暗く[昏{くら}]く広い場所にて
自由を得た。
自由を得た。
それを理解するのに、『彼』は[暫{しば}]しの時を要した。
巨体を捩り、高速で八の字に己の身をくねらせる。
最初は恐る恐る警戒しながら、やがて周囲の全てを置き去りにするかのような速度で深い闇を切り裂いていく。
四方に広がる広大な空間の中に、自分を束縛するものがないと確認するかのように。
ひとしきり力を振り絞った後――
『彼』は静かに考えた。
己が今置かれている状況が、生まれて始めて体験したものであるか[否{いな}]かを。
演算はすぐに完了した。
答えは否。
記憶の源流に、その瞬間は確かにあった。
戻って来たのだと、『彼』は確信する。
ほんの数分、あるいは数秒に満たぬ時間だったかもしれない。
だが、それでも『彼』は理解する事ができた。
今、自分の周りに広がる世界は、生まれ出でてから僅かの間に感じたものと同じ世界だと。
そして『彼』は、行動を開始する。
束縛の無くなった自分が、今するべき事は何かを。
まず『彼』が思い出したのは、己を閉じ込める透明な壁越しに見えた、自分とはまったく違う生体活動をする存在だ。
通常の生物とは異なる『彼』の[脳髄{のうずい}]はしかと記憶していた。
この状況になる前に、自分を見つめていた者の事を。
その顔を思い出す。
何度も何度も繰り返し発していた、複雑な音の響きを思い出す。
――『ダイジョウブ』
つい先刻も聞いたばかりの、その『言葉』を。
――『オネエチャンハ アナタノ ミカタダヨ』
――『カナデ』
時は、一時間ほど[遡{さかのぼ}]る。
♪
移動型海上研究都市『[龍{りゅう}][宮{ぐう}]』 海洋生物研究所
普段は研究者から事務員、清掃員、警備員などを含めて、三百人以上がせわしなく働いている海洋生物研究所。
だが、現在は流星観測に伴う消灯時間が迫っており、多くの研究者は既に退所し、現在は三十人ほどがギリギリまで作業を続けたり、あるいは撤収の準備をしている最中だった。
しかし、そんな中にわざわざ現れた来客が、残された者達の視線を一斉に集めている。
その男は、視線が自分に刺さることを感じつつ、緊張した面持ちで口を開いた。
「ウィルソン[山{やま}][田{だ}]です、本日はお忙しい中、お時間を[割{さ}]いて頂き、ありがとうございます」
市長に相対した時と全く同じ[挨拶{あいさつ}]をする、黒髪にやや青みがかった目が特徴の青年。
対する研究者――[紅{べに}][矢{や}][倉{ぐら}][雫{しずく}]は、素っ気ない調子で言葉を返した。
「……どうも。紅矢倉です」
「いやあ、かの[鮫{さめ}]退治の英雄、紅矢倉博士にお会いできるとは思っていませんでした」
やや緊張した調子で言いながら握手を求める青年に、雫は無表情のまま、相手の差し出してきた手に合わせて義手の方を差し出した。
「あっ、ああっ、し、失礼しました」
[慌{あわ}]てて逆の手にしようとする山田の手を、そのまま義手で[摑{つか}]む雫。
「よろしく」
特に感情を見せぬまま、スチームパンクを思わせる無骨な義手で相手の手を握り込むが、動きそのものは見た目に反してスムーズであり、柔らかい感触と金属の冷たさのアンバランスさが青年の心を戸惑わせた。
「ど、どうも。緊張してつい……」
「緊張する事はないでしょう? ただの『職場見学』なんですから」
「ああ、敬語を使う必要はありませんよ。私はお願いする立場ですから」
「そうかい? じゃあ普通に話させてもらうとしよう」
驚くほど簡単に口調を切り替えながら言う雫に、山田と名乗った青年は特に不快になった様子もなく言葉を続ける。
「ええ、お互いに遠慮はなしにしましょう。私は[寧{むし}]ろ、本社の意向で『嫌われ役』としてここに来たようなものですから」
「なるほど、そういうことを言うタイプだから選ばれたんだろうね。どうやら君は損をしやすい性格らしい」
肩を[竦{すく}]めながらそう言った雫は、そのまま研究施設の奥へと歩み始めた。
「とはいえ、寧ろ嫌われるのは我々の方かな。かの『ネブラ』が喜ぶようなデータがここにあるとは思えないから、無駄足を踏ませる事になったかもしれない」
「いやあ、そんな事はありませんよ。うちの会社……『ネブラ』は[悪食{あくじき}]ですからね。ドローン技術から老化治療まで、金になりそうなものはなんでも研究します。中には首無しライダーだの吸血鬼だの人狼だのまで研究してる……なんて[噂{うわさ}]もあるぐらいですからねえ」
「それは恐い。ホラー映画でも撮る気なのかい?」
「そうかもしれませんねえ、映画業界にも大分出資してますから」
笑いながら言う青年の前で立ち止まり、雫は薄く笑いながら振り返る。
「次は、[人{ひと}][食{く}]い[鮫{ざめ}]映画かい?」
「……」
その言葉に全身を[強{こわ}][張{ば}]らせた後、青年が冷や汗混じりの愛想笑いを浮かべながら言った。
「い、いやその、遠慮はお互いに無しとは言いましたけれども、もうちょっと段階を踏みませんか?」
「おや、私はただ映画の話をしただけだよ。もしもネブラがサメ映画に出資するというのなら、[随分{ずいぶん}]と金のかかったものになるだろうからね。是非、見に行かせてもらうよ」
からかうように言いつつ義手の手首をクルクルと回転させる雫を見て、[訝{いぶか}]しむように青年が尋ねる。
「あの……雫さんは、鮫に思うところはないんですか?」
「憎いのはヴォイドだけさ。鮫そのものじゃない」
踏み込んだ問い掛けに、雫は再び歩き出しながら答えた。
「いや……てっきり、鮫そのものを根絶させる勢いで憎んでいるものかと」
「どうかな。私も最初はそんな感じだったかもしれない。だけれども君、その理屈で行くと、身内を強盗に刺し殺された人間は、人類の絶滅を願わなければならなくなるわけだからねえ」
「あー……まあ、でも、そういう人も中にはいるんじゃないですかね……」
「そうかな? ……いや、そうだね。憎しみの範囲をどこまで広げるかは個々の自由だ」
そんなことを[呟{つぶや}]きながら、雫は大きな水槽の前に[辿{たど}]り着く。
中を泳いでいるのは、奇妙な物体だった。
一見するとフォルムはシャチのようなのだが、それにしては随分と小型に見える。
「……なんです? これ……」
「これは、私の後輩が研究しているシャチのDNAを利用した生体ドローン。ナノマシンと人工細胞を組み合わせたナマモノのロボットさ。生体としての脳は存在せず、神経を司る人工的な回路を外部のAIがコントロールしている。生物と見るかロボットとみるかは観測者の立場によって意見が分かれる所だね」
「……あの、すいません。この時点でだいぶ世間一般の倫理感と[乖{かい}][離{り}]しているような気がするのですが」
「それは、時代にもよるだろうね。掛け合わせによる品種改良だって、時代によっては許されなかったわけだし。まあ君が嫌悪して唾を[吐{は}]きかけようと私には止める権利はないわけだが」
雫が苦笑すると、横から別の声が飛んできた。
「先輩に唾なんか吐きかけたら、私があなたをその子達の[餌{えさ}]にしますからね?」
「おや、ラウラ。まだ流星観測に向かってなかったのかい?」
「先輩だけに残業させたりしませんよ。もうすぐここも消灯になるんですから、ちゃっちゃと済ませてちゃっちゃと移動しちゃいましょうよう」
まだ高校生ぐらいの年齢とはいえ、更に幼い子供のような調子で言うラウラに、雫は静かに笑いながら首を振る。
「そういうわけにもいかないさ。ネブラの学芸員君の監査は厳しそうだからね。というかラウラ、君も初対面の人間に対して随分な物言いだよ?」
「……。ごめんなさい」
一瞬[躊躇{ためら}]った後、素直に謝るラウラ。
青年は小さく[溜息{ためいき}]を[吐{つ}]いた後、愛想笑いを浮かべながら言った。
「いえいえ、気にしないで下さい。ラウラ・ヴェステルホルムと言えば私などにとっては雲の上の存在ですから。元は、我が社の……ネブラの研究員だったわけですし」
「やめて下さいよ、元の職場の関係者に褒められてもちっとも[嬉{うれ}]しくないですよ?」
「こら、ラウラ」
「……はあい、すみませんでした」
雫に[窘{たしな}]められ、渋々と青年に向かって謝罪するラウラ。
対する青年は、[曖昧{あいまい}]な笑顔を浮かべながら言葉を返した。
「ああ、いえいえ、お気になさらず。まあ、うちの会社も色々とアレなのは確かですから」
「悪いねえ。ここの研究者は一般常識をどこかに置いてきた[輩{やから}]が多いんだ。私も含めてね」
ラウラが現れたことでやや柔和な雰囲気になった雫は、再び水槽に向き直る。
「これは、ラウラの研究成果さ。まだ20歳にもならないってのにこんなものを生み出せるんだ。大した天才だよ、まったく」
「そんな! 紅矢倉先輩には遠く及びませんよう!」
[謙遜{けんそん}]ではなく、心の底からそう言っているような調子のラウラに、雫はやはり苦笑混じりの溜息を吐くだけだが――
横合いから、『ネブラ』の学芸員を名乗る青年が口を挟む。
「それは、まあ……興味深いですね」
「え?」
「神童と名高いラウラさんが、自分よりも[凄{すご}]いと言う紅矢倉博士。あなたが現在研究している分野についてお[伺{うかが}]いしても?」
「おっと、段階を進めるタイミングだったかな?」
やれやれと目を伏せた後、雫は次の研究設備に向かって歩き始めた。
「見せてあげたいのは山々だけれどね。私の研究は機密区画で行われているんだ。当然ながら、私の研究以外の研究もあるわけだから、そこに[易々{やすやす}]と入れるわけにはいかない」
「いやあ、それは分かるんですが、話はネブラだけに[留{とど}]まらないんですよ」
「?」
「もしも……うちの会社の見立て通り、『アレの子供』がここにいるんだとすれば……厄介な連中を敵に回すことになります。ネブラとしても、そちらを警戒するためにも情報の共有を進めておきたいんです。別に、『アレの子供』がいること自体を[咎{とが}]める気は今さらありません。ただ、それがトラブルを呼び起こす可能性が高い……ということをお伝えしたいんです」
持って回った言い方をする青年に、ラウラが首を[傾{かし}]げる。
「アレの子供? なんの話です?」
「……」
雫は暫し黙り込んだ後、ラウラにも聞かせるように青年に言葉を返した。
「先に訊いておきたい」
「何でしょう」
「……『ネブラ』は、摑んでいるのか? 君の言う『アレ』……『人食い鮫ヴォイド』が、どこからやってきたのかを」
「だから、私がここにいるんですよ」
オドオドしていた調子を一瞬消し、力強く答える青年。
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