殺人事件が起こると人は狼狽する。パニックに陥る。そんなことは当たり前だ。客席最前列一番右の席に座っていた女性が照明器具で潰されて平気な顔をしている人間の方がおかしい。つまり、『[皋{さつき}][所縁{ゆかり}]』がおかしい。
まだただの事故かもしれない段階で、殺人事件を予感しているのもおかしい。重力が存在するのだから、不幸にも照明器具が落ちることだってあるだろう。けれど、皋所縁は既に犯人を探している。その可能性を端から捨てている、皋所縁がおかしい。
そんなことを重々承知しながら、皋は死体の側に走っていった。怪盗の言う通り、パニックが起こり始めている。観客はまだ戸惑っているが、誰かが席を立とうとすれば収拾がつかなくなるだろう。その際に起こる二次被害を想像すると背筋が寒くなる。数十秒後に迫るパニックに目の前が暗くなった時だった。
『おい、全員落ち着け』
未だ悠然と壇上に立っていた[萬燈{まんどう}][夜{よ}][帳{ばり}]が、凜然とした声でそう言い放った。
その瞬間、会場の全員がぴたりと止まった。向かうべき視線の方向が定まり、全員の目が萬燈に向けられる。
『どうやらあっちゃならんトラブルがあったが、ここで騒いでもどうにもならねえよな。楽しめない展開ではあるが辛抱してくれ』
そんな言葉一つで場が収まるはずがない。それなのに、客は全員従っていた。動揺や恐怖が静まったわけではないが、萬燈が落ち着けと言ったのだから落ち着くべきだ、という空気が蔓延している。
この隙に、皋は『凶器』の照明器具と死体、それに、最前列の人間をざっと観察する。手がかりを見つけて推理を組んでいく、この過程が一番嫌いだ。人の悪意の地図を辿っていくなんてろくなものじゃない。
『おい、お前何してる』
地図の終わりに辿り着くのと、萬燈の冷ややかな声が降ってくるのは同時だった。
どさくさに紛れて死体の側に屈み込んでいる男を見れば、そんな声にもなるだろう。探偵行為なんか一歩間違えずとも異常行動だ。
おまけに今の[皐{さつき}]は、いかにも上品そうで無害な老婦人の手を掴んでいる。隣でニヤつくこの老婦人が怪盗なんですと言って信じてもらえるはずがない。
数瞬だけ迷ってから、覚悟を決める。そして、掴んだ怪盗ごと、客席の方を振り向いた。そして、長らく出していなかった張りのある声で言う。
「どーも、俺が最強にして最高の元・名探偵、皋所縁だ。みんな、殺人事件って嫌だよな? 奇遇だなー、俺もこの世で一番嫌いだ。だから、俺はちゃっちゃとこれを解決しようと思う! ってことで解決編いくぞ! 犯人はそこのカーディガンを着たお前だ! そのカーディガン服装に合ってないし、どうせ腕の傷を隠す為にさっき買ったばかりだろ? この照明器具、妙な位置のワイヤーが根元から切られてるんだよな。お前、照明器具のネジを外す時にこのワイヤーに肌を引っかけたんじゃないか? このワイヤーに皮膚片が付着してDNA鑑定に回されるかも……と怖くなったお前は、このワイヤーを切断して持ち帰ることに決め、腕の傷を隠す為にカーディガンを羽織った。それだけビビりならまだワイヤー持ってるだろ? 鞄の中身見せろよな。ていうか照明器具に細工出来るなら共犯者もいるか?」
殆ど息継ぎもせずに捲し立てると、矢面に立たされた女性に視線が集まった。視線に晒された容疑者――犯人は、真っ青な顔で皋を見つめ返している。
推理を披露しながら、皐は不思議でならなかった。どうして探偵という肩書を名乗るだけで、周りは自分の言葉に耳を傾けるのだろう。探偵に免許があるわけでもないのに。そもそも『皐所縁』は探偵を辞めたはずなのに。
「……勿論、俺は失格探偵だから、間違えてるかもしれないんだけどな! さあ、違うなら反論しろ! 俺が探偵として無能であることを証明してくれ!」
そんなことが十中八九無いことを知りながら、皐所縁は自分の無能を心の底から願っている。どうか、これがそんな悲劇じゃありませんように。自分が間違えていますように。これが単なる事故でありますように。殺人なんておぞましいものじゃありませんように。
「……仕方なかったんです。私が彼女の支配から逃れるには、もうこれしか……」
しかし、皐の願いはあっさりと裏切られた。あーあ、それ自白じゃん。殺人じゃん、せめて一度くらい言い訳すればいいじゃん、と溜息を吐く。自分が間違っていないことを知らしめられるこの瞬間が、一番嫌いだ。犯人の女は泣きながら動機を語っているが、それを理解してやる気力がない。長々と続く独白を遮るように、気のない返事を返す。
「あー、もういいよ。誰か逃げないように見張っといて。もう逃げないか」
興味を失ったように言う皋の言葉に、周りの言外の非難が突き刺さる。しかし、そんなものを聞いてやる義理はない。
隣の怪盗が「駄目ですよ。所縁くんってば愛され探偵としての自覚が足りませんね」と老女らしい声で言ったところで、皐の堪忍袋の緒は切れてしまった。レフリーのように老女の腕を掲げながら叫んでやる。
「ついでに言うと俺が掴んでるこのおばあちゃんは怪盗ウェスペルだ! 誰でも良いからさっさとこいつを捕まえろ! 引き渡させてくれ!」
「ちょっと所縁くんったら、本当につれないですね。感激します」
怪盗が呆れたように言うのに合わせて、犯人が本当に駆け出す。逃げたって無駄だろうが、これで『皋所縁』に一矢報いれるとでも思ったのだろうか。
そうなれば偉そうに推理を披露しながらも一旦犯人を逃がした探偵――元・探偵として馬鹿にされるかもしれない。ただ、正直言ってどうでも良かった。皐所縁は探偵をやめたのだから。
「ねえ、所縁くん。今のうちに言っておきたいことがあります」
気づけば、微笑む老婦人が皐の耳元に口を寄せていた。その声はあの気障っぽい低音に戻っている。
「私の名前、[昏{くら}][見{み}]っていうんです。昏見、[有貴{ありたか}]。今度会う時は怪盗、なんて素っ気ない呼び名じゃなくて、ちゃーんと昏見って呼んでくださいね」
「はあ? もう会うことなんざないだろうが」
「[私は肩甲骨にあります{・・・・・・・・・・}]」
昏見が言った一言で、皐は全ての事情を把握する。
昏見は知っている。皐所縁が何をしようとしているかも、その手段も。
「お前、どこまで知って……」
「力になりますよ、所縁くん。私のこと、信じてくださいね」
そう言うなり、視界いっぱいに白い煙が広がった。掴んでいた手の感触がフッと消える。客席のざわめきが大きくなる。
昏見が炊いたスモークが晴れた時、皐の手に残っていたのはとあるバーの名刺だった。数メートル先には縛られた犯人が転がっている。その背には流麗な筆跡で書かれた『手紙』が貼られていた。
『殺人事件とか怖いので出直します 怪盗ウェスペル』
出直します、の後にくっついている泣き顔の絵文字が更に怒りを煽った。招待状のように握らされた名刺も気に食わない。こんな見え透いた誘いに乗るような馬鹿にはなりたくない。けれど、皐は昏見の肩甲骨を確認しなければならない。
『おい、怪盗の出番は終わっちまったのか?』
焦燥のただ中にある皐を余所に、萬燈夜帳の声が高らかに響く。
『警察はもう着く。残念だが、この講演会は中止になるだろうな。けど、それじゃあいくら何でもあんまりじゃねえか? この俺の講演会に来たってのに、まだ観客のお前らは十分に楽しんでねえよなあ? 俺の主催してるイベントでそれは赦されねえ! 怪盗出現ってプレミアムイベントがあってようやく帳尻が合うってもんだ!』
目を輝かせながら言う萬燈を見て、皐の喉が引き[攣{つ}]る。こっちもこっちで一生分かり合えなさそうな人種だ。その射抜くような目が、皐を捉えている。
『そこでだ名探偵! お前も壇上に上がらねえか? お前もそこそこエンターテイナーだろ? この場が開くまで、俺と興行に勤しもうぜ?』
その言葉が終わるより先に、皐は踵を返して駆け出した。これ以上こんな悪夢に付き合ってはいられない。何しろ、皐所縁は探偵を辞めたのだから。彼は探偵をやめて、無謀な願いの為にその身を[窶{やつ}]すと決めたのだから。