著者/三雲岳斗の作品 「saury fishの夜」

 かすかな歌声が聞こえた気がした。
 聞き覚えのある心地よいフレーズ。昔よく流れていた懐かしい曲だ。
 ソファにもたれてまどろんでいた私は、その声に誘われてゆっくりと目を開ける。
 ぼやけた視界に映ったのは、私に背中を向けている人影だった。お姉ちゃん――と思わず声をかけようとして、私は、その背中が姉とは違うことに気づく。
「……誰?」
 [咎{とが}]めるような私の声に気づいて、あ、と歌声の主が振り返る。
 [幾何学{きかがく}]模様めいた不思議な柄の服を着た、小柄な子だった。
 少年っぽい[華奢{きゃしゃ}]な体つき。中性的な髪型。額のあたりに頑固そうな寝癖が、ツノのようにぴょこんと[撥{は}]ねている。
「あ、ごめんなさい。起こしちゃいましたよね」
 ぱっと見、彼だか彼女だかよくわからないその子は、[人懐{ひとなつ}]っこく微笑みながら、少し慌てたようにそう言った。見慣れたうちのマンションのリビングだ。眠っていた私に気を遣ってくれたのか、その子は部屋の隅っこでクッションを抱えて座っている。
「……セイ? あなた、まだいたんだ」
 まだ半分寝ぼけた意識の中で、私は彼、あるいは彼女、に呼びかけた。アメノセイ。それがその子の名前だ。少なくとも今はそういうことになっている。
「さっきの曲、どうして知ってたの?」
 私はセイを半眼で見つめて、ぶっきらぼうな口調で訊いた。セイは少し困ったように目を細め、手に持っていた箱を私に見せてくる。それは小さなオルゴールだった。そこらの雑貨屋でよく見かける、アクリルケース入りのありふれた品だ。
「勝手に聴かせてもらいました。もしかして、まずかったですか?」
「いいよ、べつに……あたしのじゃないし」
 私は[素{そ}]っ[気{け}]なく首を振る。そして次の瞬間、わっ、と勢いよく立ち上がった。のんびりうたた寝している場合ではないと思い出したのだ。
「あれ? どこかに出かけるんですか?」
 慌ただしく身支度を始めた私を見て、セイが不思議そうに尋ねてくる。
「学校!」
 どうして起こしてくれなかったのか、と八つ当たり気味の口調で私は叫んだ。普段より少しだけ早く起きたのが裏目に出た。シリアルだけの簡単な朝食を済ませて制服に着替えたあと、うっかり二度寝してしまったのだ。
「あなたはいいの? 学校とか、行かなくて?」
 スマホと財布を通学用のリュックに突っこみながら、私はふと顔を上げてセイに訊く。
「うーん、どうなんでしょう?」
 セイは頼りなく小首を傾げて、他人事のように呟いた。
「わかるわけないか。記憶喪失だもんね」
 私は意地悪な口調で言った。セイの[無頓着{むとんちゃく}]な態度が、少しだけ気に[障{さわ}]ったのだ。
 しかしセイは気にした素振りも見せず、玄関に向かう私を呼び止める。
「あ、[結花{ゆいか}]さん。待ってください」
「え?」
「今日はニワトリの鳴き真似を試してみるといいと思いますよ」
「……なに、それ? 占い?」
「ラッキーアイテムはイワシの頭です」
「いや、それアイテムって言わないから」
 どういう理屈でそうなったんだよ、と心の中でツッコミながら、私は玄関を飛び出した。

    ☆

 アメノセイと出会ったのは、一昨日の夕方。学校帰りに立ち寄ったスーパーからの帰り道だった。線路の高架下のトンネルの中で、セイは突然、私に話しかけてきたのだ。
「ボクのことを、呼びましたか?」
 それが私に対するセイの第一声だった。
「え?」
 そのときの私は、思いきり無愛想な目つきをしてたんじゃないかと思う。ナニイッテンダコイツ、というのが、いきなり声をかけられた私の正直な感想だった。
 しかしセイは、なにかを期待したようなキラキラとした眼差しを私に向けていた。
「今、名前を呼ばれたような気がしたんです。とても大切な、懐かしい名前を」
「べつにあなたのことなんて呼んでないけど。雨のせいで迷惑だな……って言っただけで」
 私は立ち止まって、目の前の大きな水たまりを指さす。
 無視して通り過ぎようと思わなかったのは、セイがいかにも[人畜{じんちく}]無害な、人懐こい雰囲気を[漂{ただよ}]わせていたせいだった。なにか困っているようにも見えたし、ナンパ目的の男たちのような、がっついた気配も感じない。
「雨のせい……あめの……せい……」
 セイは真面目な表情で、私の言葉をぶつぶつと繰り返す。
「もしかしてそれがあなたの名前? アメノセイっていうの?」
 私はなんとなく興味を覚えて訊いてみた。
 不思議な響きだが、変わっているというほどでもない。アメノという苗字もセイという名前も、ごく普通にありそうだ。雨野誠……聖、星、いや、晴だろうか。
「うーん……そう、なんですかね。聞き覚えがある気はしますけど」
 私の言葉を[反芻{はんすう}]するように、セイは真顔で考えこむ。
「は? どういうこと? 自分の名前でしょ?」
「アメノ……セイ……ボクの名前……」
「覚えてないの?」
 呆れたように訊き返す私に、セイはあっさりとうなずいた。
「はい。なにも」
「なにも……って、全部忘れてるってこと?」
「そうみたいです」
「自分がどこの誰かもわからないわけ?」
「ええ、まあ」
「記憶喪失?」
「ああ……!」
 それです、それ、とセイが納得したように手を叩く。私は軽く[苛{いら}][立{だ}]って溜息をついた。
「ああ、じゃなくてさ」
「なんとなく、なにかやらなきゃいけないことがあるのは覚えてるんですけど」
「いや、そんなの覚えてるうちに入らないし」
「ですよね……」
 私に強い口調で否定されて、セイはしゅんと肩を落とす。
「大丈夫なの、それ? 頭とか打ってない?」
 さすがに少し心配になって、私はセイの頭に手を伸ばす。外傷性の記憶喪失だとしたら、脳がダメージを受けてるということだ。最悪、命に関わるかもしれない。
「ここ……[腫{は}]れてるよね。こぶ……っていうか、ツノみたいな」
「あ、本当だ……ちょっとカッコイイですよね、これ」
 ツンと[尖{とが}]った前髪の部分に触れて、セイはなぜか得意げな顔をする。
「そんな[呑気{のんき}]なこと言ってる場合じゃないから。痛くないの?」
「はい。全然」
「本当に……?」
 平然としているセイのツノに、私は[怖{お}]ず[怖{お}]ずと触れてみた。柔らかくも硬くもない不思議な手触りだ。中学時代の修学旅行で訪れた、奈良公園の鹿の角をなんとなく思い出す。
「熱は……ないみたいだね。病院、行く?」
 病院という言葉が出た途端に、セイはぶるぶると首を振った。私は頬に手を当てて考えこむ。
 セイのツノは昨日今日に出来たという感じでもないし、ひとまず放っておいてもいいのかもしれない。だいたい本当に記憶喪失だとして、いったいどこの病院に行けばいいのか。
「まあ、なんにしても、早めに家に帰ったほうがよくない?」
「家……ですか?」
 セイがなぜか意外そうに目を瞬いた。
「自分の家も思い出せないの?」
 私は[鈍{にぶ}]い頭痛を感じた。考えてみれば当然のことだ。自分の名前すら忘れているのに、住所を覚えているはずもない。
「うち来る?」
 私はほとんど溜息のような口調で訊いた。え、とセイが不思議そうに眉を上げる。
「自分ん[家{ち}]がどこにあるかもわからないんでしょ。とりあえず今夜はうちに泊まってけば、って言ってるの。もう、暗いし」
「いいんですか?」
「いいけど、おもてなしとか、そういうのは期待しないでよね。食事だってこんなんだし」
 私は、手に持っていた買い物袋をセイに突きつける。中身はスーパーで買った半額セールのお弁当と[お惣菜{そうざい}]だ。
「――ねえ、あなたって、男の子? 女の子?」
 私はふと大事なことを思い出して、セイに訊く。自分から誘っておいて今更だが、さすがに見知らぬ男子を家に入れるのは問題ではないかと思ったのだ。
 しかしセイはその質問に、本気で困惑したように考えこむ。
「どっち……なんでしょう?」
「はあ?」
 真顔で訊き返してくるセイを睨んで、私は腹の底から深々と[嘆息{たんそく}]した。
「もういいよ。どっちでも」

    ☆

「[高津{たかつ}]ぅ……高津[真帆{まほ}]は、今日も欠席かぁ?」
 クラス担任の[中原{なかはら}]が、間延びした口調で生徒の出欠を確認する。その中原の目を盗んで、後ろの席の[麻生{あさお}]ユキが私の背中をつついてきた。
「ねえ、結花」
「んー?」
「高津真帆、なにやってるの? 一週間くらい見てない気がするけど」
「わかんない」
 私は、さりげなく振り返って小声で言った。幸いにも教室内がざわついているので、私たちの会話には誰も気づいていない。
「あんたも知らないの? 喧嘩した?」
「違うけど、しばらく会えないって言われてて」
「えー……なになに? どういうこと?」
「真帆、家にこもって勉強するんだって。模試の対策」
 しつこく追及してくるユキに、私は渋々と説明する。
「なんだよー。うちらみたいなのと一緒にレベルの低い授業なんか受けてられないって?」
「そうは言ってなかったけど」
 歯切れの悪い口調で私が言うと、ユキは皮肉っぽく唇を曲げた。
「でも同じことじゃん。さすがはお嬢様ですなあ」
「だから、そういうんじゃなくて。ほら、真帆、留学しろって親に言われてるらしいし」
「あー……高津のお母さん、厳しいもんね。中原はそれ知ってるの?」
 ユキの声に同情するような響きが混じった。私は小さく首を振る。
「知らないと思う。学校には言えないよ、授業さぼって留学の準備とか」
「でも、とりあえず生きてはいるんだ」
「そりゃ生きてるでしょ」
「いやいや、わかんないよ。最近、[物騒{ぶっそう}]な事件が多いし。引き籠もりの子どもを親が刺したり刺されたりとかさー」
「やめてやめて。怖い怖い」
 冗談めかしたユキの言葉に、私はわざとらしく怯えてみせた。ユキはひとしきり満足そうに笑って、それから[気{け}][怠{だる}]げに頬杖を突く。
「でも、そっか。残念だな。例の大学生の話、聞きたかったんだけどな」
「大学生?」
「ほら、高津んとこの家庭教師」
「ああ……」
 親に無理やり家庭教師をつけられたのだと、真帆が愚痴っていたことを私は思い出す。ちょうど先月あたりから授業が始まっていたはずだ。
「けっこうイケメンなんだって。ちょっと会ってみたくない?」
「どうかな……写真見せてもらったけど、あたしは好きじゃないな、ああいうの」
 私は正直に思ったことを口にする。たしかに顔立ちは整っていたし、きっと頭もいいのだろうが、なんとなく嫌な感じがしたのだ。
「おー、[嫉妬{しっと}]か? 高津を取られちゃうかもしれないから?」
 ユキがニヤニヤと笑って私をからかう。
「なんだよ、それ」
 ユキの言葉を[鬱陶{うっとう}]しげにあしらいながら、心のどこかで、そうなのかもな、と私は思った。

    ☆

 放課後。学校から帰ってきた私を、セイはマンションの門の前で待っていた。
「ああ、結花さん。お帰りなさい」
「ん、ただいま……って、なにやってんの?」
 [所在{しょざい}]なげに膝を抱えているセイを、私は[怪訝{けげん}]な顔で見下ろして訊く。セイはマンションの自動ドアを、どこか恨めしげに振り返って[睨{にら}]み、
「外に出たら、入れなくなってしまって」
「この建物、オートロックだって言わなかったっけ?」
 私はやれやれと肩をすくめて、マンションのカードキーを取り出した。ドアを開けて建物に入る私に、セイは当然のようについてくる。手のかかる野良猫を拾った気分だ。
「なんで外に出ようと思ったわけ?」
 エレベーターの到着を待ちながら、私は責めるような視線をセイに向けた。セイは、なぜだろう、と自分でも不思議そうな表情を浮かべて、
「ちょっと、探しものに」
「……記憶、戻ったの?」
 私は驚いて目を見張る。しかしセイはあっけらかんと首を振った。
「いえ。それは全然」
「でもなにを探すのかはわかってるんでしょ?」
「うーん……」
「わかってないのに探しに行ったのかよ……見つかるわけないじゃん」
 私は[殊更{ことさら}]にうんざりした表情を浮かべた。
「そうですよね……でも、早く見つけなきゃって思ったんです。とても大切なことだから」
 セイは普段どおりに淡々とした――だが、どこか思い詰めたような口調で呟いた。
 私はそっと溜息をついて、自宅のドアを開ける。
「……入れば?」
「お邪魔します」
「はい、これ」
 無遠慮に部屋に上がってきたセイに、私は持っていた買い物袋を押しつけた。セイは戸惑いながらそれを受け取って、
「なんですか?」
「あなたの夕飯。イワシ、食べたいんじゃなかったの?」
「ボク、そんなこと言いましたっけ?」
「言った」
 今朝、セイが語った占いめいた言葉を、私は夕飯のリクエストだと解釈したのだ。
「でもこれ、イワシじゃなくてサンマですよ」
「似たようなものでしょ」
 私は強引にそう主張する。スーパーのお[惣菜{そうざい}]コーナーに、イワシが売ってなかったのだから仕方ない。
「結花さんは食べないんですか? 一匹だけしかないですけど……」
 そのまま制服を着替えに行く私に、セイがわざわざ訊いてくる。
「あたしはいいや。魚食べるの下手だから」
「美味しいですよ。健康にもいいですし。イワシに含まれているオメガ3脂肪酸には、認知症の予防や、記憶力を高める効果があるらしいですよ」
「記憶喪失の人にそんなこと言われても……てか、ついてくんな!」
 私はセイを追い出して、自室のドアを乱暴に閉めた。
 自分以外の人間が家の中にいるという状況にまだ慣れていないので、どっと疲れる。だが、不思議と悪い気はしなかった。
 部屋着に着替えてリビングに戻ると、セイは食事の支度をしながら、ご機嫌で鼻歌を歌っていた。今朝、オルゴールで流れていたあの曲だ。
「その歌、気に入ったの?」
 私は特に意味もなく訊いてみる。セイは迷いなくうなずいて、
「綺麗な曲ですよね。誰が歌ってるんですか?」
「誰でもないよ。それってボカロ曲だから」
「ぼか……ろ?」
「ヴァーチャルシンガーってやつ。本当の人間じゃなくて、そういうプログラムが歌ってるの」
 私はスマホを操作して、動画配信サイトのアプリを立ち上げた。ヴァーチャルシンガーの女の子が歌っているMVを検索して、セイに渡す。
「これってプログラムの声なんですか」
 初めて耳にする電子の歌声を、セイは興味深げに聴いていた。記憶喪失のくせにプログラムはわかるのか、と私は変なところで感心する。が、
「それで、そのヴァーチャルシンガーの人はどこにいるんです?」
「どこ……って、インターネットの中でしょ」
 やっぱりコイツなにもわかってないな、と私はすぐに認識を改めた。
 セイはきょとんと目を丸くして私を見る。
「インターネット?」
「この画面の中。電子の海ってやつ」
「へえ……こんにちは、ボク、アメノセイっていいます」
 ヴァーチャルシンガーの女の子に向かって、セイが愛想よく呼びかけた。
 いやそうじゃない、と私は言いかけて、まあいいか、と途中で思い直す。本人が満足しているのだから、無理に訂正する必要もないだろう。
 それからしばらくの間、セイは喰い入るように少女のMVを見つめていた。だがその少女の歌声は、唐突なニワトリの鳴き声で中断される。スピーカーから流れ出した謎の異音に、セイは硬直して動きを止めていた。
「い、今の音はなんですか?」
「スマホの通知。たぶん、ママから」
 私は画面を確認もせずに、買い物袋から取り出した炭酸水を[啜{すす}]った。
 セイの占いとやらを本気で信じたわけではなかったが、なんとなく気分で、スマホの着信音をニワトリの鳴き声に変えておいたのだ。慌てふためくセイの姿が見られて、たしかに少しだけ得した気分になる。
「えーと、返事しなくていいんですか?」
「どうせいつもと一緒だから。今日も帰らないって連絡だけ」
「それってちょっと寂しいですね」
「べつにいい。慣れてるし。お姉ちゃんが死んでからずっとこんな感じ」
 平坦な口調でそう言いながら、私はテーブルに置かれたオルゴールを見た。それはあの人が好きだった曲だ。
「お姉さん、亡くなったんですか?」
「交通事故。べつによくある話だよ。できのいい姉が死んで、どうでもいい妹が生き残って、そのせいで両親が喧嘩して別居状態。この家に帰りたくないんでしょ」
 寒々しいリビングを見回して私は笑う。最後にここに家族全員が揃ったのがいつだったのか、私にはもう思い出せない。
「仕方ないよね。あの[両親{ヒト}]たちの気持ちもわかるもん。お姉ちゃんは美人で賢い自慢の娘だったから。あたしにもいつも優しかったし」
「結花さんも優しいですよ」
「いや、そういうのいいから」
「サンマも買ってきてくれましたし」
「そんな雑な理由かよ」
 私は顔をしかめて苦笑した。
「まあいいや。セイもあたしが嫌になったら出て行っていいからね。身近な人が、突然いなくなるのは慣れてるから。真帆だって……」
「引き止めなかったんですか」
 セイが私の言葉を遮って訊き返してくる。
「……え?」
「ご両親が出て行くのを、どうして引き止めなかったんですか?」
「そんなこと……できるわけないじゃん。ガキじゃないんだし」
 私はセイから目を逸らして、半ば自分に言い聞かせるように吐き捨てた。セイはそんな私を、気遣うようにジッと見つめて、
「言いたいことはちゃんと言葉にしないと伝わりませんよ」
「生意気……記憶喪失のくせに」
 私は思わずムッとしてセイの頭をぐりぐりと小突いた。セイが情けない悲鳴を上げる。
「あ……ちょっと、ツノはやめてくださいよ。そんなとこ握っちゃダメですってば」
「はー……バカバカしい」
 セイの髪から手を離し、私は、はあ、と天井を[仰{あお}]いだ。自分の性別すらわかってないような子にお説教されて、なにも言い返せない私が馬鹿みたいに思えてくる。
 MVの再生は、いつの間にか終わっていた。テーブルに置かれたスマホを回収しようとして、私は何気なくその画面に目を留める。
 動画の再生画面に重なるようにして、メッセージの着信が通知されている。その差出人の名前に気づいた瞬間、私の心臓が大きく撥ねた。
「結花さん?」
 表情を[強{こわ}][張{ば}]らせた私を見て、セイが心配そうに呼びかけてくる。しかし私はなにも答えない。ただ独り言のように[呆然{ぼうぜん}]と[呟{つぶや}]くだけだ。
「このメッセージ……どうして……?」
「お母さんからじゃなかったんですか?」
「うん、違う……違うけど……」
「なにかあったんですか?」
 セイの口元から微笑みが消えた。私は曖昧に首を振って立ち上がり、もう一度制服に着替えるために自室に戻る。このまま食事を続ける気にはなれなかった。胸の奥がざわついて、いてもたってもいられない。
 メッセージの差出人は真帆だったのだ。ただし送られてきた本文は空だ。その無言のメッセージが、私には彼女の悲鳴のように感じられた。
「出かけてくる」
 着替えを終えて出てきた私は、セイに一方的にそう宣言した。
「もうわりと遅い時間ですよ」
 セイが妙に常識的な態度で言ってくる。
「それでも真帆と話がしたいの。友達だから」
「友達……」
 セイはなにかに気づいたように、不意に真顔になって私を見た。
「ボクもご一緒していいですか?」
「は? いや、ダメでしょ。あなたが真帆と会ってどうするのよ」
「あー……友達の友達はみんな友達、みたいな感じで」
「いつからあたしがあなたの友達になったわけ?」
「でもほら、真帆さんと話してるうちに、ボクの記憶が戻るかもしれませんし。もしかしたら生き別れの家族という可能性も――」
「ないない。いいから、おとなしくうちで待ってて」
 なぜか必死で喰い下がってくるセイを、私は冷たく突き放す。セイは不満そうにうな垂れて、
「じゃあ今日のアメノセイ占い」
「いや、それ、今朝も聞いたし」
「双子座のあなた。ラッキョウの皮を[剥{む}]くときには、ミカンを買ったときについてくるネットを使うといいですよ。ラッキーアイテムはヒイラギの小枝です」
「要らないなあ、その情報……ていうか、あたし、双子座じゃないから」
 根本的な間違いを指摘しながら、私はセイを置いて家を出た。

    ☆

 真帆の自宅は、高台の住宅街にある庭付きの一戸建てだった。大豪邸というわけではないが、そこそこ立派なお屋敷だ。しかし建物の明かりは消えたままで、人の気配は感じない。夜の闇に溶けこんでいるような、どこか不気味な印象を受ける。
 このまま逃げ出したいという本能的な衝動に逆らって、私は高津家のチャイムを鳴らした。しばらく待って、もう一度。しかしインターホンの応答はない。
 出かけているのかもしれないと思いつつ、私は未練がましく門の前で立ち尽くす。
 そのとき静まりかえった屋敷の中から、乱暴な物音が聞こえた気がした。なにか重いものを壁にぶつけたような音だ。
「すみません、高津さん! [宮前{みやまえ}]ですけど、真帆さんはいますか?」
 私は屋敷の中に向かって、大声で叫んだ。その瞬間、ギシ、と[軋{きし}]むような音を立てて鉄製の門扉が内側へと開く。まるで私を招き入れているかのようだった。
「……鍵、開いてる?」
 高津家の玄関が施錠されていないことに気づいて、私は躊躇なく中へと踏みこんだ。
 屋敷の中は暗く、ねっとりとした濃密な闇に包まれている。かろうじて壁の見分けがつく程度で、邸内の様子はほとんどわからない。
「真帆、いるの? あたし! 結花だけど!」
「ダメ!」
 私が玄関から呼びかけると、廊下の奥から強い拒絶の言葉が聞こえた。来訪を嫌がられたことよりも、返事があったことに私は安堵する。
「……真帆?」
「結花、来ないで! 早く逃げて!」
「え……?」
 帰れ、ではなく、逃げろ、と真帆に言われて、私はひどく混乱した。なにかこの闇の向こう側に、とてつもない恐怖が潜んでいるという予感がある。
「いいじゃないか、お友達なんだろ? 入ってもらおうよ」
 闇の中から声がした。私の知らない男の声だ。どこか粘り着くような不快な声だった。
「ダメ、結花! 早く出て行って……!」
 私に警告する真帆の声が、途中で弱々しい悲鳴に変わる。
 その直後、私の背後で玄関ドアが勝手に閉まった。逃げ道を断ったつもりなのかもしれない。それならそれで構わない、と私は暗い廊下へと足を踏み入れた。
「真帆! どこ⁉︎」
 スマホの画面の明かりを頼りに、屋敷の奥へと進んでいく。高津家の間取りは、私が前に遊びに来たときと大きく変わってはいなかった。ピアノが置かれた広いリビング。いかにも高価そうな応接セット。革張りの大きなソファの前に、うつ伏せに倒れている人影が見える。真帆ではない。真帆のお母さんだ。
「おばさん⁉︎」
 私は小さく息を呑み、横たわる彼女の隣に[屈{かが}]みこんだ。暗闇の中でもはっきりとわかるほど、真帆のお母さんは衰弱していた。頬がこけ落ち、肌は老女のように[干{ひ}][涸{か}]らびている。それでも彼女はまだ生きていた。急いで病院に運べばどうにかなるはずだ。問題なのは、なぜ真帆が、自分の母親をこんな状態で放置しているのかということだった。
「どうしてこんな……真帆……」
 私は声を震わせた。その直後、背後で誰かの気配を感じた。
「ようこそいらっしゃい、真帆ちゃんのお友達」
 振り返ると、闇の中に[なにか{・・・}]が立っていた。背の高い若い男性と、その男に引きずられている髪の長い少女――真帆だ。
「結花……逃げて……」
 真帆が弱々しい声で言う。その姿を見て私は息を呑んだ。今の真帆は、私の知っている彼女ではなかった。血の気をなくした青白い肌。純白の髪。[眦{まなじり}]は獣のように吊り上がり、唇からは長い牙がのぞいている。そして額に生えているのはまぎれもないツノだった。そこにいたのは、真帆の姿をした鬼だ。
「真帆⁉︎ あなた……真帆になにをしたの……⁉︎」
 私は、闇の中の男を睨みつけた。薄笑いを口元に貼り付けた、その男の顔には見覚えがあった。高津家に雇われた大学生。真帆の新しい家庭教師だ。
「俺は彼女の願いを叶えてあげただけだよ」
 やけに赤い唇を吊り上げて、男は得意げに答えてくる。
「真帆の……願い?」
「そう。彼女は強くなりたかったんだ。怖い怖いお母さんにも、はっきり自分の意見を言えるようにね」
「だから……そんな姿に変えたの……? あなた、何者?」
「それは俺にもよくわからないんだ。この身体の元の持ち主は喰っちまったしね」
 男は自分の頭をガリガリと掻きむしりながら笑った。
「でもまあ、自分がなんて呼ばれていたかは覚えてる。[魍魎{もうりょう}]……[妖{あや}]かし……それから、鬼」
「……鬼?」
 私はかすれた声で呟いた。男の言葉はすっきりと[腑{ふ}]に落ちた。姿が変わってしまった真帆よりも、闇の中で笑っているこの男のほうが、遥かに鬼という言葉に相応しく思える。
「そんなに怖がらなくても大丈夫さ。きみも俺たちと同じ側にくればいい。[愉{たの}]しいぜ。他人を[煽{あお}]ったり[嘲{あざけ}]ったり[蔑{さげす}]んだり[罵{ののし}]ったり、陰からこっそり人を操って、幸せそうな連中に石を投げるんだ。大丈夫、ほかの奴らに俺たちの姿は見えない。俺たちは名もないただの鬼だから」
「真帆っ⁉︎」
 男は髪をつかんで引きずっていた真帆を、乱暴に投げ捨てた。真帆は、悲鳴を上げることもできずに壁に叩きつけられる。男はそのまま足音もなく、私のほうへと近づいた。
「こ……来ないで……!」
 後ずさりしようとした私の頭を、男は片腕でわしづかみにした。もの凄い力で引き寄せられて、私は苦悶のうめきを漏らす。男はびちゃびちゃと[舌{した}][舐{な}]めずりしながら歯を剥いた。そして私の首筋に顔を寄せてくる。
「きみにだって暗い感情のひとつやふたつ、あるだろ? 姉だけを溺愛して自分を愛してくれない母親に対する怒り? 愛人を作って家を出て行った父親への憎しみ? それともなんでも持っていた優秀な姉に対する妬みかな? 彼女がいなくなってホッとしたんじゃ――」
「やめて……っ」
 抵抗しようともがく私を、男は乱暴に壁に押しつけた。私の手脚から力が抜ける。男はそれを確認してカッと[顎{あご}]を開き、その瞬間――ニワトリの鳴き声が聞こえた。
「……っ⁉︎」
 朝の訪れを告げるような唐突な鳴き声に、男が怯んだように固まった。私の手脚に力が戻り、それを自覚する前に私は男を突き飛ばしていた。
「真帆! 来て!」
「結花⁉︎」
 倒れていた真帆の手を強引につかんで、私は屋敷の外へと走り出す。
 私が握っていたスマホには、新しい通知が届いていた。母親からのいつものメッセージ。その着信音があの男を[怯{ひる}]ませたのだ。
「無駄だ、逃げられないさ! 自分の弱さからは逃げられない!」
 屋敷を飛び出した私たちの背中に、男の声が響いてくる。私たちは夜の街をあてもなく必死に逃げ続ける。追いつかれたら今度こそおしまいだ。男に噛まれて、私も鬼に変えられてしまうのだろう。そうなる前に誰かに助けを求めなければ。だけど、いったいどこの誰が鬼から救ってくれるというのか――
「あ、結花さん」
 息を切らして走り続ける私たちの耳に、緊張感のない声が聞こえてくる。
 住宅街の中の小さな公園に立っていたのは、頭に頑固な寝癖をつけた小柄な影。  家に置いてきたはずのセイだった。

    ☆

「セイ⁉︎ なんで、こんなとこにいるの⁉︎」
 自分が追われていることも忘れて、私は大声でセイを問い詰めた。
 私に手を引かれていた真帆が、[咄嗟{とっさ}]に自分の顔を隠そうとする。しかしセイは、[変貌{へんぼう}]した真帆を見ても驚かず、普段と同じように人懐こく微笑んだ。
「一度外に出たら戻れなくなってしまって……オートロック……でしたっけ?」
「とにかく、あなたも逃げて、セイ! でないと……」
「いえ。もう大丈夫ですよ、結花さん」
 焦る私を優しく見つめて、セイはにこやかに首を振る。
「それに、思い出したんです。ボクがなにを探していたのか」
「え?」
 そのときになって私はようやく気づいた。セイの服装が普段と違っている。
 彼が着ているのは幾何学模様めいた不思議な柄の上着ではなく、神社の神職のような和装の礼服。平安貴族が着用していたという、たしか、そう――[狩衣{かりぎぬ}]だ。
「結花さんたちはここにいてください。この木のそばなら安全ですから」
 セイは公園の木の下に、私と真帆を座らせた。そして少し背伸びして、緑の葉をつけた木の小枝を一本、手折る。[鋸{のこぎり}][歯{ば}]のような棘を生やした葉っぱ。ヒイラギの木の枝だ。
「セイ……⁉︎」
 不安げに呼びかける私を見て、セイは、静かに、と人差し指を立てた。そして彼は公園の入り口へと目を向ける。ちょうど真帆の家庭教師の男が、私たちに追いついてきたところだった。
「女の子たちはどこだい?」と男が言った。
「どこだと思います? 占ってみましょうか?」
 セイがすっとぼけた口調で訊き返す。男の顔から笑みが消え、獣めいた素顔が[露{あら}]わになる。
「邪魔をすると痛い思いをすることになるよ」
「痛いのは嫌ですね。でも、大丈夫。あなたは、ボクがここで封印しますから」
「封印だって……?」
 男が嘲るように唇を[歪{ゆが}]めた。だが、その嘲笑はすぐさま凍りつく。セイが軽く手を叩くと、青白い炎のような輝きが地面に広がったからだ。炎は五筋の直線となって、男を取り囲むような幾何学図形を描き出す。中心に五角形が現れる星形。五芒星だ。
「この[験力{げんりき}]……その[角{ツノ}]……おまえも鬼か⁉︎」
 自ら鬼を名乗る男が、驚愕の声で問いかける。
「すみません、そういうのよくわからないんですよ。記憶がどうも[曖昧{あいまい}]で」
 セイはやはり他人事のように素っ気なく言った。
「だけど安心してください。自分がやるべきことはわかってますから」
「この臭い……!」
 五芒星に囲まれた空間に、白い煙が立ちこめる。男はその煙に激しく咳きこみ、セイを忌々しげに睨めつけた。
「あれ……動けるんですか? やっぱりサンマの頭じゃ今イチでしたね。イワシじゃないと」
 セイは当てが外れたというふうに、指を鳴らして煙を消す。そして先ほど手折ったヒイラギの小枝を、刀剣のように構えて男の胸元へと向けた。
「では、これならどうですか?」
 セイが冷ややかに言い放つと同時に、ヒイラギの葉が無数の針へと変わった。それらは銀色の閃光となって撃ち放たれ、五芒星に[囚{とら}]われた男を刺し貫く。
 その瞬間、私は思い出していた。イワシの頭、ヒイラギの葉。そして朝の到来を告げるニワトリの声。それらはすべて鬼の弱点。鬼を撃退するために使うものだ。セイが占いとして語っていたのは、本当に私を救うための幸運のアイテムだったのだ。
「そうか……おまえは[使鬼{シキ}]……あの男が遺した式神か……!」
 光の針に貫かれた男が、青い炎に包まれながら[苦悶{くもん}]の声を出す。
「式……神……?」
 私は、狩衣を着たセイの背中を呆然と眺めた。セイが地面に描いた五芒星。私はその紋章を知っていた。修学旅行で訪れた、京都の神社で見かけたのだ。
 そのお社は、そう、[晴明{せいめい}]神社と呼ばれていた――
「あの男……陰陽師……ア[ベ{メ}]ノセイ…………メイ……の……」
 炎に包まれた男の姿は、灰すら残さずに燃え尽きて消える。
 彼が言い残した最後の言葉もまた、風にかき消されて聞き取ることはできなかった。

    ☆

「真帆、明後日には退院できるって」
 長い夜が明けた翌日の昼下がり、私は、セイと二人で川沿いの道を歩いていた。
 入院中の真帆たちのお見舞いに行った帰り道だ。
 昨夜、公園で男が消滅した直後、異形と化していた真帆も元の姿に戻っていた。ただひどく衰弱していたために、そのまま彼女たちは病院に運ばれて入院することになったのだ。
 真帆も彼女の母親も、ここ一週間ほどの出来事はなにも覚えてないらしい。家庭教師の男の痕跡も、綺麗さっぱり消えていた。それでよかったのかもしれない、と私は思う。記憶喪失というやつも、そう悪いことばかりではないのだ。
「真帆のお母さんもしばらく休めば大丈夫って話だし、セイのおかげだよ、ありがとう」
「お役に立てて、よかったです」
 礼を言う私を見返して、セイは少し照れたように微笑んだ。今日のセイはいつもの服装だ。夕べはいつどこであの狩衣に着替えたのか、セイ本人にもよくわかってないらしい。
「もう……行っちゃうんだ?」
 最初にセイと出会った高架下のトンネルが見えてきたところで、私は足を止めて、ぽつりと訊いた。なんとなくそんな予感がしたのだ。
「そうですね。ここでボクがやるべきことはもう終わりましたから」
 心なしか寂しげな口調でセイが言う。
 私は立ち止まったままうなずいた。
 そう。セイがこの街に送りこまれたのは、あの鬼を名乗る妖かしを封印するためだったのだ。
 真帆に取り[憑{つ}]かれた妖かしの残り香が、私にも少しだけ移っていた。セイは無意識にそれを[嗅{か}]ぎ分けて、私を監視することにしたのだろう。私はセイの面倒を見ているつもりで、ずっとセイに守られていたというわけだ。
 友達の友達はみんな友達、とセイが口にした言葉を思い出す。私が真帆と友達で、その私とセイが友達になったから、私は真帆を助けることができた。
 だから、これでよかったのだ。たぶん、きっと。
「最後に、今日のアメノセイ占い。乙女座のあなた、ご両親に素直な気持ちを打ち明けてみるといいでしょう」
「だからあたしは乙女座じゃないって」
 相変わらず適当なセイの占いに、私は苦笑しながらツッコミを入れた。
「また会えるかな?」
 役目を終えた式神はどうなるのか。私と友達だったことすら忘れて、このまま消えてしまうのではないか――ふと、そんな不安に襲われて、私は声を震わせた。
 そんな私にセイは優しく告げてくる。
「式神の式というのは、数式の式と同じ意味なんです。[程式{ていしき}]の式ですよ」
「……程式?」
「プログラムという意味です」
「え?」
 私は大きく目を開けてセイを見た。セイは午後の陽射しの中で、微笑んで手を振っている。
「さようなら、結花さん。またいつか……そう、電子の海でお会いしましょう」
 彼が言い終える直前に、強い風が吹いて私は目を閉じた。
 そして再び目を開けたとき、そこにはもうセイの姿はなかった。
 私はその場に立ち尽くしたまま、高架上を電車が走り去る音を聞いていた。 
「さよなら、セイ。あたしの友達」
 よく晴れた青空を見上げて息を吐き、私は一人きりでトンネルの向こう側へと歩き出す。
 誰かの歌声が聞こえた気がした。
 どこか懐かしく優しい声だった。

    *

【あとがき】

 [三雲{みくも}][岳斗{がくと}]です。主に小説などを書いています。
 一周回って意外性があるような気がして、セイくんにはごりごりの青春伝奇ストーリーに出演してもらいました。オチがダジャレじゃねーかと怒られそうな気もしますが、セイくんには和装も似合うと思ったんです。
 楽しんでいただけたら幸いです。

MIKUMO Gakuto
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