試し読み 【本編50ページ分】
『お化けのそばづえ』

 

 

 

 

 

 縄。

 それから釘。

 ビニールシートなんかも、あったほうがいいのだろう。下が汚れてしまうだろうから。

 平日の昼間のホームセンターだ。人気がなくて、がらんとしている。

 たくさんの工具が棚に並んでいた。ビスやパイプ、用途もわからない不思議な形をした金具も並んでいる。

 なにかわからないものが並んでいるのはいいものだ。自分にはわからないけれども、用途が確かにあるんだろうということが感じられるのは。

 いい空間だった。レジも二つしか空いていなくて、店員さんも暇そうにしていた。いい空間だ。ずっとここにいられたらいい。でももう、そんなことは、自分にはできない。

 この世のどこにも、ありとあらゆる場所に、自分は留まってはいけないのだ。

 そう、なってしまった。

 縄のコーナー。

 麻紐、紙紐のたぐいはだめだろう。弱すぎる気がする。試したことなんかないけれども、すぐに切れてしまいそうだ。もっと丈夫なものがいい、といったって、どれが丈夫なロープかなんてわからない。知識もない。そのことを実施しようと考えたことでもない限り、ふつうは、ない。

 とりあえず、耐荷重のところに、体重以上の数字が書いてあるものを選ぶ。ナイロンロープのパッケージに九十kgfと書いてあるから、これがよいのだろうか。でも、kgはわかるけど、最後のfはなんだろう。

 まあいいか。

 本当はよくないのだろうけれども、でも、そんなことを人に聞くわけにもいかないし、調べる気力も湧かないから、数字の大きなものを選ぶ。細すぎず、太すぎず、適切な大きさのもの。おさまるべきところにおさまったときに、おさまりのよさそうなもの。

 釘のコーナー。

 小さい、細いものは論外だろう。でも、どのくらいの大きさであれば必要な重さを支えられるのかなんてことも、やっぱり、わからない。

 棚の上に、釘の太さについての説明書きが掲示されていた。釘の太さは、「#何番」という単位で表記されるのが一般的であるらしい。たとえば、#1番は約七mm、#21番は約〇・八mmである。あるんだなあ、こういうのが。みんな、わからないんだろうな。少しおもしろくなる。

 とはいえ、ネジという選択もある。そのほうが、トンカチでトントン叩く音で、近隣に迷惑をかけなくても済むかもしれない。

 でも冷静に考えてみれば、ネジを一本一本柱にねじこんでいくのは大変だし、電動ドライバーを買ったって、操作をいちから覚えるのも億劫だ。それに今後、二度と再利用する機会なんてないだろう。[羽{は}][月{つき}]が後片づけをしているときに、「これは便利そうだから、とっておこう」だなんて思うことは、考えられない。

 なるべくなら、直感的に済むようにしたい。直感的に、なにもかも終わってしまうようにしたい。なにしろ、DIYするわけではないのだ。本棚とか、ラックとか、道具入れとか、そういうものを作るわけではない。

 それにどうせ、近所には迷惑をかける。騒音なんか比じゃないくらいの迷惑だ。だったらはじめから、それくらいの暴力性は覚悟しておいたほうがちょうどいいのかもしれない。

 と、そのときだった。

 釘の入った小さなパッケージが、フックにかかっていくつも並んでいる棚の奥。ほかのパッケージとパッケージの隙間から、真っ黒な人の顔が、スッ、と現れた。

 原油のように真っ黒な顔だった。目と鼻と口にあたる部分に、ぽっかり穴の空いた顔が、おれの顔を覗きにきたように、棚の横から現れた。

「うっ」

 とっさにロープを落としてしまう。顎が痙攣する。恐怖が喉元まで迫って、叫び出しそうになるのを、すんでのところで、こらえる。

 十秒か、三十秒か。一分にも満たなかっただろう。

 顔は、棚の横に引っこむように消えてしまう。あとには、なにもない。

 なにもないはずだ。棚の商品を全部下ろして、隅から隅まで調べたって、なにも出てこない。

 なにしろ、そいつはお化けなのだから。

 [お{﹅}][れ{﹅}][に{﹅}][憑{﹅}][り{﹅}][つ{﹅}][い{﹅}][て{﹅}][い{﹅}][る{﹅}]、お化けなのだから。

 つま先で床を叩いて落ち着くのを待って、ほどほどの大きさの釘の入ったパッケージを三つ、適当に、急いでカゴに入れた。それだけあれば、たぶん、どうにでもなる。

 それから、最後にブルーシート。濡れるだろうから、防水タイプ。五メートル程度の大きさのもの。これを敷いておけば、万一、発見が遅れても、なんとかなるかもしれなかった。とはいえ、そのことを考えると憂鬱になる。発見が遅れたあとの、壮絶な部屋に広がっている、自分だったもののこと。

 でもまあ、本当は、そんなふうになってしまった時点で、なんとかなるもくそもない。そんなふうになってしまった時点で、「気づかい」も「配慮」も「思いやり」も、なんにも説得力を持たない。どの口でものをいうのだ、という塩梅。まったくその通り。なんにも、反論することはない。

 けれどもまだ、自分が人間らしさを持っているのだと思いたいから、おれはこういう、くだらないことを、懸命に考えているのだろう。ばかげているな。おろかだし、みっともない。やめりゃあいいのに、そうしない。やめないのは怖いからだけれども、でも、そうすることでしか守れない、プライドだか、尊厳みたいな、肝心かなめのものがあるのだと……。

 考えこんでいると、ぎっ、ぎぃっ、という、骨をぶつけるような音が聞こえはじめた。

 幻聴か、空耳か、あるいは、ガーデニング売り場で、植木にシャワーで水を撒いている音が、そんなふうに聞こえてしまっているのか。おれにはもうわからない。きっと、お化けの音だ。長居しないほうがいい。早く出ていったほうがいい。そうして――。

 することを、すませたほうがいい。

 おれがいない世界の平穏のことを、寂けさのことを、妻と、生まれてくる子供のために。

 

 

 

 

「一番最初の記憶はなんですか」と聞かれたら、おれ、[須{す}][磨{ま}][軒{のき}][人{ひと}]は「お化けの記憶だ」と答えるだろう。

 それは五歳か六歳か、小学校に上がったか上がらないかくらいの頃だ。秋から冬の、肌に当たる風の重たく冷たい季節。

 その当時、母と父とおれの三人はアパートに住んでいた。トイレとお風呂が一緒の、よく虫の出るアパートだ。トイレの臭いの記憶があったから、もしかすると、下水道が整備されていなくて、浄化槽だったのかもしれない。なんにしろ、古いアパートだった。

 ある日の真夜中、おれは目を覚ました。

 外は、強い風が吹いていた。そのたびにアパートはぎしぎしと揺れて、まるで大きな動物が、屋根に乗っかって押しつぶそうとしているみたいだった。ぎっ、ぎぃっと壁の揺れる音が、枕のすぐ近くから聞こえてきていた。

 どうしてこんな夜中に、目を覚ましてしまったのだろう。

 おれは両親の間で川の字になって眠っていた。隣には、両親の体で盛り上がった布団が見える。壁にかかったいやに大きな時計の秒針の音と、母の寝息と、父のいびきが、部屋に響いていた。音といえばそれだけ。静かな、魔法のかかったような静かな世界。

 また風が吹いた。ばたばたっと窓のおさえられる音がして、体が震えた。その音で目を覚ましたのだろう。寝ぼけまなこを猛烈にこすった。もう眠れないくらい、目が冴えてしまった。

 蛍光灯の紐がゆっくり前後に動いていた。豆電球の橙色の光が、紐が目の前を横切るたびに、ちかっ、ちかっと遮られる。紐の動きはだんだん大きくなっていくようだった。誰かの乗ったブランコみたいに、勢いをつけて大きく、速くなっていく。

 どうして紐が揺れているんだろう。地震でもないのに。窓が開いているわけでもないのに。その疑問が、たぶん、自我の目覚めだったのかもしれない。

 ふつうでないことが起こっていること。これまでとは違うことが起こっていること。それがきっかけで、おれの自我が目覚めたのかもしれなかった。

 すると、天井の方から、かたっという、かすかな物音がした。おれは顔を向けた。

 そこに、真っ黒な顔があった。

 人の顔のように見えるなにか。真っ黒な、顔のような大きさのかたまりが、天井の長押の隅から、スッと現れたのだ。ちょうど、父の寝ている布団の真上あたりだった。

 それは泥棒が天井から下りてきたとか、大きなゴキブリがそこにいたのだとか、そういうことではなかった。顔だけ。胴体から切り離されたような顔だけが、天井の隅に現れたのだ。

 眠気が吹き飛ぶ。悲鳴を上げようとして、げっぷのように空気だけを吐き出してしまう。しゃっくりするようにその場を飛びのこうとした。けれども、体はまだ布団の中にいたから、脚が布団を跳ね上げるだけだった。布団を蹴り飛ばす、ばさっ、という音が聞こえる。下半身がじわっと温かくなる。漏らしてしまっている。

 顔は、男のように見えた。唇の色は真っ黒。目も、黒目と白目の[文{あや}][目{め}]のない真っ黒な色。でも、こちらを見ているのだということがわかる。その、ぶるぶると震えている顔の中で、目だけが動かずにおれを見ているからだ。

 両親に助けを求めようとした。けれども、体が動かなかった。動かせなかった。恐怖からか、あるいは、お化けの力なのか。ぴくりとも。

 なんだ、これ。

 お化けが長押の上を動いていった。おれのほうを向いたまま、向きや角度を変えないまま近づいてくる。胃が縮み上がる。悲鳴を上げようと、助けを呼ぼうと息を吸いこんだ。

 その途端、喉に張りついていた舌が外れて、「わあああ」と悲鳴を上げることができた。

 真っ黒な顔は天井の隅に吸いこまれるようにして消えた。

 時間にして、五分も経ってはいなかったのだろう。それなのに、ものすごい長い間、お化けと見つめ合っていた気がした。

 もう、お化けはいなかった。ただ、豆球のぼんやりとした明かりだけが、あたりを照らしている。紐の揺れが、ゆっくり、収まっていく。

 髪の毛を燃やしたようないやな臭いが、部屋の中に立ちこめていた。両親が、おれの悲鳴を聞いてもそもそと、目を覚ます気配がする……。

 

 それがはじまりだった。お化けとおれとの長い因縁の、最初の日。

 

 

 八歳の秋、両親はアパートを引き払い、中古のマンションへ引っ越した。おれが成長して、手狭になってきたからというのがその理由だった。

 恐ろしい思い出のあるアパートを引っ越すことができておれはうれしかった。このアパートのせいで、子供ながら不眠症みたいになってしまったのだ。

 寝ているときに、不思議な音のするアパート。ふと目を覚ましたときに、目の前にお化けの顔があるアパート。一人でいるとき、部屋の隅に、真っ黒な水たまりのようなものが溜まっていて、そこからお化けの顔が浮かんでくるアパート。そんなところにいて、落ちついて過ごすことのできるわけはなかった。

 べつのところに行きたい、家を変えて、お化けの出ないところに住みたい。そう主張したことは何度もあった。だが母も父も子供のいうことだからと耳を貸さなかった。信じてくれないのだ。軽く思われていることが悔しかった。

 だから「引っ越すよ」と言われたときの喜びようったらなかった。

 家具を出してしまってガランとしたアパートを見たとき、この部屋のどこかにまだお化けがいるのだろうかと思った。天井の隅や、柱の陰、トイレの扉の奥、シンクの下の収納の暗がりに。ありとあらゆる暗がりに。おれの見ていない視界の後ろに。

 まだそこにいるのだろうか?

 母がアパートのドアを閉める。部屋に閉じこめられたお化けが、漫画みたいに涙を流して残っているところを想像した。

 ざまあみろ。おまえはまだここにいて、おれたちを追いかけてはこれないんだぞ。やった。ふふふ。やっと昼寝をしたり、息をしたり、目をつむっていても、大丈夫なようになれるんだ。ふふふふ。愉快だ。笑っちゃう。

 引っ越し先は十階建てのマンション、縞ぶどうヶ丘ハイツの二階。白い外壁は太陽光を跳ねて檸檬色に輝いていた。ゲームに出てくる神殿みたいで、神聖そのもののようだった。

 新居も光り輝いていた。おれにはお世辞抜きにそう思えた。2LDKのマンション。入ってすぐ右に洗面所。廊下。リビングの壁紙の色も白。大きな茶色いソファは入居に合わせて購入していたものだ。窓から外は隣のマンションが見える。少し離れたところに、電車の操車場。電車が音を立てずに止まっている。動かない電車は、眠っているクジラみたいだった。

 お化けがいないというだけで住まいはどんなに魅力的に見えることだろう。おれは新しい部屋で文字通り飛び跳ね、父に怒られるまで何度も何度も飛び跳ねていた。

 ある秋の朝のこと。「隣のA棟の[村{むら}][内{うち}]さん、いるじゃない」と食事中に母が言った。

 父は思い出すように少し間を空け、梅干しを噛む。

「管理組合の」

「そうそう、村内さんね、眠れないんだって」

「ふうん」

 椅子に座り、テーブルに着いている。三人とも、パジャマのままだ。朝食の神秘。パジャマのまま朝食を食べるのは、睡眠の続きみたいで好きだった。

「聞いたらね、最近、お化けがいるんだって」

「ふーん」

 突然の言葉におれは動揺した。トーストを持つ手が震え、マーガリンを塗るやつを落としてしまう。勢いこんで尋ねた。

「どっ、どんなの?」

「なんかねー、死んだ叔母さんなんだって、ああこれあんまり言わないでねって言われてたやつだけど。恨みでもあるのかなーって。遺産のねえ、分割でねえ、ちょっと揉めたからって、それで毎日、疲れててさあって言ってて」

「そういう人、多いよね」

「えっ」

 トーストに塗られたジャムのかたまりを、ぼとりと、テーブルに落としてしまう。血みたいに、いちごのゼリーが光った。

「確かに、変な人が多いのよね。こないだもさ二階の廊下で、顔腫らした人が歩いてきて、どうしたのかな、って思ったら、そこの家、旦那さんが、ちょっとね」と母。右拳を握って、空中を殴るようなジェスチャー。

 そういう話を聞きたいんじゃない。お化けの話に繋がらなかったので、おれは少し不満になる。とはいえ、近所には確かにいわゆる不審者が多くて、夜昼関係なく叫んでいる人がいたり、子供にお菓子をあげようと声をかける人がいたりした。

「そういう人、みんな、お化け見てるのかしらね」

 前夜の残りの肉じゃがを、一人だけつつきながら母。

「そんなことはないだろう。みんなそれぞれ、疲れてるんだよ。それぞれね」

「お化け出たって、それ、どこ?」

 お化けの場所の話に戻そうと聞いた。

「村内さんちよ、隣のA棟の。ああ、軒人、お化け嫌いだものね」

「嫌いとか、そういうレベルじゃないんだよ。ねえ、どこで出たって?」

「村内さんちだけよ。家にね、出たんだって。でもそれだけよ」

 母は面倒そうに、もうその話を続けるな、と言わんばかりにぴしゃりと言った。納豆をかき混ぜる、しゃわしゃわという音がする。

「ねえそれ、駐車場の雑木林とかじゃないの?」

 駐車場の雑木林というのは、おれが恐れていたマンションの片隅の場所のことだった。駐車場の脇にあって、北東側にあるせいかいつも日の当たらず、じめじめとした場所。十㎡程度の雑木林は、手入れはされているのだろうけれども、落ち葉が溜まっていたり、空き缶やゴミが捨てられていたり。おまけに片隅には、古ぼけて苔むした石の灯籠があって、古寺の境内にある石の像を連想させる。全体的に、どことなく気味が悪かった。

 なかでも、「脳みそばばあ」なるお化けが棲んでいるという噂は、とくにおれを震え上がらせた。

 脳みそばばあは身長が三メートルはある、人間の脳みそを吸いとってカラカラに干からびさせてしまうという妖怪だった。同級生の[亨{とおる}]くんたちは、「軒人ー、おまえ、脳みそばばあ、怖いんだろ」と言っておれをからかってきた。お化けの話をされると顔をこわばらせてしまうということに気づいていて、よくその話をネタにいじってくるのだった。だからおれもみんなの前ではその存在をばかにしていた。

 けれども、本当は怯えているのだ。なにしろ、お化けは漫画や映画の中に登場するだけの存在ではなく、本当にこの世に実在するのだということを、おれはもうすでに知っているのだから。

 毎日学童から帰ってくる午後六時頃、特に冬になって日も落ちるのが早くなって、マンション駐車場の街灯が胡乱な水色で灯るような時間になると、なるべくその雑木林からは離れた階段を通って、自分の部屋に向かうようにしていたのだった。

 

 小学三年生の、ある冬の日のこと。おれは学童からの帰りにマンションの階段を登っていた。もうすぐ冬至なのであたりは薄暗い。明るいエントランスを抜けて共用廊下に出ると、明るさの違いが大きなシンバルを打ったように感じられた。暗いところは嫌いだ。足早に自分の部屋に向かう。

 気温は十度を下回っている。寒い。指がかじかむので、ポケットに突っこみながら歩く。駐車場の街灯は、切れかかっているのか点いたり消えたりしていた。おれはどうして街灯の電球を替えないんだろうと不思議に思い、またその明かりの一瞬の明暗が作る雑木林の暗闇を不安に思いながら、小走りでマンションの廊下を通っていた。暗いところにはお化けが出る。そういうものだということを、おれは実体験として知っているからだ。

 あと少しで部屋の前だ、という段になって、雑木林の方から、「ひー、ひー」という、女性の泣き声のようなものが聞こえてきた。直感的に、脳みそばばあではないかと体が震えた。ポケットの中で、拳をぎゅっと握りしめる。

 このまま部屋に帰ってはいけない。見られたらいけない。もし本当に脳みそばばあだったら、部屋を覚えられてしまう。覚えられたら、丑三つ時に、両親の寝ているすきをついて、脳みそばばあがベランダからやってきて、子供の脳を長い口で吸ってしまう。

 回れ右をし、音を立てないよう、きた廊下を戻りはじめた。

 そこに亨くんがきた。おれと同じくらいの身長の亨くんは、上着はピーコートを着ているのに、下は半ズボンだった。寒くないのだろうか。

「どしたん、軒人」と声をかけてくるので、「シッ」と指を唇に立て、雑木林を指さした。亨くんはおれの様子を察したのかすぐに黙り、やがて泣き声に気がついて、「うわっ」と言った。

「脳みそばばあだ!」とうれしそうに亨くんは言い、おれは脳みそばばあに聞かれたらまずいと慌ててシーッと言ったけれども、亨くんは「倒しに行こうぜ!」と目を輝かせる。なんて恐れ知らずなんだろう。そういうところ、おれはちょっと尊敬していた。

「怖くない?」

「軒人、おまえ、そんなんだから、キンキン橋も渡れないんだぜ」

 キンキン橋とは学校のそばに架かっている橋で、いわゆる住民が勝手に架けた勝手橋のたぐいだ。ぼろぼろで細くて手すりもない、足を下ろせばぎしぎし揺れて、いつ数メートル下の川面まで落っこちてしまうかわからないから、そこを渡ることができるのは勇気のある男だとされていた。亨くんはもちろん渡ることができていたけれども、おれはそうではなかった。

「でも、それとこれとは違うでしょ。脳みそばばあだったら、すぐ、殺しにきちゃうし」

「いーからいーから、行こうぜ。おれたちで退治しちゃおうぜ。なあお化けっていると思う軒人?」

 なにを言っても亨くんが意見を翻すことはなく、足早に階段を下りていく。行きたくなかったけれども、ここで帰ったらもっとばかにされてしまうと思って、亨くんの後ろについて階段を下りた。雑木林のほうに向かって歩いていく。

 マンションの一階、ただでさえほかの棟の陰になって、昼間でも薄暗い共用廊下を歩いた。吐く息に、街灯の青みがかった光があたって、一瞬だけ紫色の蒸気が見える。ひー、ひー、という泣き声に混じって、雨の漏っているような水滴の音が、一瞬、どこからか聞こえた。

 こんな一階に住んでいるような人たちは、どうして脳みそばばあが怖くならないのだろう。この泣き声が聞こえないのだろうか。それとも、毎度のことだったりするのだろうか、と考え、ぞくっとした。

 亨くんの背中の裾を掴んだ。ぎゅっと力がこもる。おれはすり足で雑木林に近づいていった。

「なんかいる、人だ」

「そりゃ、脳みそばばあも、見た目は人だと思うよ」

「ばばあじゃねーよ、女……」と亨くんは言った。

 女、と言った最後が不自然に途切れた気がして、亨くんの背中から顔を上げた。肩越しに雑木林を覗き見る。一番奥、隣のマンションとの境の、背の高いブロック塀の下、街灯の灯りの届かない暗がりの中に、はたして、女がいた。息が止まる。亨くんの背中の服を、ぐっ、と引いてしまう。

 なんでだ。

 白い服を着た、髪の長い女だった。なにか黄色いものをお腹の上に両手で抱え、ぺたんこ座りで土に座っている。

 頭がぐるぐるした。逃げ出したい。亨くんを置いて逃げてしまいたい。口の中がからからになった。

「いや、怪我してるよ」

 亨くんが言った。目をつむりたくなるのをぐっとこらえて、見た。

 女は、全身、赤い絵の具のはねたように真っ赤だった。白い服を着ているから、よけいにはっきりとわかる。服の模様なんかじゃない。暗くて見えづらいけれども、確かに、怪我をしているように血まみれだった。

「脳みそばばあとか言ってるばあいじゃないよ。助けなきゃ」

「う、うん」

 その通りだ。おれたちは女のそばまで駆け足で近づき、「大丈夫ですか」と尋ねた。

 すると、うつむいている女が、おれたちのほうに顔をカクンッと向けた。

 こちらを向いた女の目は、白目を剥いていた。黒目が上の方にいってしまって、少ししか見えなかった。その、少ししか見えない黒目が、ギョロギョロと高速に左右に動いているのが見えた。

 ぶるっと、全身に震えが走った。

 あ、だめだ、これ。

 女の唇が上下にわかれて、「ウヒッ」という声が漏れた。笑い声だ。人間の声には思われない、甲高い声。動物が鳴いているみたいだ。

 亨くんの裾を握る手が、どんどんどんどん熱くなった。だめだ。はやく。逃げないと。亨くん。逃げないと。

 早く。

 女は、カクカクした、機械のようなぎこちない動きで、お腹の上の黄色いものを、おれたちに見せるように持ち上げた。

 生首。

 男の人の、眉間にシワを寄せた顔。水分のない、張りの失くなった目や口が、真ん中に集まるように不気味に縮こまった生首。

 おれは貧血を起こすみたいに視界が白くなる。見てはいけないものを見てしまったという感覚。目をつむりたくなる。なにも見てないのだと、言い聞かせたくなる。心臓の音が、耳のすぐ後ろで聞こえはじめた。

 逃げなくちゃ。警察に言わなくちゃ。大人に知らせなくちゃ。体が固まったみたいに動かない。亨くん、逃げなくちゃ。

「ウヒヒヒッ」

 女が笑う。ぐっと頭が前に倒れて、右手を土に突き出した。膝立ちになる。その顔が、ぐるんと上を向いて、おれたちのほうをふたたび見た。女が、ゆっくり、腕をだらっと垂れ下げたまま、立ち上がっていく。

 こっちにきちゃう。下腹から、突き上げるような危機感。頭の中にいろいろな言葉やパニックが襲ってきて、動き出そうと思っても動けなくなった。やばいやばいやばい、怖い怖い怖い、なにもできなくなる、あとからあとから涙がにじんでいく。

「ああああーっ」

 先に動き出したのは亨くんだった。亨くんは一目散にきた道を走っていった。

 残されてしまった。はっとする。目の前には、生首を掲げたままの女。目がぎょろっと動いて、黒目が、こちらを向いた。生首を持った手の指がぱっと開いて、生首が、ぼとっと落ちた。

「ぎゃっ」

 声を上げる。女は、腰をかがめて、地面にあるなにかを拾い上げた。刃物だった。包丁のようなもの。街灯の光を反射して、一瞬、ぎらっと光った。刺される。殺される。死んじゃう。かーっと頭が熱くなる。口から、悲鳴ともうめき声ともつかない声が漏れていく。

「ひやっ、あっ、あっ」

 だが、女はおれの横を走って、すり抜けていった。亨くんの声に反応したのだろうか。ばっ、ばっと手を大きく振りながら走っていく。女の着ている服が、おれの顔にふわっと一瞬、かぶさって、髪の毛を焼いたような臭いが漂った。

 おれは立ち尽くしている。ぴーんと全身を硬直させたまま、女に少しでも気取られまいと、動けないでいた。

 助かった。亨くんが囮になってくれて、助かったのだ。

「ああああーっ」

 亨くんの悲鳴は続いている。おれは声の方に振り向いた。女は、あっという間に亨くんに追いついた。マンションのエントランスの、茶色いタイルが外の光をはね返して光っているところで、女が亨くんの襟首を掴んだ。「あーっ」。女が亨くんを押し倒す。ガンッ、という、頭がタイルにぶつかる音。

「いやああっあああっ」

 亨くんの悲鳴。甲高い声。それから濁った重たい声。

 助けなきゃ。大人を呼ばなきゃ。

 でも、体が動かなかった。恐ろしい。近づきたくない。女に気づかれたくない。麻痺したように動けなかった。

 女が、持っていた包丁を亨くんの体に振り下ろした。いったん、途中で止まったように見えた腕が、そのあと、ゆっくりと下に沈んでいく。あっ。人の体に刃物が入っていっている。ごぼごぼという、亨くんのうめき声。耳を塞ぎたくなる声。ぶっぶっぶっという音が聞こえる。その音が、なんなのかも知りたくない。もうやめて。もうなにもしないで。ざわざわちりちりしたものが、体中から、頭に入ってくるみたいだった。

 女が腕を持ち上げた。包丁を、亨くんの体から引き抜いたのだ。途端に、濃厚な血の臭いがここまで漂ってきた。くらっとする。

「あーっ」と亨くんが悲鳴を上げた。女はその声を聞いても止めないばかりか、面白がるようにいっそう笑うのだった。

 女が腕を持ち上げ、もう一度亨くんの体に押しつける。簡単に包丁は亨くんの体に入っていく。何度も何度も、亨くんは刺されていく。悲鳴も、だんだんちいさくなる。うっ、ぶっ、ぐっ、という音だけになっていく。ぶっ、ぶっ、という、空気の抜けるような音。亨くんが、だんだん、死んでいくのだ。ぱくぱくと、金魚みたいに、口が開いたり閉じたりしている。なにかが漏れていってる。

 死ぬというのはこういうことなんだ。空気を抜かれて、ぺしゃんこになっていく。何度も体をおされて、圧縮布団みたいになっていく。死にたくない、と思った。逃げなくちゃ。ここから動かないと、って。

 はっとした。体が動くようになっていた。自分の家に向かって走り出す。無我夢中だった。転んで額を打った。どうやって起き上がったのかも忘れるくらい。女が今にも、後ろから追いかけてくる気がしている。カクカク動きながら、ばっばっと腕を振りながら。

 ドアの前で、家の鍵を取り出す。手が震えて、うまく鍵穴に入らない。後ろからくるんじゃないか。もう、そこまできてるんじゃないか。いやだ。早くしないと。必死に鍵を押しこんだ。

 がちっと、鍵が入った。急いでドアを開け、中に飛びこんで、ドアを引いた。ダーンという重たい音。鍵をひねる。鍵がかかる。はーっ、はーっと息をついた。

 チェーンロックをかけ、リビングに行って、ちゃぶ台を縦にしてドアの前に置いた。布団を全身に巻きつけ、包丁で刺されても大丈夫なように厚みを作った。震えが止まらない。ほとんど痙攣のようにお腹が震えている。お腹が震えるって、あるんだ。腰が上下にずれてしまうんじゃないかというくらい震えた。女が今にも家に入ってくるんじゃないか。それだけが心配で、怖くて、吐きそうになる。おくびが胃から上がってくる。

 死にたくない。強く死にたくないと思う。ぺしゃんこにされたくない、亨くんみたいに、何度も突き刺されて、空気を抜かれたくない、ものみたいに扱われたくない。圧縮布団みたいに。思い返すだけで、自分のことのように、亨くんの体に入ってくる包丁の感触が伝わってくる気がした。いやだ。どうしてそんな目に遭わなくちゃいけないんだ。死にたくない、怖い……。

 それからどのくらい経っただろうか。廊下の外から誰かの悲鳴と、男の人の怒号と、それからたくさんの人の足音が聞こえてきた。パトカーの近づいてくる音がした。もうほかの大人がきて、外へ出ても大丈夫になっただろうか。おれは少し落ちついて、亨くんのことが気になった。よくいじってきた亨くん、でも勇気があって、ほかの子供よりもずっと強くて、怖いものにも逃げようとせず、立ち向かおうとする亨くん、尊敬していた……。

 エントランスにはたくさんの人だかりがあって、警察があたりを囲んでいた。たくさんの人の顔がうろうろしていた。涙でにじんだ視界の中を、魚のようにうろうろしていた。

 顔見知りのおばさんがいたので、「どっ、おばちゃん、どうなったの……」と、さっきまであったことを伝える勇気もなく、話しかけた。

「亨ちゃんが殺されちゃったのよ!」

 聞きたくない言葉だった。頭をがんと、打たれたような気がした。

「まあねえ、驚天動地ねえ。お腹切って生んだ子なのにねえ」

 おばさんは興奮した顔で言う。どこか、楽しそうですらあった。

 見た。エントランスには入れない。その前におおぜいの人がたむろしていた。廊下の壁に血が飛び散っている。亨くんの血なのだろうか。頭がくらくらする。立入禁止の黄色いテープ。救急隊員の青い服。スーツを着た人の持っている、交通誘導の赤い棒の光。その残像。警察が青いバケツで水を持ってきて、「そんなんじゃ足りねえだろ」と先輩らしい人に怒られている。水の音。血を、流そうとしているのだろうか。人々の足の間から見えるブルーシート。亨くんが、まだその下にいるのだろうか。もう病院へ行っているのか。救急車とパトカーの、緋色の回転灯が遠くから何回も目に映るのが、どういうわけか、ひどくつらい。

「そうですか……」と蚊の鳴くような声で言う。けれども、おばさんはもうおれの言うことなんか聞いていない。

 家へ帰った。椅子に座って呆然としていると、猛烈に吐き気がしてきた。間に合わない。びちゃっと、リビングの床に嘔吐してしまう。汚れたカーペットを見ながら、どうしてこんなことが起こるのだろうってずっと思った。トイレに行って、もういっぺん、おまけみたいに吐いた。

 そのしばらくあと。勢いこんで帰ってきた母が「なにもなかった?」と聞いてくる。おれは下をむいてうなずいた。

「[柳{やな}][池{いけ}]くんのお母さんから聞いてね、亨くんね……」

 母は、おれと亨くんが親しいということを知っていたから、ショックを受けないようなやさしい口調で説明してくれた。犯人の女は、長いことつき合っていた男性と別れ、そのショックで男性を殺害、事件後、放心しているところに亨くんがやってきたので、亨くんも殺してしまったのだと。

 母の言っている日本語は理解できるけれど、何を言ってるのかということは理解できなかった。亨くんがいなくなってしまったということや、おれの目の前で殺されてしまったということが、まるで一連の夢のように感じられて、明日学校へ行ったら、また亨くんに会えるのではないかという気がしていた。今すぐにでもインターホンが押されて、「軒人、おまえ、脳みそばばあ、見た?」って、聞かれるような気がした。

 その夜、おれは眠れなかった。ここしばらく、眠れるようになっていたのに、また眠れなくなってしまった。女の顔、白目を剥いて笑った顔が、何度もまぶたの裏に現れる。包丁の光。血まみれの服。干からびた、[黄{き}][蘗{はだ}][色{いろ}]の生首。亨くんのぺしゃんこの体。何度も何度も、自分が刺されると思ってびくりと、体が跳ねる……。

 目を開けた。

 明かりがついたままの天井が見えた。ぎっ、という音がした。顔を向ける。天井の隅。そこから音がしたような気がした。

 ざわざわした。腹の底が落ち着かなくなる感覚がした。動悸がいたずらに速くなっていく。

 この感覚を、知ってる。

 天井の隅をじっと見る。そこから、真っ黒な顔が少しずつ、現れる。ぎっ、ぎいっという音が聞こえて、その音に、ぴたりと枕につけた頭が、かすかに振動を感じた。

 吐き気が上がってきた。がちがちと歯が震える。

「全部、全部、おまえの……」

 しわざなのか。

 最後まで、言えなかった。顔はなにも答えず、おれのほうに近づいてきた。いやな臭いがする。顔が近づいてくる。お化けの周りから滴り落ちる黒い液体が、フローリングの床に落ち、じゅっという音を立てる。お化けの口が開く。その口の中の、赤黒い舌が、ちらっと見える。

 だがその瞬間、おれは、お化けの顔に見覚えがあることに気がついた。

「……ひいおじいちゃん?」

 その顔は、父の実家で見たひいおじいちゃんの写真と、よく似ていたのだ。

 唐突に、お化けの動きが止まった。時計の止まったように、ぴたりと、動かなくなる。やがてお化けの顔が、砂の崩壊するように薄れていき、見えなくなった。

「はっ、はっ……」

 深く、息を吸いこんだ。まだお化けがあたりにいるのではないかと[身{み}][動{じろ}]ぎもできない。布団にしがみついたまま身構える。天井の隅を睨み、そこからまたお化けが出てくる音が聞こえてくるのではないかと震えていた。

 気がつくと、朝になっていた。窓から日の光が射している。光の照らす白い埃が、かすかに、気泡のように漂っている。じっと、その埃の揺らいでいるところを見た。

 繋がっているのだ、と思った。

 引っ越してから、出なくなったと思っていたお化けがまた出てきたこと。そして、母の言っていた、村内さんの家に出るというお化けのこと、不審者のこと、亨くんを殺した女のこと、おれの家に出たお化けのこと――そうしたものはすべて、繋がっているのじゃないか、と。

 けれどもそれと同時に、いやそれ以上に、お化けの正体がつかめたのかもしれない、とおれは思った。

 おれの前に現れているお化けの正体は、ひいおじいちゃんではないだろうか。

 唾を飲む。もしそうだとしたら、なにか、言いたいことがあって出てきているのかもしれない。それを確かめれば、お化けから解放されるかもしれない。確かめなくては。お化けの正体を、父に聞いて確かめなくてはと思った。そうしなければ、次はおれが亨くんのようになる。

 次はおれが、殺されるのだと。

 

 

「ひいおじいちゃんってさ」

 夏休みだった。帰省で、父の実家に向かう新幹線。母は仕事でこられないので、おれと父だけだった。ちょうどいい。

「たとえば、行方不明になってて、きちんとお葬式をあげられていないとか」

「なんだなんだ」

「お墓が崩れているだとか……そんなこと、起こってない?」

「どうしてそんなこと?」

 父は間の抜けた顔で言った。おれは前のめりになって、

「お化け、出るって言ったでしょ。そのお化けの顔が、ひいおじいちゃんに似てるんだよ」

 父はぴくりと眉を動かした。なにか知っているのだろうか、とおれは期待した。けれども一方で、それは自分の祖父をお化けだ、と言われた人間が、言った相手を非難するための、そういう表情であるようにも見えた。どっちだろう。じりじりしていると、父はフッと笑みを浮かべ、おれをさとすように、

「そんなことはない。じっちゃんは大往生して、みんなで葬式をあげたよ。ほら、明日、丘の上のお寺の霊園にみんなで墓参りに行くだろ。墓石が三個あったの、覚えてない? じいちゃんは本家の人間だから、真ん中の墓、あの中に眠ってるよ」

「でも、ひいおじいちゃんが……」

 父を見る。嘘を言っているようには見えなかった。もうその話はいいんじゃないか、というような表情で、「柿の種、食べるか」と言う。だめだ。もうこうなってしまうと、おれの話は聞いてくれない。

 すっきりしないものを抱えたまま、父の実家に帰り、あいさつ回りを済ませ、墓参りに行った。草取りを手伝い、下の水道から桶に水をくんで持ってきて、墓にかける。丁寧にかけ、手を合わせた。

 なにか言いたいことがあるのでしょうか。でしたら、おれに教えてください。丁寧に、墓石を磨いた。お父さんを説得してみせます。お願いですから、おどかすようなことはやめてください。お願いします。お願い……。

 油蝉が、隣の墓石の卒塔婆に止まって、急に鳴きはじめた。

 

 

「引っ越したい」

 と言った。もちろん、あんな事件のあったあとだ、できることならば両親も引っ越しをしたかったはずだ。けれども、購入したばっかりで、ローンもまだまだ残っているであろう分譲マンションを引き払うということは、なかなかできない決断だったのだろう。

 おれたちは仕方なく住み続けた。

 雑木林はますます薄気味が悪くなっていった。木を伐採して更地にしてしまう、という話も出たようだったけれども、いつまで経っても実現することはなかった。献花や供物の乗ったテーブルもしばらく置かれていたけれども、暗闇にぼんやりと浮かんで見える献花の鮮やかな色は、亨くんや殺された男の人の人魂のようでかえって恐ろしかった。

 事件以来、不審者もますます目撃されるようになっていった。包丁を持った男がうろうろしている、あるいは、「殺してやる」とつぶやいている不審者がいるという噂が流れて、パトカーが出動したことも一度や二度ではなかった。

 裕福な家に生まれた子供たちは早々とほかの場所へ引っ越していった。けれども、おれのように裕福ではない子供はマンションに住み続けるしかなく、遅い時間に外に出ることを禁止されるようになった。

 なにかがおかしくなっていて、そのためにマンション全体がぎすぎすしはじめていった。

 とうとう、そんな雰囲気が形になって現れたように、上層階からの飛び降り自殺があって、その半年後、別の人間がまたしても飛び降り自殺をしてしまうと、さすがに両親もここはなにかおかしいのではないか、と焦りはじめたらしかった。

「なにかあるよ、このマンション、まいったなあ、なんでかなあ。こういうの、運なのかなあ」と父は芝居がかったように言う。

「あなたがここがいいって言ったんじゃない」と責めるように母。

「おれのせいかよ。おまえ、壁紙の色がいいねって言っただろう」

「壁紙なんて、はあ?」

「ねえ、そんなこといいから、引っ越そうよ」

「おまえは黙ってなさい」

 けれども結局、おれたちは退去することになった。

 おれは引っ越せることを喜んだけれども、一方で、結局、また同じことが起こるのじゃないだろうかとも思った。

 どこへ行っても助からないんじゃないかって。どこへ行っても、おれはずっと、お化けに苛まれるんじゃないかって。

 

 

 そして事実、そうなった。

 次に住んだ借家の一戸建てでも、おれはお化けに遭遇した。大なり小なり、いろいろな怪奇現象に見舞われた。殺されるのではないかと死を覚悟したこともある。不眠症はひどくなっていき、医者に行って眠るための薬をもらう頻度は[繁{しげ}]くなっていき、そうして、人と話すのも怖くなる。結果として、学校にも行けなくなってしまう。

 そのうち、おれの家はお化け屋敷と言われるようになっていった。窓の外を通る近所の子供たちがそんなふうに噂しているのを、部屋の中から聞いたこともある。ショックだった。なにも家の目の前で言わなくたっていいだろう。けれども、間違っていないのだから仕方がない。笑うしかなかった。

 聞こえてくる話は次のような塩梅だ。誰もいない家に明かりが灯る。悲鳴が聞こえる。家の敷地内で子供が消えた。庭の片隅に四つん這いで歩くなにかがいて、夜な夜な鬼門の方角に消えていく……本当のこともあれば、膨らんでいることもあった。けれども、おおむね、本当だった。

 引っ越そう、と何度も両親に言った。母も、最初こそ信じていなかったけれども、近所のママ友達からじかに「お化け屋敷だ」というような噂を聞いてしまっては、再度の引っ越しを考えざるを得なくなってしまったようだったし、その上、母も最近になって、お化けが見えてきたようなのだった。

 中学二年生の、ある秋の日のことだった。最低限の出席日数を満たすため、珍しく学校へ行った帰りのこと。

 居間のソファに母が座っていた。今日は仕事が休みの日だったので、家にずっといたのだろう。「ただいま」と近づいていくと、母の顔は真っ白で、目は真っ赤になっていた。びくりとする。なにか怖いものを見て、すがる人のいないときの、おれ自身の顔によく似ていたからだった。

「な、なにかあったの?」

「軒人、いつもあれ見えてたの?」

「あれって?」

「お化けよ、お化け!」

 そんな言葉が母の口から出てくるとは思わなかった。驚くのと同時に信じられない。違うお化け、漫画や映画に出てくるようなフィクションのお化けの話をしているのではないかとも思った。けれども、母の表情から、そんなことではないのだということがわかる。

「いないって、いつも、言ってたじゃん!」

「部屋にいたのよ。椅子に座ってて、あれ、お父さん、帰ってきてるのかなって思って、でも見たら、顔がなくて、真っ黒で」

 母はそこで口をつぐんだ。お化けについて、まだそのへんにいるかもしれないという場所で言及することが恐ろしいのだ。その気持ちはよくわかった。母は顔を覆う。震えていた。

「言ったじゃん、おれずっと見てたんだって」

「うん、見てたんだね、ごめんね……」

「そうだよぉ。おれさあ、あんなのずっと、誰も信じてくれなくてさあ……」

 泣きたいような気分だった。ああ、母さんもお化けが見えて、おれの言ってること、理解してくれるようになったのか。よかったな。かわいそうだったけれども、自分の仲間ができてよかったなって。

 それから二人でスーパーへ行って、お化けに効くかもしれない粗塩を買ってきた。家に帰って、お皿に盛って、お化けの座っていたという椅子の上に置く。父さんの座っている椅子だから、父さんの帰ってくる前にはどかそうねって言いながら。

 はじめての盛り塩だった。効果があるのかどうかはわからない。でも、そうしてお皿を置いたことは、小さいころから、誰にもお化けのことを信じてもらえないという、おれの負の気持ちの象徴を崩すみたいでよかった。大きなお皿に、ばかみたいに一袋分、なみなみと注がれた塩の白さが、居間の昼光色の蛍光灯に[生{き}][成{なり}][色{いろ}]に光っていた。いい色だった。いい色だなと思う。こんな色の世界に住んでいたかった。

「これー、何?」

 帰ってきた父が、自分の椅子に乗った盛り塩について聞いた。おれたちを疑うような目をしている。なーにしてくれちゃってんの、これ、みたいな。

 寝室で寝てる母に代わって、「母さんがお化けを見たんだよ」と言ったとき、少し、興奮した。父さん、おれ以外の、新しい証言が出てきたんだ。おれの言うことを信じてよって。

 父は、

「うえっ!」

 と言った。それから、心底いやそうな顔をしながら、塩をシンクへ流しはじめた。

 ぽかんとした。父のすることがわからなかった。

「ちょっ……」

 父が水を流す。キュッという水栓の音。シンクにぶちまけられた大量の塩が、水を吸って[鈍{にび}][色{いろ}]になって、排水口に流れていく。

「あー、こういうの、流しちゃいけないんだっけー」

 とんちんかんなことを言いながら、ごまかすようにおれに笑いかけた。

「なっ……なにが?」

「ラーメンのスープとかもさ、流しちゃいけないんだよ、本当は。環境に悪いからね。塩もいけないのかなあ」

 ジャーッという、刺々しい水の音。

「母さんは疲れてるんだよ。最近、新人の教育とかでさ……」

 それだけ? 聞き返しそうになるのを、ぐっとこらえた。それだけしか、おれたちには、言うことはないの?

 塩の流れていくのを見ていた。お化けに効いていたかもしれない塩が、あとかたもなくなっていくところを。

 この人にとっては。結局、父にとっては、これがあたりまえの処遇、あたりまえの対応なんだっていうことを、改めて実感した。けっして、おれたちのところにまで降りてこようとしない。

「母さん、こういうの、はじめちゃうかあ……はあ、やんなるなー……」

 困ったなあ、という顔をいつまでも、した。

 

 母はどんどん痩せていき、仕事も休みがちになり、とうとう床に臥せってしまった。せっかく一緒につらい目にあってくれる人ができたのに、と心細くなる。元気になってほしかった。

 少しずつ、両親は不仲になっていった。お化けを見ることのできない父には、きっとこの恐ろしさはわからないのだ。塩を置いてもすぐに捨てられてしまって、お札を貼っても、「こういうの、来客がみたら、『あー、宗教やってんだー』みたいに思われるだろ。恥ずかしいじゃないか」って。いいじゃないか。思われたって。それでお化けが出なくなるのだったら。

 父は、暴力を振るったりだとか横柄な口を利いたりだとか、そういうことは一切ない。ただ、お化けが見えないという一点のみで、おれたちとは話が合わなかっただけなのだ。

「ねえこの塩さ、再利用とか、しちゃいけないのかな? もったいなくないか」

 たまに父に隠れて盛り塩をしても、見つかってしまうと、そんなことを言ってくる。自分が、息子たちの気分を害しているということはわかっているけれども、でもそれをごまかすように、笑いながら言うのだった。本当に、なにを言っているのだろう。おれはわざとらしくため息をつく。父はそんな息子の態度にむっとするけれども、父は父で、どうしておれがそんな態度を取るのか、わかろうとすらしてくれなかった。

 

 結局、高校生のときに、両親は離婚した。

 おれは母と一緒に暮らすことにし、今の家から引っ越そうと決めた。都営住宅に応募したのだ。

 母は、入居を決める前に周辺の住民に聞きこみをした。その団地で奇怪な事件は起こっていないかとか、今度申しこもうとしている部屋にはかつてなにか告知事項のあるような事件は起こらなかったかとか、自殺した人はいなかったかとか、殺人事件は起こらなかったか、近所に不審者はいないか。何度も何度も周辺の住民に確認した。もちろん、おれもついていく。内見をして、明るい部屋かどうか、さわやかな部屋かどうか、息のしやすい部屋かどうか。そんな部屋がはたしてあるのか、おれはわからなかったけれども、でも考えるしかない。試行錯誤するしかなかった。

 そうやって、ここなら大丈夫そうだと思える部屋に申しこんで、引っ越した。お化けが出ないかどうかは実際に住んでみるまでわからなかったけれども、賭けるしかなかった。出ませんように。絶対に、もうお化けの出る家には当たりませんようにと。

 結果として、新居にはお化けは出なかった。

 はじめは、もちろん、半信半疑だった。けれども、一ヶ月経っても二ヶ月経っても、半年経ってもお化けが出ないので、徐々に、おれたちの傷ついた心も癒えていくようだった。クリスマスのときなど、母は小さいツリーを買って、それを居間に飾っていた。「子供じゃないんだから」って半ばあきれながら言ったけれども、でも、ツリーなんて、そんなものを、飾ろうとする気分になるのなんて、もう何年ぶりかわからない。「お祝いしたっていいでしょ」と母。なにを、なのかは言わなかったけれども、おれにはわかった。お化けが出なくなったお祝いなんだ。おれも気持ちは同じだった。「ケーキ買ってこようよ」って言った。イルミネーションがちかちかした。赤や黄色の小さな明かりが明滅するのを見ると、おれは心がやすらぐのを感じた。お化けの出ない部屋。おれがずっと求めていた、安らぎと静けさの部屋。ここが、そうだった。

 これまでの経験から、おれは夜中に聞こえるかすかな物音にも敏感になっていて、大音量で音楽を流さなければ眠れない体質になっていたのだけれども、ようやく音楽を流さずに眠れるようになった。

 母も同じだった。お化けが出てこないことに気をよくして、元のように働けるようになっていった。長いこと無沙汰をしていた職場はありがたいことに母をまた正社員として雇ってくれるようになったらしく、母は「また忙しくなっちゃったねえ」と愚痴っていたけれども、うれしそうだった。

 少しずつ、高校にも通えるようになっていった。家が安心できるところになると気持ちも落ちついてきて、勉強をするのも、まあ悪くはないかな、と思えるようにもなる。学校へいって、級友と話して、部活にはついていけそうもなかったから参加しなかったけれども、たまには数少ない友達と放課後に遊ぶ。性格のせいか、あんまり友達はできなかったし、亨くんのことがあったせいで、積極的になれなかったけれども、でも何人か、会えば話すような友達はできて、そのことはしみじみとうれしかった。

 もう、お化けは出なくなったのだ。それは本当のことだった。

 

 別れたあとも、父とはたまに会っていた。

 別に、もう小さい子供ではないのだから、定期的に会わなくたっていいだろうと思うけれども、父はおれに会いたがった。

 会おうと言われたって、そう簡単にハイハイと返事をする気分にはなれなかった。だがともかく、おれの学費だとか生活費だとかを折半してくれているのは父なのだ。半ば義務のように父には会っていた。

 ある日のこと、ファミリーレストランで食事をしながら、おれは父に、「あの家、今もお化けでる?」と尋ねた。父がばかにしてくるのがわかっているから、それを聞こうとするのは、相当、勇気のいることだった。けれども、

「でるわけないだろー、まだ言ってるのか」

 と、父はやっぱり、ばかにするように言った。ちっとも変わらない。はあ。やっぱりそうだ。あなたにはどうせ、わからないですよ。

 それでも、お化けの話題を避けさえすれば、父はおれのことを気にかけてくれる親だったのだ。今後はもう二度と父の前ではお化けの話は出すまいと思う。

 もくもくとスパゲティナポリタンを食べる。ケチャップの味がおれは好きだった。父が昔、休みの日に作ってくれたことを思い出す。

 ふと、隣の客の会話が耳に入ってきた。若い二人組の女性のようだ。ひそひそと声を潜めながら、

「トイレの横、あそこずっと人立ってない?」

 相手が振り返る気配がソファ越しに伝わった。なにを見ているんだろう。

「いないよ?」

「そうかな、そういう模様に見えるだけかな」

「模様? どうしたの? 疲れてるの?」

「そうかも、最近、リテイクばかりでさ……」

 胸騒ぎがした。なにが、というわけではないけれども、みょうに、その会話の雰囲気が、お化けについて語っているように聞こえたのだ。

 彼女たちの会話がべつの方面に移ったことを確認してから、トイレの方に振り返ってみる。

 黒い、ぼんやりとした、なにか。見ようによっては確かに、人が立っているようにも見える。けれども、はっきりとはわからない。黒い服を着た人であるようにも見えるし、一方で、そういう壁紙の模様や、お店の照明の具合でできた陰影だといわれてしまえば、そうだというようにも見える。身動ぎをする様子もない。人の気配がないから、やはり、模様や影なのだろう。きっとそうだ。

「どうした、軒人」

「なんでもない」

 父に向き直り、なんでもないというのを強調するようにスパゲティをフォークでかき回した。パセリを脇へのける。

 だが、父にも今の会話が聞こえていたのだろう。わざとらしくため息をついて、

「なんでも気にし過ぎなんだ。おまえくらいの歳の頃は、確かにそうなっても仕方がないかもしれないけれども、なあ軒人、お化けなんて心の弱い人間が見るものだよ」

 いつものお説教。おれはあからさまにならない程度にいやそうな顔をしながら、下を向いてウインナーの切れ端にフォークを突き立てた。ぷす、という感触が、みょうに指にひびいた。

 父は続けて、「お父さんの実家もお化け屋敷なんて呼ばれていたこともあって、そのせいで子供の頃にからかわれることもあった。でも、お父さんは家でお化けなんか見たことないぞ」と言った。

 耳を疑った。

 そんな話は一度も聞いたことがなかったからだ。子供の頃、夏になると毎年家族で行っていたあの家がお化け屋敷だったなんて。にわかには信じがたい。だいいち、あの家でお化けを見たことなんて、一度もない。

「おっ、お化け屋敷?」

「だから噂だって、そんなことはなかったんだよ、軒人、お化けなんていない」

 父はこともなげに言う。

 だがその発言は、むしろおれの推測を強化してくれた。そのほうが、辻褄は合う。そのお化けとやらの正体が、もしもおれの前に姿を現すお化け、曽祖父の顔をしたお化けと、同一なのであれば。

「ね、ねえ、そのお化けって、ひいおじいちゃんじゃないかな?」

「またその話か、軒人」

 父はおれをばかにするような顔をした。けれども、一瞬、答えあぐねるように父の言葉が止まる。なにかを言おうとして言いよどんだような、そんな間があった。

「ねえ!」

「軒人、なあ、いい加減、大人にならなきゃだめだぞ」

 父は首を振りながら言った。結局、「お化けなんて存在しないんだよ」と、いつもの主張を繰り返しはじめる。

「臆病な人が見るんだよ。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』、って言うだろ。見えないものを見ようとするのは、結局、自分の中に芯がないからでさ、芯、わかるか? 草冠に、心って書いて……」

 だが、おれはもう父の話を上の空でしか聞いていない。父の実家のこと、曽祖父の顔をしたお化け、そして父自身、本当はなにかを知っているのではないかという、ぼんやりとした感触……。

 

 食事のあと、

「少し歩かないか」

 と父。駅に行くまでの道を遠回りをして、大きな緑地みたいなところを歩く。正直、歩きたくなんかはない。学校帰りでくたくただった。

 緑地の中に街灯は灯っているけれども、ところどころでしかなく、全体的に、木々の暗がりのほうが濃い。おれは暗いところは怖いから歩きたくない。けれども父は、自然がいいだろうとかなんとか言って、そんなところを歩こうとするのだ。こんな緑地はなくなってしまえばいい。木は全部切ってしまったらいいのだ。怖いから。暗いところを、この世界からみんな、なくしてしまったらいい。

 遊歩道があって、湧水からできた池がところどころにある。水の流れる音が木の葉の下から聞こえる。ときおり、散歩をする人がいる。それだけだ。

 閑散としていて、もの寂しい。お化けだって、出てきてもおかしくないようなところ。出てきそうだ。お化け。

「大学、行くつもりなのか」とか「お母さんの調子はどうだ」とか、そんなことを尋ねられて、つらつら答える。なんでそんなこと聞いてくるんだろうなと思う。もっとほかに聞くことや喋ることがあるのじゃないだろうか。おれはだんだんうんざりしてきて、

「もう別れた息子なんだから、別にいいじゃん」

 と、突き放すように言ってしまった。

 言ってから、言い過ぎたかな、怒られるかも、とびくびくしたけれども、なにも言われなかった。父が頭を掻き、歩幅が少し、大きくなった。

 黙りこくりながら歩いた。スーツを着た父の靴の裏の、コツコツ鳴る音が響いている。

 なんにも話すことがなくなったせいか、ふと、先ほどのファミリーレストランでの出来事を思い出す。トイレの横にあった黒い影のこと。あそこには、確かに、真っ黒な人が立っていたようにも見えた。今になって思えば、あれは目の錯覚でもなんでもなく、やはり、お化けだったのではないか、という気がしてしまう。

 確かめればよかった。近づいて、お化けかどうか、目の錯覚ではないかどうか、確かめておけばよかった、と後悔が頭をよぎった。

 歩いていく足音が聞こえる。父の足音。その足音を聞きながら、ぼんやりと考える。どうしてそんなふうに後悔しているのだろう。お化けには会いたくないと思っていたのに、自分はお化けが好きなのだろうか? いやいや、ありえない。そうではなく、なにかヒントのようなもの……お化けの出現に対するヒントのようなものが、そこに見え隠れしているからではないか、と気がついた。

 はっとした。そうだ。ヒントのようなものだ。お化けが本当にそこにいたかどうか――は、ある意味、この際どうでもいい。いや、どうでもよくはないか。言い方が違うんだ。お化けが、あの場所に、ファミリーレストランのあの場所にいた理由は、この際どうでもいい。それから、お化けの出てくる理由も、どうでもいい。従業員に恨みがあるとか、あそこで自殺者がいるのだとか、そういうことも、どうでもいいのだ。

 問題は、[ど{﹅}][う{﹅}][し{﹅}][て{﹅}][こ{﹅}][の{﹅}][タ{﹅}][イ{﹅}][ミ{﹅}][ン{﹅}][グ{﹅}][で{﹅}][お{﹅}][化{﹅}][け{﹅}][が{﹅}][出{﹅}][て{﹅}][き{﹅}][た{﹅}][の{﹅}][か{﹅}]、ということではないか。

 意識が、急に鮮明になった。目を見開く。答えに近づいてきている、という気がした。

 おれたちはあの家から離れて、やっとのことでお化けの出ない家に住むことができるようになった。そう思っていた。それまでは、おれたちはお化けの出る家を次々に引き当ててしまう、不幸な一家だった。そう思っていた。父と別れて今の家に引っ越して、やっとお化けの出ない家に住むことができるようになった。そう思っていた。

 けれども実際には、違うのではないか。

「父さん」

 おれは覚悟を決めて聞いた。

「お化けが出る原因は、父さんにあるんじゃないの」

 言ってから、おれは思わず、父から目線をそらしてしまう。父の顔は見られなかった。そんなことを言って、今度こそ怒りを買うのじゃないかと、恐ろしかったのだ。だが、聞かずにはいられなかった。その可能性を黙っているわけにはいかなかったのだ。

 沈黙。一分、二分、黙って歩き続けた。その沈黙が、恐ろしい。おれは顔を見られないまま、そむけたまま、歩き続けた。

 だがやがて、父は大げさにため息をつく。

「そんなわけないだろ?」

 いかにもがっかりした、みたいな感じで頭を落として、笑いながら、あきれながら、父は言い放った。おれは唇を噛む。もちろん、もうおれは、その言葉を信じることができない。

 現に、父と別れていたここ半年、おれと母はお化けに遭っていないのだ。なのに今日、このときに限って、ファミリーレストランでお化けのようなものに遭遇した。そんな都合の良いタイミングがあるだろうか。父と会っているときにだけ、お化けと遭遇するなどということが、偶然の出来事として起こりうるだろうか。

 そうだ、やはり間違いない。自分に言い聞かせる。父が原因なんだ。父がお化けを呼び寄せているか、父にお化けが憑りついているのだ。逆にいえば、父と一緒にいることさえなければ、自分はもうお化けに遭うこともなくなるのだ。お化けとは無縁の生活を送ることができるようになるはずなんだ。

「おれたちもう、会わないほうがいいよ。おれ……怖いよ……お化けに遭うの……」

 緑地は、長い。駅まではまだしばらくかかる。どうしてこんな中途半端なところで、こんな重たいことを言ってしまったのだろう。もう少し、駅に近いところで言えばよかったって、このあとずっと、気まずい沈黙に耐えていなくちゃいけないのかって、後悔した。

 父はぽつりと、

「軒人、いいか、心を強く持つんだぞ」

 といつもの調子で言った。おれはその調子に落胆する。人間はそう簡単に変わらないし、変えられないのだ。だからおれもいつものように父に言い募った。

「父さん、そうじゃないんだ、聞いてよ」

「聞いてるよ、軒人。そうだな、強迫性障害って知っているか?」

「父さん……」

 もう、おれの言うことなんて聞かないだろうな、という気がした。

「たとえば、手が汚いような気がして、手を洗わずにはいられない、一時間も二時間も洗ってしまって、生活に支障が出る、という病気があるんだ。父さんも、昔ちょっと、受験のときとかにそうなったことがあったんだが、これを治すにはどうしたらいいか。薬を飲むのもそうなんだけどな、結局は、ちょっとずつ我慢するしかないんだ。わざと汚いものに触って、手を洗わないで我慢していられる時間を少しずつ長くする。今日は十分間、我慢していられた。明日は二十分我慢しよう。そうやって少しずつ我慢していくしかないんだ」

 つまりは、おれはある種の強迫性障害だ、と言いたいのだろう。ショックだけれども、父がずっと、おれのことをそんなふうに捉えていたのだとしても、意外ではない。

「でもな、そうやって頑張っていればなんとかなるんだ。『アドヒアランス』って言うんだ。患者自身が、治ろうとする意志のことだよ。そういう意志がなければ治るものも治らないんだ。いいか軒人。お化けなんて無視するんだ。無視していれば、きっとそのうち、見えなくなる。なんにも聞こえなくなる。お化けがおまえに害を与えることなんてできなくなるんだ。きっとだ、軒人。信じるんだ。そうすれば……」

 父の声が詰まった、その瞬間、近くの池から水音が聞こえ、ぎょっとした。お化けではないか、と体が硬くなり、父にすがりついた。夕暮れの、まだ白い色の方が多くて空よりもかえって明るい水面に、波紋ができている。

「怯えすぎだよ」と父。どこか困ったように、笑いながら言った。

 だが、そんな悠長なことは言っていられない。もしお化けがいるのなら、一刻も早くこの場から逃げなくてはいけないからだ。緊張感が高まり、ふっふっと呼吸が荒くなった。

 一秒経ち、二秒経つ。なんにもない。早とちりだったか、水鳥か、魚が跳ねたかだけだったか、と考えはじめた。

 次の瞬間、池から真っ黒な腕がニュッと飛び出して、池の淵の玉石を掴んだ。体がびくっと震える。腕の下から真っ黒な顔が、その下から細長い胴体が、腕に引っ張られるようにぬっと出てくる。べちゃ、べちゃと水音を立てながら、黒い影が四つん這いでこちらに近づいてくる。

 お化けだった。おれは駆け出した。

 後ろから父が、「おおいどうしたんだ」と近づいてくる。だが待っている暇はない。逃げなくては。お化けに追いつかれたら、今度こそ殺されてしまう。全力で走った。途中で段差にけつまづいて転んで、手を思いきりすりむいてしまう。痛い。立ち上がって走った。手のひらにぬるっと、血の出ている感触。だが確かめている余裕はない。逃げなくては。息が荒くなる。喉の奥に乾いた鉄の臭い。この場から去らなくては。走る。お化けがくる。追いつかれてしまう。

「おーいおーい、軒人、おーい」

 遠くなる父の呼び声を聞きながら、やはり父なんだ、と思った。

 すべての糸が一本に繋がったようで、ある意味、爽快ですらあった。父をめがけてお化けはやってきて、父がいなくなったからお化けは出なくなったのだ。今、父と一緒にいたこのタイミングで、池からお化けが出てきたことで、はっきりと気がついた。

 どうして父がお化けに狙われるようになったのかはわからない。けれども、父が原因、もしくは原因に近い存在だと考えれば、これまでのあれこれにすべて説明はつく。父だ。父が原因なんだ。

 そう考えれば安心だった。父と会いさえしなければ、二度と、二度とお化けには遭わなくて済むのだ。

 おれはいつまでも走っていった。逃げるんだ。立ち向かう必要なんてない。逃げてさえいれば、いつか、安心できる場所までたどりつくことができるかもしれない。そう考えていた。

 父はどんどん遠くなる。小さくなっていく。お化けと一緒に。真っ黒なお化けと一緒に。どこまでも……。

 

 

 それから長いこと父には会わなかった。

 父は寂しがったし、なぜ会わないのかといぶかったけれども、「父さんと会うことでまたお化けがでてきちゃうんだ」ということを何度も話し、それで納得してもらうしかなかった。父の立場からすれば、とても認めるわけにはいかない理由だろう。けれども、繰り返しそうやって断るうちに、最後には父も、おれたちと会うことを諦めたらしかった。

「いつか、そうだな、お化けを見なくなったら、会おうか」

 父は寂しそうに言うのだった。

 結果として、おれと母の家にはお化けは出てこなくなった。おれは仮説が間違っていないことを喜び、そして父と会おうとしない自分の態度に少しだけ罪悪感を[懐{いだ}]きながら毎日を過ごしていた。

 「もう会わない」と息子から言われるのはどんな気持ちなのだろう。母がチェストボードの上に飾っている、三人で長崎に行ったときの写真、そこに今よりもずっと若い父と母とおれが写っているのを見ると、わずかに胸が痛んだ。家族。お化けがいなければ、今でも三人で暮らしていたはずの人たち。おれと同じ血の流れている人たち。もうふたたび、そんな写真を撮ることはない人たち……。

 

 

※試し読みはここまでです。続きは製品版をご予約ください。

 

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