小説部門賞『故郷までのディスタンス ~Since 1998years~』(著者/古橋 智) 故郷までのディスタンス ~Since 1998years~

 青春とは、心の若さである。
                   byサムエル・ウルマン
              &
 ウィィィィィィィィィィィ〈YOUTH〉!(人差し指と小指を突き上げ猛牛に見立てながら腕を挙げて、腹の底から豪快に叫ぶ……本当はユース[YOUTH=青春]! と言っていたらしい)
                    byスタン・ハンセン

    *         *         *

 キムチがコンビニのおにぎりまで侵入してきた、二〇〇二年の日韓共催のワールド・カップは、その熱気によって膨らんだ気まぐれな台風よろしく去っていった。日韓親善の意味を込めて、共催という名を借りての、バーターまがいの折衷ワールド・カップ。そんなこんなのスポーツの祭典が、はたして今後の両国の歴史認識の相違やら、文化間交流にどう影響してくるか、まあ、見ものである。と感慨深くスノッブを気取っているが、別に俺は憂国の士ではないし、ナショナリズムの欠片も持ち合わせてない。
 それよりも火急の問題は、井上陽水的に言えば、傘がない、ということ。
 それ即ち、これから梅雨と共に現実の台風の季節が、個人的には頼みもしないのにやって来ることの方が、よっぽどうんざりする気分なわけで、超国家的イベントの意義とかより重要な事柄。
 タイフーン。ハリケーン。サイクロン。今回のサッカー熱が瞬間最大風速的なラブ&ピース的ものになるかは、もう少し時間が経ってみないと分からないが、俺自身に対して言える事は、今年も四年前同様ワールド・カップの潮流には乗れなかった、という感覚。梅雨やら台風やの歳時記的な事の方が気にかかっている時点で、もはや俺のハートという名のゴールに、ボールは突き刺さらなかったわけです、はい。
 今回は日本で開催するという事で、颯爽と日本代表の青いユニフォームを着て、各スタジアムに特設されているであろう巨大スクリーンの前で、日の丸の御旗を掲げて応援しようと考えていた。オフィシャルに世間様に迷惑がかけられる稀なイベントである。ビール缶や弁当のプラスティック容器をぶちまけて、路上で騒動を起こし交通網を乱しても、おおよそ許される珍事だ。祭典であり無礼講でもあるこの行事に参加しないのは損な話、だったのだが……それに共催ワールド・カップなんて史上初でしょ、多分。やはり色々な意味で勿体無い事したんだな、自分。こんな不況の折、こういう機会にテンション上げなきゃ、いつハイな気分になるんだっての。
 そんなこの不景気には持ってこいのイベントだったにも関わらず、俺も要領が悪い。やはりサッカーがまずかった。あまりにもサッカーに興味がなさすぎた。
 本当、四年前の一九九八年は今より生活が困窮していたので盛り上がれなかったから、次回のワールド・カップこそは、その国際的行事を媒介にして世界中と一体感を味わおうと思っていたのに、なかなかうまい具合にいかない若盛り。いや、四年前のその当時は貧乏な上に現時点以上に浮き草生活真骨頂。つまり、テキトーに生きていた。精神スタンス的に。だから、そんな大きなサッカーの大会に、ウツツをぬかしている状態ではなかったし、ウツツをぬかせる資格もない、と考えていたんだった。今は生活も幾分楽になったし、そこそこ地面に根をはって生きている、と勝手に思っている次第。そんな自覚があるのに、やっぱりウツツはぬかせなかった。
 という事はあの頃と大して俺は変わっていないのか? 社会との連係はなりえなかったのか? 周囲との密接な関わりは持てなかったのか。
 もしそうだったら、進歩がないということ、だったのだろうか。でも、現実問題お金は食っていく分は何とかある。経済面だけを測りにして考えるのも何だが、自分の成長度合いの分かり易い目安ではある。いや、金銭云々というより、やはりセーシン的に俺自身が成長していないのか?
 ……と「ワールド・カップ総特集」の見出しが目立つ、スポーツ雑誌の中吊り広告を見ながら俺は追想にふけている。
 これら一連の緩い憂悶。即ち、神保町で古本を渉猟した後、御茶ノ水からたいした距離ではないので歩けばいい所を、わざわざ一駅百三十円かけて秋葉原に向かっている途中の思慕のこと。
 夕方五時くらいのJR総武線の中は適度に人が乗り込んでいる。神保町のおよその古書店は商売っ気がなく、六時前ぐらいに大半が閉まってしまうので、出かける時間帯が夕方頃かつ秋葉原にも行きたい場合は、先に神保町に行くことを優先する、俺。秋葉原の電気街の店は夜八時くらいまでは大抵開いているから、神保町で用を済ませた後でも十分間に合うのである。そして、このお散歩パターンに関して言えば、もう五年近くになっている。
 夜型の生活が続く俺は朝の九時から午後三時くらいまでは寝ている。だから、起きて外へ出ようとしても、その頃になると学校では「蛍の光」が流れるさよなら下校モード。俺がバリバリ元気な時間帯には、ネクタイを締めた帰宅途中の皆々が、アカメガシワの木にへばり付く蝉が如く満身創痍に吊革に捕まっている。そう、世俗という太陽光の熱射をモロに浴びている働き蟻ならぬ、働き蝉の視線を横目に、市井というお天道様に顔向けできない生活を送っている俺。だが、皮肉ではなくマジで、同世代の背広の連中に顔向けできない気分に陥る。蝉のように脱皮できない、と。俺が徹夜して疲れた顔で、朝っぱらのコンビニに出かける最中、通勤途中の彼らとすれ違う時もそうだ。やましい事をしている訳ではないけれど、朝の通勤ラッシュから定時まで戦い抜いている、スーツという甲冑(かっちゅう)を身に纏(まと)う企業戦士達に対して後ろめたい気になる。そう、本当は今頃、俺もマシな仕事に就いて、社会という戦場(いくさば)に身を投じているはずだった。
 少なくとも四年前はそんな未来予想図を描いていた。当時、大学を中退したにも関わらず、だ。
 ワールド・カップのノリの時と同じく、これまた予定とは違う結果になった。四年前のあの頃と何も変わらない。いや、住処は変わった。上野の隅の方にある一九六五年築のボロ木造アパートからの脱出には成功した。風呂なし、収納なし、ゴキブリ付きの四畳半。タバコの焦げ跡が多々ある腐った畳に、網戸のない西向きの窓。はずれかけのドアノブがスリリングな共同便所。オンボロとはいえ水洗なのはありがたいが、トイレット・ペーパーは常時皆無。貧乏住民がパクって、イヤらしい事にでも使っていたのであろう。けれども、便器におミソだけは頼みもしないのに配備されている。そんな部屋が俺にとっての上野だったので、とっとと上野から抜け出したくなるのは必然だった。だが、上野に俺はまだはびこっている。引っ越しをして、幾分、部屋の家賃が上がった分ゴージャスになり、上野公園からも近くなった。
 つまり、上野からは出ていない。
 むしろモロに上野に近づいている。つまり、つまり、繰り返しアピールするが上野からはまだ出ていない。住処は変わったが、台東区は上野という街に居るという事は変わらない。本当は住みたい街ランキング・ナンバーワンの常連である吉祥寺辺りに住みたかったのに、どうしてそんな中途半端にも上野界隈をウロウロしているのか。昭和の風情があるっぽい所は気に入っていたが、それにしてもそれが決定打とは思えない。
 とにかく、変わってないなあ、というのが率直な印象。四年間という期間。ワールド・カップ、オリンピック……後はなんだろう。まあ、世界的なスポーツの祭典のターム分の時間が過ぎていったというのに、俺が予定していたささやかな青写真は描けなかった。せいぜい手持ちの電話がPHSから、普通の携帯電話にモデルチェンジした事ぐらい。それと健康面ではなく経済的事情で一日四本と決めていた煙草の本数が六本に増えた事か。それらが人生変転の証左。身の周り半径三メートル的な幸せ。小規模な話である。
 以上のように四年前の当時の人生予報ははずれてしまった。だが、予報の天気がはずれて逆に蒼穹が広がるという場合もあるのでは? と俺の内に潜む静止気象衛星ならぬ精神気性衛星・ひまわりの精度を疑う事を期待。
 秋葉原の駅から降りて、街の静電気、もとい静電波をピリリ、と感じた頃、俺の携帯電話の着メロが鳴った。そのメロディはバッハのトッカータとフーガニ短調。このサウンドは……あの婦女子か。不用意に焦って電話に出る俺がいたりする。
「もしもーし」
【ひでなあ、森沢!】
 婦女子、詮ずる所、電話の相手である小野寺真琴(おのでらまこと)の、変形したイントネーションの声が、俺の鼓膜を僅かに震わせた。
「何だよ、マコっちゃん突然」
【突然じゃないわよお、中島賞のこと聞いたんだからね】
 今度の彼女の声は、標準語と呼ばれるそのアクセントに、おおよそ符号していた。
 中島賞。それはあたら夭折した「山月記」や「李陵」の作者の中島敦を偲んで設立した、十代から三十代までの作家を対象とした文学賞の名称である。
 俺はしがない才能を疲弊させながら、小説を書いている作家、もどきのような輩。姓は森沢(もりさわ)、名は和馬(かずま)。自称・小説家。それでいて何とかメシだけは副業、つまりアルバイトだが、それを兼ねてギリギリ食べていっている。収入的には副業が本業を上回る事が多々あるが。とはいえ、近頃件(くだん)の中島賞に俺はノミネートされたのである。
【森沢が中島賞の候補に入っているなんて、あたしおんべねぁ……知らなかったんだから!】
 彼女はうっかり出る方言を訂正しながら、忙しく俺に怒鳴った。
「そ、そんな怒るなよ。俺だって一昨日に知ったばっかなんだからさ。今度マコっちゃんに会った時に言おうと思って……つーか、マコっちゃんはいつその事知ったの?」
【昨日の夜、伊達さんから聞いたの】
「伊達が言ったのか? あんにゃろう、勝手にばらしやがって」
【何言ってるのよ、あんたの新作だって伊達さんがプッシュしたお陰で候補まで残ったんでしょ】
「まあ、その点は否定しないけどさ」
 俺は電話をしながら、靖国通りと交通博物館を挟んだ場所にある、喫茶店『シルエット』に自然と足を向けていた。
【それに伊達さんが私に電話したのは、森沢が中島賞の候補に挙がった事じゃないのよ。あんたの事はついでよ、ついで】
「ついで、とはエラい言い方だな。じゃあ、何の事で伊達は電話したんだよ?」
【そうそう! 露崎君がもんどって来たって!】
「もんどって……? 戻って来たのか、露崎が。本当か?」
 小野寺がさらに興奮気味に言った「露崎」という名前。それを聞いた時、俺が無意識にこの喫茶店に来た事が、何やら運命めいたものに感じた。
【エエ、そうらしいわ。森沢の所にも伊達さんが昨日、露崎君の事で携帯電話にかけたらしいわ。だけど、つながらなかったって言ってた】
「今朝、充電が切れていたのに気づいたんだ。だから電話がつながらなかったんだろ」
【自宅の留守録にも入れたって言ってたよ】
「いや、留守番電話なんて気にもしなかった」
【っだぐ、もう!】
 呆れて訛り気味の怒りを表した小野寺。だが、俺の頭の中には露崎征次郎(つゆざきせいじろう)の精悍な顔つきが浮かんでいた。優男で知的で自信満々だった、懐かしくも憎いアンチクショウの顔を。
「それにしても、露崎の奴。帰ってきたという事は、ロシア文学を巡る放浪の旅とやらはひとまず終わったんだな」
【エエ、でしょうね】
 俺は携帯電話の受話器を押さえてアイス・ミルクを注文した。四年前の、露崎との初めての出会いをなぞるかのように。
 四年前。
 ワールド・カップに日本が初出場した栄誉ある年、俺は晴れて大学を中退した。理由は単純明快。就職活動が失敗した上に、単位が足りなくて卒業できなかったからだ。もう少し詳らかに理由を羅列すると……留年するのが面倒だった、のが一つ。留年して余計な学費を出させた時の、烈火に怒る両親の顔が見たくなかった、のが一つ。もっとも、黙って中退した事がバレた時の方が、炎々と顔が燃え盛っていた、はずだ。電話越しの説教だったので、その表情はうかがい知れなかったが、五臓六腑に染み渡る怒声で容易く想像できる。そんないい加減な理由ではあるが、それと同時に俺は頭の中で「俺を縛っていた、平凡という名の鎖は今ほどかれた。そして、俺は無限を秘めた、フリーな可能性という名の衣をまとったんだ。俺は今まで親や社会によって、常識というレールを進んできた。学校? そこは汚い大人のルールを学ぶ場所だ。だから、ようやっと自由を手にして、本当の俺を見つける旅を始められるんだ。偏差値、学歴、クソくらえ! 教科書通りに生きてたまるか! 校舎の窓ガラスを割るんだ! 盗んだバイクで走り出すんだ!」と考えてハートを熱くしていた。無論、自らを鼓舞するための心の叫びである。新たなる人生のマニフェストでもある。こういう時は自分に残っているナルシズムを全開まで振り絞る。自分が土壇場にいるのを認めないために。
 それにしたって、バカである。バカの二乗のバカである。だいたい二回も浪人した挙句、大学の授業がかったるくなって、サボっていた果ての卒業単位不足。あまつさえ、両親に学費を全額負担させておいて、留年が面倒だから中退したような輩に、本当の俺も何もない。今、当時、その時、その瞬間、真っ昼間から上野公園で馬鹿面さげて、西郷隆盛の銅像を眺めているのが、本当の俺なのだから。それでもその頃は不思議なもので、若さとバカさが入り混じっていた俺は何でも出来る、と信じていた。
 じゃあ、不安は全く無かったか、といえばそれはもちろん違う。年を重ねていないが故の精神の軽さは、時としてその浮遊感に脅える。自らの人生の地盤の脆弱さは人生の不確定要素ばかりが敷き詰めてある。つまり、心の奥底では「人生ヤバくなってきた」という事は重々承知していた。ああ、踏み外しているな、と。緩やかな危機感を抱えていることぐらいは、残念ながら分かっていた。実に遺憾、イカン、と。
 それが、四年前。
 その四年前こと一九九八年。この年は俺の下降気味な青春云々と連動するかの如く世相は今以上に暗く、自殺者も三万人をオーバーし、信用銀行が二行も破綻するやらと不景気っぷりのドン底感もひとしおであった。だけど、そういえばワールド・カップもあったけど、長野オリンピックなんかもあったな。後はワンレン、キャミソール、コギャルに宇多田ヒカルってか。イベント事やカルチャーな面では賑わっていたかも知れないが、どうもそれは日本のどん底不景気感を誤魔化すためにメディアが講じた手段だったような気もする。文化などの隆盛は経済絡みと違って、ある程度マス・メディアによって操作し易いから、中身は消耗しきっているが、外装は幾らでも美麗品に出来る、中古車のカラクリと似たような事をして日本人を騙して、いや、励ましていいたのか、と今になって思ってしまう。一九九八年とは世間的に言えばどう総括出来る年だったのか。まあ、今さらそんな中途半端な年を誰も顧みる事はないか。
 だが、自身にとって忘れえぬ時期だったのではないか、と感慨深く思ってしまう節がある。
 人生の岐路と言ってしまえば聞こえが大仰だが、青春の曲がり角程度の経過があったように感じる。少なくとも新たな出会いがあった。俺の人生をさらにやんわりと躓かせ、愉快にさせ、貧しくさせ、そして、しょっぱい物書きにへばりつかせた、青臭く甘酸っぱくもあり、それ以上にイタい出会いが。
 目の前に差し出された露崎征次郎お好みのアイス・ミルクを馬手(めて)に、小野寺真琴がキャンキャンとさえずる携帯電話を弓手(ゆんで)に、両方を器用に捌きながら、俺の脳内で感傷的にもあの頃がよぎり始めた。
 今なお続く、ブルーハートの濫觴(らんしょう)が。

      *       *

 一九九八年、春も中葉。
 鳩のフンが一つも落ちていない西郷どんの銅像及び、その傍らに身を置く薩摩チックな猟犬ツンの銅像を見上げ、いやさ見下され、俺はぽつねんとそれらの前に立っていた。
 ここは上野公園。
 思えば東京の大学に受かって、郷里の富山県の高岡から出てきた時も、この高村光雲&後藤貞行共作の銅像の前にいた。そして、その時に上野公園の正式名称が「上野恩賜公園」だという事を知った。また、上京したばかりは「高岡の大仏の方が全然デカいぜ。勝ったな」と思っていたが、今では西郷隆盛像の凛とした姿に惚れ惚れしている、というコペルニクス的転回も既に果たしている。つまり東京人化洗脳は完了していた。
 そもそも実家から出たくて東京の大学を受けて、東京に出てきたのである。高岡大仏よりも西郷隆盛像の方がイカすし、二上山の大伴家持像よりも高岩寺のとげぬき地蔵の方がクールに見えてくるのは、故郷を去った者の悲しい性(さが)。さらば、恋しき高岡。こんにちは、愛しさいっぱいの上野……と言いたい所だが、素直に断言はしづらい。俺が今住んでいる部屋。大学から意外と近かった事と、家賃がハチャメチャ安かったから、実物も見ないで決めたしまったあのボロ部屋。これがいかんせん、俺の上野を愛するパワーを半減させる。さらに俺の住むボロ部屋は実を言うと、上野から意外と遠く、根岸と東日暮里の狭間辺りにある。だから、JRの最寄り駅ならば日暮里か鶯谷の方が近い。しょっちゅう俺自身が上野ばかりに出かけているから、便宜的に全体を上野と言っているだけなのである。そうだよ、もうちょっと俺の部屋がマシだったら、上野の街の生活も快適だったのに。まあ、選んだのは俺だけど。
 とは言っても、ただピンポイントに俺の住んでいる木造アパートがイマイチなだけで、俺はこの街並みが結構気に入っている。いわゆる下町として親しまれているここが。だが、よくテレビか何かで喧伝されていた、下町人情を含んだ情緒溢れる町並み云々の感覚には、今の今まで心の琴線に触れた記憶はない。すれ違う人々はやはり他人であり、むしろ都会の中にある下町というコミュニティは、互いの干渉を嫌う、という傾向にあると思う。この皮膚感覚は実際に東京に来てみないと、というかちゃんと住んでみないと分からなかった。当初、葛飾柴又の寅さんイメージで来てしまうと困惑してしまう。別に期待していた義理人情がなかったから、逆に不人情かつ不親切に感じている、というわけではない。これがフツーに現実なのだ。俺のような地方の輩は、テレビを通じてドラマや、ガイド雑誌とかで特集する古き良き街並みの下町を脳内にインプットされてしまっていたから、それらの惹句を真に受けていただけ。事実は他人同士が行き交う一つの都市の一部。だいたい下町の意味の語源というか由来は、工場街を示していて、決してご近所隣り合わせの、地域密着した心温まる人間関係みたいなそれを謳っていたわけではないらしい。伝聞する印象だけで「街」というものを、自分の中で形作るのはちょっとした隘路だ。それは俺の生まれにも共通しているのではないか。
 俺の郷里は富山城や佐々成政。高岡で言ってもかつての高岡城であり前田利長なのだ。つまり何が言いたいのかというと、しとしとと雪の降る歴史の薫る古都であり、時代劇っぽいイメージが俺の街にはあると思う。実際住んでみるとそんな事ばかりではない。だが、その印象を全否定できるかと言われればそれお難しい。ただ、通り一辺倒で決め付けるのは出来ない。でも、それはそれで良い。いや、それが当然なんだろう。様々な人々によって、多様に行き来した後に街というものが形成されていくのだから、複雑化するのは必然的帰結。
 一方、ここ下町と言われる台東区の辺りは、昭和の匂いが俺のイメージにあって、今日に至ってもその印象は変わっていない。結局、下町人情云々に覚えはないが、旧世代感は諸々に匂わせている。やはりそこは良い。街並みはイメージの集積だ、などとエラい建築家が言っていた気がするが、本当、都市や観光地なんてマスコミ受け売りのミーハー気分で接してしまえばいいのである。高岡が江戸時代やら戦国時代やらの遠い昔を回顧できる街ならば、上野周辺はつい最近まであった、昭和という時代のノスタルジィを感じさせる街なのだ、とそんな感じで。それに俺の思い込みも少なからずあると思うが、それほど的外れでもないはず。我が故郷も思えばイイ感じの街だった。だが、現在の俺の住むこの街も高岡とは違った趣向があるので、気に入ってしまったのだ。
 で、よく顔を出す上野公園。ここも違った味が出ていて良いはずなんだが、この上野公園は高岡の古城公園とちょっとばかり似ている。広さは上野公園の方が二倍くらいあるが、公園内にある博物館や資料館、動物園。箱庭にも似合う涼しげな池と豊かな緑の程よい構成。何よりも目の前に広がる桜の木。俺の新たな門出を祝うような、もしくは半ばヤケクソな俺の心情を全く考えないで咲き誇るその桜が、今はもう帰れない故郷の一風景を連想させる。だが、すでに桜は散り始めている。俺を急かすように。俺が俳人なら散りゆく桜を季語にして、微妙な今の心情に悲壮感を交えて表現できたろう。散る桜、残る桜も、散る桜……と。芭蕉先生曰くだけど。あれ、良寛和尚だったけ? 俳句と言ったら松尾芭蕉しか思いつかんわ。
 兎に角、学校は辞めてやった。親とはほとんど勘当状態になり、送金は当然の如くストップ。生活費はもちろんだが、住んでいるボロ部屋の家賃だって危ない。俺が今持っているものといえば、理由も根拠もない「俺なら何でもやれる」という自信、というか過信。そして、理由と根拠があまりにもアリすぎる「ヤベえ、これからどうしよう」という分かり易い不安。でも、母ちゃん助けて! とはもはや言えない。
 だが、そんな臆面がちな俺に西郷どんは言ったのである。お前の中にある維新を起こせ、と。さらに兵古帯(へこおび)姿の西郷さんが「ぼーいず・びー・あんびしゃす」と北海道民専有の訓示を無視して、俺に向かって流暢に言い放ったのだ。さすが薩摩っ子。イギリスに大砲をぶっ放した分、英語もしっかりとマスターしていた。天下の西郷隆盛にここまで言わせたら、不肖・森沢和馬、「やるしかない」と誓わざるをえない。何やら犬の散歩をしているファミリーや、鳩にエサをやっていた子供らが、スベったお笑い芸人よろしく、複雑な瞳の気色をもって俺を気まずそうに見ている。まあ、一時間も銅像の前に突っ立てる上に、喜怒哀楽の表情を豊かに描いている俺に対して注目しているのは仕方ない。いっその事俺は彼らに向かって「自分、これからやっちゃいますんで!」と青天貫く大きな声で宣言してやりたい。だが、「自分、これからやっちゃいますんで! 犯罪を」と勘違いされるのがイヤなので、それはやめておく。そう、二十代無職。犯罪に走りやすいデリケートなお年頃かつ立ち位置なのである。自粛しなければ。
 それにしても、ただ漠然と「何かしてやろう」と思っても、どうしたものか。そもそも俺にしたいことなんてない。そうだった。俺って若者特有の寝惚けた夢とか目標とか、何らかの下地、というかバック・ボーンがないんだ。まいったね、こりゃ。どうすればいいんだろう? いや、まあ、それはそれとして、とりあえずお金をどーにかしないと。バイトを二つぐらいやって働かないとなあ、とりあえず。そう、とりあえず。いずれ何かに向かって動き出すだろうから。それまでは、とりあえず、の精神で。
 俺がさっきまでの鼻息も忘れ、やや意気消沈して上野公園を去る事になったのは必然。無気力にただ歩く。花見客をみこして露店の用意をしている連中を横目に腹が鳴る。何と分かり易い空腹信号。しかし、ここは節約。何処かの百円ショップで食料を買おう。
 未明の夕暮れ時。花見客の足の流れに逆らいながら、こうして俺の「とりあえず人生」は始まろうとしていた。とりあえず、とりあえず俺は、髪の毛に空しくへばり付いている桜の花びらを、いや、赤子の肌のような桜の花びらを、いやいや、穢れなき薄桃色の桜の花びらを、いやいやいや、エロティズムさえ覚える嬌艶(きょうえん)な桜の花びらを……グシャグシャに掻いた。
 とりあえず。

              *

 日本は予選リーグで敗退してしまったものの、ワールド・カップ史上歴史的な勝ち点一点をはじき出した、らしい。それは、歴史的! と繰り返し強調してテレビのアナウンサーが、口角泡を飛ばすかの如く騒がしく喋っていたからだ。
 だいぶ前に食べ終わったラーメンのスープの中に、白い油の固まりが浮いている。俺はラーメン屋で二時間ぐらいボーっとして店内のテレビを見ていた。俺の部屋にはテレビがないので、ここでその歴史的なサッカーの国際大会を見届けに来た、というのは表向きの理由で、実の所今日はバイトがなく、これから何もやる事がないので、空の丼を相棒にテレビを見ていただけ。お冷を何度もオカワリするのも気まずくなってきたので、そろそろ俺は店を出ることにした。喫茶店よろしくこれだけ居座っていたのだから十分元は取れたはずだ。
 店を出ると太陽が眩しく、まだ六月だというのに馬鹿に暑い。天候は残酷だ。曇りがちな俺のナイーヴなハートをまるで推し量らないで、陽気さばかりをアピールする。ふと、四月に上野公園で見た桜を思い出す。あの時も俺の俯(うつむ)きがちな心情を他所に、桜の絢爛さばかりが際立っていた。季節や自然は無情である。
 俺は店の前に止めてある愛車の錆び付きママチャリのサドルに手をかけた。
「熱っ!」
 強い日差しでサドルが熱を持っていた。気にせずサドルの上に座ってみても、パンツを通り抜けて熱気が伝わってくる。これからの季節、自転車を止める場所は日陰にしなくては、と一瞬頭に浮かべてしまった俺。そんな事にいちいち気を使っている、自分自身に嫌気がさしてしまう。他に気を使うことが山ほどあるだろう、と。それでも俺は気を使うべき他の重要項目を無視し自転車を漕ぐ。ただブラブラと当て所もなく近場散策をするために。
「いやあ、さっきのラーメンにバターを入れたのは、ちょっとゴージャスすぎたなあ」
 先ほど食した五百円のラーメンに、バター追加分五十円を費やしてしまったのだ。そんな反省混じりの一人言をしながら、迷路みたいな南千住の道を抜けて、白鬚橋を渡っていた。この辺りまで来たのなら向島百花園でも寄ろうかな、と思っていたその時、俺のPHSが鳴った。着信相手は伊達であった。
「何だよ、伊達」
 無愛想に俺は電話を手にする。
【よう、森沢。今、何してる?】
「別に、チャリでブラブラしてる」
【そうか。じゃあ相変わらず無職なんだな】
 このセリフ。一聴、皮肉っぽく聞こえるが、伊達が皮肉を言えるほど器用でないことは知っている。多少奴には天然っぽさが入っており、素なのだ。この性格が後々出世など人生において弊害が出なければ、と危惧しつつも、売り言葉に買い言葉。
「余計なお世話だ、営利至上社会の犬め」
 と言ってやるのが礼儀だろう。
 伊達(だて)聡(さとし)。俺と同郷で一緒の高校に通っていた男。伊達は現役で東京の大学に合格して、そのまま都内の小さな出版社に就職した。だから俺より二年以上も前から社会人しているわけである。まあ、こっちはいまだに社会に出ていないが。それはそれとして、あんまりマスコミ関係の仕事は知らないが、出版大不況と呼ばれる渦中に就職したのだから伊達も大したものだ、と思う節があるのも事実。決して頭がキレるタイプではないが、ひとえに真面目さと馬鹿正直さだけが取り柄のような奴なので、会社の方もそれを察して採用したのではないかと慮りつつ。
「そんな事より伊達、こんな時間に電話かけていいのか。仕事中だろ」
【いや、今は書店周りが一段落したからさ】
「書店周り?」
【ん、まあ、営業みたいなもんだ】
「ふーん、それで何の用だよ」
 俺は気のない言葉を吐きながら、自転車を止めて隅田川の流れをじっと見つめた。
【意外と久しぶりなのに、何の用だよ、はないだろ】
「そうだな。じゃあ、お久しぶりです。これでいいな、切るぞ」
【あ、おい、ちょっと待てって】
「とっとと用件を言えよ」
【いや、お前さ小説書いてみない?】
「は? 小説」
【そう、小説】
 いまだにボーっと川の流れを見ている俺。小説を書かないか、という意表をつく言葉を聞いても、無表情のまま瞬きもまばらに、川面を小舟のように流れる学童用体育館履き凝視していた。暫時、伊達の質問の返答を考えたが、流れ去っていく体育館履きを小学校用だと判別した自分の目の凄さに意識はいっていた。しかも上履きではなく、体育館履きだと認識したのもポイントだ。
【なあ、森沢。どうだよ?】
「あ、ああ、つーか、何でまた突然そんな話が出てくるんだよ」
【お、よくぞ聞いてくれた】
 待っていましたと言わんばかりに伊達は一つ咳払いをして、
【実は去年の暮れ頃にな、うちの会社で新人の文学賞を開催したんだよ。そして、当初は不定期の文学賞にしようとしたんだ。うちの会社って基本的に文芸ものは扱ってないし、実際に応募されてきた作品の集まりも悪かったし。まあ、新人賞の企画は言ってしまえば編集長の文学趣味が発端だったから、応募総数もこんなもんかと高をくくっていたんだ。だけどこれが棚からぼた餅。量こそ少ないけどスゴくイイ作品があったんだよ。何せ文芸評論家の斉藤信夫氏や都築修氏がその作品を絶賛して……】
「端的に言ってくれよ、はっきり」
【ああ、つまり、だ。第一回の総評としては、非常に成功したという事で、第二回もすることに決定したんだ。だからお前も小説を書いて応募したらどうかな、とね。学校辞めちゃったし、フリーターだし、時間はあるだろ。それに高校の時に小説を書いて賞をもらったお前なら、腕を振るうチャンスじゃないかって】
 俺は大きくため息をして、
「あのなあ、それは地元が開催したタケノコ文学賞の事だろ。そんなもん引っ張り出すなよ」
 タケノコ文学賞とは地元が、というより地元の高校の小説同好会みたいな連中が募って催した、ショッパい小説の賞の事である。当時、新聞部でその賞の編纂を手伝っていた伊達から「この賞に入賞すれば国語の成績にも影響があるとか、ないとか」と聞いたので、俺はその話に乗ることにしたのだ。なまじ中学時代に勉強が出来たせいで、高校時代の大半は勉強をさぼっていた俺。気づいた頃には受験勉強とは何たるものかすら理解できなかった。大学の一般入試は無理だと考えていたので、伸るか反るかで推薦入試を狙おうと思っていた。そのため通信簿の評定平均値を一刻も早く上げなければならなかったのである。その結果、何やら屁理屈を書いた俺の小説は入賞してしまった。だが、国語の成績は3のままで現状維持。推薦入試に期待をかけた俺の甘い夢も夜露と共に消えて、それからは苦すぎる浪人生活に入り込むのである。
【いや、でもあれは評判だったろ。一地方の寒村を舞台に、隔絶された社会の閉鎖性や因習性を、子供たちの視点でアクチュアリティを踏まえて描いた、あの作品。高校生離れした作品だって、俺もみんなも驚いたぞ】
 一人前に伊達が批評めいた事を言っている。だが、俺はあっさり、
「ああ、そりゃ大江健三郎と横溝正史の小説を二つ足してパクったもんだからな。まあ、換骨奪胎、パッチワークみたいなもんだ。高校生っぽくはないだろうな」
 と答えた。件(くだん)の小説を書くため、文学っぽい小説を混ぜて参考にしたのである。サンプリング、モンタージュ、いや、ズバリ盗作の代物。今ではすっかり忘れてしまった、俺のイメージで知的な匂いがする有名な作家の本を読んで。そして、書いてみた本人もよく分からないままに。
【いや、それを差し引いてもなかなか良かったと思うぞ、多分】
「無理して褒めているな、お前」
 伊達は慌てながら、
【と、とにかく、詳しい話は今度するからさ。また電話する。じゃあな】
 と言って勝手に電話を切ってしまった。
「何だよ、まったく」
 と憮然とした態度で俺も電話を切り返してやった。意味はないが。
「はあ」
 苦い吐息。最近、特に意味はないが電話がかかってくると、妙な期待感を抱いてしまう。突然、金になる話が舞い込んでくるのではないか、と。そんな期待が。呆れるほど全く根拠のない、純度百パーセントの射幸心。だから友人からの電話にまで、そんな意味不明な期待を抱いてしまうと後が疲れる。そもそも伊達みたいな不器用な奴がイイ話なんて持ってくる訳がない。
 俺は自転車に乗ろうと、ハンドルとサドルに手をかけた。
「熱っ!」
 わざわざ自転車を降りて電話してしまったので、再び自転車のサドルは熱を持ってしまった。そんな熱さも気にせず自転車に乗ろうとすると、俺の横をサッカー日本代表の青いユニフォームを着た、幾人かの男女が通り過ぎていった。学生だろうか、俺よりも連中の方が若く見える。フリーターになると自分自身の年齢感覚が、学生の頃よりもプラス五歳な気分に陥る。同年齢でも年下に見えることがしばしば。どうやら彼らもこの橋を渡って、墨田区の方へ行くらしい。
 彼らの後ろ姿を見送ると、急に向島百花園に行く気がなくなってきた。理由はよく分からない。とにかく俺は自転車を元来た道の方へ向けた。結局俺は隅田川を渡りきる事なく、再び台東区へとUターンしてしまった。自転車を漕いでいると、やはりサドルの熱がケツに伝わってきた。
 隅田川沿いをブラブラ走っていると、千住のガスタンクが見えてくる。何故かいつもよりそのガスタンクが大きく感じた。それも理由は分からない。分かること。それは蒼い空が俺の真上にただ漠然と無駄に広がっていること。俺にとって何の有益な影響を及ぼさない非生産的な空が。それと汗を拭うこと。これまた俺にとって何の得もない生理現象の後始末。日々繰り返される人間活動の排泄処理。ただそれだけ。
              *
 北陸と東北地方の梅雨明け発表を気象庁がやめた。妙な話だがこの夏、梅雨が明けないらしい。確かに悪天候ばかりが続いている今年の夏。実際に今日もやや曇り気味。梅雨が明けない。そんなおかしな話があってもアリかも知れない。それにピーカンな空より、愚図ついた天気の方が俺の心模様に似合っているので、むしろ俺は歓迎したりする。湿り続ける夏。それは俺っぽい。にも関わらずテーブルを挟んで向かいに座る、伊達の動きが梅雨を沸騰させるくらい熱い。伊達の頼んだアイス・ティーがホットになるほど。背広を脱いだり着たり、ネクタイを緩めたり締め直したり。その一つ一つがオーバーアクションだ。俺にとっては暑苦しい説教に過ぎないのだが。
「だから何で三島由紀夫がサイボーグになって蘇って、総理大臣を暗殺しようとするんだよ!」
 伊達は俺の書いた小説のプロットの原稿用紙を叩きながら、警視庁捜査一課のデカ並みの強面で尋問してきた。
「さっき言っただろう、それは。陳腐化してしまった日本を嘆いて、ふかーい憂国心からあの世から復活したんだって」
「あの世から復活? ここにはサイボーグになるって書いてあるぞ」
「あ、そうだっけ」
「お前ね、だいたい誰が三島をサイボーグにするんだよ」
「そうね、科学技術庁とかじゃん」
「どうして国を憂いでいるのに、政府の機関がそんな事するんだよ!」
「そ、そりゃあ、科学技術庁の連中が総理大臣の政策に批判的なんだよ」
「だ・か・ら! そういう説明や伏線がここには一切書いてないじゃないか。だいたいサイボーグも何も元となる三島の体が既にないだろうに」
「細かいなあ。そんなの誰も気にしないって」 
「気にする!」
 原稿用紙が破けるくらいの強さで、伊達はさらにそれを叩きまくる。
 店内のカラーをダーク・ブラウンに統一している『シルエット』という名のこの喫茶店。店内のBGMはアントン・カラスのツィターが切ない第三の男。店の壁にはビリヤードのキューを握るポール・ニューマンの白黒のポートレートが飾られている。全体的に映画趣味だ。この店に伊達から呼び出され三十分は経ったのだろうか。伊達は鼻息を弱める事なく、ずっと俺に友情ある罵声を浴びせ続けている。伊達からすればアドバイスのつもりだろうが。
 結局、俺は伊達の話に乗ってしまい、特にやる事もないので小説を書くことにした。とりあえず俺は小説を実際に書く前に、曲がりなりにもプロの編集者である伊達から意見を聞くため、小説の粗筋を書いて伊達に渡した。だが、どうやら我が珠玉の作品は伊達のお眼鏡に適わず却下されようとしている。それならそれで構わないのだが、俺は伊達からこの店に呼ばれ、伊達が勢いよく飛ばす唾を顔いっぱいに受ける羽目になっている。ある意味マニアにはたまらない唾かけプレイの一環か。
 俺は背伸び交じりに、たっぷりとガムシロップの入ったアイス・コーヒーを手元に寄せて、
「まあ、何分俺は素人だからな。色々と不備はあるよ。うんうん」
「それにしたって無茶苦茶すぎる。本当にお前は書く気があるのか?」
「あるよ、多分」
「多分って……お前なあ!」
 また伊達の説教にターボがかかりそうなので、俺はアイス・コーヒーを一口含み、
「おいおい、これ以上話し込んでいる時間はねえだろ。お前の貴重な昼休みが全部潰れるぞ」
 と言って抑止を試みた。だが、伊達はストローを使わず、直接グラスからアイス・ティーを口にぶちこみ、
「潰す覚悟だ、こうなったら!」
 と言い放ち力強くテーブルにグラスを置いた。
 伊達は会社の昼休みの時間にわざわざ俺をここに呼び出しシャウトしている。こんなことをしていてこの男は疲れないのだろうか。それともストレス発散にでもなっているのか。伊達は書道の毛筆のように濃い眉毛を上下に激しく振幅させ熱弁を振るう。軽い気持ちで小説を書いてみようかなあ、と言っただけなのにどうしてこんな羽目に……と思い始め、煩わしさから俺は視線を窓の景色に逸らそうとした。とその時、
「伊達さんじゃないですか」
 騒々しい伊達の声色とは対照的に落ち着き払った声が聞こえた。俺が声の方を向くと、アイス・ミルクを片手に眼鏡をかけた青年が、伊達の席の側に立っていた。
「おお、露崎君じゃないか。どうしたの、今日は?」
 伊達は驚きと笑みを交え、露崎と呼んだ青年に尋ねた。
「いや、神保町で古本を見に来ていただけですよ。一休みがてらにちょっとここへ」
「ああ、そうかそうか。露崎君もここに飲みに来るって言ってたもんな。あ、彼の名は露崎征次郎君。彼はウチの文学賞でデビューした後、二作目の作品にして中島賞にノミネートした最注目株の新人作家なんだ」
 伊達はわざわざ立ち上がって誇らしげに露崎という青年の紹介を俺にした。紹介させられた露崎も伊達の賞賛に謙遜した様子もなく、
「どうも初めまして」
 と眼鏡越しの涼しげな二重の目で俺を見つめ軽い会釈をした。俺は座ったまま両肘をテーブルに乗せて、
「どうも」
 と言葉を返した。
 一見すると露崎はガリベン系の博士君タイプの痩身。だが、背が高く肩幅もあり、ただ痩せているというよりは、痩せ型の筋肉質、痩せマッチョと言った体躯の方が合っている。顔の方も目口鼻とも面構えに中心的ではなく、バランスよく端整に散らばり、ツヤのあるストレートの黒髪とセットとなり、違和感なく収まっている。また、身に付けているのは無地の白のTシャツと茶のハーフ・パンツと至極シンプル。それでいてしっかりと着こなしている。つまり露崎は道ですれ違う分には気がつかないが、面と向かって見ると印象に残る、言ってしまえば地味な男前、若き日の仲代達矢かよ、という雰囲気を俺に匂わせた。
 伊達は腕時計を一瞥した。
「ああ、もうこんな時間か。そうだ、露崎君。ちょっと時間あるかな?」
 伊達は一気にアイス・ティーを飲み干し、忙しく露崎に尋ねた。
「ええ、まあ」
「じゃあ悪いんだけどさ、この男に小説とは何たるものかを教えてやってくれないか。時間の許す限りでいいからさ」
「は?」
 露崎の動きが一瞬止まった。
「お、おい、伊達ぇ」
 俺は苦笑いしながら伊達に目をやったが、すでに伊達は鞄を持って立ち上がり、
「森沢は少し生の作家の意見を聞け。露崎君は僕らと年も同じだから、実際に共感を得られるはずだ。良い機会だろう。じゃあ後はヨロシク。また連絡しまーす」
 と言いながら、オーダーシートを手にレジで代金を支払い、手前勝手に店から去っていった。
「あいつ」
 俺はこめかみを掻きながら、アイス・コーヒーを口に含んで呟いた。
「本当、伊達さんはいつもエネルギッシュだな」
 横断歩道を駆け足で去っていく伊達の姿を、露崎は店の窓越しから覗いて感心するように言った。
「はは、無駄に体力があるだけさ」
「いや、それでもデキる人だよ」
「喫茶店に来て牛乳を飲んでいるアンタもある意味デキるね」
 俺がニヤつきながら、露崎のアイス・ミルクを指して言うと、露崎も笑みをこぼして、
「牛乳のタンパク質は体に合うのさ、何となくだけど。席に座ってもいいかな?」
「説教は勘弁してくれよ」
 露崎は再び笑い、その口から八重歯を見せると、徐に席に腰を据えた。
「確か、タケノコ文学賞を獲った森沢氏だったかな?」
 露崎の口から出た意外な言葉「タケノコ文学賞」に驚き、俺はアイス・コーヒーを飲むのをいったん止めて聞き返した。
「タ、タケノコって……いきなり何だよ。俺のこと知っているのか?」
 露崎はタバコを取り出しながら、
「伊達さんからね」
 と言った後に火をつけた。さらに一服して、
「友達で小説が書ける奴がいる、と伊達さんが言っていてね。私も伊達さんとは公私に渡って付き合っているので、何かと森沢氏の名前は出てくるんだ」
「どうして?」
「期待しているんだろう、君に」
「馬鹿かよ、アイツ」
 俺は口に残るアイス・コーヒーの苦味を強くかみ締めて言った。ビターな口臭が鼻に触る。
 それにしたって何を考えて伊達は俺を話の俎上に持ち出しているんだ。本当に俺に作家やら小説家やらの才能があるとでも思っているのか。よりによって本物の作家相手に、局所的で地元レベルのタケノコ云々を言うとは。俺が恥ずかしいだけじゃないか。
 ん、本物の作家? そうか、俺の目の前には作家がいるのか。店内の中途半端なクーラーの効きに鈍っていた脳ミソがようやく動いてきた。目の前の奴が同じ若造だったのでうっかりしていたが、キザっぽくイスの背もたれに肘をかけながら、タバコを吸っている露崎という男は作家だったんだ。俺は一度舌打ちして、
「あんた、作家なんだろ?」
「アマチュアに毛が生えた程度にね。ただ作家と言うならば故人ではあるが、かつての宰相であり今太閣とも呼ばれた田中角栄が『ひとかどの作家になるためには、ある意味で錯乱、狂気の人でなければならない。地獄の底まで覗いて、人の世の裏、表、人間の素晴らしさを見て体験し知っていなければ、多くの人を感動させ、後世に残るようなものを書けない』と漏らしているので、そこまでの痛烈かつ苛烈な言葉に従って作家の道を歩んでいるかと問われれば、なかなか返答に困窮するがね」
「は、はあ」
 何だかコイツは面倒臭い取り扱い注意のタイプの人間だと俺はとりあえず認知した。とはいえ会話を遮断するのもいかんので、何とか俺は座談のネタを捻り出して、
「中島賞にノミネートしたって言っていたけど、悪いが俺はよく分からないんだ。その、露崎……君」
「私は露崎でいいよ、森沢氏」
「じゃあ、俺も気になっていたんだけど、その森沢『氏』ってのはやめてくんない。森沢でいいからさ」
「了解した」
 そう言うと露崎は黙ってタバコを灰皿に置いてアイス・ミルクを飲んだ。
 何かこの男、変わっている。口調にしろ仕種にしろ雰囲気にしろ。何しろ相手や自分の事を普通の会話の中で、「氏」やら「私」と称している男だ。本を書いている人間というのは、どっかやっぱり人と違うのか。それともそんな色眼鏡で見ている俺が悪いのか。つまり、その、作家っていうのはもっと年を取っていて、貫禄があって、そう、俺と年が一緒だというのに違和感がある。詳しくは説明できないが、直感的に俺はそう悟った。
「まあ、さっきも言ったけれど私は作家としてはおおよそプロと呼べた位置にはいない。伊達さんが言うほど立派なものじゃないさ。だから君に何か言えるような事なんてないんだけど」
 と露崎は言いつつテーブルに目を落とした。それは伊達が置いていった俺の小説のプロットの原稿だった。
「これは?」
 そう言いながら露崎は原稿を手にした。
「そいつは俺が伊達に渡した小説の粗筋みたいなもんさ。伊達はお気に召さなかったようだけど」
 露崎は四百字詰めの原稿用紙二枚分に収まった、俺の梗概に目を通し始めると、眼鏡のブリッジを中指で押し上げて、
「うーん、伊達さんが気に入らなかった理由も分かるが、逆に伊達さんが君を買っている根拠も見えてくるな。論理性には欠けるものの、期待できるアヴァンギャルド性を感じる。部分的だけどね」
 露崎が眉間に皺を寄せあまりにも真面目に言うので、俺は鼻で笑いながら、
「アヴァンギャルドって、そんな高尚なものじゃないだろ。単に突飛で、そう、ナンセンスなだけさ」
「いや、そのナンセンスこそが高度な表現手段なんだ。前衛表現というのは一種のダダだと私は思っているんだけど、ナンセンスもまたそれに成りうる要素はあるんじゃないかな。ナンセンスは時に抽象性ばかりが目立ち、ポップな感覚が失われがちだが、この粗筋を深く吟味していけば、君の腕次第で良質な作品にバケると思うんだけど。芸術性を問えるようなヤツがさ」
 いまいち把握しづらい露崎のコメントに対して、俺は探るように聞き返した。
「芸術性? えーと、つまり、おたくはその粗筋を結構気に入っちゃったわけ?」
 露崎は原稿用紙をテーブルに置くと、用紙を右手の中指で軽く二,三度軽く叩き、
「そうだな、悪くない」
 と告げて唇を左上に吊り上げ笑みをこぼした。
「ナンセンスなアート。シュールなアート。アヴァンポップなアート。言い方は色々あるが、いわゆる芸術ってやつはひどく難解に思われがちだ。実際、計算性のある構成力よりも、論理性が欠如したインスピレーションに頼る部分もある。アルゴリズムではなくヒューリスティックス。感覚的というか、そう、単純にフィーリングだな。だが、果たしてそれだけでいいのか、と思う節が私には多々あるんだ。創る側はもちろん、受ける側も。私はね芸術が難しくて分かりづらいという印象を持つ事に、悪意はないと思っているんだ。難解、即ち伝わりにくいが故に理解していく作業を、受け手が進めていく事に芸術の意義はあると。つまり、自らの思考を働かす行為だ。思考のプロセスだな。事前に得た評論家や斯界の権威やらの意見はあくまで参考程度に、後は自分の感性とさらに熟考を重ね解きほぐしていく。そこに芸術との対話が発生する。それは理想的な過程だけど。しかし、最初に受け手に惹きつけるような作品を生み出すのはアーティストの仕事だ。これはインスピレーションの部分もあるかも知れない。受け手が、つまり相手が『あ、これは良いな』と思わせる能力はやはりアーティストの個々の実力にあると思う。確かに、広告や宣伝という媒体も、作品と出会わせる機会を増やす副次的要因にはなっている。そして、その副次的な要素が今日で多大な影響を及ぼし、個人の選択能力を時に鈍らせ、逆に研磨してはいるが。しかし、一度アーティストの作品を受け手が受け入れたならば、それはアーティストだけでなく受け手個人の才能も関わってくる。そこが難しい。だから難解の二文字で芸術性の高い作品を『エンターテインメントじゃないから面白くない』と言って否定してしまうのは、少し悲しい気が私にはするんだ」
 芸術論、なのだろうか? とにかく俺は露崎という名の語り部の、半ば唐突な芸術観念的な話を、不覚にも聞き入ってしまった。露崎はアイス・ミルクを一口飲み、俺の方に目をやった。俺は何か意見を返さなければ、というプレッシャー、もしくは対抗意識にかられ、先ほどの露崎の話を整理しながら、
「そ、そうだな、うん。えーと、芸術だよな、芸術。芸術は大切だよな。ゲージツは心を豊かにするもんな。俺もモネやらマネの絵を見ていたら、ご飯三杯はオカワリできるからな」
 適当に頭に浮かんだ画家の名前を台詞に添えた。すると露崎は、
「へえ、印象派の絵画に興味があるんだ」
 と意外そうに言いながら、灰皿に置いたタバコを再び手にした。俺は内心「ヤッベー、余計な事を言ってしまったか」と秘めつつ、
「印象派? ま、まあ、ちょこっとね。なあに、おたくも絵について少しは知っているの?」
 そして、アイス・コーヒーを一気に飲んだ。
「いや、絵画に対しての芸術感覚は疎くてなあ。だけど、十九世紀からのフランスの近代絵画は多少興味があるんだ。本当に微々たるものだが。絵画のみならず、文学や音楽の世界にもダイナミズムに展開したロマン主義とか、それに対抗した写実主義とかに関心がさ。最初はバイロンの詩とかバルザックのレアリスム小説を意識していたんだけど、段々絵の方も気になりだして。その関連で印象派の画家をね。それに知っていると言っても、ドガの『緑の衣装を着けた踊り子』や、モネの『日傘をさす女性』とか有名な絵ばかりだけど。あ、日傘をさす女性は左向きの絵のヤツな。でも、私は苦手なようだ。絵の芸術性について私はピンと来なかった。批評文とかを参考にしてようやっと趣が分かるって感じだ。ただでさえビジュアル感覚に疎い私にとっては絵画の世界は深いよ、本当」
 露崎は席の背もたれに腰を沈めて口惜しそうに言った。無論、俺は絵などには興味ない。印象派なんてちっとも知らないし、知ったこっちゃない。MoMAにでも聞いてくれ。
 俺はサイボーグ・三島由紀夫の小説の話から、どうしてモネの絵につながっていったのか頭を整理した。会話のイニシアチブは露崎にあったから、つまり俺が偶発的に提出した話題の結果? いやいや、露崎は単純にインテリっぽいのだ。口調や内容から考えれば……っぽいよな、多分。俺、実際、コイツの喋っている事はよく知らないし、分からない。そうだよなあ、本を書いてる人間だもんな。イイ学歴もっているんだろうし、敷居の高そうな知識が頭に詰まっているんだろうな。俺のようなダメ人間と合うわけがないか。そう結論すべき。
 俺は諦め気味に、
「別に俺は絵なんて興味もないから、その深みとやらも分からないよ。せいぜい毎日持て余した時間を使って、馬鹿みたいに映画やらビデオを見ているだけだからさ」
 と言いながら仏頂面に下唇を突き出し、空になったコップを所在無く回した。コップの中の溶け始めた氷が、カラカラとあざ笑うかのように音を出す。露崎は一度頷き、
「映画か。私も映画は興味あるよ。一昨日、アンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』を遅ればせながら鑑賞したんだ」
「灰とダイヤモンド? それってかなり昔のポーランド映画だろ。ポーランドのジェームス・ディーンと呼ばれた、えーと、何ちゃらちびるスキーが主演した」
「ズビグニェフ・チブルスキーだよ。いやあ、いい映画だった。問題表現の伝播は敏感に私には感じたよ。ルポルタージュ的な面がよりドラマ性を引き立てて、『地下水道』にも通ずるあくまで客観的な視点が末期的な絶望を彷彿とさせる。確か当時のポーランドはソ連の社会主義が支配していたんだよね。スターリン主義の渦中に政治的な映画を生み出したというのは、ソルジェニーツィンの『イワン=デニソーヴィチの一日』にも似たロシア文学の志向性である、ある種告発的な……」
「へいへい、俺はそっち系の映画はあんまり見てないからよく分からないんすけど」
 俺はうんざりした顔で手を横に振りながら、露崎の長くなりそうな台詞を遮った。
「じゃあ、森沢はどっち系の映画を見ているんだ。例えば最近見たやつとかは?」
 俺は少し考え込み、
「……SFとかホラーっぽいやつ」
 と答えた。露崎は頷きながら、
「というと有名所で言えば、タルコフスキーの『惑星ソラリス』とかフリードキンの『エクソシスト』とか?」
 多分露崎は知らないだろうし、知っていたとしてもこの男には関連ないと思い、
「いや、『バタリアン』とか……」
 と声をピアニッシモに言った。バタリアンとは生ける屍が人間の脳ミソを食べるという、八十年代中頃にちょっとした話題にもなったホラー映画だ。その派生として当時、オバタリアンなる造語の存在もあった。露崎は一瞬、右の眉毛を吊り上げて、
「バタリアンか。それは第一作?」
「は? ああ」
「そうか、あれは良い作品だった」
 露崎はあっさりとそう言いのけた。
「へ?」
「あの映画は初めて見たホラー映画として私の印象に深い。ダン・オバノンが監督した作品で、原題は『リターン・オブ・ザ・リビングデッド』だったな。その点からも簡単に察する事が出来るように、あの映画はジョージ・A・ロメロの一連のゾンビ映画へのオマージュも感じられる。また、パロディのカラーが強く、ホラー・コメディとも称されたな。だが、個人的な意見で言えばホラー・コメディというよりも私はパニック・ホラーとして捉えているんだ。映画の中盤辺りから葬儀場での密室的な空間で繰り広げられる、追い込まれた緊張感は映画館でハラハラしながら見ていた記憶があるよ。確かダン・オバノンはリドリー・スコットの『エイリアン』で原作・脚本で参加していたはずだよな。そうだったらノストロモ号内でのエイリアンとの死闘も、宇宙船という密室だから……」
 露崎がヒート・アップしつつ、滑らかに語り始めた。意表を突かれた俺。
「ちょ、ちょっとタンマ、タンマ。いや、露崎ってそういう映画とか好きなのか?」
「そういう映画? どういう映画の事を意味しているんだよ」
「いや、一般的には浸透しづらいホラー映画、つまり、人がグチャグチャに食われるような映画とか」
「特別に好きかどうかは分からないが、十二分に鑑賞には耐えうると思っているけど。どうして?」
「え? お前ってウンチクがいっぱい詰まってそうな、芸術チックでカタい映画しかお好みじゃないと思ってさ」
 露崎はギリギリまで吸い尽くしたタバコを灰皿に潰しながら、
「そうだな、芸術は私もまた求索し、私自身も近づこうと努力している、技芸であり学術であり、そして、精神だ。しかし、私の芸術の感性は言うまでもなく発展途上だ。だから安易ではあるが芸術以上に感動が優先してしまうんだ。いや、芸術と感動に先後を問うのはおかしいかな。そうだな、兎にも角にも感動には常に普遍性が付随するということ。心を動かす作品の前に壁はないし、感激は全てに等しいものさ」
 スラリとそう言いのけた露崎の顔を俺は見張った。感激は全てに等しい。人間の脳ミソを食べるリビングデッドが跳梁する映画も、また当然にそれを与するかのように告げた。露崎の側に置いてある僅かに残るアイス・ミルクに目を落とすと、そのコップと俺が飲み干してしまったアイス・コーヒーのコップを意味なく見比べた。俺は何故か笑いが込み上げてきて、
「あっはははは」
 と吹き出してしまった。
「何がおかしいんだ?」
 露崎はやや目を見開いて尋ねてきた。
「いや、あまりにもフツーな表情でお前が言うからさ」
「え、どういう事だよ?」
「ん? だから『風とともに去りぬ』も『ジョーズ87・復讐編』も一緒くたに並べられている画が浮かんでさ。いやいや、何でもない。ちょっと俺の受け止め方がおかしかっただけだからさ」
「おかしな奴だな」
 露崎は怪訝な表情をして言った。俺は出会ったばかりであるが、露崎の人となりを少しばかり軌道修正して捉える事にした。草食動物的な画一したインテリっぽさではなく、言い方は悪いが雑食性の強いブタのようなセンスがある、と。誉めている意味で。もう少し話してみれば、また何か見えてくると思い露崎に話しかける。
「まあまあ。そうだ、昼メシはもう食ったか?」
「いや、まだだ」
「じゃあ、ここを出て食いに行かないか。ちょっと歩くけど、安くてボリュームのあるラーメン屋を知っているんだ。味はそこそこって感じだけど」
「構わんよ」
 俺が席を立つと、露崎もアイス・ミルクを飲みきり立ち上がった。
「なあ、森沢。これはどうするんだ」
 と露崎は俺が伊達に渡すはずだった、小説のプロットの原稿用紙を掴んで言った。
「あ、まあ、どうでもいいんだけど」
「いや、持っているべきだよ」
 俺の返答も待たずに露崎は俺にプロットを手渡した。俺は唇を尖らせながら、機械的にそれを受け取り幾度か折りたたみ、ポケットに強引に入れ込んだ。そして、露崎が会計を済ませ、俺もその後ろから出て行こうとすると、
「すいません、お客様のお会計の方を……」
 と店員が探るように俺に向かって言ってきた。
「え? いや、さっき連れの奴が払ったはずだけど」
「あ、先ほどのお客様はアイス・ティーの代金のみのお支払いを済ませただけなので」
「え?」
 露崎が俺の方を振り返って、
「忙しく帰っていったのに、しっかりとしているな。やはりデキる人だろ、あの人は」
 と一人納得するように言った。
「伊達の野郎ぉ」
 俺は無造作にポケットに手を突っ込み財布を掴むと、寂しい財布の中から丁寧に硬貨を取り出す。そして、知らぬ間に流れている店内の『雨にぬれても』のBGMを背に俺たちはそこを後にした。俺は歩きながら財布の中を確認し、
「うわあ、きっついな。喫茶店で飲むコーヒーは馬鹿になんねえからな。ったく本当に伊達の奴、社会人なんだから奢れっての」
「ん? 森沢は就職しているんじゃないのか」
「してたらこんな時間にほっつき歩いてないよ。しがないバイト生活さ。食費は一日七百円以下で頑張っているのに、さっきのコーヒー代でかなりの大ダメージ、つーか、既にオーバー」
「手痛い話だな。じゃあ、まあ今日は初めてという事で、挨拶代わりに私が昼食を奢ろうか?」
 その台詞を聞いたとたん、俺は横目で露崎を一瞥してニヤリと笑い、
「マジっすか」
「今回だけだぞ」
「でもなあ、昼メシ食おうって言ったの俺だからなあ。それはちょっと悪い気が……」
「じゃあ、やめるか」
「いえ、全面的に奢ってもらいます」
 俺は素早く財布をしまい込み即答すると、露崎は鼻で軽く笑い頷いた。
「つかぬ事を聞くけど、露崎は本だけ書いて飯食っていけてんの?」
 と俺が尋ねると、財布を突っ込んだズボンのポケットに、プロットが入っている事に気づいた。グシャグシャになったその紙が尻に触れる。その感触が妙に気になった。
「まさか。今日は違うがたいていは朝から夜まで私もアルバイトさ。書く作業はその後だ」
「朝から夜って。それだったら普通に就職しているのと変わらないんじゃないか」
「拘束時間的にはそうかも知れないが、バイトの方がフットワークが軽いからな。時間にある程度融通が効く分、図書館等もバイトの時間帯によって土日以外で利用したり出来るしね。いや、でも、まあこれは詭弁かな」
「詭弁?」
「いやね、大学には通っていたんだけど、校風が合わなくて一年の時に中退して、その後就職したんだ」
「え、中退? しかも一年で?」
 それは俺がイメージする露崎に対しての意外な事実であった。靖国通りと本郷通りの交差点で赤でもないのに、一瞬立ち止まってしまうほど。
「ああ。さらにその後入った会社も半年もしないで辞めた。つくづく自分の半端さが分かったな。だから私は自分自身に従う事にしたんだ」
「自分自身に従うって?」
「つまり書くこと。逃げ道にしろ、切り拓く道にしろ、自分にはそれしかないと思ったんだ。だけど人生で初めて自分で選んだ選択肢だという充足感はあった。社会の視線とかを気にせず、我が道を往く、みたいな。少なくとも当時はね。今ではまあ、自分の根性のなさを棚に上げた甘い考えだったとか、盲目的な青臭い陶酔だったというか。一応は後悔も過ちも自分で抱えてはいるつもりだけど」
 後悔も過ちも自分では抱えているつもり。何気なく言った露崎のその台詞。奴と幾つか重なる境遇がある俺。だが、果たして今の俺がそんなことを吐けるのだろうか。今の俺にそれが自己責任として享受できるのだろうか。そんな俺の思惑を他所に露崎が、
「森沢はどうして働かないんだ?」
 と聞いてきた。
「森沢は伊達さんと同郷なんだろ。だったら東京で一人暮らしという状況だよな。となると安定した収入がないと困るんじゃないか」
「ん? まあ、俺はケッコー浪人とかしちゃってるから、つい最近まで学生してた。つーか、俺も中退したんだけど。うーん、そうだな。やっぱり不況のせいだな。月並みだけどこの深刻な不景気が原因だ。だって今さ大卒就職率が65%だぜ。戦後最低だってニュースでもやっていたぞ。そんな世知辛い世の中じゃなあ」
「確かに失業率は4%を越えているし、円安は加速し株価も一万四千円を割れる勢いだからな。戦後以来最大の不景気と言っても過言ではないかも知れないが」
 俺は就職していない理由を「世の中が悪い」っぽく適当に言うと、露崎も具体的な不況数値を述べ、それを肯定しているようなので、さらに調子に乗って、
「だろだろ。こんな時代で働けってのはちょっとひどい話じゃない。基本的に俺らは所謂バブル時代ってやつの恩恵を受けてないわけじゃん。せいぜいビックリマン・シールをバブリーに買ってたぐらいだろ。ゼネコンやら銀行やらが悪いのかどうなのか知らんけどさ、甘い汁吸っていた頃の皺寄せが全部俺らの世代に来てるんだぜ。バブル全盛の頃、例えばジュリアナで踊っていたお立ち台ギャルとかいう連中はさ、今どんな顔しているんだよなあ。そんなのに関係ない俺らの方が、ノー天気じゃない状況に押し込まれているのはおかしいし」
「だが、ベルリンの壁の崩壊も湾岸戦争も我々はコミット出来なかった」
 露崎は俺がしゃべり切る前に歯切れ良くそう言ったが、俺には意味が飲み込めなかった。
「は?」
 すると露崎は照れ臭そうに笑いながら、
「ん、いや、当時の我々は肉体も思想もまだ幼かった。基本的には社会というものに密接な関係を持たなかったじゃないか。だから現状が仮に好景気であったとしても、我々が影響を及ぼしたわけではないだろう。たまたま我々の世相が辛かった。それで良いんじゃないか」
「たまたまって。お前よくそんな格好良く割り切って言えるな」
「私は時代に生きるのではなく、『次代』に生きる姿勢を大切にしたいんだ」
 と言った時の露崎の顔を俺は見逃さなかった。眼鏡を指で持ち上げ、口元が微かに緩んでいる。つまり「どーよ、俺。決まっているだろ、今の台詞」的な表情を露崎は零したのだ。さらに、
「そう、次代、次代につながるような……」
 と憚る事無く繰り言すると、タバコを取り出し一服し始めた。そして、露崎が鼻から煙を出そうとすると「ブフッ!」と奇声を発し突然むせた。瞬間、鼻水が出てきた。俺は笑いがこみ上げてくるのを我慢しながら、
「そうか、そうか。次代だよな、次代」
 と頷くと露崎は涙目のまま、
「ぐふっ! そ、そう、次代が大切……何と言っても次代に視座を置くのが……げほげほ!」
 そう言いながら頼りない啓蒙を勧めた。次に露崎は用意良くポケットに収めていたティッシュで鼻をかもうとすると、タバコの火がティッシュに引火して「うおっ!」と叫び、ティッシュを手放した。露崎の一連の動きはまるでお笑いのコントのようであった。妙な男だ。やはり何処かズレている。百円のワゴン・セールにあった推理小説の本を戯れに買ってみたら、実は案外面白くて得した気分になった……そんな意味不明なイメージが俺の中で被さった。俺はニヤつきながら、
「大丈夫っすか、露崎さん」
「ば、万事順調……」
 露崎は自分を建て直しながら答えた。そして、二,三度膝を叩くと、何事もなかったように俺に話しかけてきた。
「ふう、とにかく状況はどうあれ我々が世に出る機会は来たんだ。後はベストを尽くすだけだろう」
 先ほどの失態を払拭する毅然とした口調で露崎は言った。俺は露崎のギャップを気にしつつも、説諭に押された感を否めない思いで、
「言葉だけならイカした台詞も吐けるけどさ。実際問題行動に移すとなると……」
「森沢、行動も覚悟も所詮結果論なんだよ。失敗だろうが成功だろうが。最初は言葉に委託するんだ。まだ矮小で脆弱な己に課した誓約にさ。口先一つでもつながると思わないと。後は己の実行力に賭ける。無論、実際動いてみて成さなれば、意味はないからね。それには自負を持たなければならないが」
「自負って。そんなもん俺にはないし」
 及び腰で言った俺の台詞に対して露崎は間を空けず、
「私にはある」
 と前を見てただそう言った。その時、何故か俺は「何ほざいているんだよ、こいつ」と茶化し半分で言い返す事ができなかった。上背のあるこの男の目が、ただ愚直なまでに前を見ていただけだったからかも知れない。それとも眉間に飾られた銀のフレームの眼鏡と、その二重の瞳との距離に威圧感を覚えたからかも知れない。
 俺は露崎の横顔を眺めていた視線をズラすと、一時間前よりもはっきりと前が見えそうな気になった。一つの道筋が。
「ところで森沢。店にはまだ着かないのか?」
「あ、ああ、もうちょいだ。昭和通りを右に曲がって……」
 俺が前方にしっかりと指を向けると、間髪入れず露崎が言った。
「昭和通りはもう渡ったぞ」
「え?」
 俺が後ろを振り向くと三十メートルぐらい後方に大通りが見えた。
「あ、本当だ」
「見えてなかったのか。森沢はズレてる奴だな」
 露崎は妙に納得した面でそう返した。

               *

 九月に入る頃、露崎の言っていた通り株価は既にバブル後の最安値で一万四千円を切っていた。
 それが原因で、クシャクシャになったサイボーグ・三島由紀夫のプロットの原稿用紙を引っ張り出したわけではないが、何となく緩慢に近づきつつあるカタストロフ。その事前対策として切羽詰った世の中に、俺の生み出した物語が必要なのでは、と思うに至り筆を振るってみたわけだ。
 そんな寓意を察しているのかどうか分からないが、この小説を書き始めた事を伊達に伝えると、PHS越しに伊達の決まりの悪い苦笑いが伝わってきた。
【ま、まあ、お前がやる気になったのは嬉しいよ。でもさ……】
「でも、じゃないぜ伊達。俺は今モーレツに燃えているわけよ。ナンセンスが時にとんでもない芸術を生み出すわけ。だからこの窒息しそうな現代社会に俺のアングラっぽい作品が、とんでもない起爆剤になる可能性を秘めているわけよ。分かるか? いや、分かるだろ」
 俺は電話を片手に、空手の左手をフレミングの左手の法則に似た形をしながら、ラップのようなジェスチャーで話していた。
【分からんよ】
 と伊達が淡白に答える。俺は一拍子黙ると、夕映え広がる不忍池を眺めた。カップル達が漕ぐ、スワン・ボートのセイルから伝わる波が、水面を空しく歪曲させる。
「あ、そう。まあ、それはそれとして、とにかく会社帰りに飲みに来るようにしろよな」
【うーん、だからさ、今夜はちょっとした打ち合わせが……】
 伊達は渋るように言った。だが、基本的に真面目な性格故に酒の誘いには弱い。おつまみが枝豆だけでもチビチビしながら一升を飲んでしまう姑息な酔客。まあ、何の変哲もない酒好きだ。もう一押しすれば来る事になるだろう。
「金曜の夜ぐらい良いじゃねえか、なあ」
 何故俺は伊達を飲みに連れていきたいのか。ズバリ、奢らせるため。この前の喫茶店の貸しがある。何が何でも奢らさなければならぬ使命がある。
【そうだなあ、別に仕事の範囲の話じゃないしなあ。じゃあさ、その打ち合わせの相手も呼んでいいかな。言ってもそんな込み合ったものじゃないし。団欒している方が向こうも和むと思うんだ】
 案の定、伊達が話に乗ってきた。俺は半ば承知しながら、
「その相手ってのは露崎のようなおもしろキャラなのか?」
 と尋ねた。伊達は電話越しに唸りながら、
【ん~、面白いかどうかは分からないけど、一応女性なんだけどさ】
 俺は伊達の言った「女性」という単語で、手すりにもたれていた上半身を起こした。
「女の子? だったら大歓迎だろ。でも、一応って何だよ。ヘタしたらニューハーフな人なのか」
【違う、違う。彼女と会うのは僕も今日が初めてでさ、詳しい事はよく知らないんだ】
「どういう事だよ?」
 俺は橙色に染まり行く弁天堂を眺めながら、その投げかけた疑問を他所に意識は「いいなあ、こういう画は」という感慨に耽っていた。
【いや、ウチの会社からさ発行部数は少ないけど、コミック雑誌を出しているんだよ。小学校高学年から中高生対象の少女マンガ雑誌。創刊間もなくて、作家が足りなくてさ。ベテラン作家勢は予定も予算も合わないし。そこで今度読み切りで新人を載せるんだけど、その作家と会う予定だったんだ。お互いまだ面識がないから、初めての挨拶程度だけど】
「ん? お前の所属部署って営業だろ。そういうのって編集とかいう連中がやるんじゃないのか?」
【それがさ~先輩の編集の人が他の大手の出版社に引き抜かれてさ、人手不足の折にそんな状況になったからさ、若手の僕が行けって事になったんだ。基本的には唐突な引継ぎ作業って所だな。零細出版の痛い所だ】
「でも、お前そんなコロコロと他の仕事が出来るわけ?」
【ま~そこが逆に小さな出版社の強みなんだけど、臨機応変というか、行き当たりばったりというか、その辺はテキトーに、じゃなくてフレキシブルにこなしていくんでね】
 と伊達はまんざらでもない調子で答えた。
「ふーん。まあ、じゃあ今夜来いよ。露崎と待っているからな。そして、とにかくその女の子は俺に任せろ。俺がホストの如くもてなす」
 俺は自信たっぷりに言った。
【ま、変な事さえしなければ、お前の盛り上げっぷりに任せるけど。しかし、露崎君は社交的だからいいとして、お前の方が露崎君とウマが合うとはなあ】
「そうだなあ」
 と台詞を延ばしながら、池の周りの歩道を歩き始めた。暑さもややおさまった夕暮れの微風が、池に浮かぶ蓮の白い花を揺らし、それらが名残惜しそうな情緒を醸し出している。
「一見謙虚な姿勢なんだが、肥大化する自我を抑えきれない性格というか。知的に見える部分もあるが、それがスノビズム溢れるハイブラウな野郎にも感じ取れるというか。単なる格好つけたがりというか。ま、少々胡散臭いし面白い奴だからな。今までの知り合いになかったキャラクターだからさ」
【何だそれ? 詰まる所悪口か】
「違う、違う。どっちかと言うと誉めているんだよ。どっちかと言うとな。じゃあ、八時ぐらいに神田の『深酒注意』に来いよ。あ、マンガ家の女の子も忘れずにな」
 と言って電話を切った。しかし、思わぬ土産だ。まさか女の子が付いてくるとは。大学を辞めて以来、浅薄なもので婦女子との縁は遠ざかっていたからな。久々に今夜は、もしかして?
「ヤルことヤっちゃおうかなあ」
 と密かに、また、まことしやかに一人言を嗜みつつ、俺は上野公園入り口の階段に腰を降ろしタバコを吸おうとした。だが、健康面の都合、というより経済面の都合で、タバコは一日四本と決めているので、再びしまいこんだ。まだ今日は二本しか吸っていないが、飲む際に残り二本は吸ってしまうだろうと思ったからだ。
「あ、そうか。金か」
 例え女の子を口説き落とせたとしても、花代、ではなくご宿泊費がない事に気づいた。俺の部屋ではちょっと、なあ。いや、待て待て。本気でそんな事を考えるなよ、俺。いくら最近ご無沙汰だからって、初めて会うのにそれはないだろう。財布が貧しいと、ハートも貧しくなる。困ったことだ。しかし、何だろう。えも言われぬこの心の高揚感は。エヘ、エヘ、エヘヘ! 目前にそびえる西郷隆盛像も笑ってらあ。
 
 現在、午後の八時半。俺は一人で居酒屋『深酒注意』にいる。そもそもは七時半頃、神田のニコライ堂の前で露崎と待ち合わせの予定だった。だが、御茶ノ水駅を降りた所で俺のPHSに露崎から電話が来た。
【あ、森沢か。さっきニコライ堂で待ち合わせという話をしただろ。その際に私が『きっとニコライ堂はロシア皇帝のニコライに由縁があるのだろう』と言ったよな。すまん。あの話は軽率だった。ニコライ堂はその教会堂を設立したカサーツキン・ニコライ大主教の名を起源としているらしいんだ。それに設計はイギリス人建築家のコンドルだとも言っていたが、元々はロシアの美術家のシチュルポフが……え? そんな事を言いにわざわざ電話をかけたのかって。いや、バイトで残業が入ったから遅れるので、直接店の方で集合しないかという提案をしたかったんだけど】
 との露崎の無駄話の時間分、俺はニコライ堂まで歩いてしまった。そして、今俺は一人で飲んでいる。すでにビールの大ジョッキとサワー、肴にはレバーの盛り合わせ、乾き物のさきいかを食している最中。
 八時五分ぐらいは「タラタラと長話をして実は遅刻かよ」と露崎を独り野次ったりしていた。八時十五分になる頃は「ったく、遅れるっていう連絡もなしかよ。女の子だけでもいいから来させろ」と伊達を独り愚痴っていた。両者仲良く遅刻しやがって。つまり俺は不満を推進剤とした勢いを持って飲んでいる。が、一方で一つの不安がよぎる。このまま誰も来なかったらどうしよう、と。何故そんな不安が生まれたかというと、残念ながら一人ぼっちの寂しさからではない。がま口の寂しさからである。奢られる事を前提にしているから、持ち金などは確認しないで俺はやって来た。実際、所持金は千百十四円。最初のビールとつまみのレバーで軽くオーバーしている。そして、戌も四つが回る頃、ふと、無銭飲食という金科玉条の四文字が浮かんできたわけである。だが、それはいかんだろう。俺は今日三本目のハイライトを取り出し点火する。残りの一本を、女の子と夜明けを迎えるための最後の一本にしようと、諦めきれぬ切なる願いを込めて。
「まったく、電話してみるか」
 とタバコをくわえて一人言を言った時、タイミング良く見慣れた背広姿の男が店に入って来た。
「遅いぞ、伊達ぇ」
 と捨てるように吐いてみたが、いつもは力強く存在を誇示する伊達の太い眉毛が、恭順して伏した犬の尻尾のように弱々しく俺には見えた。奇妙に思いながらも、俺はひとまずタバコを灰皿に置いた。顔を硬直していた伊達だが、座っている俺と対面になると急に声を張って、
「よーお、森沢! 遅れてゴメン、ゴメン。メンゴな」
 と臆面もなく、むしろ満面の笑みで言い放った。
「メ、メンゴって、お前、何のキャラだよ」
「あ、そうだな。じゃあ早速彼女を紹介するよ」
 勝手に伊達は話を進める。俺は伊達の言葉につられて女の子を探したが、それらしい姿は周りにはなかった。
「何処にいるんだよ、伊達」
 と俺が尋ねると、伊達は唇と目を後方に引きつらせ顔面ジェスチャーした。俺は左に一歩移動してみる。すると身長170センチ弱の伊達の後ろにすっぽりと収まっていた人影が現れた。
「えーと、彼女の名前は小野寺真琴さん、です」
 伊達が何やら自信のない口調でそう言った。俺は伊達が「彼女」と言って紹介した人影を、細目にしながらやや前のめりになって見つめた。髪型はボブ、と言えば聞こえは良いが、手ぐしケア丸出しの乱雑ベリーショート。耳も首筋もすっきり出してはいるが、6:4程度に分けられた前髪だけが妙に長く、ゲゲゲの鬼太郎ばりに左目の方がほぼ隠れている。そして、身長は155センチあるかないかの小柄で、一見するとジージャンとジーパンのデニム固めの服装がダブついているが、それは痩せぎすの体型をただ単純に顕著にしているだけ。ダイエット・ブームの昨今ではあるが、あまり羨ましがられるようなスリムな感じはしない。バストの部分の膨らみは、どう見てもブラジャーの大きさだけで、残念ながらのがっかりオッパイ。ウエストからヒップにかけても女性独特のふくよかさがない。セクハラの意味じゃなく。いや、むしろセクハラを誘発しないお得なスタイルだと思う。見た目はほとんど少年で、スカート辺りを着ていてもせいぜい中学生の小娘程度。
「で、こいつが森沢和馬。一応僕の友人です」
 伊達が俺を紹介すると、
「はずめ……初めまして」
 と声を吃らせながら、視線を落としがちに彼女、小野寺真琴は言うと、彼女の色白の頬の肌がうっすらと紅潮した……と言えば可愛らしく聞こえるが、それ以上にクラ~いオーラを発散させている。彼女は俯き加減に、胸の辺りに絡めた両手の親指の爪と爪とを、カリカリと擦り合わせていた。
「ど、どうも。はは、なかなかコケティッシュな魅力がおありで……」
 とやや誤魔化しがちの、はにかみ笑いの俺。俺は女の子をヨイショする事は一般成人男性以上の話術、詐術の類いの自信があったが、彼女の前では何やらその自信も揺らいできた。
「あ、伊達さん。ちょっとトイレにえっても……」
 小野寺は申し訳なさそうに伊達に尋ねてきた。伊達は不意を突かれたように、
「トイレ? ああ、どうぞ、どうぞ」
 と促した。彼女がトイレに向かうと、俺は灰皿のタバコを口に寄せ伊達に尋ねた。
「あの子が例の?」
 伊達は大きく息を吐くと、
「ふう、ああ、そうだ。内気な性格だってのは聞いていたんだけど、あんなに大人しいとは思わなかった。彼女は岩手の出身でさ、訛りがあるからそれが気になっているらしいんだが、まあ、ここまで来るのにほとんど喋れなかったよ」
「ただでさえお前は女性と話すのは苦手だもんなあ」
 俺はからかい半分に言うと、
「ん、まあ、そうなんだけどさ。だからお前がいて良かったよ」
 と伊達は普通に受け答えをした。
「で、でも、伊達さあ。俺はああいうタイプが苦手なのは知っているだろ。もっと軽い感じで遊んでいるタイプかつ茶髪系の女の子の方が……」
「いや、まあ、とにかく森沢、頼むぞ。僕は会社に大事な書類を忘れたから、ちょっと取りに帰るんで、その間は場を埋めといてくれ」
 伊達はまだ黒いツヤの残る鞄を脇に抱えて神妙に言った。
「はあ? 何だよそれ」
「だ、だから書類を忘れたんだよ」
「何の書類だよ」
「だから、だ、大事な書類だよ」
「のび太君のパパじゃあるまいし。何か胡散臭いなあ」
「と、とにかく、彼女にもその事は言っておいたから、後は頼む。温かい雰囲気を作っておいてくれ」
「おい、逃げ込みかよ。真面目だけが取り柄のくせによお。一応は仕事に関係のある……」
 俺がそう言いかけると、伊達は中腰になって一歩迫り、
「奢るから」
 と手を合わせて言った。俺はテーブルに右肘を置いた。そして、軽く右の親指を噛むとゆっくり瞼を閉じて、
「早めに戻って来いよ」
 とただ一言告げた。伊達は曖昧な感じで俺に会釈すると、早足で店を出て行った。幸運にも俺の奢らせ計画はいとも簡単に達成しようとしている。悪くはない展開だ。しかし、逐次万事順調とはいきにくい予感が走る。
「伊達さんは書類を取りに帰ったんですか?」
 と微妙に訛りのある声が俺の耳に入った。いつの間にか俺のすぐ横に小野寺真琴が立っている。俺は吸っていたタバコを反射的に灰皿に潰して立ち上がった。
「あ、ああ。まあ、座って、座って。とっとと飲んじゃおうよ」
 席に座るように俺が促すと、彼女は遠慮がちに腰を沈めた。ふう、とりあえずいつものペースでいくか。
「じゃあ、小野寺さんは何を飲む?」
「あたし、おサゲは……お酒は飲まねぇから、ウーロン茶を……」
「またまた、そんな事言わないでさあ」
 と酔わせる気など毛頭ないが、ノリを良くするために酒を勧めてみた。だが、彼女は下を向いて絞り出すような小さな声で、
「ウ、ウーロン茶を……」
 と呟いただけだった。俺は頷きながら、
「そ、そうだよねえ。無理にお酒を勧めてもなあ。何か下心があるとでも思われちゃうしなあ」
 と冗談半分に言ってみたが、彼女は何の反応も見せなかった。俺はここで会話を途切らせてはまずいと思い再び質問をした。
「何か食べ物は?」
「えらねぁです」
「えらねぁ? って枝豆かな」
 と俺が聞き返すと、彼女は下唇をかみ締めながら、
「……要らないです」
 と短く、早口で言った。
「あ、そう。じゃあ、俺が適当に頼むね」
 そう言って俺が注文をすると、その後暫時の沈黙が俺と彼女を包んだ。いつもの週末の夜は込んでいるはずの店内が、今夜に限っては妙に人気が少なかった。それがいっそう俺らの酒席の陸の孤島化を際立たせているように感じた。俺はレバーとビールの交互食息作業で間を埋めているのも気まずく感じ始め、初対面に際しての基本的な話題を模索し始めた。
「えーと、小野寺さんは岩手の出身って聞いたけど、盛岡の方かな?」
「えーえ、そでねぁありません。花巻です」
「あ、花巻市って宮沢賢治で有名な」
「はえ……はい」
 ぎこちない感はあるものの、何とか彼女も小さな声ではあるが、はっきりと受け答えしてくれている。アッパーで攻めるよりもジャブで慣らすか。
「それじゃあ、いつ頃東京へ来たの?」
「今年の四月、です」
「なあんだ、まだ来たばかりじゃん。そんな早く訛りは取れないよ」
 と思わず言ってしまった、俺。訛り。余計な失言を。思ったより普通に会話は展開していたのに、自ら墓穴を掘ってしまった。しかもこんなに早く。
「いや、いやいや、えーと、ズーズー弁ってなかなか俺は好きだなあ。何だって言葉に温かみがあるもんな」
「泥くせぁだけです」
「あ、いやいやいやいやぁ……」
 俺は揉み手をしながら、雰囲気を濁しがちに笑うように努める。
「森沢さんはどごの、何処の出身ですか?」
 意外にも小野寺の方から声をかけてきた。
「え? 俺は富山だけど」
「訛りとかは?」
「いや、一応方言はあるけど俺には関係なかった、かな。両親とか周りに訛りがキツい奴がいなかったから」
「……でしょうね。おいは、あたしは父が岩手で母が宮城の出身で、二人ともそのまま土地の言葉を持ってきたから……」
 小野寺の台詞が語尾に従い徐々にトーン・ダウンしていく。
「い、いやぁ」
 気まずい状況だ。口を滑らしてしまったからなあ。それにしても彼女から発散する引きこもった霊気は、なかなかどうして手強い。俺は取って置きの最後のタバコを、何のためらいもなく口にくわえる。あまり得意分野ではないが、マンガの話を切り出すか。マンガ少女なんだし。
「そういえば伊達の所からマンガ家デビューするんだったよね。おめでとう」
「あ、ども……ありがと……ございます」
 探り探りに言いながらも、小野寺の声は徐々にトーンを上げているような気がした。
「今まで一人で描いてきたの?」
「いえ、上京してから上原(うえはら)美(み)佐(さ)先生のアシスタントをしていました」
「上原美佐? 何処かで聞いた事がある気が」
「センセの……先生の作品の『恋のラグランジュポイント』が今度アニメになる予定ですけど」
 そのタイトルを聞いた時、そのマンガが最近ちょっとした話題になっていた事を思い出した。三角関係をモチーフとしたラブコメという、王道中の王道のようなストーリーだが、そのコテコテのスタンダードっぽさが、何やら昭和末期の少女マンガの匂いを感じられるという事で、非レディコミ層の二十代後半から三十代の主婦やOLに受けているらしい。そんな記事をテレビだか雑誌で見た記憶がある。
 俺は一人納得しながら、
「ああ、知っているよそのマンガ。へえ、すごいなあ。その人のマンガのアシスタントをしていたんだ」
 と感心して言った。小野寺は運ばれてきたウーロン茶を一口飲み、
「そんなことないですよ。先生の作品が優れているだけですから。あたしなんて微々たるものです」
 とアクセントのない抑えた話し方をするものの、その口調は明るいものになっていた。俯いていた彼女の口からうっすらと歯が覗いた。よし、この路線で当たり障りのない会話を持続するか。
「謙遜する事ないって。事実デビューするっていう結果を出しているんだから、これからは君が小野寺『先生』になるんだろ」
「せ、先生だなんて、そったな身分じゃないですよお」
 と小野寺は答えると、はにかみ笑いをしながら再びウーロン茶を口にした。俺は彼女の飾り気のない笑顔を見ると変にホッとした気分になった。会話が弾んできたという安堵、というよりは彼女の嬉笑の瞬間そのものに得心した感じ。それは訛りがかった彼女の口調に素朴な親近感、まったりとした脱力感があるからだろうか。それとも温度のある一つ一つの言葉が牧歌的で、小動物を愛でたくなるような衝動を発生させるからであろうか。狭そうな額をどっぷりと覆っている前髪が、性格が暗そうな印象を与えているが、実際は彼女の性格の根っこの部分は明るいのではないか。照れながら前髪を所在無く掻き分ける彼女を見て俺はそう思った。
「森沢さんは少女マンガとがは読まね……読みますか?」
 と小野寺は俺の目をはっきりと見て尋ねた。多少つり上がっていて、意志の強そうな目を彼女が持っていることに、俺は気づいた。俺は右肘をテーブルに置き、その手に持つタバコで宙に円を描きながら、
「少女マンガねえ。基本的にマンガはあまり読まないガキだったからな。小野寺さんはどういうマンガを読んできたの?」
「おいは……あたしは上原センセの作品は勿論ですけど、萩尾望都センセの『トーマの心臓』や『11人いる』なども好きですし、大島弓子センセや竹宮恵子センセの作品もえっぱあ……たくさん読みました。樹村みのりセンセの『ポケットの中の季節』もとってもエエ作品ですよ」
 と小野寺は台詞の起伏も激しく無邪気に語る。俺は彼女の言ったマンガ家の名前だけはうっすらと知っていた。所謂、少女マンガの興隆期に活躍した人たちだ。俺は思い出しながら、
「確か、そのマンガ家さん達は……花の二十四年組とか呼ばれてなかったっけ?」
「はあー、よくおんべで……知ってますね、森沢さん」
 そう言いながら彼女は唇を突き出して破顔一笑した。
「活躍された皆さんが昭和二十四年生まれだから、称して花の二十四年組とよんばれて……呼ばれていたんですよね。実際は皆さんが二十四年生まれではねぁらしいですけど」
「ふうん」
 俺は相槌がてらにチビていくタバコを一服した。
「実は森沢さん、意外と少女マンガのことご存知なんでは?」
「いや、本当に知らないって」
 小野寺は目をくりっとさせて、何かを期待するように尋ねてきた。だが、本当に俺は少女マンガについて知らない。たまたま知っていたのは、小野寺の言ったマンガを郷里の姉が幾冊か持っていたからだ。
「でも、石ノ森章太郎センセは知ってますよね?」
「えーと、『仮面ライダー』とか『サイボーグ009』を描いた人だろ」
「んです、そうです。石ノ森センセの作品も、えれえ魅力的なマンガが多いんですよお。『ジュン』や『龍神沼』も素敵だし。あ、知ってます? 石ノ森センセの本名はあたしの名字と同じで小野寺なんですよ。それに……」
 先ほどまでのダンマリ状態を吹き飛ばす鼻息で、小野寺は舌先滑らかに熱く語りだした。たまに飛び出す訛りを修正しながら。だが、基本的に女の子はおしゃべりだから、こういうノリの方がしっくりくる。しかし、露崎もこういう類いの話をしゃべりたがる。~論やら~説やらを。決して俺は聞き上手ではないのだが。小説家なりマンガ家なり、そういったクリエイティブ系の人種は、口からにしろ行動からにしろ、自己表出的、何か溢れてくるものがあるのだろうか。そう思いながらしばらく俺は小野寺の姿を見ていた。
「……で森沢さんは今、どういったご職業をされているんですか?」
「へ?」
 小野寺が丁寧なしゃべり方で質問してきた。ボーっと彼女を見ていた俺を他所に、小野寺自身の話は終わっていたらしい。俺にとって唐突気味の「ご職業は?」との振り。返答に逡巡する。いや、唐突気味の振り以上に俺自身の今の立場に戸惑いを感じているからであろう、きっと。
「俺は何となく、何かしているよ」
 それが煩悶した末の俺の回答だった……わけではないが、頭に浮かんだ台詞はそうだった。または強引にでも「何となく小説を書いている」と言った方が良かったかも知れない。だが、そんな戯言を彼女の言う「マンガを描いている」という言葉と比肩するのはあまりにも失礼な気がした。いや、比べる方がおかしいか。ただ「何となく」という冠詞だけはどちらにしろ添えていたはずだ。今の俺には相応な語彙だと思っているからだ。
「そう……ですか」
 彼女が力なく呟くと俺の内心を察したかのように、それ以上の追及はしてこなかった。笑みもなくなっている。いかん、何をしているんだ俺は。どうして表情を険しくしている。
「いや、毎日をつまんねえバイトで糊口を凌いでいるだけだから、あんま話のネタにはさあ」
 俺は焦り気味かつ弁解じみた口調で小野寺に振る舞った。すると調度良いタイミングで、
「おいっす!」
 とノー天気な合いの手が入った。その声に振り返ってみると、背後に顔を赤らめた露崎が立っていた。
「露崎ぃ、遅いぞお前……って、ちょっと酒くせえぞ?」
「いやいやいやぁ、実はバイトの先輩の就職が決まってさぁ。それでそのお祝いしてたんだぁよ。いやね、ホントは私も残業終わったらすぐに向かうつもりだったんだけどぉ、捕まっちゃってさあ」
 酒気帯び、というか、まあ、イイ感じですでに酔っている露崎は、頼りない語調にして上機嫌に語った。この男の酔い方はおおよそ一般的な笑い上戸に属する事は、前に一緒に飲んだ事があるから実は知っている。そして、普段はキリっと引き締まった眉にしろ目にしろ口元にしろ、これまた一般的な笑い上戸の方々と同じくネジが外れたように緩む。こいつの場合は平素が二枚目を気取っているので、酔うと顔面が土砂崩れを起こすと言っても過言ではない。
「あれれ? 伊達さんが来るって聞いたけど、座れば牡丹のような可憐な女性がいるじゃないですかあ」
 す、座れば牡丹? って。露崎は少々冷えた発言をして、なだれ込むように俺の横に座ってきた。俺の肩をしきりに叩く露崎を気にしながら、
「ああ、彼女は小野寺真琴さん。マンガ家さんなんだ。で、伊達は今……」
 と俺が言い切る間もなく、露崎はテーブルに上半身を乗り出し、
「へえ! マンガを描いているんですかあ。すごいなあ、エンジニアじゃないですか。ビジュアル・エンジニアじゃなぁいですか」
 と小野寺を指さし一人満足そうに言った。小野寺は半ば唐突に現れた、露崎の一連のだらしなさっぷりに押され気味のようだった。彼女は肩をすくめながら、
「あ、どうも」
 と小さな声で言った。これはフォローせねばなるまい。
「あ、小野寺さん。このバカは露崎征次郎って名前でいちおう小説を書いている人種なんだ」
 俺がそう言うと、露崎は一呼吸の間を置き、コクリと黙って頷いた。小野寺は一瞬目を見開いて興味津々に尋ねてきた。
「え、小説家なんですか?」
 しかし、露崎は注文を取ることに夢中で、店員を呼ぶ作業に決め込み、彼女の問いを聞いてなかったようだ。仕方ないので再び俺がフォローする。
「ああ、まだ専業とはいかないらしいけど。本も三冊ぐらい出したって言っていたし。それに何かの賞を取ったとか取らないとか。おい、露崎。何て賞だっけ?」
 俺は露崎の頬を軽く叩き尋ねてみたが、露崎はこちらに振り向くと勝手に話を進め始めた。
「いやあ、良いですよね。マンガですか。アートですもんねえ、マンガは。私も『鉄腕アトム』とか『天才バカボン』ぐらいは見聞があるんですが、やっぱり少女マンガですよねえ。あ、そうだ一つ聞きたかったんですけど、『ベルサイユの薔薇』ってベルサイユ体制を巡る話なんですか? 私の当て推量だと、ベルサイユ条約によって不利な条件を突きつけられたドイツの、ナチス独裁までの経緯をつぶさに描いた作品だと睨んでいるんですよ。もしくはアメリカの全体主義の黎明期を……」
「あ、あの作品はフランス革命の頃が舞台なんですけどお」
「おーおー、ルイ十六世ですかあ。凄いですねえ、絢爛にして壮大な匂いがプンプンしますね。あ、ちなみに『サザエさん』って少女マンガの部類に入るんですか?」
「さ、さあ?」
 困惑した顔で小野寺は答える。酔うと露崎の話はまとまりをなくし始める。支離滅裂というか、トンチンカンというか。完全に俺様ペースにチェンジしてしまう。とは言え、小野寺の方も掴みづらそうではあるが、決してつまらなそうな表情はしていない。一方、露崎は呂律のギアを上げていく。
「へえ、岩手の花巻の出身ですかあ。イーハトーブじゃないですか。高村光太郎も縁がありますよね。きっと詩情豊かな所なんでしょうね。いいですねえ。私は地元が東京なんで、故郷という感覚が分からないんですよお。いやあ、うらやましいです」
「そ、そんなこたぁ……ないですよ」
 とこのようなテンポで露崎は褒め上げ、そして、小野寺は照れ笑い。このパターンが続いている。ったく、何が「地元が東京なんで、故郷の感覚が分からない。うらやましい」だ。俺が地元の富山の高岡の事を話しても、「薬学者の高峰譲吉の故郷だね。彼は理化学研究所の設立に貢献したり、東洋経済評論を創刊したよね。それに家畜の内臓からアドレナリンの抽出を成功させ……」と例のようにご当地偉人ウンチクを得意気に言って見せただけじゃねえか。ま、そうは言っても俺の出番がないほど場の空気を保ってくれるのは助かる。俺よりも断然うまくトークで盛り上げていることも。今まで女の子を介して露崎とは飲んだ事はないから分からなかったが、やはり酔っ払っているからだろうか。確かにこの男は酔ってしまえば、話の内容性を問わなければ舌は緩みながらも弁が立つ。シラフの時とは別の意味で。
 俺はしばらく露崎の独演に任せながら、妙に歯ごたえのある鳥皮を食べていた。露崎は饒舌を弄する片手間で、勝手気ままに酒を頼んでいる。小野寺も笑顔を火照らしながら、気分が乗ってきたのかアルコール度数の低いカクテルを飲んでいた。だが、辛さイマイチのキムチそばめしを俺が食べている頃、和んでいる場の空気の流れが変わり始めた。それは小野寺が、
「……なんです。だから、あたしはマンガ家としての技術がまだまだ拙い分、女だから生まれる感性とか、女性独特の発想だとかを前面に押し出していきたいと思っているんです」
 と特に引っかかるような部分のない発言をした時だった。露崎は発声や動作を一瞬止まらせた。次に露崎はグラス半分以上残っている大ジョッキのビールを一気に飲み干し、
「じゃあ、聞きますけど、何ですか、その女性的なセンスって?」
 と座った目で突然言い出した。さらにオクビを添付して。その声は明らかに今までの「そうですね」と相槌を打っていた懐柔のトーンではなく、「これから俺は否定的な自己主張をするぞ」とマニフェストする、あからさまに尖った口調だった。小野寺も露崎のその一言だけで、変わり様に気づいたのだろうか、口元まで持っていったカクテルを途中で止めた。状況が掴めていない表情で、
「え、えーと……それはオドゴの……男の人の視点からとはまた違った観点で……」
 と小野寺は前髪の隙間から目を泳がせて答えた。今度は露崎が間を置かず、
「それは異性間に存在する同一的な思考、もしくは感覚の存在を否認し、逆に一方の異性の優位を肯定する、いや、認知するということかな。そうするとつまり、君の話の論脈から推考すると劣位になっているのは男性だよね。確かに生物学的に言うと女性の方が男性よりも優秀であるかも知れない。単純に女性の方が強い、ということだ。機能面というよりは肉体そのものの性能面で。女性に身に付いている脂肪質の内在量や、アポトーシスを防ぐ卵細胞ホルモンのエストロジェンの働き等などを加味すればそれは否めない。とすると、ハムレットの文句で『Frailty,thy name is woman.(弱き者よ、汝の名は女なり)』というのがあるけど、それは一概に飲み込めないだろう。だが、脳内はどうか。一般的に男性の大脳は女性のそれよりも一割弱大きいし、男性の左右脳は全般的にどちらかが支配的だが、女性の方は左右のそれが同じ大きさであり抑制能力が……」
 止まることを知らない露崎の語り。小野寺は「ご、誤解です」と言いたげな身振りで、露崎の話に割り込もうとしたが、酔いを無視したような鋭い口調で演説をかますその男を制止するには至らなかった。俺も何となく露崎が、「君は女のほうが男よりも勝っていると言いたいのだろうが、それはどうだろう?」的な内容の話をしているのは把握できたので、
「お、おい露崎ぃ。生物の話はいいからさ、得意のロシア文学を熱く語れよ。革命がどーたらとか。ほら、パステルナークのドクトル・ジゴロだっけ? 何か熱く語ってたじゃんかよ」
 と振っても露崎の一人語りは止まらず、それからも二,三分は続いた。
 「……であるから空間認知能力や論理的読解能力、数理処理能力などは男性の方が優れているという結果が出ているんですよ。あくまで通俗的な実験で確定要素ではないですけどね。しかし、総体的なサンプルにはなるんじゃないですか。どう思います?」
 小野寺は困惑以上に泣きそうな顔をしていた。それもそうだろう。露崎は男が女よりも偉い、みたいな台詞を得意顔で言っているのだ。堅苦しい理論武装をして。小野寺自身はただ単に、女性独特の感性云々、の話を切り出したに過ぎないのに。
「お、おい。露崎ってば……」
 と俺が接してみても、露崎は獲物を捕らえたような眼差しで、小野寺のリアクションに待機している。小野寺は小刻みに震えながら、
「あ、あたしはそんな事分からないし、それに……」
「なるべくなら精神論ではなく整合的な分析で言ってほしいな」
 露崎の強い声の調べ。そして、しばらくのダンマリ。気の強い女の子なら「何言ってるのよ!」の一言でも返して幕を降ろせたかも知れない。だが、彼女にとってはそれは無理な話。
 俺は場の雰囲気が明から暗に転向したのに気づいた。もう、こりゃ駄目だ。
「すつれいしますっ!」
 小野寺は沈黙を溜めた後、そう言い放った。そして、席を立ち上がり店から出ようとした。気まずくなるとは想定していたが、さすがに彼女がドラマチックにもこの場から立ち去る事までは配慮になかったので、虚を突かれた分ワン・テンポ遅れて俺は彼女の後を追った。俺は店の出口付近で彼女を捕まえ、
「待ってよ、小野寺さん。あいつ酔ってるから妙な戯言を……」
「ひでぁです! せっかく友達になれると思っていたのに」
 そう答えて俺の顔を睨んだ。やや充血していた彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。その姿を見て俺は一瞬力を抜いてしまった。その隙に彼女は俺の手を振り払い店から出て行ってしまった。レジの店員は具合が悪そうに「あ、ありがとうございました」と言うと、彼女をしつこく追ってしまえば痴話ゲンカの類いに見られると思い、その場に俺は立ち止まってしまった。
「ったく、まいったな」
 と一人呟いた俺だったが、根深いものにはならないだろうと安易な直感をした。露崎もそうだが、おそらく彼女も酔っていた。アルコールの摂取量は少なかったとはいえ、酒は弱いと言っていたし。さっきの彼女の表情を見ればそれは分かる事だ。まあ、半ベソはしていたが。だが、酔いが回っていたからこそ、店を飛び出すような少々情熱的な行動に出てしまったのだろう。だから酒の上での涙なら救いは十分ある。俺はそう高をくくって席に戻る事にした。席では露崎がまだ一人でブツブツ言っている。
「……だいたい近代の少女マンガにしろ少女小説は、『源氏物語』や『赤毛のアン』の定型化のアナロジーに過ぎないんだ。吉屋信子の小説だって……」
「おい、露崎。何てことしてんだよ。酔っ払ったら女の子に言い掛かりをつける傾向があるのか、お前は?」
 俺は怒りを表すよりも呆れた感じで露崎に尋ねた。だが、露崎は俺の質疑の応答にはそぐわない独白をしているだけだった。
「……つまる所、女が書くモノには思想がなく主義も薄い。時代の捉え方だってアマい。そうだよなあ……時代、か。どうなんだろうなあ時代って?」
「は、はあ?」
 のらりくらりと話す、分裂症気味の露崎の問いに、俺は即座に回答を抽出出来なかった。
「私だってさあ、時代のせいにはしたくないよ。だけどさあ、ロシア文学がその当時の時代との密接な連結を成しえたのは、社会主義という思想であり哲学が、文学者たちの苦闘の軌跡が……。そうだよ、見えていたんだよ。苦しみにしろ、喜びにしろ時代ってやつがあ。少なくとも現代よりはさあ。今ってさ、思想にしても単純に知識にしろ、それらに下地がないんだよ。例えば、事前知識なく小学生にドストエフスキーを読めって言ったって無理な訳じゃないか。それこそ外国の映画だって字幕があるから、他国の言語が分からない人々も理解できるんだし。言葉そのものが分からなければ無理だろう。例え、優れた作品が世に出ても、あまりにも無知だったらどうしようもない。芸術ってやつは損な役柄だ。芸術というのは理解を深めるのが困難であるからこそ意義があるんだ。シクロフスキイだってそう認めていたんだ。でも、根本的な部分の知識が浅薄だったら個人の思考手段だってままならない。だから、だから私は公衆のレベル・アップ化を画策しようと……はは、不遜な言い方だよ」
 やがて露崎の愚痴は自嘲する事によって一息ついた。俺は席に座り溜め息混じりに完全に聞き役に徹していた。暫時の沈黙。その間に向かいのテーブルから豚肉とピーマンの細切り炒めを注文する声が聞こえた。
 俺は露崎の演説が終わったと解釈して、「そろそろ出ようか」と声をかけようとしたが、露崎は瞬きもせず固まった状態で下を向き、
「私はオネーギンなんかじゃない。いや、それとも……それに憧れているのか?」
 そう言いきると一つオクビをかました。
「へ、オネーギンって?」
 と俺が尋ねてみたが、露崎はおくびにも出さず、ただ、
「私は『余計者』を望んでいるのか……」
 と付け足しただけだった。
「だから何だよ、そのオネーチャンやら余計ってのは?」
 そう聞き返すと再度暫時の沈黙が訪れた。俺は露崎が俺の問いを答えるものだと考え、それを待っていた。そして、今にも眠りそうな目をした露崎が漏らした言葉は、
「本当、女は分からんよ」
 の一言だった。しかもボソリと。
「は? 何で話がそっちに行くんだよ」
 明らかに露崎の話の脈絡が元の鞘に戻ってしまったので、思わず俺はツッコミを入れた。だが、そんな俺を尻目にその後も露崎は「女は分からん」を連呼すると、ビールのジョッキを握りながら、テーブルに真っ赤な顔を乗せて寝息を立て始めてしまった。
「まったく」
 俺は吐くように呟き、サワーの残りをチビチビ飲む。
 それから五分後に「お待たせしましたあ!」と言って無理な笑顔を作って戻ってきた伊達に、俺が一部始終を話すと伊達が「ウ、ウソだろ~!」と嘆き、酒の一杯も飲めず店を出て行くのは自明の理であった。そして、俺の財布には述べたように電車賃分しかなく、また、酔っ払っている露崎の懐から引っ張り出したが銭入れも、ちゃっかり帰りの電車賃分しかなく、結局は伊達が全部の飲み代を払うのも、これまた自明の理であった。
 酔夢状態の露崎を強引に起こし、「私に触るなあ! 不愉快だ。帰る!」と露崎が吠え、ヨタヨタと一人駅に向かって行ったやはり露崎を、憮然とした状態で見送ってからアフター二十分。俺と伊達は万世橋で、すっかり緩やかになった電気街のネオンを見届けている。石丸電気にしろラオックスにしろ、電灯が消えたそれらは殷賑の終息を示していた。そして、橋の欄干に肘をついている俺らの背中では、不特定多数の人が行き交い忙しく何処かを目指している。一時は気温が下がってきたと思っていたが、残暑は夜になった方がよりしつこく俺の喉の周りを撫で繰りまわす。不快の感がある俺の横で伊達は酒にはもう未練がないのか、缶のジンジャーエールを片手にそこはかとない侘しさを醸し出していた。
「まったく、お前がいながら……」
 伊達は疲労困憊の溜め息を交えて吐露した。俺もまた疲れ露わに、
「だから俺はベストを尽くしたって言ったろ。全部露崎の奴がブチ壊したんだ。だいたいお前だって途中退場したじゃねえか」
「それは……大事な書類を取りに戻るって言ったろ」
「だからその大事な書類って何だよ」
「だ、だから大事な書類だって」
 もう少し語彙の豊富な言い訳は出来ないのか。伊達は小刻みにジンジャーエールの缶を握る指を震わせて返す。
「もういい」
 そして、互いが再び嘆息する。この繰り返し。俺はタバコを吸おうとしたが、既に今日の分は吸ってしまった。伊達はノン・スモーカーなのでタバコを持ってはいない。タダ酒とタダ飯にありつけただけでもヨシとするか、と俺が心のうちで納得していると、伊達がさりげなく呟いた。
「しかし、露崎君がそんな事を言うとはなあ」
「でも、アイツって酔ってしまうと、歯に衣を着せないというか辛辣というか、意外とそういう感じの否定的な意見を言ってしまうからな。この前だって『アメリカのコマーシャリズムが文学をダメにしたんだ!』ってシャウトして、奴がアンチ・アメリカだって事が分かったし。しかし、一見フェミニストっぽい露崎が、女性的云々を肯定しない発言をするとは思わなかった」
「露崎君は小野寺さんが言った『女性的なセンス』という部分に絡んできたんだよな?」
「ああ」
「そうか。う~ん」
 伊達はジンジャーエールを欄干に置いて一人考え込んだ。その時、伊達の携帯電話の音がした。伊達は電話に出る前に「小野寺さんからだ」と囁いた。
「はい、伊達です。あ、うんうん。いや、そんなに謝らないで。ああいう席で他の人間を呼んだ僕の方が悪いんだから。それに酔っていたとはいえ何か失礼な事を……あ、そう。はい、分かりました。いえいえ、こちらの方こそゴメンね。じゃあ、また連絡をするんで。はい、お休みなさい」
 伊達は電話を切ると、ホッと一息ついたようだった。
「さっきは勝手に帰ってごめんなさい、だってさ。今、酔いが醒めて反省してるって。それにお前や露崎君にもくれぐれもよろしく言っておいてくれ、だそうだ」
 疲れた表情にようやっと笑みを浮かべて伊達は言った。その笑みが伊達の目元の皺を一瞬顕著にしたのを俺は見逃さなかった。
「俺はどうでもいいけど悪いのは露崎だ。彼女が詫びる必要はないよ。お前らの仕事については知らんけど。それよりも伊達、お前さっき何か考え込んでいたけど、引っかかる事でもあるのか?」
 俺がそう告げて、伊達が欄干に置いたジンジャーエールを手にして飲もうとしたが、しっかりと空になっていた。
「え? ああ、なあ森沢。天野(あまの)陽子(ようこ)っていう女流作家知っているよな」
「作家の天野陽子? ああ、最近彼女の小説がテレビ・ドラマになっていたよな。若い女らに支持がある人気作家だろ」
 天野陽子。少女小説畑から出てきた気鋭の小説家だ。最近話題のテレビ・ドラマの原作に使われたのでその名は知っていた。が、当然のごとく伊達が唐突に彼女の名前を出した事に対して俺は疑問を覚えた。伊達は多少ためらいながら、
「そうなんだけど……どうやら彼女と露崎君は同じ高校の同級生らしくて、その、当時二人は浅からぬ関係だったようで、つまりは……付き合っていたらしい、と」
「はあ? マジで」
 その話は俺にとって驚きの事実、というよりは思いがけない笑い話だった。天野陽子の小説は詳しく知らないが、乙女っぽい小説からハーレクイーンのような小説、さらに自立した大人の女チックな小説を書いていると聞く。そして、それらには定石のように恋愛が付随する。それを華とするならば、地味で思慮深そうな露崎の小説のカラーとは異にする感がある。
「スゲェな、露崎の奴。そんなドラマチックな因縁があったのか。一言も言ってなかったよ、まったく。へえ、旬の人気女性作家とお付き合いがあったねえ。いや、まさか今でも続いているとか?」
「いや、高校時代に別れているらしい。それで、その彼女は露崎君が取れなかった中島賞を奇しくも今年受賞しちゃって……」
「え? 露崎も取ったんだろ、その賞は」
「いや、あくまでノミネートだ」
「ふうん、でもよ、それがどういう意味が……うん? 待てよ」
 俺は頭の中で安っぽい想像をした。露崎が受賞できなかった中島賞を取ってしまった元・彼女である天野陽子。その天野陽子は若い世代の女性読者に共感を得られている。それを女性作家の天分のセンスだとする。そして、小野寺への言い掛かり。
 つまり、
「露崎の奴、酔った勢いで彼女に八つ当たりしたのか? 女性的な云々ってやつに」
「いや、それはどうか分からないけど、あまり女性作家の小説は好きじゃないって事は酔うとポロっと口に出してた」
 と伊達は抑え気味に返したが、待っていましたと言わんばかりの表情から「僕も露崎君に対してそう思っていたんだけど、自分ではその台詞は言い難いから森沢が言ってね~」というそれが察しられた。俺はまんまと伊達の誘導尋問に乗せられたわけだ。やれやれ、さすが社会人。あざとさは兼ね備えている。俺は諦念と感服の舌打ちをかまし、
「何だよ、アイツ。案外、懐が狭い奴だなあ。どうせその天野陽子にフラれた腹いせだろ。嫉妬じゃねえのか」
 と伊達の口車に乗せられたうらめしい思いを露崎に向けた。
「フラれたかどうかは知らないけど、天野陽子と付き合っていたのは本当らしい。作家として気になっているようだし」
「そりゃあ、そうだろ。昔の女が作家として抜きん出ているんだ。でも、不思議な偶然だよな。二人が一緒に作家になっているなんて」
「果たして偶然かなあ」
 伊達はさりげなく意味深な言葉を漏らした。これもまた「聞いて! 聞いて!」と誘導するような面影を匂わせる。仕方ないので俺はそれに乗じてやる。
「何か知っているのかよ、伊達?」
「いや、露崎君が作家デビューしたのは二年前だけど、確か、彼女、天野陽子が作家として厳密にデビューしたのは高校の二年生ぐらいだったと思うんだ。本格的に活躍し始めたのは短大を卒業してからだけど」
「高校時代? それなら露崎と付き合っていた頃と……」
「そう、重なるかも知れないんだ」
 それならば露崎にとって天野陽子とは彼女であり、作家として影響され、また、その師匠とでも言うべき存在だったのだろうか。狙い通りならアンビバレンスな紙一重のドラマが垣間見られるものだが。
「う~ん、何だが色々と因縁が膨らんできそうだが」
「お、おい森沢。あまり露崎君に天野陽子との関係について聞くなよ」
 俺が推理小説を楽しんで熟考しているような様子を気にしてか、伊達がダメ出しをしてきた。
「分かっているよ、それぐらい。ただデビューの時期がさ……って、そういえば何でお前は天野陽子と露崎が付き合っているのを知っているんだよ?」
「露崎君と昔飲んでいた時、やたらと新進作家の天野陽子をグチっていたから、僕がどうしてそんなに彼女を意識のか尋ねたら、露崎君がポロっと、というかドシドシ吐いてくれた」
 と伊達は手もみしながら言った。なかなかどうして伊達にもイヤラシイ所がある。確かにそんな事を聞かされたら、俺にしろ伊達にしろ下世話な勘繰り及び邪推をしてしまう。
 俺は鼻から嘆息し、
「へえ、露崎がねえ。色々とアイツも過去があるもんだ。作家故の特権的かつ劇的な背景ってやつかな。まあ、俺はアイツの作品とか知らないからなあ。そういえば露崎のデビュー作ってどういう感じのなんだ?」
「うーん、それは……島田清次郎という作家を題材にした伝記的な作品、という感じかなあ」
 伊達は顔を俯き下唇を噛みながら答えた。
「何だよ『……感じかなあ』って。だいたい島田清次郎って誰だ?」
 伊達は咳払いをすると、
「露崎君がデビューを飾った『駆け抜ける嵐』というタイトルの作品は、島田清次郎という大正期に活躍した作家が、若き日に理想と情熱に奔走し、そして、その後の妄執までを描いた作品なんだ。一応、直木賞作家の杉森久英氏の『天才と狂人の間』を下地にしたらしいんだが。僕は島田清次郎という作家は知らなかったし、杉森氏の作品も未読だから何とも言えないんだけど、露崎君のそのデビュー作は正直、僕にとっては難しい作品だった。自然主義への反抗とか、ロシア文学の傾倒などが、僕にはとっつきにくかったかな」
「なるほどね。そいつはカタそうな話だ」
「でも、読み方によっては青春文学として見られると思うんだ。主義や思想がドラスティックに変化する時代に生きた島田清次郎という若い作家の、考え方なり生き方なりがあまりに忙しく……そう、庶民の知的文化向上の理想を達成するために……」
 庶民の知的文化向上? その言葉があるフレーズを脳裏によぎらせる。
「庶民の知的文化向上って、さっき露崎が酔っている時に言っていた『公衆のレベル・アップ化』という台詞と対応しそうだな」
「え、露崎君そんなこと言っていた?」
 伊達は口を尖らせて聞き返した。
「ああ、露崎にはそんな目的意識があるそうだぞ。もしかしたら、その島田某(それがし)に自分の姿を委託したのかも知れないな。そういえば名前も同じセイジロウだし」
 島田清次郎という俺の関知しない一人の作家。だが、伊達の口から飛び出した「理想」や「情熱」というキーワード。それを聞くと何となしに露崎が彼と自分を重ね合わせている様子が伺える気がする。露崎はおそらく勘違いをしていて、ナルシストも入っていて、一見リアリストっぽいが、かなりノーテンキな夢を見ているのだろう。そう考えてみると俺とたいして精神レベルは変わらないのでは?
「露崎君はきっとマジなんだよ」
 伊達は目線を橋下の神田川に落として呟いた。それはまるで何かを達観した言い様であった。
「はあ? ただのドン・キホーテ型人間なだけだろ。あれだよ、アレ。オストリッチ・ポリシーを講じているだけ。単に現実逃避」
「いや、彼はマジなんだ。そんな逸材は十年に一度現れるかどうかだぞ」
 頑なに俺の言葉は却下され、あくまで伊達は「マジ」を繰り返す。ジンジャーエールを飲んで酔っ払えるのか? だが、伊達の目が妙にシリアスだった。さらに俺にもまだ酒が残っていたせいもあってか、
「マジなのかなあ」
 と自分の意見も早急に忘れ、不覚にもオウム返しよろしく同調してしまった。
 
 後日。
 冷静になった露崎が「彼女に無礼極まりない暴言を吐いてしまった!」とモーレツに反省して、そのお詫びに小野寺を食事に招待しようという話になった。タダ飯がまた食えるという事で再び俺も参上して。
 その際はアルコール抜きなので、波乱は起こらなかった。だが、すっかりと機嫌を良くした小野寺が途中、「タイタニックを一緒に見にえぎませんか!」と言い放ち、何故か俺と露崎を挟ませ、三人で映画館へ行く羽目になった。例の如く露崎は「監督のジェームズ・キャメロンはデビュー作の『殺人魚フライング・キラー』や『アビス』からも見られるように、水という素材に対してある種のフェティシズムが……云々」とウンチクを垂れていた。
 そんな男女三人という何かが起きそうな予感のするシチュエーションにまみれた俺たちは、その後、トリュフォーの映画の『突然炎のごとく』ばりの複雑な三角関係に発展する!
 ……わけはなかった。
               *
 今、俺が神保町の三省堂書店の四階で、『絵画の作法』という本の、印象派の画家の項を立ち読みしているのは、露崎のいう芸術の味わいとは別種の理由からだと思う。言うなれば「印象派はサロンに落選した画家達を中心に、印象主義なる芸術的・技術的手法を根ざしたんだ」と露崎が説法した方に依るものがある。印象派の連中を悪く言えば、サロンに、つまり展覧会に落ちた烏合の衆。その「落第」という点に俺は臆面もなく共感したわけだ。だから露崎の思考背景にある芸術を「マジ」に捉えている点とは関係ない。あらゆる面で俺は露崎の「マジ」とはほど遠い人種なのだ。そのように一人首肯して本に目を通していた。
「印象派の色の出し方ねえ。えーと、プリズムが陽光を分析して出す、赤・青・黄の三原色と……それらを混ぜ合わせた紫・緑・橙のみを用いて……」
 筆触はモザイクの断片のように小さく……例えば水面の描写などには作者が意図的にキャンパスに絵の具の凹凸を残し……。成る程、確かに印象派の特徴的技法というのはあるらしい。ブツブツ一人言を絡めながらではないと読解出来ないのが情けないが。また、印象派の絵には「余暇の謳歌」が寓意にあるとのこと。休日の文化やら何やらが。つまり、「生の喜びを知る・生を楽しむ」ということ。印象派の絵の独特の長閑(のどか)さはそれらをモチーフに担う部分がある。そういえば芸術そのものも休息のような「余裕」があるからこそ鑑賞に耐え、嗜好するような気がする。衣食足りて礼節を知る、というわけではないが、人生に余裕がないといちいち芸術まで頭が回らないのではないのだろうか。切羽詰っているような現代社会で「ゲージツ最高!」と叫べるのは一部のヒマ人に限られる、狭い範囲のしょっぱいイデオロギーなのではないのかなあ。
 しかし、俺自身もまた閑居人とはいえ、大学を辞めて以来よくこの街に来るようになったものだ。もっとも最近は電車賃がないので上野から散歩がてらに来てしまっているので、わざわざ来ているという意識はない。それにこの街は電車や自転車で行く、という事より歩いて行くという行為の方がしっくりくる気がする。上野・秋葉原・神田界隈は、自然と歩きたくなる魅力がある。
 上京したての頃は渋谷や銀座などを見ていた。それは単純におのぼりさんの類いなのだが。しかし、俺にとってはそれらの街は、やはりテレビが例の如く喧伝している画一的な都市でしかなかった。富山だって富山市の市役所庁舎や駅前のCIC(シック)は近代的な見栄えはするし、都市のバックに立山連峰が屹立するその景色には、地元ながら独特なミスマッチさの妙を感じる。そのような独自の濃さで言えば東京でも、銀座や渋谷よりも秋葉原や御茶ノ水の方が断然存在感がある。電気だらけの街と本だらけの街。その「だらけ」の街がよりによって隣接している。これは一体何なのだろうか。日本の電化製品の一割以上が秋葉原に集中し、百五十軒近くの古本屋が神保町に林立していると聞く。こうなったのは日本政府の壮大なる企みなのだろうか? それらの付近が学生の街と称する理由より、もっと奥深い国家機密レベルの陰謀を想像してしまう。まあ、率直に言ってしまえば不思議というか、単純にミョーな場所である、ということ。それに街の成立過程やその背景も気になる。アド街ック天国でここら辺が紹介されていたら見なければなるまい。
 俺はエスカレーターで降りる最中、エスカレーター側面の壁に貼ってある著名な作家達のポートレートを見ながらそう考えていた。
「お……」
 一階にたどり着くと、そこの新刊コーナーに天野陽子の新作の本が置いてあった。どうやら先週に発売されたらしい。本の帯には「藍色の夜が、愛色に染まる」やら「二人の悲しみは永遠の絆」とかクサい文句が連なって書かれてある。それに〈サヨナラの温度〉という本のタイトルもお座なりな感じがする。だが、堅固なその上製本を持ってみると、それなりの作家然とした距離感がある。つまり、露崎と彼女との距離というものが。それはコバルト・ブルーの表紙に印刷された名前であり、文芸書のセールスのベストテンに入っている実績であり、凛として平台に積まれた本の高さなのだろうか、と俗っぽい考えをしてしまう。それとも単に卑屈な見方なのだろうか。俺が無聊にその本の表紙をめくってみると、パリっという新品の紙が曲がる音がした。その音を聞くとそれからのページをめくる事に何故か躊躇を覚えた。よくは分からないが俺をためらわせる。結局、俺はその音に抗する手立てが浮かばず、とっとと店から出なければならないという強迫観念に屈してしまった。もしかすると露崎と天野陽子の差異として、客観的に見ていたつもりの「距離感」というやつは、俺自身のそれだったのかも知れない。そう考えると妙な空々しさを感じる。しかし、そんなニヒリズムをここ最近の東京の空は察知せず、すっきりとした晴れ間ばかりが広がっている。十月に入ったというのに、今日は真夏日を記録するおまけを付けて。
「何だよ、この暑さはあ」
 書店内で効いていた弱冷房から外へ脱すると、余分な熱気が俺の方へ群がってくる気配がした。とはいえ、俺は半袖を着ている分まだ過ごし易いが、周りにいる幾人かの背広姿の営業マンらしき連中は、息苦しそうに襟元を緩めながら歩いている。
「きつそうだなあ」
 恐らくは同年代だろう若手営業マンが、信号の待ち時間の点滅に呼吸を合わせながら、タバコを吹かしているのを見て嘆嗟する俺。それは他人事のように。実際、他人なのだからその言葉はそのまま吐き捨ててよかった。しかし、特に意識せず吐いた呟きが、カサブタを剥がした跡のように頭に残った。さっきの若手営業マンが「ちょっと待てよ。お前は何様のつもり? 上目線から見ていないか?」と言って、俺の肩を引いたように感じた。やにわに振り返ってみたが、すでに横断歩道を渡りきったのであろう、信号は青に変わっており、彼の姿は見えなかった。
「そういや、伊達もこのクソ暑い中、働いてんのか」
 伊達の濃い眉毛に汗が溜まっている画が浮かんだ。いや、伊達だけではない。普通の俺の年頃の奴は、シャツの脇を湿らせながら働いているはず。俺だってバイトとはいえ本来なら働いている時間だ。だが、そのバイトも一昨日辞めてしまったので、こんな時間にほっつき歩いているんだった。辞めた理由は特にない。バイトはつまらないし飽きたし、それに生活費も一ヶ月間は働かなくても持つ分はあるから辞めちゃおっかなあ。多分、金に困ったらその時になって再びバイトを見つけるだろうし……こんな類いの考えだから、特別な焦燥感も危機感もない。近頃までしていた小説家の真似事も、もうやっていない。今のところ、特に俺は「何もない」のである。
 振り返ってみれば、大学を中退した時から心の底では気づいていたのだと思う。中退して、新しい門出を決した所で、これからも「何もない」という事ぐらい。面倒臭い、という名のモラトリアムをさっさと終わらせれば、早く楽になれると思ったから学校を辞めたのだが、結局それはモラトリアムを終わらせるのではなく、モラトリアムから逃げただけだった。それでいてなおもそれを引きずっている。無茶をすれば、即ち自らにリスクを与えるような事をすれば、その緊迫感から大人になれると信じていた。しかし、それは自力ではなく、投げやりで他力本願的な依存した考え方だった。これでは突発的にナイフで人を刺し殺す輩と同じレベルだ。
 高校も終わりになる頃、身に起きている変化が終わりを告げた予感がした。これ以上育たない、と。肉体の成長が止まると同時に精神そのものも。俺は子供の頃は自動的に大人になっていくものだとばかり思っていた。だが、セックスしてみても大人になった感覚はなかった。北日本新聞を隅から隅まで読むようになってもそうだった。マージャンをしながらタバコを吹かし、ラーメンをすすってみても駄目だった。幾度も徹夜で飲み明かしても同じだった。車の免許を取ってみたってそうだ。頭の中が凝り固まってしまったとでもいうのか。漠然と「大人になれない」という不安がよぎり始めた。その頃、予備校の教師が雑談で「成人になるという通過儀礼が、現代社会では体感しづらい。儀式的というよりも、むしろ様式的な意味合いの強い、現代の成人式などはとうの昔に形骸化している。元服とは訳が違う。一番てっとり早く自立したければ『離脱式』を行うべきだな」と冗談っぽく話をした。俺はアホだからそれを真に受けてしまった。離脱。つまりそれは故郷の富山から離れることだと俺は解釈し、地元の大学を受けるのを辞め、何だかんだ理由をつけて東京の大学を受けることに成功した。早く親の所から去りたい強烈な思惟も相まって、そのまま東京へ脱出した。
 だが、それは脆弱かつ刹那的な考えに過ぎなかった。
 当時、俺は大人になれないという不安を感じている事に酔っていただけなのである。つまり、「俺は大人になれないという不安の自覚がある。だが、それ自体を自覚している事が実は結構大人なんじゃないかなあ」と。一時的なうぬぼれ。結局は親の金に依存していた自立。そんな中途半端な考えだから、二回浪人を繰り返す。そして、また懲りずに「俺は何かしてやるんだ」というような前向きな意気込みで大学を辞めて、今日の夕食に百円ショップでレトルトのカレーを買うか、同じくレトルトのシチューを買うか迷っている有様になっている。
 大学を辞めた当初「何もない」のは薄々分かっていたから、「さすがに俺も半年後には、ある程度生き方に見切りをつけていて、嫌々ながらも満員電車に揺られて仕事に励んでいるだろう」と諦観じみた期待は確かに存在した。東京で働ける仕事ならば、素直に従いやっていけるだろう、と。そこで大人になるんだ、と。
 地元の父親は、錆びたノコギリの歯を修繕する見立て職人をしていた。仕事場は高岡市ではなく富山市にあり、実際、父親が働いている姿は知らない。知っているのは紺色のジャージを着込み、無言で出勤する朝の場面。パチンコ狂が高じて家にパチンコ玉を持ち帰り、それをカメラのフィルムの透明の空ケースに入れて、枕元に置いて眠る夜の様相。他と言えばたいして好きでもない野球中継を見て怒鳴り、味噌汁をご飯にぶっかけクチャクチャと食べている風景ぐらいだ。そんな父親の後ろ姿を俺は遠巻きに眺めていいた。母親は母親でそんな父親の側で着かず離れずマイペースというか呑気にというか、唯一の趣味のソーイングに精を出すのみ。概して言えば家族間に特別な問題はなかったと思う。
 ただ退屈だった。
 そして、その両親が生まれ育った地元で、同じように暮らし将来仕事をしていく事に、前々から疑問を感じていた。何故だか分からない。強いて言えば、凡庸なイメージで彩られた父親や母親に、郷里の全てが曖昧に集約していったからなのかも知れない。だから俺は東京に出るチャンスが来たその時は、少なくともそこでなら、やがて社会人として働く事は出来るだろうと信じていた。
 高岡を出発したあの夜。「急行能登」の車窓から流れ去る薄明かりの夜景を見て思った。上野に到着するまでの七時間半、夜行の寝苦しい座席に腰を埋めながら、「本当の俺が始まるかも知れない。こうして俺は成長していくかも知れない」と。不思議と不安はなかった。あの頃は期待ばかりが広がっていた。大望の汽笛が響いた気がした。
 今では大人になれないという自覚が、自己陶酔になる余裕はなくなった。つらい、の一言である。青臭いビルディングス・ロマンを描かずに、もっと平面的に悩んでいれば、自然とネクタイを締められた生活が送れていたのでは、と臍を噛む思いがよぎる事もしばしば。フリーター特有の金はないが、心に錦あり、というのも飽きた。就職してないから色々な事にチャレンジできるという錯覚も食傷気味になった。現実の「ネバーランド」がマイケル・ジャクソン以外には過酷な場所だというのも分かった。かなり遅ればせながら自分のキャパシティとやらが把握できた。だが、こんな連中は今の世の中数多に存在するし、気づいた所で先駆の社会人達には相手にされない。煙たそうな目線で苦笑いされるぐらいだろう。だから、今俺が自慢できる事と言ったら、現在までの人生を総括した上で、声を大にして「人生大シッパ~イ」と認めることである……って、こいつは我ながらかなり自虐的でサムい台詞だ。だが、就職して一人前に働けば、こんなアオっぽい青春の蹉跌の懊悩など浮かばなかったはず。そもそも大人になれないとか考えている事自体が幼稚で、それにアマったれていて……。
 いかん、いかん。こんな季節外れの暑い日には自己嫌悪的な事ばかりが頭に浮かび、脂っぽい汗がそれを誘発する。だが、こういった若きウェルテルの悩み的なナーバス思考は慣れているので、意識の志向をずらしてみる試みは上手なもの。
 とりあえず俺は今進んでいる白山通りを、行ける所までまっすぐ歩いてみる事にした。そして、その途中自分で頑張って歩き切れたと感じ、さらにその恍惚感を覚えた側に偶然にも吉野家があったら、牛丼つゆだくの並に玉子をつけたゴージャスな昼食にしよう。午後三時半の優雅な昼餉を。そんな想像をすると、ちょっぴり元気なってしまう、いつも通りのリーズナブルな俺。
 ま、こんなもんだろ。

               *

 予想と直感が入り混じり、それは確信になった。
 それ、とは俺の目の前でモス・バーガーのきんぴら・ライス・バーガーを、小さな口でほお張りながら、
「先月、新宿の三越美術館で永井豪センセの原画展を見に行ったんですよ」
 と楽しそうに喋る小野寺真琴に関する事項。
「ふうん」
 そんな他愛のない俺の相槌を気にする事もなく、彼女は話を続ける。つまり、その話し方や喋っている時の身振りを見ると、一見引っ込み思案の彼女ではあるが、先天的に内気な性格なのではない、という事を確信したわけである。確かに訛りを気にして喋り方を抑えている部分はあるが、活発に表情を変えるその様子からは、感情をしまい込んでいそうな思慮深さは見えない。いや、これは失敬。言い方を変えれば屈託がなく、飽きさせない顔だということ。すっきりと切った前髪から、少しテカり気味の額や頬を覗かせ、それが彼女を健康的で明るい印象に映しているのも、要因の一つにあるかも知れない。
「ゴハンが付いてます?」
 そう言って小野寺は自分の口元を手で拭った。
「え? 付いてないけど、どうして?」
「だって何か森沢君、あたしの顔さ見ているような気がして」
「あ、ああ。真琴ちゃん髪切ったでしょ。だから似合うなあ、と思ってさ」
 と俺が言うと、案の定彼女は照れながら、
「そ、そんなこったらないですよ。あたしはクセっ毛の髪カダだから、伸ばしちゃうとボサボサになるんです。単にロング・ヘアーに出来ないだけで。そんな他意はないですよ」
「そんな他意って、どういうこと?」
 彼女の言った「他意」の意味が掴めず俺は聞き返してみた。だが、小野寺は目線を逸らし、
「あ、いや、何でもない……です」
 と誤魔化した。そして、
「キンモクセイの匂いってエエですね」
 と小さな声で呟いた。
 俺と小野寺は南池袋公園のベンチで、夕焼け色に染まった噴水を見ながら、モス・バーガーのお持ち帰りで食事を取っていた。俺は別段空腹ではなかったのでアップル・パイだけで済ましたが、小野寺はポテトも付けてきっちりと食べている。周りでは今日が休日な事もあってか、カップルらしき連中が夕暮れ時のロマンスを気取り、一定の間隔を保ちながら歩いていた。また、今日は秋らしい涼しさが心地よく、小野寺の言う通り緩やかな風が、キンモクセイの香りをそれとなく俺たちの傍に届けてくれていた。
「そうだな、悪くない」
 俺はそう言いながらタバコを取り出した。だが、隣で小野寺が季節の風情を味わうかのように、目を閉じて深呼吸をしていたので、彼女の気分を害するのも悪いと思いタバコをしまった。
「森沢君、今日はありがとう。何か気を使わせちゃったみたいで」
 俺がタバコをしまったのを察するかのように、急に彼女が言ってきた。
「なーに、金が使えない分、気なんてものは幾らでも使わせてもらうよ」
 俺は例のごとく軽いノリで答えた。
 ちょうど休日の今日は彼女の二十歳の誕生日だったので、俺が「よし、じゃあお兄さんがお祝いしてあげよう」と提案した。「そんな、悪いですよ」と社交辞令的な配慮を小野寺は見せていたが、その声はにわか上気だっていた。ということで、彼女に付き合い東急ハンズで画材を見たり、HMVで彼女の好きな八十年代の洋楽のCDを漁ってみたり、西武のデパ地下で話題のプリン・パンとやらを食べてみたりしたのである。無論、今日のデートまがいの交遊費は全部俺持ち。奢りを辞退する彼女の言葉を頑なに拒み、男の意地を通す涙ぐましい俺。男児たるものの本能なのか、男は時折、女に対して自分のフトコロ具合も考えず、奢りたくなっちゃうのである。ま、単純に見栄なわけだが。だが、失った金銭分、これからしばらくはショット・ワークのバイトに精を出さないと。
「それよりも真琴ちゃんが今日オフだったのがラッキーだったね」
「そうですね。ちょうど上原センセの方のスコド……仕事が早く一段落したから。上原センセもお友達と遊びに出かけていますよ」
 小野寺は食べ終わったライス・バーガーの包装を紙袋に詰めながら答えた。
「ふーん。でも、真琴ちゃんの方の連載の仕事があるんじゃないの?」
「ええ、だけどあたしの方は来年からなんです。まだ時間的には余裕があるから」
「それは良かった。それにしたって露崎の奴は呼んだのに『今日は小説を書く日だから』とかほざきやがって。依頼されている仕事じゃなくて、書き溜めの原稿だとか言っていた。冷たいヤローだよ、本当」
「いえいえ、露崎さんはそういう所がしっかりしていますから。あたしもそういう努力をしないと。それに露崎さんは将来をソクボー……嘱望されている作家さんなんでしょ。伊達さんがそう言ってましたよ」
「嘱望ねえ、伊達も大げさに言う部分があるからなあ。実際どんなもんなんだろ。あいつの小説って読んだ事ないしなあ」
「あたし、読みましたよ、露崎さんの作品。中島賞にノミネートされた『胎動』という小説を」
「へえ。でも、露崎の本ってあんまり一般の書店に置いてなくない? 俺、見たことないし」
「あたしは伊達さんから借りたんです」
「そっか。で、どういう感じの内容?」
 俺が質問すると小野寺は目を閉じて唸りながら、
「えーと、十七世紀だったか十八世紀だったかにロシアで起こった、確かキャノン、じゃなくて、ニコンの改革というものから逃れて、北海道に渡ってきたロシアの人々を中心に置いた話だったんですけど、あたしにはちょっと難しくて。あ、でも凄い作品だとは感じましたよ。思想というか歴史というか、その、文学っぽくて」
 と一つ一つ言葉を選ぶように語った。俺は組んでいた足を組みかえて尋ねた。
「何? そのニコンの改革って」
「うーん……と、宗教改革の一種……じゃなくて、宗教儀礼の改変で……だから、隠れキリシタンの踏み絵を踏む踏まないのようなもの……でもなくて。と、とにかく宗教の儀式のやり方が変わって、そのせいでロシアの教会が分裂して、てんやわんやする……事件です、はい」
 小野寺は頼りない呂律で答えた。かなり要約した説明であったが、ぼんやりと内容の雰囲気は分かった。
「ふうん、相変わらず込み入ってそうな話だなあ。俺は露崎の本って読んだ事はないけど、何となく理屈っぽいオーラは感じるんだよね。ま、あいつ自身はインテリかぶれっぽい部分が結構あるんだけど」
 と告げると、小野寺は目を閉じながら、
「でも、露崎さんはあえてそういうインテリゲンチアにこだわっているような部分があるんですよね。だから古典的な素材を援用しつつ、教養主義に準拠した見解が生じる事もあるんです」
「ほう、何かそれらしい事を語ってくれるじゃん」
「へへ、ずつは……実は伊達さんの受け売りなんです、今の」
 小野寺ははにかみながら下唇を突き出して答えた。
「そう言われれば伊達が言いそうだわ」
 俺も笑顔で返す。
「ま、露崎先生は一般大衆の知的レベルを上げたいって吠えていたから、その方法論に文学を使っているんだろうけど」
「え、そんな事言っていたんですか、露崎さん?」
「ああ、偉そうな奴だろ。自分の事はその大衆とやらに与していないと勘違いしているんだぜ。オピニオン・リーダーでも気取ってんのか」
 俺はベンチから上半身を前に出し、ここの噴水は夜になるとライトアップするらしいけど何時ぐらいかな、とそんな事を考えながら、放るように言った。小野寺は溜め息を一つ漏らし、
「そうですか、やっぱり格好エエですね、露崎さん」
 と囁くように告げた。
「へ?」
 意外な答えが小野寺から返ってきて、俺はさっきの言葉で露崎を持ち上げるような事を言ったのか、頭の中でリピートしてみた。結論、そんな要素は該当しない。彼女から直接聞いてみるしかない。
「格好良いって、何でまた?」
「だってそんな事言える人ってそうはいないじゃないですか。凄いですよ、そこまで明確に言えるって事は」
「言うだけなら誰でも出来るだろ」
「でも、露崎さんが言うとグンと格が上がりますよ。実際、それを実践しようとしているんだから。そうかあ、露崎さんの小説にはそういうビジョンがあるんだ」
 小野寺はひどく納得しているようだった。
「おいおい、アイツのはちょっとした寝言だぞ。ペンで世の中を変えるみたいな事を言っているんだから。明治や大正の頃ならともかく、今時そんなクサい事を本気で考えているのは、ジャーナリストでもいないって」
 俺は何やら言い訳するような口ぶりで小野寺に言い寄った。
「いやあ、本気で言い切るってとこがやっぱり格好エエです」
 小野寺は何度か頷きながら嘆賞した。どうやら彼女は俺とは違った捉え方をしてしまったようだ。露崎は女にフラれた腹いせで大言壮語をほざいているんだ、と一言足そうと思ったが、それは俺の推考の域を出ないし、露崎の名誉の為にも止めることにした。
「はいはい、露崎さんは格好エエです」
 仕方なく小野寺のトーンに合わせて相槌をすると、俺は彼女に気を使って吸わないでいたタバコを、何故か無性に吸いたくなったので取り出した。今日はこれで二本目だ。
「あ、でも森沢君も格好エエですよ」
 小野寺は変なところに気を使ったのか、妙なリアクションで返してきた。俺はそれに調子に乗って、
「どんな所が?」
 とタバコを一服しながら冗談半分に尋ねてみた。小野寺は首を傾げると、これで良いのかな? と言った口調で答えた。
「森沢君の、森沢カズマって名前がかっこええ、です」
「へいへい、カッコエエですか」
 俺は一笑しながら、彼女の訛りを真似るようにオウム返しをした。
「森沢君ったらあたしの真似しないでくださいよ。あ、言っておきますけどあたしの訛りが抜けにくいのは、オドサンとオガサンの二人ともが生粋のじゃごたれ、田舎者だからなんですからね」
 小野寺は甘口のしかめっ面をしながら言うと立ち上がり、手に持っていたモス・バーガーの紙袋を側のゴミ箱に捨てに行った。俺は立ち上がった彼女の背中越しに、
「そんなに訛っているのを気にするなよ。良いじゃないか温かくて可愛らしいし。そうだよ、似合っているよ」
 と良い意味で言ったつもりだったのだが、
「もう! だ・か・ら、そーいうのがちょっとした偏見で、地方の人間をバガにしたエエ方、言い方に聞こえるんですよ」
 小野寺は、眉間に皺を寄せたパグ犬のような顔で振り向き、強い語気で返した。
「俺も高岡からの上京小僧なんだから地方の人間だって」
 小野寺の迫力に俺は身を引きながら、からかったつもりでない言い開きをすると、
「高岡? 森沢君って富山市じゃなくて高岡市の出身だったの?」
 彼女の口調が一変して疑問形に転じた。
「あれ、言ってなかったっけ。でも、それが何か?」
 俺は彼女の機嫌を恐る恐る伺うがごとく尋ねてみた。
「へえ、そうなんだ。イイ所住んでるじゃねえすか」
 と今度は何故か羨望するように話し、クルクルと言い方が転じる小野寺。だが、それは感心しているというよりは、掘り出し物を見つけたような意を含む口ぶりにも聞こえる。そして、小野寺は、
「藤子センセの地元なんで」
 と一言加えて勢い良くベンチに座り直した。
「フジコ先生?」
 俺はそれが少女マンガ家の誰かの名前かと一瞬思った。
「そう、藤子不二雄センセ」
 小野寺が答えると俺はすぐに言葉を返した。
「あ、ああ。そうかそうか、『ドラえもん』のね。そう言えばそうだった。駅前の大和デパートの隣にドラえもんの像とか、ドラえもんの散歩道とかがあったし。でも、どうして真琴ちゃんがそんな事知っているの? ご当地有名人当てクイズは露崎の十八番なのに」
「そりゃあ、石ノ森センセが好きだったから、藤子センセのマンガも自ずと好きになっちゃいますよ。石ノ森センセの自伝的エッセイの『章説・トキワ荘・春』も読みましたし、藤子センセの『まんが道』だって」
「へえ、石ノ森章太郎のマンガと藤子不二雄のマンガって似ているんだ」
「別に似てはいませんよ。お二人とも良質のマンガを描いてきたって部分は共通するものがありますけど。ただ作品的というよりは同じ『トキワ荘』のマンガ家として読んじゃうんですよ」
「トキワソウって?」
「知らないんですか? 二十四年組は知っているのに」
 彼女はペロっと舌を出し笑みをこぼした。
「本当にマンガとかそれに関する事は知らないんだって」
「ふーん、本当に知らなそうですね、森沢君。分かった。じゃあ、今度あたしが石ノ森センセの『章説・トキワ荘・春』を貸しますからね。それで少し理解を深めてください。トキワ荘はかつて手塚センセも住んでいたマンガ家の梁山泊なんです。別名マンガ荘って言われて……」
 何やら勝手に話が進んでいるようだが、とにかくマンガ荘というワード。つまりマンガ家たちの巣窟だったという事なのだろうか。それは何か目的意識があって集まった組織なのかどうか気になった。
「なるほど、そんなのがあったんだ。それって新思潮派とか白樺派とかの傾向的・思想的云々がマンガの世界にあるってこと?」
「えーと、そうですねえ。一応、新漫画党というグループは結成していたけど……。だけどそういうのじゃなくて、良いマンガを作ることを心がけている同志たちが集まった、という感じですね、はい」
 小野寺は頷可(がんか)して括った。俺は半ば承知しながら、
「ふうん」
 口の隙間から息を漏らす程度に応じた。
「駄目ですよ、森沢君。それぐらい知らないと」
「だ、駄目なのか」
「小説を書いている人は色々知らないと、ね」
「え?」
 小野寺が澄ますように言った、「小説を書いている人」というフレーズに俺は耳を疑った。
「アレ? 森沢君……小説書いているんだよね?」
「誰から聞いたのそんなこと?」
「え、伊達さんも言ってたし、露崎さんも……」
 やれやれ。俺の中ではとっくに風化した即席の目標がその他の面々では残滓があったか。「俺はミュージシャンになるぜ!」と如何にも「俺って夢追っています」系の類いを言った若者が、しばらくして一過性の熱だという事に気づいているのに、周囲からコンスタントに「歌っている?」と聞かれるウザさ、いや、気まずさを何やら覚えた。
「いや、基本的にそんなのやってないから。」
「え、そうなの。じゃあ、その将来の目標とか夢とか……」
「別にいいじゃん、そんなのさあ」
 俺は誤魔化し笑いと共にその話題を一蹴させようとした。だが、彼女の表情に何故か当惑した面影が映って見えた。齟齬の雰囲気が独特のぬるさを俺に感じさせる。いつの間にか俺達の周りには人がいなくなっており、公園の外から幾つかの車が流れているざわめきと、噴水が放射する静韻が耳に入りやすくなっていた。
「……森沢君。あたしの髪、切った方が良いって前に言いましたよね」
 何の前触れもなく小野寺は話の脈絡に適わない事を喋った。俺の方を振り向かず、前方にあるパラソル型の噴水を瞬きもせず見つめながら。
 その時、噴水がライトアップされ明かりが灯った。
「俺、そんな事言ったっけ?」
 ライトアップした噴水に一瞥して俺は返す。
「言いましたよ。その方が似合うって」
 小野寺は件(くだん)の噴水に対して、遠くを眺めるような視線を送り答えた。
「そうだっけ。でも、ま、実際似合ってるし」
「…………」
 俺がそう言うとしばらく二人の会話は閉じてしまった。その間にも緩やかな水音と光輝が、日の沈みかけた公園に馴染んでいく。
「どうも」
 そう笑顔で言った小野寺に、錯綜した面持ちが見られたのは気のせいだったのだろうか。女の子は時々むずがゆくなるからな。勝手に意識していた曖昧な二人の流れに対して、俺はそんな知ったかぶりでケリをつける。
「真琴ちゃん、そろそろ帰ろうか」
「そうですね。お日様も落ちて、暗くなってきたし」
 と彼女は小学生みたいな言い方で、今度はすっきり晴れた顔で元気よく返した。やれやれ、本当にコロコロ変わる。俺は普通のテンポで会話する事を試みる。
「この時間になるとそろそろ寒くなる季節だね」
「へえ、そんなもんですか。あたしは今年東京に来たばかりだから、夏が異常に暑かったぐらいしか分からないんですけど、寒い、ですかね。涼しいとは思いますけど」
「そっか、真琴ちゃんは東北の出身だからな」
「森沢君だって北陸じゃないですか」
「もうこっちの気候に慣れちゃったよ。基本的に俺、寒さに弱いし。東京の夏がクソ暑いのは辛かったけど、富山の寒さよりはマシだと思ったね。多分、俺って南国体質なのかも知れない。去年もこの時期ぐらいに大学のサークル連中と、埼玉の秩父の方に紅葉を見に行ったんだけどさ、寒くて、寒くて」
 と俺が言い終わらないうちに、ピッタリと横を歩く彼女が俺の方を向いて、
「あ、秩父に行ったんですか。上原センセも今秩父に行って温泉と紅葉を楽しんでいるはずですよ」
「へえ、そいつは偶然だな。真琴ちゃんも連れていってもらえば良かったのに」
「いやあ、上原センセと一緒に行っているメンバーを見たら、あたしなんてとても緊張して楽しみづらいですよ」
「どんなメンバーなわけ」
「えーと、少女マンガ界の大御所の秋村吉更センセとか、新人の注目株の椎ノ木あずみセンセとか……」
 小野寺は丁寧にもキャッチ・コピー的な受け売りを足しながら紹介してくれてはいるが、俺の脳内キャパシティにはない人名ばかりなので、適当に頷きながら捌いていた。だが、
「……あとは作家の天野陽子センセとか」
 という彼女の言葉に俺の食指は突発的に反応した。
「天野陽子って小説家の?」
「ええ。天野センセの原作を上原センセがマンガにした事があって、それで交流があるんです。二人ともとっても仲が良いですよ」
 小野寺は落ち着き払って平素に説明したが、俺にとっては秩父へ行った云々の偶然以上の偶然であり招かれざる珍事。世間は、いや、この街は広いようで狭い。こんな所に露崎と交わる因縁の名残りがあるなんて。まあ、人気の少女マンガ家と同じく人気女流作家のコラボレーションなら可能性はあったのかも知れない。だが、それを差し引いてもこれは宿命に近い、ロマンティックなドラマかつ、ワイドショー的なゴシップの匂いがする。
「へえ、天野陽子ねえ。ほお」
 俺はポケットに手を突っ込みながら一人頷いた。
「あれ、森沢君は天野センセのファンなんですか?」
「え、いやいや、実はさ……」
 露崎と天野陽子は付き合っていたんだ、と言おうとしたが俺は躊躇した。その事を言ってしまったら次の話題はそれに決定するのは必至。となると俺は手前勝手な憶測と膨張を巧みに交えて、露崎と天野陽子の蜜月を話してしまいそうだ。それはあまり良い趣味ではない、とちっぽけな俺のモラルが判断したため、言葉を途中で飲んでしまった。ニヤついていた顔を軌道修正し、
「実は彼女と俺って同い年なんだよ」
 とたいした濁し方ではないが、それぐらいしかとって変わる台詞の機転は回らなかった。
「あ、そうなんですか」
 小野寺も少し拍子抜けした感じの平坦な言葉の抑揚で返す。俺は早く他の話題に切り替えようとした。
「えーとさ、秩父もまあ良いけど、真琴ちゃんはどっか旅行とか行きたくないの?」
「そうですね、あたしは、その実は……高岡に行ってみたいかなあ、とか思っているんです」
 小野寺は詰まりがちな喋り方で、俺と視線を逸らし答えた。
「高岡? 何でまた」
「そりゃあ、大好きな藤子センセの故郷だし、ドラえもんの像とか見たいし、まんが道も読んだし……えーと、漆器とか有名だし……あの、その……まんが道を読んだし……」
 しどろもどろな話し方で彼女は「まんが道」という単語を繰り返し強調しながら語った。
「ふうん」
 そんな俺の気のない相槌は、両親とは絶縁状態、故に地元に対する郷愁も自ずと消していった俺自身の残燭の溜め息の現れ。今の俺にとって高岡は、遥か冥王星よりも遠い場所なのだ。
「真琴ちゃんだって寒い地方の人間なんだから、どちらかって言えばもう少し南向きで西寄りの地域の方が良いんじゃないの?」
「あたし、サムァのキレァじゃねえんです」
 と小野寺はいつものような訛りの訂正もせず、むしろ堂々と訛りを出すように俺にその旨を伝えた。寒いのは嫌いじゃない、と彼女は言ったのだろう。
「ま、寒いのにも風情はあるからね」
 俺がそう呟くと小野寺が半歩分俺の方に身を寄せた。近づいて改めて気づいたのだが、今日の彼女の服装はダブついてない。小さな体に薄手の白いセーターがフィットし、ジーンズも同じくタイトに着こなしている。痩せぎすというよりもこれならスレンダーと言った方が似合う。何よりもさっぱりと切った前髪から覗いた、細く濃い眉毛が清々しかった。
「なに? 森沢君」
「え? いや、何でもない」
 俺は無意識に彼女の顔をじっと眺めてしまったようだ。本当ならここで「キレイになって見惚れていた」と言うべきだったのだが、今のこの瞬間はそれを口に出来なかった。冗談交じりの台詞に委ねたとしても。
 まあ、彼女と一緒に歩いている明治通りを、数多に駆ける車とバイクのイルミネーションの演出が、彼女の見映えを洗練させたのだろう。俺はやや無理のある解釈をして、強引に締めくくった。

               *

 夕方の五時半を回る頃、俺は某スーパーでパンの値引きシールを貼っていた。つまり、バイト中である。菓子パン類は賞味期限の切れる前日に半額シールを貼り、食パン類は賞味期限の切れる二日前に半額シールを貼る。この動作を繰り返し行っている。金曜日の夕方はすこぶるパンの売れ行きもよく、シールの貼り甲斐も出てくるというもの。この素晴らしきモノトーンがかった手作業に。そう、日雇いバイト生活はいったんピリオドを打ち、レギュラーで働き始めてしばらく経つが、仕事内容的には単発バイトの頃の単純作業と変わらない。単発バイト、単純作業ときて単調運動の問答無用の単々淡々三拍子。
「…………」
 俺は黙々と惰性でシールを貼っていると、ふと、この前までやっていた印刷物のオペレーターの短期バイトの事を思い出した。喪中ハガキと私製ハガキを印刷する時は、注文した数より一枚余分に刷っておく。官製ハガキは注文の数通りで余分には刷らない。今やっているシール貼りにも共通する細かい注意点だ。そして、同じく無言で同一の作業を反復する。
「これも、やっぱり資本主義な事に属しているのかな?」
 と意味なく俺は呟いた。
 こんな意味不明にも取れるボヤきを何故したかというと、露崎がよく「社会主義はソ連の崩壊で一応の決着はしたかに思われているけど、ロシア革命の当初はそれがユートピアとして考えられていた側面もあったんだ」と例のごとく理屈をごねていたので、俺も単純だからそれに少しばかり感化されて、社会主義とは何たるぞや、共産主義とは何たるぞや、資本主義とは何たるぞや……と考えつつ、放蕩大学生活ではあまり活躍しなかった広辞苑を、昨晩久しぶりに開いてみたのが発端にある。しかし、その内容を読んでも俺にはよく分からなかった。社会主義は共産主義の第一段階である、みたいな事が記されてあったが、何の事やらさっぱりだ。アメリカとソ連の冷戦構造云々で、北太平洋条約機構やらワルシャワ条約機構やらとも、資本主義と社会主義の説明についての付帯的な用語で聞いた記憶があるが、やはり知らぬ存ぜぬの領域。とりあえず二十世紀中にソ連が崩壊し、社会主義は失敗して資本主義は生き残ったんだな、と頭に入れておいた。そして、今俺のやっているこの作業は、考えようによっては資本主義の末端なんだよなあ。そのようにでっかく捉えて、語弊も恐れず漠然と口にしたわけだ。
「資本主義ってのは、あんまりエンターテインメントじゃねえなあ」
 残っていたパンに貼る値引きシールの量に比してグチも多くなる。また、右手の親指がシールの粘着部分に幾度も触れていたため、元々乾いていた指の腹が余計にカサカサになってしまった。脱皮した蛇の抜け殻のように。
 しばらくして時刻は六時になり、社員の「アガって」の素っ気ない一言で、約七千円の賃金を稼ぎ出した今日一日の仕事は終了した。俺は頭髪の匂いが滲む紙製の作業帽を取ると、店のバック・ルームへ入りそれをクシャクシャにして捨てた。
「森沢さん、アガりっすか?」
 ロッカーで作業帽を脱いでいる途中、俺の背後から甲高いC調の声がした。
「よお、堤君。これから仕事か」
 と俺が振り向きつつ言葉を返すと、そこには革靴と紺色のスーツに身を包んだ堤(つつみ)和也(かずや)がいた。
「うわ、何だよその格好」
 たるみ気味のフリースや膝頭に穴の開いた脱色ジーンズ、そして、靴紐をバラバラに紐穴に通して結んでいるバスケット・シューズ等を身に着けている、堤のいつもの格好とのギャップに驚きながら尋ねた。
「就職活動帰りっすよ」
 堤は茶髪を黒に直して、真ん中分けにセットされたヘア・スタイルをかき崩しながら、面倒臭そうに答えた。
「就職活動? ここしばらく見てないと思ったら、そんな事やっていたのか」
「まあ、そうなんすけど、あまりにも親がうるさくて」
 堤和也。彼はバイトの上では俺の先輩なのだが、年齢は俺より四つ若い。にも関わらず既に就職を二度経験している。実家が中華料理屋なので高校卒業後、店を継ぐべく調理の専門学校に行っていたらしいのだが、基本的に料理自体に興味がなく、また、情熱もなかったので半年もせず辞めてしまった。そして、それからは金融系の会社に入ったそうだが、「営業がつらい。将来潰しがきかない」と毒づき、やはり半年もせず辞める。次は「ブラインド・タッチが出来るから」という意味不明な理由と需要が多い事もあって、パソコンのプログラマーの会社に、知り合いの先輩のコネを使い就職。だが、今度も「尿石ができた。これは凄いストレスの証拠だ」と捨て台詞を残し三ヶ月ぐらいで退いたという。本人談のあらまし。
「ま、親がギャーギャー言う事には確かに慣れていますけど、何つーか、俺自身が今の生き様にやっぱ慣れきれない、みたいな」
 堤は作業着を手に取ると、自嘲気味の笑顔をして言った。
「今の生き様に慣れきれない?」
「そうっすね、今までブラブラしながら生活してきたから、人よりも楽な人生を歩んでるぜえ、みたいな自負があったんですけど、実はケッコーしんどいって事に気づいたんすよ、これはこれで。それに二年近くフリーターまがいな事してたら、たいして世の中には夢も希望もねえのが分かりましたしね、やっと」
「おいおい、何かエラく冷めた言い方だな」
「いやあ、別にニヒルぶってる訳じゃないっすよ。ただ、生きていくってのは、何となくこんなもんかなあって思っただけです」
 堤は多少照れつつも、斜に飾る気負いもなく、自然と流暢に告げた。だが、そんな堤が俺は妙に気に食わなかった。俺よりも青二才のくせして手前勝手な達観をするな、と。しかも半ば唐突に。
「でも、堤君さあ、そんなに自分の都合の良いように就職できるかなあ。色々と聞かれなかった? 学校を卒業してから今まで何をやってきたのか、とかさ」
 明らかに俺のその言い方には恣意的なトゲがあった。もちろん俺が敢えてそうしたからだが。
「まあ、手痛い質問は幾つか。それに就職できるかだって、さすがにそれは俺にも分かりませんよ。ただ、自分のポジティブな面は何とかさらけ出せたつもりっすけど」
 何に動じるような気配もなく、堤は作業着に身を包みながら淡々と答えた。普段の、少なくとも二週間以前にはガムを噛みながらアスファルトに唾を一定間隔で吐き、また「日本の音楽はダサい。やっぱり洋楽っすよ。ローリング・ストーンズは最高っすね!」と言いながら、ブライアン・ジョーンズの存在を知らなかった、あの堤和也には相応しない一連の言葉だった。ビートルズのメンバー四人の名前も知らなければ、四国四県も分からない男なのに。そんな事だから余計に癪に触る。この短期間で自己啓発でもしたのか。またはカルト宗教にでも入信したか。これは毒づいているわけではない。胡散臭いからそう思ってしまうのだ。俺は自分自身にそう納得させる。
「ど、どうせ堤君、就職が決まったとしてもまた辞めちゃうんじゃないのお?」
 俺は冗談交じりな喋り方で誤魔化し、苛立ちに肉迫した思いを吐いた。だが、堤はほとんど間を置かず、
「いや、今度は俺頑張りますよ。頑張りたいと思ってますし」
 毅然とその一言を返した。そして、作業着に着替えた堤は、俺を一瞥して「お疲れっす」と告げると颯爽と売場へと出て行った。そう、不覚にも俺には堤の姿が颯爽と見えてしまったのだ。バック・ルームのドア越しに堤の「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。それは妙に通る声だった。
「ったく、何が就職活動だよ。シャレた事言いやがって。どうせ何も変わりはしないのによ」
 笑ったつもりで言ったのか、笑われているつもりで言ったのかは分からないが、「とにかくこの場の締め括りの台詞を言わなければならない」という逼迫した思いに俺は押され、また、それに従った。ひどく隙間風の吹く独言に感じたのは気のせいだと思いたい。実際、外に出ると冷たい隙間風が俺を見舞うのだから。
「ふう、やっぱ今日は寒いなあ」
 従業員用出口のドアノブに触れた時からその冷え込みは既に伝わってきた。外では期待を裏切らず北から厳しい風が吹いている。気のせいではなく確かに今日は冷える。十月は例年より暖かかったらしいが、十一月に入るとその暖かかった気温を埋め合わせるような寒さが増した。それに今日は東北地方で晩秋の大雪が降ったらしい。冷えるはずだ。
「北陸もそろそろ……」
 そう一人呟くと、不本意ながら故郷の風景が頭をよぎる。立山連峰の雄山にかかる白いシロップが。
「森沢君」
 俺が危うく郷愁に浸りかけた時、背後から声が聞こえた。
「あ、倉持さん」
 声をかけてきた相手は倉持(くらもち)正博(まさひろ)。彼は今、移動してデリカ部門で働いているが、つい一ヶ月前は俺と同じくデイリー部門で働いていたバイト上がりの社員である。俺と同い年だがバイトと社員の立場を踏まえているので、当然ではあるが「さん」付けで呼んでいる。
「上がりですか、倉持さん?」
「まあね」
「随分早いですね。あれ? でも今日働いていましたっけ?」
「いや、今日はちょっと挨拶に来ただけだから」
「挨拶?」
 一体何の挨拶なのだろうか。いつもはカジュアル姿で帰宅する彼が、今日はスーツ姿なのも気になる。倉持は歩を少し速め、俺の横に並び、
「ああ、辞める挨拶をさ」
 と目を細めて、視線を前から逸らさず答えた。
「辞める? それって店を辞めるって事ですか」
「うん」
 やや呆気にとられた俺を他所に、倉持は素っ気なく返した。
「いや、そんな普通に返事してもらっても。何か突然じゃないですか」
「僕の中じゃ一ヶ月前のデイリーの移動が決定した時から、まあ、考えていた事なんだけどね」
「でも、何でまた辞めるなんて」
 倉持は羽織っている黒のロング・コートの両襟をただしながら、
「今まで四年間バイト期間を含めて働いてきたんだけどさ、上手に仕事がこなせなくて色々なセクションに回されてきたんだよね。で、この前もデイリーを飛ばされて。だからその時ちょっと考えたんだ」
「そう、なんすか」
 倉持の台詞はしがらみもためらいも感じさせなかった。もはや店との決別は過去のものとして片付けてあるようだった。
「辞めてからアテはあるんですか?」
「ああ、友達が二年前にCGの会社を起こしてさ。そこが結構忙しいから、手伝ってくれって誘われているんだ」
「CGってコンピューター・グラフィックの?」
「うん。一応映像関係の専門学校を出てるからさ」
「へえ、そうなんすか」
 ビジネスの上で友達同士というのがぬるく感じる。飄々とした会社じゃないのだろうか。
「偶然と言えるか分からないっすけど、倉持さん、堤君知ってますよね。彼も何か今度は真剣に就職するらしいっすよ」
「へえ、そうなんだ。彼も頑張っているんだな」
 彼も頑張っている。それはつまり自分も同じように頑張っているという裏返し。その頑張り屋ゾーンから俺を疎外して。
「まあ、若いからこれからでしょう」
 倉持は妙に老練された笑顔で呟いた。倉持とはもともと親しい話をしてきたわけではないし、俺の中でも使えない社員と位置づけしていたので、そんな彼の表情を胡散臭く思った。
「じゃあ、これから新しい門出を祝って一杯飲みに行きますか」
 俺は社交辞令的な言葉を適当に吐いた。
「あ、ごめん。これから彼女とちょっと約束があるんだ」
 彼女? そんなめでたい存在がこの男にはいたのか。倉持はそんな俺の一瞬の思慮の途切れた間を置かず、さらには飲みの誘いを断りつつ腕時計を見ると、
「じゃあ、森沢君もこれから頑張れよな」
 とそれを簡単な別れの挨拶に代えて言うと、一歩弾みをつけて走って去って行ってしまった。彼から見ればまだ頑張っていないと思われている俺を置きっぱなしのまま、倉持が挨拶回りの身だしなみで使ったのであろう、整髪料の匂いを僅かに残して。
「同い年なのに何で……」
 と言いかけたがそこで俺は一人言を止めた。今日はロンリー・ウィスパーな愚痴が多いと思ったからだ。いや、愚痴ではない。正確な分析だ。あくまで俺から見た客観的な意見だ。愚痴なんかじゃない。正しい事は口にすべきだ。
「そうだよ、ぬるいんだよ。どいつもこいつも甘ったれているんだよ。エンタメの欠片もない資本主義をなめるなっていうんだよ。労働ってヤツはシビアなんだからな」
 我ながら謎の一人言だが、どうしても吐き出してみたかった。俺だけが知りうる資本主義のリアルを。その真の意味を理解する俺という存在を。例え走り出したって俺らは見えない縛りの中で生きている。市場経済でどんどん膨らんでいくのは、もはやエスタブリッシュメントな連中なだけ。元来のビンボー人は一生搾取される側。せいぜい成り上がっても小金持ち……ってシニカルに気取ってみても、俺個人のフトコロ具合は変わんねー。どうにかしてくれこの貧しさ。世の中を斜めがかって見ているのは、心に栄養が足りないからだ。プロ野球裏金的な栄養費。即ちマネーが俺には必要。そういやどうなったんだ、日本版金融ビッグバンとやらは。外国為替法やら証券取引法やらが改正した所で、アレって俺ら一般庶民には関係ないんでないかい。頼むよ資本主義、俺の財布を助けてくれよ。いや、こんな時は経済の仕組みをツツいても仕方ない。デッカイ国家より近くのインテリかぶれにすがるのが筋だろう。徐に俺はPHSを取り出す。
「おお、露崎センセイですか。今夜寒くないっすか」
 取りあえず俺はハイなテンションで畳み掛けるように、恐らく俺のタカりの意向を察して、複雑な表情を浮かべているだろう露崎を、電話越しに勇気リンリン攻める事にした。
「ホント、鍋がおいしい季節ですねえ」
【何だよ、突然】
「いやあ、何つーか、その、あ、もう夕飯食った?」
【え? まだだけど】
「ええ! そうなんだ。俺もまだなんだよ。偶然にも程があると思わねえ。これって運命的じゃねえ。ここまでくると互いの胃袋にロマンスを感じねえか?」
【…………】
「…………」
【……ま、鍋がおいしい季節だな】
「だろ!」
 交渉成立。さすが露崎。大人である。空気を読んでいる。これならお笑い芸人として、バラエティ番組のフリートークも任せられる。
【どうせ今夜は伊達さんの家で飲む予定だったんだ。それでお前の方にも連絡するつもりだったから、ちょうど良かった。多分、伊達さんから電話がまた来ると思うから。じゃあな】
「あ、おい」
 プツリ、と俺の引き止めに、けだし後ろ髪ひかれる思いなく、素っ気なく電話を切った露崎。会話している最中の口調も、妙にサバサバしていた感じがある。もともと竹を割ったような男ではあったが。それにしても何処かイラついているような、いや、焦っているような喋り方だった。便意でも催していたか、大きい方の。そんな露崎に対する要らぬ邪推にふけている時、露崎が予定調和していた伊達のお呼び出しが俺のピッチことPHS君に鳴り響く。
【よう、森沢。今夜ヒマか?】
「胃袋が特にヒマでな。お前の家で露崎とパーティさせてもらうよ」
【アレ? 露崎君から連絡あったの】
「さっき俺の方から露崎に電話してさ。そんで俺も、みたいな。タダ飯よろしく~」
【じゃあ、聞いているんだ。露崎君のこと】
「露崎君のこと? 何が」
【え? 露崎君言わなかったのか、中島賞のノミネートの件】
「は? 中島賞って……あの若手の作家に贈られる賞の」
【そうそう。露崎君がまた中島賞にノミネートされたんだよ。今夜はそのお祝いパーティだったんだけど、お前聞いてなかったのか】
「へ? 聞いてない。つーか、中島賞って今年は確か天野陽子が受賞したんじゃなかったっけ」
【天野陽子が受賞したのは今年の上半期の部門。中島賞は芥川賞とか直木賞みたいに上半期と下半期に分かれているんだ。それで下半期にまた露崎君の作品がノミネート。これは快挙だね、うん】
 一人合点の伊達。その満足そうな声音に反して俺は猜疑心を抱く。
「本当かあ? 露崎が」
【何だよ、その言い方。露崎君の作品にいちゃもんでもつけるのか。ろくに読んでもないくせに】
「違う、違う。作品云々じゃねえよ。さっき電話かけた時さ、妙に苛立っていたというか、あんま機嫌良さそうな感じじゃなかったからさ。少なくとも喜ばしいオーラはなかったなあ」
【え? 本当か。確かに今回のお祝い会はちょっと強引に僕が開いた感があって、露崎君はノリ気ではなかったけど……やっぱり迷惑だったかな?】
 いかん何やら雲行きが怪しくなってきたぞ。余計なことを言わなければよかった。
「ば、馬鹿。んなことねーべ。露崎はちょっぴりシャイで憎いアンチクショーだから、きっと照れてるんだよ。うんうん、そうだ、そういえばさっき電話した時は実は心の奥底では、みんなありがとう感謝していますオーラが感じ取れた。宴を開いてくれて三国一の幸せ者ですオーラが。その辺りを察しられたわ、うん」
【本当か? だってお前に中島賞のノミネートの事言わなかったのだろう】
「だから露崎はシャイな奴だから俺に言えなかったんだよ。そりゃあ仕方ねえって話」
【シャイとは関係ないと思うが】
「ま、兎に角、レセプション、カーニヴァル、フィスティヴァル、ザッツ宴会テインメント。食うべ、飲むべ」
【うん。まあ、そうだな】 
「そうそう」
 と強引に話を軌道修正して俺は何とか今夜の食い扶持の確保に成功。危なかった。
「にしても、もし露崎が受賞したらスゴい偶然になるな」
【スゴい偶然?】
「だって上半期に受賞したのが、あの天野陽子だろ」
 伊達は一拍間を空けると、
【あ、ああ、そうだな。その、内輪を知っている人間からすれば、そう、奇妙な、というか運命的というか……。でも、両者とも才能のある新人有望作家だから、こういった蓋然性はあるにはあったというか……】
 迷い迷い、探り探り言葉を紡ぐ。両者が期待の作家だから、同年度の被りの可能性はなきにしもあらず、と言われても不思議な因縁を感じざるをえない。いや、思えば上半期の中島賞のノミネートで二人の名が連なっていた時点で、恐ろしい偶然だった。宿命のようなものを覚える。
【ま、それは兎に角、九時ごろ僕の家に来てくれ。その頃には家に着けると思うから】
「分かった。あ、真琴ちゃん……」
【真琴ちゃん? 小野寺さんの事か】
「いや、まあ、そんな感じの人は呼んだりしないのかなあって、ふと思って」
【今、小野寺さんを誘っても無理だと思うな。逆に誘って気を使わせない方がいい。上原先生の締め切り前だから】
「ふ、ふーん。ま、関係ないけどね」
【関係ないって、何が?】
「え? いや、まあ、いいや。九時だな、九時。んじゃ、それ位の時間に向かうからちゃんとメシを用意しておけよ。じゃあな」
 俺は両手で包むようにPHSを切る。何とか今夜の夕飯はゲット出来た。天恵としておこう。それにしても何で小野寺の名前を口走ってしまったんだ。確かに野郎同士の晩餐会はむさ苦しく、ガス抜きとして女の匂いは必要だけど。まあ、最近親しく付き合っている女性がいないから、咄嗟に出た女の名前がそこそこ近しい野暮ったガールの小野寺真琴だった、ってこれは心中の失言。
「んな事よりも問題は露崎か」
 思わず一人言。しかし、無駄に口走ったようにそれは事実。何やら曇りがかっていた、電話越しからの露崎の様子。本来なら喜色満面の返り咲き中島賞ノミネート。だが、それはあくまでも客観的な見方。察するに露崎の胸中は複雑なはず。何せ元・彼女であろう因縁の天野陽子が先んじて受賞した賞だ。その後塵を拝する形での再度のノミネート。はたして素直に喜べるかといったら、無条件に手放しでは喜べまい。特にプライドが高いアイツにとっては。
「今夜の飲みは荒れそうだな」
 MA?1もどきの外衣のファスナーを気持ち上げて、寒さを凌ぎながら一人ハードボイルドに歩く俺。その裡ではよからぬハプニングを期待して。
 夜は無情に深くなっていくものだ。

 ミイラ取りがミイラになる、の類いの一つなのだろうか。
「いや、そうだよ。確かに偽善的な言葉ってのは信用できないよ。でもね、美辞麗句だってね、説得力があればね、僕は必要だと思うんだよね、うん。そうそう、キレイ事ってさ、やっぱし大事だと思うんです、はい。だって結局、情熱とか夢とか持ってないとさ、人間生きていけないと思うんです、はい。そんなね、そんな僕だってエラそうな台詞は吐けませんよ。だけどね、だけどさ、こんなちっぽけな僕でも、編集者としてね、一人前の出版人としてね、表現者の一助になり、読者との架け橋になり、社会をね、日本をさ、人のハートってやつを打ち震わせたいと、日頃から考えているんであります、はい。そんな思いを引きずっとかないと、これからの人生、ただただお金だけを得るための、空しい生き方になっちゃうよ。なあ、そう思わんかなあ、森沢。え? 愛に生きればどうにかなるって。そうか、その手があったか。森沢君に座布団一枚!」
「俺は何も言ってねえよ」
 夜の帳も落ちて十一時半、暁九つの頃。とはいえまだ宵越しを回っていないうちからこの酔態はいかがなものか、伊達聡。さっき露崎がトイレに行った際には、ほろ酔い気分のイヤラシイ面で、「グヘヘ、露崎君に聞いちゃおうな。天野陽子に対する思いってヤツをさあ。あ、でも僕チンは仕事上の都合があるから、森沢、頼むよお」と鬼の居ぬ間の談合を踏んでいたのだが、如何せん、すっかり彼は出来上がってしまっている。俺様語りを始めてしまっている。伊達本人曰く、お宝なはずのケムール人のソフトビニール人形を片手に、それを出鱈目に揉み解しながら……。
 ご老体が集うから病院が多いのか。病院が会するからご老体が寄り合うのか。そんな高齢化社会の様相が垣間見られる街、北区・十条。その十条駅から徒歩十五分圏内に、伊達が独身貴族を気取る1LDKの鉄筋コンクリ・マンションがある。この部屋、安月給の割には良いグレードだと思われる。三人の漢(おとこ)がひしめいても、野郎プレッシャー指数に対して居住空間の余裕があるし。それに十条という土地柄、物価が都内では随一安く、その浮いたお金の分に部屋代やら趣味に費やせると伊達は言っていた。だが、その趣味。これがまた如何せん、ウルトラマン関連のソフビ人形やら、ゴジラのフィギュアやら、ファミコンのカセット、いわゆる懐ゲー収集やらと、埼京線十条駅発新宿駅中央線乗り換え中野駅着、サブカル系ホビー人御用達の中野ブロードウェイで買い漁る始末。傍から見れば非生産的な趣味にしか思えないのだが、まあ本人が満足しているのなら仕方ない。とはいえこの部屋の壁を囲む数多の伊達の趣味の群れは、オタク的趣味が分からない人にとってはキツいものがある。特に目につくのが昭和の色彩をプンプン放つソフビの怪獣ども。ウルトラマンの怪獣なんてバルタン星人ぐらいしか知らないって言っているのに、どうしてマニアな奴はいちいち興味のない「ゼットンの造形はゴマダラカミキリをヒントにしてるんだよ!」とか、「でさ、そのゼットンなんだけど、こいつがこのケムール人とよく似ててさあ。え? ケムール人のソフビ人形の値段。五千円だよお、良い買い物だったよ。それより、それより、ケムール人はウルトラマンじゃなくウルトラQに出たのが初お目見えで……」とかのどうでもいい内容の会話を、啓蒙しつつ且つ膨らませていくんだろう。露崎もトークの間口の広い奴だから伊達の話を持ち上げていくし。思えば露崎が伊達の趣味話に乗っかった時点で、伊達はミイラになっちまったのかも知れない。ちなみにゼットンとやらは一兆度の火の玉を放つらしい。ありえんわ。
 露崎を酔わせて口を緩くしようと思っていたが、逆に露崎に踊らされ調子に乗りまくっている伊達氏。こいつはもう酔死。だが、一方で露崎も当初は仏頂面で飲んでいたのだが、眼鏡の奥の双瞳は充血を帯び始め、肌色も赤みがかってきている。そんな酩酊の兆候に比するように、彼は舌をより滑らかにし、得意のスピーチじみたトークをまくしたて始めるのである。
「じゃあ露崎君。こんな僕ってただの夢見る、理想主義者のアマちゃんなのかな? ポリシーとかって持っちゃうと他人から煙たがれるのかなあ」
 伊達は隣で座椅子の背もたれに深く腰掛け、チビチビとチューハイを飲む露崎に、甘えた口調で尋ねた。露崎はやおら半身を前に突き出し、両肘をリサイクル・ショップで購入した、鈍い光沢を放つ鏡面テーブルに乗せて、
「まさか。理念を持つということは、ある意味特権的な精神運動ですよ。特殊な才能と言ってもいい。若さの証左でもある。若い頃は人生をシアトリカルに見がちなんです。極端な話、現実社会を大文字の物語として捉えてしまっているんですよ。青臭い目標? 身勝手な青写真? 手垢のついた夢? 結構じゃないですか。伊達さんが言う通りキレイ事は結局大事なんですよ。即座にそれらをないがしろにする、拝金主義的似非リアリストの意見より、よっぽど建設的ですからね。問題はそれに実行力と説得力が伴っているかどうか。そこに個人の資質が問われる。個人が発した目的意識の信頼性が問われる。つまり、価値が問われるんですよ。私も理念、理想の類いは持っているつもりです。だけどそれに対して他人が納得しうるような、他人を説破しうるような論理を肉付けしないと、有効にはならないのですよ。有言実行と一言で片付けてしまえば簡単ですが、そうじゃなく……」
 というような相変わらず言葉一つ一つが説法的かつ、摂受(しょうじゅ)を匂わせる件(くだん)の露崎節を炸裂させる。アルコールが徐々に回り始めたようだ。露崎の口が軽快になっているし、顔も紅潮し始めている。頃合だな。アホな伊達は無視して、露崎のベロの加速を上げてみるか。
「そうだよな、露崎は公衆のレベル・アップ化というのが目標の一つにあるもんな」
 と俺が言うと露崎はポーズを変えず、鋭い視線でこちらを睨んだ。何やら表情が険しい。やばい、今のフリはまずかったか?
「その通り」
 露崎はしばらく間を置き、俺を指差してそう言った。
「私は文学を駆使して一般民衆の教養というものを、精神性というものをメタ・レベルにしていきたい。尊大な言い方かも知れないが、知識人と大衆という腑分けはやはり必要なのだと思うんだ。啓蒙する側、される側。私がどちらに属しているかというのは、それは自ずと世間が評価していくだろう。ただ私は一つ懸念する事がある。経験は常に思弁を勝るものなのか。つまり我々のような若輩者に思想を語る権利はないのか。所懐を述べる事は許されないのか。耳を貸すのはすべからく年長者の意見ばかりで、人生経験が浅くいわゆるケツの青いガキの提言は有効ではないのか。我々の年齢では同世代の人間でさえ声は届かないのか。そんな危惧がある。決して弱腰になっている訳ではない。事実として言っているつもりだ。位相の時点で既に色眼鏡で見られ判断されてしまう。ある一定の経験を積んだ大人でないと説得力がない、というそれが典型だ。私はそのある一定の年齢の基準を、戦中世代か否かの峻別に拘泥しているのではないかと仮定し、『太平洋戦争コンプレックス』と捉えている。言ってしまえば彼(か)の戦争を経た者に、付加価値的なイメージを前もって当てはめている。含蓄そのものが内容云々ではなく、戦争経験というものに収斂されて、評価されるべきメッセージ性というものを曇らせる。畢竟するに件(くだん)の戦争を乗り越えた者でなければ、成熟した大人の諫言としてもおおよそ成立しないし、無論単純に忠告としても受け入れられない。実際に戦争体験を語る上でも、それらの知識人の階層には戦中派や戦後派の断絶があり、先の大戦解釈の上でかなりの齟齬があった。そこで発生した戦争史観というか、ジェネレーション・ギャップは、大正教養主義に依る昭和世代初期の識者間の軋轢にも見て取れるのではないか。自らを特権的地位に属している、という顕示欲にかられた衝動をして。どうだろう、この発想は私の妄想が生んだ、もしくは一種の嫉妬心から派生した、シニックな思い込みだと捉えるかね?」
 言っている意味はよく分からないが、露崎の表情から察するに、その顔は満足気だ。このまま調子に乗せて天野陽子との関係、というか天野陽子に対する思いとか、秘められた過去のようなオモシロ話を聞き出してみるか。この会話の流れから天野陽子のトークに持ち出すには……。
「いや、分かるよ。僕には分かるよ、露崎君。ただ単純に無駄に年をくった大人という生き物はズルいんだよ。しょっぱい連中なんだよ。若い頃は、夜の校舎の窓ガラスを割ってね、盗んだバイクで走り出したのにね、結局行き着く先は給料袋なんだよね。夢忘れて、お金なんだよね。そう、給料袋。そうそう、思い出した。人生でね、大切な袋は三つあってね、それはね、お袋とね、堪忍袋とね、池袋の大勝軒のラーメンがね……」
 いかん。酔死者のミイラ伊達が話に参加してきた。呪文を唱えるかの如く、意味不明な言動をして。俺が軌道修正しなければ。
「そうだよな。そういう考えもアリっちゃアリだよな。年長者の意見ばかりを奉りあげる風潮ってよくない。俺ら若い連中のメッセージとか表現ってのが、そんな理由でないがしろにされるのは迷惑千万。むしろ年寄りはとっとと引退しろっつーの。たたでさえ高齢化社会なんだから。テレビとか見ていても既にトウの立った連中ばかりが論功行賞よろしく、権威と過去の遺産で画面をひしめいていてさ、何か文化まで高齢化していっているようで怖いんだよね。いや、経験とか実績は認めるよ。でもさ、後進に道を譲る度量の大きさも見せてほしいもんだよ、ホント」
 どうだ、こんな感じの台詞で露崎はノってくるか? さり気無く奴の顔色を俺が窺おうとすると、
「その通り」
 と露崎氏、マフィアのボスが部下に指令を与えるかの如く、俺の方を指差しご満悦の表情。
「分かっているな、森沢。文化の高齢化とは言いえて妙だ」
「いや、太平洋戦争コンプレックスとはなかなか思いつかない着眼点ですよ。さすがは中島賞ノミネート作家。そりゃあ選ばれるはずだな、うん」
 多少強引だがここで中島賞というキーワードをばら撒いておくか。中島賞という点で、天野陽子という線に結びつけるのが、一番手っ取り早いだろう。
「…………」
 暫時口を閉ざす露崎。ヨイショ気味のフリだったがイマイチだったか?
「その通り、ではないな」
「は?」
 再度先ほどの指差しポーズを構えて、露崎は沈黙を溜めた口を開いた。
「中島賞のノミネートの事だよ」
「何故に、その通り、でないのよ?」
 俺の問いに露崎は一つ咳払いをすると、酔いの影響か、虚ろな目を何処とも定める事なく、
「私は恥ずべき物書きの末席者だ。今回の中島賞のノミネートは言ってしまえば狙いにいっていた。欲が働いていたんだ。文芸の批評家ないし評論家という者は、批評対象の文学に対して起源を求めようとする。これはバルトが『作者の死』で呈した言説(ディスクール)なんだが、作者が書いた作品を批評家が吟味するに、彼は作品から遡及して、作者自体にその反映を照らし合わせようとする。何らかの関連性のある寓意を持たせる。つまり、この作者はこれこれこういう経験をしたから、この作品ではこのように影響され、この筆者はこのような性格だから、この作品ではこのように意味を持つ、みたいな。批評家は半ば独善的な帰納法を、強引に作品の評価に持ち込み、それを従わせた結果、うまく思惑に当てはまれば、彼は自ずと溜飲を下げる。噛み砕いて言えば、批評家が勝手に作った、自身の内の文芸における公式ないしコードに乗っかった作品が、好ましく歓迎され評価される。文学的に、ツッコミやすく、叩き甲斐のある作品が。その点を私は忖度し、利用したんだ。いや、つけ込んだと言ってもいい。さらに言えば、私は創作において大前提である、表現すべきテーマやモチーフよりも、賞狙いという小賢しく浅はかな名誉欲を優先させてしまった。まったく、私は愚劣で無恥な男だよ」
 大きな溜め息を漏らし、やれやれといった次第で首を横に何度か振る露崎。また、私は愚劣で無恥な男だよ、と自虐的な発言を吐いた割には、妙に顔はほころんでいる。満足そうだ。どうやら酒だけではなく自分にも酔っている。正直、この男が何を言っているかあまり理解できなかったが、俺様は文芸評論家のくすぐったい所を狙って、計算の結果うまくノミネートしたんだよ、みたいな事をほざいている感じは伝わってきた。酔っぱらってくると見下し姿勢の大言壮語が飛び出してくるから露崎は面白くも怖い。もし会社の付き合いかなんかで上司とかと一緒に飲んだ日にゃあ、ヤバいヤバい。どんな居丈高な発言が飛び出すか。
「何を、いや、何を言ってるんだよ、露崎君。自分を蔑むような事を言うなよ、征次郎君。君は、君はそんなあざとい男の子なんかじゃない。それは僕が一番よーく知っている。君はやれば出来る男の子だ。今回の候補だって君が発揮した実力あっての、純粋無垢のまっさらな作品が輝いていたからだ。卑下しちゃ駄目だよ、作品も自分自身も」
 アルコール純度百パーセントの赤ら顔を持って、露崎の肩をビシバシと叩きながら喋る伊達。口に詰め込んでいた柿ピーがフローリングの床に無造作に舞う。
「露崎君の磨かれた才能が、汚れなき文学への追求心が、中島賞のノミネートにつながったんだよ。そうだよな、森沢?」
「あ? ああ、そうだな。露崎征次郎の飽くなき文学への情熱が結果につながったんだな、うん」
 取りあえずはヨイショ攻撃つるべ打ち。
「そんな事ないですよ」
 と露崎は言いつつも、中指で眼鏡のブリッジを押し上げた瞳の裏には、その台詞を待っていました的な、プチご満悦な気色が窺える。自信に満ち溢れている。俺はテーブルに置いてあった、誰の飲みかけとも知れぬ缶ビールを一気飲みし、
「それにしても今年の中島賞は豊作年じゃねえか。露崎大先生の上半期と下半期のダブル・ノミネート然り。まあ、上半期の受賞は天野陽子だったけど」
 やや挑発的な天野陽子への撒き餌。露崎はリアクションをするか。それともカクテル缶片手に飲みに徹し、口を誤魔化すか、逃げを決め込むか?
「同列に語られたくないな」
 露崎は即答した。ノってきたな。
 デキあがっていたはずの伊達が一瞬表情を強張らせ、隣に座する露崎を一瞥する。そして、ゴクリと大きく唾を飲んだ。伊達の喉仏が分かり易く波打つ。俺はあえて危うい橋を渡る会話を繋げる。
「どうして? 彼女は有望株なんだろ。若い女性からたくさんの支持があるって聞くぜ。いわゆる人気作家ってヤツ」
「商業的結果と作品の質そのものが必ずしも比例するとは限らない。セールスと作品の評価は別物だ」
 あからさまに尖った口調。酒を飲むペースも速くなってきている。不機嫌な面になってきたが、俺には露崎は苛立ちながらも、まだ毒を吐きたがっている印象を受ける。
 まず始めに相手を持ち上げる事によって、あなたの味方ですよ、私はあなた側の人間ですよ、という帰属意識を植え付けさせ、懐を油断させる。そして、その後に、でも、実は……という相手にとってやや辛辣な内容の会話を切り出す。酒が介してあればこのトーク手法は意外と有効だ。
 酔いが醒めたのか、伊達が心配そうな顔で俺に訴えかけてくる。だが、老猿のような赤ら顔を呈し、鼻毛が鼻孔から微かにヤンチャしているので説得力がない。俺は伊達の憂い面を気にせず、このヤリ方で天野陽子に対する、露崎氏の見解を聞きだす事を続ける。
「そうか? 天野陽子の小説は面白いってよく聞くけどな」
「彼女の作品は文学ではない。娯楽小説と文学は別個のものだ。文学の役割というのは、日本文学のそれと照らし合わせるのなら、読み手に『私』の補填を促し……」
 いかん。話が露崎の文学論になりそうだ。お得意のロシア文学にまで内容が拡大しちまったら、銀河鉄道アンドロメダ行きの長旅になる。会話の舵を変えなければ。
「いや、待てよ。別に天野陽子って文学がどうとかっていう類いじゃないだろ。恋愛小説とかライトノベルとか、エンタメ系ってやつ。そうそう、本人も筆者の後書きみたいな所で言っていたぜ。お堅い独り善がりの文学をするより、私は皆が楽しめるミーハーでケーハクかつ、商業的エンターテインメント小説を書き上げたい、って。何か挑発的な感じだよなあ。つまりそれってさ……」
 俺が喋っている最中に露崎は、アルコール度ばかりが高い安物ワインをボトルのまま口に含み、
「文学性の欠片もない小説は認めない! 断じて違う!」
 こちらには視線を向けず、目を据えたまま吠えた。酔いが回って眠たそうな表情になってはいるが、その面構えからは覇気が帯びている。その咆哮からは気負いにも近い誓詞が漂う。妙に強気に出ている露崎に何故か俺は腹が立ち、負けずに安物ワインをラッパ飲みして、一発おくび。もう一つ口に含んで……あれ、無くなっちまった。まあ、イイや。気分も良くなってきたし。何か伊達がこっちの方を見て相変わらず心配そうな面をしてるけど。任せとけ、露崎の肚(はら)の中(うち)は俺が全部吐かせるから。んで、とりあえず、
「だったらお前はその文学とやらを実践してるのかよ? 天野陽子ちゃんの小説に勝ってるのかよ?」
 アレ? 俺は何を言っているんだ。
「天野陽子の小説は文学ではない。その時点で既に土俵が違う。例えばノベルとエッセイではジャンルが違うだろう。それと同じで比較すべき主題が全く違う」
 露崎の口調。キビキビはしているが瞼がかなり下がり始めている。沈酔の気配。その前に聞くべき事を聴いとかないと。
「何をお前は小難しい事をごちゃごちゃほざいているんだ。言っちゃえよ、天野陽子の事が今でも好きですってよお」
 え? ああ、どうやら俺は……。
「好きじゃない」
 と真顔で答える露崎……つーか、俺も……。
「嘘つけ」
 ……酔い始めている。いや、酔っ払ってしまっている。
「あまり好きじゃない。少し嫌いなだけだ。いや、嫌いというよりも、好き寄りの嫌いであって、嫌い寄りの好きではない」
 あ、露崎も酔っている。キテるねえ。
「じゃあ好きじゃん」
 あの安物ワイン一気飲み程度で酔うものか? 酔うものだ、はい。
「好きではない。やや嫌いであって、好きという事では決してなく……」
 彼も酔ってるね、はい。
 ん? 伊達が情けない顔で俺の方を見ているぞ。ミイラのくせにいっちょ前に気懸かり面しやがって……って、いかん、眠くなってきた。
「好ぅきぃ……って言えよお」
 キィスゥもしちゃえよ。
「好ぅきぃ……じゃあない」
 露崎のベシャリも間延びする。ああ、眠い。そして、
「……女は分からん」
 と露崎は言い残すとガックリと肩を落とし、テーブルに伏してしまった。そういえば何処かで聞いた台詞だ。それにしても暖房が暑い。目も乾く。そんなショボついた俺の瞳には、電人ザボーガー柄の毛布を露崎に掛けてやっている、「やれやれ」といった気色の伊達の姿が映っている。どうやらアイツは俺にも掛けてくれるようだ。なかなか優しい奴だ。ミイラのくせに。兄弟拳バイクロッサー柄の毛布は勘弁してほしかったが。それでもって、瞼という緞帳が下りる直前、薄暗い四畳半の部屋で、昭和の色薫る木目調の机に向かって、ストイックにマンガをカキカキしている、小野寺真琴の後ろ姿が森沢和馬の脳裏に鮮烈によぎった! ……気がしたのでありました、はい。
 って、な、何故に小野寺を……。うう、ダメだ。眠い。ね……む……いぃぃ……ケムールじぃぃん。

               *

 今年、一九九八年も暮れてくると思ってしまう。来年は無茶をしてイイ年だ、と。何せノストラダムス先生の予言に従えば、一九九九年の七月だか八月にはアンゴルモワの大王が復活して、人類が滅亡してしまう訳だから。来年はそんな事態を嘆いて自暴自棄的な犯罪が多発、バイオレンスでサバイバルなYEARになる事は必至。実際、アメリカとイギリスが国連の査察に非協力的だと言って、イラクに攻撃をし始めた近頃、世界規模の破滅な匂いがプンプン薫る。マッド・マックス的な近未来荒廃風景が目に浮かんでしまう。去年の子供の暴力件数も過去最高の二万九千件とかニュースで流れていたし、失業率も過去最悪で求人倍率は過去最低。過去最低、過去最悪の跋扈。負の要素の最高新記録が続出する昨今。今年は特にそれが顕著だ。うーむ、世相はどんどん暗くなっている。どうやら俺だけが特別人生下方修正気味なのではなく、時代的にも世の中的にもノーフューチャーな世紀末態勢を徐々に甘受しているのだろう。お先真っ暗。さよなら人類。
 だけど今年はダメだったけど、来年は哺乳類栄華時代のピリオド。何とか頑張って生きていこうと思わせるキッカケを人類滅亡の兆しは作ってくれる。残り少ない時間ゆえに、一日一日を大切にかみ締めていこうと。余命幾ばくとも知れぬ儚い刻(とき)を大切に輝かせていこうと。そんな切実な思いが……って、んなわけねーか。来年もどうせ期待できないし、期待できる因子もない。自虐的、悲観的見解。悲しい現実。
 だが、そんな悲しい現実の渦中。面白くないであろうと嘆いている来年の寸前の今年の師走である、つまりは平成十年っぽい感じの一九九八年差し迫る現下。とあるオモシロ企画が十二月、師疾(はし)るが如く俺の耳に駆け込んできた。
 天野陽子&露崎征次郎。文壇期待、中島賞受賞の両者による若手新人作家対談、である。
 露崎は見事に下半期度の中島賞を受賞した。そこで今年の上半期と下半期の受賞者に、今後の作品の展望やら執筆活動の姿勢やらを大いに語ってもらおうと、若手作家同士のディスカッションという、中島賞を開催している版元からのイキな計らいが設けられたわけだ。というより毎年恒例の行事らしいが。それにしても狙い済ましたようにやってくれる。因縁の両者相討つといった感じのイベントを。対談というより対決。全く持って、ナイスですねえ、である。
「な、面白い事になりそうだろ?」
 ティーカップの縁を所在無く撫でている小野寺真琴に向かって俺は問いかける。彼女がしきりに冷ましながら飲むアッサム茶の濃い香りを楽しみながら。
 俺と小野寺は純喫茶店『シルエット』にいる。
 普段なら喫茶店は経済的に敷居が高いからスルーしがちだが、昨日がバイトの給料日でもあり、また小野寺も仕事が一区切りした事もあり、ちょっと豪華に自前でブラックのコーヒーを苦々しく嗜んでいる次第。傍らに小野寺を備えつつ。
「そげなエエ方、そんな言い方はないよ、森沢君。確かに露崎さんと天野センセが付き合っていた事はたまげた、ビックリしたけど」
 蛇のようにうねるアッサム茶の湯気に息を吹きかけ、さらに唇を尖らし紅茶を舌に染み込ませる小野寺。分かり易い猫舌の所作。
「熱っ! ……もっと早く露崎さんと天野センセの関係のことを教えてくれればえがった、良かったのに」
 舌を火傷しながらも、訛りの呂律を訂正しつつ、忙しく喋る小野寺。無駄な一生懸命っぷりが滑稽に見える。
「一応、事実確認してからの方がいいかな、と思ってさ。もしかしたら電波系よろしく妄想彼女で、俺様はあの天野陽子と付き合っていたのだ、と露崎が勝手にのたうちまわっているだけかも知れないじゃん。でも、実際聞いてみたら嫌々な表情をしながらも、かなりリアルな感じの内容だったから、こりゃこいつら付き合っていたな、と確信して。もっとも本人曰く、男女の関係というよりは一個の人格を認め合う仲だった、とか意味不明な言い回しで濁していたけど」
「ふふ、露崎さんらしい表現の仕方だね。さすがは中島賞作家」
 小野寺は屈託のない笑顔で言葉を返すと外套を脱いだ。中から彼女の細身の体躯にフィットした、清潔感のある白色のセーターが覗く。すっきりと耳と眉を出した、ショートの黒髪とのコントラストも相まって、小野寺の表情はより鮮やかに映えていた。
「痛っ」
 と小野寺は小さく叫んだ。
「どうしたん?」
「静電気」
 小野寺はそう言うと舌をペロっと出し、静かな動作でコートをイスの背もたれに掛けた。俺は店内BGMのシェルブールの雨傘をバックに、わざとらしく足を組んでコーヒーを口に含む。温くはなってきたが、苦さはそのまま。やはりブラックではキツい。だが、何となくコーヒーをブラックで飲む、大人の男を演出したかった。そう、何となく小野寺の前で。
「それにしても、んっんっ!」
 咳払いを二つして、お冷を一口。
「それにしても露崎の奴、やってくれたよな。中島賞のゲット。天野陽子との同年アベック受賞という奇跡的な巡り合わせを」
「何か悪意がある言い方」
「へへ、そう聞こえる? まあ、そうなんだけど。でも、中島賞を取った事は感心してるぜ。似非インテリとはいえ流石だ。ただその受賞が天野陽子の後をトレースしてしまっている、という事実が皮肉っぽいわけだ。あいつは男尊女卑というか、亭主関白気質というか、女は男の三歩後ろを退いて歩け、みたいな部分があるからな。となると俺は、元カノ、売れっ子女流作家、若い女性から圧倒的な支持、などなどの冠言葉がある天野女史に対して露崎先生、胸中穏やかならざる敵愾心が渦巻いている、なんて邪推しちゃうわけよ」
「考えすぎよ」
「いやいや、アイツは確実にジェラってるよ」
「ジェラ?」
「嫉妬しているってこと。天野陽子、というか女の才能ってヤツに。露崎はどうも論理的に物事を考えすぎてしまうヘキがあるからさ、女性特有のインスピレーション的な能力を認めない傾向がある、よーな気がするんだ。そうだなあ、散文はアリだけど、詩はダメみたいな。ノンフィクションはOKだけど、フィクションはNOみたいな。想像力を駆使するというよりは、現実に則って思考を巡らす主義って感じ」
 俺は口の中に残る、キリマンジャロ豆の程よい酸味を嗜好しながら、舌を弄する。
「何かめんこいっすね、露崎さん」
 小野寺は頬に笑窪を作って答えた。
「へ?」
「可愛らしいですよ、露崎さん。そったらことで、そんな事でムキになっているのなら微笑ましい。あ、そんな事って言ったら露崎さんに失礼っすね」
「可愛らしい、ねえ。なるほど、そういう捉え方もあるか」
 母性本能、というか女性の寛容っぷり乃至(ないし)器のデカさを小野寺に対して一瞬感じてしまった。
「そんでも、森沢君。よく露崎君……露崎さんの事さ分かっているよね。まるで昔からの友達みたい」
「そうか? 露崎は結構分かり易いキャラだから、ちょっと付き合ってみればすぐに理解できると思うんだけど」
「そのちょっと付き合う、というのが難しいと思うの。露崎さんって」
「え? どういう意味」
「あくまで私の推測なんだけど、露崎さんってべっこ、ちょっとだけ気難しい所があるから、人に対してそんなに自分を見せないタイプの人だと思うの。森沢君は気さくな人だから露崎さんも打ち解けて、素の部分を見せられたんじゃないかな」
「そんな性格の奴か? 露崎って。でも、真琴ちゃんもその口ぶりはいかにも露崎を分かっていますよって感じだけど。だったらお互いをさらけ出しあえる仲なんじゃない」
 と俺が深い意味なく言葉を返すと、小野寺は俯き加減、備え付けの容器に入ったテーブルシュガーをスプーンですくい、
「そんなんじゃねえっすよ。独りの性格の人ってあたし、分かるんです。おいと、あたしと一緒だから……」
 と言って紅茶にそれを入れた。
「独りの性格?」
 俺は視線をティーカップに落としたままの小野寺に尋ねた。すると小野寺は思い出したかのように、
「あ、何でもねえっす。変なこと言っちゃいましたね、あたし」
 と笑顔で誤魔化した。
「いや……」
 俺はそれ以上の言及は避けたものの、露崎と小野寺、同じクリエイティブな仕事に携わっている者同士、何か共感するものがあるのだろう、と勝手に勘繰ってしまった。
「でも、俺は気さくな人間じゃないと思うけどなあ。内心、意外とネチネチでドロドロしているぜ」
「んな事ねえっす。森沢君はめんげな……」
 小野寺は訛りむき出しで即答したが急に黙り込んだ。
「めんげな?」
 と俺が聞き返すと、何故か小野寺は急いで紅茶を口に含み、「熱っ」と呟いた後、
「……ひょんたな人だから」
 と口ごもって言った。
「ひょんたな?」
「変わっている、ていう意味です」
 小野寺はそう告げると今度はすまし顔でしずしずと紅茶を喉に通した。
「何だよ、それ」
 とりあえず鼻で笑って返してみた。
「でもスゴいっすね、ホント。縁のある二人が同年に、しかも同じ文学賞を。ロマンつっくすら感じちゃいますよ。露崎さんと天野センセは結ばれる運命なんじゃないんですか。なーんて思うんですけど」
「確かに恋愛小説に則れば、再会した二人はほどなく結ばれたのでありました、めでたし、めでたしってな展開になるんだろうけどさ、そう手放しで喜べないのが現実の厳しい所でしょ。天野陽子は知らんけど、露崎は相手をライバル視というか、敵視してるからね」
「うーん、何で別れたんですかね」
「さあ、俺も深くは聞いてないからな。あんましつこくも聞けないし、基本的にアイツも話したがらないし。ま、男と女、そりゃあ複雑な事情はあるでしょう、グフフ」
 思わず晒笑(しんしょう)、というか嗤笑(ししょう)。そんな俺の下卑た笑みに目を細めて眺める小野寺。俺は咳払いして、
「それよりもちゃんと対談が成り立つかが心配だよ。露崎の奴が何か一方的に文句というか、ミョーな文学論で理論武装して臨みそうなので怖い。この前に会った時もアイツは気乗りしない顔をしていたけど、天野陽子を言い負かしてやるぜ! オーラは発散していたからな。どうなることやら」
「まだ対談はやってねえんですかね?」
「どうだろう。何処ぞの文学系雑誌だか論壇誌の新春号に掲載されるとか言っていたから、来月発売になるのかな。だったらもう終わっているかも。本人に直接聞いてみようか」
 俺がPHSを取り出そうとすると、
「いいっすよ。それやったらちゃんとざっすを、雑誌を読んでから色々と聞いてみます」
「何を聞くの?」
「森沢君曰く、胸中穏やかならざる敵愾心ってヤツの真意ですよ」
 平然とした顔でスラリと小野寺は言ってのけた。
「おいおい、そんなストレートに聞けるもんでもないだろ」
「どうしてですか。エエじゃないですか、互いにライバル心を持つ事は。露崎君……露崎さんがどうやって作家・天野陽子を捉えているか興味あるし。文学観の相違とか。両者が作品に仮託しているモチーフとか……」
 どうも小野寺は俺とはややズレた感覚で露崎と天野陽子の関係を考えているようだ。俺は単にゴシップ的な意味合いを前面に色眼鏡で見ているのに、何やら小野寺は作家としての考え方の違い的な、ちょいと高尚な視点から俯瞰している。彼女の生真面目さによるものなのだろう。とりあえずここは話を合わせていくか。
「そ、そうだね。何たってブンガクだもんね、ブンガク。そりゃあ色々と複雑な思考回路が働くよね。露崎の堅苦しそうな理屈に対して、エンタメ系を標榜する天野陽子ちゃんがどう立ち向かうか。読み所満載の討論になりそうだな」
 小野寺が納得した表情で何度か頷首(がんしゅ)する。
「作家、文学者、小説家。文字を書くこと。あたしはマンガを描いているけど、やっぱしマンガを描くと小説を書くとでは構造的に違うんでしょうね」
 深い溜め息を吐いて小野寺は言った。何やら神妙に、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「何かさっきから小難しい事を真琴ちゃんは言うなあ。露崎の影響か?」
「かも知れないっすね。露崎さんの本とか読んでいると、なめいきにも……生意気にもこまっしゃぐれた……大人びた事を何か考えちゃうんです。露崎さんの作品にかける真摯な姿勢から影響を受けているんだと思うんですけど。例えばどうして露崎さんは小説家を目指すに至ったかとか……」
「そんなのは文章を書くのが得意で、それにお金の匂いがしたからじゃないの」
「そんな。それだけじゃ書いていけないし、それだけじゃやっていけないっすよ」
 それだけじゃやっていけない。小野寺のその台詞は青っぽい手垢のついた金科玉条。情熱が私のエネルギー源系の人種の、私の目的はお金のためじゃない理論は食傷気味なので、俺は半ば苛立ちつつ、流すように会話を進めた。
「それじゃあ、真琴ちゃんはどうしてマンガを描こうと思ったのよ?」
 恐らく尖った口調であったろう俺の質問に、その語気も気にせず小野寺は腕を組み考え込んでしまった。好きだから。どうせその類いの理由だとは思うのだが。
「縛られちゃった、からかなあ」
 小野寺は絞り出すようにそう答えた。
「へ? 縛られたって、何が?」
「自分自身に、ううん、自分自身の夢に」
 俺は小野寺の意外な答えに、更なる次の発言を待った。
「あ、うんと、変な言い回しだったですね。そうっすね、最初はマンガを描く事が好きだから何となくって気持ちだったんですけど、気づかない内にいつの間にか、もうこれしかないっていう状況になっていた。そんな感じ、かな」
「もうこれしかないっていう状況?」
「うーん、思い込みが激しくなりすぎて、他の事が見えなくなったとでも言うべきか……いや、分かんないっすね。えーと、価値観がそれだけに集約して、もう他の生きる術が見つからなくなった、かな。例え嫌になろうと、苦痛であろうと、もうそれしかない。逃れられず、離れられず、自分で強制的に自身を束縛する……」
「おっかないな。何か麻薬みたいだ」
 夢を追うってのは、と言葉を足そうとしたが、それは止めた。
「はは、そっかも知れないっすね。ま、ちょっと大袈裟に言ってみました」
 小野寺はこめかみを掻きながら、肩をすくめて答えた。
「でも、それじゃ人生の視野が狭くなっちゃうじゃん。選択肢もなくなっちゃうし。もっと柔軟にモノゴトを考えた方がいいんじゃない。メシの食い扶持は食い扶持として堅実に稼ぐ方法。趣味は趣味として純粋に楽しむ、みたいな」
 小野寺は微笑むと、
「そうですね」
 と力なく、一方で余裕のある口調で呟いた。ひどく諦めた気配が窺える。しかし、それに対して満足している。そんな矛盾に近い思いを抱かせる小野寺の気色。俺はさらにその心中を探りたくなった。
「それにさ、早めに気持ちを整理しないと人生取り返しのつかない事になっちゃうぜ。若さにかまけて余裕ぶっこいていると年くってから、会社勤めの人間と生涯賃金の格差に泣くことになるって。保険とか厚生年金は強いよ。社会的な保護は会社がしてくれるわけよ。芸術系一匹狼稼業だと、キャッシュカードとかも信用が薄いから作りづらいし、いやいや、ヘタすりゃ飢え死にだってありうる。老後の糧は貯金のみ。それもあればの話」
 俺はこんこんと浮き草稼業のリスクを説いているつもりだったが、小野寺はただただ僅かに相槌を打つだけ。
「だから俺は確実に後悔するって思っちゃうわけよ」
「後悔は毎度のことです。慣れてます」
 弱い語調にして、明快な小野寺の返答。俺としては意地悪な感じで言ってみたのだが、凛とした表情を小野寺は覗かせる。
「……覚悟は?」
「覚悟、ですか。正直、分かんねえっすよ。ただ今は今出来ることをやるだけっす。後悔するにしても、幸い自分で選んだミヂ……道だから。誰のせいにもできない、誰にも案内できない、あたしだけの道だから」
 紅茶を一口、小野寺は飲んだ。淡い湯気が僅かにしなる。
「…………」
 俺はダンマリを余儀なくされた。マンガを描くことを軽い気持ちで、それこそマンガのようなキャラクターの小野寺に尋ねたつもりだったが、そこに垣間見られたものは諦念にも似た悲壮感。よくは分からない。よくは分からないけども、何かを背負い、いや、何かを背負おうとする気概が小野寺から覚える。
「へへ、ちょっとカッコエかったっすか」
「え?」
 小野寺は今度は屈託なく笑った。その笑顔に陰りはない。はにかみ笑い。
「うん、そうだな。カッコエエ、カッコエエ」
 俺も笑顔で答えて相槌した。小野寺も満足そうに頷く。
「森沢君は……」
 と小野寺は言いかけるとそこで口を閉ざした。
「何?」
「いや、何でもねえっす」
 小野寺は再び紅茶で口を濁す。
 恐らく小野寺は俺に対して、今後の人生においての目標やら夢の類いを聞こうと思ったのだろう。だが、それは以前質問して適当に流した議題。小野寺はそれを気にして口ごもったのだ、と思う。そう、俺には語るべき言葉がないし、語りうる語彙が見つからない。幸福にして、誰のせいにもできない、誰に強制されたわけでもない、俺が選んだ道がただ漠然と、俺の人生において敷かれているだけ。いや、選んですらいないのかも知れない。道はなく、路頭に迷っているだけで、ずっと定位置。
「…………」
 俺は戸惑いがちな小野寺の顔を他所に、黙ってブラックのコーヒーにミルクを足した。
 
 小野寺と別れてシルエットを出る頃には既に日が沈んでいた。師走の日照時間は短い。まさに駆け足。反してのろのろと手持ち無沙汰に街を歩いていると、やにわにポケットの中のPHSが鳴った。相手は伊達だ。
【お、森沢か?】
「以外に誰が出るんだよ」
【相変わらずの無愛想な挨拶だな。まあ、いいや。実はさ、ウチから遂に文芸誌が発行される事になったんだよ。ライトノベル勢とかJ文学が最近強いしさ。ほら、結局お前は出さなかったけど、ウチの社長の趣味で開催した文学賞も評判良かったからさ。それで今回の新雑誌の創刊号から第一回の本格的な新人文学賞を開催する事になったんだ。それでお前もチャレンジしてみないかと思って。今回は凄いぞ。何てったって審査員が……】
「もう、そういうのはいいから」
【え? 何だって】
「切るぞ」
 俺は伊達の返事も待たず電話を切った。ついでに電源も切った。それにしても何故伊達はありがた迷惑にも、わざわざ無駄な情報を提供してくるのだろう。二十代無職、犯罪に走りやすい俺のシチュエーションを鑑みて、何か目標的なものを持たせる事により、防犯活動の一翼を担おうとでも思っているのか。だとしたらご遠慮願いたいものだ。美しすぎる友情にも程がある。まあ、確かに今は特に理由もなくレギュラーのバイトは辞めちまって、単発のショット・ワークで糊口を凌いではいるけど。だって所詮バイトは飽きるもん。いつまでもパンに値引きシールを貼ってられねえっての。
「そういや明日はケーキ工場の派遣バイトか」
 仕事の中身はケーキの上に、イチゴだかマロンだかを乗っける事って聞いたな。ライン作業の一環として。こりゃあ重要な役目を任されそうだ。二十代の健康優良男子、働き盛りの俺にとってはとてつもなくやり甲斐のある仕事になるな、きっと。
「ベルトコンベアーの流れライン作業。そのラインが俺の選んだ道ってヤツかも」
 定位置じゃなく、自動的にしろ機械的にしろ、まだ勝手に動いているだけマシかも、ベルトコンベアー式って。
「勝手に年も暮れてくし」
 意味不明な愚痴をこぼしつつ、どうやら今年は例年以上に自虐的な、ゆく年くる年を迎えそうである。

              *

「アナタのウゴキがオソイから、コッチの人、アッチの人、メイワクかかる」
 流暢な日本語ではないが、カウンターテノールばりの高音の声をもってして、俺を叱咤する某アジア系外国人労働者。仕事のノルマ的な事は知らんが、所定の勤務時間はこなしたのに文句を言われてはかなわん、と思い俺は早足でその作業場を離れた。それにしても何処の国の人間かは知らないが、どうして連中は声ばかりが馬鹿デカいのだろう。コミュニケーションの取り方も荒っぽく、日本人同士がするスキンシップの叩きあいのそれが、連中にしてみればまるでドツき合い。本気で殴っているとしか思えないし、実際目もマジに見える。それでも彼らにとってはお肌の触れ合いらしい。お国柄の違いでその辺りは突っ込まないが、それにしても仕事の作業スピードにことかけてイビってくるのは勘弁してほしい。こっちだって最初に聞いたのとは違う仕事になっているのを、我慢してこなしているのだから。
 何の感慨も覚えられないまま迎えた、一九九九年。二十世紀最後の年、と思っていたら二〇〇〇年も二十世紀に含まれている事を忘れていた。世紀末の暴走を胸に秘めていたが、まだそれには一年必要なんだという事を再確認し、あまり話の脈絡とは関係ないが、もう少し長生きしなければと慮り、単発ショット・ワークは新年を明けても続けている俺。実際に年またぎの宵越しは、何処ぞの市場でドでかいコンテナに、二輪車と四輪車のタイヤを仕分けして入れる、という作業をしていた。そんな男の汗も爽やかなハッピー・ニューイヤーの経験も懲りずに、今も俺は日雇い稼業に精を出しているわけだが、今回やった冷凍食品の管理、というかやはり仕分けの仕事はいっぱい食わされた感がある。冷凍庫内でのこの作業。扱うのは重い物じゃないし、ジャンパーを二枚着込めば大丈夫、と派遣会社のエージェントはぬかしていたが、確かに扱う物それ自体は重くはない。だが、ベルトコンベアーから流れてくる物量が半端ではなく、運動不足の輩にとってはかなりの重労働。それにジャンパー二枚を着込めば、と言っていたがそのジャンバーが支給されない。つまり手前で用意しなければならなく、俺はそんな事とはツユ知らず自前のジャンパー一枚で零下二十度の中を頑張った。しかも休憩中は外に野さらし。プレハブ・ハウスのような事務所があるにはあるが、そこはベテラン仕分けマスターのおっちゃん達が優先的に休憩を取る場所で、俺のような日雇い派遣アルバイトや外国人出稼ぎ労働者は入りきらず、一月の亥の刻さしかかる寒中、荒川土手の付近で自販機の缶コーヒーを片手に佇む事を余儀なくされる。夜空を覗き、オリオン座ばかりがやたらと眩しいぜ、と一人ハードボイルドに浸りながら。とはいえコーヒーの一杯ぐらい支給してくれても良さそうなのだが……。
 そんな恵まれない環境の者同士なはずの俺と外国人労働者だったのだが、どうも彼らは俺の作業効率が悪いのが気に入らないらしく、時々片言の日本語で罵詈雑言を浴びせてきた。アナタ、ノロいからツカえないよ! とか、それでワタシらと同じお金モラっているなんて、アリえないよ! 等々。時折、「超ムカツク」などなかなか粋な日本語も駆使する。語学研修の成果の賜物であろう。
 それにしても飯場のような施設のこの仕事場、集まっている労働者はアジア系から中東系、あとインド人やロシア人などもいる。そんなある意味インターナショナルなこの職場で感じる危惧。それは外資の脅威はこんな末端の労働域にまで達してきているということ。金ではなく肉体的資本をもってしての外資。まさに体をはったリアル資本主義。黒船勢は日本のブルジョワジーに対しては買収工作で乗っ取り、プロレタリアートに向けてはその安価な賃金で我々ジャパニーズ若年フリーターを脅かす。上も下もやりたい放題。
 経済大国と呼ばれた我がジャパンはかつてない危機にさらされている。景気動向指数は五十パーセントを割れ、景気の底は見えず、失業率は昨年通年で最悪更新。そんな間隙を突いてどんどん外資は侵略してくるのだ。経済侵略的帝国主義によって植民地化する日本。もはや資本主義のエンタメ化は望めそうにない。やはり我ら貧民を救うのは、かつてユートピア思想として迎えられていた共産主義だか社会主義なのだ! と熱くのたうちまわってしまうのは、露崎の影響か。中途半端な理屈を考えてみた所で、二枚重ねの軍手の効力空しく、かじかんでいる指の痛感は変わる事はないのに。
「本当は終わってないけど、残業代は出せないからね」
 雇い主である冷凍倉庫の工場長のその一言が、今日の仕事の締め括り。その場で茶封筒に包まれた本日の労働賃金を受け取り、派遣会社の方に作業終了の報告をすれば完遂。どうせ一日だけの仕事場。一期一会な労働者仲間。適当にへりくだって挨拶して即退散するのが賢明。
「お先ぃ」
 俺は誰とも目を合わせず、ジャンパーの袖に付着していた氷霜を振り払いながら、その場を後にした。時刻は午後十時十五分。バスからの乗り継ぎを含めても、終電までには余裕で駅に着くはず。
 露崎との待ち合わせ時間にはどうやら間に合いそうだ。目指すはノガミこと上野。

 西郷隆盛はやはり去年と同様、いや、去年以上に俺を見下ろしているように感じられる。正確には西郷隆盛の銅像。口開かぬ碑よ、その様は去年一年、人生的に何の成果も挙げられなかった俺への沈黙の訓告か……などと柄になく何ちゃって自戒。が、そう思う一方で妙にイラつく。心底では皮肉って考えている自虐のそれを、はたまた自覚しているからか。あの時抱えた思いと齟齬があるからか。今や懐かしき蒼い誓いと。
 よぎる記憶は桜の頃。あの時は依るところ何もないままでも、気持ちだけは空元気半分、希望的観測に拠って走ろうとしていた。だが、一年あまりが間もなく過ぎようとするこの頃。当時見ていた、若さという勢いがあればどうにかなるだろう、という甘い向後(きょうこう)の地図は、現実の中で儚くも燃え尽きて、資本主義っぽい世の中を迷うだけの結果になってしまった。まあ、あの頃は上京したてのウブな時期だったから、熱い心情をもって立志を掲げるのは至極当然だったのかも知れない。
 顧みる熱いソウル。省みる弱いハート。旗はボロでも心は錦……故郷へ錦を飾って帰る……うーん、痛い思いだ。錦とやらがあれば帰郷の免罪符になりえたのか。無論、勝手に大学を中途退学し、いまだ無職な俺が馬鹿面さげて、正月に里帰りする事など許されないし、していない。自由を求めて故郷を捨てた結果、やたら不自由な自由を得ることになってしまった俺。これからは逆ギレよろしく故山を憎みながら生きていく事になるだろう、というかそう生きていこう。だから大雪続く日本海側、我が郷里の富山でJR北陸線が雪で立ち往生していようが関係ない。ザマーミロなのである。
「……ってどうして上野公園で待ち合わせなんだよ」
 真冬のだだっ広い敷地の上での待機状態。遮蔽物が少ないゆえ、北風がモロに直撃。面白味もなくただ単純に寒い、寒い。ジャンパーのファスナーを、首が締め付ける位まで上げてみるが、あまり効果はない。この寒波はもしや越中から吹く風か。故郷を捨てた者に対する戒めの寒風か。だが、実は俺の中では故郷を捨てた、という思いより、故郷に捨てられた、という感慨の方が深い。ザマーミロな感情をいり交えて、湿度の高い雪によって高岡大仏が埋もれていく図を想像してはいるが、ひどく虚しい。むしろ高岡大仏の光背がむやみに懐かしい。
「やばい。ノスタルジィに浸るな」
 俺はジャンパーの内ポケットから、本日四本目であるオオトリの煙草を取り出そうとした。と、その時、煙草の入っていないもう片方の内ポケットが鳴動。マイPHSが発動。そういえば今年から携帯電話やPHSが11桁化統一したな、と瑣末な事を顧みつつ、手を煙草から電話の方に向ける。相手は小野寺だ。
「もしもし」
【やあ、森沢君。明けましておめでとう】
 イントネーションが微妙にズレている、小野寺からの唐突の謹賀新年。
「え? 明けましてって、今年になって初めてだっけ会話したの。そんなに久しぶりだったか」
【そうだよ、森沢君。しゃっこえから全然連絡くれないもん】
「しゃっこえ?」
【森沢君って冷たいから、ってこと】
「あ、いや、ちょっと最近忙しかったからさ」
【なあに、ちゃんとお正月に里帰りしてたの?】
「まさか。一度都会の濁った息吹を知っちまったら、あんな田舎臭くて新鮮で爽やかな空気は体が受け付けないよ」
【何よ、それ。馬鹿にしているのか褒めているのか分からない言い方】
「マコっちゃんは帰ったの?」
【当たり前じゃないっすか。イーハトーブで誉れ高い花巻ですよ。自慢の地元です。けえるに、帰るに決まっているじゃないっすか】
「その割に地元訛りはお気に召さないようで」
【ぐ、それはそれとして……兎に角! 東京に出てからおいは、私は故郷に対して拘泥するようになったんです。そうだよ、森沢君。あたしら地方出身者はある意味そういう点で幸せなんじゃない。生まれ育った土地を離れる事ができたから分かる、ううん、味わえる郷愁ってヤツ。特権だし実感だよね、これって】
 故郷、か。
 一人無意味にテンションを上げて、一方的な望郷論を語る、もとい喋る小野寺。故郷と訣別した者にとっては皮肉にも聞こえるが、それは彼女の知る由ではない。
「そうだな……」
 俺は軽く辺りを見回し、西郷隆盛像から少し離れ、側の手すりに移動し上野広小路を見下ろす。イルミネーションよろしく、トラックの電飾やタクシーの表示灯がまばらに街路を流れる。
【疲れてる?】
「え?」
【声に元気がないから】
「そんな事ないって、はは」
 空笑い。それは自覚している。
「まあ、まだバイトが……仕事が終わったばっかだから、ちょいとパワーが足りてないかも知れないけどさ。真琴ちゃんの方の仕事は?」
【うん、あたしもさっき終わったばかりで、上原センセのお手伝いから今帰ってきたとこなんだけど、森沢君はさ、今はどんな仕事しているの?】
「え、いや、そうだな……仕事つーか、単発バイトなんだけどさ、まあ、ショット・ワークってやつ。いわゆる、スポットの派遣のバイト」
【スポット?】
「日雇い労働みたいなもんかな」
【日雇い……】
 電話越しの小野寺の声が徐々に小さくなっていった。
「どうかした?」
【あ、いや、ズツは、実はさ、伊達さんから教えてもらったんだけども、伊達さんの出版社で新雑誌の新人文学賞があるからって。だから森沢君もチャレンジしたらどうかな、と思ってたんだけど、何かあまり乗る気じゃないって聞いたから、それで……】
 たどたどしい小野寺の口調。それは普段の訛りを気にしてのそれとは違う。俺への窺いを感じる。
「ああ、まあ、そんな話は聞いたけどさ、基本的に俺とは関係ない事だからね。もしかしたら伊達が何か期待を込めたように説いたのかも知れないけど、アイツが勝手に俺をミスリードしてるだけで、俺的には全く関知しないこと。たいして文才の無い俺を伊達が意味不明に担ぎ上げて、好き勝手な思い込みで小説家の類いに仕立てようとしている魂胆ってやつ。そんな事に首を突っ込む程俺も暇じゃねえって。そんな関係の無い事にカロリーを使うより、実質的に金を稼ぐ労働をしないと」
 別段、自虐的に言ったわけでもなく、どちらかと言えば陽気に、或いは軽薄に返したつもりだったが、
【どうして?】
 とその小野寺の答酬は妙に深刻さを帯びていた。
「え?」
【どうして関係ないなんて、そったなこと言うんですか】
「いや、本当に関係ないじゃん」
【だって森沢君、小説……書いてたじゃない】
 小野寺の一言。それは喉の奥底から絞り出したような、掠れた声にも聞こえた。小野寺はまだ妙な勘違いをしている、と考えるのと同時に、一方で小野寺は自らの勘違いを踏まえて俺に対して提言しているのではないか、とも受け取れる。つまり、あえて俺に説法をかまそうとする。恐らく、夢を追いなよ的な類いのそれを。
「別に」
 別に。小野寺の問いに対しての的確なアンサーではないが、曖昧にぼかしたこの一言ぐらいしか俺には浮かばなかった。頭が働かなかった。面倒臭かった。苛立っていた。
「別に……つーか、別に真琴ちゃんには関係ないじゃん。何でそんな話になるのよ」
【だって折角、伊達さんが良い話を持ってきたのに……】
「小説を書けって? それが良い話? じゃあ何、真琴ちゃんは伊達の話に乗って、一緒になって俺を担ぎ出そうとするわけ。ただでさえしょっぱい人生背負っている俺を、さらに勘違いさせて路頭に迷わす気?」
【そ、そったなつもりは……】
「そんなさ、伊達のお節介に便乗されても、俺としてはあんまり意味のない話なんで」
【お節介? 伊達さんはそんなつもりでへったんじゃ、言ったんじゃねえっすよ】
「どうだか。あいつの暇つぶしに俺を付き合わせようとしているだけなんじゃねえの。作家を育てるみたいな、編集者自己満足にさ。ま、何にしても俺には関係のない話。どうでもいいこと」
【…………】
「どうでも……」
【…………】
「…………」
【こばがたれ!】
 しばしの沈黙の後、その一言をして突如電話が切れた。
「あ、おーい」
 もはや後の祭り。
「あーあ、やっちまったかあ」
 俺も熱くなってしまった。いつものように、いつもの調子で軽剽(けいひょう)に返せば問題なかったのに、何故か生真面目にも小野寺の舞台に乗っかってしまった。かわそうとしなかった。何やっているんだ、俺は。分かっていただろうに、衝突する結果になることぐらい。
「……にしても」
 それにしても、どうして小野寺のような夢追い情熱系の人種は、自分の人生価値基準で物事を判断してしまうのだろう。まるで他人も自分と同じように、熱い夢やら目標に向かって人生進んでますよ、みたいな。それに従って自分で勝手にシナリオを書いて、話を展開していっちゃうからなあ。それが時にウザくて迷惑なんだよな。その点は伊達とかにも共通するけど、自分の仕事にエラく燃えている輩ってのは、どうも一般的にくすぶっている連中からしてみると、異端というか、温度差があるというか、思い込みが激しいというか、空気を読めないというか。そう、露崎にしたって……。
「おい」
「うおっ!」
 背後から出し抜けの一声。振り返ってみれば、安っぽいダッフルコートを羽織った、露崎征次郎その人が屹立している。
「何だよお前、いきなり驚かすなよ」
 俺は強く握りしめていたPHSを内ポケットに戻しながら言った。
「いきなりじゃないぞ。さっきちょっと遠くから声をかけたけど、気づかなかったのか。何やら電話でもしているみたいだったが」
 と依然たる説明口調で言いながら、露崎は俺の横に並び、同じく手すりに肘を掛け、大通りを見下ろす格好になった。互いは目線を合わさず、聚楽台レストラン真上から覗ける夜景を視座に置く。
「ああ、まあな。真琴ちゃんと、ちょっとね」
「小野寺さん? ちょっとねって、痴話喧嘩の類いか」
「んな訳ねーだろ。何つーか、意見の齟齬というか、価値観の相違というか、まあ、ちょっとしたディスコミュニケーションってやつ」
「いまいち要領を得ない感があるが」
「言ってみれば、お前らのような妙に目的意識の強い人間は、我が強いからうっとおしいってこと。つーか、分かり易すぎるんだよな、マンガ家とか小説家って。オイラ達は夢があるんで、志があるんで、みたいな夢追い系キャラってやつ。だから他のみんなもそういう熱いモノ持っているよねー、頑張っていこうねー、みたいなさ。手前の情熱を免罪符にして、押しつけがましいことを他人に委ねる。そ、自己中心的な人種だよな、うん」
「何だよ、それ。よく分からないけど、小野寺さんとの会話はあまり良いものではなかったらしいな」
「まあな」
 露崎に八つ当たりしても仕方ないのは分かっているが、とりあえず愚痴めいた口調で言い放つ。当の露崎は鷹揚にもそれを受け止めているのか、あるいはさして気にしていないのか、にべもない態度のまま、白い息を一定のスパンで吐き出している。さらに大きく溜め息のようなそれを吐くと、
「だが、森沢の言っている事も一理あるような気がする。自らにやたら誇大な使命感を背負わせる人間というのは、自我が強く自己中心的、言ってしまえば自意識過剰になってしまう傾向があるな。だから同調できない人種にとっては、疎んじられる存在になってしまう。お前が言う夢追い系キャラというやつだな」
「何か冷静に分析して語っているけど、お前がそのキャラだっつーの。ったくさ、どういう事よ?」
「どういう事って?」
「いや、その、楽しいわけ? そういう生き方して。つまりは風呂敷のでっかい人生ってやつ。今が充実してれば良い、みたいな刹那的な生き方で、今後の人生ヤバいと思わねえの。熱い妄言を思う存分表現した後に、結局何も残らなかったら、野垂れ死にでしょ。無職の俺が言ってもあんま説得力は無いけどさ」
「それは職業として作家を選ぶべき場合か?」
「ん? まあ、そうだな」
「別に私は生活の糧の手段として作家を志しているわけではないからな。詮ずる所、作家が全て、というわけではない」
 幾分クールな露崎からの回答。確かに俺も思い込みすぎて、マンガ家や小説家があまりにも典型的な「夢」なだけに、それに対して全身捨て身の人生を張っている、というイメージを強く抱きすぎた。思うに露崎は小野寺よりも冷静に「作家」を捉えているように見受けられる。だが、そんなクールに作家の立場を語る露崎が表す気色。それは諦観じみた笑みが滲んでいる。何処かで見た所得顔。
「だが、森沢の言う熱い妄言を表現する生き方に、縛られてしまっている部分もあるな」
 何処かで聞いた科白。
「そういや、真琴ちゃんも似たようなこと言ってたわ。自分の夢に縛られている、みたいな。もっとも真琴ちゃんはお前のように部分的、というより、全人生に亘っている感じだったけど。まるで全身小説家の井上光晴かってな具合かな。あ、真琴ちゃんの場合は全身マンガ家か」
「本当か? 強いな、小野寺さんは」
「強いって言うのか、そういうの?」
「恐らく小野寺さんは全身全霊をマンガに賭けているから、自らの人生全てを縛られていると言ったのだろう。それは紛れもない強靭な魂ではないか。強いよ、女性は……」
 再び露崎の大きな嘆息。
「強いよ、女性? あ、そういえば、お前。天野陽子との対談はどうだったんだよ。ちゃんと言い負かしてきたのか」
「もうすぐ雑誌が出るから、それを読んで判断しろ」
 投げやりな露崎の語調。さらに微かな笑みは薄れ、くすんだ顔つきになっている。それに女性は強い、という台詞も意味深だ。何があったのか気になるが、もう暫らく黙って夜のハイウェイを見ているか。そんな簡易的ハードボイルド気分に浸っていたその矢先、
「負けたね、というのが率直な感想だな」
 と早速露崎が口を開いた、というか勝手に口を割ってきた。
「負けた、というのは正しい表現ではないか。本来、対談というものは勝敗で結ぶべきものではないからな。だが、まざまざと己の考え方の、作家としての捉え方の、いや、人としての精神の脆弱さを再認識させられた形になったな」
 露崎はネオンを纏う遠景に目線を据えたまま語る。
「何だよ、それ。全面降伏な意見じゃねえか」
「そうかな。いや、そうだな。彼女の言葉もそうだったが、その瞳、その姿勢、その態度、それら全てが確実に自分のポリシーでありマニフェストだった。小手先のロジックではなく、魂に依る意志だった。文学を掲げ、一般大衆の知の向上化を居丈高に唱える私の理論、いや、理屈など述べる隙もなかったよ。彼女は第一に個の読者を考え見つめていた。私が捉えていたのは読者ではなく、民衆だった。私は読み手を読者として考えていたのではなく、曖昧な圧倒的大多数の公衆として俯瞰し、あまつさえ啓蒙するような位置に自分自身を寄せていた。これじゃマスターベーションのレベルだ。彼女との対談、いや、会話だな。彼女との会話で気づかされたよ。やはり彼女はプロの作家だった。数字を叩き出すプロの作家だよ。これは皮肉じゃない。他者を、読者を見据えている。志向が自分に向いていないんだ。あくまで自余に向いている。読者との相対的な関係を理解し、実践しようとしている。だとしたらプロの作家として彼女を呼べるのではないか」
「んー、相変わらずお前の言っている事はよく分からんが、兎に角天野陽子はプロフェッショナルだったと。お前はそれで己の未熟っぷりを知った、みたいな総括でOKか」
「ああ、そのように解釈してくれ。ただ……」
「ただ?」
 露崎は徐に目を細めて、
「懐かしかったな」
「は?」
「妙に懐かしい気分だった。あ、いや、まあ、それはどうでもいい事なんだが」
 咳払いをして露崎は言葉を濁した。俺は横目で露崎を一瞥すると、
「では、露崎氏にとっては天野陽子女史との会話は、良きものであったのかな?」
「どうだろう。少なくとも……演繹的な答えではないが、どうしてか、女性は凄いな、というような結論に至ってしまった次第だ。自分でも何故そんな考えにたどり着いたかは、正直、分からないんだが」
「そりゃあ、きっと天野陽子をまだ女として見てるからじゃねえの」
「私が? どうして。仮にそうだとしても何故彼女を女として見ていたら、女性は凄いという思いに至る」
「俺が知るか。お前は理屈っぽ過ぎるんだよ。たまには感情に従え」
「感情は論理的でないから、あまり信用できなくてな」
「へいへい、好きにしてください。じゃあ、こう結論付けようぜ。女は分からん、と」
 不意に小野寺真琴の田舎臭いスッピンの顔が浮かんだ。
「そうだな。女は分からん」
 女は分からん。両者納得の強引な答え。
 どうやら今夜の飲みの意味が掴めてきた。何かしら理屈を付けたがる露崎が、突然、何の意図も告げず、会って飲まないか、の一言。妙だなとは思ったが、ただ単純に心情を吐露したかったんだろう。今まで、ケッ! 女なんて的な態度を取ってきた露崎征次郎のほんのりとした転向。それをこいつは感情不器用なりに俺に吐きたかった、ちょっと整理しておきたかった、みたいな。結局は毎度恒例の、女は分からん、に落ち着いてしまったが。
「本当に女性は分からんよ……だからそれを追究する事を踏まえて、私はロシアに行こうかと思っている」
 全くもって脈絡のない露崎の意味不明な告白。
「はあ? 女は分からんからロシアに行くってどういう意味だ、それ」
「ロシアはかつてソ連の名の下、社会主義を実践していたわけだが、ソ連型社会主義としての枠ではなく、広義の意味で社会主義という体制が国家における生産と配分の平等を根ざした点で、何処か女性的な印象を受けるんだ。かなり飛躍的な考え方かも知れないが、資本主義が競争原理に依拠する事によって、それを男性的と解釈すると、やはり甚だ突飛な理屈になってしまう点も含めて私が指摘するに、社会主義の平等観念は女性特有の寛裕さのそれと比較類似し……」
「ああ、ちょっと、もう分かった、分かった。何よ、お前さんはロシアに飛ぶわけね、つまりは」
「そうだ。いつになるかは分からないが、やはり何だかんだ言っても私の中ではロシア文学が息づいているし、私自身の原点でもあるような気がするんだ。確かに私は彼女、天野陽子に対して、作家としての心構え、人間としての器の点では大きく遅れを取っている。だが、私個人のそれとは別に文学そのものが、意義性を没したわけではない。彼女の文学に対する低い評価は、やはり賛同はできない。だからこそ私は借り物の言葉ではなく、身をもって体験ないし経験した文学を揮ってみたいんだ」
「ふうん、それで当座の目標としてロシアへ行ってみようって事か。でもさ、俺としてはあんまり何でもかんでも海外に期待を求めるのは賛成できないんだよね。何か海外に行けば一皮剥けるだろうっていう、他力本願的な成長通過儀礼の感覚ってやつ。曖昧な目的意識を掲げて、取りあえず日本を出ればどうにかなるだろう、外国が勝手に僕を、私を変えてくれるだろう、みたいな。溜め込んだ金の使い方が下手な、頭の悪いOLのバカンス旅行の考え方っぽいし」
 とそこまで自分で言ってみたが、俺が高校を卒業して上京した理由も、その頭の悪いOLのバカンス旅行の考え方と変わらない事に気づく。イタい。
「成程、辛辣な意見だが森沢の言う事も的を射ている部分がある。今の私には返す言葉がないな。だが、頭の悪い私にはそのような方法論しか浮かばなかったんだよ。だから今はロシアに向けて金を溜める事に腐心する次第だ」
 露崎は自信満々に言っている。例の如く、眼鏡のブリッジを中指で押し上げている仕草からそれが窺える。したり顔。結局、露崎も温度差はあれ夢追い系キャラなのだ。そう、天野陽子にしたって一緒の系統であろう。やれやれ、暑苦しい。俺は今一度、内ポケットから、今日四本目のオーラスの煙草を取り出しながら、
「でも、いいのか。いつロシアに行くかは知らんが、これから作家としてやっていくなら、悠長にドロップ・アウトしている暇はないんじゃねえの。お前が外に飛んでいる間に、文壇って所から干されちゃうぞ」
「文学を体得しない限り、作家としてやっていく意味もないし、書く資格もない。まずは己の中の文学を形成せねばならない」
「へいへい、お熱いこって」
「森沢は行かないのか?」
「俺がロシアに? 何で」
「あ、いや、すまん。言い方がおかしかった。クニには帰らないのか?」
「クニって、富山のことか?」
「ああ、それとも正月帰りはすましたか」
「……帰ってねえよ。別に帰りたくもないし、あんな田舎に」
「帰れないんじゃないか」
 こいつ妙な所で勘を働かす。イヤな野郎だ。
「あーあ、やっぱ上野は良いや。敗者に優しい街だもんな。どっかで読んだ雑誌に書いてあったぜ。上野は彰義隊が潰された地であり、戊辰戦争の時は勝者だった西郷隆盛も、西南戦争では敗れ去って死んだ。上野っていうのはそういうルーザーに寛容な土地柄で、それこそ負け戦だった太平洋戦争後の戦災孤児も受け入れてきたんだと。今だったらホームレスな人々がたむろしている訳でしょ。宿無しになっても受け入れ態勢は万全なわけだ。だから俺はここを離れたくないわけよ、一時も。ハッテン場が多いのはビミューだけど」
「お前にとっても敗北の地というわけか」
「…………」
 少なくとも去年、俺は桜を見ていた。焦ってはいたが、確実に桜は舞っていた。散りゆく運命だったけど。
「んな訳ねーじゃん。俺はビッグになるよ。本田宗一郎や松下幸之助を超えるよ。ソニーだか電通だか、もしくは何処ぞのテレビ局に新聞社、マスコミ関連よろしく、それこそ一流企業を経てベンチャー立ち上げて、青年実業家になって弁護士にもなっちゃって、挙句テレビのコメンテーターを経て政界に進出しちゃうよ。少なくとも誰かさんみたいに、現実のマネーが掴みづらい、夢でお腹いっぱいでーす、みたいな事は目指さないね。コネを作って、色と欲と消費に満ちた一攫千金を狙うよ、俺は」
「それは、それは。非現実的で非論拠的なマネーの生産方法の青写真でお見事」
「クソ。お前に皮肉を言われると、他人の言うそれよりも二割り増しでムカつく」
「はは、そうか。だが、かつて上野駅は高度成長期を支えた集団就職者、金の卵たちの玄関口だった。敗者に優しい側面、一方で地方出身者の希望や志の象徴的な場所でもあったわけだ。上野は俺らの心の駅だ、胸にゃでっかい夢がある、と井沢八郎も『ああ上野駅』で唄っていただけに、森沢のような論拠なき大志でも、それを叶えるにそれ程場違いな土地柄ではないだろ。可能性は無限大だ」
「へいへい。何かお前の言う事は理屈っぽいプラス古臭いから笑っちゃうんだよな」
 俺はニヤつきながら、ようやっと煙草に火を灯す。寄る辺なき紫煙が目に染みる。
「いや、本当にそうさ。それに私は上野へやってきた、つまり上京をしてきたというシチュエーションの森沢が羨ましくもある」
「は?」
「分からないか。お前は文学的に『近代』を体現しているんだ」
 また訳の分からない事をほざきだしたぞ。うっとおしい感もあるが論説調になってきた露崎はその呂律を弛ませない。
「見聞を広めるために地元にはびこるのではなく、自らを大海に出るかのごとく見知らぬ土地へ出立させる。それは世界観の拡大だ。従うに認識範囲の拡大をも意味する。日本における近代文学の機能において、個人と社会との密接な関連を探るに、上京という行為は一つの有効な手段だったんだ。突き詰めるに、自分と他者が介在する社会との、相対的な意義を見つけるための手続きの一つ。ようするに……」
「待て、待て! えーと、例の如くお前の言っている事はよーくは分からんが、その上京っていう行為が自分探し的な意味合いがあって、生まれた土地を脱して行動範囲を広げてみたら、テメエと世の中との関わり合いが分かってくるって事を、のたうちまわっているのかな?」
 俺なりの咀嚼をして露崎の様子を窺う。露崎は一度頷くと、
「そうだな、近代的自我の萌芽だ。自分の社会における立ち位置というものが見えてくる。自己形成や存在意義を育ませる。生活圏を広げる事によって視野も広がる。日本人の共同体としての意識が時代を進むにつれて、村や藩から国へ、そして、世界と変わっていくように。やがては宇宙へと向けられるんじゃないかな。即ち、認識範囲の大幅な拡大。あ、これは機動戦士ガンダムにおけるニュータイプの概念と……」
 露崎の講釈は寒空の下、長々と熱々と続くのだが、俺にはちょっとしたエクスキューズになった。バカンス旅行気分の上京と思っていた行為が、何やら文学的価値云々にまで持ち上げられると、どうもくすぐったく深読みにも程があると感じるが、高岡を出た事は間違っていなかったかも知れない、という嬉しい勘違いを一方でもたらす。と同時に今日のバイト先で一緒に働いていた、外国人労働者の顔が頭に浮かんできた。彼らもただ出稼ぎに来たのではなく、自分と社会との関わりを見出すために、はるばる海を越えて極東の島国へ到達したのではないかと。まったくもって拡大解釈ではあるものの。
「そう、自分を知るため、社会との関わり合いを求めるためにも、私はロシアへ旅立とうとしているのかも知れない」
 俺の今の心情と妙にシンクロしたその一言をして、露崎は一連の台詞の掉尾を飾った。
「ふうん、なかなかの大義名分だけど、俺らは近代でなく『現代』に生きているんだからな。そういう文学観、つーか考えは古臭くて時代遅れなんじゃないか」
 自分にとってのエクスキューズと考えてはみたが、それが露崎によって提示されたのが何処か腹立たしく、少々皮肉をもって俺は言ってみた。
「お前が言ったろう。私は理屈っぽいプラス古臭い、と」
 露崎、十八番のしたり顔、いや、どや顔。どうやら座布団は向こうに取られたらしい。
「へいへい」
「まあ、東京が地元である私にとっては、故郷のある森沢の環境は文学的行為に恵まれていて渇仰(かつごう)にすら値する、という事だ」
 故郷、それに郷愁……か。
 特権だし実感だよね。
 先ほど小野寺が言った台詞を不意に思い出す。
「ただ時として成長した自分を再確認するという意味も含めて、帰郷という行動は必要なんだ。それは狭い世界に再び回帰する事ではない。一度広い世界を見た自己がかつての生活圏内を再訪する、それはつまり、小さかったと思っていた我が街を違う角度で見る経験につながるのではないか。広い見方というよりは深い見方。抽象的ではあるが、より深度のある姿勢をもって故郷を痛感できる。平たく言ってしまえば、新しい感覚で故郷を味わえるということ」
「…………」
 眼下の上野広小路から幾ばくかのクラクションの音が重なる。だが、それは騒音ではない。静寂の域を出ない。心地よく鼓膜を揺らす奏でられた音響。
「帰れよ、富山」
 ポツリと露崎が言った。
「帰れねえよ」
 俺もポツリと返してやった。するとそれ以上露崎も言及してはこなかった。冗舌だったその口はなりをひそめた。沈黙。だが、それは透過性の高い、清んだ無言空間に俺は思えた。そして、その静かな余地の時間が、俺に何らかの思案を巡らせているのではないかと。仕切り直し。まだ具体的には表れてはこないが。
 俺は煙草を所在無く燻らす。
「じゃあ、そろそろ冷え込んできたし飲み屋に向かうか」
 露崎は背筋を伸ばしながら告げた。
「ああ。あ、でも煙草に火をつけたばっかなんだよ」
「だから?」
「ん? いや、だからもうちょっとここで話さねえかなあ、と。ゆっくり吸いてえ気分なんで」
「…………」
「…………」
「まあ、構わんよ」
 と露崎は答えて煙草を取り出した。刹那、露崎の眼鏡のレンズに街のイルミネーションの光が反射した。それともその光は夜空に高く輝く月からの贈り物だったか。どちらにしても一瞬切り込んだその光は、露崎の目脂の溜まっていそうな瞳を、ひどく閃かせた。後方にそびえる西郷どんも煌めきながら、俺を見下ろしてやがる。イタい気分だ。一方、イタい気分ではあるが、妙に清々しい感もある。特に話す事などないが、何やら喋りたい気分ではある。話すと喋る。どう違うか分からんが、まあ、おかしな感覚だ。だが、たまにはこういう夜があり、こういう時があり、こういう瞬間がある。
 と、俺は纏まり切れない思いを抱きながら、ガールズ・トークよろしく、その場で取り留めのないベシャリを、誇大妄想家・露崎征次郎教授としばらく興じた。

 結局、露崎はおおよそ一年後、日本を飛び立った。
 当初はロシアへ行くとの事だったが、予想よりも貯金額が多かったのか、いつの間にやら話は膨れ、見聞をひろめるために各国を巡ってみる、との大志の下、露崎は更にワーキング・ホリデーを駆使して諸外国を旅する事にしてしまった。もっともロシアはワーキング・ホリデーの対象外の国であるらしいが。それは兎に角、俺と小野寺と伊達の見送りを背にして、露崎征次郎は咸臨丸に乗り込むが如く、ある晴れた日曜日にフライトしていった。
 まあ、奴が帰国する頃には、きっとマイクロソフトにヘッドハンティングされているぜ。
 かたや俺はそんな妄想を内に秘めながら、空港の送迎デッキで立ちつくして。
 
 そして、時は流れて……。

        *       *

 そして、時は流れて、二〇〇二年、現在に至るわけなのだが、残念ながらマイクロソフトからのオファーはなかった。アップル社からも同じく。青田刈りしとけば良かったのに、大企業諸社。知らんぞ、後で泣きついて来ても。
 まあ、とどのつまり、言ってしまえば俺は伊達や小野寺の口車に乗せられ、いや、結局は暇だったから、他にやる事がなかったから、ズルズルと作家の真似事を続けてしまった。しょっぱい才能を何とか磨いて、俺って実は天才だぜ、という自我を肥大化させながら。その結果、よくは分からないが、某かの実績が身に付いていった。さらにそれに気をよくして、雪だるま式に作家になりますよコースのドツボにはまっていったわけだ。
 ただ俺には露崎や小野寺のような素地がない。バック・グラウンドがない。クサく言えば確固たる信念とか、作品に賭けるほとばしる情熱の類いのヤツ。漠然と漫然とぼんやりと俺は筆を進めていただけ。特に志のビジョンも定めず、目的意識も持たず、もっぱらの原動力はとりあえず書いてみよう、という思い。
 結局、冠詞に「とりあえず」が付帯する。
 酔いどれ画家の絵画ではではないが、ゲージツ系の作品の製作過程で、そのアティテュードはあまり関係ないと思われる。酔っぱらって描いた絵でも、評価されたら結果オーライなわけだ。ナンパでハンパな気持ちで書いた小説も然り。もっとも魂を削らなければ大概の作品に「傑作」と呼ばれるものは生まれないはずだが。
 兎に角、そんなナメた姿勢でも俺はある程度の結果を残した。運ありき、才能ありき、で。だが、そう自分を皮肉った所、その実ちゃんと努力をしてきたのではないか? 悶えるような創作の労苦もちょっとは味わったのではないか? という疑念に近い自負があるにはある。高校時代、一時奔(はし)った小説に賭ける思いを担保にしながら。
 ただ、二年。少なくともここ二年の間は集中して一つの事に打ち込んだよーな気が……。
【二年ぐらい経つかな】
 携帯電話越しに昂揚した小野寺の声が響く。
「え?」
【露崎君が日本を飛び出して】
「あ、ああ、そうだな。二年は経つな。でもアイツ、ちゃんとロシアには行ってきたのかな。オーストラリア辺りで観光旅行に精出して、本分を事欠いてたんじゃねえの」
【まさか。天野陽子さんとの対談でも言っていたじゃない。ロシアほど文学と時代が一致した国はない、だからロシアに留学する意義があるって】
 露崎と天野陽子の対談。今となっては昔の話に聞こえる。実は俺は二人の対談が掲載されている雑誌を読む事はなかった。忘れていたわけではないが、露崎の「懐かしかった」の一言が本音を言い表しているように思えたからだ。
 露崎が、ロシアに行く、と上野公園で宣言した時、天野陽子に負けた、女性は凄い、等々殊勝にもフェミニンな事を述べてはいたが、恐らく天野陽子との対談の際では、それらの発言はおくびにも出していない事は、想像に難くない。あいつのプライド上それは許さない。だから天野陽子との確執云々以上に、懐かしかった、の一言で俺は奴を見透かした気分になって、満足してしまったのであろう、当時恐らく。
【変わったかなあ、露崎君】
 変わった、か。変わったと言えば俺と小野寺の間柄に関しては、せいぜい小野寺が俺の名字を呼び捨てで言うようになった事ぐらいか。小野寺の訛り具合は相変わらず変わらないものの。
 だが、四年である。小野寺真琴と出会い、思えば四年近く経っている。その四年の間に移り変わった事は、何もキムチがコンビニを席巻しただけではない。小野寺にも色々とあった。最初のマンガの連載は思うように人気がのびず、僅か三ヶ月で打ち切り。挙句、伊達の出版社で出したマンガ雑誌が、出版不況の折、呆気なく廃刊。そもそも伊達の出版社の新雑誌をアテに上京してきた小野寺は、しばらく雌伏の時を過ごす羽目になった。その後、何とか師匠の上原美佐のツテをたどり、単発ながら作品を断続的に発表し、それが評価され近頃連載の内定をもらったとか。本人曰く、上原センセのお陰だし、まだ口約束レベルの話だから……との事で詳細は不明。とは言え、彼女の語るその言葉一つ一つは嬉嬉としていた。
 一方、露崎の好敵手、天野陽子は着実にその実力を伸ばしていき、F1層を主軸にした同世代からより堅固な支持を得て、その人気はなおも増していった。最早、露崎との認知度、商業面での差は歴然だろう。そう、露崎も帰ってきたこれからがしんどくなるはず。果たして奴に作家の末席を濁す事が可能な、表現の場所があるのか? それ以前に奴が体得したであろう、ロシア文学のエキスをこのご時世に発揮できるのか? 恐らく露崎もその辺りの不確定要素は覚悟しているはずだが。
 煎じ詰めると、それぞれが勝負の時、みたいな感じがする。
【きっと変わっているよね、良い意味で。森沢だって変わったんだし】
「俺が? 何処が」
【だって現に中島賞にノミネートされたじゃない。作家としてセイヂョウ、成長したってこと】
「あ、そういう意味ね。状況の変化ってヤツか」
【状況の変化、だけじゃないよ。それだけじゃない】
「それだけじゃない? 例えば」
【ん? それは、どーでしょうねえ】
 小野寺はおすまし声ではぐらかす。
「何だよ、それ。答えになってないだろ」
【へへ】
 それだけじゃない、か。
【どちらにしても、お祝い事が重なったね。露崎君の帰国祝いと森沢のノミネート祝い。露崎君が帰ってくる日のこと詳しく聞いたら、それはそれは盛大なパーティをしようね】
「そうだな」
【でも、ホント、おめでとう、森沢。中島賞のノミネート】
「ん? ああ、サンキュー」
 そう、それにしても中島賞である。これまた何の因果か、露崎と天野陽子との接点。若い作家を対象としている賞ではあるが、俺の小説が候補に挙がるとは、あまりにも雑食性が強いのではないか。そもそもは中島敦の名を冠した賞。中島敦の作品は山月記を高校の教科書で一読した記憶があるが、硬質な文学然たる小説だった気がする。主人公がカフカの変身よろしく虎になっちゃうアヴァンギャルドな内容だったが、全体的に純文学的なハイソなオーラが漂っていた。畢竟するに対象作品は文学性の強いモノに限られるべきではないかい? 俺の作品って文学性があるものなのか。だって俺の書くヤツって……まあ、イイか。中島敦、あたら早世してしまった希代の作家。詳しくは中島敦の事は知らんが、その中島敦本人が文学に賭した「情熱」こそが、文学性云々以上に中島賞では判断基準となり、その熱さをもってしてノミネートの対象になったのではないか。それじゃあ、俺って情熱系だったわけだ。やはり結果が出たって事はそれなりに頑張ったっていう証左だよな。
 そうだ。いいよな、それで。
「マコっちゃんさ、中島賞のノミネートって実績になるかな」
【当たり前じゃない。スゴい実績だよ】
「錦になるかな」
【錦? そうねえ、錦、錦。はは、変な言い方】
 アホっぽいような、イタズラっぽいような小野寺の笑い声。俺はアイス・ミルクを一口。若干の決意をもってグビリ。
「……いつだったか富山、藤子不二雄がいた高岡に行きたいって言っていたよね、マコっちゃん」
【うん? あ、まあ、言ったけど……】
「今度一緒に行かないか、真琴。俺の故郷(まち)に」
【え?】
 けだし戸惑っているだろう小野寺真琴の返事を俺は待った。そして、今一度アイス・ミルクをすする。味が妙に薄くなっていると思ったら、グラスに入った氷は既に溶け始めていた。俺のほとばしる情熱が溶かしちまった、ってね。座布団二枚なオチではないが、まあ、これはこれでアリとしよう。
 そ、とりあえず。

 

                              了