試し読み イルダーナフ ーEnd of Cycleー

 

  0 デッドエンド・ブルー

 空……何処までも青い空。それと、吹き渡る風。
 他には何もない。陸地も、水平線も見えない。太陽さえもない。太陽がないということは、時間がないということだ。ここは永遠に青い。
 足元、遥か下方は青い光の中に茫洋としている。視線を上げれば果てしなく昏い。闇の彼方に、寂しげにまたたく星々が見える。この辺りの空は全ての色を秘めている。星空への畏怖、夕暮れの寂寞、青空の憧憬……光と闇の[汽水域{きすいいき}]。
 ところで、自分は墜ちようとしているのだろうか? それとも、昇って行く途中? わからない。何処に行くべきかなんて、わかるわけがない。自分が何者なのかすらわからないのに。
 ただ、何かをしなければいけなかったことだけは憶えている。そして、それがもう間に合わないことも。二度と、永遠に、取り返しがつかないことも。だから、胸にあるのは焦燥ではない。後悔だ。
 遥か遠い何処かから吹いてきた風が、幽かな囁き声となって響いた。

《──幸せでいて、ずっと……幸せでいて……》

 優しげな声。今にも泣きそうなのに、無理に微笑んでいるような。誰のものだったか? 胸が締め付けられる。その甘さが後悔をうずかせる。雨粒が河となって大海に注ぐように、全ての感情は後悔へと繋がっている。きっと大切な誰かだったのだろう。

《ごめんよ……ごめん……》

 相手も理由もわからないまま、ただ謝っていた。不誠実で、無意味な謝罪。誰かのためではなく、ただ自分がそうしたいだけの。
 温もりを宿した風はすぐに吹き去り、次にやって来たのは、身を切るような冷たい響きだった。威厳に満ちた声が言う。

《受け入れろ……さあ。忘れるのだ、全てを》

 ──忘れる? 何を?
 自分は何かを忘れたのだろうか? だから此処にいるのか? この何処までも美しく、それでいて空虚な世界に。

《忘れろ、お前の罪を》

 紺碧に染まった風が、後から後から幾重にも吹いてきては、音となって砕けていく。岩にぶつかった波が飛沫をあげるように。それらはどれも、意味を持たないざわめきだ。自分にとって確かなことはひとつだけ。何もかも遅かったということだけ。

《ごめん……ごめんよ》

 空。何処までも自由な空。
 しかし、何処にも辿り着けはしない。此処には後悔しかないのだから。

 

 

  1 英雄と死者の帰還

 風を受ける機体の軋み、燃え盛る内燃機関の咆哮、絶え間ないエグゾースト……それらの轟音が他の音を押し潰してしまうので、此処はいっそ静謐だった。
 耐圧処理が施されたコックピットの内部。
 生物の内臓を思わせるケーブルの隙間に、棺桶然としたバケット・シートがあって、ルゥ72はそこにすっぽりと収まっていた。まるでこの機体の部品の一つにでもなってしまったようで、それはあながち間違ってもいない。高価な部品、黄金の歯車、重要な臓器。
 網膜に直接投影される位置情報が、滝のような速度で更新されていく。じき、[子午線湾{サイナス・メリディアニ}]上空へと到達する。赤道直下に広がる海。この星に生きるあらゆる者たちにとって記念碑的な場所。そこが、今日の戦闘空域となる。
『──こちらクルワッハ。アンバール、応答願います、どうぞ』
 突然飛び込んできた僚機間通信が、コックピット内部の完成された空間に爪を立てた。自分が取るに足らない、ちっぽけな存在へと引き戻されるように感じられて、ルゥは眉間に皺を寄せた。舌を動かすのも億劫だ。
『おいアンバール、応答しやがれ! どうぞ!』
 根負けして口を開く。
『……こちらアンバール、どうした? 何か問題でもあったのか?』
『問題? 俺は絶好調だよ。絶好調なのが問題なんだ。もう我慢できそうにねえんだ……おあつらえ向きに目の前に、お前の魅力的なケツが見えるじゃねーか。なあ? ブチこんでやろうか?』
 クルワッハのパイロット、ヴァラー991の品のない言動は、いつもルゥを辟易させた。戦いの前はいつもこうだ。
『用がないなら通信してくるな』
『あァ? なんだよ、つめてえなァ……退屈なんだよ。ただ飛ぶだけなら鳩でもできる。早く戦わせてくれよ、なァ!』
 ──鳩の方がマシだよ。絡んでこないからな。
『なァ、おい、ルゥ! うるさいって思ってんだろ? いいぜ! なんならお前が俺にブチ込んでくれてもいいんだ。仲間にヤラれるってのも、気持ちイイからな。やれよ、ほら、やってみろって!』
 ヴァラーは生粋の[戦争狂{ウォーモンガー}]で、もう長い付き合いになるが、どこまでも性格が合わない。
 [島嶼{とうしょ}]国家ハイブラゼルに棲むエルフ族は、標準的な性質として風と遊ぶことを好む。ルゥも例に漏れず、飛行機に乗ること自体は嫌いではなかったが、戦いは昔から嫌いだった。兵士なんかにはなりたくなかった。
 ただのパイロットでいられたら、どんなによかっただろう? だがそれは叶わない。戦うために造られた素体だからだ。うんざりだった。戦闘も、部下に煽られるのも。
『いい加減にしろよ……もうじき戦闘だぞ』
 溜息混じりに返した言葉は、旧世代のミサイルよりも容易くスルーされてしまう。
『ははっ! なあルゥ、今日も勝負といこうじゃねえか。俺とお前、どっちが多く敵を撃墜するかだ』
『[今日も{、、、}]? ぼくは一度だって、きみと勝負したことなんてない。いつもきみが勝手にやってるだけじゃないか』
 笑い声が返る。
『いいねぇ、その態度! 憶えとけ、宣誓したら、そんときから勝負成立なんだよ。やるぜ、[撃墜王{トップガン}]!』
 ぶつりと鉈で断ち切るような調子で、通信は切れた。コックピットは狭すぎて、肩を竦めることもできない。第三者が聞いていない宣誓に何の意味があるというのか。
 ヴァラーのせいで生まれたノイズを、身体から全て追い出すように、ルゥは大きく息を吐いた。それから自分の脳と、愛機アンバールに搭載されたCPUとを繋ぐ無線回路を完全に開き、[管制機関{アビニクス}]との接続深度を高めてゆく。同調率四〇……六〇……八〇パーセント……肉体の感覚が希薄になっていく。
 ──ぐん。
 空気を切り裂いていく主翼の重たさ。装甲を滑る風の冷たさ。機体が帯びる熱。数字的な情報に過ぎないはずのそれら全てが、感覚として押し寄せてきた。脳の襞が一斉に開くような感覚。凄まじい昂揚感が全身を駆け巡る。
 操縦者と機体の完全なる同調を可能とする、[超管制機関{パラ・アビオニクス・システム}]の恩恵を受け、今やルゥは、栄養失調気味の弱々しいエルフではない。アンバール──銀の剣にも似た鋭利なフォルムの戦闘機、そのものとなった。
 機体に搭載された全方位カメラとレーダーは、生身では決して叶わない、鮮烈な視界を与えてくれる。
 空と宇宙の端境は、名づけることの叶わない、無数の青で織り上げられた、一つとて同じ色のない[織物{テクスタイル}]。遥か眼下には、貴婦人のヴェールさながらに星を覆う雲の隙間から、緑に覆われた地表が覗く。前方には[子午線湾{サイナス・メリディアニ}]の青い海面が、陽光を反射して煌めいている。遠景に苔生した岩山のように聳えているのは、かつてこの世界をお創りになった神々が乗ってきたと語られる、伝説の舟だ。
 ああ、なんて美しい風景だろう! 神々の故郷、『聖地』は、言葉にできないほど美しい世界だったと語られているが、これ以上なのだろうか? だとすれば想像もつかない。
 神々の御業と、何世代にも続く開拓者たちの弛まぬ努力が、赤茶けた荒野に過ぎなかったこの星をここまで変えた。それでも未だ南半球は荒野に覆われており、限られた生産圏を奪い合って、戦火は止まない……と、[そういうことになっている{、、、、、、、、、、、、}]。
 そんな様々な事情とはまるで関係なく、空は何処までも美しかった──ああ、いつまでもこうして、ただ飛んでいられたらいいのに。
 スピードはいい。風が何もかも洗い流してくれる。地上のわずらいも、心の澱も……飛んでいるときだけは、何もかも忘れていられる。
『──こちらレーア。アンバール、応答願います』
 再びルゥの耳小骨を震わせたのは、抑揚のない、若い娘の声だった。
 同調率が高まった今、ルゥとしての肉体の唇を開くことが、酷く億劫に感じられた。
『……こちらアンバール、どうぞ』
『戦闘空域に到達しました。全機に臨戦指示を』
 ウァハ266。ヴァラーに言わせれば「頭の固い、面白みのない女」らしいが、ルゥは副官である彼女に、全幅の信頼を寄せていた。気遣いが細やかで仕事には手を抜かない[性質{たち}]だ。酒の席ですら笑っているところを見たことがないが、それが生来の気質なのか、後天的なものかはわからない。
 その言葉に従って、全隊通信回線を開いた。一足早く同調を終えた今、面倒なコンソールの操作は必要ない。感覚的に機能を操作できる。
『アンバールより各機。高度を落とし、スーパークルーズより戦闘速度へ移行。同調率を上げるんだ。繰り返す。戦闘速度へ移行……』
『[敵影確認{タリ・ホー}]! スレープニルです!』
 スタッカート気味な少年の声が、通信に割り込んでくる。
『ははっ、やっぱり出てきましたね、アイツ! 僕らの隊長に勝てっこないのに……やっつけちゃってくださいねっ!』
 警戒機ファリニシュを駆る、ホリン310だった。やや落ち着きがない性格だが、その分目端が利く。彼の目は小隊全員の目だ。
 すかさず敵機からの通信が入った。
《──当方、グラズヘル指令機スレープニル。応答願う》
 並々ならぬ覇気が感じられる波形。
 軍国グラズヘル最強と謳われる戦闘機、スレープニルのパイロットは、ヴォーダイン206をおいて他にはない。グラズヘルの将軍にして、軍神と謳われる戦士、かなりの大物だ。国家間の趨勢を決める戦いとなれば、出てくるだろうと予想はしていた。
《こちらハイブラゼルのアンバール、どうぞ》
 アンバールも通信を返す。
《おお! やはり貴様か、アンバール! 先月は部下が世話になったようだな。相手にとって不足はない。早速始めようぞ!》
 ──ああ、まったく……勘弁してくれ。
 死にたくないという一心で、ルゥは勝ちすぎてしまった。今や建国以来の英雄と呼ばれ、各国のエースに目の敵にされている。
《ククク……ヒャッハアーッ!》
 瞬間、クルワッハから発せられた、下卑た信号思念が回線を埋め尽くした。急加速し、[横一列{アブレスト}]から単機飛び出す。空の向こう、ようやくアンバールのレーダーにも引っかかり始めた敵機へと向け、黒い機体が奔っていく。
《不足はねえって? そりゃこっちの台詞だ! 墜としてやるぜ、スレープニル!》
《ほう? 言うではないか、ハイブラゼルの狂犬め。面白い!》
 クルワッハとスレープニルの間で交わされる、熱を孕んだ会話に、レーアの冷ややかな嘆息が混じる。
《あの馬鹿……》
《……ガイネ、補佐する》
 朴訥さを感じさせる声は、ルゥ麾下最後の一機ガイネの操縦者、ガヴィーダ506のものだ。物静かな大男で、元は農夫であったという。何かと面倒見がよく、必然的にクルワッハの補佐に回ることが多い。上司としては申し訳なく思う。
 ガイネが[燃料再燃焼{アフターバーナー}]による爆発的な加速を見せた。その赤い機体は、自らが引く炎の尾と一体になりながら、瞬時にクルワッハの機影へと追いつく。競うようにクルワッハも更に加速し、赤と黒、戦火の色の[二機編隊{エレメント}]は、瞬く間に決戦距離へと到達した。
 一機につき二発、計四発のミサイルを射出した後、二機は[推力偏向{ベクタード・スラスト}]による鋭角の軌道を描き、左右に分かれていく。尾を引く[飛行機雲{ヴェイパー・トレイル}]──そして次の瞬間、爆発の振動が大気を貫いた。
 ミサイルが炸裂したのではない。
 今やアンバールの光学機器でも、敵軍全機が確認できていた。五機全てが黒紫のカラーリングで、嵐の夜空を思わせる。中央にスレープニルを据え、後方に二機の警戒機、フギンとムニン。左右に二機の戦闘機、フレーキとゲリ。その二機が、大量のミサイルを吐き出した音だった。入道雲のようにふくれあがった噴煙を貫いて、無数の弾頭が姿を見せる。
 生存本能がチリチリと焦げ付く感覚。
《──レーア、ファリニシュ、下だ!》
 一声かけてから、アンバールは急降下を始めた。麾下の二機が遅れてそれに続く。
 間を置かず、次々に起こる爆発。生み落とされた凄まじい弾幕雲は、スレープニルに向けて放たれた四つのミサイルを容易く迎撃し、それを放った二機を追い始め、更にはアンバールたちをも呑み込もうとしていた。
 グラズヘルのミサイルは、ひとつひとつが生体部品を内蔵しており、自ら思考し炸裂する生物のようなものだ。その性能は[地対空{パトリオット}]に限定されないが、[愛国者{パトリオット}]的ではある。
 やがて大きな爆発が連続して起こり、クルワッハとガイネの識別信号が途絶えた。この空では、死はあまりにも早い。
 残された三機は青く澄んだ湖面を掠めるほどの低空で飛行し、破壊の雨を掻い潜っていく。着水したミサイルは翻って襲ってくることがない分、上空にいるよりはまだ救いはあるが、生存確率が極めて低いことに変わりはない……
《た、隊長! 無理ですよコレ、僕の足じゃ……う、うわあーっ!》
 回線を震わせた少年の悲鳴が、爆発音に掻き消された。ファリニシュの白い機体が火柱の中に消える。レーダー機器の重量が災いしたのだろう。
 仲間たちの残骸が、遥か下方の海面に降り注ぐ振動を、アンバールの研ぎ澄まされた機体感覚が拾う。この美しい海域の底には、数多の戦闘機が苔生し、屍たちが魚に喰われているのだろう……脳裏に思い描いた光景に、一瞬心を奪われている間に、[愛国者{パトリオット}]たちの丁寧な包囲網は完成していた。蟻の這い出る隙もない。
 ──死にたくない!
 アンバールの部品のひとつが、突然動作不良を起こした。ルゥという名の、腹立たしいほどに出来の悪い部品が。
 心拍数の上昇、呼吸不全、全身の硬直……数秒後に迫った死の恐怖に襲われ、為す術なく身を竦ませている。アンバールの戦闘用AIと同化した意識は、その情けない姿を客観的に眺めている……
 その時、レーアが機首を上げた。
《……道を開きます》
 淡々と言うと、己もミサイルをばら撒きながら、微塵の[躊躇{ためら}]いもなく必殺の弾幕へと突進していく。
 巻き起こる閃光と衝撃。たくさんのミサイルたちを道連れに、レーアは炎と煙になって散った。あの青い機体の破片は、さぞ美しく水底に降り積もるだろう。
 恐怖を習慣で上書きし、風を孕んでアンバールは加速する。ミサイルの威力圏を掠めるように、レーアが開けてくれた小さな穴をくぐる。噴煙と炎の洗礼を、そしてひょっとしたら、ウァハの血肉を浴びながら。敵の五機を見上げる形で、その背後へと抜けた。
《ほう、我が全身全霊の砲火を避け切ったか! 敵ながら見事な腕前、それでこそ戦う甲斐があるというものよ!》
 スレープニルからの通信には、[揶揄{やゆ}]するような響きは一切ない。怯えや憎しみ、罪悪感、そういう陰りもない。戦いの歓喜だけがある。熱に浮かされたような通信が続く。
《さあ、もっとだ! もっとわしを驚嘆させてくれ!》
 自ら抱く[矜持{きょうじ}]と相手への賞賛が、嫌みなく同居している。ヴォーダイン。グラズヘルの誇る偉大な軍神。
 ──おい、ルゥ! いつまでビクビクしているつもりだ?
 己の中に生まれたバグを叱咤する。
 ──演じろ。英雄らしく。不敵に、傲慢に、悪辣に、冷酷に。でなければ墜とされるだけだ。生き抜きたければ……演じろ!

 

 

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