試し読み ナルシスト、異世界にて竜の嫁になる

 

 

    

 

 

 夕方五時のチャイムが鳴る。もう何年も変えられていないのだろう田舎町の古いスピーカーは、少し音が間延びして聞こえて、なんだか物悲しい。山の向こうに[陽{ひ}]が落ちかけて、空は[橙{だいだい}][色{いろ}]から紫色へ、そして紺色へと、時間とともに色を変えていく。

 ランドセルを背負った[雪{セツ}]が玄関を開けると、祖母が土間に腰掛け、畑から採ってきた農作物を[紐{ひも}]で[括{くく}]っていた。

「おばあちゃん……」

「あらまぁそんなに泥だらけになって、どうしたんだい。家にお上がり、お風呂に湯を張ってやろうねぇ」

「……」

「どうしたんだい、ほらほら、早く靴を脱いで……」

「おばあちゃん、ぼくって、へんなのかな?」

「変?」

「みんなが言うんだ。へんだって。ぼく、みんなとちがうのかな……。おばあちゃん、ぼく、へん?」

「雪……」

 そこで祖母が、泥に[塗{まみ}]れた雪を抱き締めるのだ。自分も泥に汚れるというのに、それを[厭{いと}]うことなく。

 幼い雪の目から、涙がとめどなく流れる。自身をからかってきた同級生の前では、ついぞ流さなかった涙だ。

(やめろ……)

 雪は、自分が夢を見ているのだとわかっていた。抱き締め合う祖母と孫を見ながら、胸元をかきむしりたくなる[衝{しょう}][動{どう}]に[駆{か}]られる。

(やめろ……!)

 幼い雪は、祖母に抱きつきながら、わんわんと泣いた。祖母が、そんな雪の頭を優しく[撫{な}]でる。「雪は変じゃあない。その髪も、その目も、とっても[可愛{かわい}]い。雪は世界で一番可愛いよ」と雪の耳元で繰り返し[囁{ささや}]きながら。幼い雪は「おばぁちゃぁん……っ」と、祖母にしがみついて、ただただ泣きじゃくった。

 それを見て、雪は口元を押さえる。胸が痛くなるような場面を見て切なくなった、訳ではない。

(ええいっ、過去の僕よ、そんなところで甘えて泣いていないで、いじめっ子をやり返せるくらいに[鍛{きた}]えてこい! 今すぐ裏山までランニングだ! 基礎体力を付けろ! 持久力も付けろ! 筋肉は付けすぎるな! 全く過去の僕ながら情けない! お前が僕なら、僕らしく立ち向かえ!)

 過去の自分を[罵{ののし}]りたくて、歯ぎしりしていたのだ。そして、歯ぎしりをする口元なんて美しくないので、手で覆って隠していたのだ。もちろん夢の中の話なので、実際に歯ぎしりしている訳ではない。気分的なものだ。

 この夢を見る時はいつもそう、こうやって過去の自分を[罵{ば}][倒{とう}]して目が覚める。そして今日も、いつもと同じタイミングで、スッと現実世界に引き戻されたのがわかった。

 

   ***

 

「……ん?」

 寝起きはまず、起き上がる前にベッドの中でストレッチを行う。深呼吸で自律神経を整え、運動で基礎代謝を上げる為だ。

 夢から覚めた雪は、目を閉じたまま、ふぅーーっ、と大きく息を吐き、手の平を合わせて頭の上に、ピンッと伸ばした。そしてそのまま下半身を[捻{ひね}]る……と、何かが変なことに気が付いた。

「一体彼は何をしているのでしょう」

「さ、さぁ。私にはわかりかねます」

 少年独特のボーイソプラノの声と、若い男の声がした。

 [何故{なぜ}]、一人で暮らしている[筈{はず}]の家の中で、他人の声がするのだ。そもそも、ベッドに寝ているにしては、背中が痛すぎる。散々試し寝をしまくって選び抜いた、気に入りのマットレスの感触ではない。絶対に違う。

 雪は、パチリと目を開いた。

「あぁ、目覚めましたね」

「そっ、そのようです……!」

 一人の少年が、食い入るように雪を見下ろしていた。

 緩くウェーブがかかった黒髪、抜けるような白い肌、少し猫に似た、気の強そうな金色の瞳を有した目。およそ今までお目にかかったことのないようなタイプの、不思議な雰囲気をまとった少年だった。

 その横には、上から下まで黒いローブのようなものを着た、言うなれば「魔法使い」のような姿をした黒髪黒目の男もいて、同じく雪を[覗{のぞ}]き[込{こ}]んでいる。

「ふっ。僕の寝起き姿があまりに美しいからといって、そのように見つめないで欲しいな」

「……彼に言語変換魔法は[上手{うま}]く[効{き}]かなかったのですか?」

「いっ、いえっ、成功している筈ですが」

「ん? なんの話……はっ、少年! 鏡っ、鏡はあるかい? 朝一番はまず顔と体のチェックをしなければ。それにまだストレッチも終わっていないし、その後は筋トレもしなきゃならないし……、ああっ、朝は体作りに大切な時間だ! 一秒も無駄にできないぞっ!」

 一息に[喋{しゃべ}]り倒しながら、ストレッチを再開する雪に[胡{う}][乱{ろん}]げな視線を送り、少年は隣に立つ男に問いかける。

「本当に、言語変換魔法は効いているのですか?」

「その筈、なのですが……」

 男は、額の冷や汗を手の甲で[拭{ぬぐ}]いながら、口ごもる。ストレッチをしっかりと終えた雪は、ようやく、よし、と立ち上がり、そして、辺りをぐるりと見回して首を捻った。

「ところでそこの少年。ここはどこで、君達は誰なんだい?」

 全く見覚えのない、だだっ広くて薄暗い部屋だった。ところどころで火が[焚{た}]かれていて、ユラユラと、炎でできた影が揺れている。雪の寝ていた床には、解読不能の文字が、いくつかの円形の図や複雑そうな式と一緒に並んで書かれていた。何か、招喚の儀式でも行われていそうな部屋だ。

「説明しますので、ついてきてください」

 [暫{しば}]しの沈黙の後、少年がにこりと笑って雪を部屋の奥のドアの方へと促す。ここでその申し出を断って、こんな場所に残されてもしょうがないと思った雪は、素直にそれに従った。

「それから少年、できれば鏡をひとつお願いしたいのだが」

「……わかりました」

 一瞬真顔に戻った少年が、にこ、と張り付いたような笑顔を浮かべて[頷{うなず}]いた。

 仮面のように全く表情筋の動かないその笑顔は、見るものが見れば恐怖で震え上がるくらい冷たく恐ろしいものであった(実際、横にいた男は恐ろしそうに顔を引きつらせていた)が、雪は気にする様子もなく「よろしく頼む」と笑顔で[宣{のたま}]った。

 

 [嶋{シマ}]雪は自他共に認めるナルシストであり、そして、ゲイだ。初恋を自覚してからこっち、好きになるのは決まって同性の男だけであった。

 その独特の性格が災いして(と、本人は思ってもいないが)、これまで特定の恋人というのはできたことはないが、自分程の人間であれば、放っておいても、そのうち運命の相手の方が、自ずからやってくるだろうと思っていた。

 そして、その予想は意外にも当たることになる。いや、正確には運命の相手に「呼び出された」。

 なんと、雪の運命の人は異世界にいたのだ。なるほどそれでは今まで出会わなかったのも致し方ない、と雪は思わず頷いてしまった。

 

「運命の番?」

「はい」

「この国にいる僕の『運命の番』とやらが、僕を招喚した、と」

「はい、その通りです」

 目の前で[優{ゆう}][雅{が}]に茶を飲む少年は、雪の言葉に[肯定{こうてい}]の意を返した。

 雪が案内されたのは、先程の薄暗い部屋とは明らかに雰囲気の違う、手の込んだ造りの調度品が並んだ、[豪{ごう}][華{か}][絢爛{けんらん}]な部屋だった。壁に掛かる絵や布製品、照明や窓枠の[格{こう}][子{し}]の柄などは中華風だが、茶器などは洋風の取っ手付きのカップとソーサーだ。その若干のアンバランスさが、また異国感を[醸{かも}]し[出{だ}]している。

 少年の説明によると、雪は、今までいた世界とは全く別の世界に、招喚されてしまったらしい。

 最初はさすがの雪も「やれやれ何を言っているんだ」と、[俄{にわ}]かには信じることができなかったが、魔法使いらしき彼が窓の外を見せてくれて、納得した。いや、納得せざるを得なかった。窓から見えた外は夜。空には、月が二つ浮かんでいたのだ。

 暗くて、細部までしっかりとは確認できなかったが、雪は城のような建造物の中にいるようだった。所々に[焚{た}]かれた[篝{かがり}][火{び}]に照らされて、城の一部であろう塔や城壁が見えた。

「本当に、ここは僕がいたのとは違う世界なのだな」

「はい。突然に呼び出してしまってすみません」

「いや、良いんだ。僕が油断していた……」

「……油断?」

「[容{よう}][姿{し}][端麗{たんれい}]、スポーツ万能、[頭{ず}][脳{のう}][明晰{めいせき}]、立とうが座ろうが歩こうがその姿はまるで大輪の[薔薇{バラ}]の花のようなこの僕だ。異世界で必要とされることがあったとしても、なんら不思議ではない。普段からそういった可能性を考えて行動しておくべきだった」

 [額{ひたい}]に手を当てて「はっはっはっ」と笑う雪を、少年は、まるで奇怪な生き物を見るかのような目で見ていた。しかし、雪がその視線に気付くことはない。

「それで? 僕の運命の相手というのは?」

 雪は、キョロキョロと辺りを見渡す。[豪{ごう}][華{か}]な部屋にいるのは、魔法使い(のような男)、そして少年の二人だ。別室にでも控えているのだろうか、と首を捻った雪の前で、少年がスッと手を挙げる。

「[貴方{あなた}]の運命の番は、俺です」

 雪はしばらくの沈黙の後、「はーっはっはっ」と身を[反{そ}]らせて笑った。[大{おお}][仰{ぎょう}]な笑いを[披{ひ}][露{ろう}]する雪を、少年は相変わらずピクリとも動かない笑顔で見つめ、魔法使い(と呼ぼう)はそんな少年と雪を、ハラハラと見比べている。

「少年、残念だが僕は小児性愛者ではない。さすがにその愛には応えかねる。そうだな……後十年[経{た}]ってからまた[口説{くど}]いてくれ」

 パチリ、とウインクを投げる雪に、少年が「ふぅ」と悩ましげにため息をつく。

「後十年ですか。そうしたら俺は百六十歳ですね。まぁ俺は生憎と幼体ですので、十年経とうが二十年経とうが、成体にならない限りこの姿のままですが」

「……百六十歳?」

 少年の思わぬ言葉に雪は首を[傾{かし}]げる。少し長めの髪がさらりと[頬{ほほ}]に流れ、雪は細い指でそれを払い、顔を正面に戻して少年の顔をまじまじと見つめた。

「誰が?」

「俺です」

「百六十歳?」

「今は百五十歳ですよ」

「百五十歳?誰が?」

「俺です」

「十五歳?」

「百五十歳」

「百五十歳?」

「ええ」

 魔法使いは、もうすっかり青ざめて、雪と少年の終わりのないやり取りを聞いている。少年と雪を交互に見すぎて、[最{も}][早{はや}]どっちに顔を向けているのか本人もよくわかってない。ただただ首を行ったり来たりさせている。

「ふむ。異世界は[凄{すご}]いな」

 何度も何度も確認しておきながら、最終的には、至極あっさりと雪は[頷{うなず}]いた。

 の理解の及ばないのは、ここが異世界だからしょうがない、と思うことにしたらしい。

「いずれにしても、十年経とうが二十年経とうが貴方を口説くなんてことは断じてないので、どうぞ心配なさらないでください」

「ん?」

「運命の番に会えば成体になる、という訳ではないとわかりました。もう貴方に用はありません」

「ん?」

「次の二つ満月の夜には元の世界にお戻ししますので、ご安心を。では、俺はこれにて失礼致します」

 にっこりと笑って少年が立ち上がる。雪が今言われた内容を飲み込む前に、少年は「シャオヤ、彼の世話は任せました」と後半は魔法使いの方へ顔を向けて告げ、あっという間に部屋から出ていってしまった。

 バタンッ、と大きい音を立てて、重厚な扉が閉まる。

「……はぁ」

 シャオヤと呼ばれた魔法使いが、肩を落として重たいため息をつく。そして、この国の皇太子「リーホァン」の『運命の番』に、ちらりと視線を送った。

「なんてことだ……!」

 [愕然{がくぜん}]とした表情をする『運命の番』を見て、シャオヤはますます肩を落とす。いくら変わり者のように見える彼だとて、いきなり異世界に呼び出されておいて、もう「用なし」だなんて言われたらショックだろう。

 いや、リーホァンも悪意ばかりでああ言ったのではない。いつもはもっと冷静だし、きちんと対応しようと思えばできた筈なのだ。ただ、今は色んな事情が重なって感情が[昂{たか}]ぶってしまったのだろう。と、いうのはシャオヤにはわかるが、『運命の番』にしてみれば全く関係ないことだ。

 なんと言って[慰{なぐさ}]めて、なんと言って説明して、これからどうすれば良いのだろう。

 シャオヤは[途{と}][轍{てつ}]もなく重苦しい気持ちで、彼に声をかけようとした。

「あの……」

「鏡も用意せずに出ていってしまった! ああ、申し訳ないのですが、鏡の用意は貴方に依頼しても良いでしょうか?」

 どうやら彼が衝撃を受けていたのは、リーホァンの言葉ではないらしい。雪は、思わず[椅子{いす}]からずり落ちかけたシャオヤに顔を向け、それはもう大事な事を告げるように重々しく、鏡を準備するよう依頼してきた。

「あの……鏡は準備しますけど、その、大丈夫ですか?」

「何がですか?」

「いや、ほら……」

 シャオヤはちらりと、もうしっかりと閉じられた扉に視線をやる。雪はああ、と頷いた。

「えらくご立腹でしたね。いえ、僕が悪いのでしょう。初対面の目上の方に敬語を使わないで話すなど、どんなに僕が[見目{みめ}][麗{うるわ}]しくても許されることではありません。つい、彼の見た目で判断してしまいました」

「そ、そこは気にされていないと思いますけど……」

 焦点のずれた雪の話に、シャオヤは頬を引きつらせて笑う。そういえば、雪は先程からシャオヤに敬語を使っている。雪とシャオヤは、見た目は同い年くらいに見えるが、それだけでは年齢が判断できないとわかったからであろう。

「よし、今度お会いした時に謝ろう」と頷く雪を見て、シャオヤは「まだ会う気があるのか」と、ギョッとしてしまった。

 とりあえず、カラカラに乾いてしまった[喉{のど}]をお茶で[潤{うるお}]す。そして、意を決して雪に声をかけた。

「と、とりあえず鏡は準備しますので。それから、この国についてと、リーホァン様について、そして今後の事についてお話し致します」

「リーホァン……?」

「皇太子様のことです、先程までいらっしゃった……あれ?」

 そこでシャオヤは、二人が名前すら[交{か}]わしていなかったことに気が付く。

「皇太子?」

 名前どころか、身分も、何も告げていなかったことも。

 シャオヤは、ずきずきと痛み出した頭を片手で押さえながら、なんとか言葉を[絞{しぼ}]り[出{だ}]す。

「色々、ご説明させていただきます……えっと、お名前……」

「僕の名前は、嶋雪です。雪の方が名前になります」

「では、セツ様?」

「様はいりませんが」

「いっ、いえいえっ、皇太子様の『運命の番』でいらっしゃる御方に対して、呼び捨てなどできませんっ」

「なるほど。……わかりました」

「は、ははは……」

 もうすぐ元の世界に戻されるかもしれない『運命の番』だが。と、心の中で付け加え、シャオヤは乾いた笑いを[零{こぼ}]す。

 目の前の『運命の番』は、見た目は確かに、本人が(過剰な程の)自信を持つだけあって、悪くない。いや、見た目だけを言うなら、確かに大層美しい。流れるような金の髪に、青みがかった目、白い肌に細長い手足。色合いといい、姿形といい、まるで上等な[人{にん}][形{ぎょう}]のようだ。美青年という言葉がしっくりくる、誠に[華{はな}]やかな美しさである。

「雪、雪……、雪。うーん、いつ聞いても良い名前だな」

 しかし、いかんせん中身に問題がありすぎる。うっとりと自分の名前を囁く雪を見ながら、シャオヤは、床に穴が開きそうなくらい重たいため息を、またひとつ零した。

 

 

    

 

 

「セツ様、書庫に行かれます?」

「えぇ。何か借りてきますか?」

「いや、逆です。この本を返却したくて……」

「お安い御用です。シャオヤさんに代わり、この僕が、書庫に本を返してきますよ」

「この僕が」の部分を妙に強調して、本を片手に雪がポーズを決める。シャオヤは「はいはい」と適当にあしらうように頷いておいた。

 この数日間で、だいぶん雪の扱いに慣れてきたシャオヤであった。

 

 ここは、城の中にあるシャオヤの部屋だ。雪は現在、シャオヤの部屋を間借りさせてもらっている。

 シャオヤは皇族お抱えの魔法師で、寝起きする為だけには十分すぎる程の広い部屋を、城の中に与えられていたのだ。

 だが、どんなに広かろうと、雪が他人の部屋を間借りしているという事実に変わりはない。仮にも、皇太子の『運命の番』として招喚されたにしては、扱いが雑だ。

 しかし、実はそれもしょうがないことなのである。何故なら今回の招喚はリーホァンの独断で行ったものであり、リーホァンの『運命の番』が今この城にいること自体、招喚を行ったリーホァンとシャオヤ、そして招喚された本人である雪以外誰も知らないのだ。いくら『運命の番』とはいえ、個人的に異世界から人間を招喚するのは、あまり良しとされていない。城の中でおいそれと部屋を与えて、目立たせるのは得策ではない。少なくとも、今の段階では。

 そういった事情もあって、シャオヤはとりあえず、雪を自分の部屋に寝泊まりさせることにしたのである。おそらくリーホァンもそのつもりで、雪の世話を「任せました」と、シャオヤに言ったのだろう。

 

 それにしてもこの『運命の番』、好き勝手に部屋を改造している。いや、シャオヤも「好きにして良い」と言ったのだ、言ったのだが……。

「あの、セツ様? ここに鏡なんてありましたか?」

 部屋の入り口に、デカデカと姿見が置いてある。確かにそれはシャオヤが準備した鏡だが、まさかそんな所に置かれるなんて思いもしなかった。この部屋を訪れた者は、まず間違いなく、入ってきた瞬間に等身大の自分と鉢合わせて、ギョッとするだろう。

 ちなみに、部屋の入り口だけではなく、雪に貸した部屋、洗面所、風呂場、棚の上、と部屋のありとあらゆる所に大小様々な鏡が置かれてしまっている。

「ええ。[今朝{けさ}]置かせてもらいましたけど」

「[何故{なぜ}]ここに……」

「部屋の外に出る前に[身{み}][嗜{だしな}]みを確認するのは、人として当然のことです。それに、出かける前に自分の顔を見ると、良い気持ちで出かけられるでしょう?」

 それはきっと貴方だけではないでしょうか、と言いたいが、もちろんそんなこと言える筈もなく。シャオヤは、言葉を飲み込んでため息をついた。

「おやシャオヤさん、お疲れの様ですね。ささ、僕が書庫に行っている間はお茶でも飲んで、ゆっくりされてください」

 自分のことでため息をつかれているとは、思ってもいないのだろう。雪は、勝手知ったる他人の部屋、とばかりに台所に向かうと、あっという間に、良い香りのするお茶を[淹{い}]れて持ってきた。

 まるで、部屋の主人のように振る舞う雪に[促{うなが}]されるがまま、シャオヤは席に着く。と、いつもガタついていた椅子の座りが、すこぶる良くなっていることに気が付いた。

「あれ、椅子が……」

「ああ、僕の好きにして良いと言ってくださいましたので、暮らしやすいように手を加えさせていただきました。脚の高さが[不{ふ}][揃{ぞろ}]いでしたので、調整しています」

 なんとまぁ、道理で先日「工具を貸して欲しい」などと言ってきた筈だ。まさかこんなことに使っているとは思いもしなかったが。

 ついでに言えば、今雪が着ている、ヒラヒラのレースが付いたとんでもなく派手な服も、シャオヤの要らない服(式典などで着る、派手すぎる服だ。シャオヤは式典でもなければそんな服は絶対に着たくない)を、サラサラッと雪が自分の好きなように仕立て直してしまったものだ。それがまた、とても似合っているのがある意味凄い。

「あのぅ、椅子でも服でも、必要なら言ってくださいね。準備しますので」

「『物を大切にしろ』というのは、僕の育ての親である祖母の教えでして。必要な時はお願いしますのでお気遣いなく。……それに、このレース! 僕に似合っているでしょう? ああ、フリルやレースが似合う成人男性がこの世にどれだけいると思いますか? いえ、似合うという程度であれば[数{あま}][多{た}]幾多いるかもしれません……が、一番を決めろと言われれば、きっと誰しもが僕を選ばずにはいられないでしょうっ! このっ、僕をっ! ふふふふふふ……はーっはっはっ!」

 雪は、その金糸のように美しい髪を、ふぁさっとかき上げる。高笑いを除けば、まるで一枚の絵の様な美しさではあるが、シャオヤは[敢{あ}]えてそちらは見ずに「はいはい」とだけ答えて、お茶の香りと味だけを楽しむことに専念した。

 本当に、ここ数日で雪のあしらい方が上手くなったものだと、シャオヤは自分で自分に感心した。

 

「では、僕はそろそろ書庫に向かいます」

 ひと通り話してスッキリしたのだろう。晴れ晴れとした顔で雪がシャオヤに礼を取る。

「あぁ、申し訳ありませんが、本の返却お願いします。それにしても、セツ様がこんなに本を読まれるとは思いませんでした」

 正直に感嘆の声を上げるシャオヤに、雪は額に指を当てて「おやおや」といった風に首を振る。

「元々僕は本に触れるのが好きなのです。それに僕は全くこの国について知りませんからね。言語にせよ、国のことにせよ、まずは本から学ばなければ。それはもう、毎日でも!」

 知らないことを学びたいと思うのは、僕としては当たり前のことです。と高笑いする雪を、シャオヤはやはり、「意外だ」という面持ちで眺める。雪は自分の容姿にしか興味がないかと思っていた。しかし実際に彼は、言葉通り毎日書庫に通い、本をたくさん読み、一生懸命に勉強している。ちなみに部屋の改造(本人[曰{いわ}]く暮らしやすくしている)にも余念がない。

 本を読んだり会話をしたりするのに困らないように、文字や言葉の変換魔法はかけている。雪もそれをわかっている筈だが、彼は、自ら文字の勉強や語学の勉強を始めてしまった。さらに、ランホァンの国の成り立ちや歴史を学んで、わからないところは素直にシャオヤに聞いてくる。

 最近は魔法に興味を覚えたらしく、それについて[頻{しき}]りに問うてきていた。シャオヤにとって雪は少々(ではない。かなり)やかましい存在ではあるが、勉強熱心な弟子ができたようで、少し[面{おも}][映{は}]ゆいような、なんとも言えない温い気持ちも心のどこかにある。

 その強烈な性格はさておき、雪は[真面目{まじめ}]で、勤勉で、礼儀正しかった。

「誰かの力を借りてではなく、自分の言葉で話をして、自分の力で読み書きをする! 知識は魅力的な人間を作り上げるエッセンス! ああ、向上心のある僕……素敵だ!」

 いや、さておけない。この性格はさておけないぞ、とシャオヤは痛む頭を押さえてよろめく。

 結局、部屋の入り口に(強制的に)設置された大きな姿見の前で、何度も何度も、自分が一番綺麗に見える姿勢を研究してから、ようやく雪は部屋を出ていった。「本当に、これで性格がまともだったらなぁ……」と、非常に残念な気持ちを心の内に秘めながら、シャオヤは雪を見送った。

 

 雪は城の廊下を歩きながら、窓枠に手を掛け、外を見やる。

 この世界に来た夜は、単純に「城」だと思ったが、明るくなってから改めて外を見た雪は、考えを改めた。雪がいる場所は城というより、塔、と言った方がしっくりとくる形をしていたのだ。

 地上は遥か下の方にあり、肉眼では何がどうなっているのかよくは見えない。上についても、どんなに窓にへばりついて見上げても、塔の天辺までは見えない。一体何階建てなのか、現在地点からはおよそ見当もつかないのだ。いっそのこと、一度外から城を見てみたいが、外に出る方法がまずわからない。試しに下に下にと下りてみたことはあるが、結局数時間かけても一階に[辿{たど}]り着くことはできなかった。

 この、日本にいた頃には見たこともないようなスケールの城は、ランホァンの都に建つ城、その名も「[竜{りゅう}][天{てん}][城{じょう}]」と言うらしい。なんだか[浦島{うらしま}][太{た}][郎{ろう}]が訪れていそうな名前の城だな、とその名を初めて聞いた時、雪は思った。

 

 ここは「ランホァン」という国だという。

 成体となった皇族は竜に変身できて、さらにその竜が皇帝となって国を治めているという、雪からしてみればファンタジー小説の中のような世界だ。ランホァンは竜を皇帝とし、竜を神と同様に信仰している。

 つまり、皇帝は人でありながら、ほとんど神に近い存在として、国中から敬愛されているのだ。

 国の成り立ちが書かれた歴史書によると、『ある時二匹の番の竜が何もない空間に川を作った』というところから、この国の創造は始まる。その後は、『川の流れを緩やかにする為に土を作り、土をより強固にする為に土中に金を作り、川の水を使って木を作り、木を燃やす為に火を作った。そして、五日五晩かけ、国が創り上げられた。その後二匹の竜が子を成し、それがランホァン王家の始祖となった』と、続くのだが、つまり、国を創造した竜の末裔が王家の人間であり竜、ということらしい。

 そんな国の現皇太子こそ、雪をこの国に招喚させた、雪の『運命の番』、リーホァン(百五十歳)だ。

 そして、そのランホァンの国の成り立ちの流れから、いわゆる「水、土、金、木、火」の五要素思想という自然哲学に基づく思想が生まれ、それらが、現在使われている魔法の起源になっていると言われている。

 そう、ランホァンは魔法が盛んなのだ。

 国民の誰もが大なり小なり魔力を有しており、国が運営する魔法学校もあるというのだから驚きだ。雪はそれを聞いた時、思わず胸をときめかせてしまった。魔法のない世界からやってきた雪にとって、「魔法」というのはそれこそ物語の中だけの話だったからだ。それが現実に、当たり前に使われていると聞いて、さすがに興味を[惹{ひ}]かれない訳がない。

 ちなみに、いかにも魔法使いという格好をしていたシャオヤは、やはり「魔法使い」であった。いや、正確には「魔法使い」ではない。ランホァンでは、魔法を使うことを[生業{なりわい}]としている者を「魔法師」と呼ぶらしい。その、魔法師であるシャオヤの魔法で、雪はこの国に招喚されたのだという。

 

 この国の魔法には、五要素に[則{のっと}]った属性というものが存在する。魔力を持つ者は全て、五要素のうちのどれかひとつの属性を持っており、それが自身の魔法の基礎になるのだ。それに基づき、得意な魔法、不得意な魔法、と差が出てくるらしい。例えば、雪を招喚する儀式を行ったシャオヤの属性は、「木」。命を[育{はぐく}]むものの象徴である木の属性を持つ者は、人体に関わる魔法が得意だという。

 雪を招喚した魔法は、異世界にある雪の肉体を一度分解して魂を捕縛した上で、別の世界に持ち帰り、構築し直した肉体に魂を定着させる。といったことが行われていたらしい。運命の番を見つける為に、リーホァンの血を使ったり、探知の魔法を使ったり、その他[諸々{もろもろ}]複雑な魔法も重ねて使われていたようだが、基本は「木」属性の魔法師のみが扱える魔法であるということだった。

 リーホァンも魔法を使えるらしいのだが、彼の属性は水と火、物を生み出す能力に[長{た}]けた水と、攻撃能力に長けた火。これでは招喚魔法は使えない為、招喚自体はシャオヤに依頼したのだという。通常は一人につきひとつしか持てない属性であるが、リーホァンは水と火という五要素のうち二つの属性を同時に持っている。これは非常に[稀{まれ}]ではあるが、これまでに例がなかった訳ではないらしい。特に皇族は、生まれ持った魔力が強い者が多く、二つの属性を持つことも全くないという訳ではないという。

 それよりも珍しいのは、五要素のうち、「土」の属性を持つ者らしい。珍しいというよりも、ここ千年は現れてさえおらず、それによりランホァンにあまり良くない影響が出ているらしいのだが、それについてはまだ雪も勉強中である。

 つらつらと考え事をしているうちに書庫に着いた。シャオヤに頼まれた本の返却を済ませて、目に付いた本棚の本を手に取り、ぱらぱらとめくってみる。雪は、本の合間に描かれた二匹の竜を見て、ぴたりと手を止めた。そこにいるのは白と黒の大きな竜。ランホァン創造の二匹の竜。そして『運命の番』である彼らだ。

 雪はゆっくりと本をめくりながら、シャオヤの話を思い出した。

 

 

    

 

 

「幼体から、成体へ?」

「えぇ。皇族は竜の血を持っている為、通常の人間より寿命が長く、人間の平均寿命の約七倍から八倍はあります。その内産まれてから百年程を幼体で過ごし、心身の成熟と共に成体へと変態されます。それに伴って、竜に変身することが可能になるのです」

 招喚された日。リーホァンのいなくなった後、シャオヤの自室に場所を移してから、雪とシャオヤは向かい合って話しをしていた。

 雪は、シャオヤが淹れてくれたお茶をありがたく[啜{すす}]りながら、首を捻った。

「ん? しかし少年……ではなかった、皇太子殿下は百五十歳で、幼体と言われていたような……」

「……はい、その通りです。今回の招喚も、その件に起因します」

 

 シャオヤは雪に、この国と、そして、リーホァンについて、簡単に説明してくれた。それから、何故雪が招喚されたのかも……。

「百歳を五十年過ぎても、リーホァン様は変態されません。実はこのような例は今までなく、他の皇族も、竜の生態について研究している学者も、頭を抱えているというのが現状です」

「ふむ」

「そして何より一番このことにお心を痛められているのは、リーホァン様です。リーホァン様は生まれつき魔力も大きく、性格も知勇兼備で謹厳実直で申し分なし。そして何事にもおかれましても優秀でいらっしゃいましたので、きっと素晴らしい皇帝になられるだろうと、周囲の期待も大きかったのですが……」

「なんと……まるで僕だっ!」

 黙って聞いていた雪がハッとした様子で顔を上げる。シャオヤは、とりあえずその発言は無視することにした。それを聞き返したら、絶対に話が横道に[逸{そ}]れる気がしたのだ。

「しかし何歳になられても、どうしても変態なさらない」

 

『きっと立派な竜になられるに違いない』

『一体何色の竜になられるのかしら』

『素晴らしい皇帝が誕生されるぞ』

『ランホァンは向こう何百年も[安泰{あんたい}]だ』

 

 周囲のそんな声は、いつまでも変態しないリーホァンに対し、いつしか暗く重たい失望混じりのものに変わっていった。

「期待が大きかったぶん、その反動で失望も大きく……、一時はその出自すら怪しまれていました」

 

『いつになったら変態されるんだ……』

『変態する力がないのではないか?』

『本当に皇族の血を引いているのか』

 

 口さがない人々の言葉に対し、勝手に期待して勝手に失望するな、とは言えない。この国は、皇帝が竜であることこそが安泰の[証{あかし}]なのだ。

 創世の頃より脈々と受け継がれてきた始祖の血。皇帝が竜になる、それこそがランホァンがランホァンであることの証明。竜になれないのであれば皇帝としての価値はない、とさえ国民は思っている。そう、リーホァン本人でさえ。

「……」

 何か思うところがあるのか、雪も[顎{あご}]に手を当てたまま黙って話を聞いている。

「リーホァン様も、ただただ無為に日々を過ごされた訳ではありません。成体になる為に、八方手を[尽{つ}]くされていました。……そして、『運命の番』を探されることにしたのです」

「うん?」

 何故そこに[繫{つな}]がるのかよくわからなかったので、雪が疑問の声を上げる。

「何故そこで『運命の番』が? いや、そもそも『運命の番』とはなんなのですか?」

 雪の疑問はもっともなので、シャオヤはまず、この国の成り立ちについてザッと説明した。二匹の竜が五日五晩かけて創り上げたこの世界のことを。

 

「……つまり、その創造の二匹の竜になぞらえた『運命の番』という魂の結びつきを[謳{うた}]う伝説が、ランホァン皇族には、[未{いま}]だに語り継がれているのです」

 創造の二匹の竜は番である。二匹だからこそ、ランホァンは生まれた。その竜達の子孫であるランホァン皇族にも、その竜達同様、陰と陽のように相対する『運命の番』が存在する、という言い伝えがあるのだ。

「伝説とは言っても、実際に『運命の番』に出会った皇族は少なくありません。探さずとも[自{おの}]ずと出会えた方、数年に渡り探し続けてやっと巡り合えた方、婚姻の相手に選んだ者が『運命の番』だった方、様々ではあるらしいのですが……」

「なるほど。しかし、何を以て『運命の番』だとわかるのですか?」

「魂、と言ったら変ですが、ほぼそれに近いものです。詳しくはおいおい説明しますが……、まず、人はそれぞれ体の中に五要素の属性を持っています」

 五要素とは[即{すなわ}]ち「水、土、金、木、火」のことである。ランホァンでは国民皆が大なり小なり必ず魔力を持っている、魔力の基礎となる五要素。魔法として体現できる属性は主にひとつ(リーホァンの場合などは二つ)なのだが、他の属性を全く持っていない訳ではない。五要素すべての属性で人はできており、その内の主となる属性が魔力として体現化しているに過ぎないのだ。

 例えばシャオヤは「木」属性だが、体の中には他の属性もあるにはある。数値で表すと、仮に十を最高値だとした場合「木」については九以上の属性値を有しているが、それ以外は五や六といった少し低い属性値しか有していないのだ。それ故に魔法として使えるのは「木」のみ、となっている。

「体内に、いえ、魂に刻まれた属性値の割合が、陰陽のようにぴったりと当てはまる相手。それこそが、『運命の番』なのです」

「なる、ほど……。いえ、ちょっと待ってください。僕はまだちゃんと理解していない! 紙と鉛筆をください! きちんと理解しなければっ!」

 自分が理解できていないことが[悔{くや}]しいとばかりに、雪が[嘆{なげ}]く。さらっと聞いてくれて構わないのだが、とシャオヤは思いつつも、書く物を取り出して渡した。

 雪はさらさらと人の形を書き、続けてその横に「水、土、金、木、火」と書く。

 雪を招喚した際に、言葉と文字の変換魔法を[施{ほどこ}]してあるので、雪が書いた文字はきちんとランホァンの人にも読めるし、ランホァンの人間が書いた文字も、雪は読めるようになっている。

「この五要素は、個人によって割合が異なるのですね」

「その通りです」

「で、例えば全ての数値が五の人がいれば、同じく、全てが五の人とぴたりと当てはまる、と」

「簡単に言えばその通りです。その五要素の中でも相対する要素同士というものがありますし、割合というのはとても複雑で、実際は簡単に数値化できるものではありませんが。……とにかく、そうやって相対するそれぞれが、補うような形でひとつになる。皇族の場合、そんな相手が、この世の中にたった一人だけいると言われているのです」

 雪の書いた人の形の横に、シャオヤが人の形を逆さまに書き込み、二つの人型をイコールで結ぶ。補い合い、やっとひとつの完璧な形をとることができる二人。

「それこそが、『運命の番』なのです」

「……ほほぅ」

 雪がうんうんと頷いているのを見て、シャオヤが、ほっと[安{あん}][堵{ど}]の息をつく。

「リーホァン様の『運命の番』は、この世界のどこを探しても見つかりませんでした。過去の文献を調べ上げたところ、何代も前の皇帝の時代に、一度だけ、異世界から『運命の番』が現れたと書かれていました。……そこで、一か八か異世界まで探索の網を広げたところ、セツ様が引っかかったのです」

「なんとっ!」

 網に引っかかる、という言葉に、なんとなく漁師の投げた投網にかかる魚を思い浮かべてしまった雪は、ふるふると首を振った。[絵{え}][面{づら}]が、あまり美しくないからだ。

 若干青ざめて首を振る雪をどう思ったのか、シャオヤが[慌{あわ}]てて謝る。

「すみません。セツ様からしたら突然の招喚で驚かれてしまいましたよね。しかし……」

「しかし?」

「皇族が『運命の番』を得る時期は、何故か皆揃って百歳前後……、つまり成体となる時期でして。リーホァン様は、『運命の番』にこそ成体となる手掛かりがあるかもしれない、と、必死に探していらしたのです」

「ははぁ、そういうことだったのですね」

 事情はわかった。つまり、全てはリーホァンが成体となる為に行ったということだ。

 しかし、出会っても、顔を合わせても、会話をしても、リーホァンが成体になる[兆{きざ}]しはなかった。

 出会いさえすれば成体になれると、[藁{わら}]にもすがる思いで、異世界まで手を伸ばして『運命の番』を探したリーホァンの絶望は深かった。だからこそ、雪に冷たく当たってしまったのだろう。

 シャオヤは、はぁ、と大きなため息をつく。

 いきなり招喚しておきながら、放り出すような形になってしまって、雪に申し訳ないという気持ちももちろんある。ただ、成体になれないことを苦悩し続けるリーホァンの気持ちも知っていたので、シャオヤは単純にリーホァンの態度を責めることもできなかったのだ。

「ふむ、なるほど」

 [俯{うつむ}]くシャオヤに構わず、雪は一人で頻りに頷いている。何をどう納得したのかわからないが、満足気に、口端を持ち上げて美しく[微笑{ほほえ}]んだ。その顔を見て、シャオヤの胸に、なんともいえない嫌な予感が走る。

「つまり、皇太子殿下が成体になることができれば良いのですね!」

「ええ、あ、いや、それはそうなのですが、かれこれもう何十年もそれができなくて……」

「何を弱気なことを! 十年だめなら二十年、何百年かけても良いではないですか! ふっふっふっ、しかしそんなに時間はかかりませんよ! 何故ならば、『運命の番』である、この僕がっ、協力するのですから!」

「この僕が」と、異様に自身を強調する雪に、シャオヤは頬を引きつらせる。嫌な予感は当たってしまった。何がなんだかよくわからないが、この青年のやる気に燃料が投下されてしまったらしい。

 いや、その気持ちはありがたいのだ。ありがたいのだが、先程リーホァンは、「次の二つ満月の日に、元の世界に帰す」とはっきり言っていた。次の二つ満月の日とはつまり、ランホァンの夜空に浮かぶ二つの月が両方満月となる日だ。

 月の満ち欠けに、魔力は大いに左右される。二つの月が満ちる日は、魔力が最大限に高まる日でもあるのだ。今回の招喚も、二つ満月の夜だからこそ成功したともいえる。

 次の二つ満月は約百日後。それまでに、リーホァンは雪にもう一度会うだろうか。いや、会いはするかもしれない。『運命の番』に、成体になる為の力が、まだ隠されているとするならば。

「……さて。その前にまずはこの国についてよく知り、竜の生態についても調べなければいけませんね。あぁ、やることはたくさんありそうです。……はっ! いや、ちょっと待て!」

 やる気に満ち満ちた顔をしていた雪が急に、サーーっと青ざめる。その急激な変化に、何かあったのかとシャオヤが慌てる。

「あ、あの? どうかされましたか?」

「今は、夜ですよね……?」

「え、あ、はい」

 ちらりと目をやった窓の外は、もちろん[真{ま}]っ[暗闇{くらやみ}]だ。空には二つ満月が輝いている。

 雪はわなわなと震えながら、自分の両頬を両手で挟み込んだ。

「時差がっ!」

「はっ?」

 思いもよらぬ言葉に、シャオヤは首を傾げる。しかし、それには見向きもせず、雪は勢いよく椅子から立ち上がった。

「僕のいた世界では、今から朝だったのです! しかしこちらは夜っ! ああっ、僕の体内時計が狂ってしまう! 生活時間の乱れは体と心の乱れ! 肌にも良くないっ、良くないのですっ!」

 ああっ、と今度は両手に顔をうずめる雪を、シャオヤは、ぽかんと口を開いて眺めるしかない。時差とは、体内時計とは、一体なんなのだろう。

「仕方ない、こちらの生活に合わせるのが第一ですね。シャオヤさんすみません、僕はもう就寝させていただきたいのですが。ああその前に、洗顔と歯磨きをさせてください」

「あっ、えっと、はい。洗面所はあちらです。寝室は奥にありますから、そちらを使ってください」

「ああ、ありがとうございます。それではおやすみなさい。お話を聞かせていただきまして、ありがとうございました」

「あ……はい、おやすみなさい?」

 あまりにも唐突に話を締めくくり、優雅に頭を下げてから部屋に引っ込もうとする雪に[呆{あっ}][気{け}]にとられながらも、シャオヤは雪につられて頭を下げる。

「では、明日からまたよろしくお願いします」

 下げていた頭を持ち上げ、にっこりと微笑んで身を[翻{ひるがえ}]す雪。くるりと反転させた体にほんの少しだけ遅れて、ふんわりと金髪がたなびく。普通はそんな誤差程度の髪の動きなど、肉眼で[捉{とら}]えられる筈がない。しかし、雪の周りだけ、まるでコマ送りでゆっくりと時間が流れているように、その光景は目に焼き付いた。

 この『運命の番』は、とんでもなく自己愛が強く、はっきり言って、今まで会ったことがないような変わった性格の人物ではあるが、やはり間違いなく見目は最高に麗しい。シャオヤは思わず[見惚{みほ}]れてしまった自分に気付く。

 [眼{がん}][裏{り}]にこびりついてしまった金髪を逃がすように数回[瞬{まばた}]きをしていると、洗面所へ向かっていた雪が振り返った。

「あの、やっぱり二晩続けて同じ服で寝るというのは抵抗があるので、何か寝巻きを貸していただけませんか。絹が良いなんて[贅沢{ぜいたく}]は言いません。ああ、いや、本当のところ僕の肌には絹が一番相性が良いのですが、今は部屋すら間借りさせていただかなければならない身。何が出てきても受け入れますので」

 シャオヤの眼裏から、一瞬で麗しの金髪は消え果てた。見た目がどんなに美しくとも、彼の中身はこれだ。

 シャオヤは苦笑しながら、まだ使ったことがないまま仕舞ってある寝巻きを取りに、衣装棚に向かった。彼のご所望である絹の物が一着だけあった筈だ。それを教えれば、彼はまた、その顔をまるで女神のように美しくほころばせるだろう。

 

 

   

 

 

 雪とシャオヤが同居し始めて、数日経った。

 朝、シャオヤが目覚めると、雪が台所に立っていた。立っている、のだが、どうにもその姿勢がおかしい。おかしいと感じるのは、シャオヤと雪が、違う世界の人間だからなのだろうか。

「……セツ様、おはようございます」

「ああ、シャオヤさんおはようございます」

 雪は、足先を外に向けて開いて立ち、体を前に倒して、右手と左手を上と下にそれぞれ向けていた。これは、異世界で台所に立つ時の、正しい姿勢なのだろうか。

「セツ様……あの、その、……何をされているんですか?」

「ん? いつも通り朝食を作っています。一日の始まりは朝食にあり、ですからね」

「朝食を作る時はそういった姿勢を取るのが、セツ様の世界では当たり前だったのでしょうか……?」

「いいえ。これは豆を煮込んでいる間に手持ち[無沙汰{ぶさた}]だったので、体を動かしていただけです」

 なるほど、やはり雪独特の立ち方らしい。もし、「台所では皆が当たり前にする姿勢ですよ」なんて言われていたら、シャオヤは、異世界にとんでもない偏見を持ってしまうところだった。

 ホッと息をつきながら椅子に腰掛けると、目の前の机の上にビラっと[小{こ}][洒{じゃ}][落{れ}]た布が敷かれ(布を買った覚えはないが、[柄{がら}]には見覚えがある。おそらく雪が、シャオヤの[要{い}]らない服か何かで作ったのだろう)、その上にどんどん皿が並んでいく。ずらずらと並べられた料理をひとつずつ眺めているうちに、雪も向かいの席にストンと座った。

 雪は毎日、朝昼晩と欠かさず台所に立って料理を作る。

「はぁ、相変わらず凄いですね。朝からこんなに作れるなんて、感心します」

「はーっはっはっ! お[褒{ほ}]めいただきありがとうございます。朝食は大事ですからね。脳に栄養を与え、体を目覚めさせることで、短時間で作業効率の良い体の状態を作れます」

 この食材はああでこうで、こちらの料理方法はどうで、この飲み物を飲むことでああなって、と雪はぺらぺらと話し続けている。シャオヤはそれに、「はい」「なるほど」「おお」と形だけ頷いて返しながら、朝食を味わった。

 雪は、この数日間で、ランホァンの食材について調べ、それぞれの栄養や[相応{ふさわ}]しい調理法などを勉強したらしい。おそらく異世界とは違う食材ばかりだろうに、見た目だけではなくて、味も[美味{おい}]しく調理されているのだから、大したものだ。

 しかも雪は、魔法が使えないので、家事などは全て手作業で行う。シャオヤからしたら、家事で魔法を使わないなど考えられない。

 そういえば、最初に仕立て直された服を見た時は、「セツ様は魔法が使えたのですか?」と勘違いして聞いてしまった。魔法を使わずに物を一から作るなど、シャオヤからしたら考えられなかったからだ。

 魔法といえば、とシャオヤははたと顔を上げた。

「セツ様、昨日[仰{おっしゃ}]られていた件なのですが」

「はい?」

 まだ料理についてのウンチクを喋り続けていた雪が、シャオヤの言葉に首を傾げる。

「セツ様にも魔力があるのではないかという件です」

「ああ、はい。……で、どうでしょうか?」

 昨日、書庫から帰ってきた雪がシャオヤに聞いてきたのだ。自分はこの国の人間ではないが、リーホァンの『運命の番』であるということは、五要素を持っているという証ではないか、と。

 確かに、魔力の元である五要素が丸切り「無」であれば、そもそも『運命の番』たり得ない。五要素を持っているということは、魔力を持っていることと同様なのではないか。と、いうのが雪の仮説だ。

 雪の言葉に、シャオヤはこくりと頷いた。

「確かにセツ様の仰られる通りだと思います。セツ様さえよろしければ、魔力の判定と属性の特定を行ってみたいのですが、いかがでしょうか?」

「おおっ、是非お願いします! ……ふふっ、僕に魔力が! ふふふふふっ! ふーーっふっふっ!」

 雪はえらく嬉しそうにしている。なんでも、雪のいる世界には「魔法」が存在しなかったらしく、魔法に対して憧れがあるのだという。

 シャオヤからしてみれば、魔法なしでどうやって人々は生活しているのだろうと、不思議で仕方がない。

「セツ様の属性はなんですかねぇ」

「やはり格好良いのは火か水、ですかね? ……いや待て、金……、金というのも良いですね!金、金……ああ、響きから何から、美しい僕に相応しいではないですか!」

 頬に手を当て、ほくほくと嬉しそうにしている雪を見て、シャオヤも微笑ましい気持ちになる。

 ランホァンでは、物心がついてから、魔力判定と属性特定の儀式を受ける。それによって魔力が多いと診断された者は「魔法師」を目指す資格を得て、魔法学校への推薦状が[貰{もら}]えるのだ。今の雪は、まるでその診断を受ける前の子どものようだな、とシャオヤは微笑んだ。

 雪は、まさか自分が幼児と同じ程度に見られているとも知らず、魔法を出すポーズや魔法を発動させる時に発する技名などを考えていた。診断前の子ども達も全く同じことをしてたなぁ、とシャオヤは思ったが、賢明にもそれを口に出すことはなかった。

 

 午前中はシャオヤも仕事が忙しいとのことで、魔力の測定などは夕方から行うことになった。それまで時間の空いた雪は、ある場所に行くことにした。

 

 どんなに城の階下を目指しても一向に地上に着かないことをシャオヤに相談したところ、彼に呆れられてしまった。この城はそもそも足で行き来するようには造られていないというのだ。ではどうするか……。そこで登場するのが、「魔法」である。

 塔のように見えるこの城の中心部は吹き抜けの空洞になっており、そこを一人乗りの箱のような乗り物に乗って上下に移動するのだ(ようはエレベーターだな、と雪は理解した)。その原動力は魔力であり、箱に設置された部品に手を[翳{かざ}]し、魔力を送り込めば動くのだという。まだ魔力を持っているか不明(持っていたとしても、魔力の使い方がまだわからない)である雪は、シャオヤに「魔石」という物を貰った。魔石には、魔力が込められており、自分の魔力では足りない魔法などを発動させたい時などに、魔力増幅の為に使う。それを使用することで、自身の魔力なしでも、箱(エレベーター)も動かせるようになるのだ。

 この世界に招喚されて早数日。雪はようやく、城の中を際限なく行き来できるようになったのである。

 

 自由に城を動き回ることができるようになったら、一番に行ってみたい場所、見てみたいものがあった。

 それは、この国の原点である「リゥホァン川」だ。この川こそ、創世の竜達が初めてこの世界に創ったと言い伝えられている場所である。リゥホァン川は、この世界の全ての人、特に皇族にとって、とても特別な川だ。

 城の裏手の方にそびえ立つ山から流れ出づるリゥホァン川の源流は、実のところ、未だ見つかっていないという。どんなに川を辿っても、その源にまでは辿り着けないというのだ。にわかには信じがたい話ではあるが、事実何千年もの間、源流は見つかっていない。おそらく「神」によって意図的に隠されているのだろうと言われており、ランホァンの人々も「ないものはない」と、あるがままを受け入れているという。

 その、リゥホァン川は、城の敷地内も流れている。城の裏庭の方から見に行くことができる、とシャオヤに教えてもらった。

 箱で一階まで移動すると、今までの苦労が[噓{うそ}]のように、あっさりと城の外へ出ることができた。そのことに感動しながらも、雪は一路リゥホァン川を目指す。ぐるりと城の周囲を歩き、綺麗に整備された城の裏手の庭に出て、綺麗に並んだ石畳を抜けると、足元が[玉{たま}][砂{じゃ}][利{り}]敷きに変わる。そしてそこからは、広々とした開けた広場になっている。広場に足を[踏{ふ}]み[入{い}]れた雪は、ふい、と空を見上げて耳を澄ませた。

 庭に足を踏み入れた瞬間から耳に入っていた川の音は、さらに大きくなり、川がすぐ近くにあるのがわかる。雪はその音の方へと足を進めた。

 

 川が、どうどうと激しい音を立てて流れている。流れは激しいが、水自体は綺麗なもので、ただただ透き通っている。魚など生き物の姿は、目視では確認することができない。いや、そもそもこの川に生き物は[棲{す}]んでいない。少なくとも、雪が読んだ本にはそう書かれていた。

 この川に生命の[息{い}][吹{ぶき}]を感じられるのは、ある大切な時のみなのだ。

「おや?」

 川を眺めながら、上流の方へ向かって歩いていると、川のほとりに東屋を見つけた。そして、その東屋の中の椅子に腰掛ける人物を……。

「おおーーい!」

 少し離れた場所から声をかけてみたが、全く反応がない。雪はそちらの方へと近付きながら、さらに声をかけた。

「もしもーーし!」

「あのーー!」

「どうもーー!」

 しかし、いくら声を張り上げても、全く反応がない。きっと川の音にかき消されているのだろう。

 これはもう直接目の前に行くしかない、と足早に歩き、雪は東屋に足を踏み入れた。

「お久しぶりですね、皇太子殿下!」

 椅子に腰掛ける人物の目の前に立って、優雅に頭を下げる。そう、東屋にいた人物とは、雪を招喚した人であり、雪の『運命の番』である、リーホァンだった。

 リーホァンは、[背{そむ}]けていた顔を雪の方に向け、さも今その存在に気が付いたかのように、目を[瞬{またた}]かせた。

「……あぁ、『運命の番』殿。まさかこんな所でお会いするとは。全く、気が付きませんでした」

 わざとらしく驚いた様な顔をしているが、もちろんリーホァンは雪が近くにいることに気が付いていた。なんなら、この広場に足を踏み入れた時から気が付いていた。しかし話しかけるのも面倒だったので、敢えて見て見ぬ振りをしていたのだ。むしろ、あわよくば自分に気付かずそのまま去っていってくれ、とさえ願っていた。

 しかし雪は、そんなリーホァンの気持ちなどお構いなしで、にこにこと機嫌良さそうに笑いながらやってきた。

「『運命の番』殿は何故こんな所へ? よく地上まで移動できましたね」

「シャオヤさんに魔石をお借りしました。いやぁお陰でようやく外に出ることができました。太陽の光というのは体にとても良いですからね。やはり窓越しではなく定期的に浴びなければいけません。はっ、しかしこの世界の太陽は紫外線などはどうなっているのでしょう? 肌がっ、僕の肌が!」

「太陽の光でどうこうなった者を見たことはありませんが、ご心配であればすぐにでもお部屋に戻られた方が良い。ささ、お早く」

 出口はあちら、と、リーホァンはその華奢な指先で東屋の外を指差す。

「お気遣いありがとうございます。まぁ、この日避け帽も[被{かぶ}]っておりますので、ある程度は大丈夫でしょう」

「……日避け帽とは、その奇怪な被り物ですか?」

 リーホァンは、冷ややかな目で雪を見やる。ふふん、と腰に手を当てふんぞり返る雪は、大きめの帽子を被っていた。例の如く、シャオヤの使わない服などを使って帽子を作ったのだ。日を避ける為に、つばはかなり広く、レースの日避けカーテンまで付いている。リーホァンから見れば、はっきり言って、ただの不審者だ。

「ええそうです! 皇太子殿下も白い肌をされていますし、日焼けが心配でしょう。どうですか? お作りいたしましょ……」

「結構です」

 話の途中だったが、リーホァンは雪の提案をバッサリと切って捨てる。何が楽しくて変人の[真似{まね}][事{ごと}]をしなければならないのだ、とリーホァンは内心で[苛{いら}][立{だ}]ちの炎をちりちりと燃やした。

「そうですか。……ああ、何故ここへ来たかとの問いにお答えしてませんでしたね」

 一瞬、しゅんと肩をすくめた後、雪がポンと手を打った。

「あ、ええ」

 正直、何をしに来たところでどうでも良かったが、リーホァンはとりあえず頷いた。どうせ暇つぶしに、ブラブラと[彷徨{さまよ}]っていただけだろう。シャオヤも何故この暇人に魔石などを与えたのか、とリーホァンはため息をつきたくなった。

「この国のはじまりの場所を見てみたかったのです。そして、あなた方皇族がお生まれになられた場所である、ここを」

「…………何故それを?」

 リーホァンは、金色の目をキラリと[剣呑{けんのん}]に光らせて、雪を見る。一気に笑顔の消えた顔は、美しい造りと相まって、冷たく[尖{とが}]った透明な[刃{やいば}]のような雰囲気を[醸{かも}]し[出{だ}]していた。

 つり目がちの[眦{まなじり}]をさらにキュッと吊り上げるリーホァンに、雪がなんでもないことのように答えた。

「本にそう書いてありましたから。二匹の竜が創造のはじめに創った川こそが、このリゥホァン川であり、皇族は皆等しくこの川から生まれ出づると」

「本? 貴方がこの国の本を読まれたのですか?」

「ええ、この国について知りたかったものですから」

「何故? ただ[理{り}][不{ふ}][尽{じん}]に招喚された国のことをどうして知りたいだなんて思うのです? まさか『運命の番』がいる世界を知りたいから、なんてことを言い出したりしませんよね」

 全く理解できない、とリーホァンが頭を振る。

 半ば呆れたような笑いを零すリーホァンに、しかし雪は動じない。

「それももちろんあります。僕は、『運命の番』である貴方の力になりたいと思っていますからね。しかし、ほとんどは僕自身の為です」

「貴方の、為?」

 意味がよくわからず、戸惑い聞き返すリーホァンに、雪はにっこりと微笑んだ。

「ええ。……僕は、常々最大限に魅力的な人間でいたいと考えています。いつでも最高の僕でありたい」

 奇妙なレース越しでも、その光り輝かんばかりの笑みが薄っすらと見える。間抜けにしか見えないつばの広い変な帽子を被っているのに、雪は恥じることなく堂々と[真{ま}]っ[直{す}]ぐに立って、リーホァンを[見据{みす}]えている。

「自身の魅力を他人に伝えるには、言葉や知識が必要不可欠なのです。知識がなければ、人を惹きつけるだけの中身のある話なんて出てきませんからね。僕は、自分をより魅力的にする為に、常に学び続けていたいのです」

 [臆面{おくめん}]もなく言い切る雪に、リーホァンが少したじろぐ。まさかそんな答えが返ってくるとは思ってもいなかったのだ。

「僕は美しく魅力的な僕が大好きです。そして、自分をずっと好きでいる為に、見た目も中身も磨き続けています。いつだって、絶対に努力は[怠{おこた}]りません」

 きっぱりと言い切る雪に、リーホァンが目を見張る。

 自己愛の強い変人としか思っていなかった『運命の番』。たしかに変人の[気{け}]はあるが、ただそれだけの人間ではないのかもしれない。

 ほんの少し、ほんの少しだけ、リーホァンの雪を見る目が変わった瞬間だった。

 

 リーホァンは、「ふっ」と息を吐いて椅子から立ち上がる。そして、スッと雪に手を差し出した。

「申し遅れました。俺は、リーホァン。このランホァン国の皇太子です。できれば、貴方の名前を教えて欲しいのですが」

 雪はにっこりと微笑んで、リーホァンの手を握り返す。

「僕は嶋雪と申します。良い名前でしょう? ふふふふふふ」

自信満々に顎を反らす雪に、リーホァンは「やっぱり変人だな」と心の中で呟いて、握っていた手をサッと引いた。

 

 

   

 

 

 夕方、仕事終わりに部屋に帰ってきたシャオヤは、ギョッとして[飛{と}]び[退{すさ}]ってしまった。部屋の入り口に設置された鏡に映った自分に驚いたのではない。それについては慣れてしまった(慣れたくはなかったが)。

 驚いたのは、部屋の中に思いもよらない人物がいたからだ。

「リッ、リーホァン様?」

 最近ヒラヒラの布(雪曰く「てぇぶるくろす」)まで敷かれてしまった机に、雪と向き合って座っているのは、ランホァンの皇太子リーホァンその人だった。いつもの彼らしくなく、行儀悪く[片{かたひじ}]肘を突いたまま、うんざりした様な顔をしてお茶を飲んでいる。

「ああ、お邪魔していますよ」

「シャオヤさん、お帰りなさい! お仕事お疲れ様でした。ささ、手を洗われてからお茶でもどうぞ。ほら、茶菓子も作ったのです。どうです? この菓子職人が作ったかの様な素晴らしい見た目は! いえ、素晴らしいのは何も見た目だけではないのです! この味がまた、とても美味しい! 糖質を控えめに作っておりますので多めに食べても大丈夫ですよ! ふふふ、異世界の食材を使ってお菓子作りまで極めてしまう、僕……! ああ、自分の才能が怖い……」

 自らを抱き締めてその場に[膝{ひざ}]をつく雪を、リーホァンは据わった目で冷たく眺めている。

 シャオヤはまずリーホァンに礼をして、いつも通り雪の話を聞き流しながら上着を脱いで手を洗った。

「シャオヤ、よくこの方と毎日一緒に生活できますね」

「慣れですよ、慣れ」

 シャオヤの言葉に、リーホァンはげんなりとした顔を見せる。いつからいたのかはわからないが、どうやら雪の話をしこたま聞かされたようだ。いつも浮かべている鉄壁の微笑みも崩れ去って、ただただげっそりしている。

「感心します。俺はとんでもないものを押し付けてしまっていたんですね」

「いえいえ、性格はアレですけど、良い方ですよ」

「ん? 僕のことですか?」

 リーホァン曰く「とんでもないもの」が、シャオヤとリーホァンの間に、ずいっと顔を突っ込んでくる。

 何故褒め言葉に関してだけは敏感に反応してくるのだろうか、とシャオヤは苦笑する。リーホァンは、シャオヤが帰ってきたことによってお役ご免とばかりに、早々に少し離れた窓辺に置かれた、一人がけの椅子に退避してしまった。よっぽど疲れたのだろう、背もたれに体を預けてぐったりしている。

 気の毒な気持ちでそれを見やってから、シャオヤは雪に向き直った。

「あの、セツ様、何故リーホァン様と?」

「ん? ああ、リゥホァン川のほとりで出会ったのです。そのうちに、今日僕が魔力の判定と属性の特定を行うという話になりまして」

「……一応興味があるから、夕方に部屋に行きます、と言ってしまったんですよ……」

 雪の[溌剌{はつらつ}]とした言葉に続き、窓辺から弱々しい声が上がる。

 シャオヤは驚いた。まさかリーホァンが、もう一度自ら雪に興味を持つとは思わなかったのだ。まぁその興味も、雪の強烈なおもてなしに[萎{しぼ}]みかけているようだが。

「ご公務の方は大丈夫ですか?」

「大事ないです。本日の分は先程全て済ませてきました」

 リーホァンは、頬にかかった髪を耳にかけ直して頷いた。緩くウェーブするその黒髪は細く柔らかい為、耳にかけてもすぐにまたはらりと頬に落ちてくる。

 その様子を見ていた雪が、「ぽん」と手を打った。どうやら、また何か思い付いたらしい。

 嫌な予感にシャオヤはサッと身を引くが、リーホァンはまだ雪をよくわかっていない。雪の行動に「今度はどうされたのですか?」と聞いている。ああ、聞いては駄目です、話しかけては駄目です、と言いたいが言わない。シャオヤは壁に張り付いて、行く末を見守ることにした。

「[御{お}][髪{ぐし}]が[煩{わずら}]わしそうですね。どうぞこちらをお使いください」

 そういうや否や、雪はリーホァンの後ろに回り、どこから取り出したかわからない櫛を、チャッと構えると、リーホァンの緩やかにうねる髪を猛然と整え、シュルッとまとめ上げてしまった。そしてトドメとばかりに繊細な[刺{し}][[繍{しゅう}]の入った[飾{かざ}]り[紐{ひも}]でその髪を結う。

「なっ、何をするので……」

「ああーっ、素晴らしい! いやぁ初めてお会いした時から思っていたのですよ、その黒髪にはきっと赤紫の[葡{ぶ}][萄酒色{どうしゅいろ}]が良く似合うと! 僕の目にやはり狂いはなかった! 良いです、良いですよっ皇太子殿下! ……いや、こんなに似合いの髪型と飾り紐を作り上げてしまう、自分が、怖い……、そして、好き……っ!」

 リーホァンの抗議の声も聞かず、雪はやり遂げて[悦{えつ}]に[入{い}]っている。手を広げて[芝居{しばい}]がかったわなわなを披露している雪の横で、リーホァンが本当にわなわなしていた。多分こちらは怒りのわなわなだろう。

 シャオヤはこれ以上ひどいことになる前にと、二人にわざと大きめの声をかけた。

「えーーっと、じゃあ! 魔力判定と属性特定に行きましょう! ほら! 儀式の間に移動しましょう! さぁさぁ!」

「そうですね! 僕の魔力を調べなければ!」

「……とっとと済ませてしまいましょう」

 シャオヤが必死に[言{い}]い[募{つの}]れば、雪はあっさりと、リーホァンはうんざりと、その言葉に従う[素{そ}][振{ぶ}]りを見せた。ホッとため息をつくシャオヤに、雪が何かにハッと気付いた様子で息を吞み、シャオヤを振り向く。

「……シャオヤさん……っ」

「えっ、は、はい?」

 深刻な顔をする雪に、思わずシャオヤの足が止まる。リーホァンも何事かと雪を見やった。

「……僕のお菓子、まだ食べてくれていませんね?」

「かっ、帰ってからいただきますから、ね、ね? 行きましょう! さぁっ! さぁさぁっ!」

 ゴゥッ、とリーホァンから怒りの炎が噴き上がるのが見えてしまったシャオヤは、敢えてそちらを見ずに雪の背中を押す。雪、その背中を押すシャオヤ、苛立ちを隠さなくなったリーホァンの順番で部屋を出て、すたこらと魔力や属性について調べることができる道具が揃っている儀式の間に向かう。

 道中も[小{こ}][煩{うるさ}]い雪、それにイライラするリーホァン、そしてそれを[諌{いさ}]めるシャオヤとで[一悶{ひともん}][着{ちゃく}]あったが、どうにかこうにか誰も[怪我{けが}]をせず、大きな[喧{けん}][嘩{か}]もせず、辿り着くことができた。

 

「ではセツ様、その水晶に手を翳してください」

 最初に招喚されてきた時の部屋に似た、広くて薄暗い室内。やはり光源は焚かれた炎のみで、[僅{わず}]かな風が炎を、そして三人の影をゆらゆらと揺らす。

 雪は目の前に置かれた水晶を見て、ひとつ息を吸ってそれに手を伸ばす。この水晶に手を翳すと、魔力や属性に合わせて透明な水晶が色付くという。ファンタジーの本や漫画で出てきそうな、いかにもな魔法道具である。

 色というのは、もちろん五要素に相対しているらしい。水なら青、火なら赤、土なら茶、金なら黄、木なら緑。そして、魔力量に応じてその色濃さが変わってくるという。濃ければ濃い程、魔力が高いということだ。

「金色に輝いてしまったら、どうしよう……」

 水晶の手前で手を止めて、ぽつりと雪が呟く。もちろんそれは二人の耳にも入ったが、二人共聞こえなかった振りをした。もうなんでも良いから早く[触{さわ}]って早く終わらせて欲しいのだ。

 腕を組んで、片足でたしたしと床を踏みしめて鳴らすリーホァンの横で、シャオヤが苦笑する。

「何色でも大丈夫ですからね。魔力があることさえわかれば、魔法の習得ができます。もしセツ様に予想通り魔力がありましたら、明日から訓練してみましょうか」

「わかりました」

 雪は、グッと手を握り締めて、改めて水晶に向き合った。

 一体どういう仕組みで、ただの鉱物にしか見えないこの水晶が色付いて光るというのだろうか。雪は不思議でならないが、シャオヤに聞いても、「そういうものです」としか答えてくれない。魔法とは、雪が思っていたよりももっと[曖昧{あいまい}]で、不確かなものらしい。

 スッと目を閉じて、余計なことを考えていた頭を空っぽにする。大きく息を吸って、肺に空気を送り込む。そして、ゆっくりと深く、深く、息を吐く。息と共に、雑念が体から流れ出ていくイメージを頭に描きながら。

 そして目を開き、台座に設置された水晶に手を翳した。

「……んっ」

 不思議な浮遊感に体が[晒{さら}]されて、風もないのに、髪がふわりと浮き上がるのがわかった。乱れる金髪の、まるで重力を無視した動きに少し焦るが、見守る二人は全く動じていない。どうやら、これが当たり前のことらしい。程なくして、水晶が段々とその色を変え始めた。

「金、金……美しい金よ! 出でよ……金!」

 金、金と、小さな声で歌うように祈る雪の目の前で、その透明な球体が、段々と[濁{にご}]り[始{はじ}]めた。

「ん……?」

 どろりと渦を巻くように、濃い土色が水晶を覆っていく。

 透明な水に汚れた泥を落としたかのように、その染みはぐんぐんと一気に広がっていく。そして、あっという間に、水晶は茶色に染まりきってしまった。

「……う、うっ」

 水晶に翳した手をふるふると震えさせて、雪はあまりの衝撃に青ざめる。さらに、それを見守っていたリーホァンとシャオヤもみるみるうちに顔色を変えた。

「美しくないーーっ!」

「……信じられないっ!」

「なんとっ!」

 三者三様の叫び声が重なる。

 雪は、翳していた手を、天に向かって持ち上げて膝を突いた。そんな雪を押しのけるように、リーホァンとシャオヤが駆け寄ってきて、水晶を覗き込む。

「なんてことだ! よりによって、こんな、土色……、土色が僕に相応しいと……? おお神よ……、僕にはもっと美しく輝く色を与えてくださると、信じていたのにっ! 金っ、いや、せめて、せめて赤や青、赤や青を……っ!」

 あんまりだっ、とさらに高く天に向かって手を伸ばす雪を、リーホァンとシャオヤが呆然と見つめる。

「リーホァン様、これは……」

「あぁ、俺も初めて見ました。茶色、しかも、とても濃い。……見てください、手を離しているのにまだ色が消えない」

 水晶はまだ茶色に渦巻いており、なかなか透明に戻らない。これはもちろん、魔力がかなり大きいことを示している。

「まさかセツ様が、土の属性を持つと?」

「にわかには信じがたいですが……、しかし、水晶は噓をつきません」

 リーホァンも、シャオヤも、ひたすらに水晶を眺める。そして、床に突っ伏しておいおいと泣き始めた雪へと視線を送った。

「……」

「……」

 二人して顔を見合わせる。そして、お互いが、同じようになんとも言えない表情であることを、しかと確認し合った。驚きと、呆れと、疑問と、喜びと、戸惑いと……。色々なものが複雑に入り混じった表情だ。

 リーホァン、「はは……」と乾いた笑いを零した。

「シャオヤ。アレが、本当に土の魔法師になれると思いますか?」

 そう。土色の水晶が表す属性はもちろん、「土」。数千年もの間不在だった土の属性を持つ者が、遂に現れたのだ。

「えっと、あの……」

 シャオヤは何も答えることができずに、ただ水晶と雪との間で、視線を彷徨わせた。

 リーホァンとて、明確な言葉を求めていた訳ではない。言葉に詰まるシャオヤを見て、「ふっ」と短く笑い、思案するようにそのほっそりとした顎に手を当てた。

「リーホァン様、これは、どう対処すればよろしいのでしょうか」

「少し、考えさせてください」

 シャオヤの呟きに、リーホァンは首を振る。

 自分が呼び出した『運命の番』であったが、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。

 千年もの間出現しなかった、土の属性を持つ者。それが異世界人であり、自分の『運命の番』が有していたのだと、誰にどう説明して、どうやってことを進めていけば良いのだろうか。

 自分が成体になる件もまだ解決していないのに、その上とんでもない問題まで発生してしまって、リーホァンはこれから先のことを思い、重いため息をついた。

「神よーーっ!」

 まずは、この[鬱陶{うっとう}]しく[泣{な}]き[喚{わめ}]く男に、色々と説明しなければならない。リーホァンは喚く雪を見下ろしながら、さらに重い重いため息をついた。

 

 

   

 

 

 この国の言葉がわからない母は、いつも母国語で幼い雪を[罵{ののし}]る。

「なんでそんな髪の色で産まれたの!? だからあの人は戻ってこないのよっ! こんな家に私を置き去りにしたままっ! 私を迎えにこないのよっ! ……いらない、いらない、いらないっ! あんたなんていらないっ!」

 激しくまくし立てられた雪は、それでも彼女と同じ部屋にいるしかなく、[隅{すみ}]の方で[怯{おび}]えるしかない。

 父が母に与えた家は豪華で、広くて、場所ならいくらでもある筈なのに、雪はこの部屋以外に行くことを許されていないのだ。

「こんな国来なければ良かった! 言葉も通じないっ、料理もまずいっ、不親切な人ばっかり! 誰も私の気持ちなんてわかってくれないのよっ!」

 母は喚きながら、棚の上に飾られた皿や飾り時計を手当たり次第に床に投げ付ける。破裂音のようなけたたましい音が、ますます雪を[萎{い}][縮{しゅく}]させる。ばくばくと、恐ろしさに心臓が激しく脈打ち、雪の呼吸を荒くさせた。

 何も見なくて済むように、雪はただ膝の間に顔をうずめて嵐が過ぎ去るのを待つ。

 飛んできた陶器の破片が、雪の肌に傷をつくり、一筋の血が腕を流れた。何も感じないといえば噓になるが、その傷よりも心の方が余程痛い。

「ああっ、国に帰りたい! 帰して! 私を帰してよ!」

 母は、最後にはその場に座り込んで、しくしくと子どものように泣き出す。まるで自分だけが悲しみの底にいるかのように。そして、そこから[掬{すく}]い[上{あ}]げてくれる人をひたすらに待ち続けるのだ。

 この国の言葉を覚えたら、自分で自分を助けられたら、母みたいにならないで済むだろうか。母みたいに、悲しみに沈まなくても良いのだろうか。雪は、膝に顔を埋めたまま、ぼんやりとそんなことを考えた。

 血が、床に[滴{したた}]り[落{お}]ちる。その血溜まりが乾く頃には、彼女も少し落ち着くだろう。雪はそれまで、じっと膝を抱えて[蹲{うずくま}]っておくことにした。

 

   ***

 

『アーススラーッシュ!』

『サーンドシャワー!』

『ソイル流星拳ーっ!』

 青空の下、雪が何事か叫びながら、[虚{こ}][空{くう}]に手を翳している。シャオヤはそれを見ながら、のんびりとお茶を飲んでいた。そしてふと空を見上げて、雪に声をかける。

「セツ、そろそろ休憩を終わりにしましょう。中に入って授業の続きをしますよ」

 雪はシャオヤに話しかけられて、しばし動きを止める。そして、うんと頷いて口を開いた。

「ぼく、授業、行くます」

 にこりと笑って[拙{つたな}]い言葉で喋る雪に、思わずシャオヤも微笑んでしまう。

「はい、正解です。じゃあ午後の授業と行きましょうか。午後からはいよいよ体の中に溜めた魔力を外に放つ訓練をしますよ」

「?」

「難しかったかな……、えっと、魔力を、体の、外へ、出す、ですよ」

「ああ! 僕、わかる、しました」

 雲ひとつない空のように澄んだ青い目をキラキラと輝かせて、雪が手を挙げる。素直な雪に、「おお、凄いですね」と、シャオヤもパチパチと手を叩いた。

 余計なことを喋らない雪は、ただの勉強熱心で、努力家で、可愛らしい青年でしかない。言葉ひとつで、こんなにも印象は変わるものだろうか、とシャオヤは内心驚きを隠せないでいた。

「ふふふっ」

 笑っている姿は全く変わらないのだけど。と、褒められて嬉しそうに笑う雪を見ながら、シャオヤは先に立ち、庭から城の中へと戻る。

 大きな開き窓をくぐったそこは、雪が魔法を学ぶ為にリーホァンが準備した部屋だ。庭に面したとても開放感のある部屋で、雪もこの部屋を大変気にいっている。

 現在、雪はそこで、シャオヤからマンツーマンの魔法授業を受けていた。

 

 雪が土の属性を持つ者と判明してから、リーホァンは悩んだ。今すぐ公表すべきか、自分の『運命の番』と明かす方が先か、それとも全てをうやむやにして隠すか。どの選択をすべきか、[咄{とっ}][嗟{さ}]には判断が付かなかったのだ。

 元々、雪は次の二つ満月の日に、元の世界に帰す予定だったのだ。しかし、雪が土の属性を持つ者とわかった今、それは最善ではなくなってしまった。

 土の属性を持つ者がいなくなって千余年、五要素の[均衡{きんこう}]の乱れは確実にランホァンに影響を及ぼしていた。特に問題なのが、リゥホァン川だ。

 

 リゥホァン川は、今でこそ流れの激しい川となっているが、元々はそうではなかった。元は、とても穏やかな流れの川だったのだ。しかし、長い長い時間をかけ、リゥホァン川はその姿を変えていった。その原因こそ、土属性魔法師の[枯{こ}][渇{かつ}]だ。

 リゥホァン川を含め、「水」の流れを止めることができる唯一の属性は「土」である。土の属性を持つ魔法師のみが、その流れを制御し、穏やかに戻すことができるのだ。しかし、何故かその属性を持つ魔法師は、年々数を減らしていき、遂にはランホァンからいなくなってしまった。

 リゥホァン川はランホァンの命の源である。二匹の竜が創造のはじめに創った川、そして皇族が生まれ出づる川だ。そう、皇族とは人腹から生まれるのではなく、このリゥホァン川からこそ生まれるのだ。

 婚姻を結んだ皇族の二人が子を生すことを望むと、まずリゥホァン川に共に身を[浸{ひた}]す。そこで川上、つまり源流の方へ向かい祈りを[捧{ささ}]げるのだ。その祈りを、国の創造の際と同様、五日五晩繰り返すと、川の上流より卵が生まれ出で、川の流れに乗って二人の下にやってくる。その卵から生まれるのが、[正{しょう}][真{しん}][正{しょう}][銘{めい}]二人の子。そうやって皇族は脈々と命を繫いできた。

 しかし今のリゥホァン川は、子を成せるような状態ではない。身を浸せるような流れではないし、よしんばそれができたとしても、生まれ出でた卵が激しい流れで岸辺の岩にぶつかり、壊れてしまうのだ。

 流れが早くなってからも、子を生すことを望み、祈りを捧げた皇族はいたが、無事に子が生まれたという報告は一度も上がっていない。最後に生まれたのはリーホァンであり、その後百五十年、皇族の子どもは生まれていないのだ。

 竜の国であるランホァンで、竜の子がいなくなってしまえば、国はなくなってしまう。土の属性を持つ魔法師がいないということは、ランホァンという国の存続に関わる大きな問題だったのだ。

 

 しかし今、念願であった、土の属性を持つ者が現れた。しかも皇太子の『運命の番』だ。それは間違いなくランホァンにとって吉報となる。なるのだろうが、[如何{いかん}]せん、まだ不確定な要素が多すぎる。

 まず、土の属性を持つとはわかったが、異世界人である雪が、魔法を上手く扱えるのかわからない。リゥホァン川の流れを抑えられるだけの魔法が使えなければ、意味がないのだ。下手に「土の属性を持つ者が見つかった」と勇み足で公表しても、その後結局リゥホァン川は穏やかにはならなかった。となれば雪に対する国民の反発は、とんでもないものになるだろう。

『運命の番』としての公表も同様だ。成体になれない皇太子に『運命の番』が現れたとて、皇太子が竜になれなければ意味がない。竜になれる者にこそ『運命の番』は相応しく、なれない者にはその存在さえ無意味と、これまた非難の対象になりかねないのだ。

 

 悩んだ末に、リーホァンは雪に関する全て(土の属性を持つ者であること、またリーホァンの『運命の番』であること)の公表を、少し遅らせることに決めた。魔法教育を優先することにしたのだ。まずは魔法を使えるようになってから、そしてあわよくば、自分が成体になってから全てを公表しよう、と。

 実際のところ、成体になるかどうかについては、雪の『運命の番』としての力はあまり期待していなかった。むしろ『運命の番』の件については、公表しなくても良いとすら考えていた。歴代の皇帝が必ずしも『運命の番』に出会っている訳ではないのだし、わざわざ「異世界人の運命の番、それでいて土の属性を持つ者」なんて、雪の複雑な状況を説明する必要はない。ただの恋仲程度で十分だ。

 

 その前提の上で、リーホァンとシャオヤ、雪で話し合って、雪の生い立ち設定を以下のように決めた。

『雪はシャオヤの遠縁の親戚だが、父が異国の人間で、そちらの国で育った。しかし父と母が続けざまに亡くなり身寄りがなくなったので、母方の親戚であるシャオヤを頼って城を訪ねた。魔法の使われない国で育った為、ランホァンに来て改めて魔力を測定したところ、魔力が多いという結果が出たので、シャオヤの弟子になることにした。そして、城で魔法の修業をしていたところ、リーホァンと偶然出会い[見初{みそ}]められた』

 ちょっと長ったらしいが、ざっとこんな感じだ。

 それに伴い、雪の言語変換魔法を解いた。異国の出身という設定なので、ランホァンの言葉に不自由でも支障がない為だ。いずれにせよ、いつかはランホァンの国の言葉を覚えるつもりだった雪は、快くその設定を受け入れた。

 リーホァンの提案にあっさりと頷く雪を見て、リーホァンとシャオヤは、ちらりと目配せをして頷き合った。これで、少なくとも雪のことを世間に公表する時までは、雪の「自分大好きお喋り」を封印ができるからだ。いつものあの調子で皇帝やその他皇族、各省の長官達に挨拶しようものならそれはもうかなり面倒くさいことになる。というか、単純に、リーホァンの趣味を疑われる。

 なんだかんだと[紆余{うよ}][曲{きょく}][折{せつ}]あったが、とりあえず設定も決まり、魔法の修業を行う大義名分も得て、雪はシャオヤの下で修業に励むことになった。

 

 休憩明けの魔法修業。雪は部屋の真ん中に立って、ひたすら集中力を高めていた。

「セツ、どうですか? できそうですか?」

 シャオヤにとって、雪は年下の親戚という設定なので、名前の呼び方も、様付けから呼び捨てに変更した。最初は抵抗のあったシャオヤだが、慣れてしまえばどうということはない。

「えっと、……たいへんです、たいへん」

 難しいと言いたかったのだろう、雪は自分が話した単語に首を捻りながらも、言葉を[絞{しぼ}]り[出{だ}]す。その手の中では小さな玉が宙に浮かんでいた。

 これは、手のひらから魔力を出し、物を浮かせる練習だ。これを行うことで魔力をひとつの対象のみに向かって放出する、ということを覚えるのだ。

 額に汗を浮かべながら「たいへん」と繰り返す雪を、シャオヤは微笑ましい気持ちで見守る。

 光を織り込んだようにきらきらと輝く金髪、空と海の一番綺麗な色を混ぜ合わせたような澄んだ青い目、降ったばかりの新雪のように白い肌、その中で際立つ[仄{ほの}]かに薄桃色の頬、水を含んだように艶やかな唇、黙ってさえいれば、どこをどう切り取っても美しいのだ。その、顔は。

 そんな雪の美しい顔から、たどたどしい言葉が出てくるのだ。この雪を見ていると、無性に[庇護{ひご}][欲{よく}]が湧いてしまう。雪は、まるで地上のことを全く知らない天からの使いのようなのだ。どうしても、助けてあげなければ、導いてあげなければ、という使命感に[駆{か}]られてしまう。

 シャオヤは雪の中身を知っている為それ程ではないのだが、最近[頻繁{ひんぱん}]に城の中を行き来しだした雪を気にしている人物は、決して少なくない。リーホァンのお手付きだと、あまり知られていない為、一層だ。言葉を封じたせいで、思わぬところで弊害が出てしまった。

 先程も、庭で休憩している雪を、城の窓に鈴なりになって眺めている者達がいた。あまり注目されるのも今後のことを考えると困りものなのだが……。

 何か面倒なことになる前に、早くリーホァンと恋仲であると広まって欲しいものだ、とシャオヤはため息をついた。

 

 

   

 

 

 書庫からシャオヤの部屋に戻る帰り道、城の廊下。雪は、重ねた本を両手に持って、よろよろしていた。

 今日の魔法の修業は午後からである。シャオヤも魔法師としての仕事が忙しいらしく、ずっと雪につきっきりで授業、という訳にはいかないのだ。

 魔法の修業がない間は、今はそのほとんどを、語学の勉強の時間に当てている。言語変換魔法を解かれてから、やはり、とても不便になったからだ。覚悟の上ではあったが、言いたいことの半分も伝わらないのは、やはり辛いものである。そして、勉強するにしても、日本語の辞書がある訳でもないので簡単に翻訳することもできず、中々思うように学習を進められない。

 本なども、難しい単語が交じっているものは読めなくなってしまったので、今はもっぱら幼児向けの絵本を読んでいる。絵本は、当たり前だが必ず絵があり、簡単な単語が多いので、ある意味とても勉強になるのだ。内容も、昔話というか、この国の言い伝えなどが多く、歴史や文化を知るのにも役立っている。雪としては、読んでいてとても楽しい。

 言葉が通じなくて不便は不便なのだが、やはり学ぶことは楽しい。空いた時間はこうやって語学の勉強をするか、魔法の勉強の復習をしている。もちろん日課である運動や散歩も欠かさないし、料理などの家事も行なっている。

 誰かの庇護のもと、食う寝るに困ることなく思い切り勉強ができて、雪はこの生活をとてもありがたいと思っていた。

 とはいえ、あまりにも何も生産しないでただただ面倒を見てもらうのは居心地が悪い。早く魔法を覚えて土の魔法を使いたい、というのが最近の目標だ。

 そして、魔法を使う以外にもうひとつやりたいことといえば、『運命の番』として、リーホァンの変態の手助け、である。そもそも自分は、土の属性を持つ者ではなく、リーホァンの『運命の番』として招喚されたのだ。やはり第一の目的は、リーホァンの成体化への協力であろう。

 

 という訳で、まずそのはじめの一歩として、図書館で皇族について書かれた本をたくさん借りてきた。文字はまだまだ読めないところが多いから、できるだけ図が多いものを選んできたつもりだ。

『今の僕にできるのは、とにかく知ることだなっ』

 気合いを入れる為に日本語で独りごちて、ずり落ちかけていた本を抱え直す。と、バランスを崩して、一番上に乗せていた本が落ちそうになった。

 慌てて体勢を立て直そうとするが追いつかず、一番上のみならず、全ての本が、バラバラと床に落ちそうになる。

「ああっ」

 自分としたことがなんと情けない。本が傷つく前に、と咄嗟に後ろに倒れるように力をかける。こうすれば自分の体が本のクッションになる筈だ。しかし、後ろに倒れかけた体は、何かにふわりと受け止められ、抱えていた本は、何故か急に重さをなくしてしまった。

「大丈夫ですか?」

「あっ、皇太子殿下!」

 助けてくれたのは、リーホァンだった。雪の背中に手を差し出し、もう片手は本の方に向けている。

「本に軽量化の魔法をかけています。ほら、貸してください」

 本は、ふわりと浮いて、リーホァンがどこからか取り出した(おそらく生成したのだろう)[手提{てさ}]げ[紐{ひも}]の付いた袋の中へと収まっていく。かなりの冊数の本が入った筈だが、その袋は、全く膨らむ気配がない。

 その様子を眺めて、雪は感心して頷いた。魔法の勉強を始めてから、いかに魔法を発動するのが難しいかを知ったからだ。簡単に複数の魔法を駆使するリーホァンに、雪は頭を下げる。

「ありがとう、ございます」

「どういたしまして」

 拙い言葉と共に、丁寧に腰を折って礼を述べる雪に、リーホァンもにこりと微笑む。

「部屋までお持ちしますよ」

「ごこ……ごこ……、…おしごと、大丈夫、ですか?」

「ご公務」と言いたかったのだろうか、何度か言い直して、結局単語が出てこず広義で「仕事」と解釈できる単語を丁寧な言い回しで伝えてくる。単語が出てこなかったことが悔しいらしく、少し口を尖らせている雪が面白くて、リーホァンは思わず、くすっと笑ってから頷いた。

「公務、ですね。まだ途中なのですが、貴方の様子を見に来ました。部屋に行ったらいらっしゃらなかったので、書庫で勉強をされているかと思って向かっていたのです」

「……わかります、しました」

 頭の中でリーホァンの言葉を翻訳したのだろう。一拍遅れてから、雪が頷く。

「会いに来てくれる、嬉しいです」

 ふわりと花が風に揺れるように、柔らかく笑う雪にリーホァンは少しどぎまぎとしてしまう。

 常ならば『僕に会いに!? はっはっはっ! そうでしょう、そうでしょう! 僕は会いたくなるだけの魅力に溢れた人間ですからね! ああ、魅力的な僕!』くらい言う筈なのだが、それを言える程まだランホァンの言葉を学んでいないのだ。

 

 雪がぺらぺらと喋らなくなってから、リーホァンは、雪の「行動」をしっかりと見るようになった。恋仲であると周囲に思わせるように、公務の合間を縫って頻繁に会いに来るようにしていた為、しっかりと雪のことを見る時間があったのだ。

 基本的に、雪は無闇に自分を甘やかさず、規則正しい生活を送っている。リーホァンは、雪がだらだらとしているところは見たことがない。しかし、余裕もなくせかせかしているのか、と言われればそうではない。本を読んだり、お茶をしたり、料理をしたり、何をするにもとても楽しそうに過ごしているのだ。

 以前、リゥホァン川のほとりで出会った時に言っていた、雪の「自分の為」という言葉が思い出される。何をするのも自分の為になる、とわかっているからこそ、雪はその全てを楽しめるのだろう。だが、どんなに自分の為だとわかっていたとしても、雪だって人間には変わりないので、面倒なことは面倒だし、やりたくないことだって絶対にある筈なのだ。しかし、そんな素振りを見せるでもなく、何事にも一生懸命に取り組んでいる。

 もしかしたら、それは強い自己愛から来る行動なのかもしれない。しかし、そうだとしても、雪が努力ができる人間であることに違いはない。雪の行動は、言葉よりも余程雄弁に、雪という人物を語っていた。

 そういった雪の行動を見るにつけ、リーホァンの、彼に対する印象がどんどん変わってくる。雪の中身が、本当はどんなものか、というのはわかってはいるのだが、こうも可愛らしく素直に微笑まれたりすると、どうにも胸の奥がむずむずとなってしまうのだ。それは決して嫌なむずむずではなく、むしろ……。

 少し[躊躇{ためら}]ってから、リーホァンは袋を持つのと反対の手で、ぎゅっと雪の手を握ってみた。

「皇太子殿下?」

「……いや、これは。……ほら、俺達は恋仲という設定にしていますから、手……、手くらい繫いでおいても不思議ではないかと思いまして。む、むしろ握っておいた方が自然というか……」

「……? ……あの、もう少し、ゆっくりお願い、です」

 理由のわからない照れから、思わずまくし立てるように早口になってしまったリーホァンを、雪が手を引っ張って止める。おそらく、リーホァンの言うことが聞き取れなかったのだろう。リーホァンは、こほんと[咳払{せきばら}]いをしてから、改めて雪の手を握った。

「つまり、恋人の振り、わかりますか?」

「……ああっ! わかります、しました!」

 ピンときた顔をした雪は、リーホァンの手を、ぎゅっと握り返す。なんの照れも躊躇いもないその様子に、リーホァンはなんだか拍子抜けしてしまう。そしてはたと、以前、雪が言っていたことを思い出した。

(ああ……、俺のような子どもは恋愛の対象ではないと言っていましたね)

 十年経ってから口説いてくれと、初めて会った日に言っていた。そしてあの時自分は、十年経とうが二十年経とうが、雪を口説くことはない、と言い切ったのだ。

 リーホァンはそれを思い出して、なるほどと納得した。と同時に、胸の中に、ズシンと重たい石を投げ入れられたような気分になる。

(何故?)

 さっきまで、あんなに可愛らしいと思って見ていた雪の笑顔なのに、どうしてだか、今はそれを見ても妙に切ない気持ちになってしまう。

 その笑顔をいくら向けられても、その中に恋愛感情はないのだ、とわかったからなのだが、リーホァンにはまだそれを理解していない。ただ、雪を見つめているのが苦しくなって、窓の方へ顔を逸らしてしまった。

 

各電子書籍ストアで配信中!

価格:650円(税抜)

【続きはこちらからご購入ください】

Amazon

BOOK☆WALKER

 

『ナルシスト、異世界にて竜の嫁になる』作品ページへ戻る