試し読み さらば勇者だったキミのぜんぶ。
GOODBYE, MY BRAVER

プロローグ『希望のほうまで。』
prologue: beyond the desire

       †

 うっすらとした意識のなか、目を開いた。
 あちこちから黒煙が上がってる。
 何も見えなかった。
 [身体{からだ}]に力をこめる。
 左手が[短刀{ナイフ}]の[柄{つか}]を握っている。
 [鞘{さや}]から引き抜こうとするが、鍵がかかってるみたいにまるで抜けなかった。
 もう一度目を閉じる。
 見えているモノではない、頭のなかにあるイメージ。
 ちいさな[巾{きん}][着{ちゃく}][錠{じょう}]だった。
 手に鍵を持っている。
 ただし、その鍵はとにかく膨大で束になっていた。
「コレだ」と一本、束のなかから鍵を選んだ。
 鍵を錠に挿した。
 [廻{まわ}]す。

 ――ガチャン。

 鍵の開く大きな音がした。
 再び目を開く。と同時に目が覚める感じだった。
 [覚{かく}][醒{せい}]のときだ。
 鞘から引き抜いたナイフを手にしていた。
 目覚めたばかりのように視界はぼんやりだったが、頭のなかははっきりしている。
 やらなくてはならないことをやるだけだと。
 視線の先、ふたりの〝相手〞がいる。
 そのふたりに、手のひらをかざすと、
 ふたりが見えない何かにブン[撲{なぐ}]られたようにブッ飛んだ。
「[詠{えい}][唱{しょう}]なし⁉」
「法具か?」
 ふたりは混乱を口にした。
 自分たちが何をされたのか理解できなかった。

 そして、その瞬間にはもう――相手は負けていた。

 本能が恐れる。
 それは――〝勇者〞の覚醒のはじまりだ。
 誰も知らない。
 得体の知れないチカラ。
〝勇者〞だけが使う特別な《魔法》は、すべてを[凌{りょう}][駕{が}]していく。

 それは、いまの《勇者》がかつての〝勇者〞として《鍵》を開けた瞬間だった。

 だって、
「あの魔王を[討{う}]った、勇者さまですから」
 三階建ての屋根の上で、それを見ていた《カノジョ》は笑っていた。
 ひどく[綺{き}][麗{れい}]に笑っていたんだった。

 

第一話『最後のような最初の物語り。』
track.1: The Irony of Fate

       †

「ボクの名前はユーリ・オウルガ! 十四歳! ボクの名前はユーリ・オウルガ……! 十四歳! ボクはユーリ・オウルガ……――‼」
 何度もくり返す。
 おまじないの[呪{じゅ}][文{もん}]みたいに。
 自分自身の[名前{こと}]を口に出して音にする。
 ユーリ・オウルガ。十四歳。[十{じゅう}][一{いち}][月{がつ}][之{の}][国{くに}]にある[片{かた}][田舎{いなか}]、ちいさな村に生まれ育った。
 特筆する事柄は何もないけど、のどかでのんびりとした悪意や争いとは無縁の場所。
 そんなところで生まれた子供たちは、そのまま一生を村で平和に暮らすか。
 または、十五歳になったら夢や希望、もしくは現実的なアレコレを小脇に[抱{かか}]えて、街や都市部を目指す。
 ユーリももうすぐ十五歳になる。
「十五になったら村を出よう」
 とか[漠然{ばくぜん}]と考えていた。
「べつに村の暮らしに[厭{いや}][気{け}]がさしたんじゃないけど、」
 何かやりたいことや[叶{かな}]えたい夢があるワケでもなく、近年の村の若者といえばそういう流れができつつあった。
「だからって、――なんなんだよ、コレ……⁉」
 ユーリは走っていた。
 暗闇のなかを[裸足{はだし}]で走っていた。
 裸足ぐらいだったらまだいいが、下着だけを身に[纏{まと}]った半裸――ほぼほぼ裸だった。
 無我夢中でどれくらいたっただろう。
 実際は走るほどの速度ではなく、ただただいまにも倒れそうな様子でふらふらと[彷徨{さまよ}]ってた。
 [傍{はた}]から見れば、その様が――[屍{しかばね}]が[肢{し}][体{たい}]を引きずってウォーキングしてるとも。
 そんなありえない表現が当てはまるほど、ユーリには、すべてがちぐはぐに感じられていた。
 身体がひどく重い。
 目が覚めたときから全身の[倦{けん}][怠{たい}][感{かん}]。と思ったが、手も足も、身体のすべてが――自分のモノじゃないみたいだった。
 自分の身体との[意{い}][思{し}][疎{そ}][通{つう}]ができない。まるで他人の身体を借りてるような違和感だ。
「――ようやく見つけました!」
 暗闇から、背後から突然声が鳴った。
「うぁああああああああっ⁉」
 驚きのあまり、ユーリは前のめりにズザザザザーッと地面に滑りこんだ。
 顔面をしたたか打ちつけ、半裸状態の身体を土砂小石などにこすりつけてしまった。
 口のなかに大量の砂や、[土{つち}][埃{ぼこり}]が入ってきた。
 カビ臭い、鉄の味がした。
「大丈夫ですか、――〝勇者〞さま」
 なんとものんびりとした[覇気{はき}]のない声が頭の上から降ってくる。
「……ユーシア・サマー……?」
 ダレ? 名前? いやダレ?
 ユーリはそれが自分のことだとはツユほども思わなかった。
 倒れたときの衝撃か、びっくりして腰が抜けてしまったか、腕にも力が入らずユーリは顔だけを声のしたほうへ向けた。
 そのひとがすぐ[傍{かたわ}]らにしゃがみこんで、こっちを見ていた。
 足もとに置いたランプの光にぼんやりと、そのひとの様子が見えた。
 ひどく穏やかでやさしい笑みを浮かべてる。
 とてつもなく[綺{き}][麗{れい}]なひとだった。
「〝勇者〞さま、目覚めたばかりですよ。お身体に障ります。お屋敷に戻られたほうが……」
 そのひとは、間の抜けた感じとも違う、お芝居とか[科白{せりふ} ]を棒読みするのともちょっと違う、感情がないというのとも違う――なんとも表現しにくい独特な『間』とイントネーションがある口調で言った。
 というか話し方が問題じゃない。
『〝勇者〞さま』だって?
 ユーシア・サマーじゃなく?
 誰かほかの、べつのひとのことじゃなく。
「ごめんなさい……」
 ユーリはぽつりとこぼした。
 だって、ボクは〝勇者〞じゃないから。
「どうして〝勇者〞さまが謝罪するのですか?」
 としかし、そのひとは[微笑{ほほえ}]みを返してきた。
 この綺麗なひとは、何か勘違いをしてる。
 ――どうして、ボクのことを勇者なんて呼ぶんだろう。
「……ごめんなさい……」をもう一度。
 ユーリはくり返した。
「ボクは、あなたの言う『勇者さま』じゃない。………です」
 そう言うと、さすがにそのひともちょっとだけ困った顔になったが、でもまた微笑んだ。
「大丈夫です、勇者さま。まだ目覚めたばかりで混乱されていらっしゃるだけですから。魔法使いさまによれば、あれほどの魔王と過酷な戦いをつづけた代償だと。傷ついた心と身体を護るために、勇者さまみずから眠りについたのでは? と言っていました。きっとそうなのでしょう」
 そのひとは早口でまくし立ててそして勝手に納得する。
 ユーリの目の前に、手を差し伸べてきた。
「起きてください。お屋敷に戻りましょう」
「屋敷に戻る……?」
 [小{こ}][蠅{ばえ}]の羽音よりもちいさい声でユーリは[訊{き}]いた。
「ええ、そうです」
 目の前の手を取ると、そのひとは[花車{きゃしゃ}]な腕からは想像できない力で、ユーリを地面から引っ張り上げる。
 ユーリの身体がすこし地面から離れると持ち上げた腕のなかにするりと身体をすべりこませてきた。
 肩を貸すようなカタチでユーリを支え、立たせてくれた。
「あ、ありがとう……ございます」
「礼など、もったいない」
 そのひとはぷるぷると首を振った。
 髪が揺れる。
 ふわりとやさしいあまい香りがした。
 その匂いのせいで、これはもしかして「夢なのかな?」と思ってしまった。
 地面にすべりこんで派手に土煙をあげたほどなのに、何故かそれほど身体が痛くない。
 顔をぶつけて、ほぼ半裸で、ムキ出しの土壌の上に身体を打ちつけ、すべらせたのに。
 夢のなかなら、いきなり身体が鋼鉄みたく[頑{がん}][丈{じょう}]になったりとかはあるだろうけど。
 それに――ユーリはもう半裸状態でもなかった。
 いつの間にか、ケープで身体が覆われている。
 おそらく、肩を貸してくれているそのひとが自分が着ていたモノを羽織らせてくれたんだろうけど。
 ほんと、いつの間に?
「きみ……あ、いや、あなた……いったい、誰なんですか?」
 極上の美人にいきなりタメ口ってのも格好つかない。
「ごめんなさい。ボク、のこと知ってるみたいな口振りだけど……ボクは、その、あなたのことを……知らない、です……」
 やや間があった。
「……ああ、そう……そう、ですよねっ! 勇者さまがわたしのことなんて」
 あいかわらずの独特な調子の話し方のせいで、感情がうまく伝わってこない。
 しかしその口振りからは、やはり――ユーリのことを知ってるんだと判った。
「わたしは、リノン。リノン・ヴィータです」
 そのひと――リノンが名を名乗った。
 が、それでもやっぱり、ユーリにはまるでぴんとこない。
 まったく聞き覚えのない、はじめて耳にした響きの名前だった。
 でも、このひとはボクのことを知ってる?
 リノンはユーリを支え歩き出す。
 花車な[体{たい}][軀{く}]からは想像できないが、脱力したユーリを支えてもその姿勢はくずれず背筋はまっすぐに伸びている。
「何度かごいっしょしているのですが、あのときは本当に異常で異様な状況でしたし、パーティにもたくさん人員がいましたから。仕方ありません」
 言って彼女は首を振ったが、責められてる気分で申し訳なかった。
 それでもリノンのことを[欠片{かけら}]ほども思い出せない。
 こんな綺麗で、特徴的な[喋{しゃべ}]りをするひとを忘れようがないのに。
 ずっと初対面の感覚のままだ。
「足もとにお気をつけください」
 リノンはユーリを支えるのとは反対の手でランプをかざす。
 灯りがともっていても数メートル先は吸いこまれそうな黒い闇が広がってる。
 背筋がぞっと凍る思いがした。
 けど、身体を支えてくれるリノンの体温がケープ越しにあったかかった。
 土を踏む音が、よっつ。闇に溶けずにずっと耳の奥にまとわりついてくる。
 リノンの持つランプのせいか、暗闇にいつまでたっても目がなれない。
「いや、となりにいる彼女があまりにも美しく[眩{まぶ}]しいせいだ」
 なんて、ジョークは思いつくはずもなく。
 ユーリは、彼女の身体の花車なのにやわらかい感触に意識が向かないように意識をそらした。
 裸足で踏みつけた地面を、固い土や小石や落ちた枝や葉を足裏が[大{おお}][袈{げ}][裟{さ}]に感じる。
 よくまあ、裸足でこんな荒れたところを走ってきたと思う。
 やってきた道のりは覚えてないけど、たぶん、ユーリがやってきたほうへ戻ってる。
 じゃあ、なんで走ってたんだっけ?
 逃げてた?
 ボクハ何カラドウシテニゲテイタ?
 判らなくなった。
 これは夢か[現{うつつ}]か。
 幻かマヤカシか。
「あ、あの、リノン、さん?」
 何を訊いたらいいか判らないけれど、いま頼れるのは傍らの女性だけだ。
「はい、なんなりと」
「[此処{ここ}]は[何処{どこ}]、です?」
 まずは自分がいまいる場所について。
「ここは雑木林ですよ。お屋敷の裏にあります」
「お屋敷、っていうのは?」
「ああ、そうですね。そうでした。お屋敷にいらっしゃったのは、勇者さまが眠りについてからでしたね」
 勇者というのは、やっぱりユーリのことなんだろう。けど、まるで自分のことに思えない。
「お屋敷は、国王さまから勇者さまのご活躍への[褒{ほう}][美{び}]にと。それと静養のため島ごと贈られたものです。以前は王家の方々が狩り場としていたところです。お屋敷も元々は[別邸{べってい}]としてはもちろんですが、狩りの拠点としても建てられたそうですよ」
 島ごととか、国王とか、なんともスケールの大きな話だ。
 やはり、ユーリに自分のことだという実感はない。
 それよりもなによりも、
「なんで――ボクのこと〝勇者〞って呼ぶの……?」
 夢のなかにいるみたいで、ふわふわとしている大きな一因。
 一番の疑問をユーリは口にした。
 自分が勇者? というあまりにも突飛で現実感のない呼称だから、ユーリも無意識にちょっと半笑いになってた。
「フフフ。もちろん、それはあなたがこの世界を救った〝勇者〞さまだからです」
 リノンには、ユーリがジョークで自分自身のことを訊いたと伝わってしまったらしい。
 しかし、ユーリにとっては、
「世界を……? ボクが……?」
 ジョークじゃなかった。
 リノンが言う『世界を救った』というのが、まるでまったくぜんぜんすこしも自分に響かなかった。
「フフ、お忘れになられましたか? 二年もの長き旅の果てついにあの強大なる魔王を[討伐{たお}]し、長い戦いを終わらせたんです! 勇者さま、あなたがあの魔王から世界を救ったんですよっ!」
 これまで淡々としていたリノンが、ちょっと熱っぽく語ってるのが判った。
 それでもまだユーリがジョークを言っているとでも思ってるらしい。
 やっぱりこれは夢かなにかなんだろうか。
 森の妖精にイタズラでもされて、幻を見させられているんだろうか。
 ボクは、実は、まだ眠っているのでは?
 そう思えてくる。
 というか、そう思いたいし、そうとしか思えなくなってくる。
 リノンの話はユーリのなかで何ひとつ引っかからない。
 他人の話を聞かされてるように感じるのに、でも彼女はユーリについて、ユーリに向けて話をしている。
 リノンが話すユーリの《過去》の話。
 まるで身に覚えのない想い出話。
 頭のなかに[靄{もや}]がかかってるみたいだった。
 頭が重い。
 身体が重い。
〝何か〞考えるべきことがある。思い出すべきことがある。
 だけど、思い出せない。思い出せる気もしない。
 ユーリは考える気力もなくなりつつあった。
 ――魔王? 勇者? 世界を救った?
 ――何を言ってるんだ、このひとは……?
 そんな気持ちになってくる。
 あまりにも[荒{こう}][唐{とう}][無{む}][稽{けい}]で、バカみたいな話だ。
 ボクが勇者なんて。
『勇者』だとか『魔王』だとか『戦争』だとか、ユーリにとって遠くの世界のことだ。
 リノンはまるでそれらが《過去》だというふうな口振りだった。
 なんで、ボクは此処に居るんだ?
 ボクはどうして村にいない?
「なんで、ボクはこんなところに……?」
「それは勇者さまが、魔王を打倒し、」
「村はどっち?」
 ああ、そうだ。ボクは村へ帰ろうとしたんだ。
 平和すぎて穏やかすぎて、何も起こらなくて、退屈で息が詰まりそうになることもある。
 あの村へ。
 だから、こんなところを[闇雲{やみくも}]に走っていた。
「村とは? 勇者さまの故郷のことでしょうか?」
 リノンはきょとんとした。
「そう、十一月之国の、一面クソミドリの、クソ田舎の村……、」
「クソとかどうとかは聞かなかったことに。――はい。もちろん存じあげております。勇者さまのことなら、わたしはなんでも知っているんです」
 言って、リノンは声を弾ませている。
 彼女には誰よりも〝勇者〞について詳しい情報を持つという自負があった。
「じゃなくて、じゃなくて……!」
 ユーリは[焦{あせ}]ってきていた。
 つーっと冷たい汗が伝ってくる。
 訊きたいことが彼女の口から返ってこない。
 何を訊いたらいいのか、自分でも判ってない。
 いや、そうじゃない。それを訊くのを心の何処かで怖がっている。
 真実。というのは、いつでも正しいワケじゃない。
 ユーリの質問とリノンの答え。
 質問すればするほど、答えが返ってくればくるほど、[齟齬{そご}]が広がってく。
 話が[嚙{か}]み[合{あ}]わない。
 話がすれ違ってく。
 冗談みたいに。
 ユーリが自分の状況を把握できていないように。
 リノンはユーリの内側で起こっているアレコレを知る術がなかった。
「判ってよ」
 というのは、無理がある。
 ユーリが思うユーリ・オウルガとリノンが知っているユーリ・オウルガは――違っているからだ。
「いったい何処なの? 林だとか森だとか、お屋敷がどうのこうのじゃなく」
「どうされたんですか?」
「ここは何処? 何処にあるなんていう場所?」
「ああ、そういうことですか。申し訳ありません。わたしったら勇者さまがお目覚めになったことに舞い上がってしまいました」
 リノンはうやうやしく言って、
「此処は、[四{し}][月{がつ}][之{の}][国{くに}]――エイプロディーテ国王陛下が統治する首都ディーテ。……から、やや遠方にある島です」
答えた。
「……四月之国……? 十一月之国じゃないの……?」
 村のある十一月之国から四月之国までは、山を越え谷を越え山を越え谷を越え山を越え、[砂{さ}][漠{ばく}]を越え――……とかユーリには想像できない距離があるはずだ。
 つまり、此処からユーリの村は、震えるくらい遠く離れてる。
「[噓{うそ}]……?」
「わたしが〝勇者〞さまに噓などつくはずがありません」
 リノンはにっこりと微笑んで、上目づかいでユーリを見る。
「なんで、ボク、……こんなところに……?」
 リノンに支られていたユーリの足が止まる。
「まだ混乱されていらっしゃるのですね。判ります。強い意志と決意をもって故郷を離れ二年……。一ヶ月が三十日、二年で――七百八十日。つらく険しい戦いをようやく終え、故郷に帰ることができる――勇者さまが倒れられたのは、その矢先でしたから……」
 過去を言いよどむリノンに、
「二年……? 倒れた……? いったい……ボクに何が起こってるの?」
 ユーリは『現在進行』の自分について問う。
 自分の身にいったい何が起こったのか。
 何がどうなってるのか。
「倒れてから今日まで。一年もの間眠りつづけたんです、勇者さまは」
 リノンが呼びかけてくる。
「勇者……それは、〝ボク〞のこと?」
「はい、もちろん!」
 リノンが[頰{ほお}]を紅くしてうなずいた。
「ボクはただの子供だ」
 としかし、ユーリは大きく頭を振った。
 村を出て都会で働くとか漠然とした願望だけで、たいそうな夢も大きな希望も特にはない。
「違います。すべての国々に、生きとし生けるものすべてに、夢と希望を与えることができる。それがあなた――勇者さまです!」
「違う。ボクは〝勇者〞なんかじゃない……!」
「いいえ、あなたは――あなたこそが〝勇者〞さまです!」
 頭を振るユーリに対し、きっぱりとリノンが断言する。
 ユーリは困惑するばかりだった。
「いや、でも、だって、ボクは、きのう……」
 記憶ではつい《きのう》ユーリは生まれ育った村にいたはず。
 なのに。時間はもっとずっと流れ過ぎていたんだった。
「魔王によって暗闇に等しい世界となったなかで、勇者さまは人々の〝光〞になりつづけました。しかし二年におよぶ長い戦いでその心も身体も傷ついていた……。わたしも誰もそれに気づけなかった。あんなにもお慕いしていたのにわたしでさえも……。そしてあんなことが……」
 [哀{かな}]しみ色の瞳が灯火に揺れる。
「あんな……こと?」
「はい」
 リノンは言葉を紡ぎ出す。
「一年前。魔王[討伐{とうばつ}][後{ご}]、あまり時間も経ってないあの日。国王陛下による魔王討伐の祝賀行事の最中、[宴{うたげ}]の会場から勇者さまの姿が消えました」
 その後ろ姿を追って、リノンは会場から出た。
 しばらく周囲を[捜{さが}]し廻って、
「ようやく、わたしが、そのお姿を見つけたときには、もう……勇者さまは意識を失い、倒れて……」
「それから、ボクは……?」
「はい。あの日から一年、眠りつづけ、そして本日、勇者さまはお目覚めになったんです!」
「……ん、ということは、二年、プラス一年……ボクはいま、十四歳だから……?」
 こんがらがってきた。頭が廻らない。
「十四歳? いえいえ、」
 リノンは首振った。
 ユーリがまだ混乱していると思っている。
《自分の年齢》を間違えているんだと。その様子が微笑ましいと。
「フフフ。たしかに。勇者さまが《勇者》として覚醒したのは十四歳のとき。それから二年の
旅を経て、一年も眠りつづけていらっしゃいましたが、現在勇者さまは〝十七歳〞です」
「じゅ、じゅ、十七⁉」
 ユーリは、地面がぐにゃりと[歪{ゆが}]んだような錯覚を覚えた。
 [眩暈{めまい}]がして、もんどり打って倒れそうになった。
「勇者さまっ」
 とっさにリノンがユーリを身体ごと受け止めた。
 ユーリはリノンに抱きとめられた、その腕のなかで身をちいさくした。
 全身に力が入らない。
「こんなこと、って……?」
 腕に、手に力が入らない。[指尖{ゆびさき}]が震えている。
 よく見れば、その震える手は、ユーリの記憶にある『自分の手』と違う。
 指尖が長く、手の平も大きくなっている。
 そこにあったのは『十四歳』のユーリ・オウルガではなく『十七歳』になった勇者ユーリ・オウルガの手だった。
「こんなことって……⁉」
 起こるのか?
 夢か現か。
 幻や妖精に[誑{たぶら}]かされたなら、いっそそれで構わない。
 これは夢や幻のほうがいい!
 あまりにもバカバカしくて、バカげてる。
 誰かが[描{えが}]いた物語りなら、超駄作すぎる。
「勇者さま……?」
 あきらかに様子のおかしいユーリの顔を、リノンが不安げにのぞきこむ。
 [赫{あか}]いランプの灯りに照らされていても、ユーリの顔が[蒼白{そうはく}]になってるのがひと目で判る。
「勇者さま、もしか、いえ、やはり――覚えてらっしゃらないんですか?」
 ようやっと、リノンが違和感に気がついた。
 ずっとユーリとの会話は嚙み合ってなかった。
 ただ。盲目的に心酔する勇者の帰還に[沸{わ}]き[狂{くる}]っていたために気づいていたのに、気づかなフリをしていた。
 だけど、[拭{ぬぐ}]えない違和感に戸惑うリノン。
 それ以上に、ユーリが自分自身の違和感に戸惑っていた。
 恐怖を覚えた。
「覚えて……ない?」
 ユーリは理解した。
 なるほど。ああ、そうだ。そうなんだ。

 ――自分で、自分が、

 ――思い出せない。

 ――ということをようやくユーリは認識した。

       †

 時間はすこし巻き戻り、ユーリが長い眠りから覚めてすぐのことだ。
 遠くで誰かの声が鳴っていた。
 泣いているのか。
 それとも笑ってるのか。
 判らなかった。
 けど、それは自分のことを呼ぶ声だった。
 誰かは判らない。
 でも。
 それは、たぶん――

「ここは……。――何処……⁉」
 目が覚めたとき、ユーリが最初に見たのは、見知らぬ天井だった。
 薄いカーテンがかかった大きな[窓{まど}][硝子{ガラス}]からは、ナナメになった[赫{あか}][紫{むらさき}]の太陽光線が部屋のなかに注がれていた。
 いつもの天井は、いつどうやって[付着{つい}]たのかも判んないシミや汚れがある。
 なのに、見上げた天井にはまったくない。
 寝返りを打つのにも気をつかう狭いベッドじゃなくて、巨人が寝返りを打っても大丈夫なくらいに大きなベッド。
 噓みたいに[滑{なめ}]らかなシーツに、身体の一部みたいに肌にやさしいブランケット。シンプルだけど見事な装飾がされた家具、調度品。
 目に映るすべてが――まるで、夢のなかにいるみたいに現実感のない視覚的情報ばかり。
 身体が鉛みたいに重く、動く[度{たび}]に全身が[軋{きし}]む。
 うまく身体が動かせない。動かない。
「っと、」
 とりあえずベッドから出ようとした。
 が、うまく身体がコントロールできない上にシーツが滑らかすぎて、ベッドから[滑{すべ}]り落ちた。
「ぐ……っ!」
 [仰{あお}][向{む}]けに頭から床に落ちた。
 ダメージはない。無意識に受け身を取ったのもあるが、それよりもベッドの周囲に重厚な[絨{じゅう}][毯{たん}]が敷かれてあったせいだ。
 異常にふかふかな絨毯は、雲の上にいるみたいな感覚がして足がすくんだ。
 こんなのはユーリの家にはない。
 田舎村の強風で飛んじゃいそうな一軒家。
 たとえば。村でこんな高価な品を所有してるのは、村長くらいだろう。
 でも、ここは村長の家じゃないはずだ。
 いくら村長でもたかが寝室がこんなにも過度に広くない。
 寝具ひとつ置くには意味不明なほど広い部屋。
「じゃあ、ここは何処なんだ?」
 だだっ広い部屋。
 大きすぎるベッドがひとつ。
 無駄な空間。
 無駄に[凝{こ}]った調度品。
 半裸状態のユーリは、家具っぽい何かをあさったが、まともに着られそうなモノはなく。というか、服だという認識が追いつかない高貴な服ばかり。
 目覚めてすぐだからか、思うように動かない身体と思考のせいか、現実離れした世界観の部屋のせいか、その全部か、ユーリは一度ベッドまで戻って滑らかすぎるシーツを手にした。
 シーツを羽織る。とりあえず、半裸状態は回避した。
「それにしても、スベスベすぎる……」
 肌に触れたシーツの話。
「なんなんだ……?」
 夢か現か。
 窓の外。夕焼けの[赫{あか}][紫{むらさき}]が噓みたいな空間の現実感をより一層[削{そ}]いでいる。
 広すぎる部屋で、[扉{ドア}]までが永遠みたいに遠く感じた。
 思い通りにならない自分の身体をなかば引きずって、扉までたどり着く。
「これは扉か?」と思う装飾過多な様のそれを押したり引いたりして廊下に出た。
 部屋の外もやはり、[絢{けん}][爛{らん}][豪{ごう}][華{か}]な様子で、現実感が削がれる。
 音もないくらいに静かだった。
 遠くで微かに鳥たちの[啼{な}]く声が聞こえたが、ユーリの村のガサツに穀物をあさる小鳥たちとは違う、品のある啼き声に聞こえる。気のせいだが。
「出口は何処だ?」
 廊下が前後にクソ長い。どっちが前でどっちが後ろだ。
「ボクはどっちに進めばいい」
 廊下の真んなかで、ユーリは立ちつくした。
 [呆然{ぼうぜん}]と廊下の大きすぎる窓の外を見ていた。
 それで、廊下の奥のほう、遠くから近づく人の影に気づけなかった。
 そして、その[人物{ひと}]がこちらの存在に気がついた。
 手にしていた派手な花が生けられた[花{か}][瓶{びん}]を落っことす。
 ――ガシャン。
 と陶器の花瓶が[爆{は}]ぜて、その音で、ユーリはわれに返った。
 花瓶を落とした人と目が合う。
「――ユーシア・サマーっ⁉」
 とそのひとは、幽霊でも見るみたいな目で大声で叫んだ。
 その[男性{ひと}]は、この屋敷の使用人だった。
 そんなこと知らないユーリは、
「わーっ‼」
 大声を上げた。
 腰が砕けそうになり、ユーリは、廊下に[尻餅{しりもち}]をついた。
 思い通りに動かせない身体をひねって、[四{よ}]つん[這{ば}]いで使用人に背を向ける。
 転がるようにその場から、逃げ出す。
 [何故{なぜ}]か、
「……に、逃げなきゃ!」
 そんなふうに思ってしまった。
 自分は此処に居る理由が判らなかった。
 場違いだと思った!
 知らないひとに見つかった!
 転げ回りながら、廊下を進む。
 うしろを振り返る余裕はなかった。
 使用人は追いかけてこなかった。〝誰か〞を呼びに行った。
 ユーリは長い廊下の角を曲がる。
 また廊下が長く向こうへつづいている。
 そして、その奥の奥に人影が見えた。
 もしかすると、ただの柱の影だったかもしれないが、ユーリはとっさに、窓に張りついた。
 逃げ道はもう、開いた窓しかない!
 そう思った。
 ユーリは、窓硝子にしがみつき、[窓枠{まどわく}]によじ登る。
「うわ……!」
 思いのほか高かった。
 ここは建物の二階。
 でも、自分の家の屋根から飛び降りるのと変わらない。
 と、思ったが、
「や、やっぱ高い……‼」
 腰が引けた。
 が、廊下の奥から人の声が聞こえた気がした。
「ユーシア・サマー……!」
 何を言っているのか、判らなかった。
 が、このままでは――捕まる!
 と思った。
 いま自分がどんな[場所{ところ}]にいて、どんな状況に[陥{おちい}]っているのか、まるで理解できてないけど、捕まったら、
「あーして、こーして、あーされ、こーされ……!」
 縛り上げられつるし上げられ[棍棒{こんぼう}]で[撲{ぶ}]たれ鋭い針で刺され焼き印を押され水責めされ最終的には土に埋められ……!
 そんな想像が一気にユーリの脳裏を駆け抜ける。
 ユーリは、もう飛ぶしかなかった!
 窓枠を蹴って――という感じではなく、重い身体のせいでほとんどただ落下した。
「うわぁああああああぁぁぁぁっ!」
 宙に躍り出す。
 地面に着地し、そのままの勢いで転がる。
 思いのほか、地面に[叩{たた}]きつけられても痛みはなかった。
 ベッドから落ちたときみたいに絨毯はなかったが、落ちたのが手入れの行き届いた生け垣だったのが幸いした。
 それだけじゃない。
 この身体は、こんなことでは動じないほど[頑{がん}][丈{じょう}]だった。
 でも、ユーリは覚えてない。

 自分が――かつて勇者だった。

 ということも。
「〝勇者〞さまだ……!」
 飛び降りたユーリのうしろ姿を二階の窓から見送る使用人。
 そのとなりに、
「ほんとうのほんとうに〝勇者〞さま、なんですよね……⁉」
 [見{み}][目{め}][麗{うるわ}]しいひとが、同じくユーリを目で追いかける。
「あ、ああ! そうだ! 間違いない!」
 使用人がうなずく。
「ですよね! そうですよね!」
 その見目麗しいひとも同じようにうなずく。
「勇者さまが――お目覚めに……!」
 そのひとは――リノンは大きな瞳をランランと輝かせる。
 心が踊り狂う。
 勇者が眠りに落ちて約一年が[経{た}]とうとしていた。

       †

 そして、今日。
「勇者さま、お屋敷に戻りましょう」
 リノンが言った。
「お目覚めになったばかり。きっと混乱してらっしゃる。記憶もいずれは……」
 微笑みながらリノンはあえて楽観的なことを口にする。
 リノンが手を伸ばして、ユーリの手をつかんだ。
 彼女の花車な指尖とか伝わってくる温度とか、そんなのを感じる余裕もなかった。
 手を引いて、ユーリを導こうとする。
 雑木林を、森の闇のなかを進んでいく。
 ユーリは、自分の記憶を思い出そう、[覗{のぞ}]きこもうとする。でもそこにはぽっかりと口を開けた大闇しかなかった。ただの空洞。
 ユーリの意識はそこに吸いこまれそうになる。
「ダメだ……!」
 ユーリはリノンの手を振り切った。
「勇者さま?」
 手を解かれ、リノンはランプを[掲{かか}]げユーリを見た。
 そこは森を抜ける寸前だった。
 もう出口は見えているのに。
 向こうにある屋敷の灯りが視界に入っているのに。
 このまま闇に吸いこまれてしまいそうな気がした。
「勇者さま、さあ」
 リノンが手を伸ばす。
「勇者じゃない!」
 ユーリは声を張り上げた。
「ボクは! ボクは、勇者なんかじゃあ、ないんだよ……⁉」
 だって、ボクだ。
 ボクなんだよ?
「ボクは……ユーリ・オウルガだ。ユーリ・オウルガなんだ……」
 自分の名前を口にする。
 そうじゃないと自分が自分でいられないような気がした。
「いいえ、あなたはまぎれもなく勇者さまです」
 ランプの灯りに照らされるリノンは大きな瞳をランランと輝かせ、真っ直ぐにユーリを[見{み}][据{す}]える。
「かつて、ただの少年だった記憶と、勇者だった記憶が[綯{な}]い[交{ま}]ぜになって混乱を引き起こしているんです」
「違う、そうじゃない!」
 ユーリは大袈裟に首を振る。
 顔は蒼白、膝が笑っていまにも地面に崩れ落ちそうだった。
「そうじゃないんだ……。知らない……きみの言う勇者のこと……自分のこと……、ここが何処なのか。なんで、こんなところにいるのか。全部、全部判らないんだよ……!」
「だから、それは混乱して、」
「違うんだよ……‼ 思い出せないんだ、そんなこと、勇者がどうとか……。それって、本当にボクなの……?」
 リノンが一歩、ユーリに近づく。
「あなたは勇者です。――ユーリ・オウルガ」
 彼女ははっきりと言った。
「わたしが一番それをよく知っている。いえ、ずっと勇者さまのことを見てきたわたしだからこそ、あなたが勇者だと言えるんです。あなたがあの魔王を[討{う}]った」
 自信に充ち満ちた表情でリノンは、また一歩、ユーリに近づいてくる。
 微笑んではいるが、その目は笑ってない。
 その目がこれは冗談なんかじゃないと言っている。
 本気の本気。噓[偽{いつわ}]りのない、[一切{いっさい}]の曇りのない瞳だ。
 その黒目がちな瞳がまっすぐにユーリを[捉{とら}]えて離さない。
 瞳の真剣さが、本気さが、怖かった。
 これが、この状況が噓でも幻でもなく、リアルだとユーリに[示唆{しさ}]する。
 ニゲラレナイ。
 コレハゲンジツダ。
 ユーリは一歩、あとずさる。
 リノンが一歩、踏みこんでくる。
 ユーリは一歩、あとずさる。
 リノンが一歩、踏みこんでくる。
「大丈夫、勇者さま。わたしがついています」
 言って彼女は微笑んだ。
 綺麗に笑った。
「……なんで、なんで、そんなにボクを……?」
「さあ、勇者さま……」
 また、彼女が手を差し伸べる。
「ボクは勇者じゃない」
「いいえ、勇者さまです」
「ボクは勇者じゃないんだ。ただの、十四歳の、ユーリ・オウルガなんだ……」
 それ以外の何者でもない。
 なら、此処に居る自分はいったいなんなんだろう。
 きのうまではユーリは十四歳の少年だった。
 それが、今日は三年の月日が流れ、十七歳になっていた。
 しかも。
「あなたは勇者です」
 リノンは言った。
「何度でも言います。あなたは魔王を討ち果たし、世界を救った勇者さま」
 納得するまで何度でも何度でも彼女はそれをくり返すだろう。
 だって、それが真実だから。
 ユーリにはまるで現実味のない現実だったとしても。
「なら、わたしがそれを証明してみましょう」
 彼女は差し出した手を一度、引っこめた。
「忘れたというのなら、思い出せないというのなら、わたしが思い出させて差し上げます」
 リノンの瞳が揺れる。強い意志と強い想いで黒く光る。
 その瞳で見つめられるとユーリは身動きが取れなくなる。
「わたしは、わたしが一番、勇者さまのことを知ってる。わたしが言うんだから間違いないんです。その顔、その目、その鼻、その唇、その手、その指、その足、その[踵{かかと}]、その髪、その眉毛、[睫{まつ}][毛{げ}]の一本一本まで、わたしが記憶する――わたしの勇者さま!」
 いかに[執拗{しつよう}]で酔狂なほどに彼女が〝勇者〞に入れこんでるかが判る。
 怖いくらいに。
 だからこそ、彼女は言った。
「――お手合わせ願います」
 リノンは右足を一歩後ろに、腰を落とし、腕を左右非対称に構える。
 [三{さん}][月{がつ}][之{の}][国{くに}]地方に見られる格闘術の構え。
「え? え? え? え? え? えーッッ⁉」
 意味が判らなかった。
 ユーリはリノンが何故か戦闘モードに入ったのだけはなんとなく判った。
 だから、余計に[狼狽{うろた}]えた。
「なんで?」
 思いがけず、闇に吸いこまれそうになっていた意識がこっちに戻ってきた。
 それもリノンの計算だったのか違うのか、ユーリには計りかねる。
「元よりわたしなど記憶にないかもしれません」
 残念そうというよりは彼女にとってはそれも想定内なんだろう。けれども、
「または、まだ記憶がはっきりとしないと[仰{おっしゃ}]るならば、思い出していただきましょう」
 はっきりと彼女は言った。
「いえ、思い出させてみせます!」
 地面を強く踏みしめる。
「この一撃にすべての想いをこめよう! [龍脈{りゅうみゃく}]に与えられし、その力を示せ。わが名は、リノン・ヴィータ。勇者とともに魔王を討ち果たした九十九人の一人」
 名乗りを上げるときの科白みたいで判りづらいが、それは詠唱も兼ねているからだ。
《魔力》を練るための精神統一とも言える。
 魔力が高まり、リノンの身体の外にも[溢{あふ}]れてくる。
 彼女の周囲の空気がビリビリとひりつく。
 目に見えない何かが彼女を[覆{おお}]うオーラとなる。
 その様子を目にして、ユーリは、[呟{つぶや}]いた。
「――……これって、魔法……?」
 その振動が、波動が二メートル以上離れたユーリにも伝わってくる。
「リノン、行きます!」
 息を吐くように言って、彼女は地面を蹴った。
「――……!」
 一瞬。ほんの一瞬。まばたきの間に、リノンはユーリの目前まできていた!
 [懐{ふところ}]に入っている。ほぼゼロ距離。
「ハッ!」
 リノンが[拳{こぶし}]を繰り出した。
 速すぎて何が起こったのか、起こっているのか、何をされたのか、何をされそうになっているのか、まるで判らなかった。
 なのに――
 パアァァアァァン! と空気が破裂するような音が鳴った。
「――へっ⁉」
 ユーリは驚いた。
 速すぎて目で追うことができなかったリノンの一撃を――防いでいた。
 [鳩尾{みぞおち}]目がけて繰り出されたリノンの拳をユーリは左腕一本で防御した。
「身体が勝手に⁉」
 無意識だった。
 あれだけ重くて鈍くて自分の身体じゃないみたいだったのに、リノンの攻撃に身体が勝手に反応した。
「――やはり! さすが勇者さまです!」
 攻撃を繰り出したリノンが、満面の笑みを浮かべる。
 身体が震えるほどに喜びがオーラになって溢れる。
「もう一発!」
 うれしくて調子に乗って、リノンは追撃を放った。
 今度はさらなる魔力を上乗せして。
 ユーリの顔面目がけて、蹴りを浴びせる。
 その瞬間。
 世界が[歪{ゆが}]んだ。
「ぐべぼ――……ぅ‼」
 叫ぶなんてできない。[呻{うめ}]き声が自分の耳にも届かなかった。
 無意識で防いだ一撃目だったが、追撃は完全にユーリは意識してしまいまるで身体が動かなかった。
 さっきまでと同じ重く鈍く言うことを聞いてくれない自分の身体だ。
 リノンの廻し蹴りが的確にユーリの顔面をとらえる。
 そのときだけは、世界がやたらとゆっくりに見えていた。
「あれ……?」
 蹴りを浴びせたほうのリノンが首をかしげている。
 思ってたのと違ってたらしい。
 そりゃそうだ。だって、ボクだもん。
 身体が浮きあがる。
 リノンの身体が左足を軸に美しく回転する。
 ゆっくりユーリの身体が回転する。
 天と地が逆になる。
 ユーリの身体は後方に宙返りして、それを見ていた。
 ちょっとも目を離さず、離せずにいた。
 なんて綺麗なんだろう、と。
 リノンの構え。ステップ。拳を繰り出す動作。角度。指尖、[爪尖{つまさき}]、拳の山のひとつひとつ。髪の毛の揺れ方。
 睫毛の長さ。
 黒目がちな瞳。
 その美しい軌道に、その美しいフォームに、その美しい姿勢に、その美しい蹴りにユーリは[見惚{みと}]れた。
 どれをとっても美しかった。
 そして、完璧に打ち抜かれた。
 ――顔面を。
 ゆっくりだった[刻{とき}]が急激に動き出す。
 顔面が爆ぜるような衝撃が、後頭部から駆け抜けていく感じがした。
 ユーリは数メートル宙を舞って、背後の木々をなぎ倒しながらブッ飛んだ。
「死んだ」
 と思った。
 でも死んでなかった。
 地面に[四肢{しし}]を打ちつけて、リノンが掛けてくれたケープが引きちぎれた。
 でも生きてる。
「……アレ?」
 まるで夢のなかで起こっているできごとだ。
 身体がうまく動かないことや、綺麗な女性に一撃見舞われたり、そのひとに「勇者さま」と呼ばれることも。
 全部、夢みたいだった。
 これはたぶん、悪夢なんだ。
「んー、アレ〜〜、おっかしいなぁ」
 首をかしげながら、黒目がちな瞳をまたたかせ、リノンが近づいてくる。
 本物の勇者なら、あの程度の攻撃簡単に受け止められたはずだ。
 その証拠に、初撃は防いだ。
 しかし、二発目は防ぐどころか避ける仕草もなかった。
 彼女は、天地が逆になって地面に転がっているユーリの傍らにやってくると、その場にしゃがみこんだ。
「どういうことです?」
 それはこっちが訊きたいよ。ってユーリは思ったが、声がでなかった。
 リノンの一撃に、自分が置かれた状況が重なって、まるで理解が追いつかない。
 それでなくても混乱することばかりだったのに。
「あ! なるほど、」
 リノンが何か悟ったふうな顔をする。
「ショック療法というやつですね。わたしの一撃をあえて[喰{く}]らうことでその痛みをもって、記憶の回復を……――」
「……なんにも思い出せない……」
 ユーリは呟く。
「え?」
 ユーリの視界で逆さまのリノンは困った顔になった。
 リノンの視界には逆さまで、
「何にも思い出せないんだ……」
 ユーリは呟きつづけた。
「どうして……⁉」
 ややリノンの声がうわずる。
「じゃあ、わたしの勇者さまは何処に⁉」
 ユーリには勇者の記憶がない。
 つまり、リノンの知っている勇者は此処にはいないということになる。
 リノンは、それに気がついた。
 気がついてしまった。
「じゃあ、――あなたはダレ?」
 それを口にした瞬間、リノンの顔から表情が消えた。
 髪の毛を雑草でもむしるように乱暴に引っぱって、ユーリの頭を持ち上げる。
「わたしの勇者さまは何処?」
 リノンが同じ質問をした。
「――ボクは、ボクだ……」
「じゃなくてじゃなくて、そういうんじゃなくて……!」
 彼女は立ち上がると、ユーリの髪から手をはなした。
 ぽてんとなさけなく地面に寝そべるユーリ。
 と、彼女は今度は、ユーリの両足をつかんで、一気に持ち上げる。
 その花車な腕の何処にそんなチカラがあるんだろう。
 またユーリの視界が、天地が逆転する。
「勇者さま、勇者さま出てきてくださーい」
 ユーリの身体をゆさゆさと揺さぶりながらリノンは声をかける。
 そんなことをしても、勇者がユーリのなかから落っこちたりするワケがない。
「ボクは、ユーリ・オウルガ……だ」
「なんなんですか。その《ボク》って。わたしの勇者さまは自分のことは《オレ》って言ってたんですけどぉ」
「ボクはボクだ。ユーリ・オウルガだ。ユーリ・オウルガなんだ」
 くり返す。名前を連呼する。
「ボクはユーリ・オウルガ。――……勇者なんかじゃあない……」
「でも、わたしの一撃を受けても傷ひとつないじゃないですか。意識もある。一年も眠っていたのにですよ……? アレ? でも一人称とか喋り方もちょっと違う? すこし十一月之国訛りがある……しかし。というのは、どういうこと?」
 リノンがパッと足から手を離した。
 どさり、地面の上に倒れこむユーリ。
 今日はよく地面に[這{は}]い[蹲{つくば}]る日だ。
「あなたはダレなの?」
 リノンがしゃがみこんで訊く。
「ボクはユーリ。ユーリ・オウルガだよ。年齢は十四歳。十一月之国で暮らしてる」
 ユーリがまた答える。
「いいえ、それは――三年前までの勇者さまの情報……。あなたはいま、十七歳で四月之国にいる……」
 言いかけてリノンは何かを考える。
「やっぱり、そうだわ。勇者さまに間違いないのよ。でも、これは? これって……?」
「――悪夢だわ、これは」
 リノンはひとつの仮説に行き当たった。
「勇者さまは、もしかして《勇者》だったときの『記憶』だけを失くしているんじゃ?」
 ぽんと手の平で拳を打った。
 納得した。
 リノンも、そして、ユーリもすとんと[腑{ふ}]に落ちた。
 ユーリは、身体を起こした。
「それだ……!」
 ふたりは顔を見合わせて声を[揃{そろ}]えた。
 十四歳から十七歳の間。
 ユーリ・オウルガが《勇者》だったときの記憶だけが失われている。
「ボクは、本当に〝勇者〞だったの……?」
 これが夢でも幻でも妖精のイタズラでもないとしたら、そういうことになる。
「ええ、あなたは勇者さまです」
 リノンがにっこりとうなずく。
「違う、ボクは勇者なんかじゃ……」
「いいえ! あなたは勇者さまです!」
 リノンが一歩踏みこんできた。
 細い指をユーリの唇に押し当てて、沈黙させた。
 [真{ま}]っ[直{す}]ぐにリノンを見やる。
「あなたが勇者さまだということは――わたしが証明します!」
 リノンは微笑んだ。
 目はぜんぜん笑ってない。黒目がちな瞳がギンギンになってる。
「しかし勇者さまが勇者さまとしての記憶を思い出せないと仰るなら、[嫌{いや}]でもわたしが思い出させてみせます!」
 その瞳の鈍い色に、背筋がぞくりとした。
「記憶がなくても〝記録〞があります」
「記録?」
「そう、記録。わたしという記憶装置が、ユーリ・オウルガがかつて勇者だったことを証明する記録です‼」
 狂信的で盲目的で、
「わたしたちはいま、このときより運命共同体……そして――共犯者」
「えっ⁉」
 悪い響きだった。
「そうです。ふたりで世界を[欺{あざむ}]く共犯者になるんです!」
「な、なんで⁉」
 罪を背負う。その意味をユーリはまだ知らなかった。
「勇者さまは、〝勇者〞として世界に必要なのだから」
 言って、リノンは笑った。
 目は笑ってなかった。
 何故だか、ユーリはその黒目がちな瞳に見つめられると、逆らえない気がした。

 かつて勇者だったユーリ・オウルガは、目覚めると記憶を失くしていた。
 勇者だったことも、あの魔王を倒したことも覚えていない。
 それを補う記録と情報を持つ、リノン・ヴィータ。
 世界は、まだ勇者を必要としている。
 だから、ユーリは勇者じゃなくてはいけない。
 だから、もう一度、勇者とならなくてはならない。
 その日々が今日からはじまる。
 再び、勇者に。
 そのためにいまユーリが頼れるのは、リノンだけだった。

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