著者/田口仙年堂の作品 「僕とトモダチになるまで」

 発見までの記録
 ○月△日 快晴

 そういう事例があるということは、何度も本で読んだ。
 私自身、多くの動物と接した経験があるし、この森でも様々な生き物を発見した。調査のために訪れたこの北欧の密林では、新しい発見がまだまだ隠されている。
 しかし、これは予想していなかった。
 ――人間。
 現地の住民、と呼べるものではない。
 言葉を理解せず、服も着ないで木々を飛び回っていた子供。
 最初はサルの一種だと思ったが、この森にサルは[生息{せいそく}]していない。そいつが我々のカバンから食料を奪おうとしているところを発見したのだ。
 まるで鬼ごっこのように走り回った調査チームは、一時間弱かけてアスレチックのような攻防を繰り広げ、ようやくその子供を捕えることに成功したのだ。

 黒髪の少年。
 全裸なので身元を証明するものは何もないが、まだ十代のアジア人――だと思う。

 我々はその子供を保護し、連れ帰る事にした。
 あまりにも暴れて手がつけられなかったため、麻酔で眠らせて船に乗せた。そして故郷の研究所で観察することになった。
 全て調査班のリーダー、私の上司の決断だ。
 この子供の事は公表せず、極秘扱いとのこと。
 加えて、子供の世話も調査班の一部のスタッフ――つまり私と上司のみで行うこと。
 これらが徹底され、子供の存在は世間から[秘匿{ひとく}]されるとのことだ。
 その理由を上司に[尋{たず}]ねると「マスコミに[晒{さら}]されると、子供に多大なストレスを与える。精神が不安定な時期だから、大事に守ってあげたい」という返答が来た。

 当時の私は、その言葉を素直に信じていたのだ。

    *

 観察開始から二日目

 あのクソガキ!
 絶対に許さないぞ!
 私のコーヒーを勝手に飲んだあげく、パソコンにぶちまけやがった!
 そもそもアイツの私室――〝飼育室〟と呼ばれているが、私はそう呼ばない――にはカギがかかっていたはずだろう!
 なのに昨日も今日も部屋を抜け出し、所内で暴れ回っているのはどういうことだ。機密案件のはずだったのに、一部の職員に存在がバレてしまった。
 カギは私と上司しか管理していないのに。
 ということは、上司しかあり得ない――そう思って彼の所へ抗議に出向いたのだが、そこではお気に入りのスーツにチョコレートをべったりとつけられて半べそをかいている七〇代の男がいた。
 少し収まった怒りをさらに抑えて話を聞いてみたのだが、彼もカギをしっかり管理していたという。
 では、あの子供はどうやって部屋から出たのだ?
 あの部屋には窓も通気口もないはずだ。
 モグラのように穴を掘ったか、忍者のようにかき消えたか。
 いずれにせよ、セキュリティの重大な欠陥だ。この件については研究者である我々がどうこう言うより、建物の設計者を問いただす方がいいだろう。
 だから、私は今できることをやる。
 逃げ出したクソガキを[捕{とら}]えるのだ。
 私は研究所内を歩き回って、ストレスの元を探し回った。
 某国にある、地図に載っていない施設。
 そこでは世界中から人材が集められ、何かを作らされている。
 作るものは様々で、製品から論文、素材、プログラム、人脈、命――
 それらひとつひとつの成果が組み合わさった時、この研究所の目的が達成される。
 が、ほとんどの職員はその目的を知らない。
 軍事目的なのか、それよりももっと高度なものなのか。
 様々な人が集まり、様々な事を成すという意味では大学が近いだろう。実際、学生よりも子供じみたメンタルの研究者が多数在籍している。
 私自身、数年前から動物の生態についていくつかの論文を書いて、ここに籍を置かせてもらっている。
 それがこの施設にとってどういうメリットがあるのか分からない。
 ただ、密林から持ち帰った子供を研究対象として管理することが認められたのなら、それはもう私の仕事であり、この施設にとっての仕事である。
 動物の鳴き声、モーターが動く音、食欲をそそる匂い、誰かの怒号。
 それらをかいくぐりながら、私は昨日と同じ場所へ向かう。
「やはりここにいたか」
 だぶついた白衣をきた子供が、扉の前に座っている。
 この分厚い扉の中に入りたいのだろうが、権限がないと入れない。いや、本来はこの廊下ですら権限がないと歩けないはずなのだが、それは置いておこう。
「……………………」
 そいつは私が来ても、ずっと扉に耳をあてていた。
 この扉の向こうには、さらにもう二つの扉がある。どれも数十センチの吸音材が使われており、中の音を全く[漏{も}]らさない。
 ――はずなのだが、どうもこの子は扉の向こうの音を聴いているように見える。
 ここは音響の研究に使われる部屋だ。昨日はヴァイオリンの周波数が人体にもたらす影響についての実験だか、そんなものを行っていたと聞く。
 おそらく今日も何らかの楽器を演奏しているはずだ。私には聴こえないから全く分からないが。
「ほら」
 私は白衣のポケットから、ビスケットを取り出す。
 袋を開けて手渡すと、そいつは目を輝かせてかじり付いた。
「うまいか?」
 私の質問にも答えず、ビスケットを[咀嚼{そしゃく}]する音が続く。
 部屋を抜け出したのは良くないが、ここにいる事を[咎{とが}]めたりはしない。
 私の仕事はこの子の保護であり、観察だ。
 密林で獣に育てられたこの子が、この文明しかない施設でどういう行動をとるか、見届ける義務がある。
 動物として、あるいは人間として。
 比較心理学――おおよそ動物の行動を研究する学問だと思っていい。この子はその研究材料としてここにいる。
 ここで多くのものを学んだこの子が、動物のまま死んでいくのか、あるいは人間として社会性を獲得していくのか。その結末を論文に書き上げなくてはならないのだ。
 ――そう、私の仕事は観察である。
 この子に社会性を学ばせることではない。
 どちらを選ぶのか決めるのは、この子自身。
 その選択を[誤{あやま}]り、命を落としたとしても、そういう結果になったという論文を書けばいいだけの話。
 私は職務上、この子を[放置{ネグレクト}]しなければならない。
 他の動物と同じだ。檻に入れて、エサのみを与えて飼育する。
「なんだ、もう食べたのか?」
 目を輝かせて手を伸ばすコイツにビスケットを与えるのは、本当は契約違反なのだ。
 それでも私は、ポケットからもうひとつのビスケットを取り出す。
「ほら」
「…………!」
 嬉しそうにビスケットをかじるコイツを見ていると、こちらも笑顔になる。
 欲望に忠実で当然だ。子供なのだから。
 本来は母親にもらうか、自分のお[小遣{こづか}]いでそういうものを買う年齢のはずだ。しかしこの子は自分でビスケットを手に入れる手段を知らない。
 そして私のことも、甘い円盤をくれる人という程度の認識なのだろう。
 が、今日の態度は少し違った。
「……………………?」
 防音ドアに耳をあてて、目を閉じている。
 中の音を聴いているのは確実だ。
 私はポケットから端末を取り出し、今日の音響室でどんな実験が行われているのか調べてみた。
「歌声……?」
 今日は楽器ではなく、有名なオペラ歌手を[招{まね}]いた録音らしい。
 声をひとつの楽器と[捉{とら}]え、その効果がもたらすものを研究しているようだ。音響学は私の専門分野ではないので詳しくは分からないが、あの扉の中にあるものは世界でも最高級の音声だというのは分かる。
 ただ、この研究所にある〝娯楽〟はそれだけではない。
 甘い匂いのする果実の研究をする場所もあれば、珍しい生き物を飼育する場所もある。レーザー光を利用したアトラクションのような研究もあれば、最速を目指す乗り物を作る者達もいる。
 その中で、この子はここを選んだ。
 私には分からないほど小さな音の[欠片{かけら}]を拾おうとしていた。
「……なぁ」
 私の仕事は、観察だ。
 干渉は最低限に留めるよう厳命されている。
「もっと良く聴こえる場所に連れて行ってあげようか?」
 私の善意は、届かなかった。
 言葉を理解できないのだから、仕方ない。

    *

 観察開始から四日目

 研究一筋だったせいか、私は音楽文化にそれほど深い[造詣{ぞうし}]を持っていない。
 音楽は好きだが、あくまで趣味程度だ。
 この子に聴かせるのにふさわしい曲など、分かるはずもない。
 だから頭の中のライブラリを引っかき回しながらネットを探して回っていると、ふと、とある動画サイトに行き当たった。
 そうだ、私の故郷の国ではこういう動画サイトで音楽を聴く若者が多い。
 ちょうどこの子くらいの年頃の少年少女に人気だった――そういう時代があった。
 懐かしさを感じながら、その動画を再生する。
 ポップな電子音と、少女の声。
 今のボーカロイドは人間の声とほとんど[遜色{そんしょく}]ないくらい聞き取りやすい。しかし当時の[拙{つたな}]い声も、曲によっては非常にマッチしていて時代を感じる。
 あの頃は私もこういう曲を聴きながら勉強していたものだ――
「~~♪」
 そんな私の[郷愁{きょうしゅう}]が伝わったのだろうか。
 隣で曲に合わせてハミングする声が。
 そいつは最初、イスに座っておとなしく動画を観ていた。
 が、やがてイスから身体を乗り出し、パソコンに触れ、画面に顔を近づけて向こう側にいるアバターを凝視する。まるで中に入ろうとしているみたいに。
 その間も、ずっと歌い続けていた。
 私がビスケットを差し出しても見向きもせず、その子は一日中動画を眺めていた。
 ひとつの動画が終わると、次の動画を要求する。
 それに従って私は新しい曲を再生する。
 歌が終わるまでの数分間、またハミングを奏でる。
 その繰り返しで時間が過ぎていった。
 まるで曲を食べさせているような[錯覚{さっかく}]に[陥{おちい}]る。
 [否{いな}]、この子にとっては音楽が食事のようなものなのだ。
 食事も睡眠も[摂{と}]らず、
「……けい…………はち……じゅう………………せん…………が」
 ハミングが歌詞をなぞるようになり、
「あー…………あー…………!」
 歌が言葉として認識されるようになり、
 そして――
「…………も……っと」
 たった四日で、私に対する要求を言語として表現できるようになったのだ。
 画面を指さすその子を見て、私は言いようのない感動を覚えていた。
 音楽は生物や環境の[垣根{かきね}]すら越えることができる。
 なにより、私が過去に好きだった曲を、この子も好きになってくれた事が嬉しい。
「わかったよ。待っててくれ」
 次の動画を再生する。
 新しい曲が流れ、またそいつは画面にかじりつく。
 今日はそうして一日が過ぎた。
 本当に、それだけしかしなかった。

    *

 観察開始から十八日目

「せんせい」
 [澄{す}]んだ声が私を呼ぶ。
 私の自室、休憩用のソファの上で体育座りをして、ビスケットをかじっているそいつ。
「あー……ぼく、ほかのもの、たべたい」
「ビスケット以外にもあげてるだろう。肉とか野菜とか」
「もっと」
 わずかだが言葉を覚えてからは、[円滑{えんかつ}]なコミュニケーションが可能となった。
 全てボーカロイドの動画で覚えたようだ。
 ただの音だったものに意味を見いだし、そこから言葉という概念を作り出す。それがどれほどの超人的な才能なのか、私にも分かる。
 ただ、この子は私とコミュニケーションをとるために言葉を覚えたようには見えない。
 歌に意味を見いだすため――
 自分が口ずさんでいるのが何なのか、それを知りたかったのかもしれない。
「~~♪」
 いつしか、私の研究室のBGMはこの歌声になった。
 動画の歌を一回で覚え、それをなぞって歌い続ける。ジュークボックスのような行動をずっと繰り返している。
「せんせい、あたらしいの」
「はいはい」
 歌う以外は、聴く。
 新しい曲を要求しては、動画を観る。
 CDやレコード、ストリーミング配信の音楽は山ほどある。
 が、なぜか動画を[好{この}]んだ。
 音楽に絵が[付随{ふずい}]していることが重要なのだろうか。
 必然的にボーカロイドや公式MV動画などのチョイスが増え、クラシックなどの曲は聴き入るものの歌ったりはしなかった。
 少しの[介入{かいにゅう}]はしたものの、これらは全てこの子が自発的に求めたものだ。
 一緒に研究所内を歩くこともあったが、音楽以外のことに興味を示すことは[稀{まれ}]で、あったとしても音楽ほど心を動かされることはないようだ。
 もちろん生物なのだから、食事はするし、好物や嫌いなものもある。
 さらに密林で暮らしていた頃の知恵なのか、原始的な武器の扱いもできた。
 弓矢の取り扱いを知っていたのは、どういうわけなのか。これは本人に訊いても納得のいく解答は得られなかった。
「せんせい、せんせい」
 研究所の食事スペースで昼食を摂っていた時、一度こう訊かれた。
「せんせいは、ぼくの、かぞく?」
「家族……うーん」
 たどたどしいスプーンの持ち方でスープを飲みながら、無邪気な質問をしてくる。
 私は傷つけないように言葉を選びながら、こう答えた。
「家族とは少し違うよ。君の本当の家族はどこにいるのか分からない」
「そっか……」
「君は森にいた時、誰に育てられたんだい?」
「えっと、もふもふして、ふわふわして、がるがるしたの」
 [哺乳類{ほにゅうるい}]であることは確かだが、それ以外の情報がまったく分からない。
 あとで動物を飼育しているブースを回って見せたが、この子の育ての親は見つけられなかった。おそらくここで飼育する意味もない、ありふれた動物なのだろう。
「かぞく……」
 私が家族ではないと知って、明らかに落胆していた。
 だが言葉は正しく使わなくてはならない。今のこの子は研究対象であり、私にとって仕事に必要な存在というだけ。
 しかし、こう言い換えることもできる。
「確かに私は家族ではないね。だけど君は私と一緒にいて、楽しいかい?」
「……うん」
 スープを[嚥下{えんか}]しながら頷く。
「せんせい、いっしょにいるの、すき。おんがく、びすけっと、いっぱいくれる。ことば、くれる」
「うん、そうだね」
 嫌われていないことに安堵しつつ、私はこう続けた。
「だったら、私たちは〝友達〟だ。一緒にいて楽しい関係を、そう呼ぶんだよ」
「トモダチ――」
 その言葉を[愛{いと}]おしそうに繰り返す。
「トモダチ……ぼく、せんせい……トモダチ」
 こうして我々は〝トモダチ〟になった。
 干渉するのは禁じられているはずなのに。
 気がつけば、私はこの子のことをそう思うようになっていたのだ。

    *

 観察開始から三〇日目

 いつの間にか「観察対象01」と呼ばれていた子供に、「セイ」という名前がついた。
 私が名付けた。私の国の言葉で「生きること」、「命そのもの」という意味がある。
 そう思えるほどに、歌うようになってからの生活は変わった。
 毎日の暮らしの中に、セイの歌がある。
 スピーカーから流れるストリーミングの曲ではない、人間の歌声。
 それが私の耳に入り、意識を変えていく。
 常にセイの歌声が頭の片隅にあり、それが心地よい。
 廊下で私の後ろを歩くときもずっと歌っているセイ。
 それは私だけでなく、すれ違う職員たちにも[伝播{でんぱ}]する。
 セイの歌声を知り、そこからセイを知り、セイと友達になっていく。
 顔見知りがどんどん増えた。
 人間だけではない。飼育用の[檻{おり}]に住んでいる動物たちですら、セイが通りかかると鳴き声を発して歌を要求する。
 芸術が人生に与える[潤{うるお}]いには個人差がある。
 心理学者としてそれは周知の事実であり、私自身、音楽は好きだ。
 しかし――セイの歌声はそういう領域を[逸脱{いつだつ}]している。
 この子の歌が研究所内を埋め尽くし、多くの人に伝わるようになってから、明らかに雰囲気が変わった。
 それはもう、好きとかそういう次元ではない。
 その考えに至った時、私は我に返ることができた。

 ――これは異常だ。

 おそらく最初からセイに触れていたせいで、自分自身を冷静に見つめることができたから――ではない。
 ある事件が起きるまで、私もセイの歌声に魅了されていた。
 セイが散歩と称して他部署に出かけていくと、私には禁断症状のようなものが[生{しょう}]じる。いないはずのセイを目で探したり、頭の中でセイの曲を繰り返したりする。
 観察者としてそれは当然だと思い込んでいた。
 そう考えながら、とある用事で移動中、階段から落ちた。
 転倒自体は私の単なるミスだ。バランスを崩して何度も階段に身体を打ち付けながら転がった。私を心配する近くの職員の苦笑交じりの言葉を受けながら、立ち上がる。
 そしていつものように自室に戻り、セイの歌声を聴きながらレポートを書く。
 セイの歌は心地よく、転倒の恥ずかしさすら忘れさせてくれる――
 だがその時、私は指を骨折していた。
 本来なら泣き出すほどの痛みですら、セイの歌がかき消したのだ。
 そのため気づいた時には指が風船のように膨れあがっていた。[慌{あわ}]てて医務室にかけこんで応急処置をしてもらったものの、そこでも痛みはなかった。
 医師が言うには、最近似たような患者がよく来訪するのだという。
 その奇妙な事例が確認されたのは――セイが歌を覚えた日からだった。

    *

 観察開始から四〇日目

 今日も私は[怒鳴{どな}]る。
 どれだけ人間の行動を覚えても、問題は[絶{た}]えない。
「こらセイ! あれほど他の部署に迷惑をかけるなって言っただろう!」
「えーっ、迷惑なんて、かけてない!」
 二本足で歩く事にも慣れた。
 ナイフもフォークも[箸{はし}]も使えるし、トイレもひとりで行ける。通貨の使い方を覚えて研究所の食堂や売店でも買い物ができるし、絵本くらいなら読める。
 タブレットを操って動画サイトを[閲覧{えつらん}]する方法まで覚えた。
 もう私が何もしなくても、この施設内でなら人間として行動できる。
 過去、動物に育てられた子供の事例から[鑑{かんが}]みても異例の速度だ。知能の発達、社会性の獲得、どれをとっても天才としか表現できない。
 保護した時は獣同然だった子供が、たった一ヶ月半で十歳児並の反応を返すようになっている。まるで人間の成長を早送りで観ているような感覚すら覚える。
 歌に関しては天才を越えた異常な何かだが、それ以外の成長は心配せずに観察できるので純粋に喜ばしい。
 ただ、やはり五歳児は五歳児としての問題を引き起こすのだ。
 そしてその責任を取るのは、私。
 観るだけでは[務{つと}]まらないのが、この仕事である。
「いいかセイ。私の許可なく他の部署に行ってはいけないと約束しただろう。それなのに言いつけを破るのであれば、おやつはナシだぞ」
「でも、あっちのせんせいが来いって言ったんだ」
「あっちの先生?」
「あの、音をつくる人たち」
「音響学の連中か」
 初日にセイが聞き[惚{ほ}]れていた分厚い扉の向こうにいた人達。
 人達、で[一括{ひとくく}]りにするのは失礼か。私のような心理学者でも、個人によって分野が違うのだから。
「ぼくの歌がききたいって」
「なんだって?」
 セイの歌声は――確かに魅力的だ。
 音楽に関しては素人同然の私でも分かる。
 技量も声量も、一流とはいえない。
 しかしどうにもセイの歌声を聴いていると、妙な中毒性があるのだ。
 動画で覚えた歌をマネしているうちに、いつしか自分流にアレンジするようになっていた。メロディをなぞるだけでなく、そこにセイという個人の感情が入り込むことによってまったく別の曲に聞こえるのだ。
 その[差異{さい}]が気になるのか、あるいは声そのものが好きなのか。
 完璧ではない故の魅力と言うべきか。カリスマ性のある声色――f分の一のゆらぎ、と呼ばれる特殊な声質を持つのかもしれない。
「それでね、こんなの教えてもらった」
 セイが見せるのは、タブレットにインストールされたアプリ。
 初心者向けの作曲アプリだ。
 複雑な演奏などない、[鍵盤{けんばん}]をタップして音を記録する程度のもの。
「楽器に興味があるのか?」
「うん!」
 セイは大きく頷く。
「ぼくも、動画で見たみたいに歌をつくりたい!」
 子供が語る、大きな夢。
 私はそれをどんな気持ちで聞けば良かったのか。
 背中を押してあげるのが、真の友達というものだろう。
「そうか。じゃあアプリの使い方を教えよう」
 私はセイを招き、タブレットの画面に触れる。
「ありがとう、せんせい!」
 セイを観察する研究者としては失格だろう。
 だが、私も思い描いてしまったのだ。
 セイがここから生み出す未知の音楽というものを。

    *

 観察開始から四二日目

 簡単な曲ができた。
 それを音響学の連中――どうやら作曲家も兼業しているらしい――に手渡すと、そのメロディを編曲してくれる。
 彼らにとっても、ヒマ潰し程度の遊びだったのだろう。
 無邪気な子供が歌を求めるものだから、息抜きに相手をしてやったに過ぎない。
 ――そう、思っていたのだ。
『[雨野{あめの}]くん。音声通話は可能か?』
 端末から見知ったサインのメッセージ。
 研究所における心理学、行動学のエキスパートである博士だ。私の恩師であり、直属の上司でもある。
 私は音声通話をオンにし、パソコンのマイクが入っているのを確認した。
「先生、どうしました?」
『これから君の部屋に職員が――ああ、正確に言おう、査察官が来る』
「……? どういうことですか?」
 何か査察されるような事をしただろうか?
 私はここ最近、セイの観察しかしていない。あいつに関するレポートは毎日アップロードしているし、他の仕事はしなくていいと言われている。
「まさかセイの観察に問題が? あの子を保護するのはウチの方針とは違うと?」
『セイが原因であることは確かだが、仕事の方針とかそういう問題ではないのだ』
「まさかお偉いさんを殴ったとか?」
 冗談めかして尋ねてみたが、返ってきたのはもっと重大な事件だった。
『実験[棟{とう}]の動物が不審な行動をするようになった』
「え?」
『哺乳類二種、鳥類四種――それらの動物が突如暴れ出し、中には檻を破る動物もいた。信じられるか? ゾウの突進にも耐える特殊ケージを、いともたやすく破壊して逃げだそうとしたんだ。それらはただちに射殺されたが、銃弾を浴びてなお一時間は動き回っていたらしい。職員にもケガ人が出た』
「……待ってください、意味がわかりません。動物が暴れたのと、セイに何の関係があるんですか」
『関係を作られたんだよ。セイが動物を暴れさせる原因となったのだ』
「詳しく話してください」
 私はイスに深く腰掛け、[努{つと}]めて冷静であろうとする。
『セイがここ数日、サウンドチームの部署に出入りしているのは把握しているだろう。多くの研究者は純粋に音響学について調べているのだが、その中に〝音の未知なる利用法〟を探っている者がいた』
「それはLRADのような非殺傷兵器の[類{たぐい}]ですか?」
 LRADとは人間にとって不快な周波数の音を大音量で流し、嘔吐や頭痛などの症状にする兵器のことだ。かつて米軍の船舶が海賊を撃退するのに使用した実績がある。
『いや、そうではない。もっと脳に直接作用するものを作ろうとしていたようだ』
「音響学――いや、そうか」
 私はある考えに行き着いたが、口にはしなかった。
『セイの歌声には特殊な響きがある。セイの声が持つ周波数は、生物の{蝸牛{かぎゅう}]に入ることで様々な現象を引き起こすのだ。動物がおかしくなったのは、その調査の過程だ』
「…………」
『セイはこの事実を知らない。だが君は知っておくべきだ。査察官に何も知らなかったと伝えても、はいそうですかで済まされる事態ではない』
「……なるほど」
 音響学の連中が引き起こした事故で、査察官が私のところへ来る。
 それはつまり、事故の責任を取らされるという事ではないのか。
 セイの観察者は私だ。
 私が[懲罰{ちょうばつ}]を受ける――例えばクビにされた時、得をするのは誰か。
 音響学にも幅広い分野がある。
 かつてピタゴラスの時代から続いてきた由緒ある学問だ。音が作用するあらゆる分野と密接に繋がりがあり、それらを混ぜて研究する者が多い。
 医学から工学――そして、心理学。
 セイの声を音響心理学で解析し、利用するとなると、やはり心理学のエキスパートの手伝いが必要になるだろう。
 そして、それは私ではない。
 なぜなら私とセイは〝トモダチ〟だから。
 セイの声を悪用すると言われたら、絶対に認めないと知っているから。
「先生。なぜこの事を私に? 先生がこの件に絡んでいるのではないのですか?」
『いや、私ではない。むしろ私はセイの成長を楽しみにしていた一人だ。君とセイがどのような〝歌〟を生み出すのか、心待ちにしていたのだよ』
「……では誰が」
『なぜ私が君をセイの観察係に任命したのか――それは、信頼できる人間が君しかいなかったからだ。密林に赴いた調査班は、研究のために動物を虐待することを[躊躇{とまど}]わない者たちばかりだった。しかし君は心底イヤそうに研究を続けていたな』
「あれは……ただのサボり癖です」
『では今回も得意の癖を利用して、サボッてもらおうじゃないか』
 通話が切れると同時に、部屋の扉が開いた。
「せんせい」
 不安な顔をしているセイがいた。
「ぼく、なにかしたの?」
 結果として動物が死んだことは誰からも聞いていない、はずだ。
 そもそもセイは自分の歌が他人の意識に作用することを知らない。私はセイにそういう情報をいっさい与えていない。自由に歌ってもらいたかったからだ。
 それでもセイは気づいている。具体的には分からないが、自分が何かをしたことは肌で感じているようだ。
「いいや、セイは何もしていない」
 私は努めて真面目に答えた。
「セイの周りの人間が何かをしたんだ。セイの歌を悪いことに使おうとする大人がいる。私はそういう大人からセイを守る」
「ぼく……歌ってもいいの?」
「当たり前じゃないか」
 私はセイの頭を抱き、身体に寄せた。
「セイの歌は〝トモダチ〟をたくさん作れる。人を優しくして、元気にできる。だけど、そんな力は悪いことにも使えるんだ」
「幸せにする力を……悪いことに?」
「そうだ。美味しいビスケットを作れる人は、マズいビスケットも作れる。人を感動させる物語を書ける人は、人を絶望させる物語も書ける。セイの歌声は生きる気力を与えてくれるが、それを悪用すれば死にたくなる歌だって歌わせられる」
「ぼく、そんなことしないよ!」
「ああ、そうだとも」
 私はセイを強く抱きしめた。
「そんなことはしなくていい。私がさせない。セイもそう信じるんだ」
「うん!」
 腕の中で強く頷くセイ。
 言葉にしなくても、その洞察力は一流だ。
 セイは私の言葉や態度から読み取っていたのだろう。
 自分が悪い人間の[謀略{ぼうりゃく}]に巻き込まれていることを。

 そうと決まれば、ためらいは一切ない。
 私は身の回りにある中で、ポケットに入る必需品を全てかき集める。研究所内で使えるIDカード、小型端末、いくばくかの硬貨、そして拳銃。
 査察官が来るまでに、私とセイは私宅を出た。
 研究室とは違い、居住区では自由に動ける。二階建ての住居が立ち並ぶ居住区はマス目のように区切られており、全研究員がここで暮らしている。
 ガレージにある車に乗り込み、エンジンをスタートさせようとすると――
「ミスター雨野」
 車の窓を叩く黒手袋。
 黒いスーツを着た男が数人、車を取り囲んでいた。
「我々は○○○の査察官です。エリアB11で発生した事件について、お話を[伺{うかが}]うためにやってきました」
 研究所の名前を出す彼らは、自らの素性は一切明かさない。
 個人ではなく研究所そのものとして話を聞きに――いいや、私を逮捕するためにやってきたのだ。何人かは胸ポケットに手を入れており、いつでも銃を取り出せる態勢にある。
 [脅{おど}]しではないだろう。
 私の命を奪ってでも手に入れたい重要なものが、助手席にいるのだから。
「セイ」
「何?」
「歌ってくれないか?」
「今? ここで?」
 セイも緊張しているのが分かる。
 トモダチではない人間が何人も、[険{けわ}]しい[形相{ぎょうそう}]で取り囲んでいれば無理もない。
 そういう時にこそ、セイの歌声が役に立つのではないか。
 幸せにするために――
「なんなら伴奏もつけよう」
 私はカーオーディオのスイッチを入れるために手を伸ばす。
「動くな!」
 何人かが銃を抜き、私につきつけた。
 不幸なことに、この車の窓ガラスは防弾ではない。
 しかしすでにオーディオは再生され、曲が流れる。
 それはいつもセイと一緒に聴いていた、ボーカロイドの歌。
 前奏が流れたのを確認すると、私はハンドルを握って窓越しに査察官を見た。
「セイ。あの黒い服の人たちと友達になるつもりで歌ってごらん」
「う、うん」
 前奏を聴きながら、セイは手を[握{にぎ}]る。
 理解しているのだろう、今の状況を。
「動くな! その曲を止めろ!」
 セイはもう野生児ではない。銃の意味も知っているし、自分の歌声の力も知っている。
 ――セイの歌は〝トモダチ〝をたくさん作れる。人を優しくして、元気にできる。
 私は確かにそう言った。
 だからセイは今、皆を優しくするために歌おうとする。
 トモダチを作るための歌声を、今、私は悪用しようとしている。
 結局、私もそういう大人のひとりだという事だ。
「警告はしたぞ!」
 突きつけられた銃から[庇{かば}]うように、私はセイを抱きしめる。
 窓ガラスが割れる音と、セイが歌い始めるのは同時だった。
 痛みを忘れるほどの快感が耳に入ってくる。

 セイの歌が、生を感じさせてくれる。

 目を閉じていた、ほんの数瞬。
 やがて、いつもの音が戻ってくる。
 レポートを書く時にいつも聴いていた、セイの歌声。
「あ…………!」
 私の車の周囲では、黒服の男たちが何もできずに立ち尽くしている。
 銃を取り落とし、ただセイの歌を聴く人形のように。
 これが歌の力。
 全ての人とトモダチになる力だ。

 [査察官{トモダチ}]の車を借りて、我々は研究所を出た。
 端末のGPSを頼りに、人里へ向かう。
 一番近い町まで直線距離で一〇〇〇キロある。
 セイにとっては二度目のドライブだ。もっとも当時は眠っていたから、これが初めての体験になるか。
 森を抜け、荒野を抜け、ぽつぽつと民家が見えてくる。
 もっと人が多く住んでいる町まで行きたい。
 できる限り、その近くまで。
 なぜなら時間が限られているからだ。
 セイが歌い続けていられるまで。
 歌を聴いている限り、私は痛みを忘れられる。
 動物だって一時間も生きていられたのだから。
「――いいか、警察には悪人もいるがセイなら大丈夫だ。もう一度言うからな。『僕は悪い人に誘拐されました。前の記憶がありません』と。制服を着た人にそう告げるんだ。大丈夫、セイならできる」
 できる限り生活に必要な情報を教える。
 この世界で生きるために、セイに教えたかったことは山ほどある。
 だけどもう無理なんだ。
「どんなに悪い人が来ても、セイの歌があれば安心だ。お前の歌は悪い人もいい人に変えてしまうからな。その歌で友達をいっぱい作るんだ。セイの歌は世界で一番素晴らしいものだから――」
 ああ、そろそろか。
 痛みがやってきた。
 セイの歌が効かなくなってきている。
 ハンドルを握る手にも力が入らなくなってきた。
 車のシートは血まみれで、シフトレバーにも血が垂れている。
「せんせぇ……せんせぇ…………!」
 とうとう歌が止まった。
 助手席で泣きじゃくるセイの頭を[撫{な}]でる。
 血がついてしまったが、許してくれ。
 もうこれで最後だから。
「いやだ……せんせいがいなくなるの……いやだよ……!」
「ごめんな、セイ」
 人の意識を変えられる歌でも、銃創までは治せない。
 むしろここまで痛みを止めてくれただけでも奇跡だ。
「セイに会えて良かった……。あの森でお前を拾ったのは、神様がくれたチャンスだったんだよ。私のつまらない人生の最後を……お前の歌が…………」
 視界が動かなくなる。
 アクセルを踏む力が弱くなっている。
「せんせい!」
「セイ……歌ってくれ…………」
「……………………!」
 泣くなよ、セイ。
 泣いていたら歌えないだろう。
 これからお前はたくさんの人を幸せにするんだ。
 世界中の人とトモダチになって、その歌を届けておくれ。
 それが――お前の最初のトモダチの、最後の願いだ。

 ああ……歌が聞こえる。
 いつも私の後ろで歌っていた、あの歌。

    *

 ――本日のゲストは、あの話題騒然のアーティスト! そう、みなさんご存じの、あの魅惑のボイス! 出自が一切不明なのに、ネットでバズりまくり! その歌声と笑顔で世界中の人を[虜{とりこ}]にした、グラミー賞候補のアイツだぁっ!

 ――どうも初めまして。アメノセイです。今日はよろしくお願いします。

 ――君の歌はネットで何回も聴いているよ。その技術、音域、そしてなにより魅力、どれをとっても素晴らしい! 君の大ファンになったよ!

 ――あ、ありがとうございます。照れるなぁ、なんだか。そんなに[褒{ほ}]められると。

 ――今日は君のことを色々教えてもらうぜ。このラジオを聴いているリスナーも、君のことが知りたくてたまらないんだ。

 ――ええと、最初に紹介された通り、僕、記憶がないんです。覚えてることといったら、本当に少しだけで……。

 ――それでいいのさ! その〝少し〟を話して欲しいんだ! あ、ツラい記憶だったら無理に話さなくていいんだけどさ。

 ――いえ、そんなことはないです。とっても大切な僕の記憶です。[温{あたた}]かくて優しい、僕に歌を教えてくれた〝トモダチ〟がいたんです。僕の名前の半分は、その人にもらったんです。

 ――じゃあ、その人のことを話してもらおうかな。でもその前に一曲いってみようじゃないか。

 ――はい。それじゃあ、僕の一番好きな曲をお願いします!

 ――それじゃラジオのリスナー達に、いつものセリフを頼むぜ!

 ――チャンネル登録ボタンを押して、僕とトモダチになってよ!

おわり

    *

【あとがき】

 どうも皆様こんにちは田口仙年堂と申します。
 普段はDMM様のソシャゲのシナリオ等を書きつつ、たまに小説を出しております。シナリオライターとライトノベル作家、半々くらいの割合で色々と書いてます。
 今回はドワンゴ(ⅡⅤ)様の企画に楽しく参加させていただきました。もともとニコニコ動画は「レッツゴー陰陽師」の頃からのユーザーでして、当時からボカロなどの文化に触れていた世代です。なので現在もアメノセイくんの「歌ってみた」動画が大好きで、仕事中のBGMにしてます。
 やっぱりアメノセイくんといえば歌ですよね! いや他のネタも面白いですけど! 
 なので今回の小説は歌をテーマに書いてみました。アメノセイくんの歌がネットを通じてたくさんの人に広まれば――そう思っております。
 それでは、またどこかでお会いしましょう!