試し読み 黄昏公園におかえり

第一話「ポンコツ除霊師、家を出る」

「[親父{おやじ}]とケンカして家を飛び出したはいいが、住む家もなければ、泊めてくれるような友達もいない、と?」

「……その通りです」

「中学生でも、もうちょっとマシな家出するんじゃないか?」

 そうかもしれない。仮にも、大学一年生がする家出ではないかもしれない。

「ずいぶん遅れてやってきた反抗期だなぁ」

「あの、兄さん、……すみません。もう十分反省したので、何とか助けてくださいませんでしょうか……」

 春日はニヤリと笑った。その人の悪い笑顔といったらない。

 我ながら[酷{ひど}]い[顛末{てんまつ}]だった。考えなしすぎた。向こう数年は、春日にネタにされるであろうことは必至だった。

 だけど、家を飛び出したこの日が、タカヤのターニングポイントであったことは、間違いない。

 この「ゆうやけ公園」から、タカヤの第一歩が始まった。

 死に[逝{ゆ}]く夜の闇からも、生まれ変わる朝の光からも遠い、永遠の[黄昏時{たそがれどき}]を過ごす幽霊達のいる、通称「黄昏公園」から。

 

 [高{たか}][谷{や}][隆{たか}][哉{や}]、十九歳。苗字も名前も読みはタカヤ。

 職業は、大学生、兼『助霊師』である。

 

 そもそもどうしてタカヤが公園にたどりついたかと言えば、発端は父に呼び出されたことだった。

 

 

 タカヤの家は、築百年は経とうという古い寺である。名を[千住寺{せんじゅじ}]という。

 一般的な仏教の寺とは異なる。いわゆる[檀{だん}][家{か}]はなく、教義もない。宗教的にいえば、仏教というよりは[神道{しんとう}]に近い。それなのにどうして寺を名乗っているのか。それは、神仏習合の[名残{なごり}]、及び修行の場としての『寺』の名残というより他にない。

 つまり、この千住寺に住み代々管理してきた高谷家は、住職でも何でもないのだった。

 職業、除霊師。

 先祖代々、このオカルトが虚構と信じられる[令{れい}][和{わ}]になるまで数百年も続いている、古式ゆかしい[悪{あく}][霊{りょう}][祓{ばら}]いの家系なのだ。

 そしてタカヤ――高谷隆哉は、この家の跡取り息子である。苗字もタカヤで名前もタカヤだが、これには語ると長くなる事情があるので割愛する。

 今時除霊師なんて、と不満を持ったわけではない。これでもタカヤは、一族の中でも開祖以来の[逸材{いつざい}]と称賛されるほどの霊力の持ち主なのだ。

 霊が見えるどころじゃない。話もできるし、ちょっとくらいなら[触{さわ}]れるのがタカヤだ。高谷家の当主は、その代で最も霊力が強い者が継ぐ。というわけで、タカヤは幼いころから当然のように当主になるものとして育てられた。当然のように、除霊師になるものだと自分でも思っていた。

 その上で、タカヤを当主の間に呼び出した父が言ったセリフがこれである。

「お前を高谷家の除霊師として認めるわけにはいかん」

 父親、高谷橘は[齢{よわい}]五十歳にして、現役の除霊師だ。眼力だけで[怨{おん}][霊{りょう}]を消し飛ばしそうな厳格なオーラを備えている。[藍染{あいぞめ}]の着物をまとい、腕を組んで正座をするその姿は、どっしりと石像のごとく動かない。

 そんな父を前に、タカヤは目を左右に泳がせながらも[果{か}][敢{かん}]に反抗を試みた。

「いやその、まだ除霊師になれないと決まったわけじゃ」

「なれぬ」

 とりつくしまなし。言いたいことはあったが、その時はまだぐっと抑えて正座をしなおした。

「除霊をしようとすれば、頭が真っ白になって固まる。[祓詞{はらえことば}]、[祝詞{のりと}]のひとつも出てこない。契約できた使い魔もなし。できることといったら幽霊を見たり話したりすること。そんなもん、その辺の少し霊感が強いだけの一般人と何が違うのだ。言ってみろ」

「えーと、霊にちょっと触れる」

「触ってできることは何だ?」

「……特にありません」

 確かにタカヤは霊力が高い。が、肝心の除霊はできない。それは先に指摘された通りである。申し開きができない。

 除霊すると相手を消してしまうように思えて、怖くて固まってしまうのだった。つまり、霊力がどうとか実力がどうという以前の問題で止まっている。

 なまじ霊力が強すぎるために、タカヤには霊が人間と同じくらい鮮明に見える。声も聞こえてしまう。だから除霊をすると、その霊が人間だった時の心を[全{すべ}]て消してしまうように思えてしまう。どうしても除霊のための祓詞が出てこない。硬直して、頭が真っ白になってしまう。

 弁解の余地なし。

 観念して土下座したところで、タカヤの下に父のため息が落ちてきた。

「家を継ごうにも、お前はいまだに使い魔も持っておらん」

「ぐぐぐ……」

 返す言葉もない。

 何せ、除霊の現場では役立たず。そんな有様だから、高谷家が代々使役してきた使い魔達をただの一柱とて従えられなかった。

 使い魔といっても元は土地神の[類{たぐい}]だ。霊力を使いこなせない人間に、黙って従ったりはしない。つまり、除霊師としてスタートにすら立てていないタカヤは、完全にナメられているのである。

 高谷家所有の使い魔から選べないとなると、どこかの神社寺院に祀られる土地神などと直接交渉して契約しなければならない。分霊してもらうことになるのだが、新しく神社を[建{こん}][立{りゅう}]するわけでもないのに、個人に力を貸してくれる土地神がどれだけいるだろう。地神信仰の薄まった現代で、それがどれだけ困難なことか。

 先祖代々契約を続けてくれている使い魔ですら[呆{あき}]れさせているのに、新規契約をもぎ取れるほど除霊の世界は甘くはないのである。

 いっそ使い魔なしで除霊ができればいいのだが、そういうわけにもいかない。除霊師は幽霊を浄化することができるが、[冥界{めいかい}]へと送る『[御霊{みたま}]送り』はできない。霊を死者の世界に送り届けるには、神との間を仲介する[神{しん}][使{し}]の獣の力、つまり使い魔が必要なのだ。

 兄の春日は、契約を許される十歳になってすぐ使い魔と契約している。しかし、タカヤはすでに十九歳。除霊できず、使い魔もなく。もうすぐ成人だというのに、家を継ぐために必要な条件を何ひとつ満たせていない。本当に『霊力だけが一等賞』という非常に情けない事態である。

 父が直接説教をし出すのも、道理というわけだ。

 だけど、タカヤにだって言い分がある。

「僕だって何も考えていないわけじゃないです。その、祓詞が出ないのは、どうしても高谷家の除霊方式が苦手っていうか、納得がいかないというか、生理的に受けつけないというか……」

 言いながら尻すぼみになってきた。しかし、ここで[退{ひ}]くわけにはいかない。

「僕には霊が泣いているのも、怒っているのも、人間と同じくらい鮮明に見えるんだ。理由も聞かないで、一方的に排除するなんて可哀想じゃないか。生きている人間だって、急に来た見知らぬ人に[叩{たた}]かれたら、怒って当然だ」

 もちろん、霊と生きた人間を全く同じに扱うべきではないことは、タカヤにだってわかっている。幽霊はそこかしこにいる。害のないものから、怨霊と呼ぶべきものまで。他人よりもよく見えるからこそ、タカヤはそれを誰よりも知っている。

 ただ、意志の疎通が可能かどうかに関係なく全て強制的に成仏させるやり方に、タカヤは強い抵抗をおぼえてしまうのだ。

「そんな理由で[嫌{いや}]がっておるのか」

 父のドライな反応に、タカヤはがっくりとうなだれた。父にとってはそうなのかもしれないが、タカヤにとっては全然「そんなこと」ではない。

「幽霊だって元は生きた人間じゃないか。強い感情を持っている幽霊もいる。未練を断ち切るまで、少しの猶予が欲しいだけの幽霊だって多いでしょ。それくらい、少し聞いてあげてもよくない?」

 高谷家はどんな幽霊でも、依頼があれば[容{よう}][赦{しゃ}]なく除霊する。幽霊の心情には理解を示さない。少なくともタカヤは納得がいかない。

「同情してそれに失敗するのでは、話にならん」

 相変わらず、父の意見は最もだけれど情緒がない。ビジネスライクすぎる。

 タカヤの意見に少しでも耳を傾けてくれるなら、除霊のあり方について納得できる理由を聞ければ、それでよかったのに。

 ヒートアップしていたことはいなめない。だけどそれは、タカヤがずっと心の中で温めていたまぎれもない本音だった。

「強制除霊は最終手段でもいいじゃないか。幽霊の未練を解消して気持ちよく旅立ってもらう方が、お互いのためじゃない? そういうやり方にできないの?」

 好きで悪霊になる幽霊なんていない。どうしてもぬぐいきれない恨みや哀しみがあるから、その無念のあまり幽霊は悪霊になってしまう。逆に言えば、そこさえ何とかできるならハッピーエンドになるのではないか。

 難しいかもしれないけれど、その可能性に[懸{か}]けてみたい。それがタカヤの願いだった。

「……甘すぎるな」

 予想通りというべきか、父の答えはすげないものだった。想定できる返事だった。だからもう一度、自分の想いをきちんと言葉にしようとして――。

「今まで、それを試さなかった先人がいなかったとでも?」

 しかし、さすがにこの一言にはタカヤも沈黙せざるをえなかった。

 タカヤと同じことを考えた除霊師が、今までに一人もいなかったわけではない。だけどそれは主流となりえなかった。うまくいかなかったのだ。父が言いたいのは、つまりそういうことだった。

「同情すべき点があってもなくても、念の強い霊は生きている人間に悪い影響を与える。だから、高谷家のような除霊師の血筋が存在するのだ。悪影響を持つ幽霊を、強制的に成仏させてでも土地を浄化する。それが一族の使命だ。現代でもその役目は失われてはおらん」

 自分ならできる。そう言ってのけられたらよかった。だけどタカヤには、除霊師の基本すら備わっていない。これ以上、何を言ってもタカヤの一方的な感情論になってしまう。

「タカヤ、私はお前の霊能力だけは認めている。継ぐ気があるならば、理想論よりもまず現実を見ろ」

 父は間違っていない。数百年も同じことが行われているのは、それ以上にいい方法がないからだろう。

 現代も除霊師は現役であるが、時代柄もあって後継者不足に悩んでいる家系は多い。霊力第一の血統主義だから、血筋を引いていても誰でもなれるというわけではなく、そして外部からの新規参入はほぼないのが除霊師業界のリアルだった。人手不足が深刻で技術革新どころではない。

(だからって、[諦{あきら}]めていいのか……?)

 契約使い魔もいないポンコツだけど、霊力だけなら開祖レベル。それがタカヤの唯一無二の個性であり、価値だ。

 できないかどうかは、やってみるまでわからない。

「本当に継ぎたいと思っているなら、お前なりの覚悟を見せなさい。遊びではないのだ。感情論では解決せんぞ」

 父の言いたいことは、理解していた。

 理解したからこそ、言ったのだ。決して軽い気持ちで言ったわけじゃない。

 それはタカヤなりに信念を持って放った、人生を懸けた一言だったのだ。

「僕はこの家を出る!」

 

 そして――理想はともかく、今日寝る場所すらないことに気がついて、今に至る。

 

 

 夕暮れ時。高谷家から徒歩十分ほどの距離。

 タカヤと春日は、住宅街の片隅にひっそりと存在する「ゆうやけ公園」にいた。

 カッとなってイキオイで家出をしてしまった。当然ながら住む場所も何も決まっていない。しかし、ここであっさり家に帰ってしまえば、自分の理想が現実には敵わないのだと認めてしまうことになる。

 散々迷った末に、ことの次第を兄の春日に報告した。結果、家の近くにあるこの公園で一度落ち合うことになったのだった。

「いや、ホントびっくりしたよ。俺もお前がそんな無鉄砲するとは思わなかったし」

「すみませんでした」

「まぁ、家のやり方に、お前なりの考えを持つのはいいことだと思うぜ?」

 とりあえず、速攻で家に送り返されなかっただけでもありがたい。タカヤは春日の気づかいに感謝しつつも、己の[不甲斐{ふがい}]なさに落ちこんだ。

 大学卒業と共に除霊師になった春日は、タカヤにとっては兄であり先輩でもある。無闇に否定しないということは、春日にも多少は思うところがあるのかもしれなかった。

 和装に厳格な[雰{ふん}][囲気{いき}]をまとう父親とは違い、春日は見た目だけならその辺にいくらでもいそうな青年だ。髪は茶髪で、服装もジーンズにシンプルなVネックのシャツとかで、目立つアクセサリーといえば[蛇{へび}]模様の白い革ひもでできたブレスレットくらい。この人の職業が除霊師だといっても、初見で信じられはしないだろう。美容師だといわれた方が信じる。

「さすがに即日家出で宿なしはまずいな。俺としては素直に家に帰るのをオススメしたいけれど、十九歳にしてやっと一念発起した弟の決意に水を差すのもなぁ」

「……ネカフェ難民にでもなるよ。貯金があるうちは、それで何とか」

 当面の問題は、寝食の場所の確保だ。遠い目で通帳の預金額を確認し出した辺りで、すっと春日に取り上げられた。

 はぁ~っと深いため息をついた後、軽く額を小突かれる。

「何でそっちの方向に思い切るんだ。普通に部屋を借りろ。ちょっと社会勉強に一人暮らしをしたいっていうなら、俺だって手伝ってやれないことはない。お前も大学生なんだし、実家を一回出てみるのはいいと思うぞ」

 春日は思っていたよりも、タカヤの家出に肯定的なようだ。そういえば春日は大学に行っている間、一時的に一人暮らしをしていた。単純に家からやや遠い大学を選んだからだと思っていたが、卒業後あっさり実家に戻ったところを見ると社会勉強のつもりだったのかもしれない。

 現状、春日に無理やり連れ戻すつもりはないことがはっきりしたので、タカヤも若干肩の力を抜いて話し始めた。

「一人暮らしは、正直してみたかったんだけどさ。思い出したんだよね。僕、アルバイトが向いてなさすぎるってこと。自分で家賃を稼げるとは思えないんだ。やっぱり、最終的には野宿するしか……」

「いやいや待て待て。ストップ。いくら何でも、ウチはそこまで[修{しゅ}][羅{ら}]の家じゃない。ちょっと一人で考えたいって言えば、親父だって何とかなるって。俺だって一人暮らししていただろ」

「……でも、家出しておいて家賃出してってのはちょっと」

「家賃のことについては、出世払いってことで話をつけておく。住む場所は俺の知ってる格安の家を紹介するから! 家具とかは、俺が一人暮らししてたころのをやる! それでいいだろ? な?」

「出世払い……?」

 それは、出世できる見こみがある場合にのみ使える手ではないのか?

 自慢ではないが、タカヤには本当に一般人として生きる才能がない。今までいくつかアルバイトに挑戦してみたが、うっかり霊に話しかけて気持ち悪がられる、バイト先を心霊スポットにしかける、あげくには[霊{れい}][障{しょう}]を誘発して除霊師の世話になる、といった結果である。

 タカヤが家を継ぐ気なのは、実利的な面もあった。向いていないのだ。心霊関連以外の仕事が、本当に。

 兄がちょっとだけ目をそらした。目を合わせようとしたがらない。当然だろう。実際にタカヤのバイト先で除霊師が必要になる騒ぎとなった時、駆り出されたのはほかならぬ春日である。

「はぁ、それにしてもどうして家出なんて思い切ったことしたんだ」

 若干、話をそらされた気がしないでもないが、春日の質問には素直に応える。

「父さんの古いやり方が嫌だって言っんだ。……僕だって幽霊にはきちんと成仏してほしいって思っている。強制的に排除する、ってのがどうしてもダメでさ」

「うーん、わからないでもないけど」

 成仏できないことは、大半の幽霊にとって苦痛である。だから高谷家は、強制的にでも除霊することが最終的には幽霊のためであるとしている。それが全く理解できないわけでもない。

 四十八日の供養を受けてもなお、未練や恨みが強すぎて、ずっと地上に縛りつけられている。朝も昼も夜も関係なく、いつ終わるかわからない時間を自分の感情に囚われてただ存在している。誰にも理解されず、認識されず、ただ孤独であり続ける。多くの幽霊はまともな自意識を保てず、人間に自分の存在や感情を認知させようとして霊障を起こしたり、生きている人間に[取{と}]り[憑{つ}]いて本懐を果たそうとしたりする。

 それを浄化して祓うのが除霊師だ。強制的に浄化して成仏させる。

 だけどそれは霊の意思とは関係なく、一方的で暴力的な排除だ。

 成仏できないのは、そもそも未練が残っているからだ。それさえ断つことができれば、苦痛もなく納得して、逝くべき場所にたどりつけるはずなのだ。

 春日は何とも言えないような顔をした。しばらく考えこんで、数分経ってからようやく口を開いた。

「で、親父はなんて?」

「甘すぎるって言われて、こう……」

「普通、それで家出するか?」

「売り言葉に買い言葉、というか」

 本当に、その場のイキオイで出てきてしまった。ぐるぐると思考が迷走しているのが、自分でもよくわかる。父や春日を百パーセント納得させる言葉なんて、そう簡単には出てこない。だから、タカヤなりの『理由』を正直に、誠実に話すしかなかった。

「僕が最初に父さんの除霊を見たの、この公園だった」

「へえ、それは初耳だな。お前、除霊に関することになるとイヤイヤ期に入るから、何も話したがらないのに」

「兄さんの中で、僕はまだ赤ちゃんなの?」

「除霊師としては、赤ちゃんどころか生まれてすらいないと思ってるぞ」

 生まれてすらいない。何気に、父よりもヒドイことを言っている気がする。だが、おおむね事実なので言い返せないのがつらい。

 ――タカヤがまだ四歳くらいのころ。

 近くにはまだ大きな公園がなかったので、この小さな公園にも親子連れがよく遊びにきていた。

 だから、その子供がいたことにも特に疑問に思わなかった。何人かいる同じ年ころの子供の一人に見えていた。当時のタカヤは、まだ霊と人間をきちんと見分けることができなかったから。おかげで幼稚園にも行けなかった。

 友達がいないタカヤにとってその一言を口に出すのが、どれくらい勇気が必要だったことか。

「一人ぼっちなの?」

 誰とも遊ばずに一人で片隅に立っているその子供が、なぜか無性に気になった。だから声をかけた。その子が嬉しそうに笑ってくれたから、タカヤも嬉しくなった。

 手を [繋{つな}]いだ時、夏だったのに[妙{みょう}]にひんやりとしていたのを覚えている。綿菓子みたいに軽かった。

 母は近くにいて、どこかに電話をかけていた。今にして思えば、父に連絡を取っていたのだろう。母はそれほど霊感が強くなかったはずだから、タカヤが空気と遊んでいるように見えていたはずだ。

 そして、連絡を受けた父がやってきた。

 タカヤはまだその子供が幽霊だと気づいていなかった。周りにいた子供の親たちが、奇妙な目でタカヤを見ていたことにも。

 鬼ごっこをして遊んで、走っていった先に父が立っていた。

「お父さん、この子おともだち! 名前は、えっと……なんだっけ?」

「ぼくの名前は――」

 その子の名前を聞くことはできなかった。

 父が祓詞を唱えていたことが、そのころのタカヤにはまだ理解できていなかった。

 ただ、光に包まれてその子が消える瞬間、少しだけ悲しそうな顔をしてタカヤへと手を伸ばしたのが見えた。

 あの子は何もしていない。ただ、タカヤと遊んでいただけだ。遊びたい、という気持ちしか感じなかった。怨霊の類ではなかったはずだ。

 タカヤにとって父がしたことは、今日できたばかりの友達を目の前で消滅させられたということなのだ。

 この出来事が心の中に深く突き刺さっていて、いまだに抜けない。除霊をしようと思っても、いざとなるとあの時の『友達』の顔が浮かんできてしまう。悲しそうな顔を思い出して、覚えたはずの祓詞が喉の奥につかえて出てこなくなる。

「どうしても、この霊にもまだ留まりたいだけの想いがあるんじゃないか、って思っちゃうんだ。その想いを強制的に消す権利が、僕たちにあるのかな」

 春日は少し、困ったような顔になった。「あー」とか「うー」とか、、[謎{なぞ}]の[唸{うな}]り声をあげている。タカヤの気持ちもわかるけれど、除霊師の立場としては父の気持ちもわかる、といったところなのだろう。

「生きている人間の心は守られるべきなのに、死んだらどうして守られずに消されてしまうんだ? 一回死んだのに、もう一回死なせるみたいじゃないか」

 春日はさらに難しい顔になって、しばらく「うーん」と考えこんでいた。

 別に家のしきたりに沿って、除霊師の仕事をしている兄を[貶{けな}]したいわけではない。高谷家のやり方が必要だったからこそ、オカルトがほとんど信じられなくなった現代まで除霊師の仕事が続いているのだと思う。

 だけど、どうしても除霊というと、あの時の記憶がちらつく。

 あの後、自分がどうしたのか覚えていない。多分、ひどく泣き[喚{わめ}]いたのだろう。気がついたら家にいて、母親がタカヤを抱いて一緒に眠っていた。

 その母も、タカヤが五歳のころに病気で他界した。

 母を亡くして、幼いタカヤの心はますます内側に向かっていった。なまじ誰よりも霊をはっきりと見ることができ、その声を聞き、時に触れることさえできるほどの霊能を持っていたからこそ、どうしても除霊に対して割り切れなくなった。トラウマのようなものだ。

「兄さんは、どう思う?」

「俺は親父の言うことも、お前の言うことも、どっちも正しいと思うぜ。お前がどうしても除霊をやりたくないって言うなら、家を継ぐのは俺でもいい。一番霊力が高いヤツが継ぐなんて、それこそ古臭い風習だって俺は思うけどね」

「でも、それだと兄さんが……その、やりたいこととか、できないだろ」

 春日は割とタカヤに甘い。タカヤが話を切り出せば「そんなことを気にしなくてもいい」とか「自分で考えて選べばいい」などと言ってくることが、容易に想像できる。

 タカヤが生まれてから、春日はずっと跡取りではなかった。タカヤとは四歳差だ。春日から見れば、物心ついたころにはすでに跡取りはタカヤということになっていたわけだ。

 春日も小さいころはパイロットになるとか、偉い学者になるとか、色々将来の夢を語っていた気がする。そういう話を、タカヤの前でしなくなったのはいつからだろう。最初から将来を決められていたタカヤに対する配慮なのか、それとも自分が跡継ぎではないからという遠慮なのかはわからないけれど。

 タカヤの内心を察したのだろう。春日はニヤリと笑った。

「家を継ぐかどうかはともかく、除霊師になることにはひとつとっておきのいいことがある」

「え? 何それ?」

 思わず身を乗り出したタカヤの額をペチンと叩いて、春日は笑った。

「就職活動しなくてもいい!」

「そういうこと!?」

 がっかりだ。本当にがっかりだ。期待して損したし、心配して損した。

 この飄々としたところがある兄の本心を、簡単に読めると思った自分が馬鹿だった。

「そうむくれるなよ、タカヤ。お兄ちゃんだって、アドバイザーくらいにはなってやるよ。ほら、お前の場合はまず、相棒探しをしないとだしな」

「そうだった」

 除霊師には使い魔が必須。[冥門{めいもん}]に魂を送る、神の使いとなる獣を探す。そして契約にこぎつける。そこまでいかないと、除霊師としてスタートラインにも立てない。

「出てこい『みつるぎ』」

 春日がその名を呼ぶと、右手に巻きつけていた白いひものブレスレットは、[白{はく}][蛇{じゃ}]の姿になって春日の肩にするりと登っていった。春日の使い魔である白蛇神だ。高谷家に代々伝わる使い魔の一柱。

「残念ながら、俺のみつるぎを貸すことはできない」

「そりゃわかってるよ」

「俺のみつるぎも、親父の使い魔も、他の高谷家にいる使い魔たちも、元をただせば土着の神だ。望んで高谷の血筋についてきた神もいれば、神仏習合や土地開発、後継者問題で神域を失って高谷家が保護した神もいる」

 そういえば父の下に、後継がいなくて困っている寺や神社から、人が訪ねてくることがあった。使い魔は分霊された土地神だけではなく、そういう『居場所を失った神』の引受先にもなっているのだろう。

「要するに、僕もそういう居場所を亡くした神様と交渉すれば、使い魔になってもらえる可能性があるかも、ってこと?」

「まぁ、そういうことだな。既存の神社に分霊してもらうよりは、まだ可能性が高い」

 基本的には、寺も神社も世襲制。世襲できなければ同じ宗派から住職や神主を出すことになるはずだが、どうしても見つからないことはあるらしい。

 後継者のいない神社、寺院から神使の獣を譲り受けることは、現代だと下手に土地神を説得しようとするよりも有効かもしれない。

「ただ、そういうところの神使って信仰を失っているわけだから、弱体化しているかもしれない。使い魔はその土地でどれくらい信仰されていたかで神力の強さが決まるからな」

「それって、僕の霊力で何とかならないの」

「お前くらい霊力が強ければ、ある程度は弱った神力の補充ができるかもしれないけど、やってみないことにはな」

 使い魔がいなければ始まらないのだから、強い土地神をなんて高望みはせずに、まずは契約してくれる神様を探さなければならない。春日もそう思ったからこそ、こうやってヒントをくれたのだろう。

 土地神自体は、そう珍しいものではない。むしろあらゆる地にいると言ってもいい。

 寺や神社はもちろん、古くからある民家などにも分霊やごく小さな地域を加護する神がいたりする。知名度や力の強さを問わなければ、日本のどこでも神様の痕跡が見つかる。

 そう、ちょうどこの公園の片隅にある、古びたちっぽけな神社のように。

「あるじゃん!? っていうか、公園に神社?」

「ん? ああ、アレのことか?」

 タカヤの視線、春日が指さした先。

 そう、このゆうやけ公園には、なぜか小さな神社がある。鳥居は小学生くらいの背丈しかなく、お社も大人の背丈ほどもない。両隣を白い石で作られた丸っこい[狛犬{こまいぬ}]が守っている。

「多分、この公園が公共の土地になる前に、地主が持っていた屋敷神かなんかの神社が残されたんだろうな。この神社に神使が残っているかっていうと……いても多分、消えかけだろうなぁ」

 この半ば忘れられかけた神社の狛犬には、恐らく微弱な力しか宿っていない。何か強い力があるのなら、それこそタカヤはとっくに何かがいることに気がついていたはずだ。

 タカヤの霊力をもっても、ほとんど感じられない。でも、完全には消えていない。

 たとえ使い魔が微弱であっても、タカヤの霊力は強大だ。何せ、霊力だけなら[魑魅{ちみ}][魍{もう}][魎{りょう}]が[闊{かっ}][歩{ぽ}]していた時代にあった高谷家の祖先に匹敵するというのが、タカヤなのだ。

 小さい鳥居の前で一礼して、狭い境内に入る。春日が焦って駆け寄り、しかし鳥居手前で立ち止まる。タカヤが何をしようとしているか、気づいたからだろう。

「タカヤ、本当に使い魔を探すのか? この神社で?」

 術者が契約しようとしている場に、他の人間が入ってはならない。ましてや春日はすでに使い魔を持っている除霊師だ。他の土地神の神域には、おいそれと立ち入れない。

「いるかどうかは、この神社に聞いてみないとわからないよ」

 苦い記憶もある場所だけど、この公園は亡き母親と一緒に来た思い出の場所でもある。この場所をずっと守ってきた神社だ。

「僕は、この公園の神使がいい」

 柏手を打ち、祝詞を唱えた。

「[遠{とお}]つ[御{み}][祖{おや}]の神、[御{ご}][照{しょう}][覧{らん}]ください」

 小さな木戸に閉ざされた社に、光がともる。

 祝詞に反応したということは、ここにはまだ神がいる。完全に絶えたわけではない。霊力の気配がタカヤには視える。

「高谷隆哉、高谷の祓い師。かけまくもかしこきこの地の神、この[神籬{ひもろぎ}]にあまくだりませとかしこみかしこみ申す。神使をお借り申し上げます」

 ぼんやりとした光が、ゆらゆら揺れる。その光がタカヤの周りをゆったりと[廻{まわ}]った。

 値踏みをされているのだろうか。タカヤはただ、その時を待った。

 やがて、ゆっくりとタカヤの足元に光が集まってくる。

 それが獣の姿を作って、そして。

「お主が我と契約を結びたいという若造だな!」

 妙に偉そうで、そして甲高い女の声が響き渡った。

 そこにいたのは、ふさふさとした白い毛並みの、耳がピンと立った――。

「……ポメラニアン?」

「狛犬じゃ!」

 ポメラニアン、もとい狛犬はものすごいスピードでジャンプして、タカヤの[顎{あご}]に頭突きをかましてきた。[尻餅{しりもち}]をついて倒れると、そのポメラニアン(狛犬)はタカヤの胸元に乗って、たしたしと前足で叩いてくる。

「礼儀を知らんな、若造。ワシはこの地の神」

「ポメラニアンが、神……」

「こ、ま、い、ぬ、じゃ! ボケ!」

 毛を逆立てて抗議されても、かわいい以外に感想が出てこない。

 タカヤとしては狛犬でもポメラニアンでも神使であればよいわけなのだが、それにしても祝詞一発で召喚されるとはあまりにも簡単すぎる。拍子抜けだ。

「あの、自分で言うのもだけど、何で僕に力を貸してくれる気になったんです?」

 一瞬、ポメラニアンは[怯{ひる}]んだ、ように見えた。

「……まだ貸すとは言っておらん! ただ興味深い霊力の持ち主だから顔を出してやっただけじゃ」

「今、何で一瞬黙ったの」

「知らん! 気のせいじゃ。さぁ、仮契約じゃからお前には[真名{まな}]はまだ教えぬ。ワシに使役するための名を与えよ」

「仮契約?」

「お主を試す。ワシのお眼鏡に[適{かな}]ったら、正式な使い魔としてくだってやろう」

 たしたし、たしたしと、小さな前脚で叩いてくるのは、もしかすると威圧をしているつもりなのだろうか。

 タカヤはやや真顔になって、このポメラニアンにしか見えない自称土地神を見た。もし試した結果が不適格ならそのまま帰ってしまうということか。

 もちろん、全力をもって[臨{のぞ}]む以外にない。しかし、変に心を込めた名前をつけすぎても仮契約の分際でもう自分のものにしたつもりかと怒られやしないだろうか。

 [悶々{もんもん}]と考えた末に、タカヤは。

「じゃあ、毛玉……」

「貴様、次は顎ではなく[股{こ}][間{かん}]に頭突きをかますぞ」

「え、いやそれはちょっと」

 むしろ雑につけたらダメだった。あの勢いで股間にアタックされたら、さすがに男の尊厳が失われかねない。

 春日の方に目をやれば、今にも爆笑寸前の様子。[他人{ひと}][事{ごと}]だと思って。白蛇のみつるぎですら、何やら愉快そうにクネクネしている。

 兄の使い魔は白蛇で『みつるぎ』。父の使い魔は[白狐{びゃっこ}]で『くずのは』。

 特にひらがな四文字にこだわる法則はない。ポメ子とかつけたらまたポメ弾丸が来そう。

 この白いモフモフ毛玉ポメラニアン(狛犬)に、よい名前。よい名前とは。

 毛玉ポメラニアンを抱える。きちんと生き物の気配がする。柔らかくて、温かくて、どことなく幼いころに母親にだっこされた時のぬくもりを思い出した。

 この公園には、母とよく来ていた。今は亡き母親の名前は、[銀香{ぎんか}。

「……しろがね。お前の名前はしろがねにする」

 白い毛玉で、母親の名前から一文字もらって『しろがね』。

 これにはポメラニアンもご満悦のようだった。

「よかろう。ならばこれをもって仮契約とする。我、しろがねはこれより高谷隆哉の使役となり、対魔霊神の伴と成る」

 タカヤの右手の甲に、一瞬何かの模様が浮かび上がって、そして消える。おそらくこの土地神を示すものだ。高谷家の契約には入っていないから、見たことがない模様だった。

「これで僕にもやっと使い魔が……」

 感動しかけたところで、釘をさされた。

「……一時的にじゃぞ」

「一時的に」

 一瞬真顔になったが、すぐに気を取り直した。

(ひとまず仮とはいえ神使の力を借りることには成功した!)

 最初のハードルはギリギリクリアだ。ここから先は、実際にタカヤのやり方で除霊ができるかどうかだ。むしろそちらが本題である。

 浮かれそうになった心を、必死で抑えこむ。家出までして、自分のやり方を貫くと宣言したのだ。ここで使い魔契約がダメになったら、次があるかもわからない。

 ポメラニアン、もといしろがねはというと、春日をじっと見て鼻をフンフン鳴らしていた。

「何じゃ、もう除霊師がおるではないか。お前、何しに来たのじゃ」

 振り向いたしろがねがタカヤをうろんな目(をしていると思われるクリクリのつぶらな瞳)で見上げてくる。一人前の除霊師がいるのに、わざわざ半人前ですらないタカヤが神使を呼び出して契約したことを訝しんでいるのだろうか。

 春日は肩をすくめ、みつるぎを腕に巻きつけるとしろがねの鼻先に突き出した。

「俺はコイツの兄貴でね。新米除霊師のアドバイザーだよ。だから、基本的には手を貸さない。みつるぎもそう言っている。弟をよろしくな、しろがねさん」

「様をつけろ、ジャリガキ」

「おい、お前の使い魔クチ悪いな?」

 兄の抗議に、タカヤはそっと目をそらす。

「まだ仮契約だし、ホラ」

 忘れられかけた弱い土地神であるから、もう少し大人しめな性格かと思った。思っていた以上に我が強い。ひたすらに我が強い。

 しろがねは短い足を使って石畳をカリカリとやりながら、フンスと鼻息をついてタカヤを見上げた。もしかして、穴を掘っているつもりなのだろうか。

「色々言いたいことはあるが、ひとまず今日は許してやろう。本契約前に、お主にはまず実際に除霊を行ってもらう。ふさわしいと思える除霊を成して見せよ」

「え? 今すぐ? ここで?」

「そのとおり。幸いにして、この近隣には幽霊が多い。ほら、あそこにもおるだろう。まずはあれを除霊してみよ」

 しろがねはとてとてと、小犬にしか見えぬ足取りで鳥居をくぐる。タカヤも後を追って鳥居をくぐった。

 その先にいた幽霊、しろがねが除霊をしろと指示したそれは、五歳ほどの子供の霊。ブランコに乗って、ぽつねんとたたずんでいる。

 よりにもよって、幼児。トラウマの原因の幼児の霊。

「しろがね、幽霊なんて他にもいるだろう。なんであの子供なんだ。ほら、あそこのベンチに座っているおじいさんの霊でもいいだろ?」

 タカヤは、先ほど二人で座っていたのとは別のベンチにたたずんでいる、ほんわかとしたおじいさんの霊を指差す。

 そこでポメラニアンが飛んできた。文字どおり、弾丸の[如{ごと}]く。ポメラニアタック二回目は、腹にくらった。股間よりはいいけれど、しばらく地面に崩れて[悶絶{もんぜつ}]する。

 吹き出す笑い声が聞こえる。絶対に春日だ。後で抗議したい。

 春日の笑い声など気にも留めず、ポメラニアンはフンスと荒い鼻息を出す。

「タカヤよ、そんなお願いしたらすぐにイイヨーと[逝{い}]っってくれそうなジジイばかりを相手にするなら、除霊師なんぞいらんわボケ!」

 ぐうの音も出ない特大正論に、タカヤはお腹を押さえながらその場に正座した。使い魔のポメラニアンに説教を食らう除霊師(仮)とは。

「そのとおりでございます、しろがね様」

「わかればよろしい。さぁ、除霊をしてみせるのじゃ」

 しろがねの耳がピンと立った。いちいち愛玩動物の仕草なので、調子が狂う。

 しかし、どう考えてもしろがねの方が正しい。

 除霊師としてやっていくにしても、社会に出るにしても、タカヤは霊と向き合わなければ生きていけない。霊は常に自分の隣人だ。世界のレイヤーが少し違うだけで、彼らはそこにいる。どこへも行けないことこそが、霊にとって最大の不幸である。それが高谷家の理念だ。それは、タカヤも否定しない。

 だけどその場所から解放する方法が強制除霊しかないのは、やっぱり納得できない。目の前で消えたあの『友達』のように、悲しい顔をして逝ってほしくない。

 誰も成功できた先人がいないというなら、自分が最初の一人になる。

 幽霊と対話して、納得させて、成仏に導く除霊師になる。

「……やる。僕のやり方で、僕ができる方法で、あの子を送る」

 タカヤは大きく息を吸って、また吐いて、そして幼児の幽霊に近づいた。

 なるべく目線を合わせるようにして、地面に膝をつく。強制除霊ができないのなら、まずは話ができるか試してみなければ始まらない。

「こんにちは」

 幼児の霊は、タカヤを見た。そして不安そうな顔になった。

 春日の「[挨拶{あいさつ}]かい……」という言葉が、いかにも[微{び}][妙{みょう}]な顔をしていそうな声音で聞こえてきた。聞かなかったことにする。いちいち我に返っていたら、何もできない。

「怖くないよ。僕は君を消したりしないし」

『ママは知らない人に話しかけられても、ついていっちゃダメだって言った!』

「そっち!?」

 後ろでポメラニアンが、プスッと鼻息を鳴らした。笑うんじゃない。

 春日は幼児の霊がいるあたりを、しげしげと眺めている。

 除霊師とはいっても、恐らく春日にはそこに霊がいる影がわかる程度なのだろう。専用の護符などを使えば別だが、普通は怨霊でもない浮幽霊の姿形、声などが、はっきり知覚できることはない。タカヤが何もしなくてもはっきりと見えるのは、霊力が突出しているせいである。

 だから、全容がわかるのはタカヤと使い魔のしろがねだけ。霊の説得に、春日のアドバイスは受けられない。完全にスタンドアローン。

「僕はママの知り合いのお兄ちゃんだよ!」

「ダイナミックに嘘をついたな」

「ポメ狛犬はちょっと黙ってて」

 説得に[横槍{よこやり}]を入れないでほしい。しろがねを[小{こ}][脇{わき}]に抱えて口を塞いでいると、抗議のつもりなのかブンブンと[尻{しっ}][尾{ぽ}]を振り回された。

 しかしそんな小犬の様子が、逆に幼児の興味を引いたらしい。

『お兄ちゃん、ワンちゃんさわっていい?』

「ああ、いいよ」

『わあい、もふもふ!』

 撫でる子供。尻尾を振るポメラニアン(狛犬)。

「タカヤ、俺には細かいことは見えないから念のために聞くが……除霊してるんだよな」

「……多分」

 兄の言葉に、タカヤもやや真顔になりながら返した。ペットと子供のわくわくふれあい劇場ではない。春日には、しろがねが勝手にフスフスと鼻息を鳴らしているようにしか見えないだろう。

 しかし、幼児がしろがねに興味を持ってくれたのは幸いだった。ポメラニアンな外見も、警戒心を解くという点では大いに役に立つ。これは春日のみつるぎでは難しいだろう。タカヤはプラス思考に持ち直した。

 話を聞いてくれる気になっただけマシだ。

「君は、どうしてここにいるの? ママは?」

 話題の選び方が不自然じゃないように、再び会話を試みる。ママの話題を出していたから、母親と一緒にこの公園に来ることが多かったのだろう。

『ママはね、おなかに赤ちゃんがいて、あんまりとおいところいけないの。だからね、いつもの公園じゃなくて、こっちの公園にきてたの』

(……ということは、このすぐ近くに住んでいた子なんだな)

 大きな公園ができてから、子供連れはみんなそちらに行くようになっていた。この子の母親は、妊娠してから少し離れた公園に子供を連れていくのが大変になったため、この人気がない小さな公園に連れてきていたのだろう。

 タカヤはスマホで、ゆうやけ公園付近で幼児が死んだ事件、事故がないか検索する。ヒットしたのは一週間前のニュース。公園すぐ近くの交差点で、信号無視の車に幼児が轢かれて死亡している。犠牲になったのは、吉住サクラちゃん、四歳。

「サクラちゃん、ママと一緒には来なかったのかい?」

 ゆっくりと、子供にもわかる言葉を選びながら話す。幼児は「ううん」と首を横に振った。名前を呼んでも否定しなかったから、事故に遭ったサクラちゃん本人で間違いないらしい。

『ママは、赤ちゃんのことでいそがしいの』

「寂しかった?」

『さびしいけど、しかたないの。サクラはおねえちゃんだからガマンするんだよ』

 そうして、一人で公園にやってきたのか。かまってもらえなくて、お腹にいる弟か妹に[嫉{しっ}][妬{と}]して[拗{す}]ねる。そういう話はよく聞く。だけど、そんな理由でもない気がする。ガマンするといった彼女の表情は、さほど不満そうではないからだ。

「そっか、偉いね」

『サクラ、えらいの?』

「うん、とっても偉いよ」

 サクラはふにゃりと笑顔を見せた。もう警戒心が解けた。人懐っこい子だ。

「この公園で、何をしてたの?」

『お花さがしてるの。サクラと赤ちゃんの花。ママのところにもってくんだよ』

 サクラと赤ちゃんの花、という意味はよくわからない。だけど、ひとまずこの幼児の目的は判明した。公園まで母親のために花を摘みに行く最中、事故に遭ったということだ。つまり、花を見つければ未練が昇華できるかもしれない。そして、一週間前だから、まだ咲いている花である可能性も高い。

 花壇、植えこみ、街路樹、神社の周り。花はいくつか見つかるけれど、どれのことだろうか。

「サクラちゃんと赤ちゃんのお花って、どんなのだろう?」

『ママがね、赤ちゃんはあきごろ生まれるから、アキってなまえにするっていってたの。だからね、サクラとアキちゃんと、ふたりでいっしょのおなまえの花なの』

 まるで謎かけのようだ。アキとサクラ、ふたりでいっしょ。

 ふと、神社の周りに目が止まった。早咲きのキバナコスモスが、揺れている。

 コスモスは、漢字で書くと「秋桜」だ。

「サクラちゃんが探しているの、このお花だよね」

 神社周りのキバナコスモスを何本か[摘{つ}]んで、彼女に見せる。

 彼女の表情がパッと明るくなった。

「お花はお兄ちゃんがママのところに届けてあげるよ」

 本当は彼女が母親の下に届けられたら一番なのだけど、残念ながらそれは難しい。花を摘んで満足して、それで成仏してくれるならいい。それが、いちばん早く彼女を本来いるべき場所へと連れていく近道だ。だけど――。

『ダメ。ママにあげないとダメなの!』

「そっか……そうだよね」

 そんな気はしていた。大人だって理屈だけで納得して生きているわけではない。ましてや、こんな小さな子供に、一番近い家族である母親に会うことを、「できない」の一言で納得させるなんて無茶だ。

(できない、じゃなくてやらないと)

 そのためにタカヤは対話を試みているのだから。

 たった四歳の子供が、未練で幽霊になるくらいに母親のことを気にしている。どうにかして母親に会わせてやりたい。問題は、どうやって会わせるかだ。

 死の自覚が薄くなりがちな事故死の霊や特別な場所への思い入れがある霊は、地縛霊になりやすい。もしサクラが地縛霊になっていたら、あまり遠くには行けないから家に案内してもらうことはできない。

 そしてこの歳の子供では、自宅の住所を正確に暗記していることはまずないだろう。そもそも霊になった時点で、記憶がはっきりしている保証はないのだ。

 たとえ記憶があり案内してもらえる場合でも、いきなり見知らぬ人間が訪ねてきて話を聞いてもらえるかどうか。ヘタを打てば通報案件だ。

「おい、タカヤ。今日ならむしろ、会えるかもしれんぞ」

 急に、しろがねが足元に鼻先をぐりぐりと押しつけてくる。一見するとかわいらしい姿だが、そんなことよりも言葉の意味の方が気になった。

「どういうこと?」

「この娘の事故が遭ってから一週間ほど。法要を終えたころじゃ。お参りに来るかもしれん」

「あ、なるほど」

 死者の法要は初七日で一区切り。彼女の家族は、やっと法要を終えて一息ついたころだろう。だからこそ、訪れるかもしれない。彼女、サクラが亡くなった事故現場を。

 ただ、どうやってサクラを事故現場に誘導するべきだろう。地縛霊に限らず、幽霊は基本的に愛着のある場所から大きく移動したがらない。ましてや自我がかたまりきっていない、幼児の霊ならなおさら移動したがるようにするのは難しい。

「ワンちゃん、サクラともあそぼうよ~」

 しろがねの仕草が、タカヤにじゃれついているように見えたのだろう。サクラの注意が、コスモスの花からしろがねに移った。

「しろがね、そのままサクラちゃんを誘導して!」

「ふむ……なるほど。ほれ、小娘、こちらに来い」

 いかにも愛くるしい小犬の仕草で、しろがねはサクラの注意を引く。サクラは大喜びでしろがねを追いかける。

 過程はどうであれ、サクラを母親と引き合わせられたらいい。サクラ自身が、自分の事故現場であることを自覚する必要はない。彼女が未練に思っているのは、事故で死んだことではなく、母親に花を届けたかったことなのだから。

「俺はここで様子を見ている。ぞろぞろ行ったら、おかしいだろうからな」

 春日は公園の入り口に残った。タカヤは兄に頷いてみせて、一人と一匹の後を追う

 尻尾を振るしろがねを追いかけるサクラの後を、ゆっくりとついていった。ポメラニアンな外見、案外役に立つ。

 都合よく今日母親と会えるかはわからない。何時間も、何日も待つことになるかもしれない。もしかしたら彼女はずっと来ないかもしれない。

 それでも、この小さな女の子には、心残りなく旅立ってほしい。

 公園から少し歩いたところにある交差点。そこに小さなジュースの缶と、死者を弔うには不似合いな花が供えられている。おそらく花屋で買ったのであろう、ラッピングされたコスモスの花。数日経っているのか、すでに萎れてしまっている。

 普通、弔花にコスモスは選ばない。一般的なのはやはり、菊だろう。この花を選ぶとしたらそれは――。

『ママ!』

 サクラの視線が、しろがねから上に移動する。

 そこには一人の女性がいた。

 暮れなずむ道、花束を抱えた身重の女性。その花束は、色とりどりのコスモスだけで作られていた。

 彼女はキバナコスモスを手にしたタカヤに気づいて、少し戸惑ったような表情を見せた。彼女には、タカヤが持つこの花の意味がわかるはずだ。

 サクラは不思議そうに女性を――母親を見上げている。彼女にはわからない。自分の姿が母親には、もう見えていないということが。

 ここから先は、タカヤの『仕事』だ。

「あの、すみません、サクラちゃんのお母さん、ですよね」

 

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