお前は終わりだ。俺もだがな。

 岩肌が視界の中を、猛烈な速度で流れていく。

 串刺しか、地面への激突か、いずれにせよ、もう助からない。だが悔いはない。この命は、桃太郎に捧げたのだ。

 突然、両肩に鋭い痛みが走り、それと同時に落下速度が急激に下がった。

「僕が助ける!」

 猿の頭上で、雉が必死で羽ばたいている。

「放せ! お前もただじゃ済まないぞ!」

 自由落下ではなくなったとはいえ、落ちていることに変わりはなかった。

「放すもんか! 僕たちは、仲間なんだ!」

 雉は黒い空を、まるで目的地であるように見上げている。

「そうだったな」

 猿が苦笑すると、目の前を青鬼が追い越していった。腹這いのような体勢で、四肢を振り回しながら落ちていく。そして、棘状の岩に突き刺さった。

 あとを追うように、猿と雉も落ちていく。雉のおかげだろう、尖った岩の先端をわずかにそれた場所に激突した。その傾斜した側面をずるずると滑り、やがて地面に転がった。

 鈍い痛みが、全身を包んでいた。

「生きてるか?」

 すぐ隣に倒れている雉に訊く。

「うん、なんとかね……」

 雉は[微笑{わら}]って答えたが、最も負荷がかかっていたであろう爪が、何本か折れていた。

「これでまだ、議会にどう報告するか、頭を悩ます余裕ができたな」

 猿は上体を起こし、青鬼を見上げる。鋭い円錐に腹から背を貫かれ、四肢をだらり下げていた。なぜか身体全体から、シュウ、と湯気のようなものが上がっている。

「よかった。生きてたんですね……」

 崖上から犬の声がした。意識を取り戻したようだ。声が苦しげなのは、怪我のせいだろう。

「ああ、何とかな」

 猿が応えると、犬は重そうに片一方の前脚を動かし、円形広場の真ん中あたりを示した。

「あの、頭のない死体は何でしょうか?」

「緑の鬼のだ。お前が腱を喰いちぎった」

「しかし、大きさも色も、まるで人間です」

「何だって?」

 猿はふたたび串刺しになった青鬼に目を戻す。

 青鬼は岩に串刺しになったまま、人間ほどの大きさになっていた。

「こいつは、どういうことだ……」

 

 第四章

 

 階段を駆け上がった桃太郎の目には、赤鬼の後ろ姿が小さく映っていた。

 雉が言っていたとおり、正面には巨大な洞穴があり、赤鬼はそこに入っていった。

 桃太郎は全速力でそこへ向かう。

 洞穴の手前まで進んだとき、そこから鬼が現れた。入り口を塞ぐように立ちはだかったのは、黄色い鬼だった。

 不意に金棒が振り下ろされた。

 ――速い。が、反応できないほどの速さではない。

 桃太郎はひらりと身を横に向けてかわす。目の前の地面が、円形に陥没した。

 鬼の右手が止まった瞬間を、桃太郎は見逃さなかった。

 抜刀と同時に斬り上げ、鬼の手首を切断した。金棒を握ったままの右手が地面に落ちる。

 鬼は絶叫しながら、桃太郎目がけて爪を立てた左手を横に振る。桃太郎は真上に跳躍してそれをかわし、縦に回転しながら落下する。その勢いを宿した太刀が、鬼の左手首を切断した。

 すかさず相手の両脚のあいだを駆け抜けながら、右足首、左足首をすれ違いざまに切り裂いた。

 返り血の生ぬるさが不快だった。

「邪魔をするな。時間がないんだ」

 洞穴に侵入すると、ズシン、と背後で鬼の倒れる音がした。

 暗い洞窟の中を慎重に進んでいく。火は焚かれておらず、視界はほとんど利かない。

 うめき声のような音がするのは、吹き抜ける風のせいだろうか。

 どこかから洩れ入った雷光が、あたりを短く照らした。

「何だ、これは……」

 左右には鉄格子で区切られた部屋があり、そこにはボロ布を着た人間たちが横たわっていた。すべて合わせて十人といったところか。

 先ほど聞いたうめき声は、実際にこの者たちが発したものだったようだ。

 ふたたび訪れた暗闇の中、「大丈夫か?」と声をかけてみたが、誰からも返事はなかった。

 ――いまは、先を急ごう。

 早足で進んでいく。先の様子は、雷光が射したときに記憶していた。

 ひらけた場所に出た。

 天井にはぽっかりと大穴が空いており、そこから黒い空が見える。

 さらに奥があるらしく、赤鬼の背中はそこに消えようとしていた。

「おい、止まれ!」

 桃太郎の声に、赤鬼は歩を止めた。そしてゆっくりと振り返る。

「まったく、しつこい奴だ」

 天井は抜けているというのに、赤鬼の声は何かに反響しているようだった。

「奪った財宝はどこだ」

「わしを殺して探すがいい」

「ならば、そうさせてもらおう」

 桃太郎は刀を構える。

「まあ、ちょうどいいか」

 赤鬼はこちらに向かって歩いてくる。

「ここで決めようじゃないか。わしとお前、どちらが正しいか」

「欲望のままに殺し、奪ってきた貴様が、正しいなどということがあるものか」

 地面を蹴り、桃太郎は赤鬼に接近していく。

 赤鬼が金棒を振り上げる。

 桃太郎はそれに焦点を合わせ、軌道を読む。

 ところが赤鬼は金棒を振り下ろさず、前蹴りを繰り出した。

 金棒は囮――。

 赤鬼の[踵{かかと}]をまともに腹に受け、桃太郎は後方へ、直線的に飛ばされた。

 背中を岩壁に強打し、旗を支えていた竹竿がへし折れる。

 ガハッ、と思わず声を上げ、桃太郎は吐血した。

 前から地面に倒れたとき、鎧の胴の部分が砕けていることに気づいた。もしも甲冑を装着していなかったら、命はなかったことだろう。

 桃太郎は四肢をかき集めるようにして立ち上がる。幸い、刀は放していない。

「もう終わりか? 拍子抜けだな」

 赤鬼は余裕を感じさせる口調で言いながら、近づいてくる。

 壁際に追い詰められるのはまずい――桃太郎は地面を蹴り、敵に向かって突進していく。

 赤鬼は歩を止め、片足を上げる。

 踏み潰す気か――桃太郎は横に跳躍した。

 ズン、と重低音が響くとともに、地面に巨大な足形が刻まれた。

 回避は成功したが、すでに金棒は頭上から迫っていた。

 やむなく、大きく後方へ跳び、敵の攻撃をかわした。

 赤鬼は間髪入れず金棒を引き寄せながら上体を前に倒し、地面を薙ぎ払うように振る。その周囲に突風が巻き起こった。

 回避不能であることを[覚{さと}]った桃太郎は、前方に踏み込んだ。金棒が弧を描くように振られているのなら、起点に近い方が威力は低くなるはずだ。

 金棒を受けた右腕の[籠手{こて}]が砕け、またしても壁まで吹き飛ばされた。

 壁に強打した左半身が激しく痛み、痺れを感じている。

 さっき倒した鬼とはまるで違う。早さも力も桁違いだ。

 赤鬼はこちらに身体を正対させながら豪快に笑った。

「面白くなってきた。まさかあの状態から踏み込んで、指を斬りにくるとはな」

 赤鬼の右手からは親指以外の指がなくなっている。金棒が身体を捕らえる寸前、桃太郎が斬り落としたのだった。

「もっとも、その代償は大きかったようだが」

 赤鬼は落ちた金棒を、左手で拾い上げた。

 鋭い痛み、鈍い痛み、痺れ、熱、寒気――あらゆる苦痛が、全身に充満していた。それでも桃太郎は立ち上がる。苦痛に耳を貸すな。動けば問題ない。倒すか死ぬか、どちらかの未来が訪れるまで戦うんだ。

 桃太郎は剣を構えて走っていく。

「ずいぶん頑丈な奴だ」

 赤鬼は嬉しそうに言いながら、迎撃態勢をとる。

 桃太郎は相手の攻撃圏内に入った。視点を一点に集中させてはいけない。全体を見るんだ。

 赤鬼の最初の攻撃は、先ほど同様、「踏みつけ」だった。

 その軌道を見極め、桃太郎は全力で上に跳躍する。敵の動きの速さに、目が慣れてきていた。

 赤鬼の左足が地面を鳴らす。そのときにはすでに、桃太郎は敵の膝に飛び乗っていた。刀を逆手に持ち替え、さらに上へと跳躍する。ここまで接近すれば、金棒は振れまい。

 桃太郎とともに上昇する刃が、赤鬼の腹から胸を、斜めに切り裂いていく。

 ぐあ、と赤鬼は短く呻いた。

 重力に引かれ、上昇速度が緩んだ。桃太郎は身体を横に回転させながら、その勢いをのせた刀を振る。

 目の前には、赤鬼の両目がある。――もらった。

 しかし赤鬼は瞬時に危険を察知したらしく、顔の位置を下げた。

 風切り音を巻き起こしながら振られる刃は、対になって生えている角の一本目を切断し、二本目の角を半分ほど切ったところでぴたりと止まった。

 桃太郎の動きも停止していた。

「惜しかったな」

 赤鬼は指のない右手の平で、桃太郎を弾き飛ばした。

 背中から地面に激突し、そのまま勢いよく後ろ向きに転がり、やがて仰向けになった。いっしょになって飛ばされたらしく、切断した片方の角が、近くで固い音を立てた。

 痛みすら感じなかった。肉体はもはや、感覚を失いつつあった。

 ぐらぐらと揺れる視界には、灰色の岩に縁どられた、黒い空が映っている。

 雨が降ってきた。強い雨だ。

「勝負あったな。お前にはもう、武器もない」

 赤鬼の言うとおり、刀は角に噛んだままだ。

「人間は[脆{もろ}]いな。脆いくせに、生物の頂点に平然と居座っている」

 赤鬼は喋りながら、一歩一歩近づいてくる。

「おかしいと思わないか? 本来はより強い生物が上に立つべきだというのに。だがそんな歪んだ構造も、まもなく修正される。お前が敗北したことによって、鬼族が頂点の座に就くことになるだろう。喜ぶがいい。そうなれば、人間同士で殺し合う余裕などなくなるのだからな」

 視界に入ったところで、赤鬼は立ち止まった。

「敗北するのは……お前だ」

 桃太郎は血だらけの右手を動かし、人差し指で天を示した。

「[雷{いかずち}]は、金属に落ちやすい」

「何⁉」

 赤鬼は自身の角に噛んだ刀を確認するように、ゆっくりと目を上に向ける。そして一気に顎を上げ、天を仰ぐ。

 黒い空を閃光が切り裂き、雷鳴が轟いた。

 残響が空に吸われ、沈黙が降りた。

 雨音だけが、変わらずあたりを包んでいた。

「ははははははは!」

 赤鬼の笑い声が響き渡る。

 赤鬼は首を戻し、ふたたび桃太郎を見下ろした。

「憐れだな。苦し紛れの策も、不発に終わってしまうとは。――いま楽にしてやろう」

 赤鬼は右脚を上げる。

「決着はついた。やはり、わしは正しかった」

 視界が[翳{かげ}]り、巨大な足底が迫ってくる。

 ――まだだ。まだ倒しても死んでもいない。

 右足が止まると同時に、敵の苦しげな叫び声が上がった。

「痛いか? 自分の角は……」

 桃太郎は切断した角を両手で摑んでいた。赤鬼が上を向いているあいだに、傍らに転がっていたそれを引き寄せ、背中に隠しておいたのだった。

 角は足底から甲を突き破り、大量の血液を流出させている。 

 それを被るように浴びながら、桃太郎は仰向けの体勢のまま、懸命に角を支える。

「……まるで我慢くらべだな。いいだろう。このまま踏み潰してやる」

 赤い足底が徐々に迫ってくる。

 桃太郎は死を確信した。これ以上策はない。身動きもできない。途絶えそうになる意識をつなぎ止めておくのがやっとだ。

 せめて仲間たちに、撤退を伝える方法はないものか。

 村で待つおじいさんとおばあさんは、やはり泣いてしまうだろうか。

 桃太郎の両手が、角から離れる。その瞬間――。

 ――ドクン。

 心臓が大きく脈を打ち、全身に不快感が広がった。遠のきつつあった意識は完全に引き戻され、力がみなぎってくるのがわかった。

 赤鬼が後ろへ飛び退くのが見えた。

 あり余る力が声となり、口から放出される。

 その、己の凶暴な声を聞きながら、桃太郎は立ち上がった。

 背の高い赤鬼の顔が、なぜだか水平の位置に見えている。

 視界の中にある自分の両腕は、筋肉量が著しく増加し、紫色に変色し、そして指先からは鋭い爪が伸びていた。

「まさか、そんなことが……」

 赤鬼はうろたえている。角は一本失われ、右手の指はほとんどなく、足の甲には穴が空き、いま見てみると、とても脅威だとは感じられなかった。

「正しいのは――」

 赤鬼は左手で握った金棒を振り上げる。

「わしだ!」

 絶叫とともに、金棒が振り下ろされた。狙いはこちらの頭部であるようだ。

 桃太郎は瞬時に右手を伸ばして敵の手首を摑み、金棒を止めた。

 く、と歯噛みし、赤鬼は指のない右手で突きを繰り出す。しかし――。

「遅いな」

 左脚を踏み込むと同時に、桃太郎は左手を突き出した。

 鋭い爪を有した左手は、赤鬼のがら空きの腹を貫いた。

 敵の両目が見ひらかれ、いっさいの動きが止まった。

 雨音だけが聞こえる中、桃太郎は敵の体内に残る前腕に、温かさを感じていた。

 やがてがくんと首が折れ、赤鬼は下を向く。

 左腕を引き抜いた。

 一拍置いて、赤鬼はその場に、膝から崩れ落ちた。

 地面には、雨と血の混ざりあった水たまりができていた。

 そこに映った己の姿は、紛れもなく鬼だった。

 なぜ、僕が鬼なんかに――。

 脳内の混乱がおさまるのを待たずして、身体から霧のような蒸気が発せられた。さらなる謎に混乱をきたすが、霧は全身から放たれつづける。

 それに伴い、身体はみるみるしぼんでいき、やがて人間の姿に戻った。

 戦闘で負ったはずの傷も、すべて治っていた。

 はっとして赤鬼のほうを見る。

 立ち籠める蒸気の向こう――赤鬼がいたはずの場所には、やはり人間が倒れている。

 やがて霧が晴れ、その人物を目にしたとき、桃太郎は驚愕した。

「おじい……さん……」

 

 第五章

 

 おじいさんの腹からは血が流れ出ていた。そこはまさに赤鬼に傷を負わせた箇所であり、両者が同一の存在だったことを証明していた。

「おじいさん!」

 桃太郎はなかば無意識のうちに、おじいさんを抱き起し、傷口に手を当てていた。

「いったいこれは、どういうことですか……」

 おじいさんは穏やかに微笑んだ。

「お前が勝った――それだけのことじゃ……」

「なぜ、おじいさんが鬼なんかに」

 おじいさんは痛みに顔を歪ませたが、すぐにまた笑みを浮かべた。

「何者かに脅されていたわけでも、操られていたわけでもない。鬼によって起こったことは、すべてわしの意志によるものじゃ」

「わかりません。僕には、さっぱり……」

「すべて話そう。それまで、この命がもつかはわからんが……」

 おじいさんは自身の記憶をたどるように、暗い空に目を向けた。

 「……まだわしが若かったころ、山で柴刈りをしていたら、変わった色の植物を見つけた。虹色、とでも言おうか、何とも表現しがたい色をしておった。薬草か、毒草か、村へ帰ってから調べてみようと思って、わしはそれを摘んで腰袋へ入れた。陽が暮れかけ、下山している途中、ひどい怪我をした野[兎{うさぎ}]が倒れていることに気づいた。おそらく強い動物に襲われたんじゃろう。気づけば、腰袋からあの草を取り出しておった。急いで石ですり潰し、兎に塗ってやった。それが薬草であることを祈りながら。しばらくすると兎は元気に起き上がり、甲高い奇声を発すると、わしに襲いかかってきた。体格は猪のように逞しくなっており、牙と爪が鋭く伸び、目は血走っていた。その姿は化け物そのものじゃったよ。わしは咄嗟に鎌を構えたが、化け物は急に動かなくなった。つぎの瞬間、苦しげな声を上げながら全身を激しく震わせたかと思うと、白目を剝き、泡を吹いて倒れた。わしが見つけたのは、毒草だったというわけじゃ」

 不意におじいさんは、苦しげに顔を歪ませた。

「大丈夫ですか」

「ああ、心配はいらん」

 微笑んで応えると、話をつづける。

「それから幾日か経ったある夜、わしは家の作業場で鎌や斧の手入れをしながら、居眠りをしてしまった。物音がして目を醒ますと、さらに引き出しを滑らせるような音が微かに聞こえた。盗人に違いないと考えたわしは、斧を手に取った。物音のする寝床には、まだ若かったばあさんと、生まれてまもない赤子が眠っておったからな」

「子供が、いたんですね……」

「ああ、わしらの息子じゃ。引き戸を開けると、やはり盗人がおった。布団から離れたところにある[箪笥{たんす}]を物色しておったが、わしに気づいた男は、赤子を持ち上げ、近づいたらこいつを殺すと脅してきた。ばあさんが目を醒まして悲鳴を上げた。盗人は逃げ出した。赤子を抱えたままな。脅しに使えると思ったのか、それともどこかへ売り飛ばすつもりだったのかはわからん。わしは必死であとを追った。外は真っ暗じゃったが、赤子が泣いてくれたおかげで、向かうべき方向を知ることができた。その声は『僕を助けて』と言っているようにも、『犯人はここだよ』と教えてくれているようにも思えた。助けてやる、必ず助けてやる――わしは心の中でそう繰り返しながら、森の中を走った。徐々に泣き声が近づいてきていた。泣き声がやんだのは突然じゃった。途切れた場所に近づいていくと、赤子が倒れていた。盗人の姿はなかった。息子は、首を折られていたんじゃ」

「何てひどい奴だ……」

「翌朝、わしはばあさんといっしょに、赤子を山頂に埋めてやった。あまりに短い生涯を終えた息子を、せめて一番見晴らしのいい場所で眠らせてやりたかったんじゃ。そこなら、柴刈りを[生業{なりわい}]にしているわしは、毎日会えるしな。息子を殺した盗人は、すぐに捕まった。殺された赤子が、盗人の髪の毛を握っておったんじゃ。村人の中では珍しい、癖の強い髪じゃった。まったく、勇敢な子じゃよ。それが手がかりとなり、わしの見聞きした特徴も合わせて、盗人は特定された。村が与えた罰は、島流しじゃった」

「島……流し」

「お前も知ってのとおり、この島じゃ。しかしわしは、とても納得がいかなかった。罪もない赤子の命を奪った者が、村から離れただけで許されていいはずがない。残されたわしもばあさんも、哀しみに暮れる日々を過ごしておった。どうにかあの男に、苦しみを味わわせてやりたい――そう心から願ったとき、あの草のことが思い出された。野兎を化け物にした、あの毒草じゃ。わしは準備をして、舟でこの島に渡った。当時はまだ、草木が生えていた。しかし家をつくる材料がなかったんじゃろう、罪人たちはみな、洞窟の中で生活していた。あちこちから怒号が聞こえた。殺し合っている者たちもいた。わしに気づいた罪人たちは 邪悪な目を向けてきたが、斧と鎌で武装しているわしに、襲いかかってはこなかった。やがてあの男を見つけた。痩せ細り、髭も伸びていたが、間違いなくあの男じゃった。わしを見るなり、男は摑みかかってきた。お前のせいでこんな目に遭っているのだと、まるで被害者であるかのようなことをほざいてな。わしは突き飛ばされた。その拍子に、腰袋に入っていた食料が落ちた。白、赤、白の順に刺さった串団子じゃ。白はキビ、赤は毒草をすり潰して丸めたものじゃ。盗人らしく、男は断りもなくそれを拾って喰いはじめた。よほど腹が減っていたんじゃろう、むさぼるようにしてな。わしは、それを喰われたら困るというように、男に手を伸ばした。腹の中で笑いながら。つぎの瞬間、男の身体がびくりと震え、一瞬にしてすべての血管が浮き立った。血管は真っ赤に染まり、それを追うように、肌も赤く染まっていった。そして、男は巨大化しはじめた。爪が伸び、角が生え、男の身体はたちまち膨れ上がっていき、やがて洞窟の天井を突き破った」

「まさか、それが起きたのは――」

 桃太郎は、雨を招き入れている天井を見上げた。

「そう、まさしくここじゃ。――やがて巨大化は止まり、目や口や耳や、あらゆる穴から血が噴き出した。苦しげな叫び声を最後に、化け物は崩れ落ちた。いま思えば、毒草の量が多すぎたんじゃな。それが、初めて生まれた鬼じゃ」

「じゃあ、鬼は……人間……」

 宙を見つめ、桃太郎が呆然と[洩{も}]らすと、おじいさんは小さく頷いた。

「そのとおりじゃ。鬼は蒸気を発しながらしぼんでいき、やがて人間の大きさに戻った。血まみれの肉塊じゃったがな。おそらく地獄の苦しみを味わったであろう男の最期を見届けたことで、わしの復讐は果たされた。罪人たちは、わしを怖れて道を空けた。男が巨大化したとき、わしが手をかざしていたことから、きっと呪術でも使うものだと思い込んだんじゃろう。村に帰り、ようやくわしら夫婦は日常を取り戻した。しかし村では相変わらず、悲惨な事件が起こりつづけていた」

 おじいさんはいちど言葉を切ると、声を震わせてこう言った。

「なぜ言葉の通じる人間同士が、奪い合い、殺し合うんじゃ……!」

 おじいさんの両目から流れているのが、涙なのか、雨なのか、桃太郎にはわからなかった。

 大きく息を吐き、おじいさんは話をつづけた。

「あの男が鬼になったとき、罪人たちは争いをやめ、同じところを見ていた。その記憶が、わしの行動を決めたんじゃ。わしは山であの毒草を採り、ふたたび島に行った。罪人たちを実験体とし、毒草の研究をするために。逃げ出せないよう、牢もつくらせた。わしを怖れてやまない罪人たちは、抵抗せずに従った」

 桃太郎は通路のほうに視線を移した。あの牢は、おじいさんがつくらせたものだったのか……。

「わしは毎日、島に通った。ばあさんに怪しまれんようにするためには、いつもどおりの時間に帰らねばならなかったからのう。おかげで、柴刈りの成果はぐんと落ちたがな。やがて、最初の一体のように自滅することもなく、長時間活動できる鬼をつくることに成功した。適量を水に溶かし、口から投与するのが最も安定するらしかった。わしは毒草と水を調合したその液体を、人を鬼にする薬――[鬼薬{きやく}]と名づけた。そこに至るまでにずいぶん死人を出したが、被験体に困ることはなかった。罪人はつぎからつぎへと島に送られてきたからな」

「そんなひどいことをして、何も思わなかったのですか?」

 桃太郎は強い語気で訊いたが、

 思わんかった、とおじいさんは断言した。

「わしには罪人どもがみな、息子を殺したあの男に見えておったからな」

 桃太郎は言葉を返せなくなった。

「鬼と化しても、罪人たちはわしの指示に従った。根底に、わしへの恐怖が植えつけられていたからじゃろう。そしてわしは鬼たちに、村を襲わせた」

「そんな……」

 胸が凍結してしまったような感覚に襲われ、息ができなくなった。

「舟で陸に渡ってから罪人に鬼薬を投与し、鬼に変え、村で暴れさせた。そして効力が切れて人の姿に戻る前に、離脱させた。それを年に幾度かおこなった」

「じゃあ、鬼の襲撃は、ぜんぶ、おじいさんの、仕業……」

 あまりの衝撃に、桃太郎は自分の感情さえわからなくなってしまった。

「その結果、村で起こる痛ましい事件は著しく減った。それまで人々が互いに向け合っていた残虐性は、鬼という共通の脅威に対してのみ向けられるようになったんじゃ。鬼が憎しみの受け皿となり、人々を一つにした」

「あ……あ……」

 嘘だと思いたかった。どうにか否定したかった。しかし記憶をたどった桃太郎には、それができなかった。鬼が襲撃してきたとき、いつもおじいさんはいなかった。

「すべては、人間同士の争いを止めるためじゃった。財宝を奪ったのも、その原因となるものだったからじゃ。鬼の存在によって、人間の醜さは裏に追いやられ、協力して鬼と戦う美しい姿が表に出たんじゃ。数十年、わしは村への襲撃をつづけた。自分のおこないが、正しいことだと信じて」

「ふざけるな!」

 桃太郎は思わず怒号を上げていた。

「鬼のせいで、仲良しだった友達も、いつも遊んでくれたおじさんも、たくさんの人が死んだんだぞ!」

 おじいさんは表情を変えることなくこう言った。

「鬼がいなければ、もっと死んでいた」

 腹の中に渦巻く激情を、桃太郎は懸命に抑え込む。

「いつからか、ここは鬼ヶ島と呼ばれるようになった。村の人間からすれば、鬼がやって来るほうにあるものだから、ここから鬼が来るのだと考えられたんじゃろう。じっさい、その考えは合っていたわけじゃが。――人間の暴走を抑え込み、それを維持することはできたが、わしにはもう一つ、叶えたい願いがあった。鬼薬を死者に投与し、蘇らせることじゃ。しかし、罪人の死体で実験したが、どれも反応を示さなかった。矢のように時は過ぎていき、気づけばわしは老いていた。その焦りから、成功例を生めぬまま、わしは計画を実行した」

「計画……?」

「いつも柴刈りで入っている山で、死んだ息子の墓を掘り返し、鬼薬をかけたんじゃ」

「馬鹿な……」

「奇跡が起きた。白骨化していた小さな息子は、光と蒸気に包まれたあと、鬼になることもなく、ただ、肉体を取り戻したんじゃ。また会えたことが嬉しくて、わしは泣いていた。そして、またいっしょに暮らすにはどうしたらいいかと考えた。まさかばあさんに真実を告げるわけにもいかんし、そのまま連れ帰れば、親を捜そうと騒ぎ出すに違いなかった。人の子ではないと思わせるため、わしはその子を、川に流すことにした。その時間、下流でばあさんが洗濯をしていることはわかっておったからな」

「まさか……その子は……」

「ああ、お前じゃ」

 おじいさんとおばあさんは、親代わりではなく、本当の親だったというのか。僕は、一度死んだ人間だったというのか――桃太郎の呼吸が荒くなった。

「鬼薬によって死者が蘇ったのは、あとにも先にも、その一度きりじゃった」

 信じがたい事実をどうにか嘘に変えようと、桃太郎は奇妙に思った点をついた。

「しかし、なぜ、桃になんか。あの山に大きな桃は――」

「あれは桃ではない。わしの、祈りだったんじゃ」

「祈り……?」

「この先、鬼になってしまうことなく、人の心を持ったまま成長していってほしいという祈りじゃ。わしは背負っていた籠を下ろし、そこに入っていた小枝や材木を使って、舟をつくった。人の心を表した形で。自分の手が血まみれになっていることに気づいたのは、出来上がったときじゃった。鎌しか持っておらんのに、難しい作業をしたもんじゃから、途中で指を切っていたんじゃ。わしはそれほどに夢中になって、舟をつくっていた。小さな命を載せた〝人の心〟は、安定性を得るために逆さまになって川を流れていった。ばあさんはそれを、大きな桃だと思い込んだ。川の水によって木がふやけ、わしの血の赤が[滲{にじ}]んで薄まり、たしかにそう見えた。桃だと言うばあさんに調子を合わせ、わしは包丁で開けることにした。中にいるお前が傷ついてしまわないよう、わし自身が切ったんじゃ」

 おじいさんの話を嘘に変える糸口は、もう見つからなかった。

「お前はわしの望んだとおりに成長してくれた。鬼の力を持ちながら鬼になることもなく、優しい心も持っていた。ほかの子供たちと比べて、成長自体も早かった。三歳にして斧を振れるようになったのは、紛れもなく鬼薬の影響だったんじゃろう」

「まさか、僕だけ動物と会話ができたのも――」

「おそらく、お前が半分鬼だからじゃろう。鬼薬を飲んだ者は決まって、自然と一体化するような感覚をおぼえる」

 もはや認めるしかなかった。自分は人であり、鬼なのだ。

「剣術を身につけ、もはや敵なしとなったお前を見て、わしは確信した。人間の姿を維持したまま、人の心と鬼の力を併せ持った完全な個体――パーフェクト太郎だと」

「パーフェクト……太郎……?」

「『完璧』を意味する異国の言葉じゃ。――お前が鬼退治に行くと告げたとき、ちょうどいいと思った。わしには後継者が必要だったからのう」

「後継者?」

 思わず桃太郎は、いやパーフェクト太郎は訊いていた。

「鬼によって秩序を保つのに、限界が来ていたんじゃ。わしは老いてしまったし、何より鬼にするための人間が乏しくなっていた。初めて鬼が村を襲った日から、罪人が出なくなっていたからじゃ。鬼がいなくなれば、人々はふたたび殺し合いをはじめてしまう。お前が適任者であることはわかっていた。その力を使い、人々に適度な恐怖を与えつづけることで、きっと秩序は保てる。しかし事情を話したところで、お前が素直に頷かないこともわかっていた。誰より鬼を憎んでいたお前が、暴力による安定を、[是{ぜ}]とするはずがないからのう」

 たしかにそんな役目を託されたところで、自分は拒否していただろう。いまだってそうだ。

「ならば力で屈服させ、納得させるしかないと考えた。圧倒的な力の前では、正義も、信念も、倫理観も、すべては綺麗ごとに過ぎないということを教え、その上で秩序を維持する現実的な方法を理解させる必要があると」

 パーフェクト太郎の頭に、ある疑問が浮かんだ。

「力でねじ伏せたかった僕に、なぜ剣や鎧を持たせたのです?」

「万全な状態でなければ、敗北を認められん。違うか?」

 そのとおりだった。

「お前が旅立ったあと、わしは神社に行くと嘯いてすぐに家を出た。そしてお前より先にこの島に渡った。こんな老いぼれでも、まだ馬に乗るくらいはできるからな。わしは鬼薬を飲み、自らを鬼にして、お前を待った。到着は予想していた頃だったが、仲間を連れてきたものだから、そのぶん鬼を増やさなければならなくなった。黄色の一体がもたついておったのは、数を見誤って、鬼薬を飲ませるのが遅れたからじゃ。ともあれ、お前と一対一で戦うことができた。まさかお前が鬼にるなどとは思わず、負けてしまったがな」

「そういえば、あれはいったい……?」

「お前がわしの足を角で受け止めていたとき、浴びた血を飲んだんじゃろう。そこに含まれている鬼薬の成分が、お前を鬼に変えたのだとわしは見ている。過去にそんな例はなかったが、もともと半分鬼であるお前は、少量でも鬼になることができたんじゃろう」

 たしかにあのとき、飲んでもおかしくないほどの血を浴びた。

「勝ったのはお前じゃ。鬼として生物の頂点に立ち、世界を支配するもよし。正体を隠したまま人として生き、世界を傍観するもよし。あるいは、まったく別の選択をするもよし。とにかく、お前は自由じゃ」

 おじいさんは仰向けになったまま、両手を広げた。

「さあ、殺すがいい。わしはお前が最も憎んだものの元凶じゃ」

刀は、おじいさんの頭の上に落ちている。

「早くせんか。わしをこの呪いのような人生から、解放してくれ」

 強がりなどではなく、おじいさんが本心からそれを願っていることが窺えた。だが――。

「そんな身勝手なことはさせない」

 パーフェクト太郎はおじいさんの目を睨みつけた。

「おばあさんは、何も知らないんだろ! もしもここであんたが死んだら、おばあさんはどうなる。真実を知ってしまったらどうなる。あんたが裏でひどいことをしているあいだも、おばあさんはあんたにやすらぎを与えつづけていた。あんたはあの人に何を与えたんだ。呪いのような人生だと? そんなことをほざく人間に寄り添ってきた人の気持ちを考えたことがあるのか? あんたは生きなくちゃいけない。演技でもいい、まやかしでもいい。あの人が愛した夫として生きるんだ。あの人が信じている世界を壊すな。後悔、罪悪感――大いに抱えろ。あんたの苦痛なんて知るものか! 人間の醜さとか、秩序とか、犠牲とか、そんな大それたことは考えずに、今後はただ――あの人のためだけに生きろ」

 おじいさんは、ぼんやりと空を眺めている。そこにおばあさんの姿を見ているに違いなかった。

「お前の言うとおりじゃ、息子よ。しかし残念ながらこの身体は、村に着くまでとてももたん」

 おじいさんは指のない右手で、腹に空いた傷を示した。

「――すまんな」

 その謝罪は、おばあさんに向けられたものであるように思えた。

「いや、あんたは死なない」

 パーフェクト太郎は、おじいさんの腰に縛ってあるひょうたんを取り上げた。

「いまからあんたに鬼薬を投与する。いちど鬼になれば、傷はすべて治るはずだ。さっき僕がそうなったように」

 おじいさんは応えず、何かを諦めるように微笑んだ。

 突然雨がやみ、あたりに光が射した。

おじいさんの目尻から涙がこぼれた。

 

 第六章

 

 鬼になったおじいさんが元の姿に戻ると、やはり傷は癒えていた。

 これは人の怪我を治すのに使えるのではないかと、パーフェクト太郎は鬼薬の医療転用への可能性を感じた。

 鬼になっているあいだに、おじいさんは残った罪人たちを皆殺しにした。解放するわけにも、村に戻すわけにもいかず、かといって置き去りにすれば餓死を待つのみ。そんな彼らにとって、死こそが救いなのだとおじいさんは言った。それを裏付けるように、鬼になったおじいさんに手をかけられる際、誰一人として抵抗しなかった。

「財宝はこっちにある」

 おじいさんは、パーフェクト太郎と戦った場所から、さらに奥につづく穴を指さした。

「その前に、仲間たちを探して来ます」

 パーフェクト太郎は侵入してきた通路のほうに足を向ける。犬、猿、雉の安否が気がかりで仕方なかった。

「私たちなら無事です」

 犬の声がしてまもなく、仲間たちが姿を現した。

「これが『無事』に入るもんかよ」

 猿が呆れたように言った。

 仲間たちは互いに傷ついた身体を支え合いながら、こちらに向かって歩いてくる。

「お前ら!」

 パーフェクト太郎は思わず駆け寄っていた。

「桃太郎さんは大丈夫でしたか? 髪もほどけて、服もボロボロですけど」

 雉は心配そうに、パーフェクト太郎を見上げて言った。言われて気づいたが、鬼になって戻ったときから、きっとそうだったのだろう。

「ああ、問題ないよ」

「それはよかったです」

 雉は安心したように微笑むと、首を傾けてパーフェクト太郎の背後を覗く。

「あの人は?」

「ああ、あとで話そう」

 

 おじいさんについていった先に、財宝は保管されていた。

 高価な石、巻物、着物、家具――見たところ、ほとんど手つかずの状態だった。

 そのすべてを荷車に積み、おじいさんの案内に従って、さらに洞窟の奥へと進んだ。暗がりだが、下り坂になっていることがわかった。

 洞窟を抜けると、砂浜が広がっていた。青い海が日光を反射して輝いている。

 パーフェクト太郎たちが上陸した北側とは、まるで別の島のようだった。

「あれがわしの船じゃ」

 おじいさんの指さした方向には、立派な船が停泊していた。

「なんだよ、こりゃ。俺は何のために二回も崖を登ったんだか」

 心底馬鹿馬鹿しいというように、猿がぼやいた。

 

   *

 

 荷車の車輪に背をもたせかけ、パーフェクト太郎は座っていた。

 犬、猿、雉も、それぞれ楽な体勢でくつろいでいる。船の上で手当した甲斐あって、もう仲間たちの身体は、何とか歩ける程度には回復していた。包帯や当て布はなかったので、旗を代用した。おばあさんの仕立ててくれた旗は、最後まで役立ってくれたのだ。

 ついさっき、おじいさんは先に村へと帰っていった。いっしょに帰るわけにはいかず、こうして村近くの草原で、時間調整をしているのだった。

「なんだか懐かしい気がしますね、ここ」

 腹を草につけて座る犬が、照れたように言った。

「ああ。ずいぶん前のことみたいだ」

 この草原は、犬と初めて会った場所だった。

「――でもまさか、僕を殺すために近づいてきてたなんて、夢にも思わなかったよ」

 パーフェクト太郎が笑いながら言うと、犬はばつが悪そうに謝った。すでに仲間たちから、彼らの本来の目的については直接聞いていた。また、パーフェクト太郎からも、おじいさんから告げられた真実を伝えてある。

「しかし大丈夫なのか? 僕に加勢したってことは、任務を放棄したことでもある。それによって、立場が悪くなったりしないのか?」

「それは問題ないだろうよ」

 草の上に寝転がっている猿は、空を眺めながら言う。

「議会の目的は、鬼に覇権を握らせることだったんだ。でも鬼の正体は人間だった。この時点で、どっちに勝たせるもクソもない。しかも残ってるのは、半分鬼のあんただけだ。ある意味じゃあ、鬼に勝たせたといえる結果さ」

「そうか。なら安心だ」

 たしかに、猿の言うとおりかもしれない。

「これから、どうなっていくんでしょうね。人間は」

 荷車の持ち手にとまっている雉が言った。

「鬼がいなくなったことで、また同族同士で傷つけ合ったり、動物たちを虐げたり、自然を壊したりするようになっちゃうんですかね」

 反射的に、パーフェクト太郎は口をひらいていた。

「人は、そこまで愚かじゃない――と、思いたい」

 もしもこの先人間が、雉の危惧したようなことをはじめたなら、自分はこの力を使い、それを阻止するしかなくなるだろう。鬼として。

「本当にそんなことになったら、俺たち猿は、こんどこそ人間の敵に回るぞ」

「私たち犬は人間に寄り添い、忠実な動物として、一番近くで監視しましょう」

「僕たち雉は、空から見守ることにするよ」

 パーフェクト太郎を励ますように、仲間たちはそれぞれ意見をくれた。

「心強いよ、ほんと」

 パーフェクト太郎は自然と微笑んでいた。

「さて、そろそろいいんじゃないか?」

 からっとした声で言いながら、猿は起き上がる。

「そうだな。村に帰ろう」

 パーフェクト太郎も立ち上がる。

「先に言っておくが、俺たちは長居はしないぜ。議会への報告とか、いろいろあるからな。キビ団子を喰わせてもらったら退散する」

 ともに戦ってくれたお礼に、村に帰ったらおばあさんに頼んでキビ団子をご馳走すると約束していたのだ。

「ああ、わかってる。味や大きさへの文句は、本人に直接伝えるといい」

 パーフェクト太郎は仲間たちに意地悪を言った。鬼ヶ島に渡る直前に、味が薄いだの少し大きかっただのと言われたことを持ち出したのだ。

「いや、あれは俺たちの話してたことを誤魔化すために、咄嗟に嘘をついただけだ!」

「そうですよ!」

「うんうん!」

 仲間たちは焦っていた。

「ま、どっちでもいいさ」

 そんなことで、おばあさんは怒ったりはしない。

 

   *

 

 村人たちは道の左右に人垣をつくって、パーフェクト太郎たちを出迎えた。

 そのあいだを、荷車を引きながらパーフェクト太郎は歩いていく。歓声の中から、「英雄」とか「偉大」とか「誇り」とか、たいそうな言葉が聞こえてきた。

 家の前に荷車を停め、引き戸を開けた。

「ただいま」

 パーフェクト太郎は心の中で、「母さん」と付け足した。

 おばあさんは幻を見るかのように唖然としたあと、ぱっと表情を晴らした。

「おかえり」

 その言葉を何度も繰り返しながら、おばあさんは泣いた。歓喜する村人の中でただ一人、おばあさんだけが泣いていた。

 その背中におじいさんは手を添え、「よかったなあ」とあやすように言う。ふとおじいさんがこちらを見た。パーフェクト太郎は頷いた。おじいさんは安らかな笑みを浮かべ、頷き返してきた。

 仲間たちのことを話すと、おばあさんは食べきれないほどたくさんのキビ団子をつくってくれた。みな大喜びで食べていた。

 持ち帰った財宝の大半は、それぞれ元の持ち主に返却された。しかし持ち主が不明であったり、すでに死亡していたものもあった。

 それらをめぐって争いが起きるようになるまでに、長い時間はかからなかった。

 それでもパーフェクト太郎は、人間の醜さから目を背けながら、自分のやったことの正しさを祈りながら、幸せに暮らした――ふりをした。

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ニコニコネット超会議2020夏「超ⅡⅤ特番生放送」に板倉俊之さんとしずるの村上純さんが出演します! 人気芸人のお二人が板倉さんの新作小説や作家としての活動について語ります。

本作のイラストはなんとあの人気漫画家⁉ などなど新作小説の見逃せない情報をたっぷりお届けします。

<番組概要>

番組名:超ⅡⅤ特番生放送

日時:8月12日 17:00〜20:00

※板倉俊之さん、村上純さんの出演コーナーは番組冒頭のみになります。

特番生放送URL

視聴URL

※視聴URLは8月5日以降正式稼働予定

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆