SNS ―ステップアップ・ノ・ススメ― 後篇

 広島県にある『ボートレース[宮島{みやじま}]』は最も世界文化遺産に近いレース場として名を[馳{は}]せている。なにしろすぐ対岸に、かの有名な[厳島{いつくしま}]神社の大鳥居がそびえ立っているのだ。
 とはいえ真剣勝負の最中であるレーサーからすると、あまりその事を意識している暇はない。戦いが終われば、今度はまた次の勝負に向けての準備や移動。宮島に一度も上陸せぬまま広島を後にしてしまう選手の方が多いのだった。
「ベタ[凪{なぎ}]だ。こりゃあ絶好のバズり[日和{びより}]だな」
 [凛{りん}]がフェリー上でカメラを構え、自撮り。東京支部からの遠征組である凛もまた宮島[未踏{みとう}]の選手であったのだが、初体験の瞬間はもう間近に迫っている。レース後、わざわざ近場で一泊してまでして作りだした観光旅行の時間だった。
「なんで俺まで……」
 無理矢理付き合わされた[駿太{しゅんた}]としてはたまったものではないが。宮島に興味がないわけではない。だが移動日を一日[潰{つぶ}]す羽目になり、明日からのスケジュールが死ぬほどタイトになった。家に帰ってゆっくり眠る時間を奪われた[恨{うら}]みは、正直隠しきれない。
「自撮りばっかりだとどうしても同じ角度の写真になっちまうんだよ。だからカメラマンが必要なんだ。バリエーションを出せって言ったのはお前なんだから責任とって付き合え」
「周りにいる人に頼めば良かったじゃんかー。写真撮ってくださいって」
「男一人で宮島行って写真撮ってくれって頼めと? 嫌だよかっこわりぃ」
 どうも凛は[体裁{ていさい}]を気にしすぎな[嫌{きら}]いがある。だからアップする写真も綺麗に整いすぎていて面白みが足りないのではなかろうか。
「……しゃーねーなー」
 だとすると、駿太が意外性を演出してやることで停滞を打破できるかもしれない。そう考えたら少しやる気が出てきた。どうせもう付き合わされるのは確定なのだ。不満を抱えたまま[無為{むい}]な時間を過ごすより、いろいろ面白いアイデアを出して凛に[貢献{こうけん}]してやろう。
「よし、到着だ。降りるぞ」
 フェリーが宮島側の[波止場{はとば}]に到着した。所要時間はたったの十分ほど。頭ではわかっていたつもりだが、本当にボートレース宮島からすぐ近くなのだなと改めて感動する。
「まずはどこに行くんだ?」
「そりゃーやっぱ厳島神社だろ。ベタだが外せん」
 当たり前のことを聞くなと肩をすくめる凛。まあ、それはそうかと駿太も納得し、二人してフェリーを降りた。案内板によると[本殿{ほんでん}]まではここから歩いてすぐのようだ。
「お、見えてきた」
 いかにも観光地といった風の[土産物屋{みやげものや}]や食堂をやり過ごし、海沿いを歩くと大鳥居が視界に入った。今は[干潮{かんちょう}]の時間帯なので、水が引いて底の砂が[露呈{ろてい}]している。これなら鳥居のすぐ近くまで歩いていくことができそうだ。
「凛、大鳥居のとこまで行ってみようぜ!」
「え、ヤダよ。靴が汚れるだろ」
「……いやお前、バズる写真撮りに来たんじゃなかったのかよ」
 まさか難色を示されるとは思わず、ずっこけそうになる駿太。
「そうだけど、砂浜に降りるのはなー。濡れてるし」
「それくらい我慢だって! よく言うだろ……なんだっけ。[墓穴{ぼけつ}]を掘らねばモジモジせず?」
「意味分かんねーよ。[虎穴{こけつ}]に[入{い}]らずんば[虎児{こじ}]を[得{え}]ずって言いたいのか?」
「そうそれ! レッツ虎児!」
「……まあ、これくらいの[犠牲{ぎせい}]はやむをえねーか。わかったわかった」
 説得のかいあって凛は大鳥居に近付く気になってくれたようだ。よっしゃ、と思わず駿太はガッツポーズする。実は単純に、自分が[傍{そば}]まで行ってみたいだけだった。
「ほらー凛! 早く早く~!」
「はしゃぐな! 恥ずかしいわ!」
 駆け出すと、砂が重く足元にまとわりつく。歩きづらいが、特別な体験ができているという実感のおかげかそれがかえって心地良かった。
「おおーこれが厳島神社の大鳥居! 近付くとますますデカいな!」
「へえ、確かにな。こりゃ面白い写真が撮れそうだ」
 駿太に少し遅れて鳥居の根元にたどり着いた凛も感心した様子で上空を見る。青空と朱のコントラストが[鮮{あざ}]やかで、いつまでも眺めていたくなる光景だった。
「よし、撮るぞ! まずは凛が好きなようにポーズ決めてみてくれ」
「はいはいっと。任せとけ」
 声は気だるげながら素早い動きで、鳥居に手を添えポーズを決める凛。[物憂{ものう}]げな表情がミステリアスで、悪くない構図だ。ローアングルから[煽{あお}]るようにして、駿太はスマホでシャッターを切る。
「うん、こんなもんかな。どうだ?」
 何度か角度を変えて撮影し、出来栄えを凛に確かめてもらう。
「そうだな。写真の腕はともかく素材が良い。採用してやる。有り難く思え」
「…………へいへい、どーも」
 ある程度予想はしていたが、もう少し努力を[褒{ほ}]め[称{たた}]えてくれてもいいと思う。ただ確かに、駿太としても完璧な[手応{てごた}]えを得たわけではないのも事実だった。悪くない写真は撮れたのだが、まだワンパンチ足りないような。もう少しセンセーショナルな[絵面{えづら}]じゃないと、広く注目を集めるには[至{いた}]らないかもしれない。
 何かいいアイデアはないだろうか。この場所を活かした、究極レベルで目立つ写真の撮り方は――。
「そうだ! なあ凛、このまま[潮{しお}]が満ちてくるまでここで待とうぜ!」
「……は? お前なに言ってんだ?」
「半分水に[浸{つ}]かりながら写真撮ったらめっちゃ目立つって! まさに水もしたたるいい男ってやつ!」
「誰がやるかそんなアホなこと! 俺のキャラをもっと考えろ!」
「えー、凛がやるから意外性が出ていいんじゃん」
「そういう方向性は求めてないんだよ。却下だ却下!」
「あ! じゃあ、上半身を砂に[埋{うず}]めて、両脚でVサイン――」
「最悪だ! お前しばらく黙ってろ! 余計なことはしなくていーからただ写真を撮り続けてくれ!」
「…………なんだよ、つまんねーなー」
 ことごとく意見を跳ね返され、モチベーションだだ下がりの駿太。サポートしてやろうという気も失せて、その後は[牡蠣{かき}]を食べたり[弥山{みせん}]に登ったり、ひたすら[無難{ぶなん}]に宮島観光をこなす凛を黙々とカメラに収め続けた。
「おし。これで非日常感ある[画{え}]がたっぷり集まったな。アップしたらフォロワー爆増間違いなしだぜ」
「……………………」
 帰りのフェリーでほくほく顔の凛。しかし、駿太としてはまったく賛同できずにいた。
 きっと、大して伸びない。確かに場所だけは観光地に変わったが、なんの目新しさもないキメ顔の写真ばかりだ。新規ファンが食いついてくれる要素なんてさほどあるとは思えない。
 もっと別の、意外性に[訴{うった}]えかけるようなアプローチができたはずなのに。もどかしい。なぜ凛はその可能性を少しも考慮してくれなかったのだろう。
 [悶々{もんもん}]とするが、後の[祭{まつ}]りだ。結局もう駿太のアイデアを試すチャンスは失われてしまったから、自分の考えが正しいか間違っているか確かめることもできない。
「…………いや、待てよ」
 と、そのとき駿太の心にふと、[突拍子{とっぴょうし}]もない考えが浮かんだ。確かに凛のアカウントではもう答え合わせができない。
 ならば、他で試してみるのはどうか? 駿太が思う『面白い』写真を駿太のアカウントにアップロードして、凛のアカウントとの伸びを競わせてみるのは?
 そうすれば、正しいのはどちらなのかはっきりするはず。

    *

 宮島遠征から一ヶ月ほどが経過した。ここ最近は地元の[斡旋{あっせん}]が続き、比較的地に足が着いた生活を送れている駿太。今日もこれから『ボートレース[江戸川{えどがわ}]』に[前検{ぜんけん}]入りだ。
「江戸川はクセが強いからな。しっかり流れに乗れるよう注意しないと」
 レース場に向かう道すがら、気合いを入れ直す。『ドボンキング3世』などという[異名{いみょう}]をいつまでも[享受{きょうじゅ}]しているわけにはいかない。攻めて勝つ。そして[転覆{てんぷく}]しない。両方こなしてこそ新時代の主人公に[相応{ふさわ}]しい選手なのだ。
「あ! おいお前! 駿太!」
「お?」
 ぐっと拳を握った直後、背後から聞き覚えのある、でも少し久しぶりの呼び声が。
「凛、おはよ! 宮島ぶりにいっしょの斡旋だな!」
「おはよう、じゃねえ! [白々{しらじら}]しいな!」
 笑顔で挨拶すると、凛はいきなり肩に[掴{つか}]みかかってきた。
「ど、どうした? 落ち着けよ」
「落ち着いてられるか! お前、これどういうつもりだ⁉」
 まくし立てながら凛は駿太にスマホの画面を突きつける。表示されていたのは、少し前に[夕一{ゆういち}]と向かった廃校の写真だった。
「あ、それか。許可とらないですまん! でも凛のことは書いてないから約束は破ってないぞ?」
「勝手にアップしたことも怒ってるが、この際そっちはどうでもいい! 駿太、お前なんでオンスタ始めてるんだよ⁉ しかも……なんで俺のフォロワー数抜いてるんだよ⁉」
 凛の[苦言{くげん}]は事実だった。駿太はある思いつきでオンスタに投稿を始め、そして[瞬{またた}]く[間{ま}]に多くのフォロワーを[獲得{かくとく}]することに成功した。
「いやー、せっかくアカウント作らされたんだし、俺もやってみようかなって」
 苦笑しながら頭をかく駿太。もちろんそういう軽いノリで始めたのは嘘ではないが、理由は他にももう一つあった。
 やはりどうしても駿太の考えが正しいことを証明したかった。凛のやり方よりも、もっとフォロワーを集める方法がある。その仮説の答え合わせをせずにはいられなかったのだ。
 そして、数字という[確固{かっこ}]たる事実として駿太の考えが正しいことが証明された。
「…………なぜだ。なぜ、こんなふざけた[垢{アカ}]に俺の人気が負けなきゃいけないんだ」
 怒りから一転、がくりと肩を落とす凛。駿太がオンスタにあげた写真は、どれもまともな表情ではないものばかり。変顔は基本。時にはシャッターを切り損ねてブレブレになった謎写真なども[躊躇{ちゅうちょ}]なくアップロードし続けた。
「や、むしろふざけてないからじゃないか?」
「……どういう意味だよ?」
「やっぱ凛のアカウントって、綺麗に[整{ととの}]いすぎだよ。いつも似たようなのばっかだからフォローしてまで見たいって思う人少ないんじゃない?」
「な。こいつ、えらそーに……」
 [怨嗟{えんさ}]の言葉を[呟{つぶや}]いたもののすぐ口を[噤{つぐ}]んだ凛。実際にフォロワーを抜かれてしまったから、駿太の理念を[覆{くつがえ}]すことができないのだろう。
「ま、要はやり方ひとつってことだよ。別に凛が俺より不人気ってことじゃないと思うから安心しろ! むしろ俺のやり方を真似すればあっという間にフォロワー爆上げだって、凛なら!」
「……………………」
 もの凄く殺意のこもった視線を一身に受ける駿太。ちょっと調子に乗りすぎたかもしれないと、ようやく気付いた。
 が、しかし。
「………………頼む。教えてくれ。どうすればバズる? 本気で悩んでるんだ」
 意外にも、唇を[噛{か}]みしめながら凛は頭を下げた。屈辱を受け止めるのも[辞{じ}]さないほど、駿太にフォロワーを抜かれたのが[悔{くや}]しくて仕方ないのだろうか。
「お、おう! まかせろ! なんでも包み隠さずアドバイスしてやる!」
 その覚悟を肌で感じ、駿太は背筋を伸ばして自らの胸を叩いた。別に凛を打ち負かすことが駿太の目的ではない。むしろ正しさを信じてくれるのならば、いくらでも協力は[惜{お}]しまないともとより思っていた。
「まずはやっぱり変顔だな! 強烈なほどウケる」
「それはパス」
「おい」
 ほんの寸前に見せたシリアスさはなんだったのか。
「[断腸{だんちょう}]の思いで頭を下げてはいるが、俺にも[譲{ゆず}]れないラインはある。ギャグ路線に[舵{かじ}]を切るのだけは勘弁してくれ」
「いちばんウケるのになー」
 とはいえ確かに凛が駿太ほどはっちゃけだしたら乱心を疑われるかもしれない。あまり急激な変化を求めるのも無理があるか。
「他になんかないのか? フォロワーが増えやすい投稿の特徴とか」
「安心しろ、あるぞ! 偶然だけどもう一つ見つけた!」
「マジか! どんなのだ? 教えてくれ!」
「なるべくたくさんの人とツーショットを撮るんだ! そうすればググッと『いいね』がついてフォローも増えるぞ!」
 これは偶然気付いた手法だった。たまたま街で顔を合わせた選手と一緒に撮影した写真をアップロードしたところ、その人物のファンからのフォローが急増した。おそらく、また駿太のタイムラインにその人物が登場することを期待しているのだろう。
「いや、それだと俺のファンが増えたことにならないだろ」
「ふっふっふ。甘いな凛。まずは見てもらうことが大事なんだよ。見てもらえれば、後からファンになってくれる可能性が生まれる。実際オンスタきっかけで、はじめて俺の応援に来てくれた人がいたし」
「………………駿太のくせに、なんてまともな意見を」
「どういう意味だコラ」
 本気で驚いた様子の凛に抗議する。[褒{ほ}]めるならもっとちゃんと褒めてほしい。
「しかし、なるほど。確かに、他人をダシに使って[撒{ま}]き[餌{え}]するって発想には気付けなかったな。その手があったか」
「凛、言い方言い方」
 なぜわざわざ悪意全開な方向で[捉{とら}]えるのか。お互いのファンに喜んでもらうという純粋なまごころの大切さを伝えたかったのに。
「助かったぜ駿太。おかげでキャラを崩さずに停滞してるフォロワー数を増やすことができそうだ」
「だ、だといいな」
 ともかく、凛がやる気に燃えてくれたのでよしとすべきか。どうも本質的な部分で考え方の行き違いが残っているような気がしないでもないが。

    *

「……さて、気持ちが[萎{な}]える前にさっそく行動に移すか」
 開催が終わり、[預{あず}]けていたスマホを受け取った凛はボートレース場の[傍{そば}]で待ちぶせを仕掛ける。目当ては同じレースに参戦していた選手の一人だ。
 多くの注目を集めるなら、やはり人気のある選手がいいだろう。となると、SNSでコラボを依頼したい相手は必然的に[絞{しぼ}]られる。
「あいつに頭を下げるのはシャクの[極{きわ}]みだが……今は[贅沢{ぜいたく}]も言ってられん」
 [物陰{ものかげ}]で待機することしばし。ようやくターゲットがレース場の外に出てきた
「……悔しいな。あそこまで追い詰めたのなら優勝したかった」
 髪の毛をかき分け、[憂{うれ}]いの表情を浮かべているのは[芳賀星一{はが せいいち}]。凛よりも先に王子キャラとして名を売った先輩レーサーだ。
 微妙にキャラが被っているので正直気にくわない敵の[筆頭{ひっとう}]ではあるのだが、だからこそ奪うべきファンが多いポジションにいるのも事実。むしろ踏み台としては絶好と考え、表面上の友好を[築{きず}]くことにしよう。
「やあ、どうも星一さん」
「ん? なんだ、凛君か。珍しいね、話しかけてくるなんて」
「たまには友情を深めるのも大事かと思いまして」
「………………」
 星一がロコツに顔を[歪{ゆが}]めた。明らかに不審がっている。それはそうだろうと凛自身も思うが。
 しかしこの程度の拒絶で引き下がってはいられない。フォロワーを増やすためならなんでもすると強い覚悟で決めたのだ。駿太ごときに人気で負けている状況など、凛のプライドが絶対に許さない。
「というわけで、一緒に写真を撮りましょう」
「え、なんで?」
 スマホを構え凛が一歩近付くと、星一は三歩後ろに後ずさりした。
「いいじゃないですか、減るもんでもないし。星一さんの人気獲得にも繋がるかもしれませんよ、少しくらいは」
「人気? どういう意味?」
 凛は内心で舌打ちする。どうやら一から事情を説明しないと首を縦に振ってもらうのは難しそうだ。面倒だがやむを得ない。
「オンスタですよ、オンスタ。僕のアカウントがあるんです。そこに星一さんとの写真を載せたいなと思いまして。ファンサービスのひとつだと思ってください。星一さんのオフショットが見られて喜ぶ人、絶対にいますよ」
 最終的にはそういう人間を[略奪{りゃくだつ}]しようと思っている凛だが、真の目的はひた隠しにして微笑みで星一に迫る。
「………………やめておくよ、そういうのは」
 星一は少し沈黙してから、ゆっくりとかぶりを振った。
「ちょ、なんでだ……なぜでしょう?」
 予想外の返答に[地{じ}]を出してしまいそうになりつつ、なんとか[平静{へいせい}]を[装{よそお}]って[尋{たず}]ねる凛。
「僕はボートレーサーで、モデルじゃない。たとえ写真を喜んでくれる人がいたとしても、それは本当の意味でのファンサービスにはならない。だって今の僕は、レーサーとしての僕じゃないから。今日、僕にできるファンサービスは、優勝戦できっちりと勝ちきることだったはず。でも……」
 星一は[惜{お}]しくも二着に敗れ、優勝を逃した。悔しさがぶり返してきたのか、星一は[俯{うつむ}]いて声を震わせる。
 ちなみに凛はモーターが全く[冴{さ}]えず、早々に上位進出を逃していた。
「………………」
 その事を今の今まで[悔{くや}]しがりもせず、ただ写真のことばかりを考えていた。確かにあのモーターでは誰が整備しても良い結果は出なかったかもしれない。しかし、だからといってまったく勝利への[執着{しゅうちゃく}]を失ってしまっていた凛は、はたしてボートレーサーとしての自我を[保{たも}]てていたと言えるだろうか。
 見失っていた大切なものに、[図{はか}]らずも気付かされた。
「だから、すまない。写真はいっしょに撮れない」
 わずかに頭を下げる星一。
「こっちこそすみませんでした。忘れてください」
 対して凛はさらに深く、腰を直角に折って謝罪を返した。
 凛にしては珍しいことに、星一に感謝の気持ちさえ[抱{いだ}]く。最も大切なことを思い出させてくれた誇り高き戦士に敬意を込めて、凛は長らく顔を上げようとしなかった。

    *

「おっす凛! オンスタ最近更新してないけどどした? 当たり前だけど、写真あげなきゃバズらないぞ?」
 次の開催で同じレースに斡旋された駿太が、整備室で不思議そうな顔をして尋ねる。
「オンスタはしばらく[自粛{じしゅく}]だ。レーサーとしてしっかり結果出せるまで、余計なことに時間使ってる場合じゃねえ」
 プロペラを叩きながら、凛は顔を動かさずに答えた。この日から行われるレースは『GⅠ』クラス。タイトルが[懸{か}]かったビッグレースに、運良く出場がかなったのだ。
「お、やる気満々じゃん。……俺も負けてられないな!」
 そう言ってすぐに立ち去っていく駿太。馴れ合いは勝負の後だ、という凛のオーラを感じ取ってくれたのかもしれない。
「…………これで、いけるか?」
 仕上げたプロペラを持ち上げ、具合を確かめる。手にしたモーターは抜群、とまでは言えないものの、悪くない勝率を誇っていた。凛自身の調整と乗り方ひとつで、優勝を手にすることも可能であるはず。
 あとはただ、ボートレースに対する集中力が明暗を分けるに違いない。
「もう一度感触を確かめておこう」
 凛はプロペラをモーターに取り付け、自分のボートの[傍{そば}]まで運んでいく。車輪付きのケージで押しているとはいえ、一人だとそれなりの重量感だ。
「え?」
 ふと、手元の抵抗が軽くなった。驚いて横を向けば、そこには星一の姿が。
「これで試運転何回目? もう何度も往復してるみたいだけど」
「……三回目っす。あの、ありがとうございます。手伝ってくださって」
 やや[怪訝{けげん}]に思いつつ凛は頭を下げる。ピット裏では同じ支部内でお互い助け合う暗黙のルールがあるから、埼玉支部の、しかも凛より先輩の星一がこうして手を貸してくれるのはかなり予想外な状況だった。
「凛くんにしては珍しいんじゃない? 普段ならせいぜい一回で終わらせてる気がするけど」
 確かに、凛がレース前に何度も水面に出て感触を確かめることは滅多になかった。どうせ天候は変わってしまうし、なにより一度の整備に自信を持って挑もうという方針によるものだったが、あまり人にそう明言した記憶はない。
 やはり[糺ノ森{ただすのもり}]凛という選手の存在が気になって仕方ないからそんなことにまで気付いたのか……と、ほんの少し前の凛なら有頂天になっていただろう。
 しかしこの日に浮かんだ思いはまったく別のものだった。
 さすがだな、そんなところまで相手を観察して研究してるから安定して良い成績を残せるのか。まず尊敬の念が、それから少し遅れて乗り越えるべきライバルに対する張り詰めた緊張感が凛の心を満たしていった。
「俺も、勝ちたいので」
 サポートを続けてくれる先輩に宣言すると、星一は柔らかく微笑んだ。
「それはなにより。今日はちゃんと、選手の顔をしてるね」
「当然っすよ。レースが始まるんですから」
 写真の一件を負い目に感じそうになったが、ぐっと飲み込んで凛は[不遜{ふそん}]さを取り戻した。過去の[過{あやま}]ちはあれど、それはそれ。勝つ気で乗りに来たのだから何を遠慮する必要があるものか。
「お手伝いありがとうございました。水面じゃ負けませんけど」
「おやすい御用。ふっ、大丈夫。これくらいで手加減するようなヤツだと思っていたら逆に手伝わないよ」
 別れ際、少し形式ばって敬礼を交わす凛と星一。
 そして、迎えたレースの最終日、優勝戦。
 今度は横並びで敬礼する二人の姿があった。
 凛が一号艇。星一が二号艇。この日はまだ一度も互いに目を合わせていない。
 見据えているのは、すでに大時計の三周先。
 誰よりも速くゴールを駆けぬける未来しか、視界に映すつもりなどなかった。

    *

「おめでとおおおおお!」
 駿太の叫び声に、盛大な水しぶきと落水音が重なった。
「ぷはっ! 相変わらず手加減ねえなお前ら!」
 水面に投げ込まれた凛が浮かび上がり、ずぶ濡れになった髪をオールバックにかき上げる。その表情はひたすらに[爽{さわ}]やかな笑顔だった。
 GⅠレース制覇を祝う[水神祭{すいじんさい}]。ボートレース特有の方法で、この日の覇者は荒々しい祝福を受ける。
「相変わらずって、まるで何度も投げ込まれてるみたいな言い方だね」
 水際でしゃがみ込んで微笑んだのは、星一。優勝戦で鼻面を並べて凛と一着を競い合った相手である。
 つまり、星一は二開催連続で優勝戦二着。内心かなり悔しい思いをしているのだろうが、思いの[外{ほか}]その表情は明るい。
「おっと、忠告ありがとさんです。確かにこれから俺は優勝なんて当たり前に繰り返すことなんだから、いちいち水神祭なんてやってもらえなくなりますね」
「そういう意味で言ったんじゃないけど……。まあ、ともかく。良いレースだったよ。あんな鋭いターンを繰り返されたら付け入る[隙{すき}]がない。今日のところは負けを認めよう。……次は、絶対に僕が勝つけど」
「また返り討ちにしますよ。……でも、星一さん。ありがとうございました」
「何が? ……ま、いいけどね。優勝おめでとう」
 凛が右手を差し出すと、星一は黙って握りかえしてくれた。二人とも白い歯を[覗{のぞ}]かせ、健闘をたたえ合い続ける。シャッターチャンスを見逃さず、取材記者たちは一斉にカメラを構えて凛たちの[許{もと}]へ近付く。
 スポーツ誌に掲載されたこの時の写真が評判を呼び、しばらく放置されていた凛のアカウントに多くのフォロワーが集まる結果となったのだった。