ノーシュガー☆ノーライフ 前篇

「いける、このまま……っ!」
 ヘルメットの奥で、[坂本{さかもと}][誉{ほまれ}]の瞳がギラリと光った。
 開催最終日の最終レース。優勝戦。一般的なスポーツと同じ呼び方をするなら決勝戦だ。
 もしこのレースに勝利すれば、六日間の死闘を繰り広げた五十数名の頂点に立つことができる。
 全三周のうち二周目を過ぎた時点で、誉は先頭に立っていた。後ろから迫り来るボートの音が聞こえるから決定的な差は付いていないようだが、ボートレースという競技の特性上、一度先頭に立った[艇{てい}]を後ろから抜くのは非常に難しい。よほどのミスでも犯さない限り、ここから着順が入れ替わることはないだろう。
 300メートルの直線でスロットルレバーを握りしめながら、誉は視界の奥に小さく映る赤白のブイを見据える。あそこを無事に回りきれば、栄光のゴールだ。
 あの、シュークリームに似たターンマークを回りきれば、晴れ晴れしい気持ちでこの開催を終えられる。厳しい減量も、勝利のためだったと思えば洋菓子に添えるブラックコーヒーのようなアクセントに過ぎない。どんな苦みも、甘味の引き立て役としてなら呑み込もう。
 シュークリームが迫る。いや、色合いとしてはマカロンだろうか。白はバニラ、赤はラズベリー……も、いいが、高貴なローズフレーバーというのもまた味わい深そうだ。
 明日は休日だから、並木通り沿いのカフェにでも繰り出そう。マカロンとブラックコーヒーで、優雅に午後を過ごすのだ。……いや、やはりキャラメルマキアートにしようか。 脳内を色鮮やかなマカロンが流星群のように飛び交う。
 そして、誉はつい思ってしまった。ああ、本当にお腹が空いた、と。
「…………っ⁉」
 その途端両手にほとんど力が入らなくなる。今までアドレナリンで蓋がされていた『確たる事実』に、うっかり脳が気付いてしまった。
 きついカロリー制限が祟って本当はとっくにエネルギー切れ。脳内物質に突き動かされていただけで、誉の身体は完全にガス欠を起こしていた。
「し、しまっ……⁉」
 ハンドリングを誤り、誉の艇が大きく外に流れていく。
 その内側を突き、淡々と先頭に躍り出る[久野{くの}][颯斗{はやと}]の姿を、誉は半ば呆然としながら見つめ続けた。

    *

「くそっ!」
 撤収作業も終わり人もまばらになったピット裏の壁を、誉が力いっぱいに叩く。
「珍しく荒れているな。まあ、気持ちは分からなくもないが」
「……颯斗くん」
 そこへ颯斗が静かに近付いてきた。優勝の栄冠を手にした後とは思えないほど落ち着き払ったその様子が、いかにも颯斗らしい。
「しかし手を痛めつけるのは止めた方が良い。怪我でもしたら泣きっ面に蜂だろう」
「泣きっ面に蜂……泣かせた張本人に言われるとむしろせいせいしますね。優勝おめでとうございます、颯斗くん」
「心外だな。誉の敗因は完全に自爆だろう。俺が何か泣かせるようなことをしたか?」
「……ぐ」
 颯斗はいかなる時も悪気がない。それゆえ、言葉が直球すぎて相手に刺さることも時折あった。
 皮肉屋の誉でもさすがに言い返せず、二人の間にしばし沈黙が訪れた。
「勝ったのだからもう少し嬉しそうにできないのですか?」
「あんな不可解な勝利では尚更難しいな。お前がそういう人間でないことは知っているつもりだが、まるで勝ちを譲られた気分だ」
「勝ちを譲る? それはさすがに悪い冗談……くっ」
 聞き捨てならぬと颯斗に詰め寄る誉だったが、一歩踏み出したところで立ちくらみに見舞われてしまった。
 レース後からまだ、水一杯すら口にしていなかった。
「む、どうした⁉」
「なんでもないです。ほっといて下さい」
「そんな姿を見てほっておけるか。誉、もしや体調に問題があったのか? ……ならば、とてつもなく申し訳のないことを言ってしまったな」
 肩を抱き、心配そうに誉の顔を覗き込む颯斗。
 誉としては言葉に[窮{きゅう}]するばかりだった。確かに体調に問題が発生したのがあのターンミスの原因だ。
 しかし、そうなった直接的な理由もわかっているので、口にし辛い。
「相当に参っているようだな……。医務室に連れて行く。もう少し辛抱しろ」
「あ、いや……」
 抵抗する誉を引きずるように歩き出した颯斗。
 診察されたら原因がバレるのも時間の問題だろう。腹をくくり、誉は大きくため息を漏らした。
「颯斗くん、医務室は行かなくていいです。それより……」
「それより? なんだ?」
「…………飴玉とか、持ってないですか?」

    *

「……ふぅ」
 ベンチに腰掛け、至福の笑みを浮かべる誉。舌の上で黒糖の甘みが解けるたび、ライフゲージが急回復していくような感覚だった。
「呆れたな。よりにもよってエネルギー切れとは」
 その隣で腕組みをしたまま、颯斗は眉をひそめた。
「言葉もありませんが、久々の優勝戦で緊張していたのですよ。普段なら糖分切れを起こさぬよう、レース直前に何かしらの食べものでチャージしておくのですが、今日はうっかりしてしまい……」
 飴玉ひとつ程度ならば、いきなり体重が増えたりはしない。簡単に対策できる問題だったのだから、誉がミスを犯したという事実は否定しようもないだろう。
「ふむ……」
 しかしその弁解を聞いても、颯斗はどこか納得しきれない表情だった。
「なんです? そんなに幸運で優勝したことが気に入らないんですか? 私だって堪えてるんだからそろそろ勘弁して下さいよ」
「いや、そうではない。その話を聞く限り、どうも誉の身体に問題があるような気がしたのだ」
「身体に問題? どういうことでしょう?」
 意味が分からず、少しムッとしながら尋ね返す誉。
「前々から思ってはいたのだが、誉はあまりにもエネルギーを糖質に頼りすぎなのではないか? だからそんないとも容易くガス欠してしまうのだ」
「頼りすぎって、エネルギーイコール糖質でしょう?」
「それは誤解だ。人間が利用できるエネルギーには糖質の他にケトン体と総称されるものがあり、本来人間には二つのエンジンが備わっていたのだが――」
 あっ、この話長くてめんどくさいやつだと瞬間的に察した誉は心を閉ざし、壁のシミでロールシャッハテストを始めた。
 あの模様はメロンパンに似ている。食べたい。
「――と、いうことだ。結論だけもう一度言うと、ケトン体をエネルギーとして使えるようになれば血糖値が安定する。即ち、立ちくらみのような急激な体調変化が起こりづらくなるだろう」
「へえ」
 話が終わったようなので誉は生返事で答えておいた。
「ちゃんと聞いていたのか?」
「聞いてましたよ。で、私にどうしろと?」
「やはり聞いていなかっただろう。無論、ケトン体エンジンが使える身体に改善してみてはどうかと[奨{すす}]めている」
「何をすれば良いんです?」
「当然、糖質制限だ」
「舌を噛んで死にます」
 これ以上聞く価値なしと立ち上がり、歩き出す誉。
 糖質を断つくらいなら尊厳死を選ぶ。誉にとっては100%の本音だった。
「アスリートとしての向上心はもう失ってしまったのか?」
「っ」
 しかし、颯斗の冷徹な一言がその足をピタリと止めさせた。
「よく聞け。俺だってお前がただの友人ならばこんなことは言わない。だが、あんな情けない形で優勝を逃してしまう状況ならば、選手として問題の根を摘むべきではないか? 同期として敬意を持って提案しているのだ」
「……直前に糖分チャージを忘れなければ、こんな結果にはならなかったんです!」
「どうかな? 血糖値が[乱高下{らんこうげ}]するリズムと、レースのタイミングが一致するとは限らない。可能な限り体調を安定させた方が有利だと思うのだが」
「…………それは」
「さらにもう一つ。常日頃から体重管理にも悩まされているのだろう、誉は。糖質制限すれば当然ながら減量効果もある。ボートレーサーに対する助言として、どこか理にかなわない要素はあるか?」
 唇を噛む誉。何も言い返せなかった。颯斗の言葉を拒絶したがっているのは選手としての意志ではなく、坂本誉という個人のエゴ、ただそれだけだった。
 ただ、それでもどこか、誉は颯斗の提言に受け入れがたいものを感じていた。
「本当に効果があるんですか? どうしても半信半疑になってしまうんですが」
「その気持ちはわかる。だから、とりあえず二週間でいい。二週間だけ、俺の言う通りの食事メニューに従ってくれ。それで必ず、体調の変化に自分自身で気付くはずだ」
「何も起こらなかったら? むしろ、もっと悪くなった時は責任とってくれるんですか?」
「そうだな、その時は……」
 少し考えてから、颯斗は静かに微笑んだ。
「誉が望む菓子を、なんでも何度でもご馳走しよう」
「言いましたね。……分かりました、不本意ながら賭け成立です」
 右手を差し出す誉。
「理解を示してくれて嬉しい。感謝する」
 握り返した颯斗と固い握手を交わしながら、誉は密かに強く念じた。
 それだけの代償を払うのだから、見返りも相当なものでなくてはつり合わない。
 ファーストクラスでパリまで飛んで、世界最高峰レストランのスイーツフルコースを颯斗におごらせてやる。
 そんな未来図を胸に、誉は覚悟を決めた。

    *

「は? あの誉が糖質制限?」
 西へ向かう新幹線の車内で、[糺ノ森{ただすのもり}][凛{りん}]は心の底から驚き、隣の座席でコーヒーを飲む颯斗に[素{す}]っ[頓狂{とんきょう}]な声を浴びせかけた。
 坂本誉、久野颯斗、そして糺ノ森凛は同期デビューの選手たちだ。互いのことはよく知り尽くしているので、その決断は凛にとってにわかに信じがたいものだった。
「あの腹黒スイーツ野郎がねえ。腐ったバナナでも拾い食いしたのか?」
「凛に腹黒呼ばわりされるのはさすがに可哀相では?」
「あぁン? どういう意味だコラ?」
 女性とも[見紛{みまが}]うような端正な顔を極限まで[歪{ゆが}]め、颯斗に対しガンを飛ばす凛。タイプこそ違えど、裏表の両面性があるという括りでは凛も誉も極まった存在であることは自覚しているのだが、引っかかる言い方には噛みつかざるを得なかった。
「そのままの意味だが。さておき、やはり昨日優勝を逃したのが心の底からショックだったのだろうな。俺としても思いの外、説得に時間がかからなかった」
 [凄{すご}]まれても何食わぬ顔で話を続ける颯斗。
 たまたま移動日が重なった凛にメッセージを送り、電車の時間を合わせてもらったのは誉のことを誰かに話したくて仕方なかったからなのだろう。
「しかし、俺らみたいなアスリートが糖質制限なんかして大丈夫なのか? なんか相性悪そうなイメージなんだが」
「そうか凛、お前も糖質制限に興味津々なんだな。わかった、基礎的なところから順を追って話そう。そもそも――」
「待て待て! どうしてそーゆー解釈になるんだ! 長文禁止! 140文字以内にまとめろ!」
 危険を察知して凛が釘を刺す。小難しい[講釈{こうしゃく}]を延々聞かされたら寝落ちて福岡に到着してしまいかねない。余談だが今回の目的地は[浜{はま}][名{な}][湖{こ}]だ。
「筆談しているわけでもないのに理不尽なことを言うな」
「うるせえとにかく手短にしろ。でなきゃ黙れ」
「……努力はしよう」
 そう言って咳払いをひとつ挟んでから、颯斗は早口で語り始める。
「アスリートと糖質制限の相性だが、種目によりけりというのが俺の見解だ。絶対的に向かないのは勝つために大きく[筋肥大{きんひだい}]をさせる必要のあるパワー系の競技。そして短距離走のような瞬間的に爆発的な[運動負荷{うんどうふか}]がかかる競技だな。そのどちらにも該当しない競技ならば、デメリットよりメリットの方が大きいと思っている」
「マジで140文字にまとめやがったこの変態め」
 何往復も指を折りながら凛はドン引きした。
「数えてないで話に集中して欲しかったのだが……」
「心配すんな、ちゃんと聞いてた。なるほど。ボートレーサーは余計な筋肉なんて逆に付けられねーし、運動負荷もほどほどだ。けど、ずっと宿舎とレース場の往復ばかりの生活で糖質制限なんてできるのか?」
「そこは心配ない。あくまで『制限』であって糖質ゼロを目指すわけではないからな。競技中はある程度普通に食事をして、宿舎で完全に糖質断ちをするというサイクルで十分効果が見込める。俺自身の身体で実証済みだ」
「なんだ、そんなもんで良いのか」
「うむ、大して厳しい要求はしていない。……相手が過度の甘党でない限りは」
 相手が過度の甘党であることを思いだして凛は舌を出した。
「誉のやつ、[斡旋{あっせん}]どこって言ってたっけ?」
「[住之江{すみのえ}]だそうだ」
「うわ大阪かよ。初っぱなから粉モン天国じゃねーか」
 八割くらいの確率で早くも失敗に終わりそうだと、凛は心の中で合掌した。
「つーか颯斗、実証済みってことはお前も糖質制限してんのか?」
「ああ。おかげでずっと体調が安定している」
「ほんじゃお前、うな重食わないのか? せっかくの浜名湖前入りなのに」
「食べる。せっかくの浜名湖なのだ」
「ガバガバかよ!」
 相変わらずシリアス顔で[弩級{どきゅう}]のギャグをかますヤツだとシートからずり落ちる凛。
「普段厳格にやっているからたまに羽目をはずす程度は問題ない。もっとも最初の二週間は例外なしで取り組む必要があるが。でなければケトン体エンジンが動き出さない」
「さいですか。さーてさて、誉ちゃんはいきなりの難関を乗り越えられますかね」
「きっと大丈夫だと信じている」
 なんとも人の好いことで………と息を漏らし、凛は冷めた目を車窓に向けた。
 そろそろ富士山のはずだが、曇り空に飲まれてよく見えない。

    *

「おっ誉じゃん、やっほ~!」
 新大阪駅の人混みの中で見慣れた後ろ姿を見つけた[荒城駿太{あらきしゅんた}]は、嬉々と歩み寄ってその肩をポンと叩いた。
「うっ」
「え⁉ ど、どうした?」
 すると誉がヘナヘナとしゃがみ込んでしまったので驚く。そんなに強く叩いたつもりのない駿太としては[甚{はなは}]だ困惑するばかりだった。
「駿太くん……。そういえば、貴方も住之江に斡旋でしたね」
「おう! ……って、それより大丈夫か? 病気?」
「……そうですね。ある意味病気かもしれません」
「まじかよ! 病名はなんだ?」
「砂糖欠乏症、ですかね……」
 [瞼{まぶた}]を細め遠くを見つめながら呟く誉。
「なんだ、ビビらすなよ。いつものヤツじゃん。しゃーねーな、俺が助けてやる!」
 駿太もまた誉とは同期。苦楽を共にした仲間が苦しんでる姿を見て、放っておけるはずもなかった。
「あ、いや、ちょっと待っ……」
「売店売店、どこだっけ⁉」
 呼び止められたのに気付かず、走り出す駿太。すぐに大きな[土産物{みやげもの}]売り場を発見して、シュークリームを三つ購入する。
「お待たせ! 大阪感ないけどとりあえずこれで我慢しろ!」
 そして誉の元にとんぼ返りすると、満面の笑みで買い物袋を手渡した。
「あ……あ……」
 その中身を、焦点の合ってない瞳で震えながら[凝視{ぎょうし}]する誉。
「どうした? 早く食えよ。ずっと握ってると温くなるぞ?」
 不思議がって首を[捻{ひね}]る駿太だったが、誉はいつまでも震え続けるばかり。
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「うわっ! なんだよお前、今日マジでちょっとおかしいぞ⁉」
 しまいには[人目{ひとめ}]も[憚{はばか}]らず[絶叫{ぜっきょう}]した誉を前に、駿太はただただ困惑を重ね続けた。

    *

「糖質制限って……甘い物やめるの? 誉が? ムリだろ!」
 地下鉄で移動している間に誉がことのいきさつを話すと、駿太は過剰なほど何度も首を左右に振った。
「今となっては後悔しています……。ですが、売り言葉に買い言葉でつい……」
「やめちゃえば? どうせ近いうちに諦めるんだろうし」
 これまで糖質制限のことを知った人間は全員同じ反応だ。だからこそ苦しいながらも、誉は音を上げる気にはならない。
「まるで意志の弱い輩みたいに言われるのは非常にシャクです。それに、颯斗くんに呆れられるのも耐えがたい。こうなったら最後までやり通してみせますよ。少なくとも約束の期限までは」
「おおーさすが誉! かっこいいじゃん! よしわかった! なら俺も応援してやるぜ! 同じ師匠を持つ兄弟弟子としてもな!」
 宣言を聞くや、ぱっと表情を輝かせてバンバン肩を叩いてくる駿太。良くも悪くも単純明快な性格だから、すぐに誉の覚悟を信用したようだ。
「そう言って頂けるのは本当に嬉しいですね。感謝します」
 本心から誉は礼を伝えた。この後、いつもの流れで食事に誘われないか密かに心配していたのだが、配慮してもらえるなら断りやすい。あまり目の毒になるようなものを視界に入れたくないので、今日はさっさと部屋に閉じこもってしまうのが理想だ。
「ん?」
「お?」
 誉が[安堵{あんど}]の息を[漏{も}]らすのとほぼ同時に、スマートフォンが震えた。どうやら駿太も同じだったようで、鞄から端末を取り出している。

 【[是清{これきよ}]】お前らもう大阪着いてんの? メシいかね?

 表示されていたのは、誉と駿太二人宛のグループメッセージ。差し出し人はこちらも東京支部の同期、[乾{いぬい}]是清だ。
「そういや是清も住之江だっけ。せっかくだし行くよな誉!」
「…………何か、不吉な予感がするのですが」
 食事の誘いが嫌だったというのも事実だが、それ以上にこのメッセージは[不穏{ふおん}]というか、不審だった。普段の是清の性格を考えると、誉たちを食事に誘うというのは考えづらい行動だ。
「私はパスでいいですか……?」
「そりゃかわいそうだろ誉。あの是清が勇気を出して誘ってくれたんだぞ。大阪いるのに会ってやらないなんて傷つけちゃうぞ」
 是清の誘いであることそれ自体が断りたい理由なのだが、もし万が一ただの好意だったとしたら確かに薄情すぎる。
「……ううむ」
 悩みに悩む誉だったが、根拠のない推測で[忌避{きひ}]するのはさすがによろしくない。と、最終的には結論づけざるを得なかった。

    *

「おっす是清!」
「おー、来たか」
 迷宮とも称される梅田の広大な地下街をしばらく歩き、待ち合わせ場所にたどり着いた誉たちに、是清は軽快に右手を挙げて応える。
 [鋭{するど}]い[眼光{がんこう}]と少年のようなあどけなさが同居した顔立ち。誉たち同期の中で最年少だが、負けん気の強さならば是清がトップクラスだ。
「珍しいですね、是清くんから声をかけてくるなんて」
 それだけに、会食などを自分から持ちかけてくるのは様子がおかしい。さらに[訝{いぶか}]しみながら誉が問うと、是清は左手に持ってたポリ袋を掲げた。
「良いもの見つけたからな。分けてやろうと思って」
 持ち手を引っぱり、中を[覗{のぞ}]くように[促{うなが}]す是清。
「こ、これは……っ⁉」
 目を向けた直後、誉は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
「まさか……[堂島{どうじま}]のあのパーラーの、フルーツサンド……⁉ 二時間並んでやっと買えるという噂の……⁉」
「いやー苦労したぜ。だが、どうしても食べさせてやりたくてな。特に誉に」
 そう言って是清が笑う。
 ……いや、邪悪に口元を歪めた、と表現した方が明らかに適切だろう。
「あ、貴方という人は……」
 誉は一瞬で確信した。わざとだ。わざと誉を苦しめるために、是清は人気店に二時間並んで『武器』を仕入れたのだ。
 恐らく誰かから糖質制限しているという情報を得て、こんな悪魔の[所行{しょぎょう}]を思いついたに違いない。やはり直感を信じて断るべきだった。誉は血が[滲{にじ}]むほど唇を強く噛む。
「そんな震えるほど感動してくれるなんて並んだかいがあったぜ。ほら、遠慮しないでさっそく食え」
「い、いりま……せん」
「へ? 嘘だろ。フルーツサンドだぞ。めっちゃ甘いヤツだぞ。本気で食わないのか? ほれ、美味そうだぜ?」
 包装を外し、抜き身のフルーツサンドを誉の眼前に突きつける是清。爽やかな香りと内から沸き上がる[憤怒{ふんぬ}]が誉の中でまぜこぜになり、内面から爆発して最期を迎えてしまいそうな気持ちになった。
「おい是清、ダメだぞ! 今誉はわけあってそーゆーのは食えないんだ」
「マジかよ。じゃあ駿太が食うか?」
「お、良いの? やった!」
「一人じゃ食い切れねーし。ほれ、[有{あ}]り[難{がた}]く食え」
 我を忘れてしまう寸前の誉の前で、駿太が大口を開きフルーツサンドにかぶりつく。
「ふお! なんだこれ! うますぎ!」
「ヤバいな。ぶっちゃけ俺甘いモンあんま好きじゃないんだがこれなら食えるわ」
 是清も眼を[瞠{みは}]り、生クリームを頬につけながら乱雑に平らげていく。
「……………………」
 もはや怒る気力も消え、誉は無言のままヘナヘナと噴水の縁に腰を落とすことしかできなかった。
「……ハッ⁉ す、すまん誉! 俺としたことがつい夢中になってしまった! 待ってろ、お前でも食えそうなモノを買ってきてやるから!」
 クリームまみれの顔を近づけ、気遣いらしきものを今さら見せる駿太。絶対に許さないが、確かにこのままだと歩くこともままならないほど疲弊していたのでその申し出は助かった。絶対に許さないが。
「――お待たせ! さあ誉ちゃん! こいつをお食べ!」
「あ、ありがとうございま……」
 少しして、再び駿太が駆け寄って来た気配を感じ誉は閉じていた目を開く。
 目の前には、大粒のたこ焼きがホカホカと湯気をたてていた。
「……なんの、真似ですか?」
「え? 誉でも食べられそうな、たこ焼きを」
 そうだった。駿太はとびきりのアホだった。そのことを忘れていた自分もとびきりのアホだ。誉はもはや言葉を選ぶ余裕もなく内心で[呟{つぶや}]いた。
「駿太くん。それも、糖質です……」
「へ? なんで? 甘くないのに?」
「うるさい黙れ。私の目の前から早くそれをどけろ」
「ほ、誉さん? 口調ヘンですよ……?」
「どけろっつってんだろ!」
 怒鳴りつけてやるとようやく駿太はビクリとしてたこ焼きごと後ろにすっ飛んだ。
「ククク、予想通り面白え。いいもん見られたぜ」
 一部始終を観察していた是清は何食わぬ顔で駿太に近付き、無断でたこ焼きをひとつ奪い取って口の中に放り込む。
 こうして誉の『絶対に許さない』リストが大幅に更新されるのをよそに、大阪の夜は静かに[更{ふ}]けていくのだった。