一
俺の、人間としての最後の記憶は[酷{ひど}]く[曖昧{あいまい}]だ。
波打つ白い紙に、解像度の低いプロジェクターで映像を写したように不鮮明だ。
山奥に建つ田舎の支社に向かう途中。街灯のない山道、ところどころ白い塗料が[剝{は}]がれ[錆{さ}]びついてしまっているガードレール、[鬱蒼{うっそう}]と[生{お}]い[茂{しげ}]った木々、社会人二年目の秋に買った新古車の車、耳をつんざく鋭いブレーキ音、そして、道路の真ん中で目を丸々と見開いて固まっている一匹の子猿。
猿を[避{よ}]けるために急ハンドルを切った俺の車は、ガードレールを突き破り、雑木林へと転がり落ちた。
(ああ……、猿にぶつからなくて良かったな)
それがおそらく、俺が人生の最後に思ったことだった。
* * *
ぽかっと目が覚めた。
いつもの癖で、枕元に置いている[筈{はず}]の、携帯電話に手を伸ばそうとした。……が、何かおかしい。手を持ち上げたような感じがしない。頭では「手を動かせ」と命令しているのに、手が動いたという実感がない。体が動かない、というのとはちょっと違う。動かないというより、手がない。いや、手どころか、何もない。体というものが存在しない。
なんだこれ、俺はどうしているんだ。何をしているんだ、そもそも右ってどっちだ、左ってなんだ。
俺って誰だ。俺はなんだ……。
「そも、人間の精神とは[脆{もろ}]いもの」
声がした。
その瞬間、目の前(目があるかどうかはさて置き)に一匹の亀が現れた。そこでようやく、今自分のいる場所が、白く広い空間だということに気づく。なんで今まで自分がいる場所すら見えていなかったんだろう。首を[捻{ひね}]る。きちんと首はそこにあったし、その上にちゃんと頭も乗っかっている。
ぐるりと見渡せば、上も下も横も、見える限りどこまでも白い空間が広がっていた。
「亀?」
亀といっても、俺の知っている亀とは大きさや色が違う。俺が小学生の頃に祭りでゲットしたやつは、深い緑色の手のひらサイズだった(後に成長して、両手で抱えられる程の大きさになった)。が、目の前の亀は、軽くその数十倍はある。それでもって、色が凄い。金だ、金ぴか。白い空間の中で、亀の周りだけがきらきらしている。発光体の亀など初めて見た。
「ぬしの精神が崩壊してしまう前に話しとこうか」
凄いな、どういう原理で発光してんだろ、と考えていたら、亀が[喋{しゃべ}]った。
「亀が、喋った」
「当たり前だ。俺は神だからな」
「……神、様?」
「そうだ」
「神様が、どうして俺の前にいるんだ? ていうか、ここはどこで、俺はどうしてここにいるんだ?」
目の前の亀が神様だということは、なんでだかわからないが、すぐに受け入れられた。神様以外に、この生き物をなんとも表現できないからだ。
オーラとかスピリチュアルだとかは全然わからないが、この亀からは目に見えない[神々{こうごう}]しい気配を感じた。目の前で「へへーーっ」と[平伏{へいふく}]したい気持ちになるような、そんな感じだ。
まぁこちらの亀様が本当に本物の神様だとしても、だ。何がどうして俺の目の前におわすのか。
「うむ。実はな、ぬしは、運転する車の前に飛び出してきた猿を避けて、ガードレールに突っ込んだあげく、山道を転がり落ちて死んだのだ」
「えっ」
あまりにも軽い調子で死を宣告されてしまったので、脳みその処理が追いつかない。
死んだ、俺が。死んだ。いやちょっと待て、じゃあ今ここにいる俺はなんだ。神様と話までしているぞ……、ってあれ、神様と話せるってことは死んでいるのか。つまりここはあの世か。言われてみれば納得だ。いや、もちろん納得したくはないけれど。
「ここは現世とあの世の間にある世界じゃ。本来ならすぐにあの世に行ってもらうのだが、[此{こ}][奴{やつ}]がどうしてもぬしに礼がしたいと言うものだからな」
亀が言葉を区切って、のそりと動く。するとその背の後ろから、一匹の子猿が現れた。
「あ、猿だ」
猿と亀が、視界の中で同居している。ううん、なんともシュールな光景だな。
「この猿は、ぬしが車を避けたおかげで助かったのだ。そのことをえらく感謝しておる」
子猿は「きっ」と鳴くと、ぐるぐると二周程小さな円を描いて走った。両手で抱えられる程の、小さな猿だ。小ささも相まって、なんだか妙に[可「か}][愛{わい}]らしい。
「感謝だなんて。わざわざありがとう」
ほんわかとした気持ちでいると、亀がまた身じろぎした。すると子猿は「ききっ」とひとつ鳴き声をあげて、神妙な様子で座り込んだ。
「この猿はぬしに恩を返すべく、[現{うつつ}]の身を捨ててここまでやってきた。しかしそなたは、もはや帰るべき身をなくした魂だけの存在。恩を返しようもない。なればと、此奴は自身の器をそなたに譲ると申しておる」
「俺に、譲る?」
つまり、猿は俺のために死ぬ、と言っているのか。自分の体を使って、俺に生きてくれ、って。
「いや、ありがたくはあるけども、折角助かった命だしなぁ。大事に生きて欲しいよ」
格好つけたわけではなく、本心からそう思った。俺は多分、あそこで死ぬ運命だったんだし、ここはそんなに気分が悪くない。ここがそうなら、きっとあの世も悪いところではないだろう。この世に全く未練がないわけではないが、このまま天に昇ってしまっても構わない。
「ふむ。そう言うと思ってな。『この現世』では帰る体がないので、俺の管理する『別の現世』に身を作ってやった」
「へ? 別の現世?」
「左様。ぬしもまさか、世界がひとつしかないとは思っておるまい? この世あの世は[幾{いく}][多{た}][数{あま}][多{た}]存在するぞ」
いいえ、世界はひとつしかないと思っていました。
そんな風に考えていたのは俺だけだったのだろうか。今まで「ねぇねぇ、世界ってひとつじゃないよね? 平行世界とか信じてるよね?」なんて誰にも尋ねたことがなかった。俺の知らないところでみんなそんな会話をしていたのだろうか。なんにせよ、凄いカルチャーショックだ。
「しかし、魂のなき肉体を構築するのは容易ではない。それなりの手順が必要となる」
「はぁ。なんだかご迷惑おかけします」
「そうさな。今からぬしを送る世界の王子は、悪い病に[罹{かか}]っておる。それを治してやるがいい。その間に、ぬしの肉体を構築しよう」
「王子?」
王子がいるってことは、今から行く世界の政治体制は王政なんだろうか。そもそも、違う世界ってどんな感じなんだろう。果たして俺の常識は通じるのだろうか。ガイドブックのようなものは[貰{もら}]えないのかな。「パラレルワールド入門~違う世界の歩き方~」みたいなやつ。
「夜は俺の世界だから、融通が効く。作りかけだが肉体を与えよう。が、昼は力が及ばんな。しばらくは此奴の中に魂を置くがいい」
此奴、と神様が子猿の方に向かって、のそりと首を向ける。ちょっと待て、俺は本当に猿になるのか。その間、猿は大丈夫なのだろうか。
「案ずるな。此奴の魂は俺のもとにある。心安く過ごせるさ」
子猿が小さい手を[叩{たた}]きながら「きぃ」と鳴いた。そうか、神様が一緒なら安心だ。そもそも、俺も体ができるまでここにいれば良いんじゃないかな。
俺は、死んでからここに来たから駄目なのかな。まぁ駄目なんだろうな。子猿は体がはっきりくっきり見えるけど、俺はなんだか全身ふわっとしてるし。ふっ、と風でも吹いたら、すぐにかき消えてしまいそうな儚さだ。
「さて、ではな。また会おう」
「わかった。子猿もまたな。恩返ししてくれてありがとう。違う世界を楽しんでくるよ」
多分にこりと笑った(気がする)神様と、ふりふりと尻尾を振る子猿に別れを告げる。と同時に、なんだか体が重くなっていく。まるで、空っぽだった袋の中に、ずしん、と大きめの石を放り込まれたみたいに。
今まで雲の上にいたのに、地上に向かって急降下していくように、ぐんぐんと神様達が離れていく。
果たして、俺は本当に、違う世界に行くのだろうか。そこで俺は生きていけるだろうか。猿の姿で、どうやって生活すれば良いんだろうか。そして、俺は王子様を救えるのだろうか。病気って言っていたけど、俺は医者じゃないぞ。神様、その辺りわかっているのだろうか。
そもそも、王子様がどんな顔なのかすらもわからないし、王子様がどんな病気かもわからない。けど、それ以前に……。
「神様ーーっ、俺、猿になっちまったら、王子様と喋ることもできなくないかーーっ?」
離れていく神様に、大声で叫んでみる。
神様が「あ、やべ」って顔をした(気がする)。
二
「羊肉食べるならうちが一番! 食べて損はないよ!」
「旦那、織物買うならウチにしときな。見てよこの折り目。裏側もほら、[綺{き}][麗{れい}]なもんだろ」
「良いドゥトが入ったよ。今年の初物さ」
威勢の良い掛け声や怒鳴り声、誰かを呼ぶ声に、子供達の泣き声笑い声。あちらでもこちらでも、大小様々なボリュームの声が飛びかっている。
「店」の前に立てられた、人の腰当たりの高さ程の木の棒に腰を下ろして、俺は目の前を通り過ぎて行く人を見ていた。
ざぁっ、と強い風がひとしきり吹いて、黄色い砂を巻き上げる。もう慣れたものだが、その度に息を止めないと、口の中に砂が入ってくるから面倒だ。慌てて口を一文字に結び、口の中じゃりじゃりは免れたが、体の方にはさらさらと降りかかってきた。ぷるぷると身を震わせて、砂を振り払う。
「あらぁ、可愛い猿だねぇ」
動いたことによって乱れてしまった脇腹の毛を、ぺろぺろと舌で[舐{な}]めて繕っていると、頭の上から優しい声が降ってきた。顔を上げてみれば、大きな[籠{かご}]を抱えたお[婆{ばあ}]さんが、にこにこと笑って俺を見つめていた。
無論、[褒{ほ}]められて悪い気などする筈がない。俺はお婆さんの籠に飛び移り、そのままするすると腕を登って肩に乗ってみた。
「あらまぁ賢い子だこと。ふふ、ますます可愛いわねぇ。ほら、ここにおいで」
お婆さんが籠を下ろし、手のひらを俺に向けて掲げる。俺は迷わず、その大きな手に飛び乗った。そう、それはもう、びっくりするような「大きな手」だ。
「お、メリル婆さん久しぶりだな。シェフタリ、可愛がってもらってんのか。良かったな。ほら、ユズルやるからこっち来い」
店の奥からご主人が出てきた。俺はお婆さんの手のひらを、尻尾でシタシタと[撫{な}]でてから、ご主人の元に駆け寄った。足元に座れば、ご主人が身を屈めて俺を抱き上げてくれる。
ご主人に抱えられたまま、石造りの店の中へ移る。中は、薄い日避けしかない店先より幾分涼しくて、思わず「きぃ」と満足気な息を漏らしてしまった。
「シェフタリっていうのかい。可愛い子を雇ったじゃないか。あんたが動物にそんなに優しいなんて知らなかったよ」
「ああ、可愛いだろう。ひと月前に拾ったんだ。これがまた可愛い上に頭が良くてな。まるで俺の言葉がわかってるみてぇに動くんだ。ほら、ユズルだぞシェフタリ」
ご主人は、脇に置いてあったユズルの房からひと粒摘まんで、俺の目の前に差し出してくれた。それを小脇に抱えてご主人の肩まで駆け上がる。そこいらの椅子より座り心地の良いその肩は、最近の俺の「お気に入りの場所」だ。[葡{ぶ}][萄{どう}]のような果物、ユズルにシャクリとかぶりつきながら、甘い汁で[喉「のど}]を[潤「うるお}]した。
俺がこの世界に来てから、すでに一ヶ月は[経{た}]っている。つまり俺が猿になってから一ヶ月だ。そりゃあおっさんの肩に乗るのだって慣れるさ。四六時中猿やってんだから。
* * *
神様のところから落ちて、目が覚めればあら不思議、砂漠のど真ん中だった。右も左も砂、砂、砂、たまに岩石。真上にはギラつく太陽。俺は、一瞬でカラカラに干上がった。
遠くの方に緑が見えたので、えっちらおっちら歩いてみたが、歩けども歩けども近づかない。まあつまり、どう考えても今の足のリーチで[辿{たど}]り[着{つ}]ける距離ではなかったのだ。
猿になった感覚に慣れる間もなく、俺はヒィヒィ言って[膝{ひざ}]を突いた。水っ気が全くないサラサラの砂は、時折吹く風に舞い上がって、徐々に俺の体を覆っていった。
砂に倒れた俺の耳に、地を[這{は}]う地鳴りのような「ドドドッ」という重低音が聞こえたのは、倒れてから幾分か経ってからだった。少し気を失っていたのだろう、体全体にうっすらと砂が積もっていた。
心臓に響く音に、ぼんやり目を開くと、もうもうと立ち込める[砂{すな}][埃{ぼこり}]が遠くに見えた。そして、砂埃の合間に、チカリチカリと光る[灯{あか}]りも……。灯りが見えたと思ったら、もう次の瞬間には、目の前に砂煙が迫っていて、俺は、しぱしぱと瞬きを繰り返した。ぼやけた視界に映ったのは、大きな生き物だった。
どうやら、煙をたてるものの正体は、馬だったらしい。馬の[蹄{ひづめ}]が砂を[穿{うが}]ち、砂埃が舞い上がっていたのだ。
異常にでかい蹄が、目前に迫った。ぺちゃんこに[轢{ひ}]かれるかと思いきや、馬は目の前で止まった。そして、その馬上から、風にたなびく布を[纏{まと}]った巨人が、ズンッと降りてきた。
「きき……」
[語{ご}][弊{へい}]ではない。まさに「巨人」が、これまた巨大な馬(巨馬?)から降りてきたのだ。最初は、遠近法が働いているのかと思ったがどうにも違う。その巨人に指先でひょいと摘ままれて眼前に持ってこられて気づいた。「あれ、この人……異常にでかいぞ」と。だっていくら子猿とはいえ、俺が、なんと、その人間の手のひら(しかも片手)に、すっぽりと収まってしまうのだから。
驚きすぎて、[朦朧{もうろう}]とどこかへ消えかけていた意識が、一瞬で戻ってきた。
手のひらの上で[後退{あとずさ}]ると、その巨人は「チッチッ」とあやすように舌を鳴らし、その大きな指先で俺の[顎{あご}]の下を撫でてきた。それから、腰元に下げていたなめし皮でできたような袋を、俺の上で傾けてくる。すると、とぷん、と音がして、大粒の水滴がタパタパと俺に降ってきた。どうやらそれは、水袋だったらしい。カラカラに乾いたスポンジに水が染みるように、俺のパサパサだった毛が潤っていく。
「きっ」
落ちてくる水で喉も潤し、か細いながらも声が出た。助かった、なんてもんじゃない。異世界に来て何もできないまま、いきなり死ぬかと思った。
俺は改めて、目の前の巨人を見た。巨人は、頭からすっぽりと布を被っている。服も、布を幾重にも巻いたような格好だ。なんていうんだろう、雰囲気としてはアラビアン、かな。砂避けのためか、口元も布で覆われていて、目だけがはためく布の[隙{すき}][間{ま}]から[覗{のぞ}]いている。見える肌は浅黒く、目はエメラルドグリーンで、キラリと宝石のように輝いていた。
見慣れない、あまりにも綺麗な色の瞳に[見惚{みほ}]れていると、男は何を思ったか、俺を上着の合わせ目に押し込んだ。むぎゅうっ、と押し込まれて、俺は目を白黒させるしかない。
「ききっ?」
慌てて合わせ目から顔を出すと、馬はもう動き始めていた。
あれ、これどこかに連れていかれてるんじゃないか。いやでも、このまま砂漠にいても死ぬだけだし……。なんてことを考えていると、あれよあれよと言う間に、さっきまで砂の向こうの向こうに見えていた緑が近づいてきた。そこは文字通り「砂漠のオアシス」で、豊富な水と生い茂った植物で満ちていた。
ご主人(のちにナゼルという名だとわかった)は、街の市場で果物屋を営んでいて、商品を仕入れに行く途中で、たまたま俺を見つけたらしい。街に帰って、他の人に話している内容から察してみた。
あの時ご主人が砂漠に出てなかったら、俺の命は砂漠の[露{つゆ}]と消えていたわけだ。なんとまぁ恐ろしい。異世界滞在数時間で死ぬなんて、シャレにもならない。
その後俺は、ご主人に気に入られたらしく、ペットとして飼われることになった。食うのも寝るのも困らないし、言葉こそ通じないが、ジェスチャーで[意思{いし}][疎{そ}][通{つう}]もできる。
そうそう。驚いたことといえば、巨人だと思っていたご主人が、この世界では規格内だったということだ。どうやらこの世界は、俺が元いた世界よりも、平均身長も体重も、桁違いにでかいのだ。さっき店に来たお婆さんだって二メートル近い身長だろうし、ご主人に至ってはしっかり二メートル以上はあるだろう。
そして皆、なんというか、とても[逞{たくま}]しい。大人も子供もお[爺{じい}]さんもお婆さんも、皆揃って筋肉がムキムキッとしている。老若男女筋骨[隆々{りゅうりゅう}]。なんだか早口言葉みたいだが、実際にそうなのだ。皆が皆、首も太く腕も足もごつく、胸板やら[太腿{ふともも}]やらがパーーンッと張っている。街の人全員が戦士のように勇ましいのだ。そんなことってあるだろうか。
もしやこの世界は、かの有名な歴史的強国スパルタのように、市民皆兵主義とかなんだろうか。確かに異世界めいてはいるが、『わくわく異世界物語! ドキッ! 俺以外みんなマッチョ?』というのは、異世界冒険物のタイトル的に、あまりグッとくる響きではない。
なんにせよ、俺は猿なので本も読めないし、どうやらこの世界にはテレビもラジオもない。俺の目や耳から仕入れる情報が全てなのだ。つまり、俺は壊滅的にこの国の知識に乏しすぎる。
いっそ、ご都合主義で良いので誰か説明役の人が欲しい。こういう異世界に行っちゃう話って大体、何やら事情を知ってる人が出てきたり、異世界人認定されて「この国は〜……」みたいな感じで説明がもらえたりするものではないのだろうか。
まぁ、誰とも会話ができないからっていうのが一番の原因ってのはわかっている。なんてったって、今の俺は猿だし。猿に国の成り立ちとか常識を話してどうする、って感じだもんな。結局、他人に頼るのではなく、俺自身でちょっとずつ学んでいくしかないのだろう。
そんな中、この国の人についてわかったことがいくつかある。体がムキムキなことと、あと、『小さいもの』にやたらめったら優しいことだ。優しいというか、異常に興味を持ってくる。自分達が大きいから、物珍しさもあるのかもしれない。
ご主人も、俺を拾ったその日から「うーん、シェフタリ! シェフタリよ! このこのこのーーっ!」なんて言って、ことあるごとに、両手で抱えて頬にスリスリしてくる。見た目年齢三十歳をゆうに超えているおっさんが、中身年齢二十歳を超えている猿にそんなことしている姿を想像して欲しい。ぞっとするだろう。きついものがあるだろう。
そして、これはご主人だけに限った話ではない。俺が店先にいると、五人にひとりはフラフラと俺に寄ってきて、異常に頬をつついたり撫で回したり食べ物くれたり、たまに[攫{さら}]おうとまでしてくる。最近は[誘拐{ゆうかい}]や迷子防止に、ご主人が俺に首輪をつけた程だ。ちなみにその首輪、じつに可愛らしい。一体全体どんな顔してそれを買い求めたのだろうか、ご主人は。
それから、最初ご主人を見た時に感じたとおり、ここはどうも、地球でいうところの中東っぽい地域らしい。街は[賑{にぎ}]やかで明るいが、日々乾燥しているし、街を出れば砂漠も広がっている。建物は石造りが[殆{ほとん}]どで、街の至るとこに、モスクっぽい玉ねぎ型をした屋根の建物があったりする。一度街中を探検してみたいのだが、俺の姿が見えないとご主人が「シェフタリーー! シェフタリーー!」と半狂乱になって探し回るので、中々実行に移せていない。あ、ちなみにシェフタリっていうのはご主人がつけてくれた名前で、桃に似た果物のことだ。果物屋のご主人らしいネーミングセンスだなぁ、なんて俺は思った。
そんなこんなしているうちに、あっという間に一ヶ月経った。そう、一ヶ月も経ったのに、肝心要な王子に[未{いま}]だに会えていない。全く情けない話だ。
どんな人物かもわからないし、どこにいるかもわかってない。これで良いのだろうか、いや、よくない。
そろそろなにかアクションを起こすべきか、と思い悩んでいる今日この頃なのである。
三
この世界の夜はとても冷える。冷えるといっても、日本の真冬程ではない。単純に昼と夜の寒暖差が激しいのだ。
俺は「肌寒いなぁ」なんて思いながら、ご主人の寝台の脇にあるチェストの上に飛び乗った。そして、最近そこに置いてもらった、ふわふわなクッション入りの籠に身を横たえる。これは俺が寝やすいようにと、わざわざご主人が作ってくれたものだ。つくづくペットに優しい人である。
火の灯った[蝋燭{ろうそく}]が壁にいくつか備えられていて、程良い暖色で部屋を照らしている。蝋燭のユラユラと揺れる炎を見ていたら、ちょっと眠たくなってきた。が、俺にはここですぐに眠れない事情がある。眠い目をコシコシと手で[擦{こす}]りながら、体の向きを変えてみた。
柔らかなクッションの上をころころと転がっていると、廊下に続く仕切りの向こうから、ご主人が現れた。[湯浴{ゆあ}]みをしてきたばかりなのか、髪が水滴を含んでいて、顔もほんのり上気していた。
「シェフタリ」
名を呼ばれたので、素直に顔を上げる。喋れないのでとりあえず、「どしたの」という意味を持たせて首を[傾{かし}]げてみた。
「くぅっ!」
するとご主人が、片手で鼻を押さえて後ろに反り返った。何事だ。突然大きな声を出されてビクッとしてしまった。
「はぁ、シェフタリ、頼む、それをもう一回してくれ」
[怯{おび}]える俺を安心させるかのように、満面の笑みでご主人が[懇願{こんがん}]してきた。震える指を一本立てて、「もう一回」と言っているが、この短い時間にわざわざリクエストされるような何かをしたような覚えはないぞ。どうしたら良いかわからなくて、今度は反対方向にコテンと首を傾げた。
「きぃ?」
「くうぅっ!」
ご主人が、首を締められた[鶏{にわとり}]みたいな声を出した。俺はまたビクリと体を跳ねさせる。
しばらく[身{み}][悶{もだ}]えてから、ご主人は無言で寝台に横たわると、俺をおいでおいでした。ビクビクしながら近づくと、抱き上げられて、全身でむぎゅっとされる。ぐえっ、潰れる。
「きぃっ」
「可愛い奴めっ」
これで一国の主ならぬ、一店の店主なわけだが……。この人、大丈夫だろうか。
張りの良い筋肉の海で、俺はアップアップと喘いだ。
夜が更けてきた。ご主人は寝つきが良い方なので、散々俺をぎゅうぎゅうした後は、[噓{うそ}]みたいにスヤッと寝てしまう。
ご主人が深い寝息を吐くのを確認してから、モゾモゾとその腕から抜け出す。そして、スルリと床に降りて、こっそりと寝室を出た。俺もゆっくり寝たいものだが、どうしても寝室から抜け出さなくちゃいけない。今日は、ようやく重い腰を上げて、王子を救うために行動を起こすと決めたのだ。
部屋を出てから、まず家の湯浴み場へと向かう。ここいらの家は、簡素ながら風呂がきちんとある。風呂といっても、俺が元いた世界のようなものではない。そもそも給湯器も何もないので、お湯がない。かといって、火を使ってお湯を沸かすわけでもない。なんと、お手伝いさんが大量に石を焼いてそこに水をかけるのだ。そうすると蒸気が出るし、お湯もできる。それを繰り返してスチームサウナみたいな空間を一時的に作り出すのだ。それがこの世界における「風呂」だ。ご主人の店は中々[儲{もう}]かっているらしく、何人かお手伝いさんがいて、ご主人は毎日風呂に入っている。街には大衆浴場もあり、家にお手伝いさんがいないところは結構そこを利用しているらしい。まぁ、石を焼くだのなんだの、風呂に入るまでが手間だからな。ちゃちゃっと外で済ませたくなる気持ちもよくわかる。
俺は湯浴み場の右手にある、外へと通じる扉を抜けた。そこには俺の目的のもの……ご主人が脱いだであろう服があった。その日に着た服は湯浴みの際に脱ぎ、明くる日の朝、お手伝いさん達が、手で洗ってくれるのだ。
その服をむんずと摑んで引きずりながら、俺はそのまま家を出た。
家を出てすぐの裏手には、それなりにしっかりとした造りの馬小屋がある。ご主人はそこに、馬を三頭とラクダを一頭飼っている。小屋に近づくと、でっかい馬がこちらを見て「おいで」というようにブルンッと鼻を鳴らした。俺は布をズルズル引きずって、馬小屋の藁の上に飛び乗った。[牡馬{おすうま}]のヴルリックが、長い舌でデロリと俺の背中を舐める。湿った鼻息と生温い舌がくすぐったくて、俺は藁の上を「きっきっ」と笑いながら転げた。
そうこうしていると、体中がむずむずしてくる。俺は慌てて、首につけられたご主人チョイスの可愛い首輪を外す。これを外しておかないと、大変なことになるのだ。
目の前の景色がぐにょっと歪んで、俺はぎゅっと目を閉じる。……次に目を開いた時には、ヴルリックの顔が近くなっていた。俺は深い息をひとつ吐いてから、ぐぐぅと腕を伸ばす。
「くぅ~〜っ、肩凝ったぁ」
一晩ぶりに人間の姿に戻り、思う存分手足を伸ばした。
そう、俺は人間になれるのだ。
この世界に落ちた日の夜。ご主人の寝台で寝ていた俺は、いつの間にか人間になっていた。なんだか体がむずむずするなぁと思ったら、あっという間だった。
そういえば神様が「夜の間は~……」って言ってたな。と冷静に考えながらまじまじと自分の体を見て、そして気がついた。なんだか、死んだ時より、明らかに手が小さいのだ。慌てて、目に見える手の大きさや足の長さ、体の具合を確認したところ、どうやら十代前半(はっきり自分の成長を覚えているわけではないので、おそらくだが)ぐらいに若返っているみたいだということがわかった。なんと、下半身にはまだ毛すら生え揃っていなかった。神様は、俺の体を「作る」といっていたから、まだまだ作成途中なのかもしれない。
そういえば、この世界に来てから、精神的にも少し若返っている気がする。前世の記憶はあるにはあるが、それはどこか夢の世界の出来事のようで、地続きの人生とは言い[難{がた}]い。体も心も丸ごと異世界にやってきた、というよりは、また一から俺という人間が生まれて成長していっている、という方が正しいのかもしれない。まぁそのうち、精神的な[齟齬{そご}](前世と今世の)も落ち着いてくるだろう。
そんなことをつらつらと考えているうちに、その日はあっという間(体感五分くらいだった)に猿に戻ってしまった。それから次の日も、その次の日も、夜中の一定時間だけ猿から人間に戻れるようになった。人間に戻れる時間は日に日に長くなっており、今では一時間くらいは人間でいられる。
ご主人に話そうかどうしようか迷ったが、自分のお気に入り(おそらく)のペットの猿が、人間に変身するような化け物だとわかったら、[凄{すご}]く悲しむかもしれない……と思って、言えなかった。だから今は、人間に戻る時間を見計らって、馬小屋に避難してから時間を潰しているのだ。
なんて、考え事をしていたら、ヴルリックが「こっちに構え」というように顔をぐいぐい押しつけてきた。俺は人間の手で、首筋をよしよしと撫でてあげる。ヴルリックは物凄くでかいので、人間になっても、こちらに首を曲げてもらわないと手が届かない。気持ち良さそうに目を細めて鼻を鳴らすので、しばらく撫でていたが、はたと気づいた。そうだ、今日の俺には時間がなかったのだ。
俺はいそいそと手に持っていたご主人の服を広げて、体に巻きつけてみた。が、着こなし方がいまいちわからない。というよりまず、服がでかい。巻いても巻いても引きずる。シーツを被ったおばけみたいな感じだ。二回三回体に巻きつけてみたが、それでも余る。
しょうがないので、ご主人が外に出る時に頭に巻く、小さめの布で体を覆ってみた。そして細かな刺繡が施された紐のようなベルト(これも拝借してきた。ご主人、ごめんなさい)を腰の辺りに巻きつけ、布を纏める。なんてことだ、こっちの方がちょうど良いぞ。膝上の丈になってしまったが、ここいらの子供はみんなこんな感じで、短いスカートみたいに布を巻いて過ごしているから問題ないだろう。多分。この世界のファッションに明るくないので、着こなしにあまり自信はないが、とりあえずなんとか形にはなった。今日は街に出ることが目的なので、そんなに身なりには構わなくても良いだろう。
そう。俺は今日、街に出る。街というのはつまり、ご主人の店がある市場を内包した、ここら一帯のことだ。正式になんという名前の街なのかは……、その、わからない。だって、誰も、猿に街の名前なんて、わざわざ教えてくれないからだ。
俺は基本的に、昼間はあまり街に出ない。というより、出られない。なんていったってご主人が心配するからな。店先から眺める、もしくは周辺(ほんとのほんとに、店周辺)を散歩する程度だ。ご主人やお店のお客さん、道行く人達の会話から、ここがどんな街かというのは、少しはわかっているつもりだが、自分の足で歩き回るのは初めてだ。
まぁ今日は、街の様子を観察して王子様の情報を得るという、それだけが目的の、小さなお出かけだ。ちょっと雑な計画だが、そろそろ行動を起こさないと、日々俺の体を作ってくれているらしい神様に申しわけないしな。
「さ、いくぞいくぞぉ」
俺は、意気揚々と夜の街に繰り出した。
四
「なんなんだ、おまえは」
目の前の男が、その巨大な腕で以て俺の体を締めつけてくる。やばいこれ、絶対落とす気だ。失神する。
男が、俺の頭に鼻を埋めて、すんすんと匂いを[嗅{か}]ぐ。背筋がゾワッとした。今猿の姿だったら、全身の毛という毛が、ぶわわっと逆立っていただろう。
「良い匂いだ」
男が、俺の着ていた布をぐっと引っ張ると、なんの引っかかりもなく、ビャッと綺麗に裂けた。噓だろ、布ってもっと力入れないと裂けないだろ。こいつが指で引っ張っただけで、ぶわーーっと裂けてしまったぞ。なんだこの布、切り取り線でもついているのか。
俺は恐慌状態に陥って、猿みたいに両手で男の顔を[引{ひ}]っ[搔{か}]いた。が、猿の時みたいに鋭い爪もないし、指先でふわふわと顔を撫でただけになってしまった。[欠片{かけら}]も傷つけられていない。むしろ、男は喜んでいる。「なんだこの可愛い反撃は」って感じの、[蕩{とろ}]けたにこにこ顔になっている。
「やめろよ! ばか! ばか!」
恐ろしすぎて、反抗の言葉も単調になってしまう。[咄{とっ}][嗟{さ}]に良い悪口が思いつかない。何しろ本当に怖いのだ。誰か助けてくれ。
そもそも、どうしてこんなことになったのか。俺は半泣きで足をじたばたさせながら、たった数刻前のことを思い出した。
* * *
夜の街は、思った以上に賑やかだった。街の至るところで[篝{かがり}][火「び}]が「焚{た}]かれており、街中真っ暗、というわけではない。そこそこ、店に灯りも灯っている。
往来は、昼間みたいに市場のテントが出ているわけではないので、ちょっと広く感じた。テントの代わりに、そこ[彼処{かしこ}]に椅子やテーブルが出ていて、男も女も木の椀を[呷{あお}]っている。多分、酒の類だろうな。
俺は物珍しく辺りを眺めながら、できるだけ目立たないように、店々の壁に張りついて移動した。
(さてと……。[先{ま}]ずは[何処{どこ}]に行けば良いのやら)
ゲームの世界なんかだと、人が集まる飲み屋に行って、そこの店主や客から情報収集……というのが定石なのだが。いかんせん、その飲み屋というのがどの店なのか、店の外からではさっぱりわからない。
しょうがない。少し怪しいが、窓や入口からちょろっと覗いてみるか。そうなってくると一番の問題は、俺の見た目が、思い切り子供ということだ。明らかに未成年という風体だが、飲み屋に突撃をかましても良いものだろうか。
ちらりと周りを見渡してみれば「若者」も結構歩いているのが見て取れた。若年層向けの服([踝{くるぶし}][丈{たけ}]ではなく膝上丈の布)を着た男達が、連なって酒を片手に笑っているし、そこらへんの年齢制限は緩いのかもしれない。が、やはり、顔こそ若く見えるが、体はガッシリ、筋肉パーーンッ、すね毛(おそらく下の毛も)もバッチリだぜっ、って感じの奴らばかりだ。
(俺とは、ちょっと違うなぁ……)
しかし、何も行動しなければ、今日もこのまま猿に戻ってしまう。せっかく一大決心して家を出てきたのだから、何かしら行動を起こしたい。
よし、決めた。とりあえず店を覗くことから始めてみよう。
俺は街をうろうろと[彷徨{さまよ}]って、一番大きくて明るい店に狙いを定めた。
その店の周囲には、店専用であろう[松明{たいまつ}]がずらっと並んでいて、入り口も他の店より大きかった。どうやらその入り口は門に当たるらしく、綺麗に並んだ石畳が門から奥の方まで、ずーーっと続いている。ちょっと入りづらい空気を[醸{かも}]し[出{だ}]しているが、さっきからここに、何人もの男達が入っていっているのを確認した。きっと、少し高級な居酒屋(のような店)に違いない。
俺は、店の前を何度か行ったり来たりしてから、意を決し、店の入り口へと足を向けた。
しかし、まさに足を踏み出そうとしたその時。突然、後ろからガッシと肩を摑まれてしまった。思わずたたらを踏んでしまう。
「ここはお前のような子供が入るところではないぞ」
「へ?」
振り返れば、でっかい男がいた。いや基本的にこの世界の人間は皆でっかいのだが、目の前の男は一際筋肉がムキッとしていて、胸板もどっしりずっしりって感じだ。とにかく、ご主人や街の人より威圧感が凄い。
服装も違う。暑さのせいか、風通しの良いゆったりした服が多い国なのに、この男は比較的ピシッとした服を着ている。そして、何よりも目を引く違い……。男は、腰に剣をぶら下げていた。武器を持っている人間なんて、この一ヶ月で初めて見た。
俺は多分、相当間抜けな顔をしていたんだろう。男が「おい?」と驚いたような顔で問いかけてくる。俺も負けじとびっくりした顔で、男を見返す。
「お前、この国の人間か?」
「?」
男の言っている意味がわからなくて、「へ?」という感じで首を傾げる。
「ぐぬっ」
すると何故か、男がよろめいた。
「こ、言葉がわからないのか……。主人の迎えか? それにしても、こんな子供をこの店の迎えにやるなんて、一体どんな主人だ」
俺が黙っていると、ひとりでぶつぶつと喋り出した。色々[呟{つぶや}]きながらも、目はちらちらとこちらを見ている。さっきの「この国の人間か?」っていうのは、俺の見た目がこの世界の人と違うから言われたんだろうか。まぁ、多分そうだろう。
この世界の人間は、大抵浅黒い肌をしていて、髪の毛は栗色とか茶色とか、いても焦げ茶色くらいで、真っ黒い髪の人間はいない。俺は、肌は黄色だし、髪は黒いし、それに、決定的にひょろい。この国の同い年くらいの奴らより、明らかにひょろい。戦ったら、一瞬で負ける自信がある。というか、戦いたくない。
「いいか、お前、そこを動くなよ。俺はこの国の兵士だ。安心しろ。いや、今は護衛だが……、まぁ良い。おい、通じないか? 兵士だ、へいし。言ってみろ、ほら、へ、い、し」
なんと、この兄さんは兵士だった。どおりで剣を下げているわけだ。そして、何故か兄さんの中で、俺はもう「言葉がわからない」認定をされてしまったらしい。喋っても良いが、どうもタイミングを逃してしまったようだ。
なんだか、兄さんの目が微妙に血走っていて怖い。何かを耐えるように引きつっている顔が、益々怖い。ゆっくり話をしようって雰囲気じゃない。
これはもう、わからない振りをしたほうが良い気がする。兄さんに合わせておこう。どうせあと数十分で俺は猿だ。
「へーーし……」
言ってみろというから繰り返してみたら、兵士の兄さんが俺の肩に手を置いたまま[俯{うつむ}]いて「ぐぬぬ」と唸った。ぐぬぬってなんだ。
「ちょっと待ってろよ。お前の主人を探してきてやる。すぐ戻ってくるからな。すぐだぞ。待ってろよ。動くなよ」
兄さんは、両手を上げて下げて上げて下げて、ここにいろ、と必死にジェスチャーを繰り返した。これは「了解」ということを示した方が良いんだろうか。むしろ示さないと、兄さんいつまでもこの動きを繰り返しそうだな。
俺は兄さんの真似をして、両手を上げて下げて上げて下げてみた。[真似{まね}]してるって伝わらないといけないと思って、思いっきり背伸びして手を上げて、ぎゅっと縮こまって手を下げてみた。どうだ、大きな動作で伝わりやすいだろう。へへ、と兄さんに笑ってみせる。
「おまえ……、おまえなんだっ! このっ」
すると、何度目かの背伸びの途中で、兄さんが俺の両手を捕まえた。兄さんの手は今の俺より、そりゃあ大きい。子供の手と大人の手みたいだ。しかもその手は、物凄く熱く、[火照{ほて}]っていた。俺はびっくりして兄さんを見上げた。
兄さんは、顔を真っ赤にしてぷるぷる震えている。あれ、なんだろう。怒らせたのかな。動きを真似しただけだと思うんだが。この世界では目上の相手にジェスチャーはしてはいけない、とかいう決まりがあるのだろうか。
(謝った方が良いかな)
あ、でも喋れない設定にしてるんだっけ。もう喋っても良いかな。うーーん、せめてカタコトに聞こえるくらいにしてみるか。
「ゴ、……ゴメンナサイ……、ゴメンナサイ……」
背丈の関係上、俺は下から[窺{うかが}]うように兄さんを見上げるしかない。上目遣いで、一生懸命感を出しながら謝ってみた。向こうはこっちをだいぶん[歳下{としした}]だと思っているみたいだから、せめて可愛らしい子供に見えるように、困った顔しとこう。
「………買う」
「かう?」
かう、買う、飼う。確かに今俺は、ペットの猿としてご主人に飼われてはいるが、そんなこと今ここじゃ関係ないだろう。
何がどうして、兄さんは突然目を[据{す}]わらせて俺の腕を摑んだのか。小脇に抱えるのか。持ち運ぶのか。さっき俺が入ろうとして止めた店に連れ込むのか。
途中、店の人らしきおじさんが出てきたが、兄さんは「連れ込みだ。部屋だけ準備してくれ」と言っていた。確かに俺は連れ込まれているが、なんで居酒屋のおっさん(おそらく)にそんなことを言う必要があるのか。あれか、「人数は二名です。あ、掘りごたつの個室の方空いてたらお願いします」ってお願いするようなものなのか。いや違う。言い方が違う。これはなんというか、もしかして……。
(も、もしかして?)
あれよあれよという間に、俺は店の奥へと連れてこられた。そして、たっぷりクッションが敷いてある寝台にポスンと投げ出された。
「お前の主人からお前を買う。なに、使用人のひとりやふたり買えるくらいの金はある」
ここまでくれば、俺にもわかる。というか、さっきの兄さんの言い方から、ここが娼館とか連れ込み宿とかそういった、いかがわしいタイプの店だってこともわかった。[伊達{だて}]に前世で二十うん年生きていない。接待キャバクラだって、ウフンなお店にだって行ったことある。
この店がどんな店かわかった瞬間から、思いっきりじたばたしたし、暴れたし、手に嚙みついた。でも兄さんは、そんな俺の攻撃など、全然[屁{へ}]でもないような顔をしていた。
(ま、まずいなぁ、まずいよ、まずい)
兄さんはどうやら、性的な目で俺を見初めてしまったらしい。どうかしてるぜ。いや待てよ。そういえばこの国の人間は皆、小さいものに異常に興味を抱くんだった。つまり小さい俺は、兄さんにとって「なんだこの小さい生き物! 可愛いな!」状態だったのか。
ぶるっと寒気が走った。俺は慌てて、寝台から下りようと四つん這いになった。……が、片足を摑まれて、あっさり引っ張られる。「ぎゃんっ」と叫んで寝台に突っ伏すしかない。そのままずるずると兄さんの方に引きずり寄せられる。
「なんなんだ、おまえは」
そして、冒頭に戻るわけである。
* * *
兄さんが、裸の俺をぎゅっと抱きしめて、抱きしめて、抱きしめた。
「ううぅっ!」
苦しい。息ができない。顔が同じ高さにあると、俺の足は、兄さんの臍くらいまでしかない。その体格差でそんなに締めつけられたら、圧迫感しか感じない。早く、早く猿に戻りたい。このままじゃ死ぬ。死ぬか犯される。最悪犯されて死ぬ。
嫌な予感に、生前と合わせて数年ぶりにドッと涙が[溢{あふ}]れてきた。
「ひぬぅ……っ、ひんじゃう……」
情けなかろうがなんだろうが、出るものは出る。
俺は生まれてこのかた、男に襲われたことなんてなかったし、こんな絶望的な体格差で以て、好きなように圧倒されたこともなかった。
本当に、無力な子供に戻ってしまったような気持ちだ。涙がボロボロと[零{こぼ}]れて止まらない。それでも、兄さんは俺の目元をべろりと舐めて回す。そして離さない。
(誰か助けて。神様、ご主人、神様、ご主人……!)
俺は、最近の心の拠りどころを、一生懸命心中で唱える。
(誰か……!)
――と、その時……。
「おーーい、パードゥー!」
店中に響き渡るような大きな声がした。その瞬間、俺に覆いかぶさっていた兄さんがぴたりと止まる。俺も、びっくりして涙が止まった。
「パードゥー! どこにいんだ、あ、便所か? 俺もう帰るぞ。どこだ? ここか?」
どうやら誰かを探し回っているその声の主は、この店の色んな部屋に入っているらしい。そこかしこから「キャーー!」だの「ウワーー!」だの悲鳴が聞こえてくる。
しばし固まっていた兄さんが、深い深いため息を吐いて、俺の上から身を引いた。あれ、もしかしてあの声の主の探してる人ってまさか……。
「お! いたな、パードゥー。城に帰ろうぜ」
声がどんどん近づいてきた。と思ったら、バーーンッと部屋の扉が開いて、中に誰かが入ってきた。
その人は、キラキラと輝く金色を持っていた。金色のそれは、髪だ。わっさわっさと、まるでライオンの[鬣{たてがみ}]のように揺れている。さらにそれを無造作に三つ編みにして流していて、目立つことこの上ない。しかし、何よりも目を引いたのは、その[頬{ほほ}]に走る、一本の大きな傷だ。それが何よりも男に、独特な凄味と魅力を持たせていた。
どうやら、この不思議な人の探し人は、やはり兄さんだったらしい。男は、俺と兄さん(改めパードゥー)がベッドにいるのを見て、ぱちくりと目を丸くした。
「珍しいなパードゥー。お楽しみ中だったか。わりぃわりぃ」
「そう思うなら、もう少し他で遊んどいてくれませんかねぇ、王子」
全然悪びれていない様子の男に、兄さんが引きつった顔で文句を返す。凄いな兄さん、王子相手に。
(…………ん?)
「おっ、おっ、おっ、……王子ぃ?」
なんと探索一日目にして、王子本人を発見してしまった。それも、思いもよらない場所で。
五
「今日はえらく甘えん坊だな、シェフタリ」
そうだ。今日の俺は甘えん坊と言われても仕方ないくらい、ご主人にくっつき虫になっている。ご主人の首にくるりと尻尾を巻きつけて、びちゃっと頭に張りついて、これでもかというくらいひっついている。
「怖い夢でも見たのか? ん?」
ご主人はその太い指を、自身の頭にへばりついている俺に差し出す。俺はその指を、あむあむと甘嚙みした。自然と、巻いていた尻尾がだらんと垂れ下がる。頭もどんどん下がってきて、あむあむしながら顎をご主人の頭に乗せる。ああ、なんて体たらくだ。
「きぃ……」
ふう、って感じで情けない声を漏らすと、「なんだ、ため息なんて吐いて」とご主人に頭を撫でられた。そうなんだよ。昨夜のことを思い出すと、どうにもため息が止まらない。
地味にショックだったのが、[謎{なぞ」の兵士パードゥーに、服を破かれたことだ。
そもそも、あれは俺の服じゃなくて、ご主人の頭に巻く布だったんだよ。後になって思い出して、俺は[愕然{がくぜん}]とした。そして、ちょっぴり泣いた。
俺は猿だから、買い直すお金も持っていないしさ。結局、ご主人の[箪{たん}][笥{す}]の中から一枚拝借して、怪しまれないように、昨日の洗い物の中に入れておいた。たくさんあるので気づかれないかも知れないが、勝手に借りて破いてしまうなんて、本当に申しわけない。
その罪滅ぼしというわけではないが、今日はご主人に尽くそうと、朝から張りついて手伝いできることを探している。……が、気がつくと昨日の恐ろしい思い出が[蘇{よみがえ}]ってきてしまうので、ぐぁああ、とのたうち回ったり、ご主人にしがみついたりしているのだ。そしてその度に、ご主人は「よしよし」と、俺を[慰{なぐさ}]めてくれる。
いやいや、やはりこれじゃいかん。俺はご主人からえいやっと剝がれて、商品である果物を並べることにした。ご主人の役に立ちたいのに、ご主人に慰めてもらってちゃ[駄目{だめ}]だろう。
えっと、ポルタカルはこっち、ナルはこっち、インジルは、どこだろう。商品を並べたら、果物を切る用のナイフを洗いに行こうかな。すぐ洗っとかないと錆びるんだよ。それと、ナイフの近くに濡らした布と椀に入れた水を準備しておこう。ご主人は結構、[大雑{おおざっ}][把{ぱ}]の無精者だから、ナイフとか放りっぱなしだし。
ひと通り果物を並べて、汚れたナイフをそっと手に持って振り返る、……と、ご主人が涙ぐんで突っ立っていた。
「きっ!」
驚いて、ナイフを落としてしまった。危ない危ない。いやそれよりもご主人だ。どうしたんだろう。
「きぃ?」
ご主人に駆け寄って肩に登る。小さい手で、ご主人の目元に[滲{にじ}]む水分を、ピッと払った。
「シェフタリ……そんなに小さいのにお手伝いまでできるなんて、なんて良い子なんだ」
感極まったように「うっ」と声を詰まらせるご主人を、俺はなんとも言えない複雑な気持ちで見つめる。
ご主人のことはもちろん大好きなのだが、たまに心配で[堪{たま}]らなくなる。この人本当に大丈夫なんだろうか。
「ずっとうちの子でいてくれ」
ご主人の言葉に、ぐっと喉が詰まる。
(ずっと……)
俺が完全に人間になって、ここにいられなくなった時も、ご主人はこんな風に泣くのだろうか。
俺はちょっと切ない気持ちになりながら、昨日の[顛末{てんまつ}]を思い出していた。
* * *
思わぬところで思わぬ瞬間に王子に出会った俺は、思わず叫んだ。
「えっ、病気っぽくない!」
「えらいちんちくりんを連れ込んでんなぁ」
「おまえ喋れたのか?」
なんか色んな方向から同時に声が飛んできてぶつかりあった。俺と王子と兄さんは、各々微妙な顔をして目を合わせたあと、黙り込んだ。
「えっと、喋れたっていうか喋れるっていうか」
「病気? 誰が?」
「王子、ちんちくりんはないでしょうちんちくりんは」
俺と王子と兄さんは、また微妙な顔をして目を合わせた後、黙り込んだ。なんだこれ、コントか。
なんにしても、また口を開いたらどちらかと被りそうだったので、俺は黙っておくことにした。すると、王子があっけらかんとした顔で「はい」と手を挙げた。
「はいどうぞ、王子」
兄さんが発言の許可を与える。と、王子は笑顔で宣った。
「誰から喋るか決めようぜ」
そうですね。
俺と兄さんのいる寝台に、王子が、ずんっ、と腰をかけた。俺は自分の体を見下ろして、はたと、何も着ていないすっぽんぽんの真っ裸だったことを思い出した。
(ぎゃっ!)
とりあえず前だけでも隠そうと、慌ててそこらへんにあったクッションを摑みに走った。と、クッションを握り締めた途端、ふわふわの寝台に足を取られて、すてーーんっ、とすっ転んだ。
仰向けだ。手に持ったクッションで、股間を隠すことすらままならず、フルチン仰向けだ。三分ぶりくらいに泣きたい。
「うへぇ」
ああ、泣きそう。と思ったら「うへぇ」って言葉が出てきた。声帯が弱いからか、口の開きが怪しいからかわからないけど「うへぇ」っていう情けない言葉が、俺の口から出てきた。重ねて泣きたい。三十秒ぶりくらいに泣きたい。
「その妙な踊りみたいなのは、新しい寝所遊びか?」
(踊ってないよ、ただ転げたんだよ)
王子が、俺の脇を両側から摑んで、よっこいせと引っ張ってくれた。ぐいーーっと思い切り上に引かれて、そのまま寝台の上にぺたっと両膝開いて座らせられる。まるで猫の子かぬいぐるみのような扱いだが、文句を言う元気も気力もない。
「で、パードゥーは何[悶{もだ}]えてんだよ。頭大丈夫か?」
「……んん。[貴方「あなた}]にだけは、頭がどうこう言われたくないですがね」
兄さんは、口元を手で押さえて俯いていた。よく見ると、肩が小刻みに震えている。ふん、笑いたければ笑えば良い。きっ、と[睨{にら}]みつけたら、バチッと視線が合った。その目になんだか妙な光が宿っているように見えて、背中がゾワッとしたので、心持ち、王子の方に寄っといた。
ていうか兄さん、さっきから王子に対して凄い口の[利{き}]きようだが、そっちの方が大丈夫なのだろうか。もしかしてこの人、本物の王子じゃないのかもしれない。王子、っていうあだ名なのかな。
(……あだ名説、ありうるぞ)
そうだよ。普通、一国の王子がこんなところに、護衛ひとりだけ連れて、のこのこ来るわけがないだろ。……と、思う。実際のところ、この国の常識がわからないからなんとも言えない。
「お前、俺になんか聞きたいことあんのか?」
兄さんに視線を送っていたら、王子(仮)に腕を引っ張られた。バランスを崩して、後頭部が王子の胸にドスンとぶつかる。上から覗き込まれて、その[紺碧{こんぺき}]の目と視線がぶつかった。
王子の目は、[真{ま}]っ[直{す}]ぐに俺を見ていた。青いビー玉みたいにつるんと綺麗なその目は、本当にガラスみたいで。なんだか、俺の顔まで鮮明に映し出しそうだ。
「病気っぽくない、って言ってたな。俺のこと」
「う、あ、そう、です……」
「なんでだ?」
王子は「瞬きしなくて良いのか?」って聞きたくなるくらい、じぃっと真っ直ぐにこっちを見てくる。その目には、なんの裏も見えない。純粋に「何故」と聞いているだけのようだ。
「いや、えっと……、あーー、貴方は本当に王子、様……デスカ?」
そう。とうてい病気には見えない、ハイパー健康そうな目の前のこの男が、病気かどうか知りたい。しかしその前に、この男が、神様の言っていた「王子」なのか確かめねばならない。
俺は、ちょっとドキドキしながら聞いてみた。
「そうだよ」
ずっこけたくなるくらい、あっさりとした返事だった。あまりにも味も素っ気もない返答に、逆に怪しくなる。しかし、横で兄さんが「疑わしく思うのはよくわかるが、本物だ」と頷いていた。ということはつまり、目の前の王子は本当に本物の「王子」なのか。
改めて、王子をまじまじと見てみる。はぁあ、王子様なんて初めて見たなぁ。
「お前、この国の人間じゃないのか? 俺のこと知らない?」
「知らな、い。わからない……です」
「そんで、俺が病気っぽくないってどういうことだ? 俺が病気だと思ってたのか?」
「えっと、……えーーっと」
じっと、じっと、じーーっと見られることが、こんなに心臓に悪いだなんて知らなかった。俺はしどろもどろになりながら、それでも、王子から目を[逸{そ}]らすこともできない。目を逸らしたが最後、がぶっと喉元に嚙みつかれそうだったからだ。
王子の視線はまるで、犬みたいで、狼みたいで、獅子みたいだった。なんというか、本当にそういう肉食動物を前にしたように、落ち着かない気持ちになる。そう、俺は王子に怯えているんだ。
「確かに王子は病気だ」
[膠{こう}][着{ちゃく}]状態の俺達を見かねてか、それまで黙ってこちらを見ていた兄さんが、口を開いた。俺は兄さんの発言にハッと顔を上げ、やっぱり……、と兄さんを見た。兄さんは深刻そうな顔で、ひとつ頷いてみせた。俺も深刻な気持ちになって、ゴクリと唾を飲んだ。そして王子は、こくりと首を傾げた。
「俺ぁ、生まれてこの方[風邪{かぜ}]のひとつもひいたことねぇぞ」
「王子はな、馬鹿という、一生治らない病気だ」
「……は?」
「あーー、そりゃそうかもなぁ」
あっはっはっ、と膝を打ちながら、王子が笑う。いやそこで笑って良いのかよ。今まさに馬鹿にされてるぞ。
(……いや、ちょっと待って。ちょっと待って)
神様は俺に、王子の病気を治せといったが、まさか「馬鹿」を治せっていってるんじゃないよな。まさかだよな。
いや、王子が本当に馬鹿かどうかはわからないが少なくとも今までの会話から、すっごく理知的なタイプではないというのはわかった。わかったが……、それじゃあ俺は、なんのためにここにいるんだろう。
本当に、俺を抱えて豪快に笑っているこの男の頭を、良くしなければならないのか。教師になって、勉強でも教えろっていうのか。いやいや、無理だろ。普段猿だし、俺より兄さんの方がよっぽど頭も良さそうだ。じゃあ俺に、何がどうできるっていうんだ。
「うぐーー……」
俺はすっかり参ってしまって、その場で[項{うな}][垂{だ}]れた。ぺしゃっとへばってしまった俺の顎を、王子がぐっと持ち上げた。
「ほら、次はパードゥーがお前に聞きたいことあるってよ」
上に向かされた顔を、今度は兄さんの方に向かされた。目が合うと、兄さんはパッとそれを逸らして「すーーはーー」と深呼吸を繰り返した。そしてもう一度、意を決したように俺を見る。
「お、おまえの名前はなんだ」
「え? シェフタリ」
「そ、そうか……」
会話が終わった。そして、部屋の中が微妙な空気に包まれた。いや、包まれたのは俺と兄さんだけで、王子は調子の外れた鼻歌を歌っている。
と、この微妙な空気の中。俺の体が、異常にむずむずし出した。やばい、これは猿になる前兆だ。
「王子さま、王子さま」
「ん?」
「手を離してください」
「ほれ」
王子は、アッサリと手を離してくれた。兄さんは「どうかしたのか」って顔で見てくるが、今はそれに答えている時間はない。ホッとした俺は、そのまま寝台を降りて、後ろも振り返らずに、部屋を出ていこうとした、……が。
ガブッ!
「いっっったぁーーっ!」
立ち上がった瞬間、尻に、凄まじい衝撃が走った。
「なっ、なっ、なぁっ!」
振り返ると、王子が俺の尻に食いついていた。真顔で。歯を剝き出しにして。さながら猛獣が草食動物を食らうかのように。
なんだこれ、自分の尻に人が食らいついている。こんなシュールな画、見たことない。っていうか見たくない。怖い、怖すぎる。いや、それより何より……。
「いたいいたいいたーーいっ!」
「王子っ!」
すっごい痛い。この王子、全然手加減とかしてない。
恐怖と衝撃で悲鳴を上げる俺と、多分「何やってんだ、あんた!」状態の兄さん。そんなふたりのことなんて意に介さず、猛獣王子は、かぱっ、と口を離すと、舌舐めずりして言い放った。
「だってほんとにシェフタリみてぇだったんだよ。まぁシェフタリより甘くはなかったけど、良い歯応えだったぜ」
終いに、ペチリと尻を叩かれた。
俺は震えた。わなわなと震えた。こんな屈辱生まれて初めてだ。というかこいつ(王子だろうがなんだろうがもう知らん)といい兄さんといい、人のことをなんだと思っているんだ。およそまともな大人のすることではない。本当なら一発ずつ殴ってやりたいところだが、そんなことしたらこいつら野蛮人と一緒になる。
ひりひりと痛む尻を押さえながら、俺はピョンと寝台から飛び降りた。そして奴らを振り返り、冷静な大人としての対応をとる。
「ばかっ! あほっ! おにっ! あっかんべーーっ!」
最後は舌をビーーっと思い切り突き出してやった。そして、一目散に逃げ出した。
最後に見えた兄さんは、ポカンとした顔をしていた。ふてぶてしい態度の王子は……。
王子は、俺を見て、ニカッと笑っていた。
部屋を出てすぐ、猿に戻った俺の背中の毛は、ゾゾゾッと総毛立っていた。王子の最後の「ニカッ」が頭から離れない。兄さんに襲われた時より、尻を嚙まれた時より、最後の「ニカッ」が一番怖かった。
俺は休むことなく走り続け、家に帰った。そして、震えながらご主人の腕の中に滑り込んだ。
ご主人が寝ぼけながら「んーー、シェフタリ……?」と俺をぎゅぎゅっと抱き締めてきて、俺の方も、ぎゅぎゅっとご主人にしがみついた。
この夜。俺は、この世界は結構怖い、ということを学んだ。ご主人が、お猿の俺を外に出したがらないわけだ。あぁ、恐ろしかった。
* * *
とまぁそんな感じで、王子との初接近は終わったのだった。
当初は、街の様子を見て王子の情報を得ることが目的だったのに、情報を得るどころか、王子本人に出会えてしまった。まぁ、進歩といえば進歩だ。
しかし、一番の解決すべき謎は、さらに闇に包まれてしまった。王子の「病気」だ。あの王子、病気のようには全く見えないし、馬鹿を治す自信はない。
「きぃ……」
猿の姿で、深々とため息を吐いてしまった。とりあえず今日からは、他に王子がいないのかどうかっていう情報の収集と、一応、馬鹿の治し方でも考えてみよう。
風がそよっと吹いて、俺の尻尾がふらりと揺れた。
六
さて、新しい朝が来た。
昨日の夜は出かけることもせず、ご主人に引っついてぐっすりと眠った。そもそも元気がない時に考え事をしても、ろくなことを思いつかないなんて、わかりきっていたのだ。
しかし、今日の俺は一味違う。尻尾もピンッと張っているし、毛もツヤツヤしている。まぁそれは、朝からご主人がブラッシングしてくれたからだが。なんでもそのブラシ、豚毛を使った、[櫛{くし}]職人お手製の高級ブラシなんだそう。豚毛で猿毛を[梳{と}]かすって発想が凄い。猿のためにそれを買っちゃうご主人も凄い。でも、ご主人がそれで俺の毛をサワサワ〜って撫でてくれるの、気持ち良いんだよなぁ。……いやいや、ブラシの話は置いておいて。
ともかくだ、俺は考えた。やはり夜だけでなく昼間もできることをしよう、と。そもそも、日がな一日ご主人にくっついてたんじゃ、ご主人の仕事の邪魔になるだけだ。誘拐と迷子防止の首輪もしてるし、ご主人だってわかってくれるだろう。
俺は、もう店に立っているご主人の足もとに、てててっと駆けた。
「きっ!」
「おう、シェフタリ。どうした?」
「きっ、きっきっ、き~~っ」
(俺、外に、出かけるよ)
自分を指差し、外を指差し、額に手を当ててきょろきょろしてみた。とにかく、ジェスチャーで外に出ることを伝えよう。勝手に出ていったら、多分、一大事だ。
ご主人は動く俺を見て、笑いながらうんうんと頷いた。どうやら伝わったらしい。
「『俺は、誰よりも、可愛いだろ』? あぁそうだなシェフタリ。お前はどこの家の子より可愛いぞ」
「きぃっ!」
なんだと。全然欠片も伝わってなかった。こんなにわかりやすいジェスチャーが通じないなんて。
ていうか、なんて翻訳してくるんだご主人よ。違うんだ。俺は外に出掛けたいんだ。
「きっきーっ、きききっ、ききっ」
(いってきまーす、ひとりで、出かけるよ)
手を振って、足を指差し、走るポーズ。ご主人はまた笑いながらうんうんと頷いた。
「『手も小さい、足も小さい、可愛いだろ』? そうだなシェフタリ。お前は小さくて可愛いぞ」
嫌だよもう、このご主人。どれだけ俺のこと好きなんだよ。俺は恥ずかしくて、両手で顔を覆った。
ちくしょう、どうすれば伝わるんだ。このままじゃ外に行けないけど、勝手に出て行くのはやっぱり嫌だしな。今日は諦めるか……いや、やっぱり根気強くジェスチャーゲームを繰り返すか。
悶々とする俺を、大きな手が抱えた。手の持ち主であるご主人が「はぁ」とため息を吐いて、俺の両手を指でこじ開ける。寂し気なエメラルドグリーンと目が合った。
「わかってるよ、シェフタリ」
「き」
「外に行きたいんだろ?」
「きっ」
そうそう。そうなんだ。やっぱりご主人は俺の言いたいことはなんでもわかってくれているんだ。
俺は多分、きらきらした目になっていたと思う。その目のまま、ご主人を見つめてみた。ご主人は「うっ」と唸って鼻を押さえて仰け反った。最近、角度が安定してきた、ご主人の仰け反りだ。
「しょうがねぇ。本当はな、何があろうが絶対お前を一匹で外に出したくはねぇんだが……、お前だって外に遊びに行きたくもなるだろうしな」
すっごくすっごく嫌そうだが、どうやら外に出ても良いらしい。俺はご主人の腕の中でヒョコヒョコと飛び跳ねた。
「じゃあ、そうだな、シェフタリでも持っていけ。お前のことじゃないぞ。果物のシェフタリだ……ほら、包んどいてやるから」
嬉しそうな俺を見たからかわからないが、ご主人が若干照れながら、いそいそと果物を準備し出した。うん、やっぱり良い人だ。
「よし、シェフタリ、出かける前の約束事だ」
「きっ」
ご主人が[真面目{まじめ}]な顔をして指を一本立てた。俺はそんなご主人の前にちょこんと正座して片手を挙げた。
「いち、知らない人についていかない」
「きっ」
「に、夕方には戻る」
「きっ」
「さん、攫われない」
「き……」
「よん、誰にでも愛想を振りまかない」
「……」
「ご、お前のご主人が俺であることを忘れない」
「……きーー」
これはやばい。無限に続くパターンだ。
俺はご主人の服の[裾{すそ}]をくいくいと引っ張った。早くしないと、それこそ日が暮れてしまう。
「そのろ……」
もう一回くいっと引っ張って、「まだかなまだかな」って顔をしてみた。ついでに尻尾もプンプンと振ってみる。
「くぅっ」
ご主人が仰け反った。よし俺の勝ちだ。ご主人は渋々と、俺に、シェフタリをふたつ包んだ布を背負わせてくれた。布の端と端を胸に回して結う。俺はご主人が結びやすように、万歳をしながらそれを見ていた。
「行ってこい。ちゃんと帰ってこいよ」
「きっ」
もちろん。俺の帰ってくる家は、ここなんだから。日が暮れる前に戻ってくるよ。俺はご主人に手を振って外に飛び出した。
* * *
街に出た。夜と昼の街は、全然違って見えるから不思議だ。
ご主人の店は、市場のちょうど真ん中あたりにある。そこから右へ行っても左へ行ってもズラリとテントが並んでいるんだ。そして溢れかえる人、人、人。誰も彼も何事かを喋りながら歩いている。それでもって、皆してムキムキしているので、密集具合が半端じゃない。小さな猿である俺が、その密集地帯でちょっとでもボーーっとしようものならあっという間に踏み潰されてしまう。ぺらっぺらの子猿せんべいのでき上がりだ。それは困るので、誰かにぶつかる前に、するするっとテントを支える支柱を登った。そしてそのまま、テントの天幕の上を伝って、市場を駆け抜ける。
通りを抜けると、少し開けた広場に出た。石畳が幾何学模様に並べられていて、大きな円を描いている。中心には、水の入っていない噴水のような建築物があった。その広場からは、数本の路地が伸びている。そのひとつが、今俺がやってきた市場だ。多分ここは、街の中心に当たるのではないだろうか。
俺はきょろきょろと周りを見渡してから、目についた中で一番高い建物へと向かった。建物に登ってから気がついたのだが、どうやらこの大きな建物は、大衆浴場のようだ。屋根の一部、窓と[思{おぼ}]しき無数の穴から、もうもうと湯気が立ち上り、つるんとした顔をした人達がほかほかほっこりした様子で次々と出てくる。
それにしても皆、物凄く気持ち良さそうだ。「あーー、良い湯だった」と、もれなく顔に書いてある。夜もやっているなら、人間として入ることもできるのだろうが……なんにしても、今日は無理だろう。俺はすっきり顔の街人を尻目に、大衆浴場(と思しき建物)を一気に駆け上がった。
「きっ」
思った通り、そこはとても見晴らしが良く、俺は思わず声を上げた。四方をぐるりと見渡してから、俺は目的の建物らしきものを発見した。王子がいそうな建物。そう「城」だ。
噴水広場(俺命名)から伸びる一番大きな道を辿っていくと、なだらかな[勾配{こうばい}]がずーーっと伸びている。その先の丘をぐんぐん登っていくと、その頂上に、高く長い灰色の壁と、薄青い色した屋根と、幾つかのタマネギモスクが並んだ建物が見えるのだ。見渡した中で一番大きく、街より小高い位置に、でんっ、と建っている。今俺がいるここが城下町だと仮定すると、あそこがお城で間違いない、……気がする。なんにしても、行ってみる価値はあるだろう。
ひとりでこくこくと頷いてから、俺は改めて、広場を観察してみた。……と、丁度広場から城へと続く一本道に向かう荷馬車を見つけた。あれはきっと、城へ荷物を運んでいるに違いない。その荷台に乗り込めば、上手い具合に便乗して城に入れるかもしれない。というより、そうでもしないと、俺の足であんな遠くまで辿り着ける気がしない。
よし、方向性は決まった。俺は大衆浴場の柱をするすると滑り降りると、その荷馬車へこっそり近づいた。そして、石畳みをのんびりと進むその荷台に「そいやっ」とばかりに、走りながら飛び乗る。無事飛び移れたのは良かったのだが、勢い余って、荷台の中をころころ転がってしまった。その勢いを殺せないまま、慣性の法則に従い転げ、最後に木箱にぶつかる。地味に痛い。
幸い、荷台には人がいなかったので「ほっ」とため息を吐きながら、ぶつかったその木箱の中に身を潜めてみた。
それから幾ばくも経たずに、荷馬車が止まった。そして、恐らく御者であろう人物と、城の見張り番らしき人物との会話が聞こえてくる。
「ヘゲモニ区、サビヒです。食材を届けに参りました」
「[検{あらた}]める」
短いやり取りの後、荷馬車の布がばさりと[捲{まく}]られる。俺は息を殺して、ぷるぷると震えていた。これ、見つかったらどうなるんだろう。本当に食材にされたらどうしよう。この世界に、猿を食そうなんて考える奇特な人がいませんように。ああ、怖いよぉ。なんまいだなんまいだ。どうか救けてください、神様、仏様、ご主人。
「通ってよし」
俺がひとりで恐怖に震えてる間に、検閲は終わったらしい。ぎいぎいと木の門が開く音がしたかと思うと、荷馬車がまたゆっくりと動き出した。どうやら城の中への潜入は成功したようだ。
さて、あとはどのように情報を収集していくかだが……。とりあえず、捜査の基本は足だろう。月曜だか火曜だか何曜だかのサスペンス劇場に出てくる刑事が言っていた。よし、自分の足で城を見て回ろうじゃないか。
俺は入口の門が閉まる音を確認した後、荷馬車から綺麗に補整された道へと身を投げた。
さぁ、お城探検の始まりだ。
七
恥ずかしい。何がって「探検だ!」とか意気込んでいた数時間前の俺が、だ。俺は、城がなんたるかなんて、全然わかっていなかった。
格好つけて雰囲気で荷馬車から飛び出したけど、最後まで乗っておけば良かった。食材を運んでいたんだから、少なくとも、食料庫だったり厨房だったりには辿り着けたんじゃないだろうか。
今俺は、行きたい場所もわからない、来た道もわからない、ここがどこだかわからない。
そう、俗に言う迷子だ。
そもそも俺は、この国の名前も成り立ちも制度も知らない。城の造りなんて、さらにわかるわけがない。日本にいる頃だって、城なんて数える程しか行ったことがない。しかも自慢じゃないが、その全部が学校の行事でだ。
城っていうのは、広いし、意外と人がいないし、部屋はたくさんあっても、そこがなんの部屋なのか検討もつかない。要するに、王子がどこにいるのかわからない。ああそうだよ、全くわからないんだ。ない物ねだりなのはわかってはいるが、「城内案内地図」みたいのが欲しい。現在地はここです、っていう赤ポチがついた、デパートとかによくある、あの案内地図が。
多分一時間くらいかけてうろうろしただろう。俺が今いるのは、人のいないだだっ広い廊下だ。片側は壁、片側は柱が均一に立っていて、そこから庭に出られるようになっている。庭には、街ではあまり見掛けたことのない植物が植わっていた。
緑の[絨{じゅう}][毯{たん}]みたいに広がった柔らかそうな草と、整然と並んだ花々、木の実をたわわに実らせた樹木。お抱えの庭師なんかがいるのであろう、木に繁った葉は寸分違わず切り揃えられていて、そりゃあもう美しい。そよそよと、迷子の俺にも優しい風が吹きつける。
途方にくれて、石の床にへちゃりと体育座りで座り込む。どうしよう。前世ではナビに頼り切っていた俺だ。太陽で方角を読む知恵もない。出口もわからない。背負ったシェフタリが妙に重たく感じられて切ない。
そのままぼんやりとしていたら、どこからか声が聞こえてきた。耳をひくっと動かして聞こえてきた方向を探ってみた。どうも、廊下の右手側から聞こえてくる。
俺は、そちらからは見えない位置に立つ柱の裏側に、ひちゃっと張りついた。
「あぁ、書類の中身なんてどうせ読んじゃいないだろう。いい加減で構わんさ」
「へへ、はい。中身のない書類を見せに行くこっちの身にもなって欲しいもんですね」
「全くだ。あぁ面倒くさい。ははは」
紙の束を抱えた男がふたり、にやにや笑顔を浮かべながら、長い廊下をだらだらと歩いていた。会話からして、なんだか嫌な感じだ。
「元は軍出の王子ですよね。いわゆる、脳味噌まで筋肉ってやつですか?」
「ふん。先だっての戦まではあの王子は『まとも』と[噂{うわさ}]だったんだがな。王宮に上がった途端あれだ。大方奴を推す軍人官僚あたりが切れ物の噂を立てて、奴が役職に預かれるように仕組んだのさ」
「なるほど。まぁ上が馬鹿だと楽で良いですけどね」
誰のことを話してるか、なんとなくわかった。多分、あの王子だ。まぁ確かに王子は賢い感じではなかったけれど、こいつら、仮にも王子に対してなんて言い草だ。しかも、書類はいい加減で良い、みたいなことも言っていたな。社会人をうん年やっていた俺には、なんとなく「かちん」とくる言葉だ。確かに、いけすかない上司っていうのは、俺の世界にもたくさんいた。が、それと自分が仕事の手を抜くのとは、別の話だろう。
まぁ、そんな俺の憤りはさておき。どうやらこのふたりは、王子のところに向かっているらしいし、渡りに船だ。このままついて行こう。
俺はちょろちょろとふたりの後を追った。
「失礼します」
「おー、入れ入れ」
予想通り、ふたりが訪れたのは、あの王子の執務室だった。部屋の外の壁にへばりついているため、中の様子は見えないが、一昨日聞いた声が中から響いてきた。
「王子に目を通して頂きたい書類をお持ちしました。中身につきましては、私どもが確認しておりますので、王子にはいつも通り押印をしていただくだけで結構です」
嫌な奴の片割れは、さっきは散々王子を馬鹿にした口調だったくせに、その王子の前では[揉{も}]み[手{て}]をせんばかりにへりくだって喋っている。いや、見えないだけで、実際に揉み手をしているのかもしれない。全くもって、典型的な嫌な奴だ。俺は下唇を突き出して「けっ」と心の中で呟いた。
「わかった。そこに置いておけ」
「はいっ。あのぅ、くれぐれも押印をお忘れなく……」
「おうおう、わかったわかった」
「はい! それでは失礼致します」
王子の馬鹿野郎。気づけよ。そいつら滅茶苦茶嫌な奴らだぞ。王子、馬鹿にされているんだぞ。
そんなことを考えて[拳{こぶし}]を震わせていたら、ふたりが廊下に出てきた。俺はこっそりとその姿を見送る。……と、ふたりは目配せし合って、にやにやしていた。なんつういやらしい奴らだ。俺は「びーーっ」とその後ろ姿に向かって舌を突き出しておいた。全然気はすまないが、まさか追いかけて引っ搔くわけにもいかないし、今は人間じゃないので王子に告げ口することもできない。
とりあえず、目的の王子のところに辿り着けた。俺はこっそりと部屋を覗いてみた。
意外にも、王子はさっき届けられたのであろう書類を確認しているところだった。それも結構真剣な顔で読んでいる。俺は「へぇ」と思いながらそれを見ていた。
すると突然、王子の眉がクッと吊り上がった。あれ、と思っていると、王子がその書類を横に放って、次の書類を摑んだ。そして上から下まで目を通して、また横に投げ出す。その次も、次も、次も。
そして同じような行為を十数回繰り返したあたりで、王子はその書類の束を、バサァッと手で[薙{な}]ぎ[払{はら}]った。
[啞{あ}][然{ぜん}]とする俺の視界の中、おもむろにゆらりと立ち上がった王子は、部屋の奥に向かって歩いていった。もうその辺りで、俺の細っこい足はぷるぷると震えていた。だって、なんというか、王子が怖い。俺は初めて人のオーラっていうやつが見えた気がした。そう、王子の周りに、そりゃあもう真っ赤っ赤な憤怒のオーラが見えたんだ。
王子は、部屋の奥の壁の前で立ち止まった。
(何してんだ?)
怖いもの見たさでこそこそと眺め続けていたら、王子がヒョイと腕を上げた。次の瞬間、ドゴォッという音とともに、王子の手が壁を貫いた。
タメも振りかぶりもなかった。予備動作もなくちょろっと出したパンチで、壁に穴ができた。壁だ。紙じゃない筈だ、壁だ。俺が震える足で今[縋{すが}]っている、この分厚くて固いカッチカチの壁だ。そうだ試しに叩いてみよう。コンコンという重たい音がする。あ、良かった、やっぱりこれ壁だ。紙じゃない。
「誰だ」
あ、やばい。驚愕のあまりに起こした行動が、図らずしもノックみたいになってしまった。か細い音だったが、王子の耳にはばっちり届いていたらしい。バッ、と振り返った王子の目と、俺の目がかち合った。
俺の足は、やっぱりぷるぷると震えまくっていた。
八
振り返った王子は、きょとんとした顔をしていた。
俺は足を震えさせながら、とりあえず鳴いてみる。
「きぃ……」
えらく気迫のない鳴き声になってしまった。王子が、益々きょとんとした顔になった。
「猿か」
そうです、猿です。なんて言える筈もなく。俺はただ黙って、じっとしていた。
「城に迷い込んだのか?」
王子がこちらに歩いてきて、俺の前に座り込んだ。ヤンキー座りだ。なんて行儀が悪い王子様だ。なんて、心の中では毒づいても、さっき壁を殴って穴を開けた姿がまざまざと目に焼きついていて、ビクビクしてしまう。と、その逞しい腕が、ぬっ、とこちらに伸びてきた。
(ひぃっ!)
俺は内心悲鳴を上げながら、目の前にある王子の足を、さっきの王子パンチ(俺命名)の要領で、ていっと叩いてしまった。俺のパンチは王子の足に当たる前に、その[煌{きら}]びやかな服にポスンと命中する。と、パンチの衝撃で布がふわわっと波打って、数秒で何もなかったように戻ってきた。しーーんとした、変な空気が漂う。
俺はちらりと王子を見上げてみた。王子は、またきょとんとした顔をしていた。全然悪意なんてありません、って表情だ。「この猿、何やってんだ」って、ひたすら不思議そう。つまり俺は、俺を襲うつもりなんて微塵もない王子を警戒して、ひとりわたわたしていたということだ。
なんだか無性にいたたまれない気持ちになって、突き出した拳をそろそろと戻して、背中に隠してみた。両手を背中で組んでモジモジしてしまう。なんていうか、その、すみませんでした。という心境だ。王子はきょとん顔から回復して、思案顔になっていた。そして「ふむ」と呟いてからもう一度俺に手を伸ばしてきた。ゆっくり、ゆっくりと。そして手のひらを上に向け、窺うように俺を見下ろしてくる。
どうやら、急に手を伸ばしたせいで俺を怯えさせたのだ、と思っているらしい。俺をびびらせないようにという配慮からか、今度は、動作がゆっくりになっている。なんだ、王子は意外にも良い奴かもしれない。
単純な俺は、「突然殴ってすみません」の気持ちを込めて、王子の人差し指を両手で摑み、ぷんぷんと上下に振ってみた。仲良くしようぜ、の握手のつもりだったのだが、王子は真顔のままだった。ちゃんと伝わっていないのかもしれない。
というわけで今度は、人差し指にすりすりと頬っぺたを当ててみた。しかし王子はまだ真顔のままだった。しょうがないから俺は、その指をかぷりと嚙んでみた。そのままかぷかぷと甘嚙みしてみる。怯えてない、怯えてないんだぞ、ということを伝えるために、最後に指をぺろんと舐めてみる。
王子は真顔のまま、されるがままにされている手と反対の手で、俺をぐわしと摑んだ。
「きっ?」
そして、俺をその厚い胸板にぎゅっぎゅっぎゅーーっと抱き込んだ。
「きっ、ききっ!」
あまりの衝撃に、尻尾の毛がぶわっと逆立つ。これ絶対に、背負ったシェフタリが潰れているだろう。潰れたシェフタリみたいに、俺も潰れる、潰される。内臓がやられる圧迫感だ、これ。俺が人間だったら「ぐぇえ」と言っていただろうが[生憎{あいにく}]今は猿だ。「きぃい」という情けない声しか出なかった。
しばらくして、満足したのであろう王子に解放された頃には、俺はしおしおになっていた。しおしおのしなしなのぺらぺらだ。
それにしても、物凄いプレスだった。このまま王子の服に貼りついてしまうかと思った。胸元に猿のアップリケ。ははは、笑えない、全く笑えないぞ。王子は、そんなしおしおの俺の首根っこをひょいと摑んで、先程まで書類が載っていた机の上にポスンと下ろした。へばっていた俺は、なんとか上体を起こし、ぷるぷるぷるっと頭を振る。本当に、死ぬかと思った。
ついでに、背中のシェフタリに手を伸ばしてみる。と、それは奇跡的に全壊はしていないようだった。俺はいそいそと胸元の紐を[解{ほど}]いて、机の上に布を広げる。
「なんだ、シェフタリを背負っていたのか。お前、どっかで飼われてる猿か?」
「きっ」
そう、主人に飼われている猿だ。俺はきっ、きっ、と頷いてから、ふたつあるシェフタリのうちのひとつを、王子に渡すことを思いついた。ご主人が仕入れてくるシェフタリは、そりゃあ甘くて[美味{うま}]い。そんじょそこらのシェフタリとは一味違う。
まぁ王子は一国の王子様だし、いつももっと高級なものを食べてるかもしれないけど。でも、一度ご主人のシェフタリを食べてみるのも良いと思う。絶対に[美味{おい}]しい。味は俺が保証する。
そんな意味を込めて、シェフタリを手に持ち、王子に向かって「きっ」と鳴いてみた。
「俺にか?」
「きっ」
精一杯手を伸ばして、ほらほらと王子にシェフタリを差し出す。王子はしばし目を見張ってから、がしっ、とシェフタリを受け取った。
そして、ニカッと頬を持ち上げて笑う。
「ありがとな」
そのニカッは[一昨日{おととい}]の夜に見たような、ゾワッとくる笑いではなかった。
あれ。おかしいな。この王子は本当に一昨日の王子なのだろうか。
(おかしいな)
俺に「美味いな」と笑いかけ、頭を撫でてくれるこの王子は。壁の穴を、しぶしぶと不器用にタペストリーで隠しているこの王子は。恐らくまともな内容ではないのだろう先程投げ捨てた書類を、苦々しい顔で纏めるこの王子は……。
(全然、馬鹿になんて見えないのに)
俺は、俺の分のシェフタリを[齧{かじ}]りながら、じっと王子を見ていた。もしかして王子の病気は馬鹿なんかじゃなくて。もっと違うもので……。
「美味いシェフタリを持ってきてくれたからな。お前をシェフタリと呼ぼう」
本当はもっと、根が深い病気じゃないのだろうか。
俺を「シェフタリ」と呼んで笑う王子の紺碧の目を見つめて、こくりと頷いた。ご主人と同じ名前をつけてくれたことが何だか嬉しくて、ぱちぱちと手を鳴らす。そんな俺に何を思ったか、またもぎゅっぎゅっぎゅっとプレスしてきたのはいただけなかったが。俺は王子の新しい一面を見て、なんだか胸がもやもやした。
馬鹿じゃないのに馬鹿な振りをするのって、なんでなんだろう。俺は自分から王子に近づいて、その肩に乗ってみた。
王子の髪は金髪できらきらしている。指で触ってみたら、くしゃりとしているのに硬くて、なんだか猫とか犬とか動物の毛みたいだ。金色が、窓から差し込む光に透けて、何故だか黄金色の麦畑を思い出した。紺碧の目は相変わらず獣のように隙がないけれど、俺を見るそこには、優しげな色が混じっている。曇りの日の、[凪{な}]いだ海の様に深い深い色だ。
肌は、この国の多くの住人と同じく、浅黒い。しかしその頬にサッと走る様に傷が一本、そこだけは薄っすらと白く、浮き出るように主張している。その傷を、尻尾でスルリと撫でてみた。ふわりとした毛が、優しく王子の頬を辿る。上下に二回、スルリスルリと撫でてから、俺は尻尾をふにゃりと垂れさせた。
「気になるか?」
王子が、垂れた俺の尻尾を指に絡めながら問う。俺はコクリと頷いた。王子は目をすがめて、笑った。
「これはな」
王子の指が、俺の尻尾を巻きつける。無意識の内に、俺も王子の指を、きゅっと締めつけていた。
「俺への戒めだ」
俺は王子の病気を治したい。それは神様との約束だからだ。
今になって、神様に「王子はどんな病気なのか」ってちゃんと聞いておけば良かったな、なんて考えてる。でも神様は聞いても教えてくれなかっただろう。でなければ、先に答えをくれていた筈だ。神様はあえて言わなかった。きっと、俺が自分の力で王子の病気を知って、治すことが大事なんだろう。
上手くいくか、治せるかなんてわからない。でも、部下に軽んじられても、それでも馬鹿を演じているこの王子の病気を、神様に言われたからではなく、自分の意思で治してあげたくなった。
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