第五話「たった一つの願い」
―How to Survive―
都会の片隅に、その小さな小さな芸能事務所はあった。
私鉄の駅前にある、間違いなく昭和に建てられたであろう細い雑居ビル。いかがわしい店が看板を並べる中、その三階を借りていた。
狭いエレベーターホールの前には、
『[有{あり}][栖{す}][川{がわ}]芸能事務所』
そう書かれた小さなプレートがぶら下がっていて、そのドアの先に、応接室と事務室を一緒くたにしたような部屋がある。
隣には[磨{す}]りガラス窓で仕切られた部屋があって、『社長室』のプレートがあった。
その応接室で――、
「レイ? ――おやまあ」
この芸能事務所に所属する、十五歳の女子高生が寝ていた。
白いワンピースの、右胸の位置に大きな青いリボンが目立つ制服を着て、腰まである長い黒髪をカチューシャで留めている。
そして、レイと呼ばれた彼女は、応接室のソファーでころんと横になって、静かに寝息を立てていた。
社長室から出てきた、四十代と公言しているが、それよりグッと若く見える事務所社長の女性は、ゆっくりと歩き、壁際に置いてあるコーヒーメーカーに手を伸ばした。
やがて、コポコポとお湯が[沸{わ}]く音と、[漂{ただよ}]ってくるコーヒーの香りで、
「先生! お母さん! 違うっ!」
そんな言葉を叫んだ。
「おうっと! ――起きた? それともまだ寝てる?」
身を起こし、振り向いて、[寝惚{ねぼ}]け[眼{まなこ}]で社長を見たレイが、
「ここ……、どこ?」
「どんな夢を見ていた?」
「え? あ、社長……」
「いいから、いいから。どんな夢を?」
「え? あ――、えっと……」
社長を見ながら何度も何度も大きな目を[瞬{まばた}]いたレイだったが、やがて、
「思い出せません……。さっきまで! 今さっきまで、確かに、私は夢を見ていたんですが……」
「そっかー」
「はい……。って! すみません! 寝ていました!」
立ち上がろうとするレイを、
「あー、いいからいいから。もうすぐコーヒーできるし」
社長は言葉と手の平で制した。できあがった熱いコーヒーをカップに入れて、テーブルの上に置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
「おう、飲め飲め。イケる口だろ?」
「あはは」
「私、人の夢の話を聞くのが結構好きでね。夢を見たら、すぐに教えて[頂{ちょう}][戴{だい}]な。忘れる前に。[面白{おもしろ}]い夢でも、面白くない夢でも!」
「はい。でも、そっちの〝夢〟は、すぐに忘れちゃうんですよね……」
「もひとつの〝夢〟は、私達が叶えてあげる! 名女優と歌手ね!」
「あ……、ありがとうございます!」
「夢はでっかく持とう! 今の夢は?」
「はい! 今度は、できるだけたくさんの人の前で歌いたいです! 多くの人に、歌の感動を届けたいです!」
「いいねえ。何万人くらい?」
「え? いえいえ、ま、まずは数千人……、いえ、数百人……」
「あーん、小さい小さい! 夢なんだから、でっかく行こうぜ! だいたい数十億人くらい! ――で、その夢の案内人はどこに行ってるのかなあ?」
そう言いながら、社長がなぜか天井を見上げたとき、
「俺ならここです。ただいま戻りました」
言葉と共に、事務所のドアが開いた。
入ってきたのは紺色のスーツ姿の男。百五十五センチと小柄で、短い髪は全て真っ白。まるで外国人の少年のように見えた。
「おかえりなさい、[因幡{いなば}]さん」
「おっかえりー。お仕事ゲットしてきた?」
レイと社長が言葉を送り、レイはスッと立ち上がった。コーヒーメーカーに向かう。
「はい。歌です。その世界で、大勢の前で歌って欲しいと」
因幡がレイとすれ違いざまに言って、
「歌っ! 大勢!」
レイが、コーヒーメーカーの前で身を弾ませた。
そして、右手に因幡のカップ、左手にコーヒーのポットを持ったまま、白い髪の男に[訊{たず}]ねる。
「ど、どれくらい……、大勢ですか……?」
「ひとまず、十万人くらいを集めたいそうだ」
ポットの中のコーヒーが、激しく揺れた。
* * *
「異世界ですねえ……。予想はしていましたけど、毎回毎回、とっても驚きます!」
黄色い小型の四輪駆動車が、巨大な箱の[隙{すき}][間{ま}]を走っていた。
今までと同じように、事務所の地下にある駐車場を出発して、トンネルのようなスロープを上りきってから出てすぐ、景色は一変した。車の窓から見える世界の大地は、真っ平らでクリーム色をして鈍く光っていた。まるで病院の床のようだった。
空には、雲一つない青い空が広がる。
出発時は昼過ぎだったが、この世界の時間は朝で、進行方向の反対側、低い位置に太陽があった。そして目の前には、地球によく似た月が丸く白く光っていて、その隣にはもう一つ、赤く小さな月が見えた。
そして、大地の上には巨大な箱が鎮座している。
それはまるでレンガのような直方体で、色は鈍く濃い緑色。壁は光を全く反射していない。その大きさは――、
「これ……、どれくらいあるんでしょう……? 因幡さん、分かりますか?」
助手席の窓から運転手へと視線を戻して、レイは訊ねた。
ハンドルを握る因幡は、
「長さが二百四十メートル。高さが四十四メートル、幅が百十七メートルだと聞いている」
スラスラと答えた。
小さな車は、その巨大な箱と箱の隙間、五十メートルほどの細長い空間を、道として走っている。百十七メートル走って一つの箱が終わると、三十メートルほどの空間を開けて次の箱が並んでいる。
空間を抜ける際に横を見ると、箱は二列だけでなく、その左右にもぎっしりと並んでいるのが分かった。
「いったい幾つあるんですか……。この箱、何に使うものなんですか? 知ってますか?」
「船だと聞いている」
「船……? ここに水が入って浮かぶんですか?」
「それは――、まあ、依頼者達から聞く方が早いだろう。これから俺達も空を飛ぶ」
「はい?」
内容
今度の仕事は巨大な特設ステージでのライブ!
10万人の観客を前に全力で歌を披露するレイ。しかし、観客たちのリアクションはゼロ。
目の前の観客を楽しませようと、懸命にパフォーマンスを続けるレイだが、依頼者にはレイには明かしていない隠された目的があり――。
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