著者/蒼山サグの作品 「追憶の雨」(試し読み)

 忘れたくても忘れられない負の記憶が『心の[怪{け}][我{が}]』として認知されたのは、もうずっと前の話だ。
 いわゆるトラウマとか、PTSDとか。そういう呼び名が与えられたという意味ではない。それはもっと、ずっと前の話。
 そうじゃなくて、ついに私たちは手に入れたのだ。心に受けた傷を物理的に治療する方法を。治療できるならば、身体の怪我と変わらない。
 だからもはや、負の記憶は『心の怪我』でしかなくなったということ。たとえどんなに重く、苦しく、あらゆる生の[渇望{かつぼう}]を[奪{うば}]い去ってしまうような[凄惨{せいさん}]なできごとにさえ、恐れる必要はなくなった。私たちはいつでも、暗い海の底から[這{は}]い上がるための光を手に入れた。
 治療は、記憶の部分除去によって行われる。
 脳神経とナノマシンの研究が進みに進んだ結果、あるひとつの記憶だけをピンポイントに、まるでコンピュータのファイルをごみ箱に放り込むかのごとく、消し去ることが可能になったのだ。
 だから辛い思い出だけを除去して、患者は日常生活に復帰できる。言語や、必要な人間関係や、仕事や学業のスキルなんかはそのままに、希望に[溢{あふ}]れた毎日を取り戻す。そんな夢物語だったことが、[叶{かな}]わぬ夢ではなくなった。
 人類は、あくなき探究心でまたひとつの進化を遂げた。
 そう信じていられた時間は、思っていたほど長く続かなかった。
 記憶除去治療を受けた最初の元患者が飛び降り自殺を計り、天に召されたのは手術からちょうど二年後のできごとだった。その時にはもういろんな国で治療は実用化されており、やがて世界各地で同時多発的に、元患者の自殺が相次いだ。
 記憶の除去を行った人の心は、ある日を境に壊れてしまう。取り返しがつかないほどに。
 その理由について、有効な研究結果は出ていない。原因を探るよりも真っ先に、記憶除去治療は[禁{きん}][忌{き}]として完全に封印されてしまったから、もはや臨床もできないし、突き止めたところで誰の得にもならない。
 記憶除去治療は、人類にとって化学兵器に並ぶほどの負の遺産として認知された。
 けれども、一度生まれてしまった技術を根絶することは難しい。できるならば、やる。善悪を問わず、そう考える存在を封印することができないのは、『好奇心』を原動力として生きてきた人間の[性{さが}]みたいなものかもしれない。
 だから、記憶除去治療は闇に[潜{もぐ}]った。
 法や国家に反旗を[翻{ひるがえ}]す反社会的組織の手によって、その技術は[極{ごく}][秘{ひ}][裏{り}]に活かされている。
 私もまた、そんな反社会的な存在の一人。こちら側では『飛ばし屋』と呼ばれている、記憶除去治療のノウハウを持った技師だ。
 私はこれまで何人もの記憶を飛ばし、その後彼らは彼ら自身で高いところから飛んでぐちゃぐちゃの[肉塊{にくかい}]だけを残した。例外はない。
「そのことを知った上で、記憶除去治療を受けたいと? 本気で?」
「はい、本気です」
 診療室の[椅{い}][子{す}]に腰掛けた少年……いや、もしかすると少女かもしれない。この日[訪{たず}]ねてきた若者は、[朴訥{ぼくとつ}]に[頷{うなず}]いた。
 余談に過ぎないが、私は顧客の名も性別も尋ねない。治療に不必要な情報だし、なにより余計な感情を抱かずに済む。私自身もさっさと忘れてしまいたいのだ。どうせ永遠に再会することのない人間の詳細なんて。
「念のため言うけど、死ぬよ?」
「それなんですけど、僕に持論があるんです」
「持論?」
「はい。今までの人は、中途半端だったのがよくないんじゃないかと」
「……………………」
 私はもう一度、若者がしたためた問診票に目を落とした。
 若者の希望する治療内容は『言語能力を除いた全記憶の消去』。
「[詮索{せんさく}]するのは好きじゃないんだけど、いったいどんなヒドい目にあったのやら」
「いえ、今までの人生はわりと幸せな方だったんじゃないかって思います。身寄りはないですけど」
 またしてもあっけらかんとした返事。私はもう一度その若者の顔を見た。[滅{めっ}][多{た}]にないことだ。
「ふうん。で、中途半端って?」
 なんとなくバツが悪くなって目を[逸{そ}]らしつつ、私は話を戻した。
「ええと。[上{う}][手{ま}]くは説明できないんですけど、記憶が残ってるところと残ってないところがツギハギになっちゃったせいで、時間が経つとそこから何かが[漏{も}]れちゃったりするんじゃないかなって」
「何か、ねえ」
「で、漏れちゃったせいで壊れちゃうんじゃないかなって。心が」
「だから、全部消しちゃえば問題解決って言いたいの?」
「はい、おそらく!」
 私はため息をもらした。若者の独自理論についてはなんの興味もない。合っていようがいまいがどうでも良いことだ。[九{く}][分{ぶ}][九{く}][厘{りん}]間違っている方に[賭{か}]けるが。
 それ以前の問題として、若者の行動には大きな問題がある。
「あのさ。全部記憶消したら、元の生活に戻れないよ。何もかも忘れちゃうんだから」
「覚悟しています」
 今度は息を[呑{の}]まされる番だった。若者の即答に、私は混乱を深める。
 かつて記憶の除去を求めてきた人々の動機は確かめるまでもなく『何かを取り戻したい』。その一点に集約されていた。失うことで、幸せだった過去を取り戻そうとする。それが大原則なのは、余計な話を[訊{き}]こうとせずとも否応なく伝わってしまう。
 しかし、この若者は全てを失うことも辞さないという。
「だったら、なぜ」

 

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