最優秀賞『真っ白い殺人鬼』(著者/三輪・キャナウェイ) 真っ白い殺人鬼

プロローグ

 夢や希望なんて、風船みたいなものだ。
 だから内に空想を詰めれば詰める程、風船はとても大きく[膨{ふく}]]らんで、高いところまで飛んでいき、割れた時に、より強烈な音が鳴るのである。
 こうして風船を割るのは、いつだって[大{たい}][抵{てい}]時計の針だ。この世で最も恐ろしく、風化や老いといった毒を持つこの針は、人の夢が詰まった風船を[容{た}][易{やす}]く割ってしまうのだ。夢や希望とは、こんな風に、そのほとんどが時間によって殺されるのである。
 もちろん、中にはこの毒針をとても[上{じょう}][手{ず}]に使う人もいるだろう。そんな人だけが、夢の風船が宇宙まで飛ぶのを守ることができ、[誰{だれ}]からも見上げられるような理想になるのだから。
 つまり、何が大事かといえば、生きる上で時間というものは、使い方によって自分を殺す毒にもなれば、自分を強くする武器にもなるということだ。
 ただここで一つ気を付けなければならないのが、あくまでも時間が凶器であることに変わりはないということである。
 そして、それを上手に使うというのが、どういうことかというと、単純な話だ。
 星が輝く宇宙というのは、多くの人が見上げられるほど高く広いものであるが、それに比べて、そこに[辿{たど}]り着くまでの空という道は、ものすごく狭いのである。だから高みを目指すために、自分の夢や希望を風船に詰めようとすれば、他の人間が膨らませようとしている風船と[競{せ}]り合うことになってしまい、とても[窮{きゅう}][屈{くつ}]な思いをしなければいけなくなる。いついかなる時も、上を見れば星の数ほど理想があり、下を見れば砂の数ほど欲望があるこの世界では、自分の夢や希望を十二分に押し通すことなど、とにかく難しいのだ。
 そういう時にこそ、毒針を使う。

 相手の風船を、割ってしまうのである。

一章 一条仁

「ねえ、秘密のアプリって知ってる?」
 それは昼休みのことだった。小うるさい[蟬{せみ}][声{ごえ}]が、閉め切られた窓を外から[叩{たた}]いて、空調の音がごうごうと頭上で[唸{うな}]る。しかし、そのどちらも気にならないくらい甲高くて、底意地の悪そうな声が聞こえ、教室の中が少しだけ静かになったように感じられた。
 僕は思わず弁当をつつく[箸{はし}]を止め、声がした黒板前の方に聞き耳を立てた。顔を上げてしまうと、「何見てんの」と、ガラの悪い彼女たちに気付かれてしまうためだ。だから普段は、僕を含めてたくさんの生徒が、彼女たち三人と関わらないようにしている。
 けれども今回ばかりは、僕以外にも何人か、彼女たちの話し声に耳をかたむけているようだ。教室の中が少しだけ静かになったのは、そういうことだろう。
 秘密のアプリの[噂{うわさ}]というのは、それくらい、学校の中で[流{は}][行{や}]っていた。
「最近有名なやつだよね。過去を変えられるとかなんとか」
「そうそう、[可{か}][愛{わい}]くなったり、お金持ちの家に生まれなおしたり……なんなら、人の死をなかったことにしたりとか、本当になんでもできるんだって」
「でも、どうせ噂でしょ? 私そういうオカルト興味ないんだけど」
「まあ確かにそうだけどさ。もし本当にあったらどうするって話。なんでもできるんだよ?」
 彼女たちの話題に上がっているように、秘密のアプリの噂とは、好きなように過去を変えられるという単純なものだった。
 しかし、だからこそわかりやすくて、たくさんの生徒に受け入れられた。過去を変えられるという所が重要なのだ。もしこれが未来についての話で、夢や望みを[叶{かな}]えられるというものならば、変な噂話に頼らずとも努力でなんとかできるかもしれない。
 でも過去は絶対に変えられず、犯した罪や、刻み込まれた傷痕というのは、永遠に消えないのである。
 だからやはり、僕は秘密のアプリというものに対して魅力を感じていた。
 そうやって考えている間にも、彼女たちは話を続けた。
「それなら私、隣のクラスの[双{ふた}][葉{ば}]君の彼女になりたーい。野球[上{う}][手{ま}]くて頭も性格も顔も[良{い}]いとか最高じゃん?」
「確かに。なんであんなタバコ女なんかと付き合ってんだろ?」
「顔でしょ顔。あのタバコ女、服着てれば見てくれだけは良いから」
「ねー。つうか、よくあんな気持ち悪いの人前に[晒{さら}]せるよね。ホント[勘{かん}][弁{べん}]してほしいんだけど」
 教室の前で固まる三人の白い夏服が、まるで入道雲みたいに見える。巨大な悪意の[塊{かたまり}]で、腹の内に雨や雷みたいなじくじくとしたものを抱えており、結託しているぶん余計にたちが悪い。
 しかし僕は、そんな彼女たちの言葉に、不快感よりも心配を覚えた。
 なぜなら[タバコ女{・・・・}]という言葉は、とある人物にとって禁句であったからだ。
「あなたたち、今[春{はる}][乃{の}]の話をしてたでしょ?」
 その一言は恐ろしく、ドスが[利{き}]いていた。事実、冷たく鋭利な彼女の言葉の[刃{やいば}]は、教室に[僅{わず}]かに残っていた談笑の気配すらも一刀の下に伏し、誰も気軽に口を開けないような緊張感を周りに[強{し}]いた。
 僕は口をつぐんだまま、思わず、他のみんながしているみたいに教室の前の方へ目を向けた。すると噂話をしていた三人の女生徒の前に、ひたいに青筋を立てた学級委員長、[吾{あ}][妻{ずま}][結{ゆ}][衣{い}]が立っていた。
 彼女は[悍{おぞ}]ましいほどの美人である。高い鼻筋や細い[顎{あご}]。はっきりとした[二{ふた}][重{え}]や顔の細部がぱきりと鋭利であり、日本刀じみた意思迫力の[猛{たけ}][々{だけ}]しい[美{び}][貌{ぼう}]を持っているのだ。それにただ顔が良いというだけではなく、手足が長く、学年で一番頭が良く、規律正しい、[潔{けっ}][癖{ぺき}][的{てき}]な精神を持つ人である。
 そんな吾妻は、普段は冷静であるのに、とある話題になると人が変わったように狂暴になってしまうのだ。
 それは彼女が唯一の親友としている、[三{さんの}][宮{みや}]春乃、つまりタバコ女と呼ばれていた生徒に関する、悪意ある話題である。
「そういうのやめてくれない? 気分が悪いのよ。大体あの子は、あんたらみたいなブスより、身も心もよっぽど[綺{き}][麗{れい}]よ」
 高校二年生にしてはあまりにも強すぎる[威{い}][圧{あつ}]に、女生徒たちは言い返す気力も湧かないようだった。特に吾妻自身が非の打ちどころもない美貌を持っているために、なおさらだ。
 だから、彼女たちは逃げようとしたのだろう。女生徒の内、一人が口を開いた。
「……ふうん。吾妻さん三宮さんと仲良かったんだー。ごめんね、次から気をつけるよ」
 軽口風に言って、そそくさと弁当を片付け、女生徒たちは席を立とうとした。
 しかし、吾妻はそれを許さなかった。長い右足を持ち上げると、何の[遠{えん}][慮{りょ}]もなしに、彼女たちが寄せていた机を[纏{まと}]めて[蹴{け}]り飛ばした。もつれあいながら倒れた机は盛大な音を立てて、中に詰められていた教科書やらノートやらの臓物たちがぶちまけられる。暴力的な光景だ。静まり返っていたクラスの中に、[更{さら}]に身動きさえできないような、重圧じみたものがのしかかってきた。
「誰も、私がいないところで春乃の悪口を言えなんて言ってないわ。私は、もう二度と春乃の悪口を言うなって言ったの。だから、次なんか無いはずでしょ?」
 [啞{あ}][然{ぜん}]として動けなくなった女生徒たちに吐き捨てるように言い、更にもう一歩、吾妻は彼女たちに詰め寄ろうとした。それを見ていよいよまずいと思い、彼女を止めるため、僕は箸を置いて、立ち上がろうとした。確かに吾妻が怒った時は恐ろしいが、僕は彼女が普段どれだけ[聡{さと}]く、友達思いで、誠実であるかを知っていたため、他の生徒程、吾妻を恐ろしいと思わなかったのだ。
 だがその時、教室の前の方のドアが開いた。
 そこには、ひとりの男子生徒が立っていた。
 丸めた頭の[天{てっ}][辺{ぺん}]からこんがりと日に焼けた肌。厚い胸板は[逞{たくま}]しく、夏服の[袖{そで}]から突き出た両腕は筋肉質である。見た目通りに頼もしい男で、屈強な体つきは部活生らしい。先ほど話題に上がっていた、野球部のエース、双葉[草{そう}][太{た}]だ。
 彼は扉を開けた格好のまま、あまりの空気の重苦しさと、教科書やノートをぶちまけて倒れる死体のような机を見て、少しだけ驚いたようになる。
 だが、あくまでも少しだけだ。彼は逞しい容姿の通り、[怯{ひる}]むことなく、恐ろしい怒気を放つ吾妻へと視線を[据{す}]えた。
「吾妻、どうしたんだ? これお前がやったのか?」
 倒れた机を目端に[捉{とら}]えた草太は、尋ねながらも、あらかたの事情を察しているようだった。彼もまた、僕と同じく吾妻と交流があるため、彼女がどんなことで怒るかを理解しているのだ。
「こいつらが春乃の悪口を言ってたのよ。陰湿にね」
「だからって、ほら、教室なんだ。周りに人もいるだろ?」
「あのね、[貴方{あなた}]は何も思わないの? 春乃の彼氏なんでしょ?」
 草太が[宥{なだ}]めにかかるが、吾妻は[未{いま}]だ[苛{いら}][立{だ}]っている。それに草太も言い返されて、言葉を詰まらせていた。彼も、もちろん春乃の悪口を言われて良い気はしないだろうが、だからといって吾妻みたいに攻撃的になることはないのである。
 それでも草太が現れたことによって、少しだけ教室内の緊張が[和{やわ}]らいだ気がした。
 だから、僕も再び動きだした。草太が止めてくれたのならと携帯を取り出し、メッセージアプリを開いて、とある人物に文章を送った。
 すると言い[淀{よど}]んでいる草太の後ろに、すぐに別の人影が現れた。
 彼女こそが、タバコ女と陰口を叩かれていた女生徒、三宮春乃である。
「どうしたの、結衣? 何かあった?」
 なんとも気さくで、明るい声音。清涼感があって、本当に底から[潑{はつ}][溂{らつ}]としており、何よりも吾妻に一番効く声である。
「春乃。貴方、どうして……」
 現れた春乃を見て、一気に吾妻の怒気が抜けた。
「いやぁ、ほら、[愛{いと}]しい愛しい草太を追いかけてきちゃったみたいな? あはは! ねーえ草太、私たちラブラブだもんねー!」
 [天{てん}][真{しん}][爛{らん}][漫{まん}]に笑う春乃は、大胆にも草太の腕に抱きついた。いかにも[奔{ほん}][放{ぽう}]という感じの彼女は、こういったところが非常にオープンであり、草太も戸惑いを隠せない様子だ。
「おい春乃、こんなところで引っ付くなって」
「えー、じゃあここ以外なら良いの?」
「そういう意味じゃないが……」
 二人の[惚{のろ}][気{け}]のおかげか、教室の中の重々しい空気が一変した。あまりにも明け透けな春乃の振る舞いに、ぽつりぽつりと笑いまで出てきたのだ。その隙[{すき}]をついて三人の女生徒たちは、足早に教室を抜け出してしまう。吾妻もこれ以上その三人にとやかく言うつもりもないようで、腕組みをしてため息を[吐{つ}]いた。
 そこで僕も立ち上がり、教室の前の方に行くと、吾妻が蹴り倒した机を起き上がらせ、ぶちまけられた教科書やノートを拾い上げる。
 すると、吾妻が隣に来て、一緒にものを拾い始めた。
「ごめんなさい一[{いち}][条{じょう}]君。私がやったんだから、自分で拾うわよ」
 すでに吾妻は、いつもの冷静で聡[{そう}][明{めい}]な人物に戻っていた。声音は硬くはあるが、それは騎士が身に着ける[鎧{よろい}]や[盾{たて}]のように高潔そうであり、向かい合うと恐ろしいものの、並ぶとやはり心強いものだ。
「別にいいよ。あれはやっぱり、向こうが悪いから。もちろん吾妻もやり過ぎだと思うけどね」
 詳しく経緯は知らないが、春乃と吾妻は中学時代からの親友らしく、特に吾妻から春乃への感情は、単なる友情を越えた忠誠心じみていた。それだけ吾妻は、春乃のことを大切に思っているのだ。
 そんな親友という関係は、ずっとおかしなやつ、であったり、変人と呼ばれてきた僕にはないものだった。
 だから、やはり吾妻の怒りはやり過ぎているとは思うものの、一概に悪いものとも思えないのである。
 それだけ純粋に人のことを[想{おも}]えて、大切な人がいるということは、[凄{すご}]く幸福なことに思えるから。
 考えていると、入り口の方から草太がずしん、ずしんと歩み寄ってきた。彼は本当に体が大きく、目を合わせようとすると、平均的な身長の僕では首が痛くなってしまう。
「全くだ。いきなりあんなに[睨{にら}]まれたんじゃ、たまったもんじゃない」
「……悪気はなかったわよ。つい、かっとなっちゃって。ごめんなさい」
 [潔{いさぎよ}]く頭を下げる吾妻に対して、草太も僕と同じように、理解のようなものを示していた。そうしながら、ふと僕は、草太の腕にカブトムシのようにしがみついていた春乃が、もうどこにもいないことに気が付いた。
「あれ、草太。春乃は?」
「ああ、次の時間プールだろ? あいつ、その……あれがあるから、早めに着替えに行くんだよ、いつも」
 草太が言った春乃の[あれ{・・}]とは、彼女がタバコ女と陰口を叩かれる原因になっているものだ。不良じみて[煙草{たばこ}]を吸っているからタバコ女と言われているわけではないのである。
 むしろ彼女は誰よりも差別をせず、誰とも気さくに交流をして、誰にでも気遣いができる人間だ。今回も、僕が「吾妻が怒ってる」とメッセージを送っただけで全てを察し、すぐに駆け付けてきてくれた。
 ただ、すでにいなくなったところを見れば、草太が言うとおり、春乃はこれから着替えに行こうとしていたところだったのだろう。彼女の[あれ{・・}]を知っていれば、仕方がないとも思える。そうなると、僕は意図せず、彼女を引き留めてしまっていたらしい。
「悪いことしちゃったかな」
 [呟{つぶや}]くと、草太が[眉{まゆ}]を[顰{ひそ}]めた。
「どうした、[仁{じん}]?」
「いいや、なんでもないよ」
 結局三人で倒れた机を元通りにすれば、吾妻がすっかりいつもの委員長気質を取り戻し、てきぱきとした口調で切り出した。
「二人ともありがとう。じゃあ、次の体育はプールだし、遅れないようにね。あのセクハラハゲ怒らせると面倒だし。あんなのが担任だなんて、春乃と双葉君には同情するわ」
 先ほどまでの三人組の女生徒に対してではなく、吾妻は、今度は彼女がセクハラハゲと[蔑{さげす}]む体育教師に対しての苛立ちを[垣{かい}][間{ま}][見{み}]せる。無論、それこそ仕方のないことではあるのだが、舌打ちをした彼女はやはり恐ろしい。
 そんな時、こっそりとした陰口が、また聞こえる。
「さっきの吾妻、マジで怖かったよな」
 どうやら二人には聞こえていないようで、だからこそ僕も、聞こえていないふりをした。
 すると次に陰口は、また、噂話をした。
「やっぱり、人殺したことあるって噂も、本当なんじゃないのか?」
 冗談交じりに、笑いながらに[紡{つむ}]がれたその声は、いつも通り、普通に戻った教室の[賑{にぎ}]わいの底へと、沈んでいった。

 

「じゃあ今日はタイム取るぞー」
 昼休み明け、複数クラス合同での体育の授業。青いタイルが敷かれたプールサイドに制服のまま座り込み、吾妻がセクハラハゲと[揶{や}][揄{ゆ}]していた体育教師、[睦{む}][月{つき}][忠{ただ}][一{かず}]の言葉に耳を傾けていた。
「女子はクロール、男子は平泳ぎだ。既定のタイムに届かなかった者は来週補講を行う」
 中年らしくでっぷりと太った腹を揺すりながら睦月先生は告げた。生徒たちからため息が[溢{こぼ}]れる中、睦月先生は[脂{あぶら}]ぎっててかてかと光る顔面をこちらに向けた。
「それから今日見学の一条、[雪{ゆき}][月{づき}]の二名も、通常の補講とは別に来週の補講にも出てもらうからな。では、各自一度通しで泳いで、二周目からタイム測定だ」
 睦月先生が言い終えると、集合していた生徒たちはぶつくさと文句を垂れながら各コースへと歩き始めた。僕はその流れとは反対方向へと進み、プールサイドの一角に設けられてある見学者用の[日{ひ}][除{よ}]けを目指す。
「い、一条君も見学なの?」
 日除けの下へと辿り着くと、そこには同じクラスで中学からの付き合いである、雪月すみれが立っていた。小柄な体を包んでいるのは水着ではなく、僕と同じ夏服で、伸ばした黒髪が起伏の乏しい胸元まで届いている。
「うん、水着忘れたんだ。すみれも?」
 僕が返すと、すみれはあははと花も恥じらうように口元を隠して笑った。いかにも平凡な、彼女らしい仕草である。
「[今{け}][朝{さ}]ちょっと寝坊しちゃって、急いで家を出たら忘れちゃったみたい」
「そう、お互いツイてないね。タイム測定の日に水着を忘れるなんて」
「だね。まあ、私は泳ぐの遅いから、結局補講には出なきゃいけなかっただろうけど」
 二人して日除けの下に座り込み、つんとした塩素の[匂{にお}]いの中で言葉を交わす。夏らしい快晴の下できらきらと輝くプールの水面にはたびたび白い[飛沫{しぶき}]が舞い、その都度風が冷たくなるのを感じた。
「あ、春乃ちゃんだ」
 プールを[眺{なが}]めていたすみれが、周りより[一{ひと}][際{きわ}]高い水飛沫を上げて水面を[搔{か}]く女生徒を指差した。そのか細い指の先で泳いでいる春乃は、同じグループの女生徒たちよりも体一つ分先を泳いでおり、いち早く二十五メートル先の壁へと手を付いた。
「春乃ちゃんすごい!」
 プールサイドに上がり、白い水泳帽の下の茶髪から水を[滴{したた}]らせる春乃に向けてすみれが手を叩く。
 すると、こちらに気付いた彼女は、威勢のいい目つきで笑いながら近付いて来た。
「でっしょー? 私ってば運動神経超良いから。そういうお二人さんは授業サボってなにいちゃいちゃしてんのー?」
「べ、別にいちゃいちゃなんかしてないよ! ただ偶然、お互い水着を忘れただけで」
 赤くなって否定するすみれに「本当?」と意地悪く笑いながら近付き、春乃はすみれの耳元で何事か[囁{ささや}]いた。その途端にすみれは赤くなっていた[頰{ほお}]に更に朱を加え、目をぐるぐると回し出す。
「何言ったの?」
「さあ? 女の子同士のヒ・ミ・ツ。いやーやっぱ青春っていいわ。せっかくの二人きりを[邪{じゃ}][魔{ま}]しちゃ悪いし、私も草太のとこ行こーっと」
 ばいばいと僕たちに手を振りながら春乃は振り返った。その時、彼女の[濡{ぬ}]れたスクール水着の背中に幾つもの煙草を押し付けられた[痕{あと}]が見えた。
 それこそが彼女がタバコ女と呼ばれる理由だ。春乃は幼いころに父親から[虐{ぎゃく}][待{たい}]を受け、その傷痕が、彼女の身と心に深く刻まれているのである。
 実際、彼女が歩くたびに数人の生徒が、その傷痕へと視線を送ってしまっていた。見ないようにしようとしても、目に入ってしまうものなのだろう。中には[露{ろ}][骨{こつ}]に顔をしかめてしまう者までいた。
 だが春乃は、そんな視線など気にしていないように、「そういえば」と振り返った。
「さっきはありがとね、仁。教えてくれて」
 [微笑{ほほえ}]んだ彼女の顔は、あまりにも柔らかく、[慈{じ}][悲{ひ}]に富んでいるように見えた。春乃はただ明るいだけではなく、[辛{つら}]い過去と戦う強さも、痛みを知っているからこその優しさも持っている、思慮深い人なのだ。
「こっちも、ありがとう。急いでたのにすぐ来てくれて」
 春乃はへらりと明るく笑い、今度こそ草太の所に向かって行った。
 そんな春乃を見送りながら、僕は隣に座るすみれに言った。
「すごいね、春乃は」
 ただ返事が返ってこず、どうしたのかと彼女の顔を見てみると、すみれの顔は真っ赤に[茹{ゆ}]で上がったようになっていて、口の中で[飴{あめ}]でも転がしているかのように何かを呟いていた。
「ふ、二人きり……何か話さないと……」
 先ほど春乃に吹き込まれた何かが、彼女の頭の中を[蹂{じゅう}][躙{りん}]し、何やらすみれを苦しめているようである。
「……大丈夫? すごく顔赤いけど、体調悪い?」
 見かねて顔を[覗{のぞ}]き込むと、彼女は「ひゃあ!」と悲鳴を上げて飛び[退{の}]いた。
「だ、大丈夫、大丈夫だけど、ちょっと考えさせて!」
「……何を?」
 胸元まである長い髪を両手でいじりながら顔を隠すすみれに、僕は眉を顰めた。彼女は中学時代から、こんな風に突拍子もなく会話が困難になる時がある。普段はいかにも平凡という感じで、話しやすく、良い友人であるために、余計に心配になるのだ。
 そうして、未だ何事か呟いているすみれの顔にようやくあっとひらめきのようなものが[掠{かす}]め、身振りも交えながら話し始めた。
「い、一条君って、最近噂の秘密のアプリってどう思う? あの過去を変えられるってやつ。もし本当にあったら、どんな過去を変えたい?」
 [若{じゃっ}][干{かん}]食い気味になってすみれは[捲{まく}]し立てる。その問いに対して、一呼吸考え、答える。
「どうだろうね。過去を変えるって言っても、何をどう変えればいいのかわからないよ。僕にとっては、全部当たり前のことだったから」
 するとすみれは、少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「……そうだったよね、ごめん」
 すみれは、僕がこれまでおかしなやつ、だったり、変人と呼ばれてきたことを知っていたのだ。
「そう言うすみれは、どんな過去を変えたいの?」
 尋ねてみると、彼女は顔をしかめて唸った。
「うーん、私は普通だから……」
 彼女は、少しだけ、自虐的に笑った。それはすみれがたまに見せる表情である。
「でも本当に過去を変えられるなら、もっと優しくて……強い人に、なりたいな」
「そっか、すみれらしいね」
 [相{あい}][槌{づち}]を打つと、僕は再びプールへと目を向けた。
 [沢{たく}][山{さん}]の生徒たちが泳ぎ、水の中を巡っていく。いくつかのレーンで、順繰りに人が泳いでいくのは、工場の流れ作業を見ているみたいだった。
 そして自分自身が、その輪の中から[摘{つま}]みだされた不良品のように思える。それは水着を忘れたからというよりも、これまでの人生でずっと感じてきたものであり、他者からの[疎{そ}][外{がい}][感{かん}]じみたものだ。きっとあの中で泳いでいても、僕は僕自身をそう思うだろう。
 僕も、どうやってなればいいかはわからないけれど、なりたいものを、口にする。
「本当に過去が変えられるなら……[普通な人に{・・・・・}]、[なりたいよ{・・・・・}]」

 

 夕方になり、学校が終わる。普段ならキンコンカンと深く響くチャイムを背にまっすぐ家路に就くところだが、今日ばかりはその機械的な鐘の音の中に[留{とど}]まっていた。
 理由は単純に、進路選択に関する調べものである。もう二年生の夏となり、本格的に自分の道というものを考えなければならないタイミングだ。
 ならばと僕が足を運んだのは、グラウンド近くの特別棟三階にある、人気の無い図書室であった。
 がらがらと重い立て付けの引き戸を開き、入り口からすぐのところにある受付に向けて声をかける。
「失礼します」
「あら、一条君じゃない。いらっしゃい。放課後に来るなんて珍しいわね」
 僕の声に応え、カウンターの奥から若い学校司書、[谷{たに}][津{つ}][峯{みね}][子{こ}]先生が出てきた。しっかりと整えられた身だしなみと不健康そうな目元のクマが不一致な彼女は、いつも通りの[酷{ひど}]い猫背でふらふらと歩き、膨よかな胸元には幾冊かの分厚い本を抱えていた。
「なにか調べ物?」
「はい、進路関係で少し」
「そう、それなら時計の前の本棚に纏めてあるわ」
 いつも生徒に見せる親切そうな微笑みで図書室中央付近の壁時計を指差し、谷津先生はそう言った。
 その直後、図書室の重い引き戸を[不{ぶ}][躾{しつけ}]な言葉が飛び越えた。
「峯子ちゃんいるー?」
 潑溂とした、明るい声音だ。その言葉の主である女生徒に対して谷津先生は抱えるようなため息を吐き、猫背の背中を更に丸めた。
「三宮さん? 峯子ちゃんではなく谷津先生と呼びなさいと、何度言ったらわかるの?」
「あはは、ごめーん次から気ぃつけるわ。てあり? 仁がいるじゃんめずらしー」
 相変わらずの威勢のいい態度でその女生徒、春乃は言った。
「なに、仁も勉強教えてもらいに来たん? 峯子ちゃんは渡さないよー?」
 [悪{いた}][戯{ ずら}]好きな子供のように白い歯を覗かせて笑い、手に持った[学{がく}][生{せい}][鞄{かばん}]を振り回して春乃は僕と谷津先生に近付いて来た。若干日焼けした肌と茶色い短髪がいかにも運動神経抜群な印象を与える彼女は、緩く着流した制服も相まって制汗剤か何かのコマーシャルに出てきそうだ。
「僕は別の用事だよ。ていうか、春乃こそ勉強目的なら吾妻でも呼んだ方が良かったんじゃないの? 学年一位なんだし」
「んー、だめだめ。結衣ってば、テスト一週間前になるまで『まずは自分を[完{かん}][璧{ぺき}]に』って勉強教えてくんないんだよ。草太だって部活があるし、仁は男子だから、草太のいないところで二人きりってのは、ちょっと草太に悪いじゃん? 頼みの綱のすみれも用事があるって言ってて」
 頭の後ろで手を組み、春乃は言った。直後隣に立つ谷津先生に抱きつき、その豊かな胸に顔を[埋{うず}]めて[猫{ねこ}][撫{な}]で声を出す。
「だからー頼むよ峯子ちゃーん。今回はホントやばいんだよ! 今度ジュース[奢{おご}]るからお願い!」
「ちょっと、離れなさい三宮さん。そんなことしないでも教えてあげるから」
「やったー! 峯子ちゃんってば超優しい。おっぱいもおっきいし、私が男だったら絶対アタックしてるよ」
 調子よく口を動かし、春乃はようやく谷津先生から離れてにっと笑った。片や谷津先生は疲れた様子で乱れた花柄のシャツを正し、抱えた本を重そうに持ち直した。
「もう、三宮さんといると普段の三倍疲れるわ。まだ返却本の整理が終わってないのに」
「峯子ちゃんが体力ないだけだよ。もっと体動かさなきゃ!」
 春乃は受付横にある返却用の本棚に歩いて行き、その中から数冊取り出して、本の背表紙の棚番号を確認した。
「まあ、勉強教えてもらうだけってのは悪いから、本の整理ぐらいは手伝うよ」
「……本の整理が終わらないと谷津先生は春乃に勉強教えらんないし」
 僕が呟くと、春乃はふっと含みのある表情で笑い、持っていた本の山を僕に手渡した。その重さに危うく何冊か取り落としそうになるものの、春乃がばしんと僕の肩を叩いて[喝{かつ}]を入れる。
「ほら、頑張れもやしっ子! [折{せっ}][角{かく}]だし、私が仁のもやし体力を[鍛{きた}]えてあげよう」
「それって、僕も利用されてるだけなんじゃない?」
「まだ元気あるね。なら、倍くらいいっとく?」
 春乃が新しく返却本を手に取ろうとしながら、僕を見つめる。その言葉と表情に負け、僕は結局本を棚に戻す作業を始めた。
 強引な彼女のことだ。なんだかんだとこのまま、谷津先生との勉強会に僕も引っ張り込んでしまうのだろう。ただ、それもしょうがないと思えるほどの[愛{あい}][嬌{きょう}]というものを春乃は持っていた。
 彼女は本当に人が[善{よ}]い。
 ふと目を向けた窓の外のグラウンドで、野球部が練習しているのが見える。
 そこには草太の姿を見つけることができた。遠目でもわかるくらい大きい体で、誰よりも熱心に練習に[励{はげ}]んでいる。春乃の方を確認してみると、彼女も草太のことを見つめていた。今日も、いつも通り草太の練習が終わるまで待ってあげるのかもしれない。
 本当に、仲が良い二人である。

二章 三宮春乃

 眠い。
 自分から峯子ちゃんに頼んだにも[拘{かかわ}]らず、なんたら方程式がどうのと教えられても、ほとんど理解ができなかった。そのせいで数学の問題集は少ししか進まない。もちろん峯子ちゃんの教え方が悪いというわけではなくて、単純に私の集中力の問題だ。
 そもそも、私は勉強というものにうまく専念できないのである。もっといえば、同じ場所でじっとしていられないというか、ただ座って何かをしていると、まるで見えない鎖か何かで[縛{しば}]り付けられているような、窮屈な感じがして、苦しくなるのだ。だから小学生の頃なんかは、授業中によく立ち歩いて先生に怒られたし、もっと小さい頃は色んな事が気になってしまって、コンセントに指を突っ込んで感電したり、道に落ちている石を口に入れてお[腹{なか}]を壊したりしていた。
 自分でも変な子供だったと思う。そのせいで、私がそんなおかしなこと、言い換えれば悪いことをするたび、パパの煙草が背に押し付けられたのだ。
 痛くて、熱くて、どれだけ泣いても、お前が悪いんだと言われた。
 ママがどれだけもうやめてと言っても、やっぱりパパはやめなかった。
 そして、うるさいって、パパはママもぶつようにもなった。
 だから、ママの[為{ため}]にも、やっぱり私がお利口さんにしなくちゃいけなかった。
 ああ、ちゃんとしなきゃ。
「春乃?」
「ひゃい!」
 [微睡{まどろ}]んでいたところに声をかけられて、思わず大声を出してしまった。
「大丈夫? うとうとしてたみたいだけど」
 隣の席からの声だった。寝ぼけまなこをこすり、意識を[覚{かく}][醒{せい}]させると、声をかけてくれた仁の輪郭が鮮明に見えてくる。
 特筆するような身体的特徴は何一つとしてない。強いて言うなら、髪の毛が癖っ毛なくらいだろうか。一度顔を見ても、目を[逸{そ}]らせば、すぐにどんな顔だったか思い出せなくなるような、そんな容姿の彼。
 しかし、あくまでもそれは一見しただけの印象だ。彼と言葉を交わしていると、あまりにも淡々としていて、本当にたまに、ちょっとだけ、何を考えているのかわからなくて、怖いと思ってしまう。
 まさに今がそうだった。口では私を心配するように言っていても、起きぬけに目を合わせると、無機質な人形に見つめられているような、寒気じみたものを感じるのだ。
 けれどと、そこで私はかぶりを振った。仁の人となりがどんなものであるかは理解している。一見影が薄く、話せば時々恐ろしくとも、彼の根っこのところは友達思いの素直なものだ。
「あ、あはは……ごめんね、私から教えてって言ったのに、[駄{だ}][目{め}]だよね」
 頰を搔きつつ、そんなちょっと不思議くんな仁に返すと、ちらりと横目でこの場にいるもう一人へと視線を送る。
 するとそのもう一人、私の真向かいに座る峯子ちゃんは、[呆{あき}]れたようにため息を吐いた。
「もう、三宮さんったら、集中しないと駄目じゃない」
「いやー、えへへ、ごめんごめん。やる気はあったはずなんだけどな……それで、どの問題だったっけ」
「ここの問三でしょう。ほら、ここの公式は……」
 峯子ちゃんが言おうとした時、その声に[被{かぶ}]さる様にして、がらがらと図書室の扉が開く音がした。
 音につられてふと目を上げると、入り口の所に見覚えのある白衣の男性が立っているのが見える。真っ黒な縁の[眼鏡{めがね}]をかけていて、いかにも頭が良くて[真{ま}][面{じ}][目{め}]そうであり、けれどもぶつぶつと生えた[無{ぶ}][精{しょう}]ひげが、その堅苦しさを良い具合に粗くさせていた。
 彼は図書室に入ってくるなり、何やら受付の方を[窺{うかが}]っているように見えたので、思わず、声をかけてしまった。
「あ、ゆうくんじゃん。何しに来たのー?」
 するとゆうくんは、びくりと驚いてみせた。[焦{あせ}]ったようにも見える。挙動不審で、どこかおかしい。
 しかし彼がこちらを振り返ると、その顔に焦りというよりも、安心感のようなものが浮かんできて、私はなるほどと納得した。
 それは、とある噂、についてのことである。
「こら三宮。なんべんも言ってるだろ。ちゃんと[七{なな}][浜{はま}]先生と呼べ」
 私の納得に気付いていない様子で、ゆうくんは、努めて呆れたように振る舞いつつ、図書室の奥の机で勉強をする私たちの元へと歩み寄ってきた。
 私はまたまたちらりと真向かいに座る峯子ちゃんの方を盗み見る。すると彼女もゆうくんを見て、どこか安心したような、いや、むしろ[見{み}][惚{と}]れているような顔をしていた。
 そう、とある噂というのは、何かと生徒人気が高いこの二人の教師が、デキているのではないか、というものである。
「あはは! ゆうくんってば峯子ちゃんと同じこと言ってるー!」
 [囃{はや}]し立てるように言ってみれば、ゆうくんと峯子ちゃんは[揃{そろ}]って少しだけ顔を赤くし、しかし[流石{さすが}]大人と言うべきか、すぐに平静を取り戻した。
「三宮さん、勉強中でしょう。ちゃんと集中しなさい」
 いかにも怒り慣れていないという感じの峯子ちゃんだ。先生としての[恰{かっ}][好{こう}]ばかりはしっかりしようとしているものの、地の優しさが隠せておらず、そういうところが親しみやすいのである。
「じゃあキューケイにしよ! ほら、折角ゆうくんも来たし……なんか用があって図書室来たんでしょ? あ、もしかしてサボりだった?」
「んなわけあるか」
 言い返したものの、ゆうくんは切り出しにくそうにしていた。というのもなんだかちらちらと私と仁を見て、「まぁ」とか、「その、なんだ」とか、歯切れ悪くしているのである。
 すると、ゆうくんと目が合った仁が口を開いた。
「谷津先生を探されていたんですよね? これから休憩みたいなので、僕たちのことは気にしないでください」
 その一言はなんとも直球で、私でさえ驚いた。仁は何かと鋭いところはあるものの、基本的に感情の起伏、というより感情自体に[疎{うと}]いところがあり、こういった恋愛事に対しては、むしろ鈍いとまで思っていたのだ。中学の頃から彼に片思いしているすみれの想いに、今なお気付いていないところなんか、まさにそうである。
「な、一条、なんでそれを」
「なんでって……先ほど、七浜先生が来られた時、受付の方を窺っているように見えたので」
 言い当てられたのか、ゆうくんは少しだけ唸り、峯子ちゃんを見下ろした。
「じゃあ、少しだけ……いいですか?」
「あ、は、はい……」
 どこか緊張しながら立ち上がった峯子ちゃんを、ゆうくんはしっかり待って、二人揃って図書室の外まで歩いて行ってしまった。並ぶ背中を後ろから見ていると、やっぱりどこか距離感が近いような、近くないようなもどかしい感じがして、[件{くだん}]の噂話が私の中でアツくなる。
 そうして[昂{たかぶ}]った野次馬根性のまま、隣に座る仁の服の[袖{そで}]を強引に[摑{つか}]み、立ち上がった。
「ナイス、ナイスだよ、仁。ほら行くよ」
「ちょっと、急にどうしたの春乃……行くってどこに?」
「覗きに決まってんじゃん。」
「……覗き?」
「仁もあの噂知ってたんでしょ? ほら急いで!」
 どんな時も慌てないというか、マイペースというか、ぼんやりとしている仁を引っ張り、図書室の廊下側の窓際まで急ぐと、丁度渡り廊下の辺りまで歩いて行った二人が、親密そうに話しているのが見える。
 二人きりになったからか、峯子ちゃんもゆうくんも[随{ずい}][分{ぶん}]と砕けた様子で話しているみたいだ。[浮{うわ}]ついた話が大好物である花の女子高生として、こんなにホットな噂の現場を生で見られるとは思っておらず、なんだかにやにやとしてしまう。
 しかし、隣で眉を顰めている仁はといえば、イマイチ話に付いてこれていないみたいだ。
「噂って何?」
「今一番キてるやつだって。あ、手[繫{つな}]いだよ! 手繫いだ! きゃあ! すごい! ……いや、何か渡しただけっぽい?」
 仁との会話もそっちのけで、鼻息すら荒くして二人を覗き見する。ゆうくんが手を伸ばし、峯子ちゃんの手をとったように見えたが、何かを渡しただけみたいだ。ただ、何を渡したかまでは見えない。
「うーん、なんだろあれ、仁は見える?」
「さあ……よくわからないけど」
 呆れるでもなく、困惑するでもなく、やはり仁は淡々としていた。相変わらず不思議な雰囲気の友人である。
 そう思っていると、ふと、彼の声が低くなった。
「それで、噂っていうのは……秘密のアプリのこと?」
 いつもとは違う雰囲気の仁の声に、途端に興奮が静まって、びくりとしてしまう。振り返ると、彼がたまに見せる、あの何を考えているのかわからない、真っ黒に塗りつぶされたような目がそこにあった。
「え、えっと、ううん? あの二人の噂のことだけど……」
 まさか、自分勝手にし過ぎて怒らせてしまっただろうか。だが、あの穏やかというか、感情に乏しいような仁が怒るところなど見たこともなく、想像もできないため、余計得体のしれない不気味さみたいなものを覚えてしまう。
 私が驚き、内心縮こまっていると、仁はすぐにいつものように言った。
「そっか、じゃあ、いいや。あの二人の噂って?」
 けろりとした仁の様子は、それこそ少し前と一切変わっておらず、戸惑ってしまう。私の勘違いだったのだろうか。戸惑いつつ、頭の中で言葉を探した。
「峯子ちゃんとゆうくんが、付き合ってるんじゃないかって噂だよ。知ってたんじゃなかったの?」
「二人が……うん、僕は聞いたことないよ」
 再び渡り廊下の方を眺める仁は、いつも通りである。だがやはり私は、先ほどの仁から感じた、異様な予感のようなものが忘れられず、考えてしまう。
 ――秘密のアプリって……何?
 仁とは違い、むしろ私はそちらの噂を知らなかった。確かに言われてみれば、どこかでうっすらとこの言葉を聞いたことはある気がするが、それくらいの認識である。
 しかしそれを面と向かって仁に[訊{き}]く勇気はなかった。一つかぶりを振って気を入れ替えると、先ほどまでの野次馬根性を奮い立たせるため腹の底に力を入れる。
「じゃあさ、仁は二人のことどう思う?」
 尋ねてみると、彼はほんの少しだけ眉根を寄せて答えた。
「うん……二人とも良い先生だと思うよ。谷津先生はたくさんの本を読んでるから、知識も豊富で、生徒の相談事とかもよく受けてるって話を聞くし。七浜先生は授業もわかりやすくて、いつも生徒に囲まれてて、親しみやすい感じがするね」
「いや、その、えーっと……そうじゃなくて、もっとこう恋愛的な感じで」
「れんあい……?」
 彼の呟きを聞いて、あまりにも[嚙{か}]み合わない会話に、私は思わずずっこけそうになってしまった。前言[撤{てっ}][回{かい}]だ。仁も少しは恋愛について気が向いたのかと思いきや、全て私の勘違いで、やっぱり彼はそういったことには[無{む}][頓{とん}][着{ちゃく}]であった。
「ああ、うん、仁はやっぱりそうだよね……」
 ぼやくと、その時仁は、何かを[喉{のど}]に詰まらせたような、思い込むような顔をした。
「……僕、どこかおかしかったかな」
 先ほどとは違い、今度は落ち込んだようになってしまった仁を見て、私は再び驚いた。仁が怒ったところも見たことないが、落ち込んだところもあまり見たことがないのである。
 そのため、今度こそ何か言ってしまったと、胸の内を焦りが[衝{つ}]いた。
「いや全っ然! ほら、仁の良いところって、やっぱりどんな時も変わらないとこだと思うんだよね! 今日の昼休みに結衣が怒った時もすぐ呼んでくれたし、去年のプールの時だって、助けてくれたんじゃん! そういう風に、キンキューな時に頼りになるみたいな! だから、ホントに全く、悪い意味とかじゃないから!」
 捲し立てるように言うと、仁はきょとんとして、[頷{うなず}]いた。
「そっか……ありがと」
 どこか安心したような彼の表情に、私もまた、ほっと胸を撫で下ろす。今口にした通り、去年のプールの授業からの、丁度一年程の付き合いになるが、やはり仁のことだけはよくわからない。
 もちろん悪い人ではない、とはわかるが、やっぱりどこか不思議な感じがするのである。
 そんな考え事をしていると、渡り廊下で、二人が別れたのが見えた。
「やば、帰ってくる! 戻るよ仁」
 ぐいぐいと彼を押し、机へと戻ろうと急かすと、彼は素直そうに訊いてきた。
「春乃は、どうしてそんなに恋愛ごとが好きなの?」
 やっぱりどこまでいってもマイペースで、ぼんやりと尋ねてくる彼に、口を[尖{とが}]らせて答える。
「私たちくらいの年頃なら、普通、そういう話は大好きでしょ!」
「普通……」
 上の空みたいになった仁をなんとか机まで押し戻し、息を切らしながら、私も席に座る。同じくらいに図書室の扉が開いて、峯子ちゃんが戻ってきた。
 それから勉強会が再開し、私はやっぱりすぐに集中できなくなりながらも、なんとかペンを握り、頭を働かせようとした。
 しかししばらくして、ぴろりんと通知を告げる電子音が、私の制服のポケットから鳴った。
「三宮さん、携帯の電源はちゃんと切っておかないと駄目でしょう」
「あはは、ごめーん」
 峯子ちゃんにおどけて返すが、張り付けた笑顔の裏で[訝{いぶか}]しんだ。学校内では、いつも携帯の通知は切っているはずだ。そうして、電源を落とそうと机の下で携帯を取り出すと、画面が目に入った。
 そこには、見慣れない無字で血みどろなデザインのバナーが表示されていた。見るだけで心が[竦{すく}]んで、吐き気がするような気持ち悪い色合いだ。だが、なぜだか目が離せない。
 ――何これ?
 疑問に思い、バナーをタップしてみると、ロックが解除されて真っ黒な画面に切り替わる。ただそれは何も映し出されていないのではなく、黒ずんで[罅{ひび}]割れた木の幹みたいな背景であり、その真ん中に空っぽな砂時計が形作られていった。
 そして、画面の下の方に注釈じみた説明が、一文だけ差し込まれる。
 このアプリのことは、絶対に、秘密にしてください

   ◇

 それは一年前、高校に入って初めてのプールの授業でのことだった。

「なにあれ? キモくない?」
「背中にぶつぶつがいっぱいある。根性焼きってやつ?」
「見るだけで気持ち悪くなる。俺ああいうの無理だわ」
 まだ授業が始まる前のちょっとした時間だ。みんなが着替えてきて、プールサイドに集まって来たくらい。でも、ほんのちょっとの時間でも、人というものは[溺{おぼ}]れてしまえるものである。
 実際私は、周囲から背中に注がれる悪意の視線の大波から逃げられず、ただ[俯{うつむ}]くことしかできなくて、まるで息をすることすら責められているような、[窒{ちっ}][息{そく}][死{し}]寸前のような苦しさを感じていた。
「春乃、あんたなんで水着を……!」
 そんな時、隣のクラスで、一番の親友である結衣が、私を遠くから眺める彼らの間から飛び出してきてくれた。
 心配しているみたいな、焦っているような表情だ。私が苦しい時に結衣はいつもそんな顔をする。
「あ、結衣じゃん。なんでって、授業に出るのは当たり前でしょー?」
「だからって、あんたは無理しなくて良いのよ。中学の頃は休んでたじゃない」
「いや、体育の睦月先生が『[怪{け}][我{が}]じゃないなら泳げるだろ』って。まあ私も体動かすの好きだし? 泳ぐのも良いかなーって」
 笑顔は私の特技である。これまでも、沢山苦しいことや、痛いことはあったが、笑っていれば、いつもすぐに明るい気持ちになれた。
 お母さんはごめんねって言うのをやめてくれた。
 近所の人たちだって、出会い頭に「怒鳴り声が聞こえたけど大丈夫?」と聞いてくるのをやめてくれた。
 私が笑えば、みんなが安心したような顔をした。
 だから今回も、笑っていれば、きっと。
「じゃあ、なんであんた震えてんのよ」
 でも、私の親友は、一目で全てを見抜いていた。そしてすかさず、持っていたバスタオルを私の肩に掛けて、その上から強く抱きしめてくれた。
 優しくて、温かくて、思わず抱きしめ返してしまう。彼女の肩に顔を埋めると、ようやく息ができた気がした。
「ごめん、結衣。ちょっと、無理かも」
「あんたはいっつも無理しすぎなのよ。早く更衣室行くわよ」
 結衣は私を抱いたまま、プールに併設されたコンクリート造りの更衣室へと歩いて行く。その間も周囲からの視線は消えなかった。
 そして、そんな視線の向こうから、荒々しくて恐ろしい、とある教師の声が聞こえてきた。
「おうお前らどこ行くんだ。これから授業だぞ?」
 結衣と二人してそちらを振り返ると、そこにはでっぷりとした中年腹が特徴的な体育教師、睦月忠一がいた。
「……先生、どうして春乃に授業を受けさせるんですか?」
 てかてかと脂ぎった[禿{は}]げ頭の下に付いている、黄ばんだ瞳を睨みつけ、結衣が声を低くした。しかし、睦月先生は一切気にしていない様子で言った。
「なんでって、生徒が授業に出るのは当然だろ? どこの教師がサボりを許すんだ?」
「サボりって、春乃には事情があるんです。先生だって相談を受けたはずですよね?」
「ああ、だが、実際に見てみなきゃわからんのに、三宮が服を脱ぐのを嫌がってな。だからしょうがないだろ? 俺は、正当な理由が無い生徒をサボらせるような[怠{たい}][慢{まん}]教師じゃないんだ」
 睦月先生が絵本に出てくる悪者のように[臭{くさ}]い息を吐き出す。そんなあからさまな悪党に対し、結衣は食い殺さんばかりの怒気を目元に据えた。
「このセクハラハゲ」
 辺りがしんと静まり返る。あまりにも直接的で、攻撃的すぎる結衣の言葉は、剣や[槍{やり}]みたいに鋭く、他の生徒たちは皆喉元に凶器を突きつけられたみたいに押し黙った。それだけ恐ろしい声音だったが、今は何よりも、頼もしかった。
「……お前、それ誰に言ってんだ? まさか俺じゃねえよな?」
 言い返す睦月先生もまた、震えてしまうくらい怖くて、暴力的な言葉と睨みを返してくる。何よりも危なそうで、[咄{とっ}][嗟{さ}]に[後{あと}][退{ずさ}]ると、結衣が[護{まも}]る様に私の前に立ってくれた。
「言葉がわからないなんて、まるで野山の[猿{さる}]みたいね。こんなところまで下りてきて何がしたいのかしら……ああ、もしかしてこの言葉もわからない?」
 喉を鳴らして、息を吸いなおせば、結衣は腹の底に秘めていた激情を叩きつけるように怒鳴り散らした。
「どけっつってんのよクソ野郎!」
「てめぇ言わせておけば!」
 まるで大きな爆弾が、立て続けに爆発したみたいだった。怒鳴り返してきた睦月先生は、結衣に摑みかかろうとして、慌てて止めに入った数人の男子生徒に引き留められる。
 私もまた、完全に頭に血が上ってしまっている結衣の手を握り込んだ。
「結衣……やめてよ。私はいいから」
「なんでよ! なんであんなクズのためにあんたが我慢しなくちゃならないの! あんたは、何にも悪くないじゃない!」
 魂をむき出しにして叫んでいるような、感情的な言葉だ。結衣の心の底から[溢{あふ}]れ出した思いで、彼女は、引き留めようとする私の手を強く握り返してくれた。そうすれば、結衣の体の中を流れる血液の熱量みたいなものが力強く伝わってきて、私は彼女を止めるのではなく、彼女に[縋{すが}]りたくなってしまう。
 私は何も悪くない。私の代わりにそう叫んでくれた親友の言葉は、なんて頼もしいんだろう。
 そして結衣は、一歩も引かずに言い放った。
「お前みたいな人の痛みもわからない[奴{やつ}]はさっさと死んでしまえばいいんだ! [地{じ}][獄{ごく}]に落ちて、針山で他のクズどもと一緒に[糞{くそ}]でも投げ合ってろ!」
 [殴{なぐ}]りつけるような[罵{ば}][声{せい}]は、あまりにも強すぎた。結衣の言葉で余計にいきり立った睦月先生は、周囲の生徒をなぎ倒し、でっぷりとした巨体で襲い掛かってきた。
「結衣、逃げて!」
 手を引くが、結衣は意固地になって睦月を睨んだままその場を離れようとしなかった。そして今にも睦月先生が結衣を殴らんばかりに近づいてきた時、すんでのところで、この場の誰よりも高いところにある坊主頭が、二人の間に割って入った。
 見上げるような逞しい背中は複数人の男子生徒でも止められなかった睦月先生の体を一人で受け止め、真横のプールへと突き落とした。
「みんな、一旦落ち着いてくれ!」
 睦月先生がプールに落ちた時にできた一瞬の隙を見逃さず、結衣と同じクラスである野球部の男子、双葉草太はそう言った。
 そんな双葉君の横、一段下がったプールの中から睦月先生が顔を出し、自分を突き落とした坊主頭を睨みあげる。
「おい双葉。お前、教師をプールに突き落とすなんてどういうつもりだ?」
「僕が言ったんです。『先生が暑そうだから、ちょっと涼んでもらったらどう?』って」
 声を荒らげる睦月先生に対して言葉を返したのは、双葉君の後ろからひょっこりと顔を出した癖毛の男子生徒だった。印象に残らない中肉中背の彼は、されどどこか周りとは異なった雰囲気で睦月先生の前へとしゃがみ込む。
「暑さで苛々してらっしゃったんですよね?」
「あぁ? お前何を」
「おいおい、なんの騒ぎだ? もう授業始まるぞ?」
 睦月先生が言いかけた瞬間、生徒たちの間をかき分けてもう一人の授業担当の体育教師が姿を現した。汗ばんだひたいを見るに、急いで来たらしい。そんな彼の後ろには、私と同じクラスの雪月すみれが、同じくひたいを汗ばませて立っていた。どうやらこの騒ぎにいち早く気付いて、先生を連れて来てくれたらしい。
 体育教師とすみれを見つけた途端、癖毛の男子生徒は立ち上がって、プール内の睦月先生を[一{いち}][瞥{べつ}]した。
「すいません。睦月先生が暑いなら授業開始時間なんて待たず、早くプールに入ろうって言ってくださって、みんなで喜んでたんです」
 澄ました顔で男子生徒はそう言い、再び睦月先生に目を向けた。その目を受けて、あれだけ[憤{いきどお}]っていた睦月先生は、何も言い返せないように口をつぐんだ。それほどまでに癖毛の男子生徒の[眼{まな}][差{ざ}]しは、結衣のそれとは違った、人に物言わせぬ説得力のようなものを持っていた。
「そうだったのか。まあ、確かにそうだな。でも準備運動は必要だ。お前ら早く並べー」
 事情を知らない体育教師は大きな声で指示を出し、生徒たちは少しざわめきながらもそれに従い始める。だが私は、先ほどまでの恐怖の[余{よ}][韻{いん}]と、あまりにも唐突な助けに対して、啞然としてしまっていた。
「何が起きたの?」
「……さあ?」
 あれほど憤っていた結衣すらも困惑して、我に返っている。そんな私たちの前を、列になるために癖毛の男子生徒が横切り、私は思わず「待って!」と声を投げた。
「え、えっと、助けてくれて、ありがとう」
 私が言うと、癖毛の男子生徒は、なんとも印象に残らないような無表情で振り返った。
「僕は、別に……草太、ちょっと来て」
「どうした、仁」
「言いたいこと、あるみたいだから」
 仁と呼ばれた男子生徒は、こちらを見た。
「お礼なら、草太とすみれに言ってください。睦月先生を止めたのは草太ですし、他の先生を呼んできてくれたのはすみれなので」
「い、いや、俺は別に礼とかはいらないぞ」
 咄嗟に言い返した双葉君に対して、仁君は、素直そうに疑問を飛ばした。
「なんで?」
「それは、その……」
 言い淀み、そして照れ隠しか、先ほど周りを[鎮{しず}]めた時とは比べ物にならない小さい声で、双葉君は言った。
「あんな状況なら、普通、誰でも助けるから。俺は当たり前のことしただけだ」
 本当に小さい声である。けれど彼の言葉は、どんな怒鳴り声よりも鮮明に私の耳に残り、心臓の辺りから段々と顔まで熱くなってきて、私は思わず顔を伏せた。
 そして丁度、遅れてきた体育教師の呼びかけが聞こえる。
「おーい、早く並べー」
「やば、急いで行こうぜ、仁、吾妻、あと……」
 私を見た双葉君に対して、結衣は苛立ちを思い出したようにして答えた。
「この子はいいのよ、事情があるんだから。先生には改めて私が言っとくから、ほら、あんたは早く着替えて来なさい」
 気を遣ってくれた言葉が、優しく私の背を押す。
 しかし私は踏みとどまった。なんだか、胸の内に燃える炎のようなものが、先ほどまでの苦しさを全部焼いてしまったみたいで、気分が楽になったのだ。結衣から伝わった優しさの熱量と、双葉君に対する不思議な感情が、私を励ましてくれた。
「いいや、私も泳ぐよ。なんかアツいし。そもそも……」
 肩のバスタオルを結衣に返すと、彼女は心配するように見つめてきた。だが、その目があれば、もう十分だった。やっぱり背中には沢山の悪意の視線が注がれてくる気がするが、それでも、その中にも善意が混ざっていることを、双葉君たちが証明してくれた。
 だから、今度こそと、私は口元を[綻{ほころ}]ばせた。
「私は何も悪くないんだから。みんな、ありがと」

   ◇

 まるで指先が凍りついたみたいだった。
 図書室での勉強会を終えたあと、仁や峯子ちゃんと別れ、もうすっかり辺りは暗くなっている。校門前の路地に並ぶ街灯が遠い間隔でアスファルトを照らしつけ、向こうの方にある信号は、誰もいないのに、しきりに赤になったり、青になったりしている。とても静かで、なんだか不気味だ。
 もちろん、普段は恐怖など感じたりはしない。よく草太の部活が終わるまで待っていることがあるが、誰よりも熱心に自主練習をする彼を待っていれば、こんな時間になるのはよくあることなのだ。大体、人気はないと言っても校門の前であり、まだ校舎には先生たちだって残っている。怖がる必要なんて、ないはずなのだ。
 だが、今日ばかりは違った。
 ――これが……仁が言ってた、秘密のアプリってやつ、なのかな。
 胸の前で握りしめる携帯には、おどろおどろしいあの画面が映し出されていた。図書室で勉強会をしていたら、突然通知音が鳴り、いきなり出現した謎のアプリ。あの時はあまりにも不気味で、すぐに携帯の電源を落としたが、一人になるとやはり気になってしまう。これのせいで、私の指先は氷のように冷たくなり、恐怖や困惑で一杯だった。
 まず、秘密のアプリとはなんなのか。アプリの画面の下の方に、相変わらず表示されている『このアプリのことは、絶対に、秘密にしてください』という文章、秘密という言葉が引っかかるのだ。だからこそ、仁が口にしたアプリのことが頭をよぎるが、肝心のこの不気味なアプリをホーム画面に戻って確認してみても、名前も何もついておらず、空っぽな砂時計のアイコンがぽつんと存在しているだけなのである。
 そもそも、これ以上画面を[弄{いじ}]ってもいいものなのだろうか。ふと、そんな考えが湧いてきた。この不気味なアプリは、おかしなサイトを踏んだ時に送信されてくる架空請求みたいなもので、変に触ったりしない方がいいものなのかもしれない。
 そう思いながらも、アプリの画面左上に表示されている、『チュートリアル』と書かれている赤い本のアイコンから目が離せなくなる。その画面左上のアイコン以外には、下部の注釈文と、中央の大きな空の砂時計くらいしか見えるものはなく、そのどちらをタップしてみても何も反応しなかったため、余計に気になってしまうのである。
 ――チュートリアルって何? わけわかんないんだけど。
 理解できないために溢れる[嫌{けん}][悪{お}][感{かん}]じみたものが、舌の根の方をじんわりと乾かした。そして迷いに迷い、ようやく、そのチュートリアルのアイコンをタップしようとした、その時だった。
「待たせたな、春乃」
「うわぁ!」
 校門の内側から歩いて来た草太に声をかけられ、反射的に叫んでしまった。そして咄嗟に携帯をポケットに入れつつ振り返り、愛しの彼の顔を見上げる。
「あ、ああ、草太、早かったね」
「そうか? いつもと変わらないと思うが」
 練習終わりのシャツ姿のまま、草太は太い首にかけたタオルで、ひたいの[汗{あせ}]を拭った。相変わらず練習熱心な彼は、今日もたっぷりと励んできたのだろう。目前に夏の[甲{こう}][子{し}][園{えん}]予選も控えているらしく、余計応援したくなる。うちの学校はそれほど強いわけではないみたいだが、それでも草太は二年生ながらにエースとして、いつも全力で野球に向き合っているのだ。
「今日もお疲れ様」
 そんな彼の支えになれればと、私はいつも、手製の差し入れを用意していた。鞄を開き、保冷バッグを取り出せば、中に詰めてあった容器を開く。中にははちみつに漬けてあったカットレモンが、きらきらと輝いていた。昼の間は家庭科の先生に頼み込み、冷蔵庫の片隅に入れてもらってあるため、この時間になってもちゃんと全て冷えている。
「今日はレモンか」
「夏ならこういうのも良いかなって思って」
 二人で並びながら帰り、草太が私の差し入れを食べてくれるところを見ていると、頰が緩むのを抑えきれない。一年前、彼や仁やすみれが助けてくれて、そして結衣が私の代わりに訴えてくれて、本当に救われた。なんだか、みんながいればすごく心が穏やかになって、それだけで[嬉{うれ}]しく感じるのである。
 みんなといつまでも一緒にいられたら、どれだけ幸せだろう。
「そういえば、さっき何か集中してたみたいだったな。何してたんだ?」
 輪切りにしたレモンを[齧{かじ}]りながら、草太は思い出したように言った。私が声をかけられて、叫んでしまった時のことだろう。そう考えると、あの不気味なアプリのことが[蘇{よみがえ}]ってきて、折角感じていた幸福感みたいなものが薄れていくのを感じる。
「いや、まあ……ちょっとね」
 言い[難{にく}]く思い、[曖{あい}][昧{まい}]に返すと、草太は眉を寄せた。
「なんだよ、俺に言えないことなのか?」
 草太の口調が少し強くて、私は思わず首を横に振った。
「ち、違うよ。その、草太に言えないってことじゃなくて、誰に対しても言い難い、みたいなさ」
 草太は、皆の前だと穏やかで頼もしく見えるが、二人きりだと、こうして少し怖くなる。でも、それはやっぱり私が悪いからだ。私が何かと落ち着きがなく、感情的で、子供っぽくて、抜けてるところが多かったりするのが悪いのだ。だって草太は、本当は優しい人なのだから。
 草太はそれから黙り込み、ずんずんと歩いて行ってしまった。その妙な沈黙がひしひしと肌にのしかかるみたいに重い。昔、まだ両親が離婚する前、パパが家で怒鳴った後の、私もママも簡単には[喋{しゃべ}]れなかった時の空気に似ている。
 思い出すと耐えられなくなって、私は咄嗟に口を開いた。
「あ、あのさ、草太は秘密のアプリって知ってる?」
 彼は目を細くして立ち止まった。
「……ああ、あの過去が変えられるって、噂のやつか?」
 じろりと私を見下ろすような細い目が、なんだか怖くて、私は思わず息を[吞{の}]んでしまった。それでも会話をしなければと、なんとか続けた。
「へ、へえ、そんな噂なんだ」
「知らなかったのか?」
 草太の言葉に頷いて返すと、彼はため息を吐き、続けた。
「それで、秘密のアプリがどうしたんだ?」
 尋ねられた時、丁度頭の中に、あの不気味なアプリの下部に表示されていた、『このアプリのことは、絶対に、秘密にしてください』という文言がフラッシュバックする。
 けれども、[所{しょ}][詮{せん}]は噂話である。それよりも、やっぱり草太の方が大事だ。
「あ、あはは、今日さ、実はそれっぽいアプリがいきなり携帯にインストールされて、さっきもそれ見てただけなの。でもほら、私この噂よく知らなかったし、なんか怖いから、言い難くてさ」
 努めて明るく、私の特技である笑顔を浮かべて言った。これで少しでも空気が[和{なご}]めば良いのだが。
 しかし、私の[目{もく}][論{ろ}][見{み}]とは裏腹に、草太の表情が険しくなった。一重の目からはすうっと光が薄れていって、逞しく頑強な巨体が、まるで彫像にでもなったように固まった。
 それがなんだか、彼から情緒というか、人間的な優しさや温かさが消えたみたいに見えて、反射的に身が竦んだ。
「そ……草太?」
 呼びかけると、少し遅れて、彼はぬるりとこちらに視線を合わせた。
「見せてくれないか、それ」
「え?」
「だから、そのアプリを見せてくれないか?」
 明らかにいつもと様子が変わってしまった彼を、震えながら見上げた。
「ど、どうしたの、草太。なんか、ちょっと変だよ」
 思わず、スカートのポケットに入れた携帯を護る様に手を添えた。なんだか、草太の言うとおりにしてはいけない気がしたのだ。
 でも、彼はそんな私の肩に手を置いて、言った。
「いいから、見せてくれよ。俺その噂気になってたんだ」
 そうして私の肩を摑む大きな手に、がしりと強く力を[籠{こ}]めると、彼はもう一度言った。
「早く、見せろよ」
 その声があまりにも無機質で、恐ろしくて、私は思わず携帯を取り出すと、彼に差し出してしまった。
 すると草太はひったくるように私の携帯を取り上げ、怪物に[魅{み}][入{い}]られたように、じっとりと画面を[凝{ぎょう}][視{し}]した。
 もう指先だけではなく、体の[芯{しん}]まで凍り付いているみたいだった。恐怖と困惑のあまり、辺りを見回すが、やっぱり遅い時間のため、人はいない。ただ厚い夜の暗闇だけが、壁みたいにして私たちを閉じ込めている。逃げ場なんてない気がした。
「ねえ草太、どうしちゃったの? やっぱり、ちょっと変だって。怖いよ」
 草太は私にとって、頼もしくて、助けてくれた恩人で、深く愛し合っている、大切なパートナーだ。彼のことは心の底から信頼しているし、彼が努力をするならば、私もできる限り応援したくなる。
 つまり彼を怖いと思うのは勘違いだ。不気味なアプリのせいで神経質になり過ぎているだけだろう。きっとそうだ。
 息を吞み、乾いた唇を[舐{な}]め、小さな期待を胸に抱いて、再び顔を上げる。
 その時見えた彼の顔が、あまりにも信じられないもので、啞然としてしまう。
「なんで……」
 そして彼は、携帯の画面から私へと、ゆっくりと、その目を滑らせた。
「なんで、[嗤{わら}]ってるの?」

※試し読みはここまでです。
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