試し読み 第2話(試し読み)

 

 ――さよならを溶かして、

 

 ――空っぽの水槽に注いだ。

 

      

 

 浅瀬にくじらが迷いこんだ。

 鯨目としては大きくはないけど、生物としては相当な巨体だ。

 それが、二頭。

 見えない何かに引っ張られるみたいに、その先には何もないのに。

 朝からテレビやネットでは、このニュース映像が流れていた。

 くじらは、浜辺にその大きな身体を[擦{こす}]りつける。

 もがく。

 人間は、それをただ眺めるには忍びなく。

 ただのわがままかもしれない。

 ただの自己満足かもしれない。

 人々は、くじらの身体が乾かないよう水をかけつづけたり、尾にロープを巻きつけ漁船で引っ張ったり。

「きみの居る場所は[此処{ここ}]じゃないだろう」

 そう問いかけるように。

 けど、くじらたちは一向に海へと戻る気配はなかった。

 その巨体をねじって、ひねって、頭を沖に向けるだけでもいいのに。

 おそらく、くじらたちも沖へ行きたいんだろう。

 けど、浅瀬でもがくその姿は、まるで砂浜にしがみついているようにも見えた。

 どうして、くじらはこんなところにきてしまったんだろうか。

 くじらもどうして自分はこんなところにきてしまったんだろうか。と考えてるかもしれない。

 ほんとは、陸に上がってみたいとか思ってるんだろうか。

「それって、くじらが見たささやかな夢だったんじゃない?」

 テレビの映像を眺めながら、少女はそんなことを考える。

 浅瀬のくじらは、[何処{どこ}]へ行くんだろう。

 何処へ行きたいんだろう。

 本当は[其処{そこ}]に居てはいけないのに。

 もがき苦しんで、必死に、生きたいのか。

 それとも行きたいのか。

 何処へ行くの?

 何処で生きていくの?

 浅瀬のくじらは、いつか――

 

      

 

 二月の枯れた空に雪が舞う。

「いきなりで申し訳ないが、――クライマックスだ」

 [黒{くろ}][縁{ぶち}][眼鏡{めがね}]の青年は、よく響く低い声で言った。

 見た目からは真面目な大学生の印象だが、その風体には似合わないほどの落ちついた低音には妙な説得力があった。

 たぶん、その青年が言うなら、そうなんだろうと。

 たったいまからが、クライマックス。

「随分、威勢がいいじゃねぇか、ニーチャン」

 いかにも。といった[風{ふ}][情{ぜい}]のスーツの男が首をコキコキ鳴らしながら[凄{すご}][味{み}]を[利{き}]かす。

 スーツの男はそれひとりきりじゃあない。

 背丈や微妙なスーツの柄、手に持った〝凶器〟の違いはあれども、一様に人相の悪さとカタギじゃない雰囲気丸出しの男たちが二十人強、わらわらと黒縁眼鏡の青年を取り囲む。

 最初に、青年の間合いに踏みこんできたのは、チンピラ風情の[下{した}]っ[端{ぱ}]だった。

 たぶん、普段から先陣を切っていく下っ端なんだろう。

「んどぅるぬおぇぇぇぇぇえぇぇぇっ!」

 なんて言ったか解読不能な奇声を発して、下っ端男が襲いかかってくる。

 が、つぎの瞬間、下っ端は、

「ぬぼぶぇ⁉️」

 よろめくとかのレベルじゃなく、喜劇のようにすっ飛んだ。青年を囲っていたほかのスーツの男のうち、ふたりを巻きこんで地面に転がる。

 襲ってきた男に対して青年が放った[裏拳打撃{バックハンドブロー}]がキマった。

 まるで肩の雪を払うような、なんの反動もつけず、手を軽く振るっただけだったが。

「て、てんめぇぇぇ!」

 仲間が飛んで行くの見た、べつの下っ端が目んたまをひん[剝{む}]き、前歯のない口をぱくぱくさせ、突っこんできた。

 それをきっかけに、ソレっぽい[強面{こわもて}]の男どもが次々と青年に突撃していく。

 が、

「どぅめぶぼっ!」

「ぬんぅぽ!」

「しゅぺるげ!」

 とか、男どもは[謎{なぞ}]の奇声を発しながら、順不同に地べたを[這{は}]い[蹲{うずくま}]る。

 青年は、拳を一発、廻し蹴りを一発、踵落としを一発と男どもに浴びせ倒していった。

「じゃあ、そろそろ本気出していいぞ?」

 自分を取り囲む男どもを青年がたきつける。

 そして、いまのがウォーミングアップだったというように、ここで両の手にサイバーなメカメカしい装置を装着した。

 グローブの効果は、というと。

 [覿面{てきめん}]だ。

「――ぬんぶぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえぇぇっ!」

 バールのようなモノを手に青年に襲いかかった男が、断末魔の悲鳴を上げる。

 グローブは、青年の拳での一撃にさらに電気ショックを付与する。

「うぉぉぉぉぉぉぉおおぉぉぉああぁぁぁっ!」

 鉄パイプを振り廻すスーツの男の[土{ど}][手{て}]っ[腹{ぱら}]に、廻し蹴りを叩きこむ。

「おらぁぁぁぁぁぁっっ!」

 背後から雄叫びべつのスーツの男が躊躇なく、突進してくる。

 音もなく振り返り、青年は、両手でつかんだ男の顔面に膝蹴り叩きこみ、グラつきガラ空きになった首もとに踵落としを浴びせる。

 スタンガンを装着したのに全然、使わないのはもったいない(?)から、次のヤツには特別なのを、

「お見舞いしてやろう」

 病院だけに。

 黒縁眼鏡の青年は、〝相方〟がここにいれば確実にツッコまれただろう不謹慎ダジャレをブッこんでクスッとする。

「くぬくそぉぉぉぉっ!」

 人の輪から恐怖と困惑と悪意が[渾然一体{こんぜんいったい}]となった顔面凶器男が飛び出してくる。

 拳銃をその手に持って。

 一般人に対して、そんなたいそうなモノを持ち出すことを本来嫌う連中だが、もはや男どもの誰もが、黒縁眼鏡の青年を『一般人』などと信じてない。

  まるで不気味な悪夢のなかにいるような気分だった。

「あーあ、」

 銃を[目{ま}]の当たりにした青年はズレた黒縁眼鏡を片手で押さえながら、言った。

「銃は嫌いなんだよ」

 [刹{せつ}][那{な}]、青年が地面を踏みしめる音、それから銃声が雪降る[曇天{どんてん}]に吸いこまれる。

 

 時間はこれより数日前に[遡{さかのぼ}]る。

 

      

 

 朝からテレビやネットで浅瀬に迷いこんだ二頭のくじらのニュースが流れていた。

 時間が経ち、その一頭が、浅瀬から浜辺に打ち上げられるようになっている。

 ぼんやりとテレビのライブ映像を眺めていた少女は、思う。

 あんなに大きな身体でも自由に何処にでも行けるのに。

 遠く遠く誰も知らない海にも、深い深い海の底にも。

 なのに、陸に上がって生きることはできない。

「前へ進めないのに、海にも戻れないの……?」

 そうこぼして、少女は黒目がちな瞳を薄色に[滲{にじ}]ませる。

 テレビの向こう。分厚い灰色の雲が雪を降らせる。

 雪は浜辺に打ち寄せる波に飲みこまれて消える。

 くじらたちの命もそうやって消えてしまうかもしれない。

 でも、

「くじらももがいてるけど、くじらを助けようとするひとたちだってもがいてる」

  彫刻のように美しい顔の人物が、少女にしてはやや低く少年にしてはやや高い声で言った。

 少女のとなりにそっと寄り添う。

 そうだ。同じだ。

 くじらの周囲には、たくさんのひとたちがいた。

 冷たい海に半身を沈めながら、ずぶ濡れになって、二頭のくじらの身体が乾かないよう水をかけつづけるひと。

 浜辺でどうやったらくじらを救えるのか、必死で頭を悩ますひと。

 何もできずただ、願うひと。

 船でくじらを引っぱって、沖へと連れていこうとするひと。

 もがくくじらが暴れて、船がひっくり返るかもしれないのに。

 誰もが無事で、くじらたちが海に帰れますように。

 何もできないけれど。

 何もできないと嘆くよりも、目を閉ざすよりも。

 二頭のくじら。

 雄か雌かは判らない。

 くじらは群れで行動するが、ときどき、単独を好む[稀{まれ}]なやつもいるという。

 この社会でもおんなじことがある。

 たったひとりで生きようとする者がいる。

 でも、ほとんどの人間は[独{ひと}]りきりでは生きられない。

「誰もひとりでは生きられない」

 って歌にもあるだろう。と[綺{き}][麗{れい}]な顔のその人物が言う。

 独りきりで生きるのは、楽なのか、辛いのか。

「けど、そういう話じゃあないんだよね」

 美しい顔の人物は、薄色の黒目がちな瞳の少女にそっと語りかけた。

 浅瀬のくじらたちは、いつか空を泳ぐのか。

 いつか、海に戻るのか。

 誰も知らない。

 誰も知らなくていい。

 

 午前十時半。

 正確には、二月十日午前十時二十六分三十六秒。

 シンジュクだかシブヤだかよく判らない立地のビル。

 建設後みっつめの年号に突入した古臭いビルは、ブルックリンのカフェ風に内装はリノベーションされてる。が、基本の骨格はそのまま。

 なので旧態依然の急な階段ももちろんそのまま。

 その――小太り体型なひとには、ちょっとした運動になるほどだった。  

 毎年更新される『過去に例を見ないほどの寒波』が、今年もいつもように押し寄せている。

 そんななか、大汗を噴き出す小太りなそのひと。

 息を切らしながらそのひとは階段を自分の足で、えっちらおっちら、三階まで上ってきた。

 古臭いビルにはエレベーターが設置されてない。と思っていた小太りのひとだけど、それが実は、ある。

 正面からじゃなく、ビルの裏側から入るとそこに住人用のこれまた古臭い昇降機が、ででんと姿を現すが、そんなの知るよしもなかった。

 なので、息を切らせながら、小太りの男性は、ようやくたどり着いた三階の『ニコニコ安全警備保障』と書かれた扉を開いた。

「ふぅ……すみっ、ま、せん……っ」

 息も整ってなかった。男性の性格を単に表したような、体型にあってない消え入りそうな細い声だった。

 ニコニコ安全警備保障の事務所のなか、奥からテレビの音が聞こえる。

 男性の声は、その音に負けて、かき消されてしまった。

 もし、そうだったら、――小太りの男性は、その気弱さから、その場をあとにしたろう。

「――はい?」

 としかし、奥でテレビに見入っていた少女は、微かな声に気がついた。

 ソファから腰を上げ、パタパタと入り口のほうに駆けていく。

 奥から出てきた少女を目にした、声の主の小太りのそのひとは、

「え、あ、あの? え?」

 額の汗を拭う手を止めて、言葉を失くしてしまった。

 それはまるで魔法にかけられたか、異世界に迷いこんでしまったような戸惑いに近い。

 目の前に現れた少女が、あまりに天使性に[溢{あふ}]れていたからだ。

 こんな雑居ビルの『ニコニコ安全警備保障』なんて、真面目なんだか[巫山戯{ふざけ}]てんだかなネーミングの会社事務所の受付に、ひょっこりこんな愛々しい少女が現れたら誰だって驚く。

 少女に羽根など生えてなかったが、小太りの男性には、ばさばさ羽ばたく羽根が見えた気がした。

 少女はそんな現実離れした天使なんかじゃない。

 ただただ現実離れした容姿をしてるだけの、ニコニコ安全警備保障の事務兼受付兼マスコット担当のバイトこと――ニコだ。

「なにかお困りですか?」

 警備会社という性質と男性がかなり[素{す}]っ[頓{とん}][狂{きょう}]な顔していたからか、少女がそう[訊{たず}]ねる。

 男性は答えず、ますますまじまじ少女を見てしまった。

「しゃ、[喋{しゃべ}]った……!」

 真面目なのかバカなのか、小太りの男性の心の声がうっかり漏れてしまう。

 毛先に向かって白や金に見える色素の薄い髪の毛。

 同じく大きくて色素の薄い瞳。長い[睫毛{まつげ}]。

 まるっとした輪郭と[頰{ほお}]、[顎{あご}]。

 どうしたらこんな人間が生まれてくるのか。

 天使性が溢れすぎてどうにかなってる少女は、小首をかしげながら、

「あの……?」

 再び男性に訊ねた。

 声もまた、ひどく可愛らしい音色をしていた。

「――え、いや、あ、え?」

 われに返り、頰にまで流れてきた汗をごしごしとタオル地のハンカチで[拭{ぬぐ}]う。

 小太りの男性は、自分の挙動不審さに焦って、

「ここは?」

 ニコに訊ね返した。

 一瞬、男性の疑問符にニコも疑問符を浮かべたが、すぐに理解して、「ああ、そっか」ぽんと[手{て}][鼓{つづみ}]を打つ。

「こちら――速い! 安い! 巧い! 安心安全! で、おなじみの『ニコニコ安全警備保障』です! ようこそ!」

 精一杯でもか細すぎる声量と精一杯でもぎこちない笑顔と、ダンスの振りみたいなポージングで、ニコが小太りの男性に言った。

 天使がダンスを踊るのを目の当たりにして、[魅{み}][惑{わく}][魅{み}][了{りょう}]されすっかりヤラレて、何が起こったのか理解できず、男性は、汗を拭うのも忘れて、ただ瞬きをするだけだった。

 一所懸命やってみたけれど、想像してたリアクションが返ってこなく、テーマパークのキャストみたいなおどけたポーズのまま、ニコも硬直した。

 

 

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