ノーシュガー☆ノーライフ 後篇

「おはよう[誉{ほまれ}]、会うのけっこう久しぶり……うわっ⁉」
 [前検日{ぜんけんび}]のボートレース場。誉が声のした方を向くと[財前陽太郎{ざいぜん ようたろう}]がつぶらな瞳を限界まで開き、お化けでも見たような顔をしていた。
 彼もまた東京支部の同期。誉、[是清{これきよ}]、[駿太{しゅんた}]、[颯斗{はやと}]、[凛{りん}]、そして陽太郎は問題児軍団【SIX SICKS】などという[蔑称{べっしょう}]と共にボートレース界に足を踏み入れ、良い意味でも悪い意味でも数々の注目を集めた。
 あれからいくらかの時間が流れたが、未だに六人は[一括{ひとくく}]りの問題児扱いされることも少なくない。
 そんな現状には常に[異議{いぎ}]を[唱{とな}]えたい。とはいえ、それはひとまずさておき。
「おはようございます、陽太郎くん。どうしたんですか、そんな変な声を出して」
「いや、なんか誉……雰囲気変わったなって。まるで最愛の人を殺されて全ての感情を失ってしまったスナイパーのような眼をしているよ……?」
 陽太郎の例え話に、誉はふっと短く息を漏らした。
「それは、当たらずとも遠からずかもしれませんね」
 颯斗と[交{か}]わした糖質制限の[契{ちぎ}]りから今日で十日目。誉は[未{いま}]だ甘い物を一度も口にしていなかった。
それ故に感じる喪失感も、もはやピークに達しつつあったが。
「ああ、そう言えば凛から聞いたよ。誉、糖質制限してるんだって? ちょっと失礼だけど絶対すぐ断念すると思ってた。すごいね」
 あどけない顔で陽太郎が微笑む。
「私にも[意地{いじ}]というものがありますから。今まで生きてきた中で一番クソみたいな十日間でしたけど」
「誉、言葉遣いも悪くなってるよ……。でも、レース中とか大丈夫だった?」
「レース中はむしろ楽な方です。競技に集中してますし、ある程度の糖質を[摂{と}]ってもいいと言われている時間ですから。……地獄なのは夜ですね」
「なるほど。何か協力できることがあったら遠慮なく言ってね」
「では、私の前でものを食べないで下さい。では」
 自ら話を打ち切り、整備場へと向かう誉。陽太郎には申し訳ないが、今は口を開くことすら[億劫{おっくう}]なほど[暗澹{あんたん}]たる気持ちだった。
「誉、大丈夫かなあ」
 陽太郎の呟きが耳に入る。しかし振り返ろうとは思わなかった。
 正直そろそろダメかもしれないと、誉自身も感じていたから。

    *

「よし、明日からがんばるぞ」
 前検日の作業をつつがなく終え、宿舎に帰ってきた陽太郎。食事も済ませたので、後は入浴してからヨガで身体をほぐし、眠るだけだ。
 そういえば、食堂に誉の姿はなかった。夜の食事制限がキツいとの話だったので、まともな料理を目にすることすら辛いのかもしれない。
「あとで様子を見に行ってあげた方がいいかな。それともありがた迷惑かな」
「……陽太郎くん」
「うわっ⁉」
 思案しながら階段を登っていた陽太郎の前に、音もなく誉が現れた。昼間以上にギラついた視線に見据えられ。陽太郎は再び驚きの叫び声をあげてしまう。
「ど、どうしたの誉?」
「実は、折り入って頼み事が。私の部屋に来て頂けませんか?」
「うん、それはもちろん構わないけど……」
 陽太郎がおっかなびっくり答えると、誉はくるりと[踵{きびす}]を返し、押し黙ったまま歩き出す。どこか生ける[屍{しかばね}]のような[歩様{ほよう}]に、陽太郎はついホラーゲームのワンシーンを想像してしまった。
「お、おじゃましまーす」
 誉に続いて入室する陽太郎。ボートレース開催時に利用する宿舎は場所によって個室の場合と相部屋の場合とがあるが、今回は個室だ。
「えっと、誉。頼み事って……?」
 [尋{たず}]ねるが誉は返事してくれず、ボストンバックに手を突っ込んでまさぐり続けている。
 やがて目当ての物が見つかったようで、立ち上がった誉は陽太郎の方に向き直って何かを差し出した。
「それは、ロープ?」
 薄暗い[灯{あか}]りの中で眼を[凝{こ}]らすと、誉の手に収まっているのは何本か[纏{まと}]めて[束{たば}]ねられた、荷造り用の[紐{ひも}]のようだ。
「はい。見ての通り」
「それを、どうするの?」
「[縛{しば}]って下さい、私を」
「ぶっ⁉」
 告げられた瞬間陽太郎は反射的に壁ぎわまで後ずさりした。
「ほ、ほほほほ、誉。い、いつからそんな特殊な趣味に目覚めちゃったの⁉ それはまあ仕方ないこと……かもしれないけど、あいにく僕にそういう趣味は!」
「何を勘違いしてるんですか。誰が好きこのんでこんなことを。……今夜辺りから、そろそろ危ないと思うんです。夜、耐えられなくなって食堂に忍び込んでしまうかもしれない。そんな間違いを犯さぬよう、どうか協力して下さい」
「………………」
 まさかそこまで極まっている状態なのかと驚く一方、陽太郎は恐怖より仲間への心配の方が[膨{ふく}]らんでいった。
 もし宿舎でそんな問題を起こしてしまったら、選手として[厳{きび}]しい[罰{ばつ}]を受けることになるのは確実。ここは、誉の気持ちを受け止めてあげるべき場面なのかもしれない。
「わかった。誉がそこまで苦しんでいるのなら。……こういう時の縛り方、全然知らないけどね」
「心配無用です。そんなこともあろうかと本を買っておきました」
「やめてよ! こんなアヤシイ本渡さないでよ!」
 うっかり何気なく受け取ってしまった書物のタイトルは『人体の縛り方大全』。迷わず投げ返した。
「いや、そんなこと言われても。それとも資料なしで縛れるんですか?」
「う……」
 言い返せない陽太郎だった。しぶしぶもう一度その『資料』を受け取る。
「まさかこんなムダ知識を得ることになるとは思わなかったよ……」
「ムダではありません。少なくとも今の私にとっては」
 ベッドに横たわった誉に対し、ページを首っ引きでロープを[搦{から}]めていく陽太郎。もはやこうなったら可能な限り早く作業を終えて、この部屋から退出してしまいたい。[焦{あせ}]る陽太郎の額から汗が伝い、誉の首筋にポトリと[垂{た}]れた。
「陽太郎くん、これじゃぜんぜんユルいです。この程度の刺激、[今宵{こよい}]の私にはなんの[枷{かせ}]にもなりません。この身を[蝕{むしば}]む悪魔の情念が、溢れてしまう!」
「ええ……? ここから先は、相当痛いと思うけどいいの?」
「構いません。むしろ痛みを求めているのです。もっと縛って、痛めつけて下さい!」
「そこまで言うなら遠慮しないよ……? えいっ!」
「くっ……。この痛みが、きっと私に人の心を思い出させてくれるはず……」
「本当に大丈夫? 加減がわからないから心配だよ」
「陽太郎くんにはきっと才能がある。今宵、貴方が居てくれてよかった」
 ようやく、誉の自由を完全に奪うことができた。ふぅ、と一息吐いて、陽太郎は額の汗を[拭{ぬぐ}]い、振り返る。
「あ」
 いつの間にか、部屋の入り口に人だかりができていた。
『……………………』
 言わずもがな、誰もがドン引きしている。
「お前たち、そういう関係だったのか……」
 かすれた声で[呟{つぶや}]いたのは、埼玉支部所属の先輩レーサー、[入江夏凰{いりえ なおう}]。
「いえ違うんですこれは」
 必死に弁解を[試{こころ}]みる陽太郎だったが、[訴{うった}]えかける言葉は誰にもまったく真に受けてもらえなかった。
「……えーと、まあ。アレだ。人様の趣味をとやかく言う気はないが、周りに迷惑だけはかけるなよ? ……ほら。音とか声とか、静かにな。いや俺はぜんぜん知らないけどな! そういう世界のことは!」
「だから違うんですってば〜!」
 仕舞いには夏凰から妙に優しくフォローされてしまい、半べそ状態になる陽太郎。
 この誤解が誤解だと浸透するまでには、今後も相当に長い時間が必要そうだった。

    *

 「まさか。信じられない……」
 明らかに身体が変化したと誉が自覚したのは、陽太郎と一騒動(?)があったあの開催の終盤だった。
 かつては後半戦になると立ちくらみや脱力感などに悩まされていたのに、それがまったく起こらない。初日から最終日の六日目まで、[絶{た}]えず安定した調子を保つことができたのだった。
 あいにく抽選で引いたモーターがかなり低調で、優勝争いに加わる事はできなかった。
 それでも、あのモーターで五日目まで優勝戦進出の可能性を残せたのは、誉からしてみればかなりの手応えを感じずにはいられなかった。
「誉、どうだ。なかなか成績は好調のようだが」
「颯斗くん。かなり具合が良いですね……悔しいことに」
 そして次の舞台――つまり、現在進行形で参戦してる今回の戦いにおいては、さらに体調の安定をハッキリと感じることができている。
 その理由は、再び同じ開催で相まみえることとなった颯斗から受けたアドバイスによるところが大きいだろう。
 誉の糖質制限に効果が出てきたことを確認した颯斗は、糖質を抜く時間帯を夜から昼、レース場で勝負に挑んでいる最中に変更しろと提言してきた。
 何を馬鹿なと思った誉だったが、強い希望に押され実践したところ確かにますます体調が安定するようになって驚く。
 以前の話を思い出す限り、血糖値の安定、そしてケトン体とやらをエネルギーに使えるようになったのが理由なのだろう。
「それは何よりだ。俺の方はモーターの調整にだいぶ時間を要しそうだが、誉はタイトルも狙えるのではないか?」
「どうでしょう。さすがに相手が悪すぎます。……まあ、ハナから諦めたりなんかはしませんが」
 今回の開催は『グレード』という冠のつくビッグレースの一つ。出場選手も[花形揃{はながたぞろ}]いで、誉たち若手は明らかに格下だ。
 それでも健康状態の良さが自信を引っぱってきてくれたのか、確かに[漠然{ばくぜん}]とした期待は意識せずとも浮かんできてしまう。
「幸運を祈っている。俺もなんとか後半までに持ち直せると良いのだが」
「ありがとうございます。……颯斗くん、この賭けは、私の負けですね」
 誉が苦笑を向けると、颯斗もまた静かに[口角{こうかく}]を持ち上げた。
「ふっ。賭けに勝つのはただの物理だ。俺の手柄じゃない。むしろ、余計なことをして強力なライバルをみすみす育ててしまったかもしれないな。失敗を犯した」
 などという割にどこか嬉しそうな颯斗。
 誉はもう一度、心の中で感謝を呟いた。

    *

 またひとつ開催が終了し、[家路{いえじ}]につく誉。
 休息は短く、二日だけ休んだら次は九州まで遠征。なんともめまぐるしい稼業を選んでしまったと改めて苦笑する。
 しかし、この日は全身が希望で燃えていたから、疲労感など少しも感じていなかった。
「もしかして、私はついに一段駆け上がることができたのでしょうか。レーサーとしての、次のステージに……」
 誉は優勝こそ逃したものの、見事優勝戦に進出。その上3着に食い込んで舟券の波乱を演出する立役者になった。
 足りていなかったピースを、糖質制限というまさかの要素で埋めることに成功したのだろうか。
 とすれば、失った物もまたあまりに大きい。
 だが、それでも。誉がボートレーサーとして成長し続けるために、必要な要素なのだとしたら……。
「このまま、続けるべきなのかもしれませんね。糖質制限を……」
 不思議なことに、あれほど枯れることのなかった糖分への熱情も、ここ数日は穏やかになった気がする。身体が慣れてきたということだろうか。
 今ならば、できるかもしれない。誉が今まで生きてきたうちに[培{つちか}]ってきた食生活のサイクルを、大改変することが。
 そう、思った直後。
「……え?」
 突然、目の前が真っ暗闇に包まれた。
「な、ちょっ⁉」
 どうやら何者かに袋か何かを[被{かぶ}]せられたらしい。もがいている内に横から押し倒され、身体が車のシートのような感触に触れる。さらに後ろ手に親指を結束されてしまい、自由までをも奪われた。

 ――まさか、[拉致{らち}]、[誘拐{ゆうかい}]⁉

 パニックに[陥{おちい}]る[最中{さなか}]、誉が押し込まれた車は[唸{うね}]りをあげ猛スピードで走り出した。

    *

 [朦朧{もうろう}]としていた意識が、じわじわと[醒{さ}]めてくる。
 薬でも飲まされたのか、唐突に途切れた記憶の入り口を探りながら、誉は現状を[把握{はあく}]しようと努めた。
 落ち着いた家具とベッドの雰囲気からして、どこかのホテルの一室だろうか。
 両腕は身体ごと椅子に縛り付けられ、身動きが取れない。
 足首も拘束されており、自ら脱出するのは不可能な状況だった。
「気がついたようだね」
 声と共に、足音。近付いてくる人影に、誉は顔を向けた。
「貴方は……[鐘ヶ江椿{かねがえ つばき}]……‼︎」
 何度も見覚えのある顔だった。同じボートレーサーなのだから、当然だが。
「先輩を呼び捨てとは良いご身分になったもんだ」
「それどころじゃないでしょう! 貴方こそなんのつもりです! これはれっきとした犯罪行為ではないのですか⁉」
 怒りを込めて叫ぶと、椿は[眉根{まゆね}]を寄せて不快感を[露{あら}]わにした。
「犯罪行為だと? どの口がそんなことを言うんだい。僕からすれば、まさしく君が犯罪者だ」
「どういう意味ですか?」
 問い返しつつ、誉の中である程度心当たりがあった。
 もしこんな仕打ちを受けている理由が想像通りなら、いよいよ椿という人間は極まりきった奇人だと認定することになるが。
「どういう意味もクソもあるか! 貴様、聞くところによると、ずいぶん下らない真似に手を染めているそうじゃないか! 糖質制限、だと? まったくもってバカにしている! それは、砂糖に対する[不敬罪{ふけいざい}]だッ!」
 まさかの予感的中。あまりにも椿の行動原理が信じられなくて、誉は怒りから一周回ってため息を漏らすしかなかった。
「百歩譲って、元パティシエである貴方のプライドが許さないのは理解しましょう。しかし! だからって拉致しますか普通⁉」
「やはり何もわかってないな貴様! いいか、砂糖の拒絶。すなわち、僕の生み出す芸術作品の拒絶だ! 芸術が拒絶される時、この世は必ず乱れると歴史が証明している。だから、つまり! 貴様の犯している罪はもはや国家反逆罪に等しい! 私人逮捕も許される状況なのだ!」
「意味不明すぎます!」
 論理が三段跳びの末にカタパルト発射されている。ツッコミどころしかなくて逆にツッコミを入れる的確なポイントが見つけられない。
「フン、黙れ。僕は別に君と水掛け論などを交わすつもりなどない。目的さえ達成できれば、それでいいのだ」
「……目的?」
「乱れの芽を[摘{つ}]む。それでこの世界は平穏を取り戻す」
 [仰々{ぎょうぎょう}]しく右手を掲{かか}]げ、パチンと指を鳴らす椿。
 すると外で待ち構えていたのか、数人のホテルマンがワゴンを押しながら室内に入ってきた。
「なんでこの人たち、この状況を見て何も言わないんですか……」
「くだらない質問だな。過去の僕の栄光に触れたことがある人間が、僕の行為に疑問を持つはずがあるまい」
 この椿、パティシエとしては相当に名のある人物だったらしいことは小耳に挟んでいたが、そこまで忠誠を誓われるほどの存在だったとは。
 だったらなぜボートレーサーに……と、誉は改めて思わずにはいられなかった。
「そんなことより本題だ。いつまでも目を[逸{そ}]らしてないで『現実』と向き合いたまえ」
「……う」
 指揮者のように両手を広げる椿の後ろに並べられたワゴン。
 その上には、[枚挙{まいきょ}]に[暇{いとま}]がないほど大量の、[豪華絢爛{ごうかけんらん}]な洋菓子が飾り立てられていた。
「全て僕のお手製だ。[儚{はかな}]い生菓子であるからこそ、100万ドルの夜景よりも価値がある。貴様ならわかるな。さあ、解き放ってやろう」
「や、やめて下さい……!」
 縄を解きにかかる椿に対して、拒否を示してしまう誉。それほど、あまりにも危険な光景だった。
「そうか、わかった」
「えっ?」
「なんだ、その『本当にやめるの?』とでも言いたげな顔は。貴様の本当の心はどっちだ? どこにある?」
「…………っ」
「勘違いするなよ。僕には無理矢理食べさせようだなんて気はないぞ。願いなくしては手に入らない。この世の宝はすべからくそうだ」
「う、う……」
「この部屋、少し熱いな。[繊細{せんさい}]なザッハトルテが最高の芸術作品としての命を保てるのは、あと何分だろうか。なんとも[虚{むな}]しい。しかし、だからこそ美しく愛おしい」
 椿がケーキの乗った皿を誉の鼻先に近づけた。
 豊満なチョコレートの香りに満たされただけで、危うく気絶しそうになる。
「ダ、ダメです……。糖質を摂れば、また血糖値が……」

「血糖値⁉ 健康ならば上がって何が問題なのだ」

「上がるのはともかく、下がった時の弊害が……」
 颯斗の受け売りを語る誉に対し、椿はますます声を荒げる。
「そこら辺の質の悪い砂糖団子と僕の芸術を一緒にするな! 神の域に触れて何かが下がるはずなどない! 一生アゲアゲだ!」
 そんなバカなと頭では思いつつ、もはや誉にはその[甘美{かんび}]すぎる誘惑に抗う気力が失われつつあった。
「ほ、本当に……そうなのですか?」
「当たり前だ! たぶん! よしんば下がりそうになったらまた食べればアゲアゲだ! ノンストップで一生食べ続ければ下がる隙など生まれはしない!」
「一生……食べ続ける……! ケーキを……!」
「そうとも。貴様にその権利をやろう。僕の芸術作品の、[生涯{しょうがい}]の[伴侶{はんりょ}]となる権利をな」
 この殺し文句で。誉は[堕{お}]ちた。
「…………縄を、解いて下さい」
「それでいい。おかえり、坂本誉」
 誉の短かった糖質制限生活が、今静かに[崩壊{ほうかい}]の時を迎えた。

    *

「う、うう……」
 ベッドに横たわり、シーツを握りしめながらさめざめと泣く誉。
 部屋に残る洋菓子の[痕跡{こんせき}]は、まっさらに平らげられた数々の皿と、ほのかに残る甘い香りだけ。残りは全て誉の腹の中に消えてしまった。
「[神髄{しんずい}]に触れたのだ。何を悲しむことがある」
 満足げに誉を見おろす椿。
「……ええ、そうですね。幸福の極みと呼ぶに[相応{ふさわ}]しい時間でした。しかし今この瞬間、ボートレーサーとしての私は地に[堕{お}]ちた」
「馬鹿を言うな。むしろ羽ばたいたのだ。男に二言はない。貴様はこれからいつでも、僕の芸術と共に[在{あ}]る。さすがに生菓子とはいかないが、レース場で開催いっぱい戦いきれるだけの糖分を、常に届けよう」
「⁉ 常に、ですか……?」
「ああ。責任は取るさ。だから貴様の血糖値は、これから毎日アゲアゲだ」
「毎日、アゲアゲ……!」
 誉の目に光が戻る。
 そうだ。まだ何も終わってはいない。確かに糖質制限の効果は感じた。しかし、最高の洋菓子と決別した世界に、情熱を保ち続けることができただろうか。
 答えは恐らく[否{いな}]。
 ならば、これでいい。もう一度、新たな翼でボート界の頂点目指して羽ばたく。どのみちそんな生き方しか、誉にはできなかったはず。遅かれ早かれ、そう気付かされていたことだろう。
「椿さん、感謝します」
「礼には及ばん。当たり前の真実に向き合わせてやっただけだ」
 拉致されたことも忘れ、誉は椿と固い握手を交わした。
 そして強く誓った。
 とりあえず、明日死ぬ気でランニングしてカロリー消費せねばと。

    *

「な……誉っ⁉ お前、いったい何を……!」
 次の開催で出会った颯斗が、[血相{けっそう}]を変えて駆け寄ってくる。
 これ見よがしに板チョコを[頬張{ほおば}]っていたのだから無理もないことだが。
「……颯斗くん。申し訳ない。糖質制限は辞めました」
 丁寧に[咀嚼{そしゃく}]を終えてから、まっすぐ目を見据え[毅然{きぜん}]と答える誉。
「なぜだ! 血糖値の安定に手応えを得たと言っていたではないか!」
「はい。確かに『これは』と思いました。……しかし、それでも。私はアゲアゲな人生を選びます!」
「物理的に意味不明すぎるぞ!」
 颯斗は頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「……もういい。わかった。アスリートとしての誉のモチベーションを買いかぶっていたようだ」
 それからふっと真顔に戻り、失望の色を浮かべて颯斗は立ち去ろうとする。
「待って下さい。もう一つ宣言しておきます。私は糖質の翼で、貴方以上の選手になってみせると」
 真顔で伝えた誉に、颯斗は無表情のまま振り返った。
「どんな夢を見ようと自由だが。これだけは覚えておけ。口先だけの妄想で、物理の壁は越えられない。今回は俺もいいモーターを引けた。悪いが糖質制限なしの誉に負ける予感など少しもしないな」

    *

 [因縁{いんねん}]を抱えたまま迎えた開催最終日。
 誉は確かな手応えを得て、最終レースの発走時刻を待ち続けていた。
「……心底驚いた。今度は俺が謝らなければいけないようだな」
 待機室で隣に座った颯斗がぼそりと呟く。颯斗は優勝戦の一号艇、誉は二号艇での[出走{しゅっそう}]。どちらも横並びで本命に[推{お}]される大活躍でこの日を迎えていた。
「まだ早いですよ。次で勝てなければ意味がない」
 落ち着いた口調で返事する誉。活力が全身に行き渡った良い状態でこの瞬間を迎えられているが故、立ち居振る舞いにも余裕が満ちていた。
 厳格に体重調整を行い、ギリギリまで身体を[絞{しぼ}]った状態でレース場入り。そして本番の合間、こまめに糖分をとり続けてガソリンを焚き付ける新作戦は、今のところ思った以上に美味く機能している。
 ――ボートレース場を、誉だけのスイーツパラダイスにする。
 そんなコンセプトで挑んだこの開催。過去最大級のモチベーションを自ら引き出すことに成功した。
 あとは、結果。優勝という果実さえ手に入れれば、今度こそ誉はレーサーとして次のステージに進むことができるはずだ。
「俺にも信念がある。全力で迎え撃つ」
 最大のライバルはもちろん颯斗。整備力が売りの選手に高勝率モーターを引かれてしまったのだから周りは苦戦[必至{ひっし}]。次のレースでも抜群のスタートを決め、そのまま逃げ切りを狙ってくるだろう。
 [一矢{いっし}][報{むく}]いるには、相応以上の覚悟と勇気。そして集中力が必要だ。
 合図と共に六人の選手たちは一斉に立ち上がり、外に出て敬礼。誉にとって今後の運命を左右する一戦が幕を開ける。
 ボートに乗り込み、信号に合わせ発進。スタート前の待機行動では大きな鍔迫{つばぜ}]り合いは起こらず、枠なりの侵入となった。颯斗が一コース。誉が二コースのままだ。
 大時計を見据え、タイミングを計る誉。
 直前に摂取したチョコレートのおかげか、脳はクリアに[冴{さ}]え渡っていた。
「……よし!」
 レバーを握り混む。かなり攻めたタイミング。普段の誉ならば、『早すぎる……⁉』と恐れていた場面かもしれない。
 しかし。
「大丈夫! 入りましたよね!」
 大時計の針がゼロを示すのとほぼ同時、誉の艇が鼻先だけ飛び出てスタートを迎える。フライングはしていない。コンマ0.1秒以下の差だが、今ははっきりと確信できた。
 最初のターンを迎え、内側の颯斗と艇を並べたまま旋回。
 すると直線で、一艇身前に出たのは誉の方だった。
「会心っ!」
 トップに躍り出た誉は、ガッツポーズしたい気持ちを[堪{こら}]えながら身を[屈{かが}]め、空気抵抗を可能な限りなくして全速力でボートを走らせる。
 次のターンも、その次のターンも誉はそつなく乗り切り、終始先頭をキープ。
 そしていよいよ迎えた最終周回。
 300メートルの直線でスロットルレバーを握りしめながら、誉は視界の奥に小さく映る赤白のブイを見据える。あそこを無事に回りきれば、栄光のゴールだ。
 あの、シュークリームに似たターンマークを回りきれば、晴れ晴れしい気持ちでこの開催を終えられる。厳しい減量も、勝利のためだったと思えば洋菓子に添えるブラックコーヒーのようなアクセントに過ぎない。どんな苦みも、甘味の引き立て役としてなら呑み込もう。
 シュークリームが迫る。いや、色合いとしてはマカロンだろうか。白はバニラ、赤はラズベリー……も、いいが、高貴なローズフレーバーというのもまた味わい深そうだ。
 明日は休日だから、並木通り沿いのカフェにでも繰り出そう。マカロンとブラックコーヒーで、優雅に午後を過ごすのだ。……いや、やはりキャラメルマキアートにしようか。
脳内を色鮮やかなマカロンが流星群のように飛び交う。

 ――強烈なデジャヴに全身が[強張{こわば}]った。

「っ⁉」
 直後に、過去の嫌なイメージが冷や汗となり全身を伝う。たしか以前もこんなことを考え、その挙げ句――。
「……違う! 逃げるな坂本誉!」
 降りかかってきた弱気を、誉は[咆哮{ほうこう}]で追い出した。
 ターンマークがスイーツに見えたのなら、むしろ食らいつくまで。
 この世の全てを手中に――なんて贅沢は言わない。しかしただ、このボートレース場に、誉だけのスイーツパラダイスに存在する甘味は、全て独占してみせる。
「いただきます! 栄光のマカロンッ!」
 あわや衝突してターンマークにキスをせんばかりのタイトなターンで誉は最終コーナーを回りきり、独走でゴールを駆けぬけた。

    *

「おめでとう、誉。間違っていたのは俺の方だったようだな」
 レースの終了後、颯斗が爽やかな笑みで右手を差し出した。
「いえ、そんなことはないでしょう。糖質制限の効果は私も感じました。ただ……」
「ただ?」
「私にとっては、趣味に合わなかった。それだけのことです」
「ふっ、確かにそれ以上的確な表現はないだろうな。認めよう。お前にはやはり、糖質が必要らしい。それでも俺は自分の信念を貫き、糖質制限で体調管理を続けるが」
「当然でしょう。アスリートとして、結果が出せれば手段は問題ではありませんし、ね」
 方向性の不一致で関係に[亀裂{きれつ}]が[生{しょう}]じかけていた二人だったが、今はお互いを尊重し合った上で違う道を進むことができる。
 目指すべき頂点に至る道は、きっと選手の数ほど存在するに違いない。
「誉と優勝戦の一騎打ちという意味では、これで一勝一敗か。次があれば俺が勝って、決着といきたいところだ」
「もちろん私も同じ気持ちです。……ところで」
「ところで、なんだ?」
 尋ね返されるのが早いか、誉はフラついて地面に[膝{ひざ}]を[突{つ}]いた。
「…………飴玉とか、持ってないですか?」
 糖分切れのガス欠だった。