Over the Top!! 前篇

 東京都大田区[平和島{へいわじま}]。
 第二次世界大戦の直前に[埋{う}]め立てが開始されたこの人工島は、未来が戦争のない世の中となることを祈って、そんな名で呼ばれるようになったのだという。
 何十年もの月日が流れ、今のところこの国でその祈りは実現されている。人々は安全な暮らしを手に入れ、今や平和島はレジャーとエンターテインメントの一大拠点に育った。
 そこに『ボートレース平和島』はある。運河と[繋{つな}]がる[水面{みなも}]は基本的に[穏{おだ}]やかであるものの、ビル風の吹き下ろしや、潮の満ち引きによって[様相{ようそう}]が[様{さま}][変{が}]わりすることもある。運命の女神がいつそっぽを向くとも知れぬ[曲者{くせもの}]コース。そう評するレーサーたちも多い。
 しかし、裏を返せば原則として有利なインコースが[一辺倒{いっぺんとう}]に強いわけではないということだ。アウト屋にとっては[一矢{いっし}][報{むく}]いるチャンスが生まれやすい。
 だから[財前陽太郎{ざいぜん ようたろう}]は、このホームコースがいちばん好きなレース場だ。冬の刺すような空気も、新たな戦いに挑む前の身にとってはちょうど良い刺激に思えた。
 静かなやる気が全身にみなぎっている。戦場へと向かう足取りは、いつもに増して軽く、正確なリズムを[刻{きざ}]んでいた。
「な、なあ。本当に大丈夫かな……。前検日入れて七日間……。俺は無事、走りきることができるだろうか……」
 対照的に、隣を歩く同期レーサーは……固い。顔つきも、[一挙手一投足{いっきょしゅいっとうそく}]も、別人かというほどぎこちないのだ。先ほど駅で見かけたとき、陽太郎は異常を[察知{さっち}]して声をかけるべきか[否{いな}]かかなり戸惑ったほどだった。
「どうしたの[是清{これきよ}]……? 平和島なら走り慣れてるでしょ。[転覆{ドボン}]する夢でも見た?」
「見てねーよ! [縁起{えんぎ}]でもないこと言うな!」
「じゃあフライングする――」
「だからそういうことじゃない! お前、あのな……わかれよ!」
 口ごもったかと思えば、歯をむき出しにして詰め寄ってくる是清。陽太郎は思わず噴き出しそうになってしまった。
 ちょっとからかいすぎたか。確かに、実はわかっていた。是清がこの日、普段にあるまじき緊張状態となっている理由なら、考えるまでもなく明らかだ。
「ごめんごめん、冗談。そりゃドキドキするよね。憧れの[松本郁哉{まつもと いくや}]選手を平和島に迎えて全力で[競{きそ}]うチャンスだもん」
「[憧{あこが}]れとか……そんなもんじゃねー」
 是清が頬を染めそっぽを向く。この場合の『そんなもんじゃない』そんな低いレベルの愛情ではない、という意味だ。あえて見たまんまの印象で語ってしまえば……恋。ボート界のレジェンドレーサーである松本郁哉の名をひとたび耳にすれば、この鼻っ柱の強い勝ちたがりはただの乙女と化す。
 それも無理はないほど、郁哉という選手は陽太郎たち若手にとって雲の上の存在であるわけだが。
「でも確かに、気合い入るよね。今回のレース、ちょっとメンバーすごすぎでしょ」
「郁哉さんは別格だが……確かに、な」
 歩きながら、互いに空を見上げる動きをシンクロさせる陽太郎と是清。これから挑むレースはSGやGⅠといった格付けではない。しかし、年明けの競走ということで全国からかなりの豪華メンバーが集まることになったのだ。有力選手をかき分け上位に入る難しさという意味では、ちょっとやそっとのグレードレースよりも大変かもしれない。
「あとは[竜也{りゅうや}]さんも居てくれたらよかったのにね」
「……恐ろしいことを言うな」
 前日から別の県に[遠征中{えんせいちゅう}]である師匠の名前を出すと、さっきとは違う意味で是清の表情が固まった。よく膝蹴りで制裁されているみぞおちが[疼{うず}]いたのか、気持ち[前屈{まえかが}]みになったような気もする。
「え? いろいろアドバイスもらえた方が嬉しくない? 僕だって厳しい人なのは知っているけどさ」
「厳しいのは覚悟できてるからいいんだよ。そりゃ、いろいろ教えてもらえるのはありがたい。でもな……」
「でも?」
「郁哉さんと師匠がいっしょにピット裏戻ってきたら、俺はどっちの手伝いして良いかわかんなくなるだろ!」
「いや、それは師匠でしょ……」
 暗黙の了解ではあるが、同支部で助け合うのがボートレーサーのルールでありマナーだ。もし師匠である竜也を差し置いて郁哉の手助けなんてしようものなら、膝蹴り一発で済ませてもらえる問題ではなくなるだろう。
「わかっている。頭では。でも身体がどう動くか。自分でも予想がつかん……」
「あ、あはは」
 なるほど。確かに今回竜也がいないのは、是清にとって[幸{さいわ}]いだったのかもしれない。ただでさえ悩ましい状況が輪をかけて複雑にならなかったという意味では。
 しかし陽太郎としてはどうしても割り切れず、竜也が居て欲しかったと[詮無{せんな}]き思いにふけり続けてしまう。これ以上メンバーが強くなったらますます勝ち目が薄くなるという問題もあるのだが、それ以上に竜也が持つ東京支部ナンバーワンの統率力を求めずにはいられなかった。
 それというのも、出走選手たちが単に豪華なだけではなく、妙に[因縁{いんねん}]深い組み合わせなのだ。なにやら嫌な予感のようなものを[抱{いだ}]くには、充分すぎるほど『揃いも揃ったり』な[布陣{ふじん}]になっている。
「最終日まで、平和に終われば良いんだけど。平和島だけに」
「なにつまんねーダジャレ言ってんだお前」
「…………しまった」
 つい漏れた。父であり、師である選手、[財前暁{ざいぜん あかつき}]の口癖だった。普段は陽太郎も『まーたオヤジギャグを』と馬鹿にしているフレーズなのに。
 恥ずかしさ[紛{まぎ}]れに唇を[噛{か}]み、あとで文句を言ってやろうと心に誓う陽太郎だった。
 どうせこの後、望む望まざるに関わらず顔を合わせることになるのだから。

    *

「わ、[大{おお}][賑{にぎ}]わいだ。真冬なのにありがたいね」
 ボートレース平和島の外周に沿って歩き、角を曲がると選手入場口のそばに人だかりができていた。今日は前検日なので、まだレースは行われないのにもかかわらず、だ。
 彼ら、彼女らはこれからレースに挑む選手たちに応援を届けに来てくれた入り待ちのファン。寒い中、ひいきの選手のために時間を使ってくれるその姿には陽太郎も深く頭が下がる思いだった。
「確かに多いな。俺たち目当てじゃないのは明らかだが」
「是清。よくないよ、そういうひねくれた感じ」
 [窘{たしな}]める陽太郎だったが、是清の言う通りであることは内心で[察{さっ}]していた。郁哉を筆頭にスター選手が他地区から揃う開催だ。このチャンスにぜひ一目、というファンも多いだろうし、もしかすると応援のためだけに東京遠征、というパターンすらあるのかもしれない。
「ふん、知るか。応援されようがされまいが俺はいつでも勝ちにいくだけ。愛想笑いしに来たわけじゃない」
「でもきっと、郁哉さんのファンもたくさんいるよね。あんまりブスッとしてると、東京支部の若手が態度悪かったって報告されちゃうかもよ?」
「……………………なん……だと」
 てきめんに動揺した様子を見せる是清だった。ちょっと意地の悪い指摘だなとは自覚していたが、まさかこれほど効くとは。
「ど、どうすりゃいい? ……わ、笑うのか? お、俺が? 笑って入場しなきゃいけないのか? ……こんな感じ、か」
「こ、是清。おっかないよ」
 [眉間{みけん}]に[皺{しわ}]を寄せ、口元だけをいびつに[歪{ゆが}]めた是清の面持ちを見た瞬間、余計なことを言ってしまったと陽太郎は深く反省した。
「そげんこつ言われてもわからんばい!」
 焦りのせいか是清の口調が生まれ故郷の方言に半分戻ってしまっている。
「自然にしてるだけでいいと思うよ! 無理に笑わなくても……」
 取り[繕{つくろ}]ってそう言うと、いくらか自然な表情に戻ってくれたので[幾分{いくぶん}][安堵{あんど}]。
「ほ、本当だろうな……?」
 というか、少し照れたような仕草が普段の尖った雰囲気を[覆{おお}]い隠している。ひょうたんから[駒{こま}]……なんて告げたらまた怒らせてしまうだろうから、絶対に口にはしないけれども。
「さ、行こう行こう」
 [意図{いと}]せず立ち止まってしまっていたが、先導するように陽太郎は再び歩き出す。是清も特に口を挟まず付いてきた。相変わらず微妙にはにかんだままだ。
 ファンの姿が近付くにつれ、なんとなく背筋が伸びた。仮に自分たちが目当てではないとしても、足を運んでくれたありがたみに関しては変わらない。
「おっ、財前の息子の方も到着か」
「久々の親子対決、楽しみにしてるよ! がんばってきな!」
 そんな想いをが伝わったわけではないだろうが、立て続けに声をかけてもらえた。思わず口元が[綻{ほころ}]ぶ陽太郎。
「ありがとうございます! 精一杯走ってきます!」
 ぺこりとお[辞儀{じぎ}]をして、大きな声で応える。なんとなく気合いがますます[充填{じゅうてん}]されたような感じがした。
 ところで、今の話し方からすると暁はもう中に入っているようだ。陽太郎たちもかなり早めの到着だったのだが、意外というか、ルーティンを好む父らしいというか。昔から前検一番乗りを好むという話を聞いていたし、ベテランとなった今でもその心がけは変わっていないのだろう。
 次からはもっと早く家を出るようにしようか。……と、不意に心の中で対抗心を[芽生{めば}]えさせてしまう陽太郎だった。
「是清君もがんばれよ!」
「う、ウッス……」
 続いて是清にも声をかけてくれるファンが。言葉少なながらちゃんとお辞儀して応じていたので、ふてぶてしさを見せなかった同期にほっと胸をなで下ろす。
「是清君も入り待ちしていかないのかい? まだ郁哉さん到着してないよ?」
「……え?」
 と、続けざまにそんな呼びかけが。是清は驚きを隠さず振り向いて目を見開く。
 声のした方に陽太郎も顔を向けると、一人の男性がしてやったりと言った感じの笑い顔を浮かべていた。たぶん、とびきりの冗談だったのだろう。是清が郁哉を[崇拝{すうはい}]していることも既にかなり認知されているのだなと、陽太郎は不思議な[感慨{かんがい}]を覚えた。
 さて、それはそれとして。是清がいったいどんな返事をするのか。[俄然{がぜん}]興味が湧いてくる。郁哉の話題ならば怒るということもないだろうが、気の[利{き}]いた切り返しをする是清というのも想像し辛い。心なしか、他のファンの方たちも強い興味でもって成り行きを見守っている雰囲気がある。
 このシチュエーションけっこうハードル高いよな、と、新人芸人が[大御所{おおごしょ}]の[前座{ぜんざ}]を[任{まか}]された場面を見守るような気分になる陽太郎。新春のお笑い番組をちょくちょく見ていたからかもしれない。
 さあ、どうする。
「……じゃあ、隣いいっスか?」
 是清が選んだ反応は、頬をほんのり染めながら声をかけた男性の隣にそっと身を[滑{すべ}]り込ませるというものだった。
 その場にいるほぼ全員がズッコケかけた。
「いやいや! ダメでしょ!」
「選手がファンに交じって入り待ちなんて聞いたことないよ! ……わはは、意外とお茶目なところあるんだね是清君!」
 そして次第に笑いの[渦{うず}]が広がっていく。まさか本当に言われた通りにしようとするとは誰も考えていなかったのだろう。極上のボケだったぞと[賛辞{さんじ}]を送るように、拍手を始めるファンまで現れるほどだった。
 ……今のが狙ったギャグだったのか否か。陽太郎は尋ねるまでもなく答えを確信していたけれども。
「ほ、ほら行こう是清。ではみなさん、がんばってきます!」
「おう! 陽太郎君も是清君もがんばれ! 面白いネタも見せてもらったことだし、今回は特別にたっぷり応援してやるよ!」
「なかなか[手{て}][強{ごわ}]い相手揃いだけど、期待してるよ! それと、次のネタも期待してるからまた今度是清君の入り待ちしようかな!」
 ある意味助け船を出すように、陽太郎は是清の手を掴み場内へ引っ張り込んでいく。
「な、なんだよ……? ボケって、どういう意味だ? ……入り待ちの話はどうなった?」
 案の定、[釈然{しゃくぜん}]としない様子の是清。本人としては真剣に考え、真剣に答えただけにすぎなかったのだろう。
「気にしなくて大丈夫だよ。みなさん喜んでたし」
 今のやりとりで是清の好感度はだいぶ上がった感じがした。意図したものじゃないとしても、それは良いことに違いない。
「…………???」
 本人はまったく納得がいっていない様子ではあるが。
 どうあれ、[真{ま}]に受けて入り待ちをしてしまおうとするくらいだからやはり是清の郁哉に対する情熱はかなりのものだ。わかっていたつもりではあったが、図らずも改めて再確認することになった。
 となるとやはりこの開催中、レース以外でも一波乱が起こる心配はしておいた方が良いかもしれない。
 なぜなら是清と郁哉の関係に対し、『第三勢力』とでも呼ぶべき存在が出走メンバーの中に名を[連{つら}]ねているのだから。
「……ん? なんかモメてない?」
 ぶり返してくる不安を内心で押さえつけながら、[競技棟{とう}]に入る陽太郎。すると、やけに張り詰めた空気が[漂{ただよ}]ってきた。なにやら受付前で、強い口調のやりとりが繰り返されている。
「だから、誤解だと言っているでしょう!」
 かなりの必死さで弁明を続けている選手。その顔を見た瞬間、陽太郎はさっそく出会ったかと苦笑を浮かべてしまった。
「……チッ、一番会いたくないヤツといきなり出くわすとは[縁起{えんぎ}]が悪いな」
 対照的に是清は苦虫を[噛{か}]み[潰{つぶ}]したような顔に。
 [艶{つや}]のある黒髪と武士のような鋭い視線。香川支部所属の[富樫俊介{とがし しゅんすけ}]選手だ。出会って以来、是清と彼は[犬猿{けんえん}]の仲。なぜなら俊介もまた、熱狂的な松本郁哉のファンであるから。こういう言い方をしたら両者から激しく抗議されるのは確実だが、いわゆる『[同族{どうぞく}][嫌悪{けんお}]の関係』と表現するのがわかりやすい。今回二人と郁哉選手が同じレースに出走するとわかった瞬間から、陽太郎は波乱の予感に[苛{さいな}]まれた。
 ……いや。想像の範囲ではあるが、大半の選手たちがトラブルの可能性を感じたことだろう。だからこそ、いざとなったら強制的に是清を[黙{だま}]らせる抑止力を持つ、竜也にも同じ開催に居て欲しかったと強く思ったのだった。
 もちろん、出走選手が確定した後だから[叶{かな}]わぬ願いであるものの。
「何してるんだろうね?」
 その俊介だが、なぜかずっと受付の前から動こうとしない。というより、受付に止められているというのが正確か。できればやり過ごして俊介と是清の対面を避けさせたい陽太郎だが、受付、そして禁止されている所持品がないことを示すため物品検査を受けなければレーサーは中に入れないのだ。ここまで来て、俊介との[対峙{たいじ}]をやり過ごしつつ、別の場所に行くというのは難しい。
「知ったことかよ」
 鼻を鳴らし、つかつかと受付の方に進んでいく是清。まあ、性格からして避けようともしないのは既に予想がついていた。やむなしと、陽太郎も腹をくくって是清に付いていく。
「おい、後ろがつかえてんぞ……って、おい。なんだ、それ?」
 是清はいきなり俊介の肩を叩き、無理矢理振り返らせる。先輩になんて態度を……と[肝{きも}]を冷やす陽太郎だったが、図らずもすぐ興味が別のところに移った。
「……なんだ、急に。相変わらず[不躾{ぶしつけ}]な[輩{やから}]め。お前には関係のないことだ。少し黙って待っていろ」
 不快感を[露{あら}]わにする俊介が手をついたテーブルに置かれていたのは、クレジットカード大の透明なビニール袋が三つ。
 その中には、謎の白い粉がぎっしりと詰まっている。
「いや……関係あるだろ。な、なんだよその粉。お前、俺たちの東京支部に何を持ち込もうとしてるんだ……?」
 さっきまでの[威勢{いせい}]を失い、是清はかなり引き気味に尋ねる。無理もなかった。陽太郎としてもこのまま[踵{きびす}]を返し、嵐が過ぎ去るまで一時退避したい気持ちでいっぱいになる。
「しゅ、俊介さん。さすがにそういう粉はちょっと……マズいのでは? レース場に持ち込んで良いとか悪いとか以前の問題として」
「……な⁉︎ ま、まさか貴様らも勘違いしているのか⁉︎ バカなことを! マズいはずがあるか!」
「いやマズいだろ! 逆になんでマズくないって思ったんだよ!」
「問題にはなるまい! [そば粉{・・・}]をレース場に持ち込んで何が悪い⁉︎」
『………………』
 一喝され、きょとんと顔を見合わせる是清と陽太郎。
「え?」
「そば[粉{こ}]、ですか?」
「そうだ! さっきから何度も説明している! 気晴らしに[更科{さらしな}][粉{こ}]の風味を分析しようと思ったのだ。なのになぜ、誰もが浮き足立っているんだ! 東京ではそんなにそば粉が珍しいとでも⁉︎」
 俊介の真剣極まりない[面{おも}][持{も}]ちからして、嘘を言っているようにはまったく思えない。というより、そば粉だと言われてしまった後ならば俊介という人間の性格上、他のものではありえないという気にすらなってくる。
 しかし。
「………………いや、袋が悪いだろ。明らかに」
 是清のツッコミに心の中で何度も頷く陽太郎。なぜそんな『絶妙』なサイズ感の袋に『粉』を入れようと思ったのだろう。ニュースで警察に『粉』が[押収{おうしゅう}]されたときの見た目そのまんますぎる。相手が先輩レーサーでなければ、納得がいく回答が得られるまでひたすら問い詰めたいと本気で思った。

    *

「くそ、あいつ。ふざけた真似を……!」
 予定外に時間がかかったものの無事受付と荷物検査を終え(本当にそば粉であることが確認されたので俊介もパスしたが、紛らわしいことをするなとかなり怒られていた)、上階の控え室に向かう。是清はなぜか腹の虫がおさまらない様子で[忌々{いまいま}]しげに唇を噛んでいる。
「そんなに怒らなくてもよくない? むしろ、俊介さんって意外と天然なところもあるんだなって怖さが薄れたけどな。……マズい粉じゃないって知れた後だから言えることだけど」
「いーや。お前は何もわかってない」
「どういう意味?」
 尋ね返すと、是清は呆れたようにため息を漏らした。
「イン派とアウト派で、お前とはわかりあえないとはとっくに気づいてたが、そんな心構えでよくボートレーサーになれたな。そばとボートつったら何か、まさか知らないと抜かすつもりじゃないだろうな?」
「いや、知らな……あ、そうか!」
 すんでの所で思い至る陽太郎。正確には『そばとボート』だけでは見当もつかなかったが、それに付け加えて『是清と俊介』を連想に加えた[途端{とたん}]もう一つの顔が浮かんできたのだった。
「郁哉さんの好物がそばだったよね、確か」
「……フン、それくらいの基礎知識さっさと思い出せ」
 ボートレースの基礎知識扱いするのはさすがにどうなのかと思う陽太郎だったが、ひとまずそこはスルーしておくことにする。
「うーんと。で、郁哉さんを尊敬してる俊介さんが、そば粉を持っていたのが気に入らないってことかな……?」
「ああ。明らかに郁哉さんにアピールしようとしてそば粉を持ち込んだに違いない。きっと、さり気なく落としたりしてアピールする気だ。『おっ、君良い粉持ってるな』とか言われるのを狙って……! あー、想像しただけでますます腹立ってきた! セコすぎんだろ!」
「それは……どうなのかなぁ」
 いくらなんでも是清の想像力というか、乙女回路が暴走して[杞憂{きゆう}]を[膨{ふく}]らませているだけではないだろうか。あと、あの形状の粉が目の前で落とされたら郁哉もギョッとするに違いない。少なくともそば粉だとは絶対に思わないだろう。
「他に理由ないだろ。じゃなけりゃそば粉なんてレース場に持ち込むかよ」
「いや、確か俊介さんってそば打ちが趣味だったような」
「だからその趣味の時点で郁哉さんのこと意識しすぎなんだって! が~! マジでなんなんだアイツ!」
「……同族嫌悪」
「あ⁉︎ なんか言ったか⁉︎」
「いえなにも」
 もはやツッコめばツッコむほど火に油を[注{そそ}]ぐことにしかならないと[悟{さと}]ったので、陽太郎は反論を諦めた。
「あ」
 というか、いた。ご本人が。食堂の隅でスポーツ新聞を広げているあのお姿。基礎知識に[乏{とぼ}]しい陽太郎でも見紛えようのないボートレース界のレジェンドご本人だ。
「え、ちょ、な……⁉︎」
 隣で是清が震え上がっているし疑いようもなく郁哉選手だ。別に隣で是清が震え上がってなくても疑いようがないけれど。
「前検入り早いねー。さすが……というべきなのかな」
「や、ややや、おかしくないか⁉︎ さっきファンの人たちがまだ郁哉さん来てないって……」
 確かにおかしいと言えばおかしい。考えられる仮説は、ファンの人たちが単純に入場するところを見過ごしたか、あるいはあの場面で是清をからかいたいがため嘘を伝えたのか。確率としては後者の方が高い気がする。
「まあとにかく、挨拶しに行こう」
「殴るぞ⁉︎」
「……いや、そしたらさすがに僕も反撃するよ……?」
 理不尽がすぎる。むしろ是清のためを思って声かけに行こうと提案したようなものなのに。
「頼む陽太郎。お前、少し落ち着け」
「……そっくりそのまま同じ言葉をお返ししたいんだけどな。せっかくのチャンスなんだから挨拶済ませてきなよ~」
 なにしろボートレーサー全員から[慕{した}]われるようなレジェンドだ。誰とも話をしていないタイミングなんて、それこそ千載一遇であるはずなのに。
「バカか! あんま人と会いたいご気分じゃなかったらウザいヤツって思われちまうだろうが!」
「じゃあどうする気さ……」
 おっかなびっくりにも程がある是清に対し、陽太郎は多かれ少なかれのめんどくささを感じつつあった。心酔している相手なのは何度も聞かされているので多少は[譲歩{じょうほ}]するとしても。
「も、もう少し様子を伺ってだな……」
 そう言うや、柱の陰にひっついて郁哉の姿を覗き込む是清。まるでストーカーだ。
「えぇ~……」
 そして気づいてしまった。廊下を挟んで反対側の柱には、是清を鏡映しにコピーしたようなポーズで俊介が貼り付いていることに。
「郁哉さん……く。なんと声をかけるべきか……」
 地球に[終焉{しゅうえん}]をもたらす巨大隕石を見上げるような顔つきでため息を漏らす俊介。是清も存在に気づいたらしく、もの凄い形相で俊介のことを[睨{にら}]みつけた。心の声を[代弁{だいべん}]するなら、お前なんぞに挨拶のチャンスを渡してなるものか、といったところだろうか。
 だとすれば、さっさと済ませてしまうのが一番手っ取り早いはずなのだけど。
「…………ハッ。そうだ。このそば粉をさり気なく落としておけば、郁哉さんが興味を持ってくれるのではないか……⁉︎ 郁哉さんならばこの粉の素晴らしさにはすぐ気づくはず!」
 しばし[悶絶{もんぜつ}]し続けていた二人だったが、やがて俊介がポケットから例の白い粉を取り出して[凝視{ぎょうし}]し始めた。
「……………………」
 まさか、是清の予言が現実のものになってしまうとは。
 呆れというより、その思考回路のシンクロっぷりに純粋な驚きを覚える陽太郎だった。
「……おい、お前! 本気で見損なったぞ! まさかガチで郁哉さんをモノで引っかけようとするなんてな!」
「ハッ⁉︎ 貴様、いつからそこに!」
「少なくともお前よりは前からだ! いいか! 俺が郁哉さんに挨拶しようって時に横から茶々いれるのは絶対許さないからな!」
「ふざけるな! 俺の方が先にここに居た! そっちこそ勝手な真似は止めてもらおう! ひよっこがしゃしゃり出るのも大概にしろ!」
「そっくりそのまま返すぜ! ここは東京、俺たちのホームだ。[余所{よそ}]もんが偉そうな顔してんじゃねーぞ! 妙な粉まで持ち込みやがっていい加減にしろ!」
 泥沼の言い争いへと突入する二人。そろそろ仲裁しないと周りにも迷惑になってしまいそうだった。
「ねえ、いい加減移動しないと。モーター抽選始まっちゃうよ」
「…………」
「…………」
 選手として絶対に無視できない事実から攻めると、二人とも言葉に詰まる。集合に遅れたら大変なことになるのだから当然だ。
 しかし二人とも、にらみ合ったままこの場を離れようとはしない。先に動いたら相手に屈したと思われる、とか考えていそうで[厄介{やっかい}]だ。
「[埒{らち}]があかないな、このままだと」
「めずらしく同感だぜ。時間がないなら白黒ハッキリさせる。それしかないよな」
 俊介も是清も、一歩ずつ間合いを詰めて至近から視線をぶつけ合う。まさに一触即発の[不穏{ふおん}]な空気が漂い始めた。
「ちょ、ちょっと……」
 間に割って入るべきか非常に迷う陽太郎。断じて[怖{お}]じ[気{け}]づいているつもりはないが、さりとて武闘派でもないのだ。レースを戦い抜くため、不要な肉体的ダメージからは距離を置いておきたいのも[本音{ほんね}]だった。
 しかし、だとしても……。殴り合いにまで発展するようなら身を[挺{てい}]して仲裁するしかないのだが。
「では、決しよう。俺と貴様、どちらが郁哉さんに対し誠意あるご挨拶ができるのかを!」
「いいさ、ちょうどいい予行練習だ。俺が本気で郁哉さんに挨拶したらどれくらい丁寧になるか、まずはお前にみせてやんよ!」
 入場口前に続きまたしてもすっ転びそうになる陽太郎だった。
 ええと。今、これから二人が始めようとしてるのは、郁哉に対する挨拶の予行練習? そのクオリティでもって、優劣をつけようと?
 ならご自由にどーぞ。としか感想が出てこず、陽太郎はため息を漏らす。心配して損した。
「ならばまずは、俺からいくぞ」
 深く頷いたのは俊介。そしてなんと、是清に向けて跪き、両手を組んでみせる。
「ああ。またこうして、レース場でお目にかかれた光栄を噛みしめずにはいられません。貴方と同じ星に生まれてこれてよかった」
「うわぁ」
 慈愛が溢れすぎていて声が出た。まるで是清の立つ場所に郁哉が存在するかのような幻さえ見てしまいそうだ。実際の郁哉はまだのんびりスポーツ新聞を読んでいるところなのだが。
「ほ、ほう。なかなかやるじゃねーか。……しかし、俺だって想いの強さじゃ負けるわけにいかないんだよ!」
 そう言って、今度は是清が地べたに両膝をついた。またしても陽太郎は驚きで言葉を失った。あの是清が、土下座を……⁉︎
「平和島にようこそ、です。ウチら東京支部全員で、心の底から歓迎します。何か不自由があったら、遠慮なく言って下さい。今日から最終日まで、ここが貴方の城です」
 トゥーマッチだ。トゥーマッチだが、そのO・MO・TE・NA・SHIの心意気だけは受け止めざるを得ない。世界広しと言えども、是清を[平身{へいしん}][低頭{ていとう}]させる人物など郁哉を置いて他にはいないことを痛感させられる。
「…………む」
「…………っ」
 片膝と三つ指の体勢のまま、微動だにしない二人。この勝負、どうやったら決着がつくんだ。少なくとも陽太郎にはどちらかの勝ちを見いだす方法など思い浮かばない。

「おっ! 到着早々なんとも珍しいモノを見ちまったな!」

「……あ! [宇津木霞{うつぎ かすみ}]選手! おはようございます!」
 膠着する場に、第三の勇ましい声が響き渡り、陽太郎は慌てて挨拶を伝えた。現在、松本郁哉と双璧を並べるボート界現役選手の[重鎮{じゅうちん}]、霞もまた今回の出走メンバーに名を[連{つら}]ねていた。二人のレジェンドが新年早々ぶつかり合う。ファンが色めきだつ理由の大半はここにあるというのが、客観的な見解だろう。
「おお。陽太郎くんか、おはよう。そして、是清くんに俊介くん! いやあ、すばらしいじゃないか!」
 陽太郎へ爽やかに手を上げた後、霞は是清たちに近付いていって満足げに両者の肩を叩く。
「えっ?」
「それは、どういう?」
「どうもこうもない! 二人とも実に敬意に溢れた素晴らしい挨拶の交換だったぞ! 仲が悪いと聞いていたが、いつの間にか打ち解けていたとは。感心感心!」
「い、いや!」
「さっきのは、そうじゃくて……」
 眼を泳がせながら[慌{あわ}]てふためく是清と俊介。なるほど、霞からしたら二人が誠心誠意挨拶しているように見えたというわけか。前後関係を知らなければ確かに無理はないことだ。
「きっと郁哉も喜ぶことだろう……って、なんだ。タイミングよくすぐ傍にいるじゃないか。おーい、郁哉!」
「ん? ああ霞さん。おはようございます」
『……っ⁉︎』
 自然体で郁哉に近付き、声をかける霞。飛び上がらんばかりに驚いたのは是清と俊介だ。
「なあ、聞いてくれよ。なんと、是清くんと俊介くんがだな――」
 そして霞はさっき見た光景を三割マシくらいに盛って郁哉に伝えてしまう。
 ……面白いことになってきたなと、陽太郎は[密{ひそ}]かに思った。
「なんと、それはそれは」
『……っ⁉︎⁉︎⁉︎』
 郁哉が立ち上がり、是清たちの方にまっすぐ歩み寄ってきた。たまらず飛び起きて直立不動で硬直する親衛隊の二人。
「対抗心が強いと聞いていたが、俺の知らない間にそこまで仲を深めていたとは。おこがましいかもしれないが、個人的にも嬉しく思うよ」
 何度も頷きながら、二人に優しく話しかける郁哉。よほど嬉しかったのか、左右の手をそれぞれ是清と俊介に乗せポンポンと親愛を表現している。
『……っ⁉︎⁉︎⁉︎』
 言わずもがな、されている方は気が気ではない様子。嬉しいのは当然として、緊張感で自我が崩壊してしまうのを必至に[堪{こら}]えている感じだろう。
「よし、こうして三人が揃い踏みになったのも何かの縁だ。真剣勝負は当然だが、何か俺にアドバイスできることがあったらいつでも訊いてくれ。いつでも心から歓迎する」
 挙げ句に郁哉は、二人の手を取って握り合わせ、その上に自分の手を乗せて絆を交わす。その時の是清と俊介の表情は、今でなければカメラに収めてSNSで配信したいくらい面白かった。[吹雪{ふぶき}]の中でできたてのたこ焼きをまるごと一個[呑{の}]み込んだら、もしかすると同じような顔になるかもしれない。
「!……おっと、そろそろ抽選の時間だ。それじゃあまたな、二人とも」
 時計を見て、颯爽と立ち去る郁哉。
 その後もしばし、是清と俊介はぼんやり手を握り合い続けていたが、
「っ……⁉︎ 離せ貴様!」
「に、握ってたのはお前の方だろ! 気色悪い!」
 突然我に返り、数メートルくらい飛び退く勢いで接触を[断{た}]つ。
「やっぱり、いろいろ起こりそうだなあ」
 まだ前検も始まっていないのにこの賑やかさ。先が思いやられるような、怖い物見たさで好奇心が膨らむような。複雑な思いで苦笑する陽太郎だった。
「おっ、いたか息子よ」
 そうしているうちにまた話しかけられる。よく見知った父親の顔だった。
「あ、父さんおはよう。さて、抽選に行くか」
「…………おいお前、久々の再会だってのにいくらなんでも素っ気なくね? もっとこう、アウト屋同士のライバル心がバチバチ……とか、そういうのは?」
 抗議されて、確かにサラッと流しすぎたなと遅れて気づく陽太郎。もちろん父にも負けないつもりでレースに挑む。そういう心構えは今も確かにあるのだが、ちょっと直前のやり取りが濃すぎて反応し損ねたというのが正直なところだった。
「なんだよくそう。どうせ俺なんてこのレースの主役じゃないとか思ってんだろ。見てろよ、絶対一泡吹かせてやる」
 不服そうに口元を尖らせる暁。図らずも眠れる獅子の尾を踏んづけてしまったかもしれない。郁哉や霞はもとより、父との勝負も最大限の気合いで挑まないと良いように[翻弄{ほんろう}]されてしまうことだろう。気合いを入れ直し、陽太郎はモーター抽選に向かうのだった。

    *

 想いの強さが引き寄せた運か否か。それは知る[由{よし}]もない神の領域だが、それぞれの選手が使用するボートとモーターが決定するや、明らかに出場選手全員の間で流れる空気感が変わり、平和島の競技棟は深いざわめきに包まれだした。
 ここのところトップクラスに優秀な成績を叩き出しているモーターを引き当てたのは…………陽太郎と是清。
 対して、かなり成績の悪い不調機が渡ってしまったのは、こともあろうに郁哉と霞だった。
 そこにボートレースという競技の面白さがある、と[評{ひょう}]す人々も少なくない。運命の女神の気まぐれで、本来であれば絶対に太刀打ちできないような格上選手に[一矢{いっし}][報{むく}]いるチャンスが生まれる。名を売りたい若手にとっては、下克上を夢見てしかるべき状況となった。
 ただし、大きな運に恵まれた側にとっても非常にプレッシャーがかかる。[凡庸{ぼんよう}]に負ければ、実力不足以外に理由を求める[術{すべ}]がない。ある意味では不調機を引いたトップレーサーよりも追い詰められた状況とも言える。
「好調な中でも特に伸び足の良い方を引いたな。アウト屋向きでよかったじゃないか」
 そんな内心を慮ってか、ピット裏に出ると真っ先に父である暁が陽太郎に話しかけてきた。それだけで感謝が膨らみ、先ほど微妙に軽く扱ってしまったことを申し訳なく思う。
「うん。戦績見たら本当にいいね、このモーター」
「けど、過去のデータに甘えないようにな。水面はいつでも状況が違う。違和感があれば積極的に整備して修正していけ」
「いいのかな。僕みたいな若手がヘタにいじって、せっかくの好調機がおかしくなったらどうしようって心配になるけど……」
「なーに言ってやがる。整備して逆におかしくなるモーターのことを、好調機なんて言わないんだよ。むしろ整備の意図が良い方に伝わるからこそ好調機なんだ。気にせず直していけ」
 その言葉に救われる陽太郎だった。今の自分にとって最も必要となるようなアドバイスを迷わず届けてくれた父、そして師に対し、尊敬の念を深める。
「……親子だからって、師弟だからってそんな馴れ合ってていーのかね。ここからは真剣勝負だぞ。味方なんてもういないんだ」
 そんな折に、二人のやり取りを横目で見ていた是清がぼそりと呟いた。確かにそれは一理ある。勝ち進むことを願うなら、どこかのタイミングで師だろうと父だろうと敵となるのは決定事項。ならば甘えすぎていけない。
 ただ、今の是清はどこか寂しさのようなものを漂わせているな、という感想もやんわりと抱く陽太郎だった。おそらく、プレッシャーに押しつぶされぬよう踏ん張るあまり、言葉が攻撃的になっているのではないか。同じく好調機を手にした陽太郎だからこそ、そんな風に思えてしかたなかった。
 ただ、だからといって調和を訴えたところで是清はますます怒るだけなのも目に見えている。異を唱える場面ではない。現実的にはそう判断せざるを得ないか。
「是清くん、抽選おめでとう。チャンスだな」
 陽太郎が小さくため息を漏らした直後、再び是清に近付いてきた霞の大きな声が響いた。
「……そ、そうっスね。しっかり乗ります」
 さすがに食ってかかれる相手ではないので、伏し目がちに頷く是清。意外にも、不調モーターを引いた霞は特に落胆してないようだ。早々に開き直ったのか、それともレジェンドにとってモーター抽選すら[些事{さじ}]なのか。確かめようもないが、とにかくその面持ちは明るい。
「しかし、こんな重要なレースで師匠がいっしょじゃないのは痛手だろう。……そんでな、いいこと思いついたんだよ俺。おーい、郁哉!」
「え⁉︎」
 マイペースに会話を続ける霞が、遠くから郁哉を呼び寄せた。抽選前と同じ展開に、言うまでもなく是清は大慌てとなる。
「霞さん、どうかしました?」
「いや、お前ヒドいモーター引いて最終日まで暇になっただろう。だからやりがいをプレゼントしてやろうと思って」
「……えーとですね。ツッコミどころが多すぎるのですが。とりあえずなんですか、やりがいって」
「息子だ」
「むす……えっ?」
「そう。息子だよ息子。せっかく是清くんが良いモーター引いたんだし、今回だけお前が師となり父となって、是清くんのサポートをしてやったらどうだって話だ」
「……ぶっ⁉︎」
 しばしその言葉の意を反芻し、唐突にむせ込んだのは是清。
 反面、郁哉の方は実に穏やかな返事をした。
「ああ、なるほど。良いですよ。確かに俺もアウェーで相談相手がいると助かるし、それが平和島慣れしている選手ならなによりだ。是清くん、君さえよければ整備のアドバイスくらいはいくらでもするよ」
「え、あ、あ……」
 もはや是清は言葉にならない様子。とは言っても郁哉に対し拒絶心など示すはずがなく、
「……………………お、お願いできるなら。死ぬほど、嬉しいっす」
 最終的には深くお辞儀して、郁哉を笑顔にさせるのだった。
 陽太郎としても密かに安堵していた。どうやら是清に対し余計な気遣いなどせず、レースに集中することができそうだ。
「よし、交渉成立だな。なら、是清くん。今日から最終日まで、郁哉のことをパパって呼ばなきゃダメだぞ!」
「パ……パパパパパパッ⁉︎」
 と、安心した矢先。霞がとびきりの爆弾を投下した。いろんな意味でショックが強すぎたのか、是清は白目を剥いている。
「ちょっとちょっと、霞さん。勘弁して下さいよ。それはさすがに俺の方が恥ずかしいって言うか……弱ったな……」
 冷や汗を浮かべる郁哉。レジェンド同士とはいえ、霞の方が先輩だから鼻で笑い飛ばすわけにもいかないようだった。
「なんだ、こんな息子はいらないってのか。あーあ。是清くん、かわいそうに」
「…………………………」
 霞がため息をつくと、是清はロコツにショックを受けた様子で目をぐらぐら揺らす。
 恐らく霞は計算尽くでからかっているのだろう。……鬼だ。
「あー! わ、わかりましたよ! えーと、是清くん。強制はしないが、君が呼びたいようになんとでも呼べば良いさ」
 仕方ないなと言った感じで郁哉は是清に微笑んだ。絶望のどん底に叩き落とされた雰囲気だった是清が、たちまち天に昇ったような輝きを瞳に取り戻す。
「あ、ありがとうございます……パ…………う、あ…………ああ!」
 実際に郁哉をパパなどと口にできる度量があるかどうかは別問題だろうが。
 陽太郎がそんなやり取りを暁と共に苦笑いで見守っていると、不意に辺りが[薔薇{ばら}]の香りに包まれた。[比喩{ひゆ}]表現ではなく、本当に花の[芳香{ほうこう}]に包まれたのだ。

「よし。なら私は、ママになってあげようか?」

 同時に、[舞踏{ぶとう}]を舞うように[煌{きら}]びやかな歩みで是清の正面に近付く影。スラリと伸びた背、たおやかな曲線を描くシルエット。
 現れたのは現役最強の女性レーサー、[巻島瑠衣{まきしま るい}]だった。
「おっ、こりゃあすげー親子が結成されたな。わはは、是清くん、もう怖いものなしだ」
「いじめられたらすぐママに言うんだよ?」
「な、なななななな何言ってるんスか!」
 真っ赤になって抗議する是清。まさしくその反応を楽しみにしていたのか、拒否されたのに瑠衣はむしろ笑みを強める。
「そうかい、なるほど。是清くんはママよりおねーちゃんの方が好みなんだな。よろしい、言ってごらん。『瑠衣おねーちゃん』って、さあさあ」
「誰が言うか~~~~~~~~!」
 追い詰められすぎてもはや敬語すら保てず、是清は絶叫する。それを見て霞と瑠衣、そして郁哉も含めた三人が大笑いし始めるのだった。
 なんだかんだで、妙にレジェンドたちから可愛がられている是清だった。鼻っ柱の強い性格が、頂点に君臨するレーサーにとってはむしろ見どころがあると好印象なのかもしれない。
「しかし、本当にとんでもないメンバーだね、父さん」
 松本郁哉。
 宇津木霞。
 巻島瑠衣。
 今のボート界を[牽引{けんいん}]する三人のトップレーサー。
「まったくだ。でも脇役で終わるつもりもないけどな、俺は」
 加えて超個性派の財前暁。
 さらには、是清に人一倍対抗心を持つ富樫俊介まで名を連ねている。
「僕だって、走る前から怖じ気づく気はない。勝つつもりで戦うよ。本気でね」
 並み居る強敵を相手に、好調機で大チャンスを得た陽太郎と是清は、どんな戦いができるか。
 最高に濃密な一週間が、今まさに幕を開けようとしていた。