小学生のころに友達が殺されておれは不眠症みたいになった。殺されるところを間近で見てしまったから、そんなふうになってしまうのも仕方がないのかもしれないけれども。
夜は長い。時計の針はいつまでも同じところに留まっているし、布団に入っている時間は永遠に続いているような気がする。
そうしたわけで、おれはたまに外をうろつくようになった。もちろん、子供が夜に外に出ることは恐ろしい。けれども家の中にいたって友達を殺した殺人犯のことを思い出してしまうのだ。あそこの隅っこ。あそこの暗がり。悲鳴を上げながら目を覚ますと部屋に誰かがいるような気がする。眠れないでいる時間の辛さ、眠れないでいる間に思い出すトラウマと比べたら、外に出るほうがいくらかましというものだった。
はじめて家を抜け出して自分の住んでいるマンションを見上げたとき、マンションの躯体は眠っている恐竜みたいだった。各階の廊下の明かりがきらきら輝いて、寒々とした美しさすら感じたもの。ああ、そんなに夜も怖くないのかも、一人でどこかへ行ってしまったって、問題ないのかもしれないなって。
どこへ行こうか、足は自然と「橋」に向かっている。殺された友達と最後に学校で会ったとき、おれたちは「キンキン橋」のことを話していた。
「キンキン橋」というのは同じ小学校に通う子供たちが呼んでいるだけで本当はそんな名前はついていない。川に勝手に架けられた手作りの橋のことで、手すりもなにもついていないものだから足を下ろせばキンキンと揺れて(だからそういう名前)、いつ下の川まで落っこちてしまうかわからないようなそんな橋。子供たちは競って渡ろうとするし、渡れないのは勇気のないやつらだけというわけ。そしておれもそのうちの一人。構わなかった。落っこちて骨を折ってしまうくらいだったら渡れなくたって構わなかった。石橋を叩いてなんとやらなのだ。でも友達はばかにしてくる。橋の一つも渡れないんじゃ、これから先の長い人生、きっと大変な目に遭うぜって。
「勇気を振り絞ることもできないんだったらさ」って。なに言ってんだい。そう思ったけれども、一面では真実を言い当てているような気もした。おれはきっとこの先、勇気を振り絞ることなんてできやしないんじゃないかって。
だから来たのだ。
こんな夜に、こんな、不眠でふにゃふにゃの夜に。
なにもこんなときに渡らなくてもいいような気もする。もっと昼間の人がいるときに、万一落っこちてしまっても誰かが助けてくれるときに渡ったほうがいいのじゃないかって。それに友達は死んでしまった。もうこの橋を渡れないことをとやかく言う人は誰もいない。おれがこの橋を渡れなくたっていじってくる人は誰もいない。
でも、本当にそれでいいのだろうか。おれはこの橋を渡らなくちゃいけないんじゃないだろうかって。そうしなければ、「お前は本当に大人になったとき、困ってしまうようになるんだぜ」
「なにに?」
おれは友達に聞いた。
「一歩だよ、一歩」と友達は笑いかける。
「踏み出せないようになってしまうんだ」
橋のたもとに着いた。川は四メートルくらいの細い道路沿いにあって、橋の向こうは別のもっと細い道につながっている。丘のような斜面には木が繁茂していて薄暗い。街路灯もまばら、明かりも変に青みがかっておれの肌をゾンビみたいな色にしてしまう。不気味だった。
闇の中、数メートル下を流れる川の音がザーッと聞こえてくる。暗闇に飛沫の色だけが白く浮かんでむしょうに恐ろしい。その音はいまにもおれに襲いかかろうとしてくる猛獣の吐息のようだった。
おれは橋の前に立ち尽くした。幅五十センチぐらいしかない小さな細い橋。薄い鉄板のようなものが向こう岸まで延べられて、一応、ビスかなにかで舗装の上に留まっているようではあるのだけれども、でもその上を歩くたびにキンキンと音がして不安になる。
息が詰まる。心臓がどきどきする。喉の裏側が口から出てしまいそうになる。土壇場に来て、やっぱり尻込みしてしまった。こんな危ないところ、渡ることなんてできるわけないって。そんな勇気が自分なんかにあるわけないって。今さらながら身にしみて感じられてくる。
もう帰ろう。こんな夜中にこんなところにまでやって来たことだけでもう十分じゃないか。だから今日はもういいじゃないか。おれは思い始めていた。
「よー[軒{のき}][人{ひと}]、おまえは絶対に、この橋を渡ることなんてできやしないぜ」
そのときだった。当の友達が、目の前に現れた。
目をぱちくりした。友達はピーコートを羽織って下は半ズボン、殺されたときと同じ格好で佇んでいた。キンキン橋の上に立っておれのことをニヤニヤ見つめている。おれは何度も瞬きした。
幻。だろう。たぶんそうだ。友達のお化けという可能性も考えられるけれども、どうもそれも違うような気がした。どちらかというとこの感覚は、夢を見ているときに近かったからだ。
だからきっと、こういうわけだ。昔の会話、友達と実際に交わした昔の会話が、今、頭の中で再生されてしまっているというだけなのだろう。恐怖と緊張と寝不足の頭と睡眠薬、友達を助けられなかったという罪の意識の混交のあまり、幻を見ているだけなのだろう。本物じゃない。本物の友達じゃない。そんなことはわかっているのだ。
でも、幻と話をしてはいけないとか、そんなことをおれは少しも思わなかった。
「そんなことはないよ、[亨{とおる}]くん」
「無理だって、おまえにそんな度胸はないよ」
「あるよ、あるある」
おれの声は震えていた。亨くんは「そら見ろ、震えてるじゃねーか」ってにやっと笑った。おれはそれを聞くとなんだか楽しくなってしまった。あんまり亨くんみたいだなって。生きているころの亨くんが言いそうなことだなって面白くなった。面白くなったら、怖いのが収まった。
一歩。
足を出した。生きているころの亨くんが「一歩だぜ」って言っていたことを思い出した。キンキン橋の上に足を乗せ、体重をゆっくりかけていく。
もう一歩、反対の足を出した。
つま先の裏で、薄い鉄板がギュッと軋むのを感じた。
もう一歩。
体重が乗り、鉄板がバンッって音を立てた。「うおっ」って驚いた。そのうえ、川から風が吹いた。風に煽られて落っこちるんじゃないかっておれは急に震え上がった。バランスを取るみたいに両手をふわっと水平に広げる。お腹が切なくなっていった。
「なあ、おい、戻ったほうがいいぜ、軒人、死んじゃうよ」
亨くんは少し前に立って心配そうにおれを見てくる。
だがおれはうなずく。
「大丈夫、だいじょぶ」
がくがく震えている。足が今にも鉄板を踏み外してしまいそうなくらい震えている。けれどもおれは大丈夫と言う。誰かに向かって言い聞かせる。そうすることで、おれは向こうまで渡れるような気がしている。
「心配してくれるんだ、亨くん」
「てやんでえ、寝覚めが悪いってだけだぜ、軒人」
亨くんはひょひょっと笑う。おれも釣られて笑う。そのせいで重心がずれてしまう。危ない危ない。へっへへ。おれは足を前に出した。立ち止まってはいられない。前に進み続けなければ、足を前に出し続けなければ。恐怖で立ちすくんでしまったら、おれは一生怖いものに立ち向かうことなんてできなくなってしまうんだって。
一歩ずつ、前へ進んでいく。
少しずつ体が軽くなる。コツを飲みこんでいく。思ったよりも鉄板も揺れないのに気がついてくる。もう真ん中だ。風が吹いたって両足が鉄板に乗っていれば大丈夫。おれはだいぶ楽になる。そうして一歩ずつ、一歩ずつ向こうへ、対岸へ近づいていった。あと少し、もうちょっと、ほんのわずか。
なんだい、こんなもの、簡単だよ! 亨くん。
気がつくと、おれは対岸の道路に両足をつけていた。ぜんぜん、渡れるじゃん。ちっとも怖いことなんかないじゃんって。振り返った。
「やったよ、亨くん」
振り返った。一瞬、そこに本当に亨くんがいたような気がした。一瞬だけでも、亨くんがあの世からもどって、微笑んでくれたような気がした。
でも一瞬だけだった。亨くんは消えてしまって、もう、この世界のどこにもいなかった。
「おれ、渡れたよ、亨くん」
ぽつりと、おれはつぶやいた。風がざあっと吹いていって、川と草の匂いがした。
終わり
『お化けのそばづえ』
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