ゴウゴウ、ゴウゴウと、[鈍{にぶ}]い響きが空気を震わせていた。
何の音かと特定できるようなものではなく、周囲にある様々な音が絡み合いながら反響した結果として、呻き声のような[軋{きし}]みが空間の中で繰り返されている。
そこは、奇妙な場所だった。
天井に設置されたハロゲンランプの明かりに照らされるのは、無骨な鉄色の天井と、空間中に渡り廊下のように張り巡らされた太いパイプの数々。
そして、その配管の[隙{すき}][間{ま}]から見える大量の水だ。
水は大きな[揺{ゆ}]らめきと共に、周囲に潮の匂いを漂わせている。
どうやら海水らしきその大量の水を見るに、この空間の下部はそのまま吹き抜けのようになっていて、直接海と[繋{つな}]がってのいるではないかと男は推測した。
実際、周囲の明かりは水の底を照らすことはなく、全てを飲み込むような深い[闇{やみ}]が水面に向かって広大な口を広げている。
ただ、空気のある上層部に限定すれば、そこは[紛{まぎ}]れもなく閉鎖された一つの『部屋』だった。
部屋というには[些{いささ}]か広大だが、ちょっとした体育館ほどもあるその『部屋』の四方は壁に囲まれており、壁にはいくつかの機械やパネルが散見される。
そんな、工場と水道施設、そして海が入り交じったような奇妙な空間の中――複雑に張り巡らされたパイプの上を、銃で武装した一人の男が歩いていた。
銃を構え、歩を進め、[撃{う}]つ覚悟を決める。
それを細かく繰り返しながら、一歩一歩慎重に足を運ぶ[傭兵{ようへい}]風の男。
最新型の銃器を構えてはいるが、その服装は統一された軍服とは程遠いラフな[格好{かっこう}]であり、薄出のシャツの上に防弾ジャケットやホルスターなどを装着している。
いくつもの[修{しゅ}][羅{ら}][場{ば}]を渡り歩いた屈強な雰囲気を放つ男だが、その顔には脂汗が浮かんでおり、極度の緊張状態にあることが見て取れる。
「……」
息を[荒{あら}]らげてはいないが、それは落ち着いているわけではなく、自らの呼吸音で周囲の音を[遮{さえぎ}]らぬように無理矢理押さえつけているだけだ。
自分の気配を最大限に殺しながら、一歩ずつ配管の上を歩く。
部屋の中心を通る配管、[遮蔽物{しゃへいぶつ}]のない場を歩くのは[些{いささ}]か不用心に過ぎるようにも思えるが――それは、彼の想定している敵が銃を持った人間などではないということを示していた。
――くそ、こんな場所を通る事自体避けたかったが……。
彼の視線は、配管や[梁{はり}]が多く存在している天井ではなく、主に眼下に広がる大量の海水へと向けられている。
――安全にボスの所に戻るには、この道を通るしかない……。
自らが足場としている、三本並んだ太い配管を盾のように見立てながら、慎重に男は歩みを続けた。
銃を構え、歩を進め、撃つ覚悟を決める。
銃を構え、歩を進め、撃つ覚悟を決める。
銃を構え、歩を進め、撃つ覚悟を決める。
細かい作業の繰り返し。
それが永遠に続くのではないかと本人が[錯覚{さっかく}]し始めた瞬間――
やや離れた場所で、水面の一部が盛り上がり、バシャリと大きな音を立てた。
「!」
銃声が響く。
やや旧型のアサルトライフルだが、正確な銃撃は寸分[違{たが}]うことなく、音がした部分に弾丸の雨を踊らせる。
そして、緊張したまま数秒待機すると――
巨大な影が、プカリと水面に浮かび上がる。
その影を見た男は、[安{あん}][堵{ど}]の表情を浮かべながら、更に銃弾をその影に叩き込んだ。
「……」
そして、浮かび上がった影が動かなくなったことを確認して、弾倉を交換しながら独りごちる。
「は、はは、脅かしやがって。やっぱり、弾が当たれば死ぬんじゃねえか」
引きつった笑みを浮かべながら、その傭兵風の男が影を眺め――
次の瞬間、凍りつく。
浮かび上がった塊の色が、自分が想定していたものと違ったからだ。
絶命と共に白く変色したその巨体の[傍{そば}]に、やはり長大な触手が揺らめいている。
「ダイオウイカ……?」
[呟{つぶや}]きと共に、一瞬だけ浮かび上がっていたその身体が海中へと沈んでいくのを見て、男の背筋に寒気が走った。
――今……なんで浮かんだんだ?
死んだ魚が水面に浮く理由の大半は、死後に腐敗が進むことによってガスが発生し、浮き袋の調節機能を無視して浮力が上昇するためである。
とはいえ、そもそもダイオウイカに浮き袋があるのかどうかを男は知らなかったし、気にする暇もなかった。
男は、見てしまったからだ。
沈みゆくそのダイオウイカの巨体――触手を除いても軽く10mは超すかというその異常に発達した個体の一部が、巨大な[嚙{か}]み[痕{あと}]の形で[抉{えぐ}]り千切られている姿を。
――ヤツだ。
ダイオウイカの足を除いた胴体部は、大きくとも5m前後がせいぜいだ。
それが10mを超すなど、その時点でこのイカの個体も充分に驚異的な存在なのだが、傭兵の男はその事にはさして驚かない。
男が[怯{おび}]えていたのは巨大イカなどではなく、もっと異常な存在だったのだから。
――ヤツが、あのイカに嚙みついて、海面近くまで引き上げてきたんだ。
――なんの為に?
「まさか、[囮{おとり}]――――」
そう呟きかけたところで、激しい音が室内に響き渡る。
「⁉」
グラグラと揺れた感覚を味わい、水面に振り落とされぬよう必死に足を踏ん張らせる傭兵風の男。
音のした方向に男が目を向けると、そこには先刻とは違う光景があった。
自分が歩いてきた三本のパイプが、道の途中から消失している。
「……は?」
思わず、声を上げていた。
一本一本が人間の胴体よりも太いパイプが、三本[纏{まと}]めて消失している。
具体的にどのような金属なのか、男は知らなかった。
だが、人が上を歩ける程に太い配管パイプが、[柔{やわ}]な材質でできている[筈{はず}]はないだろう。
そんな事がつい頭をよぎってしまう程に、パイプはあっさりと――まるでウエハース紙のように、巨大な『歯形』を残して破壊されていた。
すると、男が状況を認識するのを待っていたかのように、ギギ、ギギと、鈍い[軋{きし}]みが足元を震わせる。
繋がりを失ったパイプが自重を支えきれず、反対側の接続点から派手に[拉{ひしゃ}]げながら 海面に落下し始めたのだ。
「くっ……!」
男は自らの腰に手をやり、カーボンファイバーのロープを上空に投げる。
先端に[鉤{かぎ}]のついたそのロープは上空の細いパイプに見事に絡まり、男は両手でそれにぶら下がり、間一髪で水面に落ちることを回避した。
だが――『それ』は、その瞬間こそを待ち望んでいた。
両手でロープに[摑{つか}]まり、銃器から完全に手を離すその瞬間を。
「ああ、[畜{ちく}][生{しょう}]」
自分のミスに気付いた男が苦笑いし、片手に全体重を預けてベルトにぶら下がった銃に手を伸ばした時にはもう遅く――
海面から高く飛び上がった『それ』の巨大な[顎{あご}]に、その[身体{からだ}]を意識ごと飲み込まれた。
広い空間に、[静{せい}][寂{じゃく}]が満ちる。
後に残されたものは、最初と変わらぬゴウゴウ、ゴウゴウという環境音と、最初とは変わって一部を破壊された配管群。
そして――ロープを強く握り締めたままの傭兵の左腕だけが、空中に虚しく揺れ続けていた。
一体男は何者なのか。
そして、何が彼を襲ったのか。
この場所は一体いかなる場所なのか――
時は、数日前に[遡{さかのぼ}]る。
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