Over the Top!! 後篇

「くぁ……」
 宿舎を出てレース場へと移動する途中、生あくびをかみ殺す[是清{これきよ}]。
 もちろん遊んでいて夜更かししたわけではない。昨日の前検で得た感触を、本番のレースに向けてどう微調整していくか。プランを練っているうちに頭の中が一杯になって眼が冴えてしまったのだ。
 是清としては珍しい事態だった。いつもならば、モーターの[些細{ささい}]な差なんてウデひとつでどうとでもなる。そう豪語してしまうタイプだという自覚はあった。
 しかし、この日ばかりはそうもいかない。
「晴れたな、是清くん。君の言ったとおりだ」
「っ⁉︎ お、おはようございますっ!」
 というのも、先日は[郁哉{いくや}]が本当に付きっきりで、是清のペラやモーターについてアドバイスを伝え続けてくれたのだ。
 誰もが[羨{うらや}]む貴重な機会。是清としては一言たりとも聴き逃すわけにはいかなかったし、大恩を受けたのなら結果を出さなければ万死[{ばんし}]に[値{あたい}]する。そんな思いがプレッシャーを激しく増大させた。
 もっとも、[生粋{きっすい}]の負けず嫌いである是清にとって、プレッシャーは味方につけるべきもの。[呑{の}]まれてしまうような弱い心臓を持ち合わせているつもりなどないが。
「これなら今日はわりとレースしやすいかな?」
 競技棟までの道のりで空を見上げる郁哉。
「……だといいんスが、午後から風が吹きそうです。ここの風、強いんで。特にインは気をつけて下さい」
「ああ、[平和島{へいわじま}]のビル風ってやつだね。幸か不幸かイン発進だなぁ、今日は」
 郁哉の苦笑。是清はあいにく真ん中の枠からのスタートが決まっていたが、[嫉妬{しっと}]の気持ちなどは起こらなかった。初日は有力選手がインに配置されるのが通常。郁哉がインコースでスタートなのは是清からしてみれば当たり前のことで、むしろそうでない組み合わせだったときこそ[憤{いきどお}]りを覚えたことだろう。
「だ、大丈夫っす……そ、その…………貴方なら……」
「だと良いが、それにしてももう少しモーターが出てくれないとスタートで足負けしちゃいそうだ。昨日の感じだとな」
 腕組みして悩む郁哉の隣で、是清はギリ、と唇を[噛{か}]んでいた。失言を[悔{く}]やんで。
 なぜ、『貴方』なんていかにも距離の遠い呼び方をしてしまったのだ。せっかくこんなふうに二人きりで話せている貴重なチャンスなのに『郁哉さん』と名前を呼ぶチャンスがひとつ潰えてしまった。あまりの失策。自分に鉄拳を[浴{あ}]びせたくなる。
 それもこれも、迷ってしまったせいだ。どう呼ぶか[葛藤{かっとう}]があったからこそ、もっとも無難でもっとも距離感のあるものを選んでしまった。
 せめて『郁哉さん』なら、さほど緊張もせず言えたはず。
 しかし……『パパ』はやはり無理だ。
 無理だったが、昨日の一連を思い起こすと、そのように呼びかけない是清は冷たくてノリの悪い人間だと受け止められるのではないか。郁哉としても、もしかしたら仕方ないから開催中は『パパ』で通そうと覚悟を決めてくれているのかもしれないのに。
 だとすれば、『貴方』なんて呼んでしまった是清の犯した罪は、非常に重い裏切りだ。
「是清くん。また練習で足合わせに付き合ってくれないか? 俺も気づいたことはアドバイスするから」
「も、もちろんです! え、ええと……」
 ダメだ、また『パパ』の葛藤のせいで名前すら声に出せなかった。幸せな時間であるはずなのに、ひたすらに胸が苦しい。恥じらいの気持ちが[膨{ふく}]れすぎて、今や郁哉の顔を正視することすら是清には難しくなっていた。
「さて、さっそく調整を始めようか」
「…………」
 朝の全体ミーティングを終え、整備室に向かう郁哉の後を付いてく是清。言葉少なになっていたが、内心ではようやくひとつの覚悟を固めつつあった。
 呼ぼう。呼んでしまおう。このままモヤモヤしていてもレースに悪影響が出る。これは霞からもらった指令なのだ。そのことを郁哉も知っている。ならば、さり気なく言葉にすれば郁哉に気味悪がられる心配なんてないはず。
 だから、今日から最終日まで、郁哉に対する呼びかけは……パパと――。
「っ⁉︎」
 口を開きかけた矢先、是清は今まで感じたことのないような威圧感を背中に受け、思わず振り向いた。
「ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ……」
 [俊介{しゅんすけ}]が、柱の影から怨念で人を殺さんばかりの[睨{にら}]みと歯ぎしりを是清ただ一人にだけ向けていた。

「ん? どうかしたか是清くん」
「………………いえ、何も」
 しばしガンの飛ばし合いに応じていた是清だったが、郁哉に問われるやフッと力を抜いて歩き出した。
 よくよく考えたら構う必要などない。今、郁哉との関係には圧倒的優位性があるのだ。[恨{うら}]むなら恨ませておけばいい。むしろ見せつけてやって俊介の心を折ってしまうべきだ。
 そうほくそ笑んで、以後俊介のことを見て見ぬフリする是清だったが。
「ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ……」
「…………しつけーぞ、おい。いい加減にしてくれ」
 結局また[圧{あつ}]に[屈{くっ}]しそうになる。整備室内で延々と背中を睨み付けられ、是清は立ちくらみさえ感じる始末だった。人の[怨嗟{えんさ}]が、これほどの攻撃力を発揮できるものだとは知らなかった。
 しかし、対応としては徹底した無視こそが正解であると是清は[疑{うたが}]わない。なにしろ、今は郁哉と気軽に話せる者VS話しかけられない者という構図なのだ。こちらからヘタに[因縁{いんねん}]をつければかえって優位性が[崩{くず}]れてしまう。
 妬むなら妬め。全て呑み込んでやる。その代わり郁哉との貴重な時間はこの身で独占する。
「ん? おお、俊介くん」
「うっ⁉︎ い、郁哉さん。これはその……⁉︎」
 覚悟と共に口元を[歪{ゆが}]めていた是清だったが、郁哉もこちらの様子を伺う俊介の存在に気づいてしまった。是清が視線を向けすぎていたかもしれない、もっと完全なる無視を決め込むべきだったか。[密{ひそ}]かに舌打ちをする。
「そういえば、今回[香川{かがわ}]から来てるのは俊介くんだけだよな。一人だと心細いだろう。よかったら、俊介くんも臨時のペラグループを組まないか? 是清くんといっしょに」
『えっ⁉︎』
 是清と俊介の絶叫がシンクロした。当然お互いにそんな状況は我慢ならない。郁哉への敬愛という分野では絶対に譲れない相手である俊介と、肩を並べて教えを[請{こ}]うなどという時間が訪れたら、是清の血管は破裂の危機を迎えてしまう。
「……お言葉、まことにありがたい限りです。しかし、郁哉さんの貴重な時間をこれ以上奪うわけにはいきません。ただでさえもう既に、お守りを任される災難を[被{こうむ}]っていらっしゃるのに……」
 ビキン、と是清のこめかみに熱の固まりが[迸{ほとばし}]る。誰がどう聞いてもイヤミとわかる挑発に、危うく我を忘れて俊介に食ってかかる寸前だった。
「…………っ」
 しかし、耐える。ギリギリで踏み[留{とど}]まり、自らが手にした圧倒的優位性を手放してはならぬと言いきかせる。
「さすが先輩、良い心がけです。俺にはどうしても譲れない向上心ってヤツがあるんで、郁哉さんのグループに加えてもらってるっスけど、おんぶに抱っこでお守りされるつもりならさっさと消えた方がいいっスね。それに気付けただけでも進歩だと思うっス」
「………………こい、つ」
 俊介の顔が激しく歪んだ。しかし上手い反論は思い浮かばぬ様子だ。口げんかでも絶対に負けるかと、[嗜虐的{しぎゃくてき}]に笑う是清。
「ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ……」
「ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ……」
 一心に睨み続け歯ぎしりする俊介。負けるものかと歯ぎしりの[威嚇{いかく}]で応じる是清。
「お、おい。どうしたんだ君たち」
 すると郁哉は一触即発のムードに戸惑った様子を見せた。
「なあ、もしかして……。君たちが仲良くなったというのは、[霞{かすみ}]さんの勘違いだったのか? やはりまだ、[隔{へだ}]たりが残ったままなんじゃあ……」
 そう言って深々と[項{うな}][垂{だ}]れる郁哉。その[面{おも}][持{も}]ちにははっきりとした落胆の色が見てとれた。
「……く」
 途端に是清は罪悪感で窒息しそうになる。どんな理由であれ、自分が原因で郁哉の表情を[曇{くも}]らせた。そう[察{さっ}]した途端、切腹してしまいたい衝動に[駆{か}]られる。
「……う」
 俊介も同じだったようで、一瞬にして顔色が紫になっている。絶対に認められない相手ではあるが、その心中に関しては手に取るように理解することができた。
 どうすべきなのだろう。郁哉が察しつつあるように俊介は[未{いま}]だ天敵のまま……とは[告{つ}]げられない。さりとて、場を取り[繕{つくろ}]うには自分の信念に嘘をつかなければならない。究極の選択と呼ぶに相応しい難問が[迫{せま}]っていた。
「…………ご心配なく、郁哉さん」
「ぬ?」
 葛藤を続ける是清より早く、俊介が行動に出た。その[意図{いと}]やいかに。
「私と、是清……くんですが。ちゃんと和解し、打ち解けております」
「…………なん、だと」
 かすれきった声で[呟{つぶや}]く是清。馬鹿な、何を考えてそんな大嘘を。
「おお! そうなのか! よかった、安心したよ! じゃあなおさら、俊介くんも……」
「……ありがたき幸せです。ご迷惑になるのは承知なので心苦しくはありますが、せっかくのご厚意を[無碍{むげ}]にするのもかえって失礼。お誘い頂いた恩を胸に、私もいっしょにペラの研究をさせて下さいませ」
「っ‼︎」
 怒りで叫び出しそうになるのを[堪{こら}]えられたのは奇跡だった。
 俊介は選んだのだ、孤高よりも、プライドなき『郁哉といっしょ』を。気に入らない是清という存在に[妥協{だきょう}]してまで、郁哉と是清の濃密な時間に茶々を入れにきた!
 なんて、なんて、大人げのないヤツ!
「是清くんもそれでいいよな?」
「……………………は、い」
 ああ、しかし。拒絶しようもない。ここで嫌だと言ったら是清の方が大人げがないヤツということになってしまう。他の誰かならともかく、郁哉にそのような誤解を抱かれてしまったらショックでしばらくまともにボートの操縦すらできそうにない。
「よし、決定! じゃあこの開催は三人で知恵を出し合って上位進出を目指そうじゃないか!」
 [屈託{くったく}]のない笑みで是清と俊介、それぞれと握手する郁哉。精一杯の作り笑いで、是清もまた郁哉の心の広さを[称{たた}]えながら頷く。
「ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ……」
「ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ……」
 言わずもがなそれは、ひとたび郁哉の目が届かなくなったなら呪い殺すつもりで俊介とガンを飛ばし合う日々の訪れを意味しているわけだが。

    *

「よし! 俊介くんおみごと!」
 先頭でゴールを走り抜けたボートに向けて、郁哉が小さく拳を振り上げた。
 初日に組まれた12レースのうち、最初のレースに出走が決まっていた俊介が、ライバルを競り落として1着になってしまった。いきなり大きくポイントを[獲得{かくとく}]し、5日目に行われる準優勝戦への進出が一歩近付く。
「……枠に恵まれやがって」
 面白くなくてつい悪態をついてしまう是清だった。とはいえ今の先行逃げ切りは、俊介が2枠発進でなければ難しかっただろう。別にやっかみではなく客観的な判断として思う。
 ちなみにこの後、第4レースに出走予定の是清は3番枠。しかしそれが理由でやっかんでいるわけではない。違うのだ。なぜ俊介よりも外からレースしなければ成らないのだという不満は確かにあるが、違うのだ。
「ははは、なかなか手厳しいことを言うね是清くん。プレッシャーかかっちゃうな」
 ほのかに笑みを浮かべ腕を組む郁哉。是清はハッと息を呑んだ。よく考えたら郁哉はこの日の最終レースで1枠発進。さっきの発言は、[図{はか}]らずも郁哉に対し不服を伝えているようにも聞こえかねない。
「や! 郁哉さんに言ったわけじゃなくて、その!」
「わかってるわかってる。だが、俊介くんのレースを見てますます結果を出さなきゃいかんと気が引き[締{し}]まったのは事実だよ。これで期待を裏切ったらあまりに恥ずかしい」
「もちろん郁哉さんなら……! で、でも天気とか潮で急にインが不利になることもありますし!」
「レース前から言い訳の材料をくれなくてもいいって」
 苦笑を深める郁哉だったが、是清は言ってしまった直後に[愕然{がくぜん}]とした。今のはまるで郁哉の能力に期待していないかのような言動だった。こともあろうに何という失言だ。
「さて、もう少しペラと向き合ってくるかな。是清くんはそろそろ集中したい時合いだろうし、ひとまずは別行動といこうか」
 手を挙げ、[颯爽{さっそう}]と整備室の方へと向かう郁哉。
「………………ち、違う。違うんです」
 その背中に向け、アワアワと震える指先を伸ばすことしかできない是清だった。失言でムッとさせてしまったかもしれない。嫌われたかも。恐怖感でもはや呼び止めることもできないほど、心にダメージを受けてしまった。
「……………………レースだ。俺もレースで結果を出して、見直してもらうしか」
 しばし項垂れていた是清が、両目に炎を宿し前を向く。かくなる上は絶対に勝つ。勝って、郁哉の指導がどれほど[正鵠{せいこく}]を[射{い}]ていたのか。結果で証明する。それしかこの不始末に落とし前をつける方法はない。
「見てろよ俊介の野郎。後からくっついてきて抜け駆けなんて絶対に許さねえ」
 血が滲むほど唇を噛みながら、戦いの支度を整えに競技棟へと戻っていく是清だった。

    *

『うらあっ! 見たかコラ!』
 ヘルメット越しに絶叫し、天に向かって勝ち名乗りを上げる是清。俊介に続き、自らも1着を取れたことに、溢れ出る興奮を[抑{おさ}]えきれなかった。
 もちろんまだ初日。最終目標が優勝であるならば喜ぶにはあまりにも早すぎる。しかしそれでも、この一戦で絶対に結果を出すという決意が実った喜びは、何事にも替えがたい。
 それに、郁哉からのアドバイスが結果に[繋{つな}]がった。もともと良いモーターであることは事実だとしても、指導してくれた側もこの結果を喜ばしく思ってくれることだろう。
「こうなったら全日全勝で決めるしかねーな」
 上機嫌でピット裏まで戻り、鼻歌交じりで撤収作業を続ける是清。
「……………………」
 するとその行く先で、壁に背中を預け腕組みをしている俊介の姿があった。
 どうすべきか迷う。無視してさっさと郁哉に勝利報告をしたい気持ちもやまやまだったが。
「ちゃんと見てたか。お前より外から勝ったぜ、俺は」
 迷った末、[牽制{けんせい}]しておくことにする。是清の目が届かないところで俊介が自信過剰な振る舞いをしないよう、真の力関係を確認する意味を込めて。
「…………フン」
 俊介は体勢を崩さないまま鼻を鳴らした。毎度のことだが、いちいち[癪{しゃく}]にさわる振る舞いばかりだ。
「相変わらずおめでたい奴だ。そのモーターで負けたら恥、というほどの幸運に恵まれた結果ではないか。……それに。またスタート前、強引にインを狙っていたな。待機行動違反にならなかったのが不思議なくらいだ」
「あ? いつからアンタが審判になったんだ? そもそもさっきのは枠なり進入しなきゃいけないレースじゃねーぞ」
 ボートレースは基本的にインコースが有利。だからスタート前、チャンスがあるなら少しでも内側のコースに入りたいと考えるのがまっとうな思考だと是清は信じている。ただし、安全面などの理由で、3枠なら3コース、6枠なら6コースからのスタートが求められる場合もある。そういう時は仕方なく是清も自重するが、今は関係のない話だ。
「強引すぎる進路取りはどこのレース場でも違反だ。貴様は、またしても取れるはずもない2コースを狙いにいった。誰がどう見ても無茶で[無謀{むぼう}]な[暴挙{ぼうきょ}]だった」
「最終的に3コースを選んだろうが。レース後にお咎めもなかった。それが答えだ」
 堂々と答える。事実として、確かにあわよくば2コースを奪えないものかと[画策{かくさく}]したのはその通りだった。しかし、これ以上前に出ようとすれば助走距離が足りなくなる、というところでやむなく諦めた。ルールの範囲内でギリギリを攻めたことに対し、文句を言われる筋合いはない。
 むしろ、勝つために[最善{さいぜん}]を尽くすのはプロのアスリートとしての責任に関わるはずだ。弱気にレースをして勝利のチャンスを狭める行為こそがむしろ悪。それが是清の信念だった。
「やはり根本{こんぽん}からわかっていない。技術のなさに無自覚だから無茶をする。技術を身につけるべき段階でその場しのぎのラフプレーに逃げるのだ。そんな向上心のない[輩{やから}]が水面に浮かんでいるだけでも腹立たしいのに、あろうことか郁哉さんの貴重な時間まで奪っている。せめてその罪にだけは気づいてさっさとどこかへ消えてくれ」
 修羅の[形相{ぎょうそう}]で睨む俊介だったが、是清は今の一言で逆に失笑を漏らした。
「ようやく本音が出たな。いろいろ難癖つけてるが、要するに俺が[目障{めざわ}]りなだけなんだろ。なんとかして追っ払えないものかって、あら探しばっかりしてる。向上心がないのはどっちだよ。そんな暇があるならロッカーの中にでも閉じこもってイメトレしてろ」
「ふざけるな! 貴様の浅はかな考えで俺を[量{はか}]るな! 俺はただ、郁哉さんの時間を奪うなと言っている!」
「は! 理解できてないのはどっちだよ! だいたいアンタ、最初は別行動しようとしてたじゃねーか。言ってることが矛盾してるぜ!」
「していない! 貴重さを理解していればこそ、畏れ多いと感じるのが常識的な感覚だ。臆面もない貴様などとは親愛の質が、深さが違う。だから――‼︎」
「だから、なんだよ?」
「だから――『父』と呼ぶ権利があるとすれば、それは俺の方が持つ権利だ!」
 俊介が真顔で言い放った。
「…………………………ほう?」
 是清もまた、一瞬で真顔になった。
 一線を超[{こ}]えてきたな、と遅れて思う。これでも多少は先輩の顔を立ててやっているつもりだった。あくまで口先だけの言い争いで留めておこうと。
 しかし今の発言はもはや取り返しがつかない。俊介と兄弟になる可能性は地球がひっくり返っても有り得ない以上、宣戦布告を受けたも同然だったからだ。もともと無きに等しかった共存の可能性は、完全に[途絶{とだ}]えた。
 ずい、と距離を詰め、胸先がぶつかりそうな近さで俊介を睨む是清。
「郁哉さんの手前、我慢してやろうかと思ったが、やっぱりアンタとはハッキリ白黒つけなきゃいけないようだな」
「同感だが、暴力[沙{ざ}][汰{た}]はやめてもらおうか。お前が受ける制裁などどうでもいいが、開催そのものに迷惑が及ぶ」
「心配すんな。殴って[憂{う}]さ[晴{ば}]らしなんて興味ねーよ。そんなガキじゃない。それにアンタもわかっているはずだ。レーサー同士の決着は、水面でしかつけようがないって」
「……ふっ。それくらいの常識は持ち合わせているか。ならばいいだろう。明日以降、同じレースで走る時があることを祈っている」
「着順の悪い方が、郁哉さんの前から去る。決まりだな」
 淡々と最低限の言葉で意思確認を終えるや、是清は俊介の前から離れる。
 そして、運命のいたずらと言うべきか。[雌雄{しゆう}]を決する瞬間は、翌日にいきなり訪れた。

    *

 待機室は静まりきっていた。
「…………」
「…………」
 レースに出走する直前の選手だけが集められる部屋なのだから、緊張感が[漂{ただよ}]っているのは当然。しかしそれを[踏{ふ}]まえても、やけに誰も口を開こうとはしないなと、是清は内心で思う。二日目の昼間という時間帯なのだが、まるで既に後半戦のようだ。
 俊介と是清が発している闘志に[気{け}][圧{お}]されている選手が多いのだろうか。だとすれば、ますます一騎打ちの勝負になるなと確信を深める。事実、舟券の人気も1号艇の俊介と2号艇の是清が抜けているらしい。
 なぜ昨日に引き続き是清の方が外なのだという不服はあったが、もはや気にしている意味はない。出走が間近に迫っていた。
 この一戦、絶対に制す。郁哉への敬意とボートレースへの熱意を示すため、俊介に必ず先着しなければ。
 いや、先着だけでは足りない。勝つ。四の五の言わせないためにも、連勝でボートレーサーとしての実力を、郁哉の教えを受けるべき資格を持つのがどちらなのかを、ハッキリとわからせてやるのだ。
「……っ!」
 合図を耳にするや瞬速で立ち上がり、外へ。敬礼を[交{か}]わしボートの方――戦場となる水面へ向かっていく。
「…………」
「…………」
 無言のまま、先頭を歩く俊介の背中に鋭い視線を浴びせる。せいぜい平和島の景色を目に焼き付けておけ。前に立てるのは今のうちだけなのだから。
「………………」
 ボートに乗り込む寸前、俊介も是清に睨みをきかせた。確かめるまでもなく、必勝を誓っているのは向こうも同じ。だからこそ[完膚{かんぷ}]なきまで叩きのめせば、口を出してくる気も[失{う}]せるはずだ。
 郁哉と過ごす掛け替えのない数日間が、再び是清だけのものになる。
 モーターを駆動させ、スロットルレバーを握る。ほどなくして、ファンファーレと同時に鳴り響いた発進の合図でピットから解放された6艇のボートが一斉に飛び出した。
 まずは、スタートまでの攻防だ。刻々とカウントダウンしていく大時計の針がゼロを示す瞬間を狙って、より良いポジションからより長く助走距離を取ることができれば勝利はぐっと近付く。じりじりと進むボートを制御しながら、スタートラインのある大時計の方に進路を向ける。
 ここで、どれくらいインを主張するか。是清は2コースだが、1コースの俊介がターンマークを回りきる前に[艇身{ていしん}]を先行してしまえば、最内となる1コースに進入することは可能だ。
 ただし、必要以上に前に出ることになるから、助走距離が足りなくなるリスクが付きまとう。それに、強引すぎると昨日難癖をつけられた『待機行動違反』を本当に犯してしまうことにもなりかねない。
『…………』
 インコースを観察。思いのほか俊介の動きが[鈍{にぶ}]い。
 てっきり[血{ち}][眼{まなこ}]になって張り合ってくるかと思ったが、ずいぶん消極的なスタートを選んだものだ。
 なんであれ、そういうことならば……!
『なんて、な』
 ヘルメットの内側で[八重歯{やえば}]を[剥{む}]いた是清。そして、重心を後ろにかけボートの進行速度を可能な限り遅くした。進入は2コースから動かない。
 大時計の針がゆっくり回る白色から、スタートまで残り12秒を示す黄色に切り替わる。ここぞ、というタイミングでレバーを握り込み、全速前進。
『3・2・1っ!』
 スタートラインに届く寸前、時計の針も頂点に達する。フライングしない絶好のタイミングでスタートできたことを是清は瞬時に[悟{さと}]った。あとは、第1ターンマークの攻防に集中するのみ。自分より外のボートからはプレッシャーを感じない。
 ならば、敵はやはりただ一人。
『行かせるかよぉっ!』
 是清に勝るとも[劣{おと}]らないスタートを切った俊介に対し、是清は外からピッタリと艇身を[併{あわ}]せにかかる。いわゆる『ツケマイ』と呼ばれる、真っ向からスピード勝負を挑む戦法だ。
 強烈な遠心力を身体に受けながら、ターンを回りきる。幾分外に振られつつも、一歩前に出ることができたのは……是清の方!
『っし!』
 鋭く息を漏らしつつも、すぐに集中力を水面に戻す。ボートレースという競技の性質上、一度先頭に立てば後続に引き波を浴びせられるため圧倒的有利な状況となるが、気を抜けばいつ隙を突かれるかもわからない。
 相手が一流の腕の持ち主なら……俊介なら、尚更だ。
 脇目も振らず前だけを[見{み}][据{す}]え、是清は堂々たるレースで終始トップを守りきった。

    *

「ふぅ」
 ピット裏に帰還し、ヘルメットを脱いで最初に漏れたのは盛大なため息。喜びに打ち震えるよりも早く、安堵が溢れ出てしまった自分に遅れて苦笑する是清だった。
「……意外だった」
「ん?」
 小さな呟き声に振り向くと、俊介がうつむき加減で口元を結んでいた。
 [悔{くやし}]しそうではあるが、あまり怒りの[気配{けはい}]は感じない。
「意外って、何がだよ」
「貴様のことだから必ず1コースを主張してくる。そう思っていたが」
 返ってきた答えはその実、予想していたものだった。俊介の言う通り、実のところかなり迷った。入れるインがあるなら入る。それが是清のモットーと言っても[過言{かごん}]ではないのだから。
「アンタのことだから、素直に道を譲るわけなんてないだろ。どーせ俺が寄せてきたところでツッパって深インさせようって魂胆だったんじゃないのか?」
「……なんと。まさか、お見通しだったとはな」
 俊介が珍しく微苦笑を浮かべたので、是清は逆にぎょっと目を剥いてしまった。
 それはさておき、深インとは、待機行動中前に出すぎて助走距離が足りなくなった状態。インコースの選手として絶対に犯してはならないミスのひとつだ。
 そんな右往左往をしているうちに、助走距離が足りなくなる。俊介にもかなりのリスクが発生するものの、相手が確実にインを狙ってくると読めている場面ならばトラップを仕掛けることも可能かもしれない。
「マジでそんなこと考えてたのか。インケンなヤツ」
「普通であれば実現不可能だ。無理筋でも構わず1コースを獲りに来るような素人が相手でもない限りはな」
「負け犬の遠吠えってやつか?」
「いや。それにすら至らん。まさか、逆に考えを読まれてしまうとは。どうやら貴様のことをあまりにも見くびりすぎてたようだ」
「…………読んでなんかねーよ」
「なに?」
 せっかく俊介が素直に負けを認めている場面なのだから黙って聞き流そうかと思ったが、それは逆に是清のプライドが許さなかった。
「もしかして、そういうつもりだったのかって思ったのは、レースが終わった後だ。スタート前はそこまで考えつかなかった」
「…………ならば、なぜ? なぜ1コースに入ってこようとしなかった?」
 意外そうな俊介に、ようやく是清は勝ち誇って腕組みをした。
「スタートタイミングが[互角{ごかく}]なら、絶対アンタより前に出られるって自信があったからだよ。なんせ、ずっと郁哉さんとアンタと三人で調整続けて、やりたくもねー足合わせまで付き合わされる[羽目{はめ}]になったからな」
「……!」
 足合わせとは、試運転の際に二選手が並んで走り、モーターやペラの状態を探ること。
 俊介と是清は、郁哉の無邪気な提案によりこの瞬間まで何度か共に練習を重ねていたのであった。
「だから、さっきのレースに限ってはアンタのスタートをずっと見てられる2コースの方が勝ちに近い。直感でそう思っただけだ。インの方が勝てるって思ってたら、罠とは知らずに狙ってたよ。それだけは素直に伝えとく」
「……あえてもう一度繰り返そう。貴様のことを、あまりにも見くびりすぎていた。それが俺の敗因だ」
 深いため息を漏らす俊介。今度こそ是清は素直に達成感を味わうことができた。
「二人とも! 良いレースだったぞ!」
『……郁哉さん!』
 [訪{おとず}]れた短い沈黙を、[弾{はず}]んだ声が破る。ハッとして振り向く俊介に、是清も声を重ねた。ようやく収まりかけていた全身の[火{ほ}][照{て}]りが、一瞬でぶり返す。
「いやあ、思わず大きな声が出たよ。臨時チームとはいえ、教え子たちのワンツーというのは実に気持ちの良いものだな。是清くんも俊介くんもおめでとう。これで準優勝戦進出もかなり現実的になってきたんじゃないか?」
 [朗{ほが}]らかに郁哉が笑う。あまりの光栄さに、是清はもう少しで膝を突き感謝の祈りを[捧{ささ}]げる寸前だった。
「……ありがとうございます、郁哉さん。全てご指導のおかげです」
 俊介も深く腰を折って郁哉にお辞儀する。
「いやいや、一番は俊介くん自身の努力の賜物だろう。とにかく、この先も切磋琢磨して頑張っていこう」
 右手を差し出す郁哉。しかし、俊介は握手に応じようとせず、首を垂れたままだった。
「お気持ちは本当に感謝します。この三日間、何物にも代えがたい経験を得られました。……しかし、こんなことを言うのも心苦しいのですが。残る後半戦は、自分一人でペラと向き合おうかと思います」
 そして苦しそうにそう言い残し、郁哉と是清の前から離れていく。
「えっ? どうして?」
「……郁哉さん。訊かないでやって下さい。あいつも、辛い判断だと思いますので」
 珍しく是清は助け船を出した。勝負を挑んで負けた以上、俊介はここに留まるなんて絶対に選択できない。もし是清が逆の立場だったら……と考えれば明らかだった。
 ならば情けをかけるより、黙って見送るのがせめてもの礼儀。
「……そうか、なるほどな。是清くんにリベンジするため、あえて違うことを試したい。そういう気持ちは確かにわかるよ。よし、ここは遠くから見守ることにしよう」
 さすがは百戦[錬{れん}][磨{ま}]のベテラン。怒ることも心配することもせず、俊介の意を[汲{く}]んで任せる道を早々に選んでくれた。
 その[潔{いさぎよ}]さに、改めて尊敬の念を浮かべる是清だった。
 そして珍しく、俊介に対しても複雑な想いを[募{つの}]らせる。
 味わった悔しさたるや、並大抵のものではないだろう。だからこそ、このまま終わるはずがない。上位進出に向け、変わらず最大限の注意を俊介に向けておく必要がありそうだ。

「それじゃ是清くん、また後で」
「う、ウッス! ありがとうございました!」
 しばし立ち話に付き合ってくれた郁哉が、レースの準備のため是清の前を離れていく。
「………………」
 沢山褒めてもらえたし、今後に向けてますます気合いが入った。しばし、勝利に酔いしれたい気持ちも間違いなくあるのだが。
「また……呼べなかった」
 前検日の約束を未だ果たしていないのがもどかしい。いや、郁哉は約束などと考えていないかもしれないが、是清の方に抵抗感があると勘違いされたままなのは困る。
 やはり、一度くらいは使っておくべきか。今だけ許されるであろうはずの、呼び方を。
「や、やりました。……父さん」
 レースの合間で静まりきった水面に向け、試しに[呟{つぶや}]いてみる。
 思わずニヤけた。
「よ、よし。言えたじゃねーか。次はきっと、直接目の前で――」

「そうだな。でも緊張しすぎないようにもう少し別の相手で練習しておいた方が良いんじゃないか?」

「――――っ⁉︎」
 ぽん、ぽん、と。後ろから肩を叩かれる感触。
 鋭い痛みが胸の奥に走った。
「………………」
 恐る恐る、振り返る。
 [涼{すず}]やかな[眼差{まなざ}]しで、[巻島{まきしま}][瑠衣{るい}]がにっこりと微笑んでいた。
「ほら、呼んでみたまえ。お姉ちゃんって。ほらほら」
「…………………………………………」
 できることなら、今すぐ真冬の水面に飛び込んでしまいたい。顔全体が灼熱に包まれたような感覚を味わいながら、是清は両膝を突いて[塞{ふさ}]ぎ込んだ。
 せめてもの[幸{さいわ}]いは、聴かれたのが瑠衣一人であったことか……。
「ん? やあ霞さん。聞いて下さい、ついに是清くんが――」
「わああああああああああああああ!」
 なんの躊躇もなく言いふらそうとする瑠衣の前で動転し、是清はなりふり構わずその足首にしがみついた。
 [曲者{くせもの}]揃いのレース場は、どんな場面でも絶対に気が抜けない。いろんな意味で。

    *

 もっとも、やはりレジェンドレーサーたちに対し一番気を抜いてはならない場所、それは水面である。
 そんな当たり前の事実に再度思い至るまでには、大して時間を要しなかった。
「来た、郁哉さん!」
 レースの行く末を見守っていた是清が、力いっぱい拳を振り上げる。低迷モーターのハンデを覆し、2日目にして郁哉が勝利を飾ったことに歓喜が溢れた。
 それと同時に、実力に改めて[驚愕{きょうがく}]する。正直なところ、前検の試運転を見た限り、いくら郁哉とはいえあのモーターで上位進出を果たすのは難しいのでは、と感じていた。しかし、初日で既にいきなり2着。そして今の勝利を見て予感が確信に変わる。
 もう、不調モーターじゃない。郁哉はペラとモーターをこの短期間で水面にフィットさせ、有力選手としてあっという間に返り咲いたのだ。
「やっぱりすごいね。まさしくレジェンドって感じ」
「[陽太郎{ようたろう}]」
 隣に気配を感じ振り向くと、同期が苦笑を浮かべていた。
「霞さんも勝ってたし、やっぱりトップレーサーってすごいね、改めて。良いモーターが当たった若手としてはものすごくプレッシャーじゃない?」
「そうでもねーな。最初からわかってたことだ」
 是清がそう答えたのは半分つよがりで、半分本音だった。是清もまたレジェンドたちの総合力に対し素直に驚愕している反面、なんとなく予感はあった。たとえモーターがよくても、楽に勝たせてもらえるはずがないと。
「まあ、そうだよね。この分だと郁哉さんと霞さんは、確実に準優勝戦で壁になりそう」
「…………瑠衣さんもな」
「なんで照れてんの是清?」
「照れてねーよ!」
 照れたのではなく先ほどの失態を思い出したのだ、とは死んでも言えない。
 さておき事実として、瑠衣も絶好調だ。そしてもはやモーターの不安が解消されたのならば、郁哉、霞、瑠衣の三選手が大きな壁になるのはほぼ確定。優勝戦に進めるのは六選手だから、残る座席は三つ。そう考えておいた方が良い。
「……? ま、いいや。とにかく是清に負けてる余裕はなさそうだね」
「ほざけ、こっちの[台詞{セリフ}]だ」
 一笑に付す是清だったが、陽太郎もまたここまで好成績。良いモーターを引き、平和島を走り慣れているというアドバンテージも是清と同じ。だからこそ軽視はできないし、倒さなければいけない相手だ。
「お互い精一杯がんばろう。もちろん、他に注意しなきゃいけない選手もいるけど」
「……そうだな。んじゃ、また」
 頷き合って別れる是清と陽太郎。
 他に注意すべき選手といえば、やはり是清は俊介が思い浮かんだ。
 陽太郎はおそらく、全く別の想像をしていただろうが。
「久々に見られるかもな、親子対決」
 初日と2日目の成績を思い起こしながら、何気なく呟く是清だった。

    *

 

激闘を重ねに重ね辿り着いた開催5日目。
「さーて、ここからますます気合い入れないとね」
 陽太郎は、準優勝戦の出走メンバーの中に晴れて名を[連{つら}]ねていた。
 合計で3レース行われる準優勝戦のうち、既に二つのレースが終了。最初に勝ち名乗りを上げたのは郁哉で、二着には霞が入った。両者ともさすがの一言だ。
 次のレースを勝利したのはなんと是清。同期の大金星には気合いも入るし、緊張感もまたより強く感じざるを得なかった。二着には瑠衣。
 この一着と二着の選手、すなわち郁哉、霞、是清、瑠衣の四人が、既に優勝戦進出を決めている。
 そして、これから行われるレースで全メンバーが確定するのだ。残り二つの座席に、はたして陽太郎は座ることができるか。大一番が間近に迫っていた。
 [手{て}][応{ごた}]えはある。とはいえ、相手の顔ぶれを見ればとても油断などは不可能だ。
「……ふふっ。やっぱ緊張してそうだな、息子よ」
 静まりきった待機所に、押し殺した声が響いた。隣に腰掛けた父親が、ニヤニヤとこちらの顔色を窺っている。
 超えるべき第一の壁、それは陽太郎の実父である暁。偶然の巡り合わせで、よりにもよって同じ準優勝戦を走ることになってしまったのだ。やれやれと[嘆{なげ}]きたくなるが、ここまでの成績による得点率で自動的に決まった振り分けなので是非もなしである。
「そりゃ、ね。父さんは緊張してないの?」
「緊張して着順がよくなるならいくらでも緊張してやるがな。しかし[生憎{あいにく}]、どう[足掻{あが}]いても変わらないだろ」
 [飄々{ひょうひょう}]とした態度が憎らしい。しかしこの[肝{きも}]の[据{す}]わり方こそが年季の差なのだろう。郁哉や霞だけではない。[暁{あかつき}]もまた、数々の修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の[猛者{もさ}]だ。父親であることなど関係なく、隙を見せてはいけない相手だ。
「ふうん。どう足掻いても結果は変わらない、か。それなら当然、大人しく枠なり進入でスタートしてくれるんだよね?」
「お。こいつ、親に心理戦を仕掛けるとはナマイキな」
 そう言って笑う暁。
 このレース、多くの人間を悩ませているに違いない波乱の要素が潜んでいた。
 それは、枠番。あろうことか陽太郎が1番枠、そして暁が2番枠という並びなのだ。
 平和島を代表するアウト屋二人が揃って内に並んだこの配置。いったいどんなレース展開になるのだ……と、ファンも共に走るレーサーも気がかりで仕方ないことだろう。心なしか、枠の話を始めたとたん周りから聞き耳を立てられているような感覚もある。
 などと分析しつつ、陽太郎もまたどうレースと向き合うか迷いに迷っている最中ではあるのだが。
「ま、俺のことは気にするなよ。1番枠じゃあさすがに1コースに入らないわけにはいかないだろうがな、責任として」
「よく言うよ。2番枠だって似たようなものでしょ。……そんな牽制してくるってことは、まさかアウトコースに出るつもり?」
「お前こそ、やけに勘ぐってくるなあ。怒られるぞ~、弱気なレースしたら」
「弱気なレース、ね。僕まだ若造だし、外からプレッシャーあると引いちゃうかもなー?」
「んなこと言ったら俺は『元祖・6コースの守り人』だし? どうせ6コースだろって周りが思ってると、押し出されちゃうかもしれないし?」
 お互い様だが、よく言う。6コースに入るのは常に自らの断固たる意志である癖に。
 しかし、今のやり取りを考えると陽太郎が6コースを狙いにいけば、いらぬ[小{こ}][競{ぜ}]り合いが発生してしまうか。それではせっかく伸び伸び走れるアウトを選ぶ意味が薄れる。
 とはいえ、父親だからといって、否、父親だからこそ相手に合わせて戦法を曲げたくない。やはり、なかなかに難しい選択を迫られるレースになりそうだ。
「……まったく、理解不能だ」
 悩みを深める陽太郎の耳に、ため息交じりの呟きが届いた。
 声の主は、3番枠スタートの[富樫{とがし}][俊介{しゅんすけ}]。
 暁と同じかそれ以上に有力視され、このレースで[財前{ざいぜん}]親子と三つ[巴{どもえ}]の人気を形勢しているのが俊介だった。
「ん? ああ、喋りすぎてうるさかったよな。申し訳ない」
 暁が[詫{わ}]びを伝えると、俊介はゆっくり首を二回横に振る。
「そうではありません。会話はご自由に。ただ、レーサーとして……失礼ながら、お二人の考えが理解できないと感じて、つい」
 陽太郎と暁は顔を見合わせる。正直、うるさくしすぎてイライラさせた可能性は否定できない。誰もが勝負駆けの一戦なのだから、集中力を乱されては[敵{かな}]うまい。だから無条件に[謝{あやま}]るべきかとも思った。
「アウトにこだわるのは効率が悪いってことかな?」
 けれども陽太郎は問い返してしまう。今はなんとなく、気持ちで負けたくなかった。ここでただ頭を下げているだけではレースでも気合い負けするように思えたのだ。
「効率どころか、プロ選手として問題があるのでは? プロならば常に勝ちを目指すべきだ。ならば、インコースのアドバンテージを捨ててアウトコースに入ろうとするなんて、ボートレーサーとしての存在意義を否定するのに等しい」
 実に厳しく、[刺々{とげとげ}]しい言葉だ。
 だが。
「……ぷっ」
「ははは」
 陽太郎と暁は、つい互いに噴き出してしまう。
「何がおかしい?」
 ますます不機嫌になる俊介。
「ごめんなさい、違うんです。俊介さんのことを笑ったわけじゃなくて」
「なんか、言い方がそっくりだったからさ。ウチの支部……東京支部の、郁哉親衛隊のあいつに。それでつい。すまんすまん」
「……っ⁉︎」
 そう、今の俊介の言い方が、是清そっくりだったのだ。あれほどいがみ合っている二人が、ボートへの信念を語ればよく似ている。それがとても象徴的で、陽太郎も暁も笑みを漏らしてしまったのだった。
「………………」
 バツが悪かったのか、黙りこくってしまった俊介。
 陽太郎は暁とアイコンタクトを交わす。それから、いつもは是清に語る信念の言葉を、俊介にも同様に伝えることにした。
「もちろん僕も父さんも、いつも勝つことだけを考えて乗っているよ」
「だったら、なぜ……⁉︎」
 [釈然{しゃくぜん}]としない様子で尋ね返す俊介。
「っと、俊介くん。残念ながら議論は時間切れのようだ。レース、始まるぜ」
 しかし、時計を見た暁がやり取りを制した。
 どうやら[問答{もんどう}]の結末は、言葉ではなく水面での直接対決に持ち越されることになりそうだ。

    *

 ファンファーレと共に、6艇がピットアウト。進入コースを巡る牽制合戦が幕を開ける。
『…………』
 陽太郎と暁は、横並びでにらみ合いの体勢に。互いが互いに仕掛けどころを探り、ややゆったりとしたペースで折り返しのターンマークに向かう。
『……っ。そうきたか、やっぱり』
 そこに、強くプレッシャーをかけてくるボートが。俊介だ。
 つくづく皮肉な展開になったと苦笑する陽太郎。是清に対し過度なイン狙いを咎めていた俊介が、今は自らが外枠から内のコースを狙ってくるのだから、準優勝戦ともなると展開読みも一筋縄ではまかり通らない。
 ただ、俊介の思惑というか、この場面で迷わずインを狙ってくる根拠ならば理解できた。信条に反するのは、あくまで『強引な』自己主張。陽太郎や暁のように、内枠にいながらのんびりと構えている選手が相手ならば、さすがにそれはコースを奪われてもしかたがない、という主張なのだろう。
 ヘルメット越しに、陽太郎は俊介とにらみ合う。
 その合間に、波しぶきが舞い上がった。
『父さん。やっぱり動いたか』
 2号艇の暁が、スロットルレバーを握り陽太郎たちから離れていく。向かう先はボートレース平和島の最果て。6コースの最奥部だ。
 狙うのはダッシュスタート。他のボートよりもコーナーが遠くなる不利を被る一方、最大の助走距離を得ることができる。スタートタイミングが合えば、ボートが全速力に達した時点でレースを始められる。
『よし、僕も覚悟を決めないとね』
 自分に言いきかせ、選んだのは不動。遅れ気味ながら、あえてインを主張している俊介に追従する。今はまだ、あえて。
 そうしているうちに、6号艇、5号艇、4号艇も後ろに引く。潮や風の状態から、ダッシュスタートの方が一発逆転を狙えるという判断のようだ。
 そして、機は熟した。
『さーて、一か八か』
 他の選手の動きを確認するや、満を持して陽太郎も動く。レバーを握り、後ろへ、入るコースは暁が放棄して空白になっていた2コース。
 これで、6艇のうち5艇がダッシュスタートを選択したことになる。通称『2カド』と呼ばれる配置。インコースにつけてスロースタートを選択したのが俊介だけという、かなり珍しい振り分けでレースの幕が開かれることになった。
 大時計の針と、見える景色に全神経を集中し、スタートのタイミングを探る陽太郎。
 そして、ここぞという確信をもって、スロットルレバーを力いっぱい握りこんだ。
 轟音を上げて加速するボート。スタートラインまで残り45mを示す空中線標識を抜け、大時計が迫る。
『入る……入れ……入る……入れッ!』
 黄色の針が頂点に達するのと同時、スタートラインに触れた。もしほんの僅かでもフライングしていたら、欠場。それでレース終了。
 しかし。
『大丈夫、入った!』
 陽太郎は確信をもって第1ターンマーク目がけ突き進む。俊介はすぐ隣。しかし、伸び足では陽太郎の方が勝っている。
『いっけえええええええええ!』
 小細工無しの全速モンキーターン。ボートから投げだされそうになるのを堪えながら、鋭い引き波をしたがえて陽太郎は先頭に[躍{おど}]り出る。
『……く!』
 次の瞬間、インコースに黒い影。2号艇の暁だ。他のボートを外からマクった上で、陽太郎のインを付いて差す『マクり差し』だ。さすがは暁、そのハンドル捌きはまさしく[乾坤{けんこん}][一擲{いってき}]。互いの差は僅か。この勝負、次のターンまでもつれる。
『あーあー、いい年してギラギラしちゃって! 負けるか!』
 直線に入ると、暁がベストなコース取りのため外に寄せてきた。激しくボート同士が接触するが、陽太郎とて一歩も退かない。2着でも優勝戦に進める……そんな事実は、一瞬にして頭の中から消え失せた。
 勝つ。勝つしかない。もう、勝利しか見えやしない。
 そうでなければ、プロのボートレーサーなんて[勤{つと}]まるものか。
 親子の意地が激しくぶつかり合ったまま、第2ターンマークへ突入。どちらも譲らず、2艇がどんどん他のボートをぶっちぎっていく。
 そして、決着。最終的にほんの1艇身だけ前に出たのは、陽太郎の方だった。

    *

「くっそー、歳かな。あと少し筋肉があれば当たり負けしなかったろうに」
「いや、筋肉は関係ないでしょ……」
 ピット裏に戻るや謎の悔しがり方をする父親に苦笑を向ける陽太郎。
 実際のところ、最後はモーターの差だろう。陽太郎の方が僅かに出足で勝っていたから、この着順になった。モーターが逆なら、結果も逆だったかもしれない。
 しかし、だとしても。父親を真っ向勝負で退けた。その事実は陽太郎にとって今までにないほどの自信となる。
「ふん、今のうちだけ喜んどけ。本番の優勝戦では目にもの見せてくれるわ」
「……怖い怖い。今までの着順からして、父さん願ったり叶ったりの6枠スタートだろうし。……それにしても、やっぱり冷えるね~。お風呂入ってこようかな……あ」
 溢れ出る笑顔を隠せずに撤収作業を終え、競技棟に戻ろうとしたところで陽太郎は俊介の姿を見つけた。
「……………………」
「あからさまに落ち込んでるな、あいつ」
「声をかけるのも[憚{はばか}]られるほどにね……」
 項垂れて固まった面持ちを見て、反射的に方向転換しそうになる暁と陽太郎。
 しかし、思い直す。このまま別れてしまっては未来にわだかまりが残るかもしれない。一度ちゃんと、話をしておこう。
「俊介さん」
 そう覚悟を決め、そのまま正面に歩み寄って呼びかける。
「口だけの男を笑いに来たのか?」
「いやいや、そう[卑屈{ひくつ}]になるなよ」
 暁が苦笑するが、俊介の顔つきは沈んだままだ。
「あの、俊介さん。さすがのコーナリングでした。スロースタートで勝負を挑んでいたら、必ず負けていたと思います」
「気休めはよしてくれ」
「気休めだと思いますか? ご自分でも、最初のターンには手応えがあったのでは?」
 たじろがずに本心を伝えると、ようやく俊介は目を見開く。
「……ダッシュだから。あえて引いたから君は勝てたと?」
「はい。だって、この日までずっとダッシュスタートのためにペラもモーターも調整してましたから。付け焼き刃のスローじゃ、僕は勝てない。だから、アウトコースからの、ダッシュスタートのスペシャリストになりたいと思って、今まで練習を重ねてきました。勝つために」
「……勝つために、か」
「そういうこった。俺たちが外を選ぶのは、負けたいからじゃない。勝ちたいからだ。よく考えてみろ。ここ一番のレースでインを取れる日なんて[滅多{めった}]にない。だいたいが外寄りのレースになる。だったらいっそ、アウトで抜群に強い選手になれば、いつでも平常心でレースに挑める。そういう考え方もあるんだ」
「………………」
 暁の[捕捉{ほそく}]を耳にして、真剣に考え込む俊介。まさかアウト屋に転向する気になったとまでは思えないが、思想には理解を示してくれた。陽太郎にはそう思えた。
 ちなみに、暁が6コースに固執するのはただの趣味と[酔狂{すいきょう}]で、さっきのご高説は後付けのこじつけだと陽太郎は確信している。
 今指摘するのは[野暮{やぼ}]だから黙っているが。
「この開催は、東京支部の若手の引き立て役に[徹{てっ}]することになってしまった。しかし、当然だがこのままでは終わらない。また全力勝負できる日を楽しみにしている」
 俊介が立ち上がり、握手を求めてくる。
 もちろん迷わず陽太郎はその手を握りかえした。
「今年もご迷惑おかけするかもしれませんが、よろしくお願いします!」
 そう、まだ新たな一年の攻防は始まったばかりなのだ。さらなる高みを目指すためには、この一勝に満足なんてしている場合じゃない。
 なによりもまずは、明日の優勝戦。ここを制すれば、周りの目の色も変わってくるはず。
 財前の息子の方、ではなく、財前陽太郎として。もっと名を[轟{とどろ}]かすため、恐るべき相手の揃ったレースで[下克上{げこくじょう}]を狙う。
 6日間の長い戦いが、ようやく最終局面を迎えようとしていた。

    *

『1番、松本郁哉』

『2番、乾是清』

『3番、財前陽太郎』

『4番、[宇津木{うつぎ}]霞』

『5番、巻島瑠衣』

『6番、財前暁』

 優勝戦の周回展示でボートの状態を確認しながら、是清はちらりとスタンドを見る。
 やはりというべきか、かなりのファンが詰めかけている。SGとまでは言わないにしても、並のグレードレースは[遥{はる}]かに超える人の入りだ。
 それもやはり、この一癖も二癖もあるメンバー構成が理由か。郁哉と霞の両巨頭に加え、現役女子ナンバーワンレーサーの瑠衣。さらには曲者のアウト屋暁と陽太郎の親子対決まで絡んでくる。
 新春早々、強く好奇心を刺激される決戦になったことは客観的にも明らかだった。
 その中で2枠という魅力的なポジションを確保できた。おそらく是清の優勝を予想しているファンは多くないだろうが、今は構わない。
 ここを足がかりに、出世街道をひた走る。そして、郁哉に心の底から認められて、もっといっしょに走り続けたい選手がいると感じてもらえれば。
 夢はまだまだ続くかもしれない。
 早期引退宣言を、撤回してもらえるかもしれない。
 もちろん、なんの根拠もない希望的観測だ。
 しかし、だとしても。是清が郁哉に声を届ける[術{すべ}]は、ボートに乗り続ける他になにもない。他に術がないのだから、できることを続けるしかない。
 だから、今日で新人レーサーの[殻{から}]を脱ぎ捨てる。今年最も注目すべき選手として、本当の意味で郁哉に認めてもらうために、勝つ。

    *

「みなさん、さすが。もうモーターの有利不利は、ほとんどないと思っておいた方がいいな」
 ピット裏に戻って、陽太郎はモニターを睨みながら[唸{うな}]った。
 周回展示ではタイムが計測され、ファンが舟券を予想するための材料となるのだが、陽太郎自身を含めた全選手が素晴らしい伸びを見せている。初日では明らかに陽太郎と是清のボートが抜けて好調だったはずなのに、その差が感じられなくなったということは、他の選手たちが整備で差を[埋{う}]めてきたという意味に他ならない。
 操縦の腕もさることながら、レジェンドの凄みは水面だけに[留{とど}]まらないと、改めて思い知らされた。
「ま、ここまで来たらあれこれ悩んでもしかたないよね」
 だとしても、悲観的になる必要はないと陽太郎は自分に言いきかせた。追いつかれたとしても、追い越されたわけではない。少なくともボートの足では、まだ充分勝負になるはず。実力差はもとより承知。胸を借りるつもりで精一杯陽太郎らしいレースに徹するだけだ。
 勝負は水もの。様々な思惑が絡み合えば、意図せぬチャンスが転がってくることもあるだろう。そのチャンスを掴むためには、思い切って腹をくくるしかない。

    *

 ついに優勝戦が始まる。
 ピットアウトした6艇が最後のポジション争いに。是清もプレッシャーに圧し負けることなく、絶好のピット離れでコースに飛び出すことができた。
『イン狙いは……まあ無理だよな。知ってた』
 内を[一瞥{いちべつ}]して息を漏らす是清。相手が郁哉だから遠慮したわけではなく、さすがに付け入る隙がない。この大一番で最内に潜り込むというプランは夢物語でも描ける類ではなかった。
『で、こっちも予想通りか』
 一方で3枠の陽太郎は早々にボートを後ろに引く。当然だろう。このメンバーで一発波乱を演出するためには、自分の武器を最大限利用するしかない。常にインに固執する是清としても、今この場面で陽太郎がダッシュに賭ける気持ちは素直に理解できた。
 もっとも、陽太郎がダッシュに構えるのはもはや誰にとっても織り込み済みだっただろう。だから、4枠の霞が連鎖してインに寄せてくるのも迅速だった。
『おいおい、おっさん』
 それどころか、霞の主張は空いた分のコースを埋めるだけに留まらない。是清から2コースを奪わんばかりのアグレッシブさだ。
 若手はどいてろ、とでも言うつもりだろうか。だとしたら、心外にもほどがある。この程度の圧力で屈すると思われる生き様を[晒{さら}]してきたつもりはないのだが。
 対抗心を示すべく、是清はヘルメットの奥に隠れた霞の顔を睨み付けた。
『っ』
 そして、瞬時に悟る。
 違う。霞は是清を軽視しているわけではない。そもそも見てすらいないのだ。表情が伺えなくとも、溢れ出る闘志の矛先だけで確信できる。
 霞の[双眸{そうぼう}]には、もはや1コースの郁哉しか写っていない。
 今まで何度も死闘を演じてきたのだから、ライバル心を抱くのも当たり前だろう。マークすべきはまだ名も無きルーキーではなく、最も有利なコースに入ったスーパースター。いくら是清でも、それが当然の作戦であることは理解できる。
 理解できるが、我慢ならなかった。
 そして、是清の血液は次の瞬間沸点に達することになる。
『…………そりゃ、ないぜ』
 霞の気配に操られるように、是清もインコースに視線を向ける。
 すると、郁哉もまた全身から溢れ出る闘志を霞一人に対しぶつけていたのだ。
 間に挟んだ是清を、レジェンドたちはまったく意に[介{かい}]していない。
 ――怒り、悲しみ、無力感、反骨心。
 ありとあらゆる負の感情が、是清の頭の中で渦潮のように駆け巡る。
 かと思えば、[忽然{こつぜん}]と。全ての思考が頭の中から消えた。
 それはまるで、大波の前に訪れる引き潮のような静けさだった。
『ダメだよ、郁哉さん。ちゃんと俺のことも見てくれないと、さ』
 スロットルレバーを握りしめる。
 スタートラインまで残り数メートルで、是清のボートの鼻先が先頭に出た。
 その時ようやく、左右から。郁哉と霞の視線を感じることができた。
 心の声を代弁するなら、『早すぎる!』だろうか。
 フライングになってしまうか否か、是清にも判断がつかない微妙なタイミングだ。
 ならばあとは、委ねよう。是清の存在を忘れた郁哉たちの判断は正しかったのか。答えは勝利の女神が導き出してくれる。

    *

 5コースの一番奥で、陽太郎は父親と肩を並べ運命の瞬間を待ち構えていた。
 隣を見る。暁がかすかに首をかしげる。その面持ちはきっと飄々とした笑顔なのだろう。
 全くもって、敵に回したくない相手だ。なぜこの土壇場に、そこまで肝が[据{す}]わった態度でいられるのか。
 絶対にミスしない、絶好のスタートを切るという自信に満ちあふれている。
 直感的に思う。このダッシュ勝負、[分{ぶ}]が悪いと。
 まだ技術でも経験でも、陽太郎は父を超えていない。その[佇{たたず}]まいを眺めただけで、嫌というほど思い知らされてしまった。
 だから。
『さらにもう一段、肝を据えるしかないね。今はまだ父さんの方が上なら。そう信じられるなら。僕は……いっそ自分を捨ててやる!』
 スロットルレバーを握りしめる。暁と呼吸を合わせ、しかし、暁よりもほんの一瞬だけ早く。
 ボートの伸び足には差がない。ならば、これで確実に暁より早くスタートが切れる。
 フライングになってしまうか否か。正直わからない。だが暁よりも前に出るには、今はこの方法しかない。
 ならばあとは、[委{ゆだ}]ねよう。答えは勝利の女神が導き出してくれる。
 迫り来るスタートライン。タイミングは……なんともいえない。
『是清⁉︎』
 何とも言えないが、確実にわかることがひとつ。インの是清の方が先にスタートラインに触れた。ダッシュに構えた陽太郎の方が伸び足では勝るが、トップスタートは是清だ。陽太郎と同じく、[伸{の}]るか[反{そ}]るかの大勝負に出たのだろう。
 そう察した瞬間、ほくそ笑む。
 まったくもって、つくづく。問題児集団が揃ってしまったものだ。
 とにかく、チャンスだ。スタートで是清が郁哉と霞の鼻面を叩いてくれたから、確実にコーナーでもつれる。郁哉にあっさりイン逃げを決められる展開はなさそうだ。
 ならば、小細工しない、外からマクりきって先頭に立ってみせる。
 暁も当然同じ動きをするだろうが、構うものか。準優勝戦と同じくパワーではじき出すのみ。このボートなら、もう一度再現できるはずだ。
 アドレナリンに火を点け、全速で第1ターンマークに飛び込む陽太郎。
 インではみごと是清がレジェンド2艇をまとめて押さえつけ、先頭に躍り出た。大金星だ。
『でも、ごめんね! この勝負、僕がまとめてかっさらう!』
 ターゲットを定め、モンキーターンで是清に襲いかかる陽太郎。
 ……そして、見た。
『え』
 全ての男どもを手玉に取って、陽太郎の内からマクり差しであっさり先頭に立つ、巻島瑠衣の姿を。

    *

「……完全に展開読み切られてたなー」
「……だねー」
 レースリプレイをモニターで確認しながら、がっくり肩を落とす陽太郎と暁。
 瑠衣の進路取りは見事なものだった。まるで、神の視点でどの選手がどう動くか予め知っていたかのように、針の穴を通すようなコントロールで5人の間をすり抜けている。
 ちなみに陽太郎も、是清もスタートはギリギリで入っていた。だからこそ、悔しさもひとしおなのだが。
「郁哉、イン閉めに[拘{こだわ}]りすぎだろー。もうちょい大胆に乗ってりゃかえって差されなかったろうに」
「だって霞さんも差し狙ってたでしょー。是清くんも鼻先出てたし、[膨{ふく}]れたらハイそれまでって感じでしたもん」
 すぐ[傍{そば}]で、霞と郁哉も感想戦の真っ最中。二人もまたしてやられた、というムードが色濃い。
 女王をノーマークにしてしまったというのが、全員共通の敗因になるだろうか。
『それでは並み居る強豪をすり抜けて優勝を果たしました、巻島瑠衣選手のインタビューです』
 唸っていると、別のモニターからアナウンサーの軽快な声が。なんとなくそちらに目を向けてしまう陽太郎。
『いやー、お見事! 紅一点での優勝戦でしたが、プレッシャーはありませんでしたか?』
『ヘルメットをつけてしまえば男も女もよく分かりませんし。それに、どちらかと言えば男の方が単純ですから。考えてることが』
 辺りに気まずい沈黙が流れる。
「…………郁哉、お前単純だって」
「霞さんも、ね。……実際、インだけでヒートアップしすぎたかなぁ。わかってはいたつもりだったが、巻島瑠衣という才能の末恐ろしさを思い知らされた気分だ」
 しみじみと呟く郁哉。
 今の言葉、是清が悔しがるかもしれないなと陽太郎は思う。あと少しで、郁哉から同じような評価を得られたかもしれない紙一重の勝負だったのだから。
 そう思って姿を捜すと、是清は少し離れた所で瑠衣のインタビューを食い入るように見つめていた。
「巻島瑠衣………………[姐{ねえ}]さん」
 そして、偶然にも聞いてしまった。是清の口から飛び出した、想像だにしない単語を。
 しかも間の悪いことにその発言が霞や郁哉の耳にも届いてしまい、すわ『ウワキか!』と騒ぎ立てられる結果になってしまうのだった。
「ちちちち違うんス! 違うんス今のは! うわああああ!」
 途端に耳まで真っ赤になる是清を見て笑ってるうちに、悔しさもどこかに吹き飛んでいく。
「まだまだ、キリッとレースを締めるには力不足だなあ。……僕たち問題児軍団は」
 今年もまた、波乱含みのボートレーサー生活が待ち受けていそうだ。
 ならばきっと、またすぐに。陽太郎が主役となって大波乱を演出する舞台も待ち受けていることだろう。そう信じて日々の努力を重ねていくしかない。
 今度こそ、瑠衣にも勝てるように。
「そういや陽太郎。お前また瑠衣ちゃんに優勝戦で負けたのな」
「……言わないでよ父さん。気づかないふりしてたのに」
 もしかして、相性が悪い……?
 苦手意識が染みつく前に、マグレでも何でもいいから勝ちを拾っておきたいとしみじみ思う陽太郎であった。