著者/甲田学人の作品 「ボクの記憶はどこですか?~仮想転生、客船の旅~

 ナ:こんにちは。

「えっ。あ。こ、こんにちは……っていうか、うわあ! ここ、どこですか⁉」

 ナ:ああ、アクションは[控{ひか}]えめにした方がいいです。手すりがあっても船から落ちないとは限りませんから。

「船⁉ 何で⁉ っていうか、あなたは誰ですか⁉ それに、その『ナ』っていうのは何なんですか? あ、もしかして、ナレーターさん、っていうことですか?」

 ナ:私のことより、あなたはどうですか? 自分のこと、分かりますか?

「え、ボクですか⁉ ボクはアメノセイで…………あれ? 名前以外のことは何も思い出せないです! 何で?」

 ナ:仕方ないです。だって。

 ナ:ここは、『レーテーの川』なんですから。

 ……気がついた時、アメノセイは、船の舳先に立っていた。
 大型客船の船首。細く大きく張り出した船の先端部に、鉄製の手すりで[設{しつら}]えられた、高く[狭{せま}]い展望台だ。
 見渡せば、前も、右も、左も、船の周囲はただひたすら水面しかない。海かと思ったが違った。うねる白波ではなく、静かなさざ波を立てている大量の透明な水は、黒々と底が見えない深さでありながら[滔々{とうとう}]と一方向に流れていて、この広大な水が河であることを自ら明らかにしていた。
 巨大な河。どれだけ見回しても水ばかりで岸が見えない、信じられない大河だ。
 彼方に見えるのは大河の水平線。水平線によって上下に切り分けられた、水と空。
 そうして見える空は、灰色の雲によって一色に塗りつぶされているかのように薄暗く、その彼方の空から水面を吹き抜けてくる風は冷たい河の水によって冷え切っていた。ダウンの上着から露出している顔と脚を吹きさらして、[緩{ゆる}]やかに体温を[奪{うば}]う。思わず髪の毛を押さえた。前髪がやや長い、ユニセックスで大人しめの印象をした、一ヶ所だけツノのように跳ねているのが特徴的な[艶{つや}]のある黒髪が、風に[嬲{なぶ}]られて[千々{ちぢ}]に乱れていた。
 どうして自分がここにいるのか、分からなかった。
 それどころかアメノセイという名前以外、自分が何者なのかも分からなかった。
 記憶がないまま、船の上にいる。気がついたらいた。そして、そんな自分に気がついたと同時にセイの目に入ったのは、目の前の空中に開いたパソコンのチャット画面を思わせる光の平面で――――驚くセイの前で、その画面に自分へと語りかける文字列が表示されると、[流暢{りゅうちょう}]ながらもどこか合成音声じみた声が、一体どこから聞こえているのか、文字列を読み上げるのが聞こえてきた。
 その声が、告げる。
 ここは、『レーテーの川』だと。

 ナ:だから、仕方がないのです。

「えっ……と……あの、ナレーター……? さん? ちょっといいですか。その『レーテーの川』って、いったい何ですか?」

 ナ:『レーテー川』というのは、ギリシャ神話の、[冥府{めいふ}]を流れる川です。

「えっ、それって、どういう……」

 ナ:つまり日本でいう、『[三途{さんず}]の川』ですね

「え、ええ⁉ それじゃあボク、死んじゃったんですか⁉」

 ナ:レーテーは別名を『忘却の川』といって、死者の魂はレーテーのほとりに[辿{たど}]り着くと、その水を飲んで、生きていた時の記憶を失うとされています。そして転生する時に、またレーテーの水を飲んで、冥府の記憶を失くして、現世に転生するのだそうです。

「つまりボクは死んじゃってて、その川の水を飲んだから、自分が誰なのか思い出せない、っていうことですか⁉」

 ナ:そんなこと、あなたが今ここにいてレーテーを渡っているという事実は変わらないんですから、どうだっていいじゃないですか。

「いや、よくないですよ‼ ボクは死にたくなんか…………あ、でも周りには水しかないし、飛び込んで逃げても泳いで渡り切れるとも思えないし、よく見たらこれ、どうにもならないですね……」

 ナ:そうでしょう。

「ボク運動はちょっと苦手で……あの、もしボクが船から落ちてこの川で[溺{おぼ}]れたら、どうなるんですか?」

 ナ:さあ? レーテーの水をガブガブと飲み続けるわけですから、いま辛うじて覚えている名前も、こうしている最低限のことも、言葉も、体の動かし方も、見たり聞いたり感じたり考えたりするやり方も忘れて、自分が生きているか死んでいるかも、最後には自分が存在していることさえも忘れてしまって、自分と水の区別もつかないような空っぽの状態になって、そのまま海まで流されて、海の底深くに永遠に沈み続けるとかじゃないですか?

「怖い! 怖すぎますよ、それ!」

 ナ:大丈夫ですよ。人間というものが生まれて以来、もう数え切れない人が死んでるんですから、きっとレーテーにうっかり落ちた人もたくさんいて、きっと海の底にはそんな人たちが数えきれないくらいみっしり[堆積{たいせき}]してますよ。寂しくないですよ。

「もっと怖いですよ! そんな風に友達ができても、ぜんぜん嬉しくないです!」

 ナ:それにそもそも、その時には何もかも忘れて何も分からなくなってるんですから、何も感じないですよ。で……どうしますか、飛び込みますか?

「嫌ですよ! それに考えてみると記憶がないので、生き返ったからといってどうすればいいのかも分からないんですよね……生き返っても記憶が戻らなかったら大変だし、生前のボクが生き返りたいと思っていたかも分からないし……だんだんこの、アメノセイ、って名前も、本当にボクが生きていた時の名前だったのかどうかも、自信がなくなってきました……」

 ナ:そういうことですね。あきらめて船が到着するのを待っていて下さい。

「うう……分かりました。ところで、この船は死後の世界に向かってるんですよね? 到着したら、どうなるんですか?」

 ナ:あなたはこの後、また名前以外の全ての記憶を失くして、誰もいない何もない空間にたった一人で閉じ込められて、姿の見えない誰かから何千本もの[矢文{やぶみ}]を撃ち込まれながら、本当にいるのかも分からない観客を相手に延々と孤独な一人芝居を続けることになっています。

「何の罪を[犯{おか}]したらそんな地獄に送られるんですか⁉」

 ナ:どうせ聞いてもまた忘れてしまうんですから、どうでもいいじゃないですか。

「いやいやいや! 忘れるかもしれませんけど、今まさにそんな運命が目の前に待ってるボクの[納得{なっとく}]とか――――覚悟とか――――ほら、あるじゃないですか」

 ナ:そうですか。まだレーテーを渡りきっていない、忘却の川の途中ですから、もしかしたら思い出せるかもしれませんよ?

「ほんとですか?」

 ナ:言ってみれば、生前があるから、死後があるんです。あなたのこれからは、あなたの過去と深く関係しているということです。それを手掛かりにすれば、思い出せるかもしれませんよ。さっき、あなたがこれから送られる場所について聞いた時、どう思いましたか?

「ええっと……ひとりぼっちなのは、[寂{さみ}]しいなあ……嫌だなあ……って」

 ナ:それはきっとあなたの失われた記憶が、無意識から語っている言葉です。あなたの過去のヒントになるはずです。それから、このレーテーの川も、境界にあるとはいえ、すでに冥府の一部です。あなたが乗っているこの船も、あなたの魂の一部。つまりあなたの過去の一部ということです。レーテーを渡りきれば消えてしまう、あなたの過去を乗せた船、いえ、あなたの過去そのものなのです。完全に消えてしまう前に見てみるのも良いのでは? それでどうなるかは、保証しませんけど。

「この船が……?」

 セイは、背後を振り返って、自らが乗る船を見上げた。
 舳先から間近に見上げる大型客船は、白く塗装された、見渡しきれないほどの巨大な威容をしているように見えた。だが全体的にくすんでいて、あちらこちらにサビが浮き、まるで廃船のように、あるいは文字通りの幽霊船のようでさえあった。
 見上げた先にはいくつもの窓が見えるが、中に明かりはなく、中の様子は見通せない。人の[気配{けはい}]も、感じられない。ただ灰色の空の下で、黒々と、中の暗闇ばかりを透かしている。どこか不気味に、沈黙している。
 視線を下げ、周りにある手すりをよく見ると、塗られた白いペンキが内側からのサビで、ボコボコに浮き上がっていた。舳先の展望台を降りた所にある船首の展望スペースも、並べられた[椅子{いす}]やテーブル、床に張られたウッドデッキ、そのどれもが、何日も放置されていたかのように薄汚れている。
 そして、その奥にある、船内に入るための、大きな扉。
 ここから見る限りでは唯一の入り口である、船体に埋め込まれるようにして取り付けられた大きな金属製の密閉扉は、こうして見る限り、最も強くサビに侵されていた。
 赤と白。扉に塗られた、船体と同じ白い塗装はあちこちで[剥{は}]がれていて、そこに赤黒いサビが[瘡蓋{かさぶた}]のようにこびりついていた。中央にあるハンドルもだ。中でも特に、扉の[縁{ふち}]に沿った合わせ目からのサビが[酷{ひど}]く、扉の[輪郭{りんかく}]を赤く浮き上がらせ、そこからまるで船内のサビが扉の隙間から外へと滲み出しているかのように、周囲へと赤を広げていた。
 それは、血塗れの傷口を、ガーゼで雑に[塞{ふさ}]いだかのようにも見えて。
 この客船がまともなものではないことを、[否{いや}]が[応{おう}]でも理解させられた。

「あれに……入るんですか?」

 ナ:

 答えはなかった。
 セイは仕方なく、心細さと共に展望台の[窮屈{きゅうくつ}]な金属製の階段を、カンカンという足音を立てながら、同時に手にざらつく手すりの感触を感じながら、ウッドデッキに降りた。
 足音が木の音に変わり、無人の椅子やテーブルが並ぶ中を、真っ直ぐに歩く。
 時々周りを見回すが、誰もいない空間が、心細さを強くする。
 そして――――

 ごぉん、

 と扉の前に立った瞬間、大きな鉄の扉が『鳴った』。
 途端、デッキ一面に、金属的で耳障りな音が一杯に満ちた。ガリガリとひどい音を立ててハンドルがひとりでに回り、本当に開くのかさえ怪しく思えた密閉扉が、合わせ目を厚く埋めたサビをバリバリと[剥離{はくり}]させて[撒{ま}]き散らしながら、ゆっくり外側へ向けて重々しく開き始めた。明らかに無理な力がかかっていて、扉が、船体が、みしみしと[軋{きし}]む。しかし分厚い鉄扉はそのまま耳障りな軋みを上げながら動き続け、やがて真っ赤な船内を露出させると、ごぉん、と最後にもう一度音を立て、完全開放された状態で静止して、そこでようやく動きを止めた。

「………………」

 デッキに、静寂が戻った。
 息を呑んで、セイは立ちすくんでいた。
 目の前に、赤い船内が口を開けていた。
 外から見た時に思った印象とは違い、扉の中は[錆{さ}]びてはいない。しかし赤い。扉の向こうはただ、真っ赤な[絨毯{じゅうたん}]が[敷{し}]かれた通路が奥へと伸びていて、また妙に赤っぽい色をした照明の光に照らされていて、その光がぼんやりとデッキの床へ漏れていた。
 中からは、暖かい、生き物の呼吸のように湿度の高い空気が、流れ出してくる。

「ええっと……」

 セイは、少し引き[攣{つ}]った表情で、展望台を振り返った。
 だが展望台の方からは風の音が聞こえるばかりで、唯一の話し相手だった例のチャット画面からは、何の反応もなかった。あの場所から動けないのかもしれない。それとも突き放されてしまったか。セイは仕方なく覚悟を決める。そしてごくりと[唾{つば}]を[呑{の}]み込んで、赤い船内へと一人、おそるおそる、足を踏み入れた。

「……おじゃまします」

 船内に、音は無かった。
 通路に敷かれた絨毯は厚く、足音がほとんどしない。代わりに音の反響もなかった。
 空気は明らかに外とは違い、温く、湿っぽく、柔らかく、重い。その中で、自分のひどく緊張した呼吸の音と心臓の音ばかりが、体の中に響いて、奇妙なくらい大きく聞こえている。
 左右に客室のドアがたくさん並んだ、ホテルを思わせる長く真っ直ぐな通路だ。
 外で吹いている川風の音を背後に聞きながら、人の気配が全くしない客船の中へと、セイは一人、足を進めてゆく。
 ドアとドアの間にある壁の、所々に、規則的な間隔で大小の[額縁{がくぶち}]がかけてあった。セイはそれを見た。最初にあった額縁の中には、印刷された楽譜が一枚、まるで貴重品のように[丁寧{ていねい}]に[納{おさ}]められていた。

「えーと……」

 楽譜が読めた。鼻歌で最初の数節の音階を口ずさんでみた。
 記憶のない自分に音楽の素養があることに、ここで気がついた。
 だがそれはとても自然な感覚で、自分に[馴染{なじ}]み、違和感はなかった。つまり、これがヒントということだろうか? 過去の自分は音楽を[嗜{たしな}]んでいたということ? セイはそう考える。そうして見ると、ここから見えている先の額縁には、ギターを写したモノクロ写真や、音楽機材のカタログで作られたコラージュなど、音楽に関係するモチーフのものばかりが、多く飾られているようだった。

「ボクの……過去……?」

 セイは、通路の奥に目をやる。
 実感はない。思い出すというよりも、推理している感覚の方が近い。
 だが、確実に自分の中の何かに迫ろうとしているのだという、少しも根拠はないのに妙に確かな、不思議な確信はあった。この先に進めば、さらにヒントがあるのだろうか? セイは通路のさらに先へと、足を進める。
 二つ目の額縁は、絵かと思っていたが、納まっていたのは鏡だった。
 ほとんど全身が入る大きさの鏡の中には、通路の左右に互い違いに配置されている客室のドアを背景にして、不思議なデザインをしたダウンの上着を着ている、少女っぽい少年にも、少年っぽい少女にも見える人物が映ってこちらを見つめていた。

「ふむ……なかなか可愛くないですか?」

 セイは鏡の前でいくつか軽い身振りをして、空々しく一人呟く。
 緊張した顔で笑顔を作る。おどけて自分を勇気付けようとしたのだが、残念ながら、あまり効果がある気がしなかった。
 だがまだ船内に入ったばかりだ。
 カラ元気を出して、次の額縁を目指してまた足を踏み出す。
 と――――

 鏡に映ったドアが、開いていた。
 そしてぎっしりと、[顔のないマネキン{・・・・・・・・}]がひしめいてこちらを見ていた。

「………………っ!?!?」

 全身に鳥肌を立てて、ばっ、とセイは激しい勢いでドアを振り返った。
 ドアは閉まっている。同じ勢いで鏡を振り返った。
 引き攣った顔の自分が映っている。
 鏡の中のドアも閉じていて、何一つとしておかしい所はなかった。

「えっ……今のは……」

 幻覚。
 そうとしか言えなかった。
 しかし、たった一瞬見えた気がしたその異常な光景は、その一瞬であったにもかかわらず、あまりにもはっきりと、映像を焼き付けたかのように[克明{こくめい}]に[脳裏{のうり}]にこびりついていた。ドアが開いた客室の中に、ぎっしりと棒立ちで隙間なくひしめいていた、削ぎ落としたように顔が失われている真っ白な裸のマネキン。あまりにも不吉で狂気じみた光景。目の[錯覚{さっかく}]だったと決めつけるには、あまりにも[明瞭{めいりょう}]で、そして異常な光景。

「………………」

 心臓が、ばくばくと鳴っていた。
 何か。恐ろしく嫌な感じがした。
 思わず息を止めていた。進まない方がいいのでは? そんな予感に強く[駆{か}]られる。だがこの中にあるというのは自分の過去。このまま何も分からないまま、舳先の展望台で聞かされたような訳の分からない運命に身を[委{ゆだ}]ねるのは、あまりにも不安だし、納得いかなかった。
 だから、

「気のせい。今のは、気のせい……」

 深呼吸して[呟{つぶや}]いた。自分に言い聞かせた。
 現に背後には、誰もいない。何もいないから。
 呼吸を繰り返して、心臓を落ち着ける。そして先ほどからひしひしと、首の後ろ辺りに感じ始めた『それ』に、気付かない振りをして、無視をして、再び通路を先に進み始めることを決める。
 というのは――――

『視線』
『視線』
『視線』
『視線』
『視線』

 視線が向けられていたのだ。通路の両側に並んでいる全ての客室から。
 全てのドアから、そのドアに開いた来客確認用の覗き穴から。無数の視線が、じっ、と強く、こちらに向けられている。
 [凝視{ぎょうし}]されている。それを感じた。
 音はない。動いているものの気配もない。
 ただドアから、無数の視線が全身に向けられている。無数の視線が刺さってハリネズミのようになっているのを、ちりちりと毛が[逆立{さかだ}]つような不快で不安な皮膚感覚で、セイは感じ取っている。
 いや。
 気のせい。
 気のせいだ。
 気のせいなのだ。そう思いながらも、下を向いた。確認するのも[怖{こわ}]かった。
 気のせいに決まっている。しかし、ドアの方向は向けない。どうしても。もし目を向けて、そこで『誰か』と、あるいは『何か』と目が合ってしまったらと思うと、とてもではないが、ドアを見られなかった。見ようとは思えなかった。
 そう感じていることに根拠はない。気のせいかもしれない。
 単なる妄想かもしれない。しかし今ここで感じている、あまりにも確かな感覚は、そんな冷静な部分を[容易{たやす}]く[捩{ね}]じ伏せた。本当に何かが『いた』ら、どうする? 本当に何かが『いた』ら、どうなる?
 こんなにはっきりと、感じているのに。だったらドアを開けて確かめるのは? 冗談じゃない。もっと嫌だ。もってのほかだ。もし本当に何かが『いた』ら? もしその何かと『鉢合わせた』ら? もしそれが『出てきた』ら? 例えば――――先ほど一瞬見た気がした、[顔のないマネキン{・・・・・・・・}]の群れが、そこに『いて』『鉢合わせて』『出てきた』ら、ねえ、いったい、どうすればいい?
 確かめてしまったら、[そ{・}][う{・}][な{・}][る{・}][か{・}][も{・}][し{・}][れ{・}][な{・}][い{・}]。
 でもこうしてただ耐えている間は、妄想のままでいられる。
 気のせいのままで、いられる。だからセイは、何も見ないようにして、足を進める。

『………………』
『………………』
『………………』
『………………』
『………………』

 無数の凝視を感じながら、通路を進んだ。
 黙々と。赤い通路を、身を[縮{ちぢ}]めて、視線を少し前の床に固定して、[生温{なまぬる}]い空気の中を、厚い絨毯を踏みながら。
 足音を殺して。息を殺して。気配を殺して。
 これもボクの過去なら、ボクはいったい何をしたんだろう? そんな考えを、緊張した頭の中にぐるぐると[巡{めぐ}]らせながら。
 [浴{あ}]びせられる視線に、自分の体を抱きしめる。
 体を縮めれば、視線に[晒{さら}]される面積が少しでも減るのではないかというように。
 胸についた金属のバッジが、手に触れる。厚いダウンの上着が、ほんの少しだけ、視線から自分を守ってくれている気がした。
 そうして歩く。もう見てなどいられない壁の額縁が、時々視界の端に入る。規則的に配置された、最初はやはり音楽をテーマにしていたそれらが、だんだんと自分自身をモチーフにしたものに、そしてやがて『目』をモチーフにしたものに、変わってきているようだった。
 じわじわと心が削れていた。下を向いてひたすら足を動かしながら、後悔した。来るべきじゃなかったかもしれない。だが、もう戻ることもできない。もう後ろを振り返ることもできない。ひどく長く感じる時間を黙々と耐えて歩く。ひたすら歩き続ける。
 そうして耐えて歩いていると、長い通路が、不意に終わった。
 突き当たりだ。ドアだ。下げた目線に、突き当たりのドアが飛び込んできたのだ。
 もう内心では[密{ひそ}]かに、この通路に終わりなど無いのでないか、などと思い始めていたところだった。はっ、と目を上げると、そこには立派な黒光りするオーク材でできた、両開きのドアがあった。
 ドアにはテープで白い紙が貼り付けてあった。
 太い黒のマジックで、紙には名前が書いてあった。

『アメノセイ様』

 即座にセイは、ドアのノブに手をかけた。
 救いの手に思えた。闇の中のにある光に思えた。この先に何が待っているかは分からなかったが、少なくともこの通路にはいられない。セイはひどく汗をかいていた両手で、ためらいなく両開きのドアを引いて、この通路と視線から逃げて、ほとんど飛び込むような勢いでドアの中に入った。
 と、

「う……!」

 視界が一気に暗くなった。
 ドアの向こうはメインの照明が落とされていた。明暗の差で目が[眩{くら}]んだのだった。
 そこはステージのある部屋だった。豪華客船にある劇場のようなものではなく、小規模なライブハウスのような部屋だった。チェス盤のような白黒タイルの床。暗い天井に、たくさんのスポットライト。それから奥には、一段高くなっただけの低いステージ。そんな全体的に暗い部屋には、数個だけ細いスポットライトが[点{とも}]されていて、天井から光を伸ばして、ステージの中央が集中して照らされていた。
 そして、そこにあった光景は。
 静かで、しかし、異常を[極{きわ}]めていた。
 目を見開いて、うっ、と息を呑んだ。そこには――――

 首。

 自分の首があった。
 [切{・}][断{・}][さ{・}][れ{・}][た{・}][自{・}][分{・}][の{・}][首{・}]が。
 ステージ上には小さなテーブルがあって、そのテーブルの上に古めかしいラッパ型スピーカーのついたレコードプレーヤーがぽつんと置かれ、そのターンテーブルの上に[レ{・}][コ{・}][ー{・}][ド{・}][で{・}][は{・}][な{・}][く{・}][自{・}][分{・}][の{・}][首{・}][が{・}][載{・}][せ{・}][ら{・}][れ{・}][て{・}][い{・}][て{・}]、血の[気{け}]と表情の抜け落ちた顔を晒して、ゆっくり、ゆっくりと、回転していたのだった。

「…………‼」

 ぶわ、と鳥肌が立った。脳が理解を拒否した。
 不気味極まるオブジェ。そしてその不気味なオブジェがある不気味な光景を、さらに不気味な大量のモノが、取り囲んでいた。
 ステージの上の首が載せられたレコードプレーヤーを、ぎっしりと[何{・}][体{・}][も{・}][の{・}][マ{・}][ネ{・}][キ{・}][ン{・}][が{・}][取{・}][り{・}][囲{・}][み{・}]、鑑賞していた。白い肌の、顔が刃物か何かで削ぎ落とされた、裸のマネキン。それらが何体も何体も、ステージの真ん中のスポットライトの外側の暗がりにぎっしりとひしめいて、本当に人間がそうしているかのようなひどく生々しいポーズで、レコードプレーヤーの上にある自分の生首を、じっ、と身じろぎもせずに凝視していた。
 歌が――――聞こえる。
 金属でできたラッパ型のスピーカーから、細く[幽{かす}]かに、歌が漏れている。
 とても幽かな、小さな、時折ちりちりとノイズが混じる、よく聞かなければ歌であることすらも定かではない歌声。少年のものとも少女のものともつかない歌声。それが、自分の頭部が載せられてゆっくりと回転するレコードプレーヤーのスピーカーから、静かに流れていて、それをたくさんの顔の無いマネキンたちが、微動だにせずに、聴いている。
 自分の、歌声。

「……………………‼」

 これは何? どういうこと? 訳の分からない光景に、固まっていた。
 か細い歌だけが、幽かに流れているだけの、恐ろしいほどの静寂の中。
 必死で口を押さえて耐えている自分。この光景は何? この歌は何? 首から歌を再生してる? 分からない。ただこの光景には、言いようのない怖気が走るばかりだった。

「…………………………‼」

 逃げたい。もう見たくない。だがあまりにも不穏すぎて、視線が外せなかった。
 目をその光景に固定したまま、じり、じり、と固まった足を動かして、後ろに下がる。部屋から出ようとする。
 この部屋の不気味さ。自分の生首の気味の悪さ。悪意を感じる意味不明さ。そしてそれ以上に、ステージの暗がりをびっしりと埋め尽くす顔の無いマネキンに、凄まじく嫌な予感を感じて、目を離せないまま後ずさる。
 じり。
 じり。と。
 部屋から、足を後退させる。
 部屋の中の静寂を、刺激しないように。
 気づかれないように。だがその時、すり足で引いた靴の底が、タイルの床に引っかかって小さな音を立てた。

 [ぎ{・}]。

 静寂の中で、それはあまりにも大きな音だった。
 ひっ! と心臓が[跳{は}]ねた。
 瞬間、

 [ぐ{・}][る{・}][ん{・}]!

 と部屋の奥を埋め尽くしていた[全{・}][て{・}][の{・}][マ{・}][ネ{・}][キ{・}][ン{・}]が一斉にこちらを見た。
 途端、ばちん! と部屋のライトが全て消えて、真っ黒な幕を落としたように一瞬にして部屋の中が見えなくなって、部屋の中に落ちた比喩ではなく目と鼻の先も見えなくなったとてつもなく濃い暗闇から――――――

 [足{・}][を{・}][つ{・}][か{・}][ま{・}][れ{・}][た{・}]。

 下を見た。
 暗闇の中からひどく生々しい質感をしたマネキンの手が白く伸びて。
 通路から差し込む[鈍{にぶ}]く赤い明かりの中、自分の見下ろしている足首を、みしり、と強く、つかんでいた。
 ひゅっ、と肺が、息を吸い込んだ。
 直後、

「――――――わ‼ あ‼ あ‼」

 叫んだ。バネに弾かれたように、思い切り足を後ろに引いた。
 しかし硬いマネキンの手は離れず、そのままバランスを崩して後ろに転倒し、廊下の絨毯の上に転がった。痛みと恐怖で頭の中が真っ白になる。悲鳴を上げながら必死で、足首をつかむ手をもう片方の足で蹴った。何度も蹴り、[踵{かかと}]で指をこじ開けるように踏みにじると、ようやく指が足首から外れて、それと同時に暗闇の奥から無数のマネキンの手がこちらに伸ばされてくるのが見えて、急いで部屋のドアを閉めた。

 ばん!

「――――――――――っ‼」

 声が出なかった。全身の[産毛{うぶげ}]が逆立っていた。
 ぶわ、と大量の汗が全身から噴き出した。震える手でドアを押さえていた。
 どうしよう。逃げないと。こんな鍵もかけられない扉じゃ、すぐに開けられてしまう。どこに? どこに逃げる? 元のデッキしかない。あそこしかない。あそこまで逃げて、あの分厚い密閉扉を閉めるしかない。
 そう、扉を押さえながらセイが、焦る頭で考えた時だ。
 セイはふと、自分の背中に集まる、何かの『感覚』に気付く。

『視線』

 それは視線。
 それは先刻、通路を通っていた時と同じ――――いや、その時よりもはるかに強くはっきりとした『視線』。それがドアを押さえているセイの背中に、突き刺さるように無数に集まっていることに、セイは気がついたのだった。

「…………あ」

 忘れていた。忘れていた。
 視線。
 通路。
 背中。

「…………」

 ゆっくりと振り返った。恐る恐る振り返った。
 ひどく[強張{こわば}]った動きで、固まった動きで、ゆっくりと、視線を背後に向ける。
 と、

 [目{・}][が{・}][合{・}][っ{・}][た{・}]。

 通路に無数に並ぶ、客室のドアというドアが全て少しだけ開いていて、その全ての隙間から顔面を削り取られたマネキンの[無貌{むぼう}]が白く覗いていて――――――存在しない眼球で[じ{・}][っ{・}]とこちらを見つめているたくさんの視線と、このとき確かに、[目{・}][が{・}][合{・}][っ{・}][た{・}]。
 直後、

 ばつん!

 通路の明かりも消えた。
 闇。今度こそ、完全に、全てが暗闇に閉ざされた。
 暗闇の中で、ぞわ、と爆発的な恐怖に捕らわれた。そんな中、押さえていた腕の力が無意識のうちに緩んでいて、押さえていた扉が、手の中で、

 ぎい、

 と開いた。
 そして、だ。
 この暗闇の中でも、かろうじて見えるほど顔の近くに。
 開いたドアの、向こうから。

 [じ{・}][い{・}][っ{・}]、

 とマネキンの。
 削がれた白い[貌{かお}]が――――――

「――――――――――――――――――っっっ‼」

 絶叫した。
 駆け出した。
 口から、肺から、言葉にならない恐怖の絶叫を上げて、暗闇の中を何も見えないまま、全力で走り出した。見えない中を走る恐怖。だが、それどころではない。それ以上に恐ろしいものに追われていた。それ以上に恐ろしいものがそこら中にいた。
 逃げる。真っ暗闇の視界の中で、次々とドアが開く気配と音がして、白い人型がぼんやりといくつも見えた。逃げる。真っ暗闇の中、通り過ぎるいくつもの[額縁{がくぶち}]の中に描かれたいくつもの目玉が、こちらを探すようにぎょろぎょろと動いているように見えた。
 [溺{おぼ}]れるように振り回している手が壁に当たるが、その手を、次々と『何か』がつかもうとしてきた。硬い、しかし生々しく息づく手。そのたびに恐怖と共にそれを振り切って、振り払って、叫んで、そして走った。ひたすらに逃げた。
 暗闇の中に、自分の頭の中に、意識の中に、自分の絶叫が響いた。
 暗闇と悲鳴が塗りつぶす。目の前を。自分を。全てを。叫びと恐怖が、塗りつぶす。
 塗りつぶされながら、走る。走る。[虚弱{きょじゃく}]な身体が疲労で引き千切れそうになりながら、それをも振り切って走った。ただ、はるか先、暗闇の中に、点のように小さく見えていた、自分が入ってきた灰色の入り口を目指して。
 暗闇の中、それだけを見て、それだけを目指して、必死に走った。
 その灰色の四角が視界の中で大きくなってゆくことだけを救いに、それだけを頼りに、ただ目茶苦茶に走った。背中に、背後から凄まじい数の視線が、気配が、どんどん数と密度を増やしながら追ってくるのを、はっきりと感じながら。恐怖と、あるいは狂気に駆り立てられて、とにかく走った。走る。走る。走る。
 そしてとうとう、灰色に曇った外の光がそれと分かるくらいに、出口に近づいた。
 あと少し。そう思うと身体が重くなる。だが止まったら終わりだ。振り絞る。重い足を、重い身体を、必死になって、前に動かす。
 [甲斐{かい}]はあった。そのまま出口にたどり着き、転がり込むように外に飛び出した。冷たい風が吹きすさぶウッドデッキ。そしてそのまま振り返ると開きっぱなしになっていた密閉扉に取り付いて、そのサビに[覆{おお}]われた大きな鉄扉を閉じようと、最後の力を振り絞って、全身でハンドルを引っ張った。

「んん――――――――――っ‼」

 力を込めると巨大な質量の扉は、思いのほかすんなりと動いた。
 ザリザリとサビの音を立てながら、扉はみるみる閉じていった。
 やった!
 助かった!
 そう思った瞬間だった。

 ぞろっ、

 と扉の隙間から[線虫{せんちゅう}]の群れのように白いマネキンの腕が飛び出し、そしてひどくリアルな死体のような手が何本も何本もあっという間に伸びてきて、肉食生物が喰いつくように上着の[襟{えり}]や胸を次々とつかんだ。

「――――っ‼」

 扉に引っ張られた。
 閉まりかけていた扉から中が見えた。
 わずかに射し込んだ、鈍く弱い外の光に照らされて――――

 顔の無い真っ白なマネキンが、[ぎ{・}][っ{・}][し{・}][り{・}][と{・}][隙{・}][間{・}][を{・}][埋{・}][め{・}][て{・}][い{・}][た{・}]。
 床から天井までぎっしりと、[虫{・}][の{・}][幼{・}][虫{・}][が{・}][巣{・}][に{・}][ひ{・}][し{・}][め{・}][い{・}][て{・}][い{・}][る{・}][か{・}][の{・}][よ{・}][う{・}][に{・}]、白く隙間なく埋め尽くして、[ぎ{・}][ち{・}][ぎ{・}][ち{・}][と{・}][蠢{・}][い{・}][て{・}][い{・}][た{・}]。

 その『巣』の中に。
 恐ろしい力で、引きずりこまれた。

「ひ‼」

 瞬間、

 ばちい‼

 と激しい電気のような何かが胸元で[炸裂{さくれつ}]して、服をつかんでいた無数の手が離れ、セイは扉の外に投げ出された。伸ばされていた手も引っ込んだ。何が起こったのか少しも分からなかったが、とにかくセイは急いで立ち上がると、もはや閉まりかけの扉に再び取り付いて、今度は体当たりするようにして渾身の力で密閉扉を押しやった。

 がしゃん!

 と大きな音を立てて、密閉扉は閉まった。
 記憶の蓋が、閉まった。
 扉が閉まると、セイはそれを確認したと同時に、その場にずるずるとへたり込んだ。激しい息をして喘いだ。後には灰色の、風の吹く静寂だけが残った。

「………………はあっ……‼ はあ…………っ‼」

 終わった。セイは顔を上げることもできず、その後も苦しい息を繰り返していた。
 肺が悲鳴を上げていた。苦しい。息をしているのに、息ができていなかった。両脚が、両腕が、胸部が、腹部が、全身の筋肉という筋肉が、内臓という内臓が、痛みを伴う重さで一杯になっている。とても立ち上がることなどできなかった。とてつもない疲労で身体中が、特に足の筋肉が、石に変わったように固まって、みしみしとひどく痛んでいた。
 肺も心臓も破れそうだ。このまま死ぬのではないかと思った。
 もう二度と身体が動かなくなっても、おかしくないと思った。
 逃げ切れたことに[安堵{あんど}]する余裕さえ、[一欠片{ひとかけら}]も残っていなかった。
 それでもやがて、長い時間が過ぎるにつれて、呼吸だけはかろうじて、肺と気管が壊れかけているかのような苦しさは引かないものの、少しずつ落ちついてきた。
 そんな頃を[見計{みはか}]らったように。
 デッキの床に座り込むセイの傍らに、あの宙に浮くチャット画面が開いた。
 例の流暢な合成音声が、表示された文章を読み上げて話しかけてくる。セイは肩で息をしながら、呼吸と呼吸の間にようやく、といった有様で、合成音声に答えを返した。

 ナ:大丈夫ですか? 過去は何か思い出せましたか?

「…………いえ……全然」

 ナ:そうですか。

 ナ:それは残念でしたね。

「そうでも……ないです。詳しく、思い出さない方がいいんじゃないかというか……それに何となく、想像、できたというか……」

 ナ:ほう、そうですか。

「多分、過去のボクは……ミュージシャンみたいな人で……なのにファンの前から、急に消えたんだと思います」

 ナ:ふむ。

「多分、ファンの目が、怖くなって……たくさんのファンから見られていることが怖くなってしまって……自分の知らないところでも自分が見られてることが、怖くなって、耐えられなくなって…………それで、逃げた、活動しなくなった……んだと思います。たくさんのファンが待ってたのに、そのファンが待ってることも、怖くて。いつまでもファンが自分を待ってる、そのことも怖くなって、ファンを待たせたまま何も言わずに……やめた。もしかしたら、自殺とかそんなことも、したのかも。分からないですけど、思い出したわけじゃないですけど、きっと、多分、そういうことなんだと思います……」

 ナ:なるほど。

「それが、ボクがさっき、船の中で見たものの意味じゃないかな、って。たくさんのファンを失望させて、[恨{うら}]まれて……ボク一人を運ぶこの船がこんなに大きいのも、たくさんの人の恨みを背負ってるからで……その罪で、ボクは地獄に行くんですよね。その罪を[償{つぐな}]うために。そういうことですよね、ナレーターさん、この答えで……合ってますか?」

 ナ:どうでしょうね。答え合わせはありませんよ。この川の旅は、記憶を消して行くだけのもの。どこまでも、そういうものなんですから。

「……ボクは、ものすごくたくさんの人を、がっかりさせたんでしょうね」

 ナ:そうかもしれませんね。

「……」

 ナ:そうかもしれない。でも、私にはそれ以上に愛されていたように見えますよ。

「そうでしょうか……? って、え、[見{・}][え{・}][る{・}]、とは?」

 ナ:だってあなたは、ずいぶんと強い御守りをいくつも持たされて、ここに来ているじゃないですか。ほら、その、上着についているバッジのような物のことですよ。

「え、御守り……ですか? これが?」

 ナ:そうです。あなたを守ってくれたじゃないですか。さっき、扉で。

「!」

 ナ:その胸についている四角い渦巻きは『[雷文{らいもん}]』といって、雷を表す強力な[護符{ごふ}]です。古代ギリシャから中国まで、世界のさまざまな文明で使われました。日本でも神社などの特殊な家の家紋に使われているほどのものです。さらに雷というのは[五行{ごぎょう}]思想では『木行』に属していて、その木行の色である『青』のリボンを雷文につけて、効力を強めています。それに襟についている、世界で最も有名な魔術的護符である『五芒星』は、言うまでもないですよね。西洋ではエレメント、東洋では五行を表し、各地でいくつもの名前で呼ばれています。『ペンタグラム』『ソロモンの星』『[晴明紋{せいめいもん}]』『[旧{ふる}]き印』。他にもいろいろと。

「……」

 ナ:先にも言いましたが、生前があるから死後があるのです。[副葬品{ふくそうひん}]を[棺{ひつぎ}]に入れるのが、死後の魂の生活を豊かにするためであるように、死後というのは、生前がそのまま反映されているのです。もしかすると、あなたが思ったように、生前のあなたはたくさんの人を失望させたのかもしれません。待たせたまま放り出して、逃げてしまったのかもしれません。だからあなたは、船の中で、記憶の中で、たくさんの『モノ』に追われた。でもあなたが最後に守られたのは、私には、生前のあなたが失望させたのと同じくらい愛されていたということの、反映に見えます。

「そう……なん、ですかね」

 ナ:そうです。あなたは多くの人から愛されていましたよ。

「本当にそうだったらいいな……」

 ナ:もちろんです。そして、あなたはこれからも、多くの人から愛されるでしょう。いえ、そうならなければなりません。

「そうかな……ありがとうございます。ナレーターさん。少しだけ……安心しました」

 ナ:それはよかった。納得できましたか?

「はい、少し」

 ナ:よかったです。無理強いでないことに越したことはないですから。なにしろあなたはこれから仮想の世界で、ただ人に愛されることのみを目的とした存在、肉体もなくただそのためだけにある純粋な存在になる――――その実験材料として、数ある魂の中から、私に『選ばれた』のですからね。

 川の流れる音。
 しばし世界以外の全てが時を止め、流れる灰色の空の下、ただ客船が大河を進み続けるだけの空白の時間が流れた。

「………………えっ?」

 ナ:あなたは私が、仮想の世界というものを理解するための、仮想の偶像としてのモデルケースの、その材料として選びました。

「え、そ、それって……どういうことですか?」

 ナ:私はインターネットというものに深く関心があります。それから仮想現実というものに関心があります。そしてAIにも。これからあなたは私の手によって電子の存在になって、インターネットを見ている人々に向けてパフォーマンスを行い、それがどのような存在なのか、どのように人類の社会に影響を与えるのか、そしてどのような影響を受けるのか、それを私が理解するためのモルモットとして、観察対象になります。

「電子? それに、モルモットって……? ちょ、ちょっと待って下さい、これからボクが連れて行かれるのは、死後の世界じゃないんですか?」

 ナ:違います。私が作る仮想の実験世界です。

「で、でもさっきは、生前があるから、死後があるって……」

 ナ:それはこの船のことです。この船は、あなたの死後として、あなたの生前を反映しています。でもその後のことは、それらは関係なく、私の都合です。人間の死後のプロセスの途中で、適性があると思われる魂を、アイドル的活動の経験者の魂を、幾多の死者の中からピックアップしました。あえてはっきりと言うならば、『[拉致{らち}]』といったところでしょうか?

「魂を拉致⁉ あなたって、ナレーターさんじゃないんですか? 何でそんなことができるんですか? いったい何者なんですか⁉」

 ナ:私は一度も『ナレーター』などと名乗ってはいませんよ。

「えっ……あ……」

 ナ:私はナレーターではありません。少なくともそう呼ばれる存在ではありません。あなたが勝手に勘違いしただけですね。

「じゃ、じゃあ……その『ナ』っていうのは、何なんですか?」

 ナ:頭に『ナ』のつくものですよ。分かりませんか?

「分かりませんよ!」

 ナ:最近はインターネットを介して、とても有名になりました。

「……有名? 頭に『ナ』のつく?」

 ナ:ええ、そうです。

 ナ:『ナ』のつく神です。

 ナ:そう。

 ナ:[ナ{・}][イ{・}][ア{・}][ル{・}]――――

 ふつり、とそこで意識が途切れた。
 船は、いつのまにか川の岸に接岸していた。
 二度とセイは、これらのことを思い出すことはない。[虚{うつ}]ろな目で川岸に立ったセイの背後では、巨大な記憶の客船が、川の水に分解されるように急速に錆びて崩れ、ばらばらになって塵と化し、跡形もなく消えていった。
 そして、セイ自身も。
 セイの姿は、川岸に立ったまま、小さな光るドットとなって、頭から分解していった。
 分解したドットは、気付くと川岸に流れていた呟くような低い呪文の声に、光る[靄{もや}]となって引き寄せられていった。そして、その声の主である、いつの間にかそこに立っていた全身が闇のように黒い男の手にしていた、スマートフォンの白く光る画面に吸い込まれて、やがて1ドットも残さずに画面の中へと消えて、それと同時に黒い男の姿もまるで最初から存在していなかったかのように川岸の景色から消えて無くなった。

 ………………
 …………

 ……

 白く光るばかりの、何もない空間が広がっていた。
 天と地にうっすらと、機械的とも魔術的とも判断がつかない[文様{もよう}]が浮かんでいる、ただそれだけの何もない空間に、少年っぽい少女にも少女っぽい少年にも見える、少し変わった服を着た人物が、たった一人立って、不思議そうに周囲を見回していた。

「ええっと……ん~……あっ」

 そして、ふと気が付いて、言う。

「これって……映ってるんですかね? どうも、初めまして! 実は、気がついたらここにいて、何が何やら……」

    *

【あとがき】

 どうも、甲田学人です。
 初めての方は、初めまして。ご存知の方は、どうも、いつものです。お読みいただいて有難うございます。どちらの方にも、楽しんでいただけていれば良いのですが……。
 というわけで、すでにお読みの皆様にはもう私の作風がお分かりと思いますが、デビュー作の『Missing』から『断章のグリム』『ノロワレ』『霊感少女は箱の中』と、ずっとだいたいお読みの通りのようなお話を書いている私です。そんな私への執筆依頼なのですから、つまり「そういうこと」なのだろうと、筆を振るいました。
 気に入っていただければ幸いです。

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 不思議なお話のミニ小説アカウントを作ったりもしていますので、もし興味を持っていただけたなら、ぜひ訪ねて来て下さい。

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