試し読み シャークロアシリーズ 炬島のパンドラシャーク第8歯

 それは、美しい跳躍だった。

 逃げ場が無いように思えた死の壁――『ヴォイドの子』の発電器官により通電している[水{みず}][飛沫{しぶき}]を前にしたイルヴァは、たった一度の踏み込みで後方数メートルへと跳躍した。
 足の裏が、通路の壁面近くを[這{は}]う配管にかかる。
 まるで吸い付くように自然に壁に『着地』したイルヴァは、一切足を止める事なく己の身体を移動させていく。
 重力に逆らうが[如{ごと}]き[軽{かろ}]やかさで部屋の中を[駆{か}]け上がり、水飛沫が起こってから2秒と経たぬうちに、それが身に降りかからぬ高さ、すなわち天井の配管にまで到達したではないか。
 部屋の入り口からそれを遠巻きに見ていたイルヴァの部下達は、自らを率いる隊長が超能力か何かで宙を舞ったと錯覚しかける程だった。

 そして、今は細い配管に足の爪先を掛け、まるで天井に立っているような形で波打つ水面を見下ろしている。
 次の瞬間、彼女は何かを水面に向かって呟き、波の合間に居た巨大な影へと大量の[鉛{なまり}][玉{だま}]を[撃{う}]ち放った。
 小型のサブマシンガンによる弾丸の掃射は、大きな波間に突き刺さる事で小さな飛沫を踊らせる。
 だが、水面近くの巨影は即座に身を海中深くに[潜{もぐ}]らせており、水中で大きく推進力を減衰させたサブマシンガンの弾丸がダメージを与えたようには思えなかった。
 運が悪かった――遠目に見ていたイルヴァの部下達はそう考える。
 だが、肝心のイルヴァは違った。
「……」
 ――自分が銃を手にした瞬間から、あの[鮫{さめ}]は潜り始めた。
 ――ナイフの時とは違う。
 ――[奴{やつ}]は……銃を警戒した。
 部下達が一度サメに銃撃を加えたという報告は聞いている。
 ならば、銃の[脅{きょう}][威{い}]を既に見ている。
 だが、今自分が手にしているものは、部下達が持っていたアサルトライフルとは形状も大きさも異なるものだ。
 ――つまり……。
 ――奴は、これが同種の武器だと判断して警戒できるだけの目と知恵を持っている。
 そう確信したイルヴァは、改めてターゲットである『ヴォイドの子』がただのサメとは一線を画していると結論づけた。
 ――いや、サメどころではない。
 あらゆる地上の[猛{もう}][獣{じゅう}]や、[下手{へた}]な[傭兵{ようへい}]の部隊よりも[遙{はる}]かに危険な存在であると、イルヴァの経験と本能が同時に[警{けい}][鐘{しょう}]を鳴らしている。
 普通ならば、一度引いて高火力の装備を用いて遠距離から始末すべき相手だ。

 だが、イルヴァもまた普通ではない。

 相手を脅威であると認めたが[故{ゆえ}]に、彼女は胸の奥に熱いマグマを煮えたぎらせた。
 ここで冷静に安全策を取るタイプの人間ならば、イルヴァほどの身体能力とセンスを持っていれば公的な軍か、あるいはもっとまともな民間軍事会社にでも所属している事だろう。
 あるいは、戦場すら避けて特定のスポーツや格闘技の分野で世界に名を[馳{は}]せる事も十二分に可能だったかもしれない。
 だが、イルヴァは自分がそうした道を歩めぬ事を知っていた。
 己の性分がまともではないと、彼女自身が十二分に理解していたからだ。

     ♪

本土 スパニッシュレストラン『メドゥサ』

『現在、規制により我々テレビ局のヘリも【[龍{りゅう}][宮{ぐう}]】に近づく事は禁止されています。通信網はまだ復活しておらず、【龍宮】内部の様子を[窺{うかが}]い知る事はできません。ただ、停泊していた複数の船が炎上しているのは陸地からも観測できており、島の区画の一部が爆発したという情報も入って来ています。総理は現在、各省庁との――――』

 そんなレポーターの声がテレビの中から響いてくるのを、[八重{やえ}][樫{がし}]ベルタは[憔{しょう}][悴{すい}]した表情で聞き続ける。
 レポーターが立っているのは、自分もしばしば訪れている海岸沿いの高台だ。
 島が見える位置であるこのレストランの周囲にも十数人の野次馬が集まっており、水平線のあたりに何やら[漁{いさ}]り[火{び}]のような赤い光が揺らめいているのが確認できる。
 現在、店は臨時休業となっていた。
 周囲のざわめきは元より、家族があの島にいるという時点でベルタの精神状態はかなり追い詰められたものとなっており、店主である父が何か言うよりも先に、他の従業員達が今日は店を閉めるべきだと進言して休業が決定したのである。
「せめて、フリオの無事だけでも確認できれば……」
 店を閉めた直後は、なんとかして船で島に向かう事も考えたが――
 犯行声明に『これより三日、人工島には手出し無用』という要求が書かれていた以上、民間人だろうと[迂{う}][闊{かつ}]に近づくわけにはいかないとの事で、そもそも近辺での船の航行自体が禁止されていた。
 ベルタ自身も、下手に近づいて警察と勘違いされ、その結果として島で人質が殺されるなどという事態は望んでいない。
 だが、何もせぬままという状況が非常にもどかしく、現在はこうしてテレビの情報を聞き続けている状態だ。
 ――父さんは、説明を聞きに警察に向かってるけど……。
 ――今日は、戻ってこられないかもしれないって言ってたよね……。
 フリオのクラスメイト達も同様に人質となっている為、その家族と共に警察に向かった父だが、何しろ人質そのものが数万人いるのだ。一人一人について何か有用な情報が手に入るとも思えず、ベルタは自分の無力感を[噛{か}]みしめながらテレビの情報を聞き続ける。
 テレビの画面はいつの間にか海岸から報道スタジオに移っており、特別報道番組の司会者やコメンテーター達が情報を整理していた。

『続いては、元警視監であり、組織犯罪を数多く担当してきた[大王{だいおう}]テレビの客員解説員、[葛原{くずはら}][丁{ちょう}][字{じ}]さんに御意見を伺います。葛原さん、今回の事件、犯人の目的はいったい何なのでしょうか?』
『そうですね、犯行声明で犯人が要求するのは「島への接近を禁じる」という一点のみです。三日という期間を[呈{てい}][示{じ}]しているという事は、ここから追加で要求を加える可能性が一つ。政府などに身代金や政治犯の釈放などを要求するケースなわけですが……。もう一つのケースとしては、【龍宮】そのものを破壊あるいは[簒奪{さんだつ}]するのが目的であり、その場合は外部からの妨害を防ぐ目的で期限を呈示した可能性も考えられます。無期限となった場合はいずれは突入を考えなければなりませんが、期限を切ればそれまでは様子を見るだろうというのが犯人側の目論見なのかもしれません』
『島そのもの……ですか。確かに財政は[潤{うるお}]っていますが、現金のまま島に大量に貯蔵されているわけではないのでは?』
『あの島で最大の価値があるものは金銭ではありません。あの島には国際的に多くの情報が集まりますし、海洋研究所には国際的な合同研究チームがいくつもあります。海の生物のみならず、医学的な研究の最先端であり、技術によっては……例えば老化治療の技術などであれば、それこそ数千億円単位の権益に関わるものもあると予測されています。あるいは、何らかの重要人物が島を訪れていて、その人物を[拉致{らち}]、あるいは何か害する事が目的とも考えられます。そういった、【龍宮】の内部にある物が目的である場合は、それを入手すれば人質に手を出す可能性は低いでしょう。ただ、ここでそれを断じるにはまだ情報が――』

 そんなコメンテーターと司会者の会話を聞きながら、ベルタは大きな[溜息{ためいき}]を吐き出した。
「お金だか不老不死の薬だから知らないけど、だからってこんな事……」
 犯人達への恨みを[募{つの}]らせる一方で、『それでフリオが助かるなら、さっさと島から盗んでどこかに消えてくれ』という思いも[抱{いだ}]くベルタ。
 それは自分の家族以外の誰かの不幸を願う浅ましい考え方だと頭の中から打ち消すが、気を抜くとすぐにまた心の中を[蝕{むしば}]んだ。
 気付けば胃が音を立てており、ベルタは先刻の父の言葉を思い出す。
 ――「いいか、今日の夜出す分だったメドゥサドッグの山だが、好きなだけ食え。何か余計な事を考えそうになった時も、落ち込んだ時もとにかく食え。人間な、腹が減ると悪い事ばかり考えちまう」
 そんな物言いをする父に、御飯が喉を通る気分じゃないと言ったのだが、それでも父は、
 ――「フリオにも持たせてあるんだから、同じものを食ってると信じろ、な」
 と言って大量の『メドゥサドッグ』をベルタの元に置いて行った。
「……」
 無言のままそのチョリソーをパン挟んだ料理を口にし、スパイシーな肉汁が口の中に広がるのを感じながら、ベルタは力強く頷いた。
「ここでめそめそしてても仕方無いよね……」
 胃に力の元を満たしながら、せめて前向きに状況の好転を信じる事にしたベルタ。
 彼女はおもむろに立ち上がると、店の片隅に置かれていたギターに手をかける。
 基本は歌い手であるベルタだが、弾き語り用のギターもある程度は[嗜{たしな}]んでいた。
 己の中の浅ましさや不安を消す為に。
 あるいは弟の無事を願う為の祈りの代わりとして――
 ただ、ただ、激しい旋律のスパニッシュメロディを奏で続けた。
己の中に[澱{よど}]んだものを浄化するかのように。

 仮に自分が何か動くべき時が来た場合、誰よりも力強く前に進む為に。

     ♪

人工島『龍宮』 海洋直結区画

 本土の一画で激しいリズムの音楽が[掻{か}]き鳴らされる中――
 その音が届く[筈{はず}]もないこの場所で、同じように激しいリズムの闘争が奏でられていた。

 イルヴァのサブマシンガンが銃弾を吐き出すのに合わせ、『ヴォイドの子』は激しく[身体{からだ}]を[捩{よじ}]らせる。
 そして、己の身体の中でもっとも金属のパーツが広く装着されている面である頭部で受け止める事で、放たれた弾丸の大半を[弾{はじ}]き飛ばした。
 何発かはその隙間を潜り抜けて[皮膚{ひふ}]を[抉{えぐ}]るが、サメの巨体からすればさほどのダメージとはなっていない。
 そして、イルヴァが弾倉を交換する一瞬の[隙{すき}]を狙い澄ましたかのように、水面から巨大な身体を躍らせた。

 ホホジロザメやニタリなど、一部のサメは時に水面から完全に身体が飛び出す程の跳躍を見せる事が知られている。
 人食い鮫『ヴォイド』は、そうした極端なレベルの跳躍はしないと言われるオオメジロザメの突然変異と分析されていたが――最初の犠牲者、[紅{べに}][矢{や}][倉{ぐら}][奏{かなで}]からして、跳躍した『ヴォイド』に[丸{まる}][呑{の}]みにされた。
 故に、巨体と合わせてかなり異質な突然変異と推測されていたのだが、その『跳躍』という特殊な形質は『子』にもしかと受け継がれていたのである。

「フフ」
 自然と、イルヴァの口から笑みがこぼれていた。
 普段表情らしい表情を見せない彼女を知る者達からすれば、それは非常に珍しい光景だった。

 かつて、[北欧{ほくおう}]のとある国で生まれ育った一人の少女。
 彼女が己の気質と才能に気付いたのは、年の離れた妹が目の前で通り魔に襲われそうになった時だった。
 [咄{とっ}][嗟{さ}]に妹を[庇{かば}]おうと前に出たイルヴァは、不思議な感覚に襲われる。
 ナイフを持った通り魔の刃。
 その腕から、何か虹色の光のようなものが伸びているように『見えた』のだ。
 驚くほど冷静に、まだ十代だったイルヴァは『ああ、この光は、危ないものだ』と理解し、ナイフそのものよりも優先して虹色の線を避ける。
 すると、まるでその虹の軌跡をなぞるようにナイフの刃が[煌{きら}]めき、イルヴァは紙一重でその[斬撃{ざんげき}]を[躱{かわ}]す事ができた。
 驚きに目を見開く通り魔。
 イルヴァは次の瞬間、その見開かれた目に己の細い親指を抉り込ませた。
 一部始終を見ていた妹が言うには――
 その時、イルヴァは笑っていたらしい。

 

 

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