10年前 8月1日 北半球のとある島
「[奏{かなで}]、あまり遠くに行ったらダメだよー?」
若い女性の声が、穏やかな波の浜辺に響き渡った。
波の音に交じり、まだ幼さの残る少年の声。
「大丈夫だよ、姉さん! こんな何もない島で迷わないって!」
「あんまり遠くにいって、海に落ちたりしたら危ないよ?」
[呆{あき}]れたように言う女性――[紅{べに}][矢{や}][倉{ぐら}][雫{しずく}]は、弟である奏の後をゆっくりと追う。
二十歳前後という若さにも[拘{かか}]わらず、専攻する科学分野で既に高い評価を受けている雫。
彼女が開発したとある技術は、その分野の内外に関わらず『先進的だ』『いや、邪道だ』と賛否を呼ぶ。倫理的な問題も含めて様々な賞賛と批判、あるいは若くして成功した人間に向けられる単なる[誹{ひ}][謗{ぼう}][中傷{ちゅうしょう}]の嵐に[晒{さら}]されながらも、彼女は[飄々{ひょうひょう}]と自分の研究を続けていた。
批判の声の合間に時折現れる物好きな賛同者と接触し、研究資金を調達しては[淡々{たんたん}]と研究を進めていく。そんな姿に、世間の人間は雫を普通の人間というよりも、ある種の仙人のように浮世離れした一人の『天才』として扱い続ける。
だが、そんな彼女も、まだ十代半ばである弟の前では、年の離れた姉――つまりは一人の家族愛を持つ人間であった。
あるいは、両親が早くに他界している雫にとっては、唯一の家族となった奏こそが心を休めることができる唯一のヤドリギだったのかもしれない。
「良かったの? 姉さん。俺までこんな所についてきちゃって」
「なに? 一丁前にそんなこと気にしてるの?」
「だって、仕事で来てるんでしょ? 俺なんかが居て邪魔にならない?」
「大丈夫だって。この島に来たのは定期的な生体調査だって言ったでしょ? 回収したサンプルのデータを研究施設から大学に送れば、あとは自由。実質的に、骨休めみたいなものだしね」
明るく笑う姉の姿に、弟である少年はどこかホッとしたように[微笑{ほほえ}]みながら歩を進める。
「でもさ、姉さんが元気そうで良かった」
「え?」
飛び級で海外の大学に留学し、家にいることが昔から少なかった雫に対し、弟である奏はどこか他人行儀なところがあったが――姉が今だけは人間らしい顔をしているように、この瞬間の少年の表情もまた、家族を前にした近しい者に対するものへと変化していた。
「姉さんってさ、ほら、周りに色々言われても気にしないじゃん? 全然[堪{こた}]えないもんだから、いつか[業{ごう}]を煮やした誰かに刺されたりするんじゃないかって思ってた」
「物騒な想像しないでよ」
「姉さんには友達とか恋人とか居ないだろうし、一人でいる時とか、ほんとに気を付けなきゃだめだよ?」
まるで保護者のような事を言う童顔の弟に、雫は苦笑しつつ言葉を返す。
「大丈夫大丈夫。奏を残して死んだりしないよ」
穏やかな表情でそう言ったところで、雫の[鞄{かばん}]の中の携帯が鳴る。
「はい、もしもし……ああ、これから観測結果を回収……え?」
そこで、僅かに顔を[曇{くも}]らせる。
「姉さん?」
不安げに姉を見つめる奏に、雫は携帯電話を切った後、やや強張った笑顔で答えた。
「ごめんね、奏。ちょっと、研究施設の方でトラブルがあったみたい」
「なにがあったの?」
「うん、なんだか、停めてあった調査船が無くなってるって……」
雫が所属する大学が所有する、小型の調査船。
研究施設に隣接する[桟橋{さんばし}]に停泊させていたその船が、いつの間にか消えてしまっていたのだという。
「えっ? 船が盗まれたってこと?」
「んー、どうかな。係留ロープが千切れた跡があったっていうから、[錨{アンカー}]を下ろし損ねて風で流されたのかも……」
そんな会話を続けながら、二人は浜辺から海に目を向ける。
遠く離れた所に見える桟橋には、数人の釣り人が静かに波間に糸を垂らす姿があった。
「結構、釣りしてる人いるんだね」
「あー、研究所の人も混じってると思うよ。息抜きになるからね」
「ふーん……」
興味深げに釣り人達を見る奏を見て、雫が問う。
「奏も後でやってみる?」
「うーん……楽しいのかな?」
「やった人に聞いたら、[凄{すご}]く楽しいって言ってたよ」
調査用の捕獲ならともかく、雫も[竿{さお}]を使用した釣りの経験はないのだが、同僚達から聞きかじった言葉をいくつか思い出しながら語り始めた。
「ああして見てると変化がないように見えるけど、じっと待ってる間っていうのも楽しいんだって。なんていうのかな。待った分だけ釣れた時には達成感で満たされて、脳が刺激されるみたい。それに……自分で釣り上げた獲物をすぐに食べると、味も格別だって」
「へー、ちょっとやってみたいかも……」
「うんうん、奏なら、きっと大物を釣れるよ」
「なんだよ、それ」
根拠のない事を言う姉の言葉に呆れつつも、弟は少し[嬉{うれ}]しそうにはにかむ。
だが、歩きながらあるものを見かけ、奏は笑みを消して声を上げた。
「あ、姉さん。アレじゃないの?」
奏が指差す先を見て、雫も『それ』に気付く。
「船……ああ、間違い無い」
雫は、それが自分が過去に何度か乗ったことのある調査船だと確信した。
浜辺の岩場に寄り添う形で停まっていたその船は、少し傾きながら[波{なみ}][飛沫{しぶき}]を受けている。
「やっぱり、[錨{アンカー}]を下ろし忘れてたのかな?」
船泥棒などだった場合、こんな場所に乗り上げさせる理由は無いだろう。
もしかしたら、長年使用している船の為、係留用のロープも[脆{もろ}]くなっていたのかもしれない。
そんな事を考えていると、一足先に[駆{か}]け出していた奏が、近くの岩場から直接船の上に乗り込もうとしてる姿が見えた。
「ちょっと! 危ないよ! 奏!」
可能性は薄いとはいえ、仮に船泥棒だった場合には犯人が中にいる可能性がある。
慌てた雫が駆け寄ろうとするが、日頃運動していない彼女にとって、岩場を登るのは一苦労であり、なかなか船の[傍{そば}]まで[辿{たど}]り着けなかった。
「大丈夫だよ、姉さん。誰もいないみたい!」
小型船の[前部甲板{フォア・デッキ}]を踏みしめながら、奏は[操{そう}][舵{だ}][室{しつ}]などを[覗{のぞ}]き込む。
その言葉を聞き胸をなで下ろす雫は、岩場のなだらかな部分まで行くと、研究施設に連絡を入れようとして携帯を取り出した。
「[座{ざ}][礁{しょう}]してるのかな。船が痛んでなければいいけど……」
「大丈夫だよ、ほら、全然平気!」
デッキを囲む[手すり柵{バウ・レイル}]を[摑{つか}]んで飛び跳ね、中学生にしては[些{いささ}]か子供っぽくはしゃぐ奏。
「危ないからやめなさい! 落ちても知らないからね!」
そんな弟の笑顔を見て、注意をしつつもつい温かな笑顔を浮かべる雫だったが――
結果として、それが雫が見た奏の最後の笑顔となった。
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