著者/田口仙年堂の作品 「僕とトモダチになるまで」(試し読み)

 発見までの記録
 ○月△日 快晴

 そういう事例があるということは、何度も本で読んだ。
 私自身、多くの動物と接した経験があるし、この森でも様々な生き物を発見した。調査のために訪れたこの北欧の密林では、新しい発見がまだまだ隠されている。
 しかし、これは予想していなかった。
 ――人間。
 現地の住民、と呼べるものではない。
 言葉を理解せず、服も着ないで木々を飛び回っていた子ども。
 最初はサルの一種だと思ったが、この森にサルは[生息{せいそく}]していない。そいつが我々のカバンから食料を[奪{うば}]おうとしているところを発見したのだ。
 まるで鬼ごっこのように走り回った調査チームは、一時間弱かけてアスレチックのような攻防を繰り広げ、ようやくその子どもを捕えることに成功したのだ。

 黒髪の少年。
 全裸なので身元を証明するものは何もないが、まだ十代のアジア人――だと思う。

 我々はその子どもを保護し、連れ帰る事にした。
 あまりにも暴れて手がつけられなかったため、麻酔で眠らせて船に乗せた。そして故郷の研究所で観察することになった。
 全て調査班のリーダー、私の上司の決断だ。
 この子どもの事は公表せず、極秘[扱{あつか}]いとのこと。
 加えて、子どもの世話も調査班の一部のスタッフ――つまり私と上司のみで行うこと。
 これらが徹底され、子どもの存在は世間から[秘匿{ひとく}]されるとのことだ。
 その理由を上司に[尋{たず}]ねると「マスコミに[晒{さら}]されると、子どもに多大なストレスを与える。精神が不安定な時期だから、大事に守ってあげたい」という返答が来た。

 当時の私は、その言葉を素直に信じていたのだ。

    *

 観察開始から二日目

 あのクソガキ!
 絶対に許さないぞ!
 私のコーヒーを勝手に飲んだあげく、パソコンにぶちまけやがった!
 そもそもアイツの私室――〝飼育室〟と呼ばれているが、私はそう呼ばない――にはカギがかかっていたはずだろう!
 なのに昨日も今日も部屋を抜け出し、所内で暴れ回っているのはどういうことだ。機密案件のはずだったのに、一部の職員に存在がバレてしまった。
 カギは私と上司しか管理していないのに。
 ということは、上司しかあり得ない――そう思って彼の所へ抗議に出向いたのだが、そこではお気に入りのスーツにチョコレートをべったりとつけられて半べそをかいている七〇代の男がいた。
 少し収まった怒りをさらに[抑{おさ}]えて話を聞いてみたのだが、彼もカギをしっかり管理していたという。
 では、あの子どもはどうやって部屋から出たのだ?
 あの部屋には窓も通気口もないはずだ。
 モグラのように穴を掘ったか、忍者のようにかき消えたか。
 いずれにせよ、セキュリティの重大な欠陥だ。この件については研究者である我々がどうこう言うより、建物の設計者を問いただす方がいいだろう。
 だから、私は今できることをやる。
 逃げ出したクソガキを捕えるのだ。
 私は研究所内を歩き回って、ストレスの元を探し回った。
 某国にある、地図に載っていない施設。
 そこでは世界中から人材が集められ、何かを作らされている。
 作るものは様々で、製品から論文、素材、プログラム、人脈、命――
 それらひとつひとつの成果が組み合わさった時、この研究所の目的が達成される。
 が、ほとんどの職員はその目的を知らない。
 軍事目的なのか、それよりももっと高度なものなのか。
 様々な人が集まり、様々な事を成すという意味では大学が近いだろう。実際、学生よりも子どもじみたメンタルの研究者が多数在籍している。
 私自身、数年前から動物の生態についていくつかの論文を書いて、ここに籍を置かせてもらっている。
 それがこの施設にとってどういうメリットがあるのか分からない。
 ただ、密林から持ち帰った子どもを研究対象として管理することが認められたのなら、それはもう私の仕事であり、この施設にとっての仕事である。
 動物の鳴き声、モーターが動く音、食欲をそそる匂い、誰かの怒号。
 それらをかいくぐりながら、私は昨日と同じ場所へ向かう。
「やはりここにいたか」
 だぶついた白衣をきた子どもが、扉の前に座っている。
 この分厚い扉の中に入りたいのだろうが、権限がないと入れない。いや、本来はこの廊下ですら権限がないと歩けないはずなのだが、それは置いておこう。
「……………………」
 そいつは私が来ても、ずっと扉に耳をあてていた。
 この扉の向こうには、さらにもう二つの扉がある。どれも数十センチの吸音材が使われており、中の音を全く[漏{も}]らさない。
 ――はずなのだが、どうもこの子は扉の向こうの音を聴いているように見える。
 ここは音響の研究に使われる部屋だ。昨日はヴァイオリンの周波数が人体にもたらす影響についての実験だか、そんなものを行っていたと聞く。
 おそらく今日も何らかの楽器を演奏しているはずだ。私には聴こえないから全く分からないが。
「ほら」
 私は白衣のポケットから、ビスケットを取り出す。
 袋を開けて手渡すと、そいつは目を輝かせてかじり付いた。
「うまいか?」
 私の質問にも答えず、ビスケットを[咀{そ}][嚼{しゃく}]する音が続く。
 部屋を抜け出したのは良くないが、ここにいる事を[咎{とが}]めたりはしない。
 私の仕事はこの子の保護であり、観察だ。
 密林で[獣{けもの}]に育てられたこの子が、この文明しかない施設でどういう行動をとるか、見届ける義務がある。
 動物として、あるいは人間として。
 比較心理学――おおよそ動物の行動を研究する学問だと思っていい。この子はその研究材料としてここにいる。
 ここで多くのものを学んだこの子が、動物のまま死んでいくのか、あるいは人間として社会性を獲得していくのか。その結末を論文に書き上げなくてはならないのだ。
 ――そう、私の仕事は観察である。
 この子に社会性を学ばせることではない。
 どちらを選ぶのか決めるのは、この子自身。
 その選択を[誤{あやま}]り、命を落としたとしても、そういう結果になったという論文を書けばいいだけの話。
 私は職務上、この子を[放置{ネグレクト}]しなければならない。
 他の動物と同じだ。[檻{おり}]に入れて、エサのみを与えて飼育する。
「なんだ、もう食べたのか?」
 目を輝かせて手を伸ばすコイツにビスケットを与えるのは、本当は契約違反なのだ。
 それでも私は、ポケットからもうひとつのビスケットを取り出す。
「ほら」
「…………!」
 [嬉{うれ}]しそうにビスケットをかじるコイツを見ていると、こちらも笑顔になる。
 欲望に忠実で当然だ。子どもなのだから。
 本来は母親にもらうか、自分のお[小{こ}][遣{づか}]いでそういうものを買う年齢のはずだ。しかしこの子は自分でビスケットを手に入れる手段を知らない。
 そして私のことも、甘い円盤をくれる人という程度の認識なのだろう。
 が、今日の態度は少し違った。
「……………………?」
 防音ドアに耳をあてて、目を閉じている。
 中の音を聴いているのは確実だ。
 私はポケットから端末を取り出し、今日の音響室でどんな実験が行われているのか調べてみた。
「歌声……?」
 今日は楽器ではなく、有名なオペラ歌手を招いた録音らしい。
 声をひとつの楽器と[捉{とら}]え、その効果がもたらすものを研究しているようだ。音響学は私の専門分野ではないので詳しくは分からないが、あの扉の中にあるものは世界でも最高級の音声だというのは分かる。
 ただ、この研究所にある〝娯楽〟はそれだけではない。
 甘い匂いのする果実の研究をする場所もあれば、珍しい生き物を飼育する場所もある。レーザー光を利用したアトラクションのような研究もあれば、最速を目指す乗り物を作る者達もいる。
 その中で、この子はここを選んだ。
 私には分からないほど小さな音の[欠片{かけら}]を拾おうとしていた。
「……なぁ」
 私の仕事は、観察だ。
 [干{かん}][渉{しょう}]は最低限に留めるよう厳命されている。
「もっと良く聴こえる場所に連れて行ってあげようか?」
 私の善意は、届かなかった。
 言葉を理解できないのだから、仕方ない。

    *

 観察開始から四日目

 研究一筋だったせいか、私は音楽文化にそれほど深い[造詣{ぞうけい}]を持っていない。
 音楽は好きだが、あくまで趣味程度だ。
 この子に聴かせるのにふさわしい曲など、分かるはずもない。
 だから頭の中のライブラリを引っかき回しながらネットを探して回っていると、ふと、とある動画サイトに行き当たった。
 そうだ、私の故郷の国ではこういう動画サイトで音楽を聴く若者が多い。
 ちょうどこの子くらいの年頃の少年少女に人気だった――そういう時代があった。
 懐かしさを感じながら、その動画を再生する。
 ポップな電子音と、少女の声。
 今のボーカロイドは人間の声とほとんど[遜{そん][色{しょく}]ないくらい聞き取りやすい。しかし当時の[拙{つたな}]い声も、曲によっては非常にマッチしていて時代を感じる。
 あの頃は私もこういう曲を聴きながら勉強していたものだ――
「~~♪」
 そんな私の[郷{きょう}][愁{しゅう}]が伝わったのだろうか。
 隣で曲に合わせてハミングする声が。
 そいつは最初、イスに座っておとなしく動画を観ていた。
 が、やがてイスから身体を乗り出し、パソコンに触れ、画面に顔を近づけて向こう側にいるアバターを[凝{ぎょう}][視{し}]する。まるで中に入ろうとしているみたいに。
 その間も、ずっと歌い続けていた。
 私がビスケットを差し出しても見向きもせず、その子は一日中動画を眺めていた。
 ひとつの動画が終わると、次の動画を要求する。
 それに従って私は新しい曲を再生する。
 歌が終わるまでの数分間、またハミングを奏でる。
 その繰り返しで時間が過ぎていった。
 まるで曲を食べさせているような[錯覚{さっかく}]に[陥{おちい}]る。
 [否{いな}]、この子にとっては音楽が食事のようなものなのだ。
 食事も睡眠も[摂{と}]らず、
「……けい…………はち……じゅう………………せん…………が」
 ハミングが歌詞をなぞるようになり、
「あー…………あー…………!」
 歌が言葉として認識されるようになり、
 そして――
「…………も……っと」
 たった四日で、私に対する要求を言語として表現できるようになったのだ。
 画面を指さすその子を見て、私は言いようのない感動を覚えていた。
 音楽は生物や環境の[垣{かき}][根{ね}]すら越えることができる。
 なにより、私が過去に好きだった曲を、この子も好きになってくれた事が嬉しい。
「わかったよ。待っててくれ」
 次の動画を再生する。
 新しい曲が流れ、またそいつは画面にかじりつく。
 今日はそうして一日が過ぎた。
 本当に、それだけしかしなかった。

 

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